H.26.03.18〜19

三養荘

伊豆長岡温泉三養荘に1泊の予約をとった。1回は泊まってみたい宿のひとつで、楽しみにしていました。

翌日は、三養荘の庭園を番頭さんが案内してくれました。300坪の回遊式庭園です。

江川家住宅は、重要文化財になっている。(江川氏の遠祖・宇野氏は、大和の地に住む源氏の武士であったが、保元の乱に参戦し敗れ、従者13人とこの地に逃れて、居を定めた。現存する家屋の主屋は、室町時代に建てられた部分と、江戸時代初期に改修された部分が含まれている。江川氏は、徳川時代初期より幕末に至るまで、代々世襲代官を務めた。幕末の江川英龍は、革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画を勧めたことで知られる。)

春と秋に公開するという庭園が道から覗けた。今日は、江川家の当主が来ているとこことでした。何かあるごとに来静するようです。お正月には、従者13人の子孫の方と、お祝いし、鏡開きの写真などもありました。

三養荘は、昭和4年に、旧三菱財閥・岩崎弥太郎氏の長男・久彌氏の別邸で、数奇屋造りの和風建築邸として建てられました。その後昭和32年には、本館「みゆき」を増築し、昭和42年には、離れ「高砂」「花月」「きぬた」を増築し、昭和63年には、村野藤吾氏の設計による新館がオープンする。自然の地形を生かした設計で、離れ形式を基本に廊下でつないでいる。

三養荘は、全室つながって入るが、離れのようになっていて、三室もあり、掛け流し温泉のお風呂も付いて立派でした。
 

成福寺と北條館・堀越御所の説明(源頼朝を盛りたて、鎌倉幕府の基礎を築いた北條氏の居館は、守山の麓から成福寺を含む広大な地域を占めていた。時政が、頼朝と政子の新居として建てた別邸がこの辺りにあったと言われている。室町時代、足利義政は、古川公方への対抗策として、弟・義知を伊豆に配置した。その義知の居館・堀越御所もこの寺の付近であった。)

平治の乱で敗れた源義朝の嫡男頼朝の配流地である。往時は、大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭が島であった。私が子供の頃は「蛭が小島」といっていたと思うが、いつの間にか「蛭が島」になっていた。

「伊豆の国市歴史民族資料館・旧上野家住宅」説明板によると(この住宅は、18世紀中頃の住宅で、この形式は、江川家の住宅の四天柱の構造と同じものである。)

三養荘の戻り、夕食をいただく。お料理も美味しく、器も綺麗でした。

願成就院の仏像が国宝になってから行っていないので、行きたかったが、火、水と休館日ということで、江川邸に寄る事にした。

カマド

根が付いたままの柱

パンを焼いた釜

屋根裏・耐震構造を持つ

西蔵 幕末頃の建築

米蔵

武器庫

井戸

頼朝ゆかりの「蛭が島」に行く。

頼朝と政子の碑

北條氏歴代墓所

北條正宗公、正宗母堂、北條時宗公

願成就院にも寄ってみました。

寒桜が咲いていました。