国宝十一面観音拝顔

(12年に一度の一斉公開)

向源寺・国宝十一面観音
H.12.11.3〜5

バスは大坂に向かって走り、中ノ島のビジネスホテルに泊まった。夕食は付いてないので、外に出て、一番近くの蕎麦屋・串カツ屋に入り、うどんと野菜などの串を食べた。

鶏足寺は、真言宗豊山派の寺院。山岳信仰の霊地であった己高山の山中に所在した。寺は昭和8年に焼失し、その後は廃寺となり、伝来した仏像のみが山下の収蔵庫に安置され、地元住民により管理されている。旧木ノ本町の東方に位置する己高山の山頂付近及び西麓には、古代から中世にかけて多くの寺院があり、天台系山岳仏教に聖地でした。これらの寺院は近世以降すべて山麓に下り、または、廃絶している。    山麓の古橋地区の与志漏神社境内には、薬師堂、大日堂、己高閣、世代閣の2棟の収蔵庫が建ち、鶏足寺や関連寺院の仏像を収蔵・公開している。己高閣には、鶏足寺本尊の十一面観音、七仏薬師、世代閣には、薬師如来、十二神将、魚濫観音、十社権現像などを安置している。

国宝の十一面観音が12年に一斉に公開されると言うことで、ツアーに参加した。
東京発なので、私達は名古屋で合流した。総勢91名ということで、バス2台でツアーが始まった。バスで、奈良に向かう。

道明寺・国宝十一面観音

鶏足寺・重文十一面観音

与志漏神社の祭神は、波多八代宿禰で、古事記、日本書紀によると、竹内宿禰の子、淡海(近江)臣の祖と記されている。社伝では、仲哀天皇が角鹿(敦賀)へ行幸の際にこの地に立ち寄り、波多八代宿禰に命じて、賊を退治させ、この地方を治めさせたとあり、古代から氏族の祖として祀られ親しまれてきた古社である。

向源寺は、滋賀県長浜市にある真宗大谷派の寺院である。国宝・十一面観音像は当寺に属する渡岸(どうがん)寺観音堂に安置されている。収蔵庫の慈雲閣が出来てからは、そちらに移されている。   天平8年、聖武天皇は、都に疱瘡は流行したので、泰澄に厄除け祈願を命じた。泰澄は、十一面観音を彫り、光眼寺を建て、その後憂いは絶たれた。元亀元年、浅井・織田の戦火により、堂宇は焼失した。地元の住人は、観世音を土中に埋め、難を逃れた。

十一面観音の製作は、平安時代初期、9世紀とされている。像高は194cmで、檜材の一木彫である。顔の脇、頭上や後頭部に十の面を大きく表し、頂上面を菩薩形としている。

十一面観音とは、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身の一つであり、六観音の一つでもある。本体の顔以外に十または、十一の顔を持つ菩薩である。    その深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩であるとされ、女神のような容姿に造られた物が多い。多くの十一面観音は、頭部正面に阿弥陀如来の化仏をいだき、頭上には仏面(悟りの表情)、菩薩面(慈悲の表情)、瞋怒面(憤怒の表情)、狗牙上出面(讚嘆の表情)大笑面などのいろいろな表情を乗せ、右手を下垂し、左手に蓮華を生けた花瓶を持っている姿であることが多い。

観音寺は、奈良県京田辺市にある寺院。寺伝によると、法相宗の僧義淵により創建された。聖武天皇の勅願により良弁が伽藍を整え、「普賢教法寺」と号し、十一面観音立像を安置する。たびたび火災に見舞われ、藤原氏の援助により、幾度も復興されてきた。

仁王門

(パンフレットから)
聖林寺    室生寺   向源寺
道明寺           法華寺
観音寺 

JR奈良駅の近くのビジネスホテルに泊まった。食事前にホテルの近くを散策し、「みむろ最中」を買い、ホテル内のレストランで頼んであった夕食をとる。

庭園

本堂

七五三で賑わう道明寺天満宮

道明寺粉は、水に浸して蒸したモチゴメを荒めに引いたもの。乾飯の一種で、仏様の前にお供物として置かれていた。道明寺粉をまぶした紅白の御餅を買いました。

室生寺奈良県宇陀市にある真言宗室生派大本山の寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹にかけて堂塔が散在する。女人禁制だった高野山に対し、「女人高野」の別名がある。天武天皇9年、役小角(えんのおずぬ)の草創、空海の中興という伝承もある。

室生寺・国宝十一面観音

南法華寺は、通称壷坂寺といい、奈良県高市郡高取町にある、真言宗の寺院。703年創建と伝えられ、西国三十三箇所第六番札所。本尊十一面観音は眼病に霊験があるといわれ、「お里・沢一」の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃の舞台として有名。

壷坂寺

聖林寺は奈良県桜井市にある真言宗室生派の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は定慧と言われる。伝承では、和銅5年、妙楽寺の別院として藤原鎌足の長子・定慧が開いたとされる。妙楽寺の後身の談山神社は当寺のはるか南方の山中に位置する。明治の神仏分離令の際に、三輪明神神宮寺の大御輪寺本尊の十一面観音像が聖林寺に移管された。

ポスターから

道明寺は、大阪府藤井寺にある真言宗御室派の尼寺。道明寺周辺は、藤原道真の先祖の豪族土師(はじ)氏の本拠地であった。土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は、七堂伽藍や五重塔のある大規模なのもであった。901年、大宰府に流される道真が、おばの覚寿尼をたずね、「鳴けばこそ別れも憂けれ鳥の音のなからん里の暁もかな」と詠み別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、人形浄瑠璃・歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」道明寺の段に描かれている。1575年、兵火により焼失し、後に再興。明治の神仏分離により道明寺天満宮境内から当地に移転した。

歌舞伎「壇ノ浦兜軍記」の阿古屋の菩提を弔うために鎌倉時代に建立された。二つとも新しくなっている囲いは五代・坂東玉三郎の寄進と書かれていた。

十一面千手観音

大日如来

お堂の外から撮らせていただいたお姿

五重塔

本堂

金堂

「大界外相」とは律院との結界を示す。

十一面観音は、平安時代初期、9世紀、菅原道真公作といわれる。カヤの一木造りで、彩色を施さない素地仕上げとする。カヤ材を白檀の代用材として用いた檀像様の作品で、像高98cm。厨子に入り、全体が黒くなってしまっているので、細部が良くわからなかった。

鎧坂

パンフレットから

全面の化仏

後頭部の大笑面

以前、朝日旅行会の仏像旅行に参加して、近畿も何回か訪れているので、何回か拝見している仏様、今回初めての仏様がいらしたが、日本に7体しかない国宝・十一面観音をすべて拝顔することが出来て、よかったです。

十一面観音は、本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰の年にのみ開帳される秘仏で、今年は11月3日から12月5日までの33日間開いている。また、空也が門前の池に棲む龍を改心させて寺を守らせたという伝承があり、元禄年間の頃から、辰年に本尊を開帳し、「淵龍」と書いたお札を授ける。お札には赤、黄、緑、紫、白の5色があり、今年は紫で、60年かけて全色そろえた家は末永く繁栄すると言われている。   私達がお寺に着いた時すでに大勢の人で混雑し、今から順番についても2時間かかるといわれたが、せっかく来たから順番について、お堂を一周し、やっと本堂に入った。そこで座ってまた順番を待ち、順番が来ると、お坊さんの前に座り、観音様から伸びた紐が付いた金剛杵を持たされ、お坊様が清めてくださった。 像高258cmの巨像でありながら、頭、体の根幹部を一木で彫り出す一木造りとする。表情は柔和で、平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過度期を代表する作例である。   また、宝物館には、重要文化財の木造空也上人立像、木造僧形坐像(伝・平清盛像)、木造地蔵菩薩坐像、木造四天王立像、などが並んでいた。

六波羅蜜寺は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。開祖は空也で、西国三十三箇所第17番札所である。念仏踊りでしられる市聖空也が平安時代中期に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也の死後、比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。平安末には、この付近に六波羅殿と呼ばれた平家一門の屋敷が営まれた。また鎌倉幕府により、六波羅探題が置かれたのもこの付近である。

国宝・十一面観音は、木心乾漆造りで、聖林寺の観音様と形態や製法に共通点が多く見られる。こちらの御像のほうが30cmほど小振りに出来ている。お堂の前の説明文に「少年のような初々しい顔立ち」とあったが、とても柔らか味のあるふっくらとしたお顔をしています。」とあった。

三重塔

金堂の中には、真ん中に、釈迦如来像、右に薬師如来、地蔵菩薩、左に文殊菩薩、と十一面観音の五尊が並んでいる。 十一面観音は、本尊の脇侍として作られたのものと考えられている。像高195.1cm。平安時代前期の作で、カヤ材の一木造り。室生寺様と称される独特の作風を示す。まだ少し彩色が残っていて、お顔がふっくらとしたかわいらしい仏様です。

仁王門を過ぎ、鎧坂を上がると、正面に金堂(国宝 平安時代)、左に弥勒堂(重文 鎌倉時代)がある。さらに石段を上がると、如意輪観音を本尊とする本堂・灌頂堂(国宝 鎌倉時代)がある。さらにそのうえに五重塔(国宝 平安時代初期)がある。さらに400段余りの石段を上がると、空海を祀る奥の院御影堂(重文 室町時代)がある。

本尊は、十一面千手観音で、礼堂に続く八角堂に安置されている。今回、秘仏・子島荒神の御開帳があった。叉、境内には新しく造られた仏像が多数祀られていた。

十一面観音は、第一回指定の国宝で、天平時代を代表する美しい仏像として知られる。天平年間の762年から769年にかけて東大寺の造仏所で造像され、その雇主は智努王(天武天皇の孫)とする説が有力。長く三輪の本地仏で秘仏として祀られて来ましたが、神仏分離令を受けて、この寺に運ばれた。かって四天王に守られて前立観音があり、左右に多くの仏像が立ち並び、(現法隆寺の地蔵菩薩=国宝は左脇侍)背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳の中に祀られていた。現在奈良国立博物館に寄託している光背は、大破しているが、宝相華紋をちりばめた見事なもので、その復元が望まれる。   像高209.1cm。木彫りで像の概形を作り、その上に木屎漆を盛り上げて造像する木心乾漆像である。頭上には、仏面、髻の周囲に、菩薩面3、牙上出相3、憤怒相3、大笑面の計10面を表していたが、菩薩面、牙上出相、大笑面が亡失している。この像は明治時代に来日した哲学者アーネスト・フェノロサが激賞したことから知られるようになった。

平清盛公の塚

阿古屋塚

(数年前に、東京国立博物館で展示された時の本から)

向源寺     滋賀県の湖北地方を代表する美仏
法華寺     蓮の葉と蕾を交互に配した光背
室生寺     「女人高野」と言われ、朱の唇など、お顔が女性的です。
聖林寺     ミロのビーナスと比較されるしなやかさを持つ美仏
道明寺     天衣の緩やかな曲線が優美
観音寺     童子のようなお顔が緊張感を漂わせています。
六波羅蜜寺の秘仏は12年に一度のご開帳に合わせて拝顔します。

鐘楼の手前に、「二月堂竹送り復活の地」という石碑がある。東大寺二月堂で行なわれるお水取りに使われる竹は、ここから送られる。近くの竹林で切り出した竹を観音寺に運び、道中安全祈願をして、奈良坂にトラックで運び、西福寺手前で大八車に積み替えて、東大寺に向けて出発します。二月堂下の僧坊脇に運んできた竹を建て掛けます。この竹送りは二十数年前に普賢寺の老人会が復活させたそうです。

大御堂

から風呂は、光明皇后が千人の垢を自ら流したという伝説のある蒸し風呂であるが、現在の建物は江戸時代にもので、平成15年に解体修理され新しくなっている。

本尊の十一面観音は、像高1.00m。本堂の厨子内に安置されている。平素は非公開で、春と秋に日にちを区切って公開される。天竺の仏師・問答師が光明皇后の姿を模して造ったとされるが、実際の製作年は、平安時代初期、9世紀前半と見られる。像はカヤの一木造りで、彩色や金箔を施していない素木造で、髪、眉、髭などに群青、唇に朱、肩にたれる髪や冠に銅版を用いるほかは、木肌の美しさをいかした素地仕上げになっている。

法華寺は、奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には、日本の総国分尼寺とされた。本尊は十一面観音、開祖は光明皇后である。光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる。

本堂

楼門

聖林寺・国宝十一面観音

御影堂

薬師堂と内部の仏様

大日堂と内部の仏様

2日目

法華寺・国宝十一面観音御開帳

3日目

観音寺国宝十一面観音

六波羅密寺・国宝十一面観音