ねぶた・竿燈と仙台七夕祭り3日間

H.26.08.05~07

秋田市内に移動し、秋田ビューホテルで夕食をとり、バスで、竿燈まつりの会場に向かう。待っている間に、雨は激しくなり、これで祭りができるのかと危ぶまれた。開始の時間が過ぎて、道路に桟敷の椅子が(縁台)が置かれ、座って待っていると、お囃子が聞こえていた。竿燈がやはりビニールが掛けられ横にされて運ばれる。雨の合間に演技をするというアナウンスがあり、小降りになったところで、演技が始まった。ちょうど私たちの前は、小さな子たちの竿燈演技があり、「こんな小さな時から練習をしているんだな。」と拍手を送る。向こうのほうでは大人たちの演技で拍手が起こっている。「どっこいしょう」という掛け声をガイドさんに習っていたが、雨で、いつ掛け声を掛けたらいいのか考えてしまった。 結局、雨が激しくなって、今日はこれだけで終了となった。添乗員さんが、「今日の演技は8分だけだった。」と言っていた。

雨が強くなり、途中でカメラを仕舞った。跳人たちはずぶぬれになりながら、「ラッセラー」の掛け声ではねている。ねぶたは素晴らしかったが、ビニールがかかっているので、迫力は半減で惜しかったです。予定より30分も早く終わり、私たちは宿の八幡平のホテルまで2時間近くバスで走り、着いたのは12時近かった。

角館は、秋田県仙北市にあり、国の伝統的重要建造物保存地区である。現在も藩政時代の地割が踏襲されていて、武家屋敷などの建造物が多数残されている。みちのくの小京都とも言われている。

東京駅に午前10時30分集合し、午前11時8分の「やまびこ163号」で盛岡に向けて出発した。仙台駅で積み込んだ「牛タン弁当」の昼食を車内でとる。午後2時29分に盛岡駅に着いた。待っていたバスに乗りこみ、青森に向かう。

武家屋敷・岩橋家(岩橋氏は、南奥州の名門会津黒川城主芦名氏の重臣であった。芦名氏が1693年、三代にして断絶するに及んで、代わりに角館の所領となった佐竹北家の組下として(86石)廃藩に至るまで仕えた。この建物は、江戸末期に改造され、屋根も茅葺から木羽葺に変わったが、角館の武士の生活を今に伝えている。)

田沢湖は、秋田県仙北市にある湖で、日本で一番深い湖である。直径は約6kmの円形で、最大深度は423.4mで、世界では17番目に深い。(世界一はバイカル湖)湖面標高が249mあるため、最深部の湖底は海面下174,4mということになる。真冬でも湖面が凍りつくことはない。今日は天気が悪かったが、水深に応じて、射しこんだ太陽光によって明るい翡翠色から濃い藍色まで彩る。

午後7時24分、太鼓の音と共に、祭りが始まった。

湖畔には辰子像(船越保武作)が建っている。辰子伝説によると(田沢湖のほとり神成村に美しい辰子という娘がいた。若さと美貌を保ちたいと願掛けし、山深い泉のありかを観音様に教えてもらい、その水を飲んだ。いくら飲んでものどの渇きは収まらず、何時しか龍に変身していた。田沢湖に身を沈めそこの主となって暮らした。)

青森はあいにくの雨で、ねぶた会場の桟敷席に着いた時には結構降っていて、靴を脱いてあがるはずだったが、靴のままでいいということになり、祭りの始まりを濡れながら待った。傘はさせないので、登山用の合羽上下を着こむ。 雨に濡れながら、祭りのタオルや鈴を売る若い子が入れ代わり立ち代わり、桟敷にやってくる。

青森ねぶた祭りは七夕祭りの灯籠流しの変形であろうと言われているが、その起源は定かでない。奈良時代に中国から渡来した「七夕祭り」と古来から津軽にあった精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化され、紙とローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられている。現在、毎年22台ほど製作され、一台2千万円の経費が掛かる。町内では子供ねぶたという小型のねぶたが70台ほど製作され、そのうち数十台が大型ねぶたとの合同運行に参加する。 また、正装した跳人は自由にねぶたに参加できる。

ゆっくりホテルを出て、田沢湖に向かう。湖畔散策の予定だったが、湖を一周し、昼食会場に向かい、「稲庭うどん定食」をいただく。どこに行っても祭り見物の観光バスであふれている。

万延元年建立の藥医門

玄関

2日目

バスで移動し、角館を散策する。角館は桜で有名だが、武家屋敷が残っていて、歴史情緒あふれるまちである。

稲庭うどんは、秋田県南部の手延べ製法の干しうどんであり、日本三大うどんの一つである。秋田藩稲庭村小沢集落の佐藤市兵衛によって始まると伝えられる。

青柳家(当家は天正8年、常陸国青柳和泉守より続く角館を代表する武家屋敷である。3000坪の屋敷は植物園のように草木に覆われその中に6つの資料館があります。)

竿燈の起源は江戸時代の中期とされ、「ねぶり流し」「眠り流し」と呼ばれる睡魔払いのお盆行事だったという説が有力とされている。その睡魔を退治する為に眠り流し「灯籠」を行った。掛け声は「ドッコイショー」で重いものを持ち上げる時の掛け声。計46個の提灯を吊るし、力4分、技6分と言われる絶妙なバランスで、竿燈を手のひら、額、肩、腰などに移し替える妙技が見所である。

平泉の中尊寺を見学する。つい先日中尊寺に来たばかりだったが、前回は駆け足で見て回った讃衡蔵金色堂をゆっくり見ることができた。また前回は咲いていなかった中尊寺ハスの花が咲いていた。

仙台市内に入り、「仙台七夕祭り」を見て回った。飾りつけは綺麗だったが、人出が多く、疲れた。

まず、最初に大小の太鼓を乗せた山車が太鼓をたたいて通る。そのあとを横笛、手平鉦(小さなシンバル)が演奏しながら通る。ビニールのかかった大きなねぶたが引かれてくる。衣装を着た跳人たちが跳ねながらやってくる。ガイドさんに教えてもらった、「ラッセラー ラッセラー」「ラッセラッセラッセラー」の掛け声を合わせる。

雨にたたられた3日間だったが、初めて見る、ねぶた祭り、や竿燈まつりに一緒になって掛け声をかけあい、楽しむ事ができました。TVで見るのとは迫力が違います。できれば、ビニールのかからないねぶたを見たかったし、竿燈はいろいろな技を見たかった。

私たち6人は秋田ビューホテルに歩いて帰ったが、ほかの参加者は男鹿半島のホテルまで1時間30分ほどバスに揺られて帰って行った。

武蔵坊弁慶の墓(文治5年、義経の居城高館焼き討ちされるや、弁慶は最後まで主君を守り、ついに衣川にて往生す。遺骸をこの地に葬り五輪塔を建て、後世、中尊寺の僧・素鳥の詠んだ石碑が建てられた。色変えぬ 松のあるじや 武蔵坊

仙台七夕は、藩祖伊達政宗公の時代から続く伝統行事として、江戸時代より民衆に広まっていったが、明治維新や戦争によって、衰退していった。昭和2年に、不景気を吹き飛ばそうと、商家の有志が仙台商人の心意気とばかりに華やかな七夕祭りを復活させた。

3日目