とっておきの「隠岐の島」全4島めぐり3日間

H.23.04.17〜19

藤枝の自宅をAM.6:50にでて、新幹線、京浜急行と乗り継ぎ羽田空港に着いた。11:30の伊丹行きに乗り、14:10の隠岐空港行きに乗り継ぎ、15:05隠岐に着いた。今はプロペラ機だが、観光シーズンになるとジェット機になるそうだ。

中ノ島

隠岐国駅鈴 図のように駅に着いた時根元を持って上に振る。

飛行機の時間まで西郷港の辺りを散策した。川沿いに舟が並び、網が干してあったり、魚屋さんで干物を干してあるのを買ったりして過ごした。

由良比女神社

国賀浜

知夫里島

蛙なく勝田の池のたたみ、さかましものは松風の音

国賀海岸は296kmに及ぶ海岸線の90%が岩石海岸で、80%が断崖になっている。翌日この海岸を上から見ました。

ホテル鶴丸さんの船で、国賀海岸を海から見るツアー{オプション}に出かけた。

西郷港島後

後鳥羽上皇行在所跡

15:45隠岐空港を飛立ち、伊丹空港で乗り継ぎ羽田まで、新幹線で自宅に無事帰ってきました。今回は、晴れたり曇ったりと天候に恵まれなかったが、のんびりした旅ができました。 今は観光的には、まだ最盛期ではないので、どこも混んでいなくて良かったです。 東日本大震災の影響で、旅行も自粛傾向にあるようですが、いける人はいつもどおりに出かけたほうが良いと思います。今頃は、「三春の滝桜」が咲いている用ですが、楽しみにしていましたが、ツアーが中止になりこちらに来ることになりました。
 4っの島を船で行ったりきたり、島内はバスで観光し、ガイドさんがいたり、いないと運転手さんが説明したり、ビデオでガイドが流れたりしました。どこにいるのか分からなくなることもありました。勘違いで違っている所もあるかもしれません。

赤尾展望台 赤尾スカイラインの終点にあり、国賀海岸の摩天崖、天上界、通天橋が眼下に広がる。

このようにして拾うという人形が立っていた。

島後の西郷港にフェリーで戻り、羽衣荘で、「お祭り料理」の夕食をとった。

由良比女が芋桶に乗って海を渡っている時、由良比女の手をイカが引っ張った。そのお詫びとして毎年イカが社前の浜に押し寄せる。10月から翌年の2月まで沢山のイカが押し寄せて皆で、拾うそうだ。

隠岐神社

銅印

佛面竹 節が膨れている。

復元された舞で使う面

御醍醐天皇行在所跡

落差45mの雄滝

那久川にかかる滝で、壇鏡神社の両側に雄滝、雌滝がある。

壇鏡の滝

蓮華会舞は平安時代から継承されて、毎年弘法大師の命日の4月21日に国分寺本堂前庭で奉納される。現在は9種の舞が保存されている。  2007年2月に火災にあい、面、衣装、道具などすべて焼失してしまった。会員の手により復元し、現在に至る。今回はこの2種の舞を見せていただいた。舞は中国やアジア各地の舞踊の影響を受けている。

隠岐太鼓、蓮華会舞観賞(国分寺跡)

亀の手の吸い物

イワガキ

島ソバ

境内社 右から出雲大社、恵比寿宮、龍蛇社

拝殿

相撲場

後鳥羽天皇を祭神とし、社殿は隠岐造りという独特のもので、没後700年を記念して建てられた。

蹴鞠場

玉若酢神社隠岐の島町郡

魚介類の刺身
押し寿司
炊き込みご飯の海苔巻き
田舎煮しめ
酢の物
サザエ、ヒオウギ貝
茶碗蒸し

綱掛けの松。明治までこの参道付近は海岸で松の巨木が随所にあった。上皇の御船をこの松につないだのではないか。松は枯れて細い松がはえていた。

後鳥羽上皇をお慰めするために始まったとされる。巨体(800kg〜1000kg)が角を突き合わせる。本番では角をやすり等で尖らせ勝負する。戦意がなくなった方が負けで、二度と出場できない。観光では、引き分けになるようにする。

モーモードームと内部の試合場

落差35mの雌滝 裏にまわれる「裏見の滝」

仏之舞

龍王之舞

通天橋と摩天崖 アルカリ性玄武岩の溶岩が侵食されてできたもの。7kmにわたって海食洞の断崖が続く。

国賀神社

西ノ島

知夫村 来居港

西ノ島の旅館に戻り、ヒオウギ貝の炊き込みご飯の昼食。ヒオウギ貝は帆立に似た貝で、色が美しい。

この地は皇太子の時代にお参りに来られるところで、お手植えの松がある。雷で折れたり、水害で倒れた木が積まれていた。宮内庁管轄なので勝手に切ったり片付けたりできないそうです。

上皇行在所跡

後鳥羽上皇御火葬塚承久の乱によりこの島に流され、60歳まで19年間ここで過ごした。

本殿

隠岐諸島は島根半島の北方50kmにあり、隠岐群島とも呼ばれる。島後水道を堺に島前(どうぜん)島後(どうご)に分かれる。島前は知夫理島(知夫村)中ノ島(海士町)西ノ島(西ノ島町)の三島からなる。  島後は島後島(隠岐の島町)一島で、付属の小島は約180ある。  遠島の島でもあり、小野篁、後鳥羽上皇御醍醐天皇などが流されている。

イカ寄せの浜

水若酢命神社隠岐島町下西

隠岐は水木さんのルーツ。右はトカゲ岩の石

樹齢1000年とも2000年ともいわれる八百杉

億岐家住宅(おきけ)と資料館

隠岐に流された御醍醐天皇の行在所と伝えられている。明治の廃仏毀釈により、破壊される。昭和25年(1950年)本堂が再建されるが2007年2月全焼する。 学生時代に、山陰旅行の際に、隠岐の島に来たことがある。詳細はすっかり忘れてしまったが、フェリーに乗ってトビウオを見たことや、夏の暑いさなか、お寺で和尚さんのお話を聞いたことを覚えている。この和尚さんのお話だったのだ。  お話によると、隠岐の廃仏は激しく、80あまりあった寺は残らず焼かれてしまったそうだ。実際に、神社は多く残っているが、お寺はここしか寄らなかった。

国分寺跡

牛突き

長さ400m、幅40mに200本余りの老松が植わっている。若狭国から来た800歳まで生きた八百比丘尼が一晩で植えたと伝えられている。泊まった羽衣はこの松原の中にある。 現在は、松くい虫の被害などで、松は減っていて、松くい虫に強い木を植え保存に努めている。

松原近くに20棟ほど残された舟小屋は浜辺の玉石の上に柱を立て、杉皮で屋根を葺いたもの。舟のアパートのようなものです。

屋那の松原

3日目

祭り料理」とは、娯楽の少なかった時代、祭りに親戚一同を招き、唄や踊りの宴会の席でふるまわれた風味豊かな郷土料理で、期間限定で受け付けているようです。

由良比女を御祭神として祀る。

河井湧水 松尾山の麓に湧き出し、昔から万病を治す霊水として神仰をあつめている。

知夫里島の西岸にある赤茶色の岩肌の断崖。1kmにわたる50〜200mの断崖で、凝灰岩の風化で、変色し赤、黄、紫の壁になった。

赤壁

赤ハゲ山 標高345mの山で、土壌が赤く木のないところから、赤ハゲ山といわれる。四つの牧に分け、放牧や穀物生産を一年周期で回転された、輪転式牧畑を行なっていた。牧の境界として石を積んだ。

相撲場

勝田の池と音なしの松

村上家   歌手の西川峰子さんがお嫁にきた家で、行在所を管理している名門。残念ながら今は離婚している。ガイドさんによると、峰子さんは隠岐の島を宣伝してくれたので町民は喜んで、帰ってきてと言っているそうだ。手前のおばあさんが手を振ってくれた。

隠岐汽船 レインボー

レインボーで西ノ島海士町に渡り、旅館で国賀料理をいただく。ベニズワイガニ、イワガキなど海の幸が出た。

古典相撲では、最初に勝った力士は次は負けて引き分けで終わる人情相撲だそうです。真剣な相撲大会では、勝ったほうは土俵に立つ4本の柱を貰い、それに乗って凱旋するそうです。これは資料館に飾ってある柱です。

まず目に入ったのは、土俵でした。ここは相撲が盛んで、色々な相撲が行なわれているようです。本殿は、隠岐造萱葺きで、屋根は出雲大社、庇は春日大社、建物は伊勢神宮の様式で建てられているそうです。

玉若酢命を主祭神とする。景行天皇が皇子を各国に分置し、隠岐の国につかわされた大酢別命の皇子が玉若酢命といわれる。代々、宮司を務める億岐家が国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。

2日目

船引運河をはしる。

我こそは新島守よ 隠岐の海の荒き波風心して吹け

鳥居と満開の桜