三河湾ぐるり周遊

H.26.03.09

坂を上って行くと途中に、神明神社がある。「伊勢神宮と篠島」と書かれた説明板によると(篠島の神明神社は、伊勢神宮ご遷宮の折に、下賜される御古材を使い、20年ごとにお社の造営、遷宮が行なわれてきました。昭和49年には、内宮の東宝殿、平成7年には西宝殿の御古材が下賜された。また同時に、神明神社のお社は、島内の八王子社に新たに移されます。この八王子社のお社も20年たちますと、島内に点在する小さな社に姿を変え、島民の信仰を集めています。伊勢神宮で、20年使われた檜は、神明神社で20年、八王子社で20年、さらに多くの小宮となって20年と、60年にわたり大切に使われています。)立派なお社でした。

三河湾は、渥美半島と知多半島に挟まれ、東側は渥美湾、西側は知多湾となる。南知多町の師崎、日間賀島の尾張大磯灯標、伊良湖小山山頂の三点を順に結んだ直線と陸岸によって囲まれた海域である。 今日は、この海域にある、日間賀島、篠島、佐久島、竹島四島の周遊に出かけた。

境内にある神社を御参りした後、海側の階段を下り、竜神岬に出る。竹島遊歩道を歩いて、鳥居まで戻りました。(島を1周する遊歩道は約680m)遊歩道を半分だけ歩きました。

竹島は、標高22m、周囲約680m、面積は1.9ha.。対岸とは竹島橋によって結ばれ、対岸とは400m離れている。全域が八百富神社の境内で、竹島弁天は日本七弁天のひとつとされている。橋の手前には、八百富神社遥拝所があり、強風のなか、387mの竹島橋をわたる。橋を渡り、101段の石段を上がる。

宇賀神社(宇迦之御魂神)食べ物を主宰する。

大黒神社(大国主命)福の神・商売繁盛

千歳神社(藤原俊成卿)長寿・勉学。蒲郡開拓の祖で藤原定家の父。琵琶湖の竹生島から竹島弁天を勧請した人

八百富神社(市杵島姫命)海運・縁結び・安産

佐久島は、三河湾のほぼ中央に位置し、面積は1.81kuで、三河湾の離島中で最大である。町並みは、東西二つの港を中心に扇状に広がり、大正時代から昭和にかけて建てられた民家が多い。西港付近には、潮風から家を守るため、外壁にコールタールを塗った民家が多い。大きな島だが、人口は300人ほどしかいない。主に島の東側に住んでいる。船は西港にはいった。

竹島周辺には、蒲郡クラシックホテル、海辺の文学記念館、、竹島水族館などがあります。また、竹島園地(俊成苑)には、藤原俊成像が立っています。時間になったので、バスに乗り、藤枝に帰りました。今回の旅の途中に3回ほどお土産ものセンターに寄ったが、どこも古くて寂しげでした。今は、新しい「道の駅」に、観光客が移ってしまったようです。駆け足で4島をまわりましたが、貸切船で効率よく周ることができました。ゆっくりとのんびりと訪れたいような島もあり、観光化された島もありました。

船を下り、昼食場所の民宿まで歩く。島弘法と書かれたお地蔵さんが目に付く。明治の海難事故をきっかけに、島を囲むように88体のお地蔵様が安置されている。また、通りには、小女子が沢山干されていました。

集合時間が迫ってきたので、港に急ぎます。途中、小女子を茹でる工場があり、生の小女子が大きな機械で茹でられていました。コウナゴとは、イカナゴの別名で、チリメンジャコとは違います。

坂を下りて、前浜(ないば)サンサンビーチを少し行くと、八王子社がある。篠島では、1月3日の夜に、八王子社のご神体が神明神社までお渡りになる「お渡りさま」という神事がある。この間、島中の灯りが消され、人々は神渡りの儀式が終わるのを待ちます。ある年、犬がけたたましく啼いたところ、その年は、しけが続き、漁に出られない日が続いた。そんな時、神社の狛犬が転げ落ちた。神様は犬が嫌いに違いないと、狛犬をよそに移したところ、時化はやみ、豊漁が続いたという。 八王子社の狛犬は、医徳院の境内に移されているそうです。八王子社のご神体は、獅子頭で、伊勢神宮領だった頃に、奉納され、御神宝として、大切に保存されているそうです。

日間賀島

日間賀島は、面積0.77kuで、人口は約2000人である。「たことふぐの島」という観光PRを行なっています。夏場の蛸、冬場のふぐを観光の目玉にして、海水浴客や、釣客が多い。見るべきのものがなく、観光客相手のみやげ物屋を梯子する。蛸を鉄板で挟んで伸ばした、まさに「蛸焼き」を買い、食べた。焼きたてで美味しかった。蛸飯に入れる、乾燥蛸が干してあり、店先には、フジツボ付いた蛸壺が置いてあった。

竹島は、昭和5年に、国の天然記念物に指定された。65科238種の暖地性植物が自生し、林床には、キノクニスゲが生えていて、日本の分布の北限である。陸地に接近(約400m)した島で、植物区系を異にする例は東海で唯一である。

焙烙岩

竹島から橋を望む。

島の最南端の竜神岬。沖に見えるのは三河大島で、晴れた日には、渥美半島も望めます。

西港にある崇運寺は、1192年に、後鳥羽上皇の第七皇子の青蓮院宮によって建立されたと伝えられる。1600年、会津の上杉景勝を攻めるため大阪城を出陣した徳川家康は、6月18日に、石部、19日に関地蔵、20日に四日市場に至り、その夜船で三州佐久島に着き、田中吉政の饗応を受けた。この際、家康が泊まったのが、崇運寺と考えられます。日没時に打たれる梵鐘は、「佐久八景」のひとつに数えられている。

古民家を買取り、整備して暮らしている方の家にお邪魔した。前は公開していたらしいが、しばらく止めていたようです。今日は、見学させていただきました。古い焼き物や、古道具、新しく作った民芸品を見せていただきました。

黒壁の家の間を通って、大浦に出る。アート作品「おひるねハウス」がある。梯子がついていて、上のほうにも上がれるようになっている。もう少し暖かければ、ここで、おひるねも悪くないです。

築100年の大葉邸がある。鍵を開けてもらって、中に入った。50年も空き家になっていたそうで、「佐久島空き家計画」と書かれた案内板によると(2002年からアーティスト平田五郎氏によって庭と室内が作品化された。)とあった。

日本の原風景が残る島」の看板が建っている。海岸にも黒く塗られた外壁の家が立ち並び、ワカメが干してあった。

急な坂や階段を下りて行くと、篠島漁港に出ました。

神明神社に行くつもりが、城山に上ってしまった。城山と刻まれた石碑の階段を上ると、広場になっていて、いろいろなものが祀られていました。ここは、島で一番高いところです。

昼食の後、島内を散策する。海岸には、小女子が沢山干してある、聞いてみると、2〜3時間干すだけだそうです。半生状態ですね。

昼食は、蛸飯と採れたてワカメのしゃぶしゃぶでした。

黒壁集落を見ながら、港に帰ります。

弁天サロンで休憩します。3月ということで、つるし雛や雛人形、その他人形がたくさん飾られていました。

天草が干してあった。

篠島

バスは、各地で参加者を乗せ、牧の原サービスエリアで、清水方面の参加者をのせたバスと合流した。参加者は35名だった。師崎港から貸切高速船に乗り、篠島に着いた。港には、「おんべ鯛とふぐの島 ようこそ篠島に」の看板があった。篠島は、面積0.94kuで、人口は約1700人。古くから伊勢神宮と関係が深く、三節祭には、干鯛(おんべ鯛)の神饌が行なわれる。

少し戻って、矢印に従って歩いていくと、「石垣古墳(しがけ)」がある。案内板によると、(昭和41年の調査によると、佐久島の古墳31基のうち、石垣第1号古墳である。これらの古墳は海部族の有力者の墓と推測される。2号古墳がここより南10mの所にあったものと推定されるが、現存せず、痕跡のみである。時代は古墳時代後期(7世紀頃)円墳で、高さは1.5m、全長4.1m、横穴式石室である。)

山頭火篠島八句

佐久島

竹島

八百富神社遥拝所

八百富神社の鳥居

竜神岬

竜神岬

竹島と竹島橋

生の小女子