徳次郎~日光

2024.3.1~2

前回にはなかった「みや遺産」の看板がある。「徳次郎智賀都神社例大祭付け祭り」が3年に1回開かれ、無形文化財になっている。6ヶ郡の屋台がでて、120個の提灯に火がともされる。と書かれていた。中央分離帯に復元された徳次郎六本杉は切られてしまっていた。

今市宿は日光例幣使道(壬生道)会津西街道の追分を控え、大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒であった。慶応4年戊辰戦争の兵火に見舞われ宿並は灰塵に帰してしまった。

宇都宮市と日光市の堺に標識がある。右手には第四接合井六十六部塔がある。暫く歩くと、左手の木に隠れて「馬頭観音」が祀られている。

しばらく歩くと右側に「新渡神社」がある。御神体は石造不動尊。その向かいに上小池の1里塚があるはずだが、見つけられなかった。その先の左手の民家の庭内に首の欠けた地蔵尊と如意輪観音像十九夜塔がある。
 その先の民家の入り口に「馬力神」が祀られている。

街道沿いの細い道を歩いていくと、左手に「お願い地蔵」がある。享保15年(1730)造立。地蔵尊に自分の患部と同じところに赤い布をつけるとご利益があるという。前には3個の丸石が置かれ、願をかけて1個を持ち上げると、軽ければ願いが叶うというところから「占い地蔵」とも呼ばれる。

嘉永5年(1852)二宮尊徳の指導でが築かれ、上中下徳次郎、西根、田中、門前に水を引いた。川の畔には金次郎像、石祠、記念碑がある。
 橋の向こう側に「傍示杭」があり、「従是西日光御領」と書かれているというが、この石かどうか分からない。見目家の裏庭にある。官軍の日光攻めの時に、名主の当家がここに隠したと伝わる。

東海道線、東海道新幹線、東北新幹線と乗り継ぎ、宇都宮に着いた。タクシーで前回終点の徳次郎(とくじら)バス停付近で下ろしてもらう。右手に「智賀都神社」がある。参道口には「長寿の夫婦ケヤキ」が聳える。推定樹齢700年で、県天然記念物に指定されている。

大沢交差点で国道に合流すると「大沢宿」に入る。元和3年(1,617)家康の日光東照宮遷座に伴い宿駅になった。宿並は度重なる大火により灰塵に帰した。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41件であった。

その先の左手に「第一接合井」がある。東武日光線ガードをくぐると追分地蔵があり、今市宿にはいった。この地蔵尊は大山川の洪水で流され河原に埋もれていた。石工が単なる大岩と思いノミを打ったところ真っ赤な血が流れたという。背中にはこのノミの跡がある。ここは日光例幣使街道との追分である。

国道からY字路を右に入る。すぐ「並木寄進碑」がある。家康、秀忠、家光に仕えた武州川越藩主松平正綱が寛永2年(1625)から20年かけて杉並木を植栽し、家康33回忌に東照宮に寄進した。碑は日光神領との境にあるところから「堺石」と呼ばれた。

宝殿の交差点を過ぎると筋違橋があり、その傍に「麻疹地蔵」が祀られている。この地蔵に願をかけ、筋違橋の橋下をくぐるとはしかが軽く済むといわれた。その先で、国道から細い道に入ると石仏石塔群がある。

左手に「明治天皇七里御小休所碑」がある。明治9年の東北巡幸の際に休息所となった。四方垂木の旧家を残している。

雪解けのぬかるんだ参道を行くと右手に「高尾神社」がある。瀬川村の総鎮守。その先には石仏石塔群があり、地蔵尊や寛保3年(1,743)建立の十九夜供養塔がある。

今市宿

北側に老杉が並び、森友の旧鎮守の森跡と言われる。その先の左に、「桜杉」が立っている。根元から1.5m上の割れ目に山桜が寄生し成長したもの。その先の右に「七本桜の1里塚」があり、両塚を残している。北塚の大杉の根元に空洞があり、「並木ホテル」と呼ばれている。江戸日本橋より33里目。

宇都宮行き」のバスで戻り、「中森友」バス停で降りる。街道を歩くと、右側の個人のお宅の庭に「常夜燈」が立っている。寛政9年(1797)の建立。「男體山」と刻まれている。男体山は山岳信仰の聖地で、日光二荒山神社の奥宮が祀られている。森友交差点の右奥に「滝尾神社」がある。社殿には縁結び子宝の大注連縄が掛けられ、境内には「三春の滝桜」の子供の枝垂れ桜が植えられている。

その先の右に「第三接合井」がある。日光道中沿いに六か所残っている接合井のうち唯一機能している。

左手に「石那田八坂神社御仮屋」がある。石那田八坂神社天王祭のおり、本殿から御神体が遷座する「お旅所」で遷幸の際はここから八坂神社に向かった。本殿は明暦元年(1655)創建の石那田村の鎮守。7月の天王祭は厄除けの牛頭天王祭りで、神輿、彫刻屋台が御仮屋から本殿へ練り歩く。

2日目

大沢宿

七里村の鎮守、「生岡神社」社標があったが、ここからは行けず、行く道が分からなかった。樹齢500年の杉や300年のエゾエノキを見たかった。

杉並木公園を右に見て、歩くと右に「砲弾打込杉」が3本立っている。戊辰戦争の激震地。杉の幹に官軍の砲弾が当たって破裂した跡がある。その先に薬師堂石仏石塔群があり、国道に出る。

現「今市宿緑ひろば」が脇本陣跡明治天皇御小休之碑」がある。

左手に「渡邊佐平商店」がある。天保13年(1,842)創業の銘酒「日光譽」の蔵元。仕込みには日光山麓の名水を使用している。その先の現「鹿沼相互信金」が高橋本陣跡

右側に「水無の1里塚」がある。両塚を残している。江戸日本橋より32里目。左に延命地蔵尊があり、堂内に安置されている。ここで交差点に出たが、新しい道ができていて、ガイドブックの道と合わない。近くの事業所で聞いたが、新しい道を教えられ、どのあたりにいるかもわからず、新しくできたバス停から「東照宮行き」のバスに乗り、今市市で降り、今日の宿に入った。

大沢郵便局の先で、街道は右に入る。右側に八坂神社がある。境内には文政5年(1822)の御神燈があり、鳥居前には2本のスギの根元が癒着した「二又杉」の切り株がある。その先の左側に「大沢の四本杉」がある。四本の杉が四角形に植栽されている。互いに倒木を防ぐ植樹法。

街道沿いの右奥に「王子神社」がある。正治2年(1200)の創建。祭神は源頼朝で、大沢宿の鎮守。境内には推定樹齢240年の大イチョウ(市指定天然記念物)がある。

その先に「金精様」がある。祠内に「男石」が安置される。傍には「金精大明神」と刻まれた石灯籠や「道陸人」と呼ばれる道祖神がある。その先には、三基の石塔があり、中央が青面金剛庚申塔である。

右側に「第五接合井」があり、その先に枯草に覆われた石碑がある。石祠や神道系の馬頭観音である馬力神が祀られている。

角にある「スパ屋」で昼食。サラダだけでも満腹のランチで、このスパは美味しけれど食べきれなかった。

右手に「二宮尊徳先生遺跡100米」の石那田堰案内がある。細い道を入っていくと、十九夜塔がある。祠内に如意輪観音像十九夜塔と地蔵尊が安置されている。

船生街道入り口の交差点右側に「石那田の1里塚」があり、北塚を残している。江戸日本橋より30里目。

相生町交差点に「日光杉並木碑」が立っている。右に入るとJR日光駅があり、JR日光線で宇都宮に出て、新幹線を乗り継ぎ、帰った。日光の山々が雪に覆われ輝いていた。

上徳次郎に入ると、「上徳次郎宿跡」説明版があり、「上町屋台倉」がある。

今市小前歩道橋の左先に「瀧尾神社」がある。天応2年(782)の創建で、今市の総鎮守。社前には今市宿の北木戸があった。右の杉並木に入る入り口に「愛宕山碑」がある。碑の窪みに愛宕山のお札を祀る。入り口には「杉並木」の説明版がある。松平正綱が20年かけて植栽した東照宮参道杉並木である。

福寿草