H.28.04.10~12

釜蓋神社は、南九州市にある勝負事に御利益がある神社である。正式名称は「射盾兵主(いたてつわものぬし)神社」参拝方法は、頭に直径30cmほどの釜蓋を乗せ、鳥居から賽銭箱まで8m程を歩いて参拝する。蓋を落とさずに歩けたら願いが叶うというもの。戦前に、蓋をかぶって参拝すると、敵の鉄砲の玉が当たらず、無事に帰ってこられるという言い伝えが広まり、始まった。やってみたが、一歩も進めなかった。

乳岩・祭神(ヤフキアエズノミコト)(神武天皇の御父君)の母君が御祭神のために両乳房を洞窟内に置いて行かれたと伝えられ、その乳岩からでるお乳水は今も絶え間なく玉のような石清水を滴らせ、安産、育児、身体健全、心願成就が叶うことで知られている。

南九州3日間

神庭

洞窟の中に朱塗りの本殿が建てられている。社伝によると崇神天皇の代に創建し、桓武天皇の勅命により、神殿及び仁王護国寺を再建した。中世期には、「鵜戸六所大権現」江戸期には「鵜戸山大権現」として篤い信仰を得ていた。現在の本殿は1711年飫肥藩主伊東祐実が改築したものを、明治23年に大修理し、更に昭和になって朱漆多ものである。

3日目

神犬石・八丁坂から本殿を守護するように見える。

示現流・自顕流展示室

正門

早朝家を出て、4時15分に藤枝駅でお迎えのジャンボタクシーに乗る。静岡で2人乗り込み、羽田に向けて出発する。羽田空港には8時前に着いた。 9時40分発のANAで鹿児島空港に11時25分に着いた。待っていたバスに乗りこみツアーが始まりました。総勢39名の参加者でバスは満席です。

真名井の滝・高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる滝である。峡谷の崖上は自然公園になっていて、そのなかにある「おろころ池」より流れ水が流れ落ち、真名井の滝になっている。神話によれば、天村雲命(あめのもらくものみこと)が天孫降臨の際に、この地に水が無かったので、水種を移した。これが天真名井として湧水し、滝となって流れ落ちるといわれている。 

高千穂峡は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある五ヶ瀬川にある峡谷である。阿蘇カルデラを作った火山活動によって噴出した軽石流が五ヶ瀬川を峡谷沿いに流れ下った。この火砕流堆積物が冷却凝固し溶結凝灰岩になり、柱状節理が生じた。五ヶ瀬川の浸食によって再びV字峡谷になったもので、高さ80mから100mの高さの断崖が7kmに渡って続いている。

仙人の屏風岩(70m)・対岸に広がる屏風面の岩を屏風岩という。

天手力男神が天岩戸に手をかけて天照大御神を岩戸からお出しになり、岩戸をもちあげ下界に投げた。放り投げた先が戸隠山であると日本の神話に昔から語り継がれている。

青島宮崎市の南東部海岸にある島である。周囲860m、高さ約6mの島で陸繁島になりつつある。青島海岸とは弥生橋によって繋がっている。ホテルから20分くらいということで、散歩がてら歩いて行ってきた。周囲は「隆起波食台」と呼ばれる地形が形成され、巨大な洗濯板のように見えることから「鬼の洗濯板」と呼ばれる。島には、枇榔の大群落がある。

2日目

磯工芸館(旧集成館)と島津家別邸の仙巖園(旧磯庭園)を見学する。(鹿児島県鹿児島市

七つが池・十社大明神(三毛入野命)が散歩されていると、水鏡に美しい娘が映った。この娘こそ鬼八が奪ってきた鵜ノ目姫であり、十社大明神が姫に一目ぼれされた所である。岩のうねりの間からは泉酒が出ると言われている。

おう穴・岩盤からなる川床に出来る円筒形の深い穴をかめ穴と言う。川床の岩盤の割れ目に渦巻きを生じ、そのエネルギーによって穴ができ、さらにその中に入った小石によって岩盤を削るため、深い円筒形の穴ができる。

ホテルを出て、鹿児島半島最南端にある「長崎鼻」に着いた。龍宮神社を参拝して、灯台のある長崎鼻に向かう。浦島太郎が竜宮城に旅立った岬といわれ、「龍宮鼻」ともいわれている。龍宮神社は乙姫様を祀っている。また、夏にはウミガメの産卵地にもなる。

仙巌園・万治元年(1658)島津家19代光久がこの地に別邸を築造した。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた庭園です。園内には奇岩「千尋巖」や琉球王国献上の楼閣「望嶽楼」など、外国と交流した海洋国家薩摩らしい見どころがある。

鶴嶺神社・島津家代々の当主と家族を祀る神社

薩摩富士(開聞岳)標高924mで、鹿児島半島の南端に位置する。

槍飛・ここは、五ヶ瀬川のなかで一番川幅の狭いところです。天正19年(1591)県の領主(今の延岡)高橋元種に高千穂が攻められた時、三田井城が落ちた時、城を脱出した家来がここまで逃げたが橋が無いので、槍の柄を手前の岸についたものは飛渡り、向こう岸についたものは川の中に転落したと伝えられ、ここを槍飛びと言うようになった。

神楽宿で高千穂郷土料理を頂く。室内には、神楽を舞う「神庭(こうにわ)」がある。 野菜の煮しめ、古代黒米を使った素麺うどん、とうきび飯、油味噌などの「鮮食物語」と銘打った郷土料理を頂いた。

パワースポットの太鼓橋

天岩戸神社・岩戸川対岸の断崖絶壁にある「天岩戸」とよばれる岩窟を御神体とする。この岩窟は日本神話に登場する「天岩屋」と伝えられる。 本殿は無く、拝殿の後ろにある洞窟が本殿となっている。木が生い茂って良く分からなかったがあそこかな?と思った。

桜島大根と桜島

薩摩の小京都・知覧に移動する。特攻平和会館と武家屋敷群のうちどちらかを選ぶということで、特攻会館を選んだ。
 知覧は昭和16年、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開校し、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習い士官らが、操縦訓練を重ねていた。戦況悪化により、昭和20年に本土最南端の陸軍特攻基地になり、20歳前後の若い隊員達が満州・日本各地から集結し出撃したところです。隊員たちの当時の真の姿や遺品、記録をとおして戦争のむなしさ、平和のありがたさ、命の尊さを訴え、特攻基地の一角に知覧特攻平和会館を建設した。 

神話の里・高千穂を堪能し、バスに乗りこみ熊本空港へバスは走る。渋滞も無く、バスは順調に空港について、17時20分発の便に乗り、羽田空港に19時に着いた。行きと同じタクシーが待っていてくれて、3時間余りで藤枝に着きました。

鬼八の力石(約200トン)・高千穂神社の祭神・三毛入野命は弟の神武天皇と共に大和に行かれますが、再び高千穂に帰り、悪行を働いていた鬼八を退治し、この地を治めた。この時、鬼八が三毛入野命に投げ、力自慢をした石と言われている。

上から鉄橋の高千穂大橋、コンクリート製の神都高千穂大橋、石橋の神橋

古代イチョウ・長野県諏訪と2か所しかないといわれ、特異な葉の形をしている。

島には、青島神社がある。明治以降は一般に公開されているが、今日はもう遅いので閉まっていた。青島神社は、彦火火出見命が竜宮から御帰還された御宮居の跡として「彦火火出見命」「豊玉姫命」「塩筒大神」の三神をお祀りしている。

神門

鵜戸神宮は、宮崎県日南市にある神社で、旧社格は、官幣である。日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8,5mの岩窟内に本殿が鎮座し、参拝客は崖に沿って作られた石段を下りる。

旧山本猪平家・飫肥の実業家であった山本猪平が明治40年頃に建築した商家の本宅でほぼ当時のまま残されている。飫肥の商人屋敷を今に伝える貴重な物である。 またこの土地の南半分は町役人であった小村の父の屋敷であった。飫肥商社事件で没落したため、山本猪平が買収してこの屋敷を建てた。

旧伊藤祐正家住宅・小村記念館を含む屋敷地は、江戸時代の初めは、松岡八郎左衛門、江戸末期には、川崎宮内が居住していた。いずれも上級家臣で、明治以降は藩主であった伊東家の分家が住んでいた。江戸時代の武家屋敷の様式を良く残している。

松尾の丸・飫肥城は周囲2,7kmの城内に松尾の丸、中の丸、本丸の廓を配した平城である。この松尾丸は、飫肥の100年杉を使用し、昭和54年に再建された。蒸し風呂は九州ではここでしか公開されていない。

城下町「飫肥(おび)」は天正16年明治初期まで280年間、飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄えた。重要伝統的建築物群保存地区に選定されている。

宮崎県日南市に移動する。

黒酢本舗「桷志田(かくいだ)」は良質な玄米と麹、福山町の湧水で、伝統的な製法によって作られている。2万ものカメが並んでいた。
 清冽な水が湧き出る福山の地に、江戸時代の上級武士が開いたとされる「隠し田んぼ」から転じた「角志田」と言う地名が残っており、それが名前の由来となった。

国指定特別天然記念物・ソテツ自生地

今日の宿は指宿温泉・指宿いわさきホテル。ホテルに入り早速「砂蒸し風呂」に出かける。ここはホテルの中に砂場があり、今日は天気が悪かったので、テントの中だったが、通常は屋外にあるようです。浴衣に着替え、砂の上に横になり、砂をかけてもらう。砂は結構な重さで、少し動いたくらいではびくともしない。15分位我慢していると汗が出てきた。普通10分から15分ということで、横の露天風呂で砂を落とし、シャワーを浴びた。初めての経験だったが、面白かった。

集成館・幕末、藩主斉彬はこの地に東洋最大の工場群「集成館」を築く。製鉄、大砲、造船、貿易、薩摩切子などのガラス、薩摩焼の研究、製造を行い、写真、電信、ガス灯などの実験・研究を行った。29代忠義は父久光とともに機械工場(現尚古集成館)を建設し、日本初の洋式紡績工場「鹿児島紡績所」を設立した。「明治日本の産業革命遺産」は2015年に世界文化遺産に登録された。

薩摩藩で御流儀とされた「示現流・薬丸自顕流」の剣術を映像で展示している。

洞窟入口

亀岩

錫門・薩摩では良質な錫が採掘された。その象徴ともいえる錫板葺きの門。正門として造営され、27代斉興の庭園拡張により中門となった。朱塗りの柱と白い錫屋根のコントラストが特徴である。かっては当主と嫡男のみが通ることができた。

4月12日に帰ってきて、14日に「熊本地震」がありました。地震はどんどんひどくなり、空港も閉鎖、新幹線や在来線も動かず、道路も寸断されている様子がニュースで流れています。何気なく旅行していましたが、もしかしたら巻き込まれていたかもしれないと思うと、怖くなりました。熊本地震が一刻も早く収束し、復興することを願っています。今回は熊本は空港を利用しただけでしたが、瓦や鯱の落ちた熊本城や倒壊した阿蘇神社を見ると、地震の恐ろしさが身に沁みます。東海地方は地震が来ると言われて数十年経ちました。一応備えはしていますが、年々忘れかけています。もう一度再点検をして、こないことを祈って、準備をしたいと思います。

槍飛橋

天安河原(あまのやすかわら)は天岩戸神社本宮から岩戸川に沿って徒歩で10分のところにある。天照大神が岩戸隠れのため天地暗黒戸なり、諸神がこの河原に集まり神議されたと伝えられる大洞窟がある。奥行き25m、間口30mで、別名「仰慕ヶ窟」とも言われている。

神楽殿

招霊(おがたま)の木(日本神話においては、天照大御神の天岩戸隠れにおいて天岩戸の前で舞った天細女命が手にしていたとする説がある。榊の自生しない地域では玉串として古くから代用され、神木とされ神域に植栽される。

天気予報に反して朝から雨が降っている。バスで約2時間程走り「クルスの海」に着くころには雨は上がった。展望台から見るクルスの海は岩の形状が「叶う」と言う字に見えることから、ここを訪れると願いが叶うという不思議な言い伝えが生まれた。

楼門

鵜戸山八丁坂

今はトンネルが掘られ、少し楽になっている。

商家資料館」「旧高橋源次郎家」にも行きたかったが、時間が無くて行くことはできなかった。

屋敷の隣には、「小村寿太郎生誕地」碑が立っている。昭和8年に山本家が土地を寄付し、旧飫肥関係者の寄付によって、石碑が建てられた。飫肥城近くに移築された「小村寿太郎生家」がある。

小村記念館・日本外交の礎を築いた外交官・小村寿太郎侯の遺徳を顕彰し、国際交流、教育文化活動、世界に飛躍する人材育成に寄与することを目的に設置された。小村侯の業績を紹介した資料なども展示されている。

大手門のそばにある豫章館(よしょうかん)・明治2年に伊東祐帰が飫肥藩知事に任ぜられ城内よりこの屋敷に移った。その時邸内にあった樹齢数百年の大楠にちなんで、豫章館と名付けた。母屋は明治初期の建物で、飫肥に残る古い屋敷のなかで最高の格式である。

旧本丸跡・百年を越す飫肥杉が林立している。

飫肥城大手門

飫肥城資料館

鹿児島港から桜島フェリーに乗り、錦江湾をクルーズし、桜島港に着いた。3,4kmを15分で結んでいる。あっという間に着いてしまった。、桜島展望所で、昼食をとる。

御殿・島津忠義が使用した部屋や30代忠重が幼少期に暮らした部屋などがある。

望嶽楼

夕食は、ホテルで中華を頂いた。

青島神社は「海彦、山彦」伝説発祥の地でもある。