甑(こしき)島列島3島めぐり3日間

H.25.09.16〜18

台風18号の影響で、この旅行が出発できるかどうか心配で、旅行社に問い合わせたが、「飛行機が飛べば、出ます。」と言うばかりなので、前日、予約しておいた羽田近くのホテルに宿泊した。朝から、台風の影響か、変な空模様で、風も強かったが、羽田空港に向かった。 飛行機は出ることになって、ゲートで待っている間に、台風が豊橋に上陸したというニュースが流れた。風は益々強くなって、地上作業ができないと言うことで、飛行機の中で、待機し、1時間ほど遅れて、離陸した。離陸したのは、この便で最後のようだった。

かのこ大橋を渡る。

民宿マルニで昼食をとる。

無事、鹿児島空港に着陸した。鹿児島は、台風とは関係ないので、空は青く、澄み渡っていた。昼食をとり、バスで、串木野港へ向かう。午後になれば、波も静かになって、船が出るという話だったが、バスの中で、添乗員さんが、「船の欠航が決まりました。」と告げた。そのまま串木野港まで行くことになり、乗るはずだったシーホークが停泊しているのを見た。

朝食は、バイキングでしたが、甑島特産の「キビナゴ」を網であぶっていただきました。

路線バスでもある「甑ふれあいバス」とガイドさん

「寿し膳かのこ」で、昼食。養殖のマグロが美味しかった。

下甑島

里地頭仮屋跡  (江戸時代初期、薩摩藩には87の郷があり、各郷には、地頭が任命され、役所「地頭仮屋」が置かれ、其の周りに武士の集落が作られた。これを、外城制といいます。当時の地頭仮屋はこの小学校校庭の大半を占めて、武士の集落は、現在の村西にあります。)

3日目

港の前にある宿 「甑島館」に入りました。

最初は、甑島がどこにあるかも分からなかったが、行ってみてよい所だと思った。最近では、人口の流出が続き、下賢島が約2500人、上甑島が約2000人と減ってしまったそうです。ガイドさんによると、九州の人でも、甑島の位置が分からなかったり、名前さえも初めて聞いたという人がいるようです。もっと宣伝して、この景観を見てもらえばいいと思った。遠かったり、船が出なかったりが、難点ですが。船の欠航のために、見逃した場所も沢山あり、残念でした。

行った時は、貝池からなまこ池に勢いよく水が流れていた。

中甑島のほうから、藺牟田瀬戸架橋の工事を見る。

火力発電所

ナポレオン岩  高さ127mの奇岩。明治の初めにフランス人がこの岩を見て「ナポレオンにそっくりだ。」といった所からこの名が付いた。

金山海岸         立髪               大カブ瀬                        

見る方向により、手を合わせて拝んでいるように見える拝み岩

門口 鹿島断崖のエリアにあり、通称「凱旋門」とも呼ばれる大岩。

鶴穴 巨石、奇岩が連なる鹿島断崖の中にあり、鶴が羽を広げたよう形の海蝕洞。

中甑漁港から観光船に乗り、甑島クルージング。

西願寺の大イチョウと大蘇鉄

石敢當  T字路や三叉路の突き当りに魔物の進入を防ぐために置く。沖縄に多い。

橋口家 上羽と書かれている住宅。

縄文時代住居炉跡 地下45cm 昭和36年京都大学発掘調査

上甑島のガイドさんとホテルで合流し観光に徒歩で出発します。

行程に入っていた、孤島の野犬の像、キリシタン殉教地、鈴掛崎灯台にはいけませんでしたが、下甑島をあとにします。長浜港から上甑島の里港へ高速船に乗り50分で着いた。

瀬尾観音三滝 高さ55mの高さから三段になって滝飛沫をあげる瀬尾川上流の滝。祠堂に、聖観音像を安置していることからこの名前が付いた。時間の関係で、三段目の滝を見るということだったが、2,3分で上まで行けるということで、一段目と二段目を見ることができました。また、ここはへゴ「大型のシダ」の群生地でもあるそうです。

役場跡 旧役場が昭和5年に建築され昭和41年新庁舎が出来、その役目を終えた。

下甑武家屋敷跡 (手打地区に面してたたずむ武家屋敷通りは、かって平家の落人が住居を構えたという言い伝えがある。整然と築かれた玉石垣は、海の強風から屋敷を守る。)石垣だけで、家屋敷は残っていない。「下甑郷土館」があったが、今日は休館日だった。(郷土館の敷地は、楠正成の末流楠和田家がこの地に住み着いたと言われる由緒あるところで、家屋、庭園、山水池も以前の姿に復元したものである。)

宣教師上陸地」の碑 (1602年、スペインのドミニコ会宣教師5名が、長浜に上陸したのを記念して建てられた。薩摩藩の招聘によるもので、長浜出身のレオン・ギザエモンの船で来たと伝えられる。その隣の碑は、宣教師が携えてきた聖母マリアの御絵を復元したものである。本物は、禁教時代にフィリピンへ移され、現在はセソン市のサント・ドミニコ教会に安置されている。現在は、日本の聖母として崇拝されている。)

手打海水浴場 6月から8月にかけて産卵のためウミガメが上陸することもあるそうです。

境内には、「念仏発祥の地」の石碑が建ってい。村で、お葬式があったようで、黒服の男性や喪服を着た婦人を乗せた車が何台も通ったが、女性は皆、頭に白のベールを被っていた。キリシタンのようである。

ここは、かのこゆりの群生地でもあり、所々に、咲き残った花があり、楽しませてくれた。自生のかのこゆりは、栽培種より小さく可憐でした。また、ガイドの息子さんが、貝の化石を掘り出したという地層の所で、化石を探して掘っているところ。

夜萩丸山展望台から夜萩丸山断崖を見る。(甑島の鹿島断崖の北端に位置する高さ170mの断崖で、姫浦層群の連続した地層が観察できる。夜萩丸山断崖から産出された貝化石から、断崖の地層は約8000万年前のもので、大陸周辺の浅い海底に堆積したと考えられ、大陸から切り離された日本列島の成り立ちを考える上で、きわめて重要である。)

島で一番細くなってる吹切浦の橋の上でバスを停める。

ガイドのケンタさんと合流し、路線バスでもある「甑かのこゆりバス」に乗って、「八尻展望所」で下車する。島西岸の海岸線が展望できる。

前日島に渡れていれば、松島展望所、前の平展望台、瀬々野浦集落奇岩群、しんきろうの丘などを見て下甑島に泊まったのだが、統べて中止になった。

甑島列島は、東シナ海に位置し、鹿児島県薩摩川内市に属する列島。東北から南西に連なる、上甑島、中甑島、下甑島の主な3島と付属するいくつかの島からなる。

一段目

二段目

長目の浜展望所 なまこ池、貝池、鍬崎池の大小3の池と海を隔てる砂洲が4km続く。二代藩主島津光久がその美しさに「眺めの浜」と呼んだところに由来する。

甑大明神橋をくぐる。上甑島と中島を結ぶ420mの釣橋

亀城址から見たトロンボ地形 トロンボとは、イタリア語で陸繁砂州のこと。東西の最小幅250m、南北1500mの砂州上に約1300人が暮らしている。もう少し高い所から出ないと、その地形がよく分からない。

日笠山氏屋敷跡 

八幡神社があり、境内に、「無形文化財・甑島の内侍舞」の説明が書かれていた。

鹿島のどん (この鐘楼は、藺牟田青年会で、大正13年、昭和天皇の御成婚を祝して鋳造されたもので、村内で、時を告げる鐘として親しまれてきた。非常時には警報としての役割ももち、村人の安全を守ってきた。)

鳥の巣展望台鳥の巣山灯台があり、現在は、中甑島を結ぶ「藺牟田瀬戸架橋」の工事が進んでいる。岩盤に沿って作るため、橋はカーブして作られている。カノコ百合の群生地ということだが、もう花は終わって、実をつけていた。

高速船シーホークに乗り、下甑島に向けて、出航した。前日の欠航のためか、船は満席で、床に座っている人もいた。心配していたが、海は穏やかで、そんなに揺れることもなく下甑島の長浜港に着いた。

2日目

その後、、石橋記念公園に行く。(鹿児島市内の中心を流れる甲突川には、かって上流から、玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋、の五つの大きなアーチ石橋が架かり、「甲突川の五石橋」として親しまれて来た。江戸時代末期に、肥後の国から招かれた名石工岩永三五郎によって架橋が実現した。創建以来150年にわたって利用されてきた。平成5年の集中豪雨で、武之橋と新上橋が流失してしまった。残った3橋を文化遺産として後世に残すため、河川の改修にあわせて移築保存することになった。)

その代わりと言うことで、鹿児島に戻って「城山公園」に行った。(城山は、鹿児島市内に突き出た107mの丘陵地である。火山灰のシラスで構成されていて、桜島や金港湾一帯を眺望できる場所である。 また、西南戦争で、西郷隆盛が最後を遂げるなど激戦地になったところでもある。)今年の8月18日の大噴火以来、噴火が続いていて、今日も噴煙が上がっていました。

高い所にあがり、トロンボ地形を見る。(北海道の函館と同じ地形です。)

(数千年前、なまこ池は貝池と共に、海岸線の入り江でしたが、島の北面からなまこいけの北端に連なる崖の崩落により、崩れ落ちた岩石が波や潮の流れにより運ばれ、次々と堆積し、海面下で、細い洲になった。その後、海面が下降し、洲の上部が海面から現れ、今の長目の浜となった。くぼんだ所に、なまこ池と貝池ができた。なまこ池は深さが24mあり、外海とは、長目の浜の玉石の間を海水が出入りしており、海の干満に応じて、湖面が3〜4時間遅れて、上下します。)

貝池は、(深さは最も深いところで11.6mの湖で、上のほうは周囲から流れ込む雨水によって薄くなり、低塩分の水が覆い、底の方は、春から夏にかけて静かに進入した海水が停滞して海水の層になっている。この海水の層は酸素がなく、多量の硫化水素を含み、特別な微生物しか生息できない状態になっている。この海水の層と、上層の塩分の薄い層の境目に、約20cmの厚さで、光合成細菌が濃密に分布し、赤紫色のカーペットを敷いたように、全体に広がっている。この微生物は、生物発展の歴史の中で、画期的に重要な役割を果たしたと言われている。)

甑大明神大橋を渡る。橋の横の岩盤の上に、甑大明神が祀られている。昔は、この島の名前の由来ともなった「甑」の形の岩だったが、上が崩れて、今の形になった。昔は、ここで、巫女さんが舞を奉納していたが、危ないので、橋の手前に大明神を移しそこでおまつりしている。 

津口番所跡 (中国、朝鮮、南蛮の異国船の出入りや積荷を監視するため、江戸時代に設けられた薩摩藩の番所。当時、藩内には、24ヶ所の津口番所があり、甑島では、里、中甑、手打にあった。)

甑島のトシドン  ガイドさんが教えてくれた下甑島の年中行事。(大晦日の夜、鼻の長い面、萱や藁の蓑、黒いマントなどのトシドンの姿に扮し、3歳から8歳くらいの子供の家をまわる。その子供がしでかした悪いことをしかり、またよいことをほめて、袋から歳餅をだして背中に乗せ、家族のもとに運ぶのを見て去っていく。子供の幸福を願う貴重な民族行事であり、国指定の、重要無形民族文化財になっている。2009年には、ユネスコの無形文化遺産に指定された。ちなみに、ガイドさんの子供は怖がらないそうです。

鹿島村文化財指定の「徳船寺境内及び周辺樹林」(文化元年 「太蔵火事」と呼ばれる大火事があり、村の三分の二にあたる約200戸が焼失した。この榎が焼けているのは、其の時の名残である。本村では、防火に注意し、「道中禁煙」を呼びかけ、村民みんなで、防火に努めるようになった。) 村を歩くと、あちこちに「道中禁煙」の文字が目立つ。

城山公園に行く途中に、「西郷隆盛洞窟」がある。(城山に立てこもった薩軍兵士は300余人。5日間をこの洞窟で過ごした西郷は、ゆっくりと岩崎谷を下った。其の時、流れ弾が西郷の腰に当たり、別府晋介の介錯で、49歳の生涯を閉じた。)西郷さんはこの洞窟で碁をうっていたそうです。

内川内海岸 海岸の直ぐ傍に、大きな二段からなる滝がある。

鹿島断崖 下甑島で最大の景観を誇る。

池屋崎の奇岩・大岩

鞍馬楊心流 宗家塩田   塩田甚太夫屋敷跡

三段目