
その先には「清厳寺」がある。宇都宮5代城主頼綱の創建。堂内の鉄塔婆は8代城主貞綱が亡き母の供養に建立した。国重文に指定。境内には「子育地蔵尊」が祀られている。300年近い歴史を持つ青銅製、丈六の坐像だったが、戦争末期に供出し、大谷石の台座だけが残っていたが、平成7年に再建された。
今泉交差点を左折し2本目の角を右折すると「興善寺」がある。正和3年(1314)宇都宮8代城主貞綱の創建。寛永8年(1668)2代宇都宮藩主奥平忠昌の法要で起こった家臣同士の刃傷事件が4年後の「浄瑠璃坂の仇討ち」となった。



橋を渡った先には、「旧篠原住宅」が見える。戦後まで醤油醸造、肥料業を営んでいた。嘉永4年(1851)築の石蔵や明治28年築の店蔵は国指定重要文化財。公開されているが、現在は耐震工事のため休館になっていた。




宇都宮
2025.10.29


道の向かい側の奥に「宝藏寺」がある。鐘楼の「およりの鐘」は宇都宮8代城主貞綱が寄進したもの。

田川を幸橋で渡る。橋の欄干には「上河原の初市風景」や「梵天祭り」の様子が刻まれている。

つくば銀行の前を通り、大町通りに入る。奥平大善が城主の時、この地で
大善市が開かれ、奥州街道沿いだったので、大いに賑わったので、大町と名付けられた。月に6回、市が開かれ宇都宮城下の中心的な問屋街として栄えた。

その先に「宝蓮院」がある。北側に竹林村の立場があり、心太が名物であった。
豊郷南小学校を過ぎコンビニのある交差点を右に入ってしばらく行くと「根来塚跡」がある。白山神社の社殿裏に処刑された根来衆の胴体を埋葬した根来塚(胴塚)があった。




朝7時40分、ホテルを出て、タクシーで日光道中と奥州道中の追分に向かう。左手に高札場跡の標柱が建っている。(高札場には人々が従わなくてはならないふれや決まり事を書いた木の札が立てられていた。)

竹林町に入ると左手に「長屋門」のある家がある。この辺りは広い敷地の屋敷が多い。


左手の奥に宇都宮二荒山神社が見えた。代々武将の崇敬を受け、家康は社領1,500石を寄進し、社殿を再建したが戊辰戦役で焼失してしまった。境内には明神の井がある。宇都宮は地形の関係で湧水が多く、江戸時代には7つの井戸を選んで名所とした。この井戸の水を使うと書道が上達すると言われた。
ぎょうさおみくじをひいた、中吉だった。
地蔵前バス停から宇都宮駅に戻り、新幹線を乗り継ぎ帰った。

元来た道を戻れば良かったが、違う道を戻って方向が分からなくなって右往左往した。何とか、「首切り地蔵」を見つける。ここはもと宇都宮藩の刑場跡。根来衆はここで斬首された。享保8年(1723)造立の首切り地蔵は根来塚(首塚)に安置された物。敷地内には古い地蔵堂があったが、幕が張られていて、中が見えない。その中に地蔵尊が祀られているらしい。
奥平公供養塔

立派な楓の木がある。観楓会が開かれる様だ。

ガソリンスタンドを左折し上河原町に入る。奥州街道が田川を渡るところであり、上河原橋がかかるまで徒歩や舟で渡っていた。

街道に戻ると、江戸中期創建の琴平神社がある。太平洋戦争の空襲で、社殿が焼失し、灯籠が破損したと書かれていた。
野村証券のビルで右折し、オリオンアーケードに入る。


今泉4丁目バス停の先に「八坂神社」がある。康平6年(1063)宇都宮城の鬼門除けとして創建された神明社。伝統の神楽は市無形文化財。神楽殿には「黄ぶな」が吊るされていた。黄ぶなは郷土玩具で、無病息災を願う縁起物である。江戸時代に天然痘が流行った時、黄色い鮒を食べて治ったという伝説が由来とされている。
宇都宮二荒山神社でおみくじに黄ぶながあった。餃子より黄ぶなの方がよかったかも。
左手にいくと「妙正寺」がある。日蓮上人の開祖。参道口の題目碑「南無妙法蓮華経」は嘉永4年(1851)の建立。

根来衆事件・1615年、2代将軍秀忠の日光社参に先立ち、鉄砲組根来同心百人衆が宇都宮に派遣された。宇都宮城主本多正純は一行に城普請を命じたが、「お役違い」と拒否したため全員を斬首した。宇都宮釣り天上事件の遠因となった。



