H.30.11.23~24
藤枝駅北口でバスに乗り、東名吉田インターで県東部から参加者を乗せてきたバスに乗り換え出発する。名城七選という、2日間で7つの城を巡るツアーに参加した。
長浜城
彦根城
岡崎城
岐阜城
犬山城
2日目
清正石
大垣城
名古屋城
名古屋に移動して「金の鯱」で有名な名古屋城に入る。
現在修復中で、石垣に足場が造られていて、中に入れない。新しく造られた本丸御殿を見学しようとするが、待ち時間が50分ということで城内を一周して帰ることになった。織田信長誕生の城と言われる「名護屋城」の跡周辺に徳川家康が天下普請によって築城した。以後は徳川御三家の一つである尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。本丸御殿は二条城と並ぶ武家風書院造りで、大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和初期まで現存していたが1945年、名古屋大空襲で焼失した。戦後天守などが復元され、城跡は名城公園として整備されている。
岡崎城は家康の生まれた城である。1959年に天守閣が3層5階建に復元され、2005年に日本100名城に選定された。城内は資料館となっていて、岡崎城の歴史を紹介している。5階の展望室からは岡崎市内が一望できる。岡崎城の起源は15世紀にさかのぼる。明大寺の地に西郷頼嗣によって築城された。その後、1531年に家康の祖父(松平清康)が現在の地に移して以来、岡崎城と称されるようになった。 東海道を歩いたときに、寄り道してこの城を訪れたことがある。
本丸御殿
西南隅櫓
犬山に移動して、犬山城に向かう。ここも観光客であふれ20分くらい待ってやっと城内に入れた。犬山城は、現在は天守のみが現存し江戸時代までに建てられた「現存12天守」のひとつである。国宝に指定された5つの天守の一つである。(彦根城、松本城、松江城、姫路城)
尾張国と美濃国の堺にあり、木曽川沿いの高さ80mの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城は長江流域の白帝城をうたった李白の詩(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。小牧。長久手の戦いや関ヶ原の戦いで西軍の重要拠点となった。江戸時代、成瀬正成以来、9氏が明治まで城主として居城した。天守が今の形になったのは正成が改修した1617年のころである。2004年まで、日本で唯一の個人所有の城であったが、法人犬山白帝文庫に移管されている。
長浜城は、1573年羽柴秀吉が浅井長政攻めで織田信長から浅井氏の旧領を際に当時は今浜と呼ばれていたこの地を信長の一字をもらって「長浜城」とした。小谷城で使われていた資材や竹生島に隠されていた材木を使い築城を開始した。大坂の陣のあと長浜城は廃城となった。現在の天守は犬山城や伏見城をモデルに模擬復元したもので、長浜城歴史博物館として運営されている。
二の丸三重櫓
七城の見学を終え、ライトアップされた犬山城を後にした。岡崎城、長浜城、岐阜城、犬山城、彦根城は以前に来たことがある。岐阜城、は学生時代で、そのころロープウェイがあったのか覚えがない。名古屋城は名古屋とその近郊に3年間住んでいたが、子育てが忙しく城を見学したことはなかった。ツアーだと、時間が限られて忙しいが、効率よく回れるという利点がある。明治期に壊された城が多く、もったいないことだが、そういう時代だったのだと残念ながら思う。
今回は、大垣城で、夫がバスの場所を勘違いして迷子になるというハプニングがあったが、お互い年を取ったのでカバーし合わないといけないと反省したバス旅行だった。夜の東名を走り、無事に帰途に就いた。
岐阜城へは、七曲口(大手道)と言われる信長やルイス・フロイスが登った登山道がある。距離は約1900m、1時間あまりかかる。登山の格好で来ている人たちもいた。砦の跡や岩を削った跡などもある。そのほかにもいろいろな登り口があるようだ。
岐阜に向かい金華山ロープウェイで岐阜城に向かう。岐阜城は金華山(稲葉山)にある山城。織田信長が斉藤龍興から奪った稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営した。麓に天主と呼ばれる御殿があり、御殿跡は岐阜公園として整備され、現在も発掘調査が行われている。
バスで長浜に向かう。違うツアーでここ豊公園にあるレストランで食事をした時に外観だけ見たことがある。今日は資料館になっている復元されたお城に入った。
玄宮園は、彦根にある旧大名庭園。江戸時代初期に、4代彦根藩主井伊直興が整備したとされる。江戸時代後期には、直中の隠居屋敷として再整備された。往時は庭園北部の水門から琵琶湖に出られた。天守を借景として、中心の池には4つの島と9の橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。時間を気にしながら一回りして、集合場所に急いだ。
ホテルから歩いて彦根城に向かう。彦根城は江戸時代、大政奉還後から廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれていた。天守、附櫓、多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡、琵琶湖国定公園である。江戸時代初期に鎮西をになう井伊氏の拠点として置かれた平城(50m)。山は金亀山(こんきやま)という異名を持つため「金亀城」ともいう。多くの大老を輩出した井伊家14代の居城であった。
大垣に移動して大垣城を見学する。宮川氏築城当時は牛屋川を外堀代わりにし、本丸と二ノ丸のみであった。氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられ、石川忠親によって総掘が加えられ、松平忠良が天守を改築した。1649年に戸田氏鉄によって明治に到る姿になった。多くの遺構が失われたが、本丸の石垣や水門川として外堀の一部が残っている。関ヶ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地になった。
西北隅櫓
玄宮園から天守を望む。