群来(くき)とは、ニシンの群れが産卵のために海岸に押し寄せる様子のこと。明治時代後半からニシンが少なくなり衰退した。
H.24.06.14〜17
天守閣そびえる最北の古都「松前」と食と自然の宝庫 神秘の「奥尻島」島日和
早朝、家をでて、羽田空港10時15分の飛行機で函館空港まで飛んだ。空港で待っていた添乗員と合流し、バスで、松前まで走った。
松前藩は、現在の北海道松前郡松前町に居城を置いた藩で、江戸時代を通じて藩主は松前氏であった。ストーンサークルが発見された東山遺跡は、縄文時代の遺跡で、はるか太古から人々の営みがあったことを知らせている。松前は、先住民族であるアイヌの人々の地でしたが、本格的な和人の移住が始まったのは、平安時代末で、奥州に及んだ戦乱に押し出された人々が、渡島半島各地に砦を築いた。松前町が北海道史の中心になるのは、1606年の松前藩成立によってである。 道南の和人社会を統一した蠣崎氏が、秀吉、家康に諸侯として認められ松前氏に姓を改め、城を築いた。米が取れなかったため、「無高の藩」とよばれたが、北方の水産資源、森林資源を支配し、交易に寄って、「江戸にもない」と言われた繁栄を謳歌した。北前船と呼ばれる交易船により、京都大阪の文化が松前に運ばれ、(北の小京都)と呼ばれた。
馬坂を上る。城内へ通じる坂は五つあり、(馬出口、天神坂、馬坂、湯殿口坂、新坂)そのうちの一つである。
宮津弁天宮は、江戸時代末、島民が大漁祈願の社を建てた。弁財天とも言われる弁天様が祀られている。一度階段を下りてまた登りなおして宮に着く。お神輿が中にしまわれていたが、このお神輿をどうやって出すのか不思議で、見て見たい。
外堀跡
松前城の中にある資料館
バスで、江差まで移動する。途中の海がきれいでした。
2日目
横山家の前の階段を上がると、法華寺がある。池大雅の「八方にらみの龍」の天井画を拝見した。山門は「檜山奉行所の門」で、ニシン漁とともに桧の生産地としても名高く、幕府直轄にて檜山の管理のため設置された奉行所の門で、寛文年間の建築物で最古のものである。
遠くにかもめ島と開陽丸が見える。
江差をでて、棚瀬港にバスで走る。港の手前で昼食。その食堂の前に「三本杉岩」が有る。高さ30mほどの大岩の上層部には、岩松や植物が繁茂して杉のように見えるのでこの名前が付いた。ここからだと3本に見えない。海水浴場を挟んで輪掛岩(わっかけ)が有る。フェリー乗り場からフェリーに乗り1時間30分程で奥尻島の奥尻港に着いた。「ウニマル君」が出迎えてくれた。
ホテルから見た衝立岩
奥尻島は北方と南方の海が出会う場所で、入り組んだ海岸線、メリハリのある水深の海底、対馬海流の通り道で、日本海のめぐみが一杯です。 ウニ、蝦夷あわび、ホヤ、イカ、サクラマス、などなど。
3日目
日本海フットパス@ぐるっと江差フットパス,Aぶらり瀬棚町フットパス、B島歩き奥尻島フットパス 私達はBをすべて歩くと3時間かかるので、半分だけ歩いた。牧草地を抜け、群来岬の菖蒲群生地、ハマナス群生地、エゾスカシユリ群生地がある海岸線の崖をとおり、旧滑走路のあるところまで1時間あまり歩きました。群生はしていませんでしたが、花も見ることが出来ました。二人ばかり、へばってしまって島の観光協会の方に軽トラで迎えに行ってもらっていました。
遠くに青苗地区の青苗岬が見える。
鍋釣岩は、囲炉裏で使うツルのような岩。頭上に生える樹木は、ヒロハノヘビノボラズというここにしか生えない植物で、赤い小さな実をつけます。
松前奉行所址
松前城は、正式な名前は「福山城」という。1854年日本で最後に建てられた日本式の城で、昭和24年の火災で本丸御門を残し焼失し、昭和35年に天守閣、天神坂門、搦手二の門窓が復元された。
内堀と復元された城
本丸表御殿跡
松前城
搦手二の門
松前神社は、藩の始祖である武田信弘を祀る神社で、三代将軍家光から藩が拝領した「臥龍梅」が咲き誇る。
法源寺は、奥尻から移されたという曹洞宗のお寺。山門は道内で最古で、国指定重要文化財に指定されている。
松前藩主菩提寺・法幢寺 松前藩墓所が隣にあります。墓所には、歴代藩主やその家族など55基の墓があります。キリスト教信仰と見られるものもあります。
墓所の前には、樹齢400年余りの大ケヤキが立っています。菩提を弔う菩提樹として植えられたものであるという。
鎌倉翁の顕彰碑 桜の育ての親で、大正14年頃より50年間松前の桜を育て、多くの品種をと繰り上げた。
松前公園には、250種1万本以上の桜の木がある。松前に桜が咲き始めたのは、松前藩の時代で、本州から渡ってきた人たちが江戸や都を懐かしんで木を植えたことがきっかけです。三大名木 蝦夷霞桜「龍雲院」 血脈桜「光善寺」 夫婦桜「天神坂門」 春には、桜のトンネルが松前城から第二公園まで続く。途中に有る桜見本園は、130種がうえられ「生きる図鑑」と言われている。今日も良く見ると、2,3輪の花が咲いている木もあった。
横山家は、明和6年(1769)から江差で漁業、商業、回漕業を営んでいた。正面には土間庭と店舗が、母屋と四番倉には鰊(江差では魚を米の代わりに納めていたので、魚にあらずと言うことで鯡と書く)漁全盛期の頃使用された民具や生活用品などが陳列されている。北前船によって交流の深かった関西、京都の文化の香りを今に伝えている。ご主人の名調子で案内してもらった。今も住んでいるのはこのお宅だけだそうです。
アネロイド気圧計 昭和3年 関川家が町に寄贈した。当時気圧計を持っていたのは浜の親方だけだったので、漁師は出漁前に針をのぞいて天気予報に役立てていた。
開陽丸は、いまから130年前、徳川幕府の発注で、オランダの造船所で建造された。当時日本最強を誇った木造の機汎走軍艦であった。慶応4年(1868)榎本武揚らにより、蝦夷に脱出。戊辰戦争中、暴風雨のため江差沖に座礁、沈没した。復元した開陽丸は、日本発初の海底遺跡の登録され、今も引き続き海底遺跡発掘調査の状況を伝えている。
1993年7月12日の北海道南西沖地震で津波が発生し、大きな被害の出た青苗地区です。「時空翔」というモニュメントを建て、津波館では、災害の記憶と教訓、復興支援への感謝を後世に伝える施設になっている。
本丸御門と松前城
夕食は、えぞあわび 本まぐろ うになどの海の幸山の幸の郷土料理でした。
ハマフウロウ
エゾスカシユリ
ハマナス
クワの実
かもめ島が見えてくる。
姥神大神宮は、北海道最古の神社で、江差の人々にニシン漁を教えた折居様が祈りを捧げた神像を起源とする言われている。夏には「江差姥神大神宮御渡祭」が行なわれ、豪華な山車が夜を徹して町中を練り歩く。各町内の山車のミニチュアが飾られていた。
アヤメ
奥尻の名前の由来は、アイヌ語の古名で、「イクシュン・シリ」で、後にイクシリとなる。イクは向かう、シリは島、「向かう島」という意味である。現在の「奥尻」は1720年荒井白石著「蝦夷史」にはじめて用いられ、1863年長坂庄兵衛の「奥尻島開島見込仕法書控に、また明治2年国郡設置にあたり「奥尻郡」となった。 面積143kuで、利尻島について大きいが、海岸線は利尻島より長い。最高峰は神威山で584m、西部では温泉が出て、私達のホテルは温泉だった。「島時間」といわれているが、時間を気にせずゆったり過ごしてみたい島でした。
龍雲寺は、戊辰戦争で唯一焼かれずに残ったお寺で、境内には、「蝦夷霞桜」が有る。門の扉には、雌雄の龍が彫られている。
関川家は三隻の北前船を有し、他10隻を雇い入れ、本州各地との交易で商権を拡大し、松前藩の御用商人として代々苗字帯刀を許され、豪商の名をほしいままにした。明治30年代に9代目が江差を離れるまで、2百有余年、江差に大きな足跡を残した。旧関川家別荘として有形文化財に指定され、公開されている。時間がなくて見ることは出来なかった。
ホテルの直ぐ先に北追岬がある。奥尻島の西海岸で、神威脇の南に広がる高台が公園になっている。神威脇はロシアによってクナシリ島を負われた島民が昭和21年に入植したところで、戦争によって故郷を追われた思いが、彫刻家 流正之氏の心をとらえ、公園内には8基のモニュメントが置かれている。曲がりくねった道を通り、岩の下を通り抜けたりして40分くらい掛けて歩いた。
7月12日に、正面に立って海を望めば、震災地を向いたくぼみの中に夕日が沈んでいく。