2019.9.28~29

七久里神社はだか祭り

飯田市山本にある七久里神社の「裸祭り」を見に行った。ツアーも出ていたが、ホテルもとれたので、車で出かけた。新東名、環状道、中央道と進み、飯田山本で一般道に出た。付近の人に神社の位置を聞いて、神社に出かける。神社では祭りの準備が行われていた。駐車場の場所を聞いて、細い道を走って駐車場に車を止めた。

七久里神社の主祭神・品陀和気命(ほむだわけのみこと)は第15代応神天皇の御名で、母は神功皇后である。本社の御鎮座は1367年といわれ、この年、後醍醐天皇の御子・宗良(むねなが)親王は本社の御神の前に御幣を奉つて民草の幸福と平和をお祈りされ、「七十路の齢をたもつこれやこの 七久里の社の恵なるらむ」とよんだ。700年にわたって五穀豊穣、無病息災を祈願、感謝する豊年祭りとして継承されている。

境内では、塀が造られ、各々の地区の暖簾がかかっている。ここがその地区の楽屋になるそうです。東平、西平、中平、湯川平、大明神平、北平、南平。 午前の早い時間から各地から来たカメラマンが三脚を立て場所取りをしている。殆どの場所が埋まっていた。

昼食をとりに飯田の町に出る。「あすき」で戸隠そばをいただく。ツアーの参加者もそこで昼食をとっていた。そば、五平餅、揚そば饅頭などをいただき、駐車場に戻る。

これに選ばれた若者は、宵祭りの花形役者となり、奉納煙火の点火一切の責任者になる。三国煙火に火を点じ、降りくる火の粉を浴びて樽を振りながら舞う。これにより宵祭りは「裸祭り」と言われるようになった。 せっかく花火が打ちあがるがうっそうとした神社の木々が邪魔をしてよく見えない。 7つの平が入ってくるが、最後の西平と中平は合同で入ってきた。どこも人が減ってきていて、祭りが行えないところも出てきています。

七つの地区(平)毎に選ばれた力自慢の若者が、前日より身を清め、裸になって腰に注連縄を締め、注連縄をめぐらした御神酒樽を頭上高く上げ、「おいさ」「おいよ」の掛け声とともに振り回す。 拝殿の中で、しばらく踊り、一緒に練ってきた法被姿の人とともにお祓いを受ける。

6人そろったところで、15kgから20㎏の桶を振って、三国煙火の前に勢揃いする。仕掛け煙火が次々と点火され、辺りは火の粉と煙が充満する。

最後は境内中央の筒花火「連合大三国」の下で一斉に火の粉を浴び、祭りを締めくくる。最後に大きな爆発音とともに火の粉が噴出して、境内は闇に包まれ、宵祭りは終わった。

諏訪神社の御柱

三国煙火とは、昔、武田信玄甲斐、信濃、駿河の三国を平定した時に、領土内の名のある神社に、当時のままで使用していた煙火(のろし)に工夫を加えた筒煙火を神前に奉納し、その戦勝を祝うとともに、領土の平安を祈念したため、以来この煙火は三国煙火と呼ばれるようになり、例祭には必ずこの三国煙火を奉納しなければならない習わしとなった。

飯田に向かい、ホテルで一泊する。翌日は、ツアーだと近くの観光地を訪れるが、阿智村にある「満蒙開拓平和祈念館」を訪れた。戦争だけは絶対にしてはいけないと思う場所である。修学旅行で小学生や中学生が訪れるそうだが、戦争をしていたことさえ知らない子供たちが増えているようです。阿智村が全国で一番多く移民を送り出したところだそうです。日本が貧しかった時代です。