H.29.5.6~5.8
世界一太いソメイヨシノ・幹周は537cm、樹高は10m。明治34年には植栽されていたものと思われる。
従来の天守の建っている場所。
岩木山が良く見える筈だったが、今日は見えなかった。
「岩橋家」は会津黒川城主芦名の重臣であった。芦名氏が伊達正宗に敗れ、兄である常陸の佐竹氏を頼り、常州に移る。芦名氏が3代にして断絶すると、角館領主となった佐竹北家に廃藩に至るまで仕えた。この建物は江戸末期に改造され、茅葺屋根も木羽葺に変わった。上がることはできないが、家の周りを歩く事ができる。
樹齢300年以上の巨木で、根回り3mもあり、仙北市天然記念物に指定されている。
早朝、家を出て、新幹線で東京へ。東京駅に集合して、やまびこ43号に乗車する。午前8時54分に出発して、北上駅に11時46分に着いた。バスに乗りこみ、「北上展勝地」に向かう。あいにくの雨の中、展勝地を散策するが、何本かの八重桜や枝垂れ桜以外の桜はすでに咲き終わっていた。
弘前城天守・二代藩主信枚(のぶひら)により慶長16年(1611)五層の天守が築城された。寛永4年(1627)落雷により焼失する。現在の天守は文化7年(1810)に蝦夷地警備の功績を認められた九代藩主寧親(やすちか)が、隅櫓の改築を理由に天守再建に着工し、翌年に完成した。西南隅に三層をなし、御三階櫓と称される、後期層搭型天守である。 現存12天守のひとつであり、現在、100年ぶりの石垣修理のため、天守は本丸の内側に70m移動している。
五所川原は「立佞武多」の町で、駅には頭が飾ってあった。「青森のねぶた」「弘前のねぷた」と共に青森三大佞武多のひとつで、最大で20mを越える山車の運航は壮大である。戦前に起きた2度の大火で、佞武多の設計図や写真が焼失し、巨大佞武多は姿を消したが、1994年に復活した。
「ババヘラアイス」アイスをヘラで花の形に作ってくれるおばあさん。
雫石町の小岩井農場の敷地にある「小岩井一本桜」を見学する。岩手山を背景に小岩井農場の緑の大地に根を張るエドヒガン桜で、明治40年代に植えられたという。今は牧草を収穫する畑であるが、昔は牛を放牧していた。夏の強い日差しから牛を守る「日陰樹」として植えられた。 今日は曇り空で背景となる岩手山は見えず、傍にも寄れず、遠くから眺めた。まだ蕾が多いそうだが、開花状態は遠くからは分からなかった。
北上展勝地は北上川の川畔にあり、東北有数の桜の名所で、珊瑚橋から2kmにわたる桜並木、約150種の桜が展勝地公園内に一万本あるといわれる。川にはこいのぼりが泳ぎ、観光船も運行されていた。
「津軽料理遺産・さくら御膳 けの汁」の昼食をいただく。けの汁とは野菜を細かく切って味噌汁で青森の郷土料理である。
「みちのくの桜」と言うツアーだったが、肝心の桜は殆んど咲き終わっていた。夫は現存12天守の弘前城を見るという目的があったので、満足だったと思う。桜の旅は難しく、咲き終わっていたり、まだ蕾だったり、ちょうどよい時に見るのは大変です。今年の藤枝の桜まつりも桜なしでした。
一路、盛岡に向けてバスは走る。初日に見えなかった岩手山がくっきり良く見えた。岩手山は、奥羽山脈北部にある標高2038mの成層火山である。岩手県八幡平市、滝沢市、雫石町にまたがる岩手県の最高峰である。 盛岡駅から「はやぶさ32号」で東京駅へ、新幹線で静岡、藤枝に着いたのは11時を過ぎていた。
岩木山の南麓、嶽温泉に通じる県道3号線とその周囲に全長20kmに渡り6500本の桜が植えられている。市民によってオオヤマ桜が植えられた。咲き終わり、ところどころで、咲き残っているという状態でした。
「鶴の舞橋」・平成6年に岩木山を湖面に映す津軽富士見湖に、日本一長い三連太鼓橋を架けた。全長300mで、岩木山を背景に鶴が空を舞う姿に見える。青森県産ヒバを使い、使用量は丸太3000本、板材3000枚に上る。吉永小百合さんのJRのCMで有名になったという。知らなかった。ひどい風の中、橋を往復した。
亀甲門を入り、祭りの片づけでごったがえす道を歩き、護国神社の大きな鳥居を過ぎ、賀田橋を渡り、丑寅櫓にでた。この辺りで方向が分からなくなって迷ってしまった。夫は「北の郭」に行きたいと言って、行ってしまったので、私は高校中央口から出て、ねぶた村に帰った。
北の郭北門(亀甲門)現在は搦手門ですが、築城当時、大手門として建設された城門である。現存する4つの城門に比べて,規模が大きく、銃眼がないなどの特徴を持っている。中国の言い伝えによると、北方の守護神として、玄武という亀の神様がいたとされており、城の北側にある門の別名が亀甲門とされたのはこの伝説に由来する。
壁には作家「司馬遼太郎」がこの店を訪れた際の写真が飾られていた。帰ってから「街道を行く・津軽」を読み返したがこの店のことは載っていなかった。
石場家は津軽藩政時代藩内のわら工品を中心に雑貨荒物を造っていた。現在は酒、たばこの販売をしている。この住宅は規模が大きく、手斧で角材に仕上げた大きな梁や指物を使用するなど、豪壮な構えとなっている。
追手門をでて、外濠に沿って歩く。ねぶた村を通り過ぎ左折して亀甲橋に出る。向かい側に古い店があり、「重要文化財、石場家住宅公開中」の幟が出ている。100円払って中に入った。
南内門から出て、杉の大橋を渡る。文政4年(1821)に濠の両側が石垣になるとともに、桧材によって建て替えられた際に、欄干、擬宝珠が付けられた。中濠に沿って羊申櫓、辰巳櫓が見える。市立博物館や植物園の前を通り、追手門に出る。
二の丸辰巳櫓・一,二層は四間四方の同面積で、屋根は入母屋にしている。この櫓で藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列をご覧になった。
東内門外橋(石橋)・城内で唯一石で造られた橋で、1848年にそれまでの土橋を架け替えた。二の丸側の大イチョウの全ての葉が落ちると里に初雪がふると言い伝えられている。
朝一で弘前城に向かう。昨日は弘前中央高校口から城内に入ったが、桜まつりが終わり、かたずけの車が出入りして危ないので、三の丸東門から入った。木型を銅版で包んだほかの門と異なり、鋳鉄製の鯱が揚げられてる。構造は脇戸付き門で、屋根は銅瓦葺。
部屋から岩木山が見える。岩木山は弘前市と西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山で、標高1625mである。その山容から津軽富士と呼ばれている。地元では「おいわきさん」「おいわき様」と呼ばれる。山頂は三つに分かれ「厳鬼山」「鳥海山」は外輪山である。山頂には岩木山神社の奥宮が置かれ、弘前藩の鎮守の山とされた。
集合場所の「ねぶた村」に帰り、岩木山の麓に建つ鰺ヶ沢高原温泉の宿にむかう。
ネズコ・青森県が自生の北限であり、築城以前から自生していたと思われる。この木の皮は昔、火縄銃の火縄として利用されていた。推定樹齢500年、樹高は17.5mである。
明治15年に植栽された「日本最古のソメイヨシノ」弘前公園には樹齢100年以上のソメイヨシノが300本以上あり、その管理技術は日本一と絶賛されている。
「弘前枝垂れ」大正3年に植栽された枝垂れ桜の一本で、似た環境にある御滝桜より開花が3~4日早い。花弁が時々7~8枚になる。普通の枝垂れ桜と違うことから「弘前枝垂れ」と呼ばれる。葉桜でした。
一つ一つの石に番号を付け、石垣を修理する。
弘前市に入り桜まつりが行われている弘前公園に向かう。桜まつりは今日が最終日で、沢山の露店で公園はにぎわっていた。八重桜がきれいに咲いている弘前城の下乗橋までガイドさんと歩き、集合写真を撮り、自由散策となる。
鉄道沿線には、撮り鉄がカメラを構えて列車が通るのを待ちかまえている。五所川原の駅まで30分くらいの旅だった。
公園を散策し、津軽鉄道「芦野公園駅」に集合する。現在の駅舎には、駅員もいた。その後側には、「旧駅舎」があり、カフェになっている。15:34発の「お花見列車」で公園駅を出発する。津軽鉄道の法被を着て、黒い石炭クッキーとどら焼きを売りに来た。どら焼きを買う。
雪の積もった峠を越えて青森県に入る。五所川原市にある「芦野公園」の桜を見学する。芦野公園は湖を持つ80haの公園で、桜1500本、松1800本が湖畔に広がる。作家・太宰治が少年期によく遊んだ所で、地域の行楽地として親しまれている。桜は殆んど咲き終わっていたが、家族ずれが、お弁当を広げ、湖には白鳥のボートが浮かんでいた。
田沢湖は秋田県仙北市にある淡水湖で、日本で最も深い湖である。この深さゆえ、真冬でも湖面が凍りつくことはない。前回訪れた時は曇っていて、湖もどんよりしていたが、今日は天気も快晴で、湖面は翡翠色に輝いている。黄金の辰子像も光っていた。戦前はクニマスが生息していたが、玉川からの強酸性の水の流入により、姿を消した。最近、西湖でクニマスが発見された。
「小野田家」は「秋田蘭画」で有名な小野田直武が出た家で、今宮氏配下から佐竹北家の家臣となった。明治33年の大火で類焼し、その後建てられた建物です。全体的に簡略化され、破風と懸魚が姿を消し、屋根は切妻木羽葺となっている。
「河原田家」は、芦名氏の譜代として、会津から角館に移った。芦名家断絶の後、佐竹北家に仕える。明治以降電気事業の草分けとなり、藥医門の表札の下に、「電話一番」の古びた札がかかっている。現在の建物は、明治中期に建てられた物だが、間取りは武家屋敷の形式を踏襲している。主屋の屋根だけが町屋風の切妻木羽葺なのは、防火対策のためのようです。
「古泉洞」という蕎麦屋さんがあり看板に(この建物は、江戸時代の寺子屋で、裏町200m先から移築したもので角館で一番古いといわれている。)と書かれていた。
「石黒家」は佐竹北家に仕え、財政関係の役職についていた。茅葺屋根の母屋と覗き窓の付いた黒板塀、正面玄関と脇玄関を備え、武家の高い格式を示しながら、簡素なたたずまいとなっている。案内人の説明を聞きながら、母屋を拝見し、奥の資料室も見学した。現存する武家屋敷の中で格式が一番高い家柄の屋敷である。
秋田県に入り、仙北市角館地区の「武家屋敷街」を散策する。こちらも桜で有名だが、咲き終わっていた。みちのくの小京都と言われている。一昨年の夏訪れている。
2日目
「盛岡石割桜」を見学する。盛岡地方裁判所内にあり、大きな花崗岩の割れめから育った直径1.3m、樹齢360年をこえるエドヒガン桜であるが、これももう咲き終わっていた。 家老の屋敷の庭にあった巨石が落雷により割れ、その割れ目にエドヒガン桜の種子が入りこみ、成長したという伝承が残っている。樹勢の衰えが目立ったため、2000年に樹木医による本格的な治療が行われた。 満開の桜の写真が飾られていたが、数年前に車窓から見た時は咲いていたと思います。
二の丸羊申櫓・防弾、防火のため土蔵造りになっている。現存する櫓はすべて三層建てである。羊申は南西に当たる。
丑寅櫓・二の丸の東北を守る櫓で、城郭に取り付く敵への攻撃、物見のために造られた。軒下や出格子の木部は素木のまゝで、独特の美しさを見せている。
3日目
二の丸東門与力番所・城内の重要な場所の見張り所として配置された。
東内門・南内門と共に二の丸の現存する二つの城門となる。