現「橘屋菅井製菓」がこの地を領した下総佐倉藩の出張陣屋跡。代官を勤めた大槻氏の位牌を残している。その向こうの児童公園内に「俳諧の句碑」がある。旅籠蔵田屋(大越家)の屋敷内に建碑されたもの。小金井宿の俳人10人の発句が刻まれている。
2022.2.26~27
小山~雀宮
1日目
本町交差点を過ぎると左手に「愛宕神社」がある。元は下石橋愛宕古墳上に鎮座していたが、大正2年にこの地に遷座した。参道入り口が石橋宿の江戸口であった。北陸新幹線の工事の時発掘された「基壇石棺下敷座屋根ふた」などが社殿の左側に並んでいる。「文化財記念碑」にその経緯が書かれている。
早朝家を出て、東海道新幹線、東北新幹線と乗り継ぎ、8時40分に小山駅に着いた。小山宿は壬生通り、結城道、佐野道が集中する要衝で賑わった。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒であった。
一里塚保存会が立てた「下石橋一里塚案内板」が令和3年に建てられている。右手の雑木林の中には少し小高くなったところがあり、これが塚の跡であるらしい。塚木はスギであった。江戸日本橋より23里目である。
JR東北本線小金井駅を過ぎ、小金井宿に入る。延宝9年(1681)宿の西にあった小金井村を移住させて、宿駅とした。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒であった。
その先の右手に「郷社橿原神社社標」がたち、その奥に橿原神社がある。参道口には石造神明鳥居があり、参道には朱塗り燈籠が並んでいる。江戸時代には「星宮」と称し、明治39年東北本線の蒸気機関車からの飛び火で社殿が焼失し。後に再建された。
45分ほどひたすら歩き、第一奥州街道踏切を渡り、喜沢南交差点の先を左に入ると「薬師堂」があった。境内には道標を兼ねた念仏供養地蔵尊がある。享保3年(1718)の造立で、「右江奥州街道」「左江日光街道」と刻まれ、かっては「喜沢追分」にあった「追分道標」である。
駅前上町の交差点を右折し、街道を進む。街道を右に外れた所に、「光照寺」がある。境内には日限地蔵尊がある。戊辰戦争で戦死した官軍笠間藩士の墓があるとのことだが、見つけられなかった。
下古山に入ると右手に「石仏石塔」が祀られている。風化が進んでいるとあったが、新しく作られた石塔も並び、整備されていた。下野市下古山と河内郡上三川(さんのかわ)町の境を過ぎる。
その先の右側に「井沢脇本陣跡」があるはずが見当たらない。井沢家の祖は宇都宮氏の家臣であったが、氏の滅亡の後この地に土着した。
その先の左手に三面六臂馬頭観音像と石祠がある。その筋向いに現「伊藤茶舗」の井沢本陣跡がある。井沢氏の祖は脇本陣と同じで、代々「新右衛門」を襲名し、名主を兼ねた。
2日目
喜沢分岐点手前には、「馬力神」がある。明治37年建立。新道における馬頭観音。
鞘堂バス停の向かいに「星宮神社」がある。鞘堂新田村の鎮守。人々の背負う星々(一生)を守護している。
実後手に「鞘堂地蔵尊」がある。康暦2年(1380)小山宇都宮の戦いで小山義政が宇都宮基綱を破った。村人が戦死者の鞘を拾ってここに埋葬し、御堂を建て地蔵尊を安置した。将軍吉宗の日光社参の際には休息所となった。御堂の壁面には十二支の描かれた絵馬がかかっている。晃風と言う方が毎年奉納しているようだ。
石橋駅を過ぎると、右奥に「開雲寺」がある。将軍日光社参の際の「御殿所」となった。慶長9年(1604)幕府から寺領7石を賜り、葵紋を許された。城郭様式の土塀の一部が残され、銃眼や矢狭間がある。山門前には「明治天皇駐輦所」碑がある。
その先の左手に「大越本陣跡」があり、本陣門(四脚門)を残している。大越家が勤め、建坪は140坪であった。その向かいには屋号「橘屋」の幕末の建築の店蔵があるということだがない。その向こうに修理中の店蔵がありこれが「網屋」で幕末の建築で呉服屋を営んでいたという。随分傷んでいた。
両塚を残し国指定遺跡になっている。往時の道幅を知る重要な史跡である。江戸日本橋より22里目。往時は榎の塚木であったが、現在では榎とクヌギの巨木が同居している。クヌギの大きなドングリがたくさん落ちていた。
石橋の地名は池上明神前の石橋に由来する。宿は幕府領で代官北条雄之助が支配した。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒であった。
下石橋北交差点の手前左手に「石仏石塔群」が祀られている。地蔵菩薩や十九夜塔が旧道側を向いて並んでいる。そこを左折し進むと星宮神社がある。下石橋村の総鎮守である。
街道を進み、下石橋交差点の左手に丸大食品があり、正門脇に巨大な「慈母観音立像」がある。その先の右側に黒豚とんかつの隣に長屋門がある。この店の門なのかもとからあった長屋門なのかは分からない。
JR東北線で小山から自治医大前に戻る。栃木日産の角を曲がり、笹原旧道を進む。笹原壬生線を過ぎ、T字路に出る。「日光街道」の木の看板が置いてある。右折して国道に出る。左側の道ばたに「下石橋一里塚」看板がある。ガイドブックには(日本ニューホランドの裏に残されているが位置は不明)と書かれている。裏にまわると「日光街道入り口」の看板がある。
その先には右手に「薬師堂」がある。本尊は行基作と伝わる「木造薬師如来立像であるが、今は慈眼寺に保管されている。境内には天保9年(1839)建立の十九夜塔がある。しばらく歩きJR東北本線自治医大前駅から小山のホテルに向かった。駅前には「甲塚古墳出土馬形埴輪像」のレプリカが飾られていた。
その向かいには「金井神社」がある。小金井宿の鎮守。本殿の壁面には壮麗な彫刻が施されている。
その隣には慈眼寺がある。建久7年(1196)新田一族の祈願寺として創建された。境内には御成御殿(御座所)があり、日光社参の将軍はここで昼食を摂った。
その先の左手に「青木本陣跡」がある。本陣門(四脚門)を残している。建坪は83坪であった。その先に「吉田神社跡碑」が立っている。その横に「幕府代官陣屋跡」の看板がある。
角を左に入ると「羽川薬師堂」がある。境内の覆屋には「十九夜塔」「雨引観音」が安置されている。
JR東北新幹線高架を右手に見て進むと、喜沢の一里塚がある。西塚は左手の空き地に残っている。塚木は榎であった。東塚は痕跡を残している。塚木はスギであった。江戸日本橋より21里目。
三差路に分かれた喜沢分岐には、日枝神社に置かれたという「男體山碑」が再建(平成31年に建立)されている。壬生道との分岐で、供養塔道標や馬頭観音、日清日露日支出征馬碑等が立っている。右の細い道に入る。
向かいには、愛宕神社がある。村の鎮守。小山城主小山朝政が鬼門守護のため、山城国の愛宕神社を勧進した。狛犬は天明5年(1785)建立で、市内最古。
30分ほど歩くと左手に「正光寺」がある。その先に「雀宮宿本陣跡」碑がある。小倉半右エ門が勤め、名主、年寄を兼ね建坪は115坪であった。小倉家は宇都宮氏の家臣として2万石を領したが宇都宮氏が没落すると、この地に土着した。
雀宮駅前交差点の右に「仮本陣芦谷家」がある。嘉永元年(1848)の再建で門構えや式台を残し名主、問屋を兼ね建坪は94坪であった。明治14年の明治天皇奥州巡行の際に休息所となった。庭掃除をしている方に聞くと「雀宮は、本陣、脇本陣で間に合わなくなると、この仮本陣を使った。」ということだった。14時30分になったので 雀宮駅から小山に向かい新幹線を乗り継いて帰った。
下野市から宇都宮市に入り、茂原観音入り口バス停の先の右側に「茂原正観音道道標」がある。雀宮宿の繁栄を描いた絵馬が多数奉納されている。その先の公園内に明治34年建立の題目碑「南無妙法蓮華経」がある。
カーブミラーのところを新幹線から離れ斜めに左の道に入る。国道4号線に出る。新田宿に入り、木の燈籠標識、家々の垣根には屋号の書かれた木札が下がっている。新田宿は日光街道でもっとも小さな宿であったが、日光山、赤城山、大平山の眺望が最も良いといわれた。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は59軒であった。
参道を過ぎると、国道4号に突き当たる。横断歩道がないので、車の往来を見て、素早くわたる。日枝神社は喜沢村の鎮守。社殿脇の土塁には天保6年(1835)建立の男體山碑「男體山 左日光 右喜沢追分」がある。かって「喜沢追分」にあった追分道標だが、見つけられなかった。
その先の左手に「日枝神社社標」が立っている。砂利道の参道には大ケヤキが3本ある。参道の両側には切られてしまった切株がたくさん残っている。3本の大ケヤキは御神木で、小山市指定文化財になっている。
街道に戻り、進むと、左手に興法寺がある。小山氏代々の祈願寺であった。境内の地蔵尊には戊辰戦争「小山の戦い」の被弾痕がある。
その後、街道は4号と別れ左の細い道に入り、県営羽川住宅のところでまた4号に戻る。「小山市と下野市の堺」の先で、また4号と別れ、細い道に入る。道が突き当りになっているところに「小金井の一里塚」がある。