豪快!佐渡島

H.23.10.22〜24

今年のお正月に予定していて、天候が悪く中止になった、佐渡への旅行に出かけた。東京駅8時52分出発の「とき311号」に乗車の予定が、車両故障による遅れで、ホームで待機となった。ようやく10時15分頃発車したが、このまま行くと予定のフェリーに乗れないので、ジェット・フォイルに乗ることになったが、一人2000円の代金を払うことになった。会社で1000円もて!とか、遅くてもいいからフェリーで行く!など39人も居るので色々な苦情が出たが、結局ジェット・フォイルで行くことになった。駅には、初めて見る「東北新幹線E5系はやぶさ」がとまっていた。 新潟まで新幹線に乗り、バスで新潟港に移動し、ジェット・フォイルに乗り1時間5分ほどで佐渡・両津港に着いた。バスでホテルに移動し、「佐渡・大収穫祭」の会場に出かけた。これは、昨日から1ヶ月間クラブツーリズムのお客さん用に始めた催しです。

3日目

トキの森公園新穂地区

古事記のイザナギ(夫) イザナミ(妻)の国生み神話では、7番目に佐渡を生んだとされています。その後の佐渡に残る伝説では、「産後の疲れをいやすために自分達の分身である岩を作り、この夫婦岩から残りの島々を作った。二人は神様に見つからないように、見張りの猫を置いた。火の神を作ろうとした際、この猫があくびをしたので、神様に知られてしまう。怒った神様は二人の乗っていた舟を帆かけ岩に変えてしまう。 向かって右が夫の岩 22,6m 左が妻で23.1mです

夫婦岩

倉谷の大わらじ

小木のたらい舟

余談ですが、あのイモトがたらい舟で佐渡海峡の横断を2回目の挑戦で成功させたそうです。漕がしてもらったが、難しくて舟が進みませんでした。 彼女は30分位の練習でマスターしたそうです。すごい!!

たらい舟が考案されたのは明治のはじめ頃で、最初は洗濯桶だったのが、改良されて今の楕円をした舟になった。観光用はそれより一回り大きいです。潮の満ち引きで、岩礁が見え隠れする小木海岸で考案され、小船より安定感があり、小回りが利くということです。 たらい舟で、磯ネギといわれる漁で、さざえ、ワカメ、あわびを採ります。今でも使われています。

西三川砂金山は上杉謙信の軍資金としておおいに役立ち、豊臣・徳川時代には、大量の砂金が掘られた。佐渡の金・銀山は平安時代にこの「西三川砂金山」の発見により始まった。  砂金取り体験は、初級(屋内)、中級(人工河川)、上級(自然河川)があり、私達は初級コースを体験しました。砂をお盆にいれ、比重の違いを利用して砂の中から砂金をより分けます。私は7個見付けました。30分ですが、腰が痛くて30分はやっていられませんでした。  余談ですが、砂金の取れるところの中に「安倍川の日陰沢」が入っていました。山伏の登山口が西日陰沢にあるので、あのあたりですね。

砂金取り体験西三川ゴールドパーク

昔から「はりきり」(春来)の行事として、正月に大わらじを作って、集落の両端に飾る風習がある。ある時、賊がこの集落に入ろうとしたが、このわらじを見て、「こんな大わらじを履く大男がいては、かなわない」と逃げ出したそうです。疫病や悪人よけの一種の道祖神です。 このあたりでは、どの部落でも見られるが、ここのが一番大きいそう です。風雨に晒され、一年でこのようにぼろぼろになるようです。

七浦海岸大浦に向かって走ると見えてくる。猫がうずくまっているように見える猫岩で、佐渡の奇岩です。

大佐渡スカイラインを通り、白雲台に着いた。スカイラインは、自衛隊の管理している頑丈な道路で、お天気が良ければ佐渡を見渡せる観光道路です。ガスが出ていて、上のほうでは何も見えませんでした。この道路は1005mの妙味山の頂上直下を走っている。 しばらく下がってくると、佐渡金山の道遊の割戸が見えてくる。これは、巨大な金脈を掘り進むうちに、山がぱっくり割れたような姿になったものです。

順徳天皇第一皇女慶子女王 佐渡でお生まれになった順徳天皇の第一皇女で、畑野に女王を祀る一宮神社がある。

本殿の前に進むと、神主さんがお払いをしてくれた。

試飲やお菓子の試食のできます。私は酒粕で漬けた瓜とキュウリの漬物を買いました。曽我瞳さんの娘さんが働いていました。日本語も上手で、元気そうでした。

尾畑酒造真野地区) 真野鶴

トキの森公園では、トキ展示資料館を見学した。中国からのひとつがいのトキから、雛が生まれ、2009年より毎年自然放鳥していて、2010年現在20数羽のトキが野生復帰しているが、まだ雛は育っていない。

ホテルの前には、加茂湖が広がり、牡蠣の養殖のいかだが浮かんでいました。今にも雨が降りそうです。 外界と砂嘴で結ばれた汽水湖で、面積は4.95kuで、新潟県で最大の湖で、牡蠣の養殖が盛んである。

最後のトキ、キンの剥製

中国から来たミドリの剥製

両津温泉の佐渡グランド・ホテルに泊まりました。古いホテルで、「本ドワイガニ甲羅焼き」と書いてありましたが、なんとなく不満の残る夕食でした。

小木港からフェリーで直江津港へ、バスで上田駅まで行き、長野新幹線で東京駅まで戻りました。東海道新幹線で静岡〜藤枝と乗り継ぎ12時前に家に着きました。今回の旅行では、ホテルが余りよくなく、特に二日目のホテルがひどくて、皆で、その話で盛り上がりました。昼食もオプションで、見学もオプションが多く、最初の価格より、随分高くなりました。「佐渡前握り寿司と本ズワイガニ甲羅焼き」のうたい文句があったので、期待して行ったが、たいしたことはなかった。こういうこともあると思うしかありません。 でも、佐渡の自然は良かったです。紅葉には少し早かったですが、海岸線が綺麗で、楽しい旅行でした。

尖閣湾は、第1〜第5景までの「五つの小湾」の総称を言います。島は揚島で橋は遊仙橋(君の名はのロケ地だったので真知子橋とも呼ばれている。また、ミニ水族館があり、アオリイカの遊泳が見られる。 舟も「まちこ号」と「はるき号」だった。)

尖閣湾 は北欧ノルウエーのゴシック風景観にも劣らないところから「尖閣湾」と名づけられた。2kmに及ぶ海岸美を海中透視船でクルージングした。 風が出てきて波が高く、申し込んでいた半数の人がキャンセルしわずか7名乗船しただけだった。私も舟に弱いのでどうしようと思ったが15分くらいというので乗りました。しぶきが上がって、シャッターを切るのが大変でした。

佐渡奉行所跡 佐渡金山の開山に伴い、佐渡は徳川幕府の直轄領になり、相川に奉行所が置かれた。その後何度か焼失したが、安政5年に建てられた奉行所を基に復元したものです。奉行所には、行政を行なう役所だけでなく、金や銀を精製する工場や、奉行が住む陣屋などがあった。

日蓮聖人。佐渡法難(鎌倉時代1271年配流)時宗の勘気を受けて佐渡流罪となる。流罪が決まった夜、鎌倉竜ノ口で御難があった。処刑されようとした聖人はひたすら題目を唱えた所、雷光の奇跡が起こり難を逃れた。

真野宮の隣にあり、1体2000万円という精巧な動く人形によって、佐渡に流された順徳天皇、日蓮聖人、世阿弥が紹介されている。

徳天皇・配所の月(鎌倉時代1220年配流)承久の乱に敗れて、父君後鳥羽上皇は隠岐に島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ配流となる。在島22年、1242年46歳で崩御する。都に帰る夢は果たせず、火葬し骨は京都に埋葬したということです。

回廊の一番上には観音堂があり、その前に3本の大杉が立っていた。

鐘堂が本堂と観音堂をつなぐ回廊の中ほどにある。

高野槙 樹齢400年
樹高40m 周囲4.6m

不動明王 平安後期の作

こんがら童子

十一面観音の写真

本堂

長谷寺(ちょうこくじ)(畑野地区) 長谷寺の寺号は、地形が大和の長谷に似ているところから、つけられた。本尊の十一面観音3体は、弘法大師の御作と伝えられ、重要文化財になっている。秘仏として、33年毎の御開帳とされている。 大悲殿・観音堂は、1428年〜1431年に智円和上が再建し、1691年に改修された。花の寺としても有名で、季節の花が咲き乱れるそうです。

おみやげ物売り場では、ジェンキンスさんが働いていた。元気そうだった。曽我ひとみさんも介護施設で働き、長女の方も保育の仕事をしているということです。

大収穫祭は、焼きたてのイカや牡蠣を食べ、海草の味噌汁をいただきながら、餅つき大会、相川音頭、佐渡おけさの踊り、鬼外太鼓、夫は餅つきに参加、私は、佐渡おけさの踊りを教えてもらい踊りました。  また、会場では、おみやげ物屋も並び、盛況でした。

2日目

人面岩

道の反対側に、塩工房 がありました。
中では、海水に海藻(ホンダワラ)の汁を混ぜて藻塩をつくっていました。

他にも、安寿伝説、おけさ伝説、夕鶴伝説などが、人形で表現されていました。

佐渡金山相川地区)は、1601年、山向こうの鶴子銀山の山師によって発見された。以来平成元年3月31日まで、388年間採掘が続けられた。日本で最大の金銀山で、坑道の長さは約400kmに達します。 宗太夫坑を見学しました。長さは280mで、採掘風景を再現した人形が70体あまり設置されている。 資料館に12.5kgの金塊が箱に入っていて、小さな穴から取り出す、というのがあった。体験してみたが、重くて動かすのが精一杯で、持ち上げる所まで行かなかった。

世阿弥・雨乞いの舞(室町時代1434年配流)
将軍足利義教に疎まれ流罪となる。日照り続きのある夏、島民を救おうと雨乞いの舞を舞った。すると、大粒の雨が降り出し、島民は驚き、雨の中世阿弥の舞を見ていた。

真野宮真野地区) 順徳天皇を奉祀し、菅原道真、日野資朝を配祀している。明治維新までは、順徳天皇の火葬塚を管理する真輪寺であった。 承久の乱の後、佐渡配流となった天皇がこのあたりで22年間を過ごした。1242年に46歳で食を断ち、崩御された。

佐渡歴史伝説資料館