約2.6kmの坂を上ると、「ふじのくに茶の都ミュージアム」がある。前に来たことがあるが、新しくきれいになっていた。売店をのぞき、ベンチでお菓子を食べて休憩する。その先の「牧之原公園」に行く。公園の斜面の「カタクリの群生」地は今はまだ咲いていない。茶を中国から持ち帰った栄西禅師の像を見て、中に進むと、焼き芋、豚汁、コーヒー、野菜などを売っている。豚汁とおにぎりを買って食べた。寒かったので、温まって一息ついた。ここは富士山ビューポイントだが、今日は曇っていて見ることはできなかった。

さわやかウオーキング

畑や田んぼの中を歩き、約2.5kmで「水神公園」に出る。東海道金谷宿碑があり、「金谷宿川越し跡」の説明板がある。島田側には「川越遺跡」が復元されているが、金谷宿側には何もない。「義人 仲田源蔵」の像が立っている。仲田は大井川川越の廃止で失業した人足のために牧之原の開墾をして牧之原大茶園の基礎を築いた。また、大井川木橋を開通させた。

大井川鉄道の踏切を渡って「新金谷駅 プラザロコ」による。新金谷駅はSL列車の発着駅になっている。孫とトーマス号に乗ったことがある。お茶の接待があり深蒸し茶を買い求めた。

H.31.1.20

雨の降りそうな寒い日だったが、さわやかウオーキングに出かけた。金谷駅で息子と待ち合わせ、受付で「富士山ビューコース」のバッチと地図をもらい、大井川鉄道に乗って「五和(ごか)」で降りた。駅舎の中には「五和合格地蔵尊」が祀られている。

約1.1km歩くと「日切地蔵尊」が祀られている。(1881年に日正上人が自然石に日切地蔵尊菩薩を刻み、入魂開帳して祀ったことがはじまり。「何日までに願い事がかないますように」と日を限って願掛け参りをすると願いが叶うと言われている。)

ここからは旧東海道を歩くことになる。川越の遺跡「九番宿跡」の木札の下がった家がある。その先の右側に「旧加藤家」の説明板がある。(平成16年まで江戸時代に建てられた加藤家が残っていた。)復元を目指しているとあったが、まだのようです。

新春合格祈願!すべらず地蔵を訪ねて

茶畑の中を降ってきた雨をよけながら傘をさして進む。約1.6km歩くと、「金谷坂石畳」に入る。その手前に「芭蕉句碑」と「明治天皇御駐輦跡碑」がある。
 「馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟

旧東海道を歩いていくと、「佐塚屋本陣跡」「柏屋本陣跡」「脇本陣跡」が続いてある。解説によると(佐塚本陣は、佐塚佐次右衛門が務め、門の屋根に一対の鯱がついていたので「鯱の御門」と呼ばれていた。)(柏屋本陣は、河村八郎左衛門を名乗り、代々名主と本陣を務めていた。金谷宿は、江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋が脇本陣であった。寛政3年の大火により、本陣、脇本陣ともに焼失してしまった。)(角屋・金原三郎右衛門は大火の後、脇本陣としての役目を務めた。)

牧之原台地は富士を臨み、大井川を見下ろす台地で、ここを開墾しお茶の栽培を始めたのは、江戸幕府の終焉により職を失った旧幕臣である。そこに川越人足も加わり開拓が進められ、日本を代表する「牧之原茶」の発展につながっていきます。

赤い幟にの先には「すべらず地蔵」が祀られている。(長い間旅人の足元を守ってきたことからすべらない山石を敷いた石畳にちなんで「すべらず地蔵」と呼んでいる。試験合格、健康長寿、家内安全などを願い多くの人がお参りをします。)今日は六角のお堂から前に出て私たちを見守ってくれていました。甘酒の接待を受けました。

その先に「鶏頭塚」がある。(鶏頭塚は旧東海道の石畳にあった塚の石の言われともなった。「曙も夕暮れもなし 鶏頭華」の歌碑。巴静は江戸時代のは俳人で、金谷の門人達は師をしたって金谷坂に入り口に碑を建てた。)またその奥には庚申塔と庚申堂がある。江戸時代の大泥棒日本左衛門がここを夜働きの着替え所としたことが口碑として残っている。

しばらく歩くと、「東海道金谷宿案内絵図」があり、「一里塚跡」がある。江戸から53里目の一里塚である。東海道はこのまま直進するが、ガードをくぐって、線路の反対側に出て、牧之原台地への急坂を上る。

金谷坂石畳」は(江戸時代に幕府が、ぬかるむ山道でも旅人が歩きやすいようにと敷石を並べるように命じ、石畳が作られた。平成3年に「町民1人1石運動」によって、消滅しかけた金谷坂が約430m復元された。)滑りそうな石畳を慎重に下っていく。

石畳茶屋を過ぎると、石畳は終わる。約0.9km歩いて、金谷駅に着いた。受付でスタンプを押してもらい、ウオーキングは終わった。
 小雨がぱらつく寒い一日だったが、旧東海道を懐かしく歩けてよかった。