チャック・モールがこんな所に
メリダのホテルを出てメリダの東120kmにあるマヤ文明最高傑作といわれるチェチェンイツァ遺跡に向かう。チェチェンイツアは、200年以上にわたり、ユカタン半島の芸術、宗教、経済の中心であった。
7日目
セノテ ユカタン半島は密林の湿地地帯で、川はどこにも見つからない。石灰岩質の土壌のため、降った雨はすべて地中にしみ込み、地下に水の溜る空洞を造る。その空洞の上の地面が陥没してできたのが、セノテだ。旱魃や疫病が流行ると、遠い地方からも巡礼に訪れ、この泉に生贄や財宝を投げ入れた。1911年、トンプソンが水底を調査した結果、21体の小児、13体の成人男性、8体の女性の骨が出てきた。黄金や翡翠も発見された。
旧チェチェンイツァ
新チェチェンイツァ
生贄が投下された祭壇跡
泉(セノテ)
11時過ぎには、ホテルを出て、カンクンの空港へ。メキシコシティまで約2時間30分のフライトで、メキシコシティで5時間近く待ち時間があり、21時50分発の飛行機で、ティファナ経由で成田空港まで12時間35分のフライトでした。3月13日の朝、6時45分に日本に帰って来ました。メキシコは遠かったです。
ジョー君、海が青かったですね。
カンクンはユカタン半島の突端に位置し、カリブ海とラグーンに挟まれた20kmの細長い長洲がリゾートとして開発された。世界でも有数のリゾート地で、最近日本人も、ここで結婚式を挙げたり、ハネムーンの場所としても人気が高いそうです。 朝食ご、海岸に出て、カリブ海の水に足を浸し、プールで泳いだ。
8日目
聖なる泉セノテ。チェチェンイツアのセノテはユカタン半島最大で、神話に彩られた聖域でもある。日照りの時期に、若い処女が投げ入れられ、また生贄としてさまざまな貢物が捧げられ、その底を調査した際には、多くの貴金属製品が見つかった。中には、南米コロンビヤやパナマからの渡来品があり、当時の交易状況も判明した。
球戯場は、全長150mあり、メソアメリカ最大。マヤの球戯場は娯楽ではなく、宗教儀式だった。ゲームは生ゴムのボールを壁の上にある輪にくぐらせて競われた。手は使わず、上腕や腰でボールを打つ。勝ったチームのキャプテンが生贄として捧げられた。(敗者という説もある。)宮殿の2階で首を切られ、体は下に蹴落とされ、皮をはがれる。神官がその皮を身にまとい、それを脱ぐという儀式である。それは、再生するということらしい。
教会 建物の中央には守護神パカプ神のレリーフが残されておりここのチャックのマスクからは昔マヤの人間が男根崇拝をしていた名残が伺える。
カラコルは、旧チェチェンイツァ内にあるが、建物はトルテカ・マヤ時代に改築された。上部にあるドームは、マヤの天文観測台だったと推測され、9mの露台の上に、高さ13mの観測台が載っている。カラコル(カタツムリ)は観測用の3つの窓があり、南には子午線に向かう窓、西南には月没の最北線を見る窓。西には、春分、秋分の月没の最北線を正確に観測できる窓が造られている。 マヤ人達は、月、太陽、星の運行を肉眼で観測することにより、正確な暦を作り上げた。マヤ人は太陽暦の1年を、365.242日と計算していた。これは、すべて農耕や戦争のためであった。
ガイドのチバさんが、支倉常長の話をしてくれた。支倉は、仙台藩伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団の大使として、太平洋、大西洋を渡り、ローマ法王に謁見した人物である。その際に、メキシコのアカプルコに上陸しメキシコシティを通り、ベラクルスから欧州に渡った。帰りもメキシコ経由で帰っている。遠藤周作の「侍」という本は彼を主人公に書いているという。 1899年、日本から36名の入植者が入るが、コーヒー栽培は失敗した。その後、苦労して、成功した人が現れ、現在18000人の日本人が住んでいて、その頑張った日本人のおかげで、日本人は信頼できると思われている。と言っていました。
今回の旅行の最後の晩餐は、蟹のケサディージャ、コーンクリーム・スープ、クエのグリル、スズキのピーナッツソース、フィレ・ステーキ でした。 シャンパンで乾杯です。
お世話になった、スーパー・添乗員のナカシマさん
内壁の基盤部分には、勝利者が斬首され、流れる血潮が7条のヘビとなってほとばしり、その先から植物が芽を出そうとしている図が描かれている。
ツォンパントリとは、「頭蓋骨の城」という意味で、球戯場の隣にあるこの台座は、生贄の首を民衆にさらす場所であった。伝統的なマヤ文化とは異質のもので、中央高原文化の影響が大きい。壁一面に頭蓋骨が彫り込まれている。
ジャガーと鷲の台座。鷲やジャガーのレリーフが残っている。この上で踊ったり歌ったりしたのだろうか。このような台座が13個見つかっている。
尼僧院は、カラコルの南側にある。高さ20mの基壇とその上に沢山の部屋がある建物の2層構造。トルテカ文化の影響を受けいていない純粋なプウク様式のデザインで、おびただしいチャック像が目に付く。特に、マヤ古典期には、この長い鼻の雨神が人々の信仰を集めていた。
チェチェンイツァの歴史と文化 チェチェンイツァとはマヤ語で「泉のほとりのマヤ人」という意味である。ユカタン半島最大のセノーテ(聖なる泉)を中心にして、この都市が繁栄したことから、そう呼ばれた。遺跡群はマヤ独自の特徴が顕著な6世紀のマヤ古典期に属する「旧チェチェンイツァ」とトルテカ文化と融合した10世紀以降の後古典期の属する「新チェチェンイツァ」のふたつのエリアに大別される。7世紀には隆盛を誇ったチェチェンイツァだが、その王族はこの都を去り、歴史の舞台から完全に姿を消した。古代のマヤ人は暦により、定期的に遷都を行なっていた。10世紀になり、マヤ人は再び、この地に新たな都を築いた。中央高原の覇権を握ったトルテカ人の影響が見られ、新遺跡のモチーフにその影響が現れている。それまでのチャック神をひたすら祀りあげた素朴なモチーフに、好戦的な兵士の像や生贄とされたドクロ、トルテカの象徴であるククルカン(羽根の生えたヘビ)が新たに描き加えられた。その後軍事国家に変貌し栄華を極めたが、13世紀の初めに、マヤパン族によって滅亡した。
セノテを後に、3時間バスで走り、カリビアン・リゾート、カンクンを目指す。途中、ドルフィン・ビーチで写真を撮るために、下車する。左手には、ラグーナ(潟)がひろがる。 本日のホテルは、オールインクルーシブ・ホテルで、どこで何を食べても、飲んでも、部屋の飲み物の全て含まれている。実際、そんなに食べたり、飲んだり出来ないので、もっと何日も滞在したかった。
ヤギの乳のキャラメルをウエハスで挟んだもの(今日のお菓子)
ユカタン料理のバイキングの昼食をとり、チェチェンイツアから3km東にあるイク・キルのセノテで泳いだ。
一度は見てみたいと思っていた、マヤ遺跡を見ることが出来て、楽しい旅行になりました。難を言えば、チェチェンイツアの遺跡に上ることが出来なかったことです。他の遺跡は、殆ど上に上がれたし、人類学博物館では写真も撮らせてもらいました。この博物館はもっとゆっくり1日かけてみてまわりたいところでした。(余談ですが、ネットでこの博物館のDVDの紹介があり、千葉さんが出ていました。) 驚いたことは、2歳と5歳の子供が参加していたことです。とてもいい子達で、良く歩くことには驚きました。遺跡も全部上まで登りましたね。 良く歩き、良く食べ、泣かないおりこうさんでした。皆、小さい子たちが頑張っているからと、遺跡の階段を上っていました。ここちゃん、ジョー君ありがとう。また、何処かで逢いましょうね。
救命胴着を借りて、セノテで泳いだ。紫色の魚が泳いでいる泉は水温20℃と低く長時間水に入っていられない。少し泳いでは上がり、また泳ぐを繰り返し、楽しんだ。上からは、水が滴り落ち、とても幻想的で、楽しめました。
千本柱の間を通ってまだ修復が終わっていない地区に入る。
ククルカンが下りてきた時の写真。ガイドによると、「10回以上来ているが、完全なのを見たのは、1回だけで、曇ったり、雨だったりして、何も見えなかったこともあるそうです。折角来たのに、何も見えないのでは。
右手に刀、左手に首を持った武人と骸骨が彫られたボール、それを取り囲む選手の図などがある。
ピラミッドは巨大な暦 エルカスティージョはそれ自体マヤの暦を表している。四方の階段は91段づつあるので、91×4=364 これに頂上の1段を加え1年365日となる。9層の基壇で構成され、それが中央階段で2分されるため9×2=18、これは1年が18ヶ月の分けられていたハアブ暦の月数を表している。さらに、各基壇には、パネル(凹み)部分が1面につき52ある。これは、農耕に用いられたハアブ暦(1年365日)と祭事用のツォルキン暦(1年260日)の二つが重なる52年の「暦の周期」を正確に示している。この周期は、日本の還暦を思い起こさせる。
エスカスティージョはスペイン語で、「城」「城壁」という意味で、チェチェンイツアの求心的な神殿。9世紀初頭に完成したといわれるこの神殿は、高さ25m、9層の基壇を持つ建造物である。メソアメリカのピラミッド様式の神殿は、普通正面に急傾斜の階段をひとつ持つのが特徴だが、ここ神殿は、四面すべてに階段があり、この階段の段数、基壇部の浮き彫り、全てがマヤの農耕暦(ハアブ暦)、祭事暦(ツォルキン暦)を象徴するように建設されている。北側階段の蛇頭ククルカン(羽毛のヘビ)をしつらえた階段は羽が年に2回、春分と秋分に影となって現れる。マヤの天文学、建築技術の高さが象徴的に示された神殿である。 神殿の内部には、小さな神殿が内包されていて、翡翠の目を持つ赤いジャガー像と生贄の心臓を置いたチャック・モール像が保管されている。前には、神殿の上まで上れたようだが、階段を落ちてなくなった人が出たため、今は、禁止されている。 南側の階段はまだ修復されていない。半分崩れてままになっている。
敷地内での商売を認められているので、沢山の露天が出ている。
マヤ美人
ジャガーの神殿は、球戯場の東壁に造られた小神殿正面には、ジャガー像が置かれ、壁の内側には、戦争の様子が描かれている。10世紀のトルテカ人侵入の際の戦闘風景といわれている。森に住むジャガーはマヤ人にとって畏怖の対象であり、強さのシンボルであった。一階は球戯場の反対のほうを向いているが、2階は球戯場を向いているという宮殿である。柱や内部の壁のレリーフが美しい。外国人観光客ガイドの説明が長く、なかなかどかないので、しっかり内部を見ることは出来なかった。
戦士の神殿は、3層の基壇を持つ神殿の周辺を、戦士の浮き彫りがされた石柱群が取り囲み「千本柱の神殿」とも呼ばれる。石柱や祭壇を支える19のアトラス人の頭像など、トルテカ文明との交流説が強調される要因になっている。上壇の入り口にはチャック・モールが横臥している。この生贄の心臓を捧げた像もトルテカ色が強く出ている。神殿内部には色彩壁画が残っているが、この神殿に上ることは出来ない。