H.28.05.28
新居駅に9時に着き、地図をもらって9時6分に歩き始めた。「浜名橋」には、新居宿の浮世絵のレリーフが描かれている。みな「荒井」になっている。
浜名川沿いを歩き、水門橋を渡り新居駅に13時25分に着いた。
潮見坂は街道一の景勝地として数々の紀行文にその風景が記されている。西国から江戸への道程ではじめて太平洋や富士山を見ることができる場所だった。安藤広重の遠州灘を背景にその一帯を描いている。
「火鎮神社」
古民家が残っている。
浜名旧街道に出る。旧東海道の松並木が続く。
本陣の右横に入る「寺道」がある。細い道沿いに寺が並んでいる。
「飯田武兵衛本陣跡」(飯田本陣は桑名藩、岸和田藩など約70家が利用した。明治元年には、天皇の行在所になった。行在所の建物は奥山方広寺に移築された。)
「紀伊国屋 平兵衛」(疋田弥五郎・本陣の分家で西の新家・紀伊国屋弥左衛門、東の新家・紀伊国屋平兵衛と呼ばれていた。)
「新居関所」は1600年、徳川家康によって創設された。関所建物としては唯一つ現存するもので、国特別史跡に指定されている。
一回遠州灘から離れ、一般道を歩き、また、浜名バイパス沿いの「なぎさ遊歩道」を歩く。遊歩道を離れ、親水公園に入る。水と花と緑の公園で、地域住民の憩いの場として親しまれている。
「おんやど白須賀」を後にして、坂を下り、神明神社に出る。元町公園を右折してしばらく歩くと「道の駅・潮見坂」がある。ここで休憩して海岸に出る。
古民家
神明神社
大御門
新居関所跡は、浜名湖に面し渡船場・護岸があり、西側には大御門を構えていた。構内には、現存する面番所や船会所、女改之長屋、土蔵などがありこれらは、発掘調査や文献調査に基づき復元した。
「三河屋 卯平 伝馬所」(江戸時代、公用の書状や荷物を宿場ごとに伝馬所で人馬を交替して運んでいた。)
新居駅~1.7km~新居関所~紀伊国屋資料館~寺道~約5.9km~おんやど白須賀~元町公園~0.4km~神明神社~約0.9km~道の駅・潮見坂~約4.3km~なぎさ遊歩道~約2.5km~親水公園~約1.4km~新居駅
「あとひき煎餅」の暖簾のかかったお店があり、中に入って煎餅を買った。店の前には「江戸屋 太兵衛 研屋 宗蔵」と書かれていて(刃物を研ぐ職人でした。包丁研ぎは25文ほどで、刀研ぎが25両ほどでした。)と書かれていた。
高札場
「白須賀宿 潮見坂下」を右折し坂を上る。と「おんやど白須賀」がある。紙おしぼりとティシュをもらい、中でしばらく休憩する。
「一里塚跡」(この辺りでは、一里塚のことを一里山と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と刻まれている。)
「高札場跡」(白須賀宿にはこ元本宿と東長谷に一か所づつ設置されていた。加宿である境宿村にも設置されていた。)
渡船所・護岸
面番所
「明治天皇御野立所跡」(明治元年、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した天皇が休息した。天皇はその後、飯田本陣に宿泊した。)
「立場跡」(旅人や人足、駕籠かきが休憩する茶屋を立場といって、江戸時代東海道のあちこちに設けられた。この立場は新居宿と白須賀宿の間に位置し加藤家が勤めた。)
「前大納言為家」「阿仏尼」の歌碑がある。藤原為家は定家の二男で、鎌倉中期の歌人。阿仏尼は為家の継室となり、鎌倉下向の際に「十六夜日記」をなした。
紀伊国屋資料館(江戸時代中期1703年には、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿となった旅籠である。1716年紀伊国屋の屋号をあげ、昭和の戦後まで、約250年もの間、旅館業が営まれた。現在は資料館として公開されている。)
「髪結い 時五郎」(関所に近いこの場所にある髪結いは関所改めを受けた女たちの髪を結いなおしたと言われている。)
大御門は明け六つに開き(午前6時)暮れ六つに閉める。(午後6時)。門の前には高札場のある広場があり、東海道に続く。門は高さ5.8m、幅4.6mで、城門と同じ屋根付きの高麗門である。礎石建ちではなく、地表より2.7m下に礎石をすえ、柱を埋めた掘立て柱の門である。
ウオーキングで見つけたウコンの花
「旅籠(船割宿) 和泉屋甚助」
今回は約17kmを4時間30分かけて歩いた。新居宿は東海道を歩いたときに訪れている。遠州灘を歩いたのは初めてで、今日は一人だったが曇りで、歩きやすかった。
海岸沿いを歩く。沖にはサーファーの姿があり、空にはエンジン付きのパラグラーダーがスピードをだして通り過ぎる。