6日目
サンタ・ジュスタのエレベーター(エッフェル塔で名高いギュスターヴ・エッフェルが設計)上るとカルモ修道院に行く。
リスボン
アムステルダムでお菓子を購入
リスボンのガイドゆきさんは、ポルトガル人の夫と結婚して、ポルトガル生活が29年になるそうです。最初のうちは、のんびりしたポルトガルに、どうしてそうなのと怒ってばかりいたそうだが、諦めて慣れてくると、頭痛もしなくなったし、肩こりも無くなったそうです。 私達から見ると、ゆきさんもすっかりポルトガル人だなと思える時がある。 彼女がしたいことの一つは「人を待たせること」今まで待ってばかりで、待たせたことが無いから。もう一つは「一人前の料理を平らげること」 ポルトガル人は日本人と大して体格が違わないのにとにかくよく食べるのだそうだ。その二つを達成して正真正銘のポルトガル人になってください。
毎日、独特のファッシヨンで楽しませてくれたふたりのマダム
フリータイムに水族館に行ったが、ガイドの忠告どおり、今日は子供の日ということで、長蛇の列だった。あきらめて、タワーまでゴンドラに乗った。料金表に65歳以上は2ユーロとあったので、65歳以上と言ったが、パスポート提示を求められた。パスポートはバスに置いてきたので、3.8ユーロ払った。 公園は家族連れで賑わっていました。
干鱈料理 バカリャウ・ア・ブラシュ(干鱈 玉ねぎ、フライドポテトの卵とじ炒め) とバスティス・デ・ベレンの昼食
アウグスタ通りからの勝利の門、その向こうにジョゼ1世の騎馬像が見える。
ロッシオ広場からコルメシオ広場に延びるアウグスタ通りがブランドショップや専門店が集中するファッションエリアで終日歩行者天国になっている。バイシャとは低いと言う意味
べレンの塔のところで10分間の自由時間があった。塔に上れるというので、急いで上ってみることにして、急いだ。5ユーロということだったが、こどもの日ということで、無料だった。 急いで、上がり、急いで下りてきた。私ともう一人Mさんが下りてきたが、続いていたはずの夫がいない。 少したって下りてきて言うには、狭い階段を無理やり夫の前に割り込んだ人がいて、男二人に前後から挟まれた格好になり、やばいと思っていると、後の男が夫のポケットにあったはずの財布を差し出してポルトガル語で何かを言った。そのあいだ、とられたと言うことを全然感じなかったし、反対側のポケットにはパスポートもはいっていたので、取られなくて良かった。財布の中身も無事だった。 狐につままれたような話で要領を得ない。 この後、バイシャ地区でもフリータイムがあったが、添乗員がバスに残るから、パスポートや貴重品はバスにおいて行くことになり、手ぶらであるくことになった。スペインやイタリアでは、もう分かった!と言うほど注意され、気をつけていたが、油断していたのかもしれない。EUに加盟してから、他の国からもすりなどの悪者が沢山入り込んできたので、安心は出来ない。
バイシャ地区
発見記念塔
べレン地区には、ジェロニモス修道院がある。エンリケ航海王子が造った礼拝堂の跡地に、マヌエル1世が1502年、ジェロニモス会のために建てた白亜の修道院は、ポルトガル大航海時代の繁栄のシンボルである。南門にはエンリケ航海王子の像が建ちティンパヌス(入り口上部の盾型部分)にはジェロニモス(聖ヒエロニムス)の生涯が刻まれている。左右に安置された棺は、マヌエル王の時代にポルトガルに豊かな財をもたらしたヴァスコ・ダ・ガマと、国民的詩人で「ウズ・ルジアダス」の作者、ルイス・デ・カモンイスのものである。
55M四方の回廊は細部まで装飾が施されたマヌエル様式の最高傑作である。
ジェロニモスの絵
コリシア・アルファ・リスボア ホテルからの風景
マリア・カラスと書かれたKLMオランダ航空機
リスボン7:15〜2時間50分〜アムステルダム10:55着〜15:20発〜11時間25分〜成田
闘牛場 ・スペインの闘牛は人間と牛が死闘を演じる。ポルトガルの闘牛は、牛を殺さないので、マタドール(殺す人)はおらず、カヴァレイロ(馬に乗る人)と呼ばれる闘牛士が、馬上からファルパと呼ばれる銛を牛に打ち込む。一頭に六本のファルパを刺す。興奮した牛の突進を避ける馬術が見もので、フォルガードと呼ばれる牧童が500キロ以上もある手負いの牛を素手で取り押さえるゲームである。
ジェロニモス修道院の前に広がる庭園をぬけ、テージョ河畔にでると、高さ52Mの、船出をする帆船をモチーフにした発見のモニュメントが建っている。舳先にカラベラ船(大航海時代に活躍した帆船、ガマやコロンブスも使った。)を手にしたエンリケ王子、新天地発見の担い手となった航海者、天文学者、地理学者、宣教師などが続く。 1960年、エンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられた。 前の広場には、世界地図が描かれ、ポルトガルの航海士たちが到達した年号が刻まれている。日本には1541年とある。
バスコダガマ橋 1974年独裁政権から無血クーデターで政権を奪い返した日を記念して造られた。
こちらでは、建物と建物はくっ付けて建てるので、色の変った所が境目です。昔は一軒の邸宅だったが、今は何家族かが暮らしている。ひとひとりがやっと通れる路地が続く。
まだ、朝早かったので、お店は閉まっていた。カラコイシュ(1CM位の大きさのカタツムリの一種)を売るおばさんがいた。すごく臭いので、ハーブやニンニクを入れて、茹でたり、蒸し煮にして、虫ピンで穿り出して食べるのだそうだ。 聖アントニオ祭の準備で木や建物に飾りつけが始まっていた。 水飲み場は、浮浪者が夜、風呂代わりに使うので、夜はお水が止められている。私達がざわざわしていると2階の窓が開いて住人が顔を出した。許可をもらって、撮影させてもらった。 ポルトガル人は、スペイン人やイタリア人に比べて、顔見知りでおとなしいので、自分達からは、話しかけたり、何かをしたりはしてくれないが、のんびりしたいい人達だそうだ。
テージョ川に面したコルメシオ広場とジョゼ1世の騎馬像
ポルトガルが勢力拡大にまい進した時代、16世紀に建築された砦。マヌエル1世の命により1515年着工され、1521年完成する。天球儀やロープ、貝などを連想させる、マヌエル様式の装飾が美しい建物。テージョ川を行きかう船を監視し、河口を守る要塞としての役割を担っていた。3階は王族の居室、2階は砲台。2階テラスには、聖母マリアの像が立つ。純白のドレスの裾を広げた貴婦人のように見える姿を、司馬遼太郎は著書のなかで「テージョ川の公女」と賞賛した。
エンリケ航海王
7日目
アルファマ地区
ポトガルは、息を呑むような絶景や、ため息の出るような絵や建物は無いが、肩のこらないのんびりした旅行が出来た。そういえば、美術館に行かなかった。世界に誇るような絵描きが出なかったようだ。 どこに行っても、装飾はアズレージョという絵タイルだった。アラビア語で「滑らかに磨かれた小さな石」と「青」を併せた言葉だそうです。 帰ってきたら早速肩が凝ってしまいました。心配していたメニエル病も出ず、楽しい旅でした。35人の大人数で、お話できなかった方もいましたが、仲良くまわることが出来ました。駄じゃれ好きの添乗員さん、口が滑って「冥土の土産」などと、口走り、機嫌を損ねた方もいらしたようです。自分で言う分には大丈夫です。冥土の土産が増えました。どうもありがとうございました。
全長18KMの4月25日橋
国際公園(1998年開催の万国博覧会の跡地にある)
ベレンの塔(世界遺産)
バスコダガマ橋とクリストレイ
今日6月1日は、子供の日ということで、このあたりの道路を通行止めにして、マラソン大会が開かれていた。おかげで、発見記念塔やベレンの塔までお散歩でした。
二階と三階部分の色が違っているが、一階と二階は汚れを落とす工事が施されたが、三階部分はまだ、おこなわれていないためだそうだ。
ジェロニモス修道院(世界遺産)
1755年のリスボン大地震は、西欧一美しいといわれた街を一瞬で廃墟にしたが、アルファマ地区だけは崩壊を免れ、中世の街並みが残った。 高級住宅街だったが、お金持ち達は、別に住居を移し、後に貧しい人達が住み始めた。 入り組んだ白壁の路地には、青空を背景に洗濯物が踊っていた。
EXPOのシンボルタワー もう何年も上に上がれない。
坂の多いリスボンを走るケーブルカー。ほかに路面電車や地下鉄ある。
アウグスタ通りの大道芸人
1755年の大地震の跡を伝えるため、修復せずに残されているカルモ修道院跡
ロッシオ広場のジャカランダ
優美な姿とは裏腹に、地下には牢獄が設けられていたという残忍な歴史も持っている。海水の干満差を利用した水牢で、時間帯や潮流によって海水が入り込む仕組みになっていた。政治犯が数多く投獄されていたという。
エンリケ、ブァスコダ・ガマ、カプラル、マゼラン
南門
最後の晩餐はホテルで 。着物を着てみました。