山陰で唯一現存する天守閣・松江城を見学する。桜の名所でもあるが咲いていなかった。 松江城は平山城で、天守がある本丸の周辺に二の丸、二の丸下の段、後曲輪が巡り、南には堀を挟んで三の丸がある。天守は附櫓を設けた複合式展望型で、一,二重目は大入母屋屋根で全面下見板張り、望楼部と附櫓も一部白漆喰であるが、窓廻りの木部は全て黒塗りで、黒を基調とした天守である。
H.29.3.30~4.01
津山城
3日目
天守台から、備中櫓を臨む。本丸から南に張り出した石垣上に建てられた櫓で、奥向御殿のさらに奥という場所に位置し、御殿の一部として機能していたため、内部は御殿建築の仕上げになっている。このことから備中櫓が藩主あるいはその家族のための空間であったと推定される。
掛川発8:39の新幹線でツアーに合流し、岡山駅に12:17に着いた。岡山城を見学する。川面に映える漆黒の城で、「烏城」と言われている。現在の岡山城を築いたのは宇喜多直家の実子「秀家」で豊臣秀吉の養子となって備前・美作のほか備中の一部をもらい57万4千石の大大名になった。秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20.45m、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造であった。壁が黒いのは戦国時代の名残である。現在の天守閣は昭和41年に造られた鉄筋コンクリート造りだが、外観は旧状通りに再現された。
少し先に「小泉八雲旧居」がある。松江では、1年3か月暮らし、その内の約5か月をこの家で暮らした。根岸家は士族で、旧松江藩士の武家屋敷である。庭のある家に住みたいという八雲に貸すことになった。この庭は枯山水の鑑賞式庭園として高い評価を受けている。
予報通り雨になってしまった。安来市の「月山富田城跡」に向かう。月山(197m)の山頂にある。戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間、尼子氏六代の盛衰の舞台となった。城郭跡は国の史跡になっている。雨の中、道の駅から歩き始める。山中鹿之助幸盛の像、尼子神社、花の壇(当時の侍所)を過ぎ、山中御殿を過ぎ七曲りを上る。 山吹井戸を過ぎ、三の丸跡、二の丸跡、を過ぎると本丸跡があり、「月山富田城跡」に着いた。
二の丸跡
道の駅の奥にある「尼子興久」の墓。
太鼓の壇に建つ山中鹿之助像
松江城
地階にある籠城用生活物資を貯蔵する穴蔵の間がある。深さ24mの井戸
天守を支える柱には、板を張って鎹や鉄輪で留められたものがある。「包板」と呼ばれ天守にある308本の柱の内130本に施してある。割れ隠しなどの不良材の体裁を整えるためのものと考えられる。
津山城は、岡山県津山市にあり、別名「鶴山城」ともいわれる。城郭の形式は梯郭式平山城である。津山盆地の中央に位置し、吉井川の支流の宮川および丘陵の天然尾の断崖を防御線に取り入れている。往時は外郭も含めて77棟の櫓が建ちならんでいたが、明治6年の廃城令により、天守・櫓などが壊され、現在の遺構は石垣や礎石のみで、、備中櫓が再建された。
城跡は鶴山公園として桜の名所となっているが、今年はまだ寒く蕾でした。明日から「桜祭り」と書かれていたが。
岡山県美作市にある今日の宿「湯郷温泉」で温まる。延暦寺の円仁法師が、白鷺が足の傷を癒しているのを見て、出湯を発見したといわれ、ホテルの前に其の共同浴場があった。
赤穂城
赤穂城は、兵庫県赤穂市にあり、本丸庭園と二の丸庭園が名勝に指定されている。
大石邸長屋門・浅野家筆頭家老、大石蔵之助一家三代が56年間住んだ大石屋敷の正面長屋門である。元禄14年主君の悲報を伝える早打ちが叩いたのもこの門である。
観光ガイドさん
赤穂市立歴史博物館は赤穂城内の米蔵のあったところに建っている。米蔵を再現したもの。こちらは背面部分である。赤穂浪士と塩をテーマにしている。
本丸表門(復元)
大石神社は赤穂事件で討ち入りをした大石良雄ら赤穂浪士を祀る。1868年、明治天皇が泉岳寺に勅使を遣わし、弔って以降、京都と赤穂に赤穂浪士を祀る神社が創建された。
姫路城
姫路城は慶長年間に建てられた。昭和26年には国宝、平成5年には日本ではじめて世界文化遺産に登録された。白漆喰で塗りこめられた優美な姿は白鷺城とも呼ばれている。大天守と3つの小天守が渡櫓で結ばれた連立式天守閣で、幾重にも重なる屋根、千鳥破風や唐破風が,白漆喰総塗籠造の外装とあいまって華やかな構成美を誇っている。
内堀を稲荷橋で渡る。堀川遊覧船がお客さんを乗せてゆったりと行く。まだこたつ舟だった。今日は雨が降って寒い。
三の丸跡、馬洗池、護国神社を経て、城山稲荷神社に出る。
小泉八雲は散歩の途中城山神社に立ち寄った。2000以上ある石狐に興味を持った。と書かれていた。
天守を後にして、石段を下りると、「松江神社」がある。その隣には「興雲閣」がある。明治天皇の巡行の際の行在所として計画されたが、天皇の巡行はなく、明治40年、皇太子・後の大正天皇の山陰道行啓にあたって、旅館となり、迎賓館としての役割を果たした。
月山富田城
2日目
鳥取県に向かってバスが走る。「伯耆富士」と呼ばれる「大山」が大きく見える。ホテルは大したことはなかったが、大山が良く見えた。学生時代に登ったことがあるが、一般登山道だったので、普通に歩けた記憶がある。夫は切り立った尾根を歩いたそうで、今は縦走路は歩行不可能だそうだ。
本丸東御門(復元、木造本瓦葺、棟門、引き戸、天守の東脇にあり、本丸の勝手口にあたる。)
明治15年以降に残されたものは天守閣・月見櫓・西の丸西手櫓・石山門の4棟であったが、昭和20年の空襲で焼失し、月見櫓が戦火を免れた。岡山5代城主・池田忠雄によって建てられた遺構である。櫓自体も武器の貯蔵庫になっていて、隠し銃眼や中世的な石落としの装置が設けられている。
三の平櫓東土塀(四角い矢狭間を備え、厩曲輪の土塀の一部と共に残った現存の土塀)
備中松山城
岡山城
本丸厩口門
本丸櫓門(復元)
本丸庭園
本丸跡と天守台
二の丸庭園
大天守に入るまで30分程並んだ。内部は3回目だったが、人の波に押されて見学をし、自由時間いっぱいまでいたので食事もとれなかった。今日はお天気が良かったので塗りなおされた白漆喰が青空に良く映えて美しかった。これですべて終わり、新大阪から新幹線で帰途に着いた。
今、「百名山」ならぬ「百名城」を巡る旅が流行っていて、今回もガイドブックを持ち、スタンプを集めている人たちが多かった。今回は、現存12天守のうち、「備中松山城」「松江城」「姫路城」を見ることができたので、あと「弘前城」だけとなった。ツアー名に「桜舞う」とあったが季節外れの寒さで桜には少し早かった。
お堀に沿ってしばらく歩き、右に曲がると「小泉八雲記念館」がある。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1850年ギリシャのレフガタ島で生まれた。1890年、松江の島根尋常中学校に英語教師として赴任する。その後、帝国大学文科大学講師として英文学を講じた。さらに早稲田大学で教鞭をとる。「みみなし芳一」や「雪女」の作者として有名である。 焼津にも記念館があるが、規模はこちらの方が大きい。
二重櫓(天守同様、天然の巨石を櫓台とした二層二階建ての構造。南北二つの出入り口は北は後曲輪、南は天守裏に通じている)
バスで高梁市に移動する。、「日本一の高さを誇る天空の名城・備中松山城」をガイドさんの説明を聞きながら上る。 観光駐車場でマイクロバスに乗り換え「ふいご峠」でバスを降り、山道を歩く。 市街地の北にそびえる「臥牛山」の小松山の山頂(標高430m)を中心に築かれた近世城郭で、天守の現存する山城としては随一の高さを誇る。 本瓦葺き、二層二階の建物で、内部には囲炉裏と装束の間がある。