公園は露店が沢山出て、池の周りには「桟敷」が設けられ、歩く人で溢れている。敷物を用意してこなかったので、貰った団扇を敷いてアスファルトに座る。19:00 まきわら船の提灯点火、19:30 花火の打ち上げ、 20:45まきわら船の出船。
市江車屋台おこし・宵祭に参加せず、待機していた市江車では、早朝5時から屋台・人形を横に組んで、いっきに組み立てる。
出船・午前9時、赤舟に乗った神社の迎えの神職の挨拶を受け、だんじり船は市江車を先頭に津島車が順次漕ぎ出し御旅所へ向かう。池の中ごろに進むと、先頭の市江車から10人の鉾持(未婚の男子)が布鉾を背負い池に飛び込む。御旅所まで泳ぎ着くと、御神輿に拝礼し神社まで走りぬけ、神輿還御の先払祓いとして道中を浄め神前に布鉾を奉納する。
尾張津島にある津島神社の天王祭に出かけたいと夫が言い出し、ホテルを予約するのに、日も迫っていて、尾張一宮のホテルがやっと予約できた。
当日、10:41の浜松行きに乗り、豊橋行きに乗り換え、大垣行の新快速で一宮に13:25に着いた。ホテルに荷物を預け、名鉄尾西線で津島に行き、津島線に乗り換え、藤波駅にむかった。今日は「尾張津島天王祭」にあわせて、名鉄の主催するウオーキングが午後4時から行なわれる。1時間以上前に着いてしまった。16:00時から地図をもらい、「わらじストラップ」のプレゼントをもらい歩き始める。
津島旧五ヶ村、下構(しもかまえ)堤下(とうげ)米之座、今市場、筏場から、屋形中央高く真柱(まばしら)を立て、一年の月数、その下に一年の日数、正面にひと月の日数の提灯や絹灯篭など、約500個の提灯をかかげた五艘のまきわら船が津島楽を奏でながら丸池に扱ぎ出て、灯が川面に映るさまは幽玄の極みである。高さは約20M。起源は良く分かっていないが、弘治4年(1558)信長が天王祭を観覧している。秀吉や尾張藩主も頻繁に観覧している。昭和55年に国の重要無形文化財に指定され、平成28年には「ユネスコ無形文化財」に「尾張津島天王祭の車楽舟行事」として登録された、
H.29.7.22~23
水路を通って提灯で飾られたまきわら船が進んでくる。
神輿還御まで時間があったので、「堀田家住宅」を見学する。江戸中期の建てられ、その後修理、増築を重ね、昭和30年に愛知県有形文化財に指定される。昭和53年には国の重要文化財に指定される。敷地面積は約623坪である。主屋と3棟の土蔵からなり、切妻造重層桟瓦葺である。内部は「みせ」営業空間と「居間」私的生活空間からなり、屋根には「うだつ」「忍び返し」を見ることができる。
「津島観光交流センター」では、昨年の祭りのビデオが流され、歴史・文化のパネルが展示され、まきわら船の見本が展示されていた。この建物は、昭和初期の典型的な銀行建築である。
藤浪駅を出発して、0.8km地点の「津島街道入口」を左折する。(津島街道は、鎌倉街道菅津宿から津島へ行く道として発達。安土桃山時代は、津島神社や甚目寺観音への参詣道として栄えた。)尾西線の踏切を渡ると、左側に「兼平堤」の標識があり、右側に「金毘羅社」がある。
この通りには昔ながらの家が並んでいて、「上切りの井戸」がある。(津島地方は、木曽川の豊かな水がもたらす伏流水が多く、井戸には恵まれた土地である。花崗岩の立派な石組みをもつ古井戸である。)
すぐ脇の路地に入ると「清正公社」がある。加藤清正が少年時代に鬼の面をかぶって賊を追い払った逸話が残る神社で、神社の壁には鬼の面の絵が飾られていた。その向かいには「上河原地蔵堂」がある。眼病や乳の授かる地蔵として信仰され、汗かき地蔵とも呼ばれる。身の丈2尺5寸で、蓮台の上に立つ石身の霊仏である。
街道に戻り、進むと突き当りが「津島神社」である。鳥居の前には樹齢約400年の大イチョウの御神木がそびえている。鳥居をくぐると、若者の「よさこい踊り」が始まっていた。
津島神社は、全国3000社の牛頭天王信仰の総本山である。尾張津島天王祭は津島神社の祭礼として600年の歴史がある。本殿の前に造られた「茅の輪」を八の字にくぐり、お参りをする。
船が帰っていったので、駅に急ぎ、電車で「一宮」に向かい、ホテルに着いたのは11時を過ぎていた。
2日目
宵祭
朝祭
鉾持飛び込み
稚児打廻し 山揚げ
網打ち 斉竹立
「高砂」下車
「碇潜」堤下
「花筐」今車
「鶴」筏場車
うだつと忍び返し
天王祭の「おもてなしイベント会場」があちこちにあり、この地区では「いとう写真館」の前で「お囃子」を披露していた。
9日 斉竹立(いみたけたて)朝祭を迎える2週間前に祭りに参加する各町内の境に、神社より手渡された斉竹(注連縄を張った青竹)を立て、町を清める。
20日 船分け 祭りに使用する船を古式により、宵祭の二日前の早朝に「くじ」で分配する。「くじ」で決められた船を車河戸に漕ぎ、屋台を乗せて、祭りの準備を始める。
21日 稚児打廻し 天王祭に奉仕する稚児は5~7歳の男児が選ばれ、宵祭前日夕刻、華麗なる装束(古式衣装)を着け、花鳥帽子を被りこうはしを肩に掛けて、車屋から肩車で、津島神社に向かい、拝殿を三回打廻し、車屋に戻る。
大きな通りに出て左折し、津島市文化会館を右折する。しばらく歩くと、津島駅前通りに出る、。右折して商店街を歩く。左側に「白山社」がある。弘和元年(1381)に愛西市に創建され、慶長13年(1608)津島市当地に移された。
商店街を進むと、「地蔵堂」があり、円空作の木彫りの小さな仏様が祀られている。お堂は閉まっていたが「千体仏」の一部が外に祀られていた。8月25日が御開帳だそうです。
神社を出て、「天王川公園」の祭り会場に行く。その途中に「堀田家住宅」がある。
電車で津島駅まで行き、駅前で「津島神社 天王祭」の看板の所で写真を撮っていると、おじさんが話しかけてきていろいろ教えてくれる。
「ユネスコ」に登録されてから作られたというモニュメントが壁に描かれている。津島神社所蔵の「尾張国津島祭礼図巻」によると(この絵巻は津島天王祭の祭礼行事を絵巻物に仕立てたもので、斉竹立て、綱打ち、山揚げ(二景)、稚児打廻し、宵祭り、朝祭り、の七景にわけ、江戸時代末期における祭礼行事をよく伝えている。)
先ほどのおじさんに教えてもらい、「車河戸」に向かう途中に、肩車された稚児さんの行列に会う。
堤下(とうげ)神社・(元は金燈籠社と呼ばれ、天明5年(1785)天王川築留以前は川を隔てて津島神社の遥拝所であった。古くから幼児の夜泣き封じの信仰で広く知られている。)堤下町の旧家の前で、稚児さんが出番を待っている、そばでお母さんが団扇で風を送っていた。
市江車・津島五車が御旅所に接岸し、稚児以下供回りが上陸すると、神輿前で祭りが行われ、神輿を中心に列を整え神社に向かう。神前奏楽を奉納して盃事を終えて、各車帰途につく。
市江車の鉾持が神前に奉納した布鉾のしずくを患部に付けると病気やケガが治るという言い伝えがある。布鉾の触らせてもらった。
津島名物「くつわ」「あかだ」の店が神社の前に3軒ある。一軒は「天王祭バージョン」の包み紙だったが、あと2軒は前回買ったのと同じだった。
あかだは米の粉を練って団子にしてゴマ油であげた菓子である。空海が神前に供えた「あかだんご」が縮まってあかだになった。くつわは米の粉に砂糖を混ぜ団子にし、馬のくつわ型にして菜種油であげたもの。相当の噛みごたえがあり、前に聞いた話では、旅人がこれをなめながら歩いたという。
「采女」米車
東海道を歩いていた時に、宮宿から船で桑名宿まで行かない人が歩るく「佐屋街道」を歩いた。その時に津島の町で半日過ごしたことがある。交流センターに展示してある「まきわら船」を見て説明を受けたが、今回その様子が体験できた。また町の人も親切であちこちでいろいろな説明をしてくれた。毎年これだけの御祭りをするのは大変だと思うが、つづけてもらいたい御祭りである。