古河~小山
2022.10.11~12
隣には「妙見寺」がある。本堂は享保2年(1717)の創建。格天井には百人一首が描かれている。現在は、全面的な改修中で、2021.11の新聞には「本堂改修のため、天井絵を取り外すという記事が載っている。
間々田4丁目交差点の左角に八幡宮社標と鳥居がある。その先に浄光寺があり、観音堂脇には青面金剛庚申塔や十九夜塔がある。浄光寺を左折して奥に進むと「間々田八幡宮」がある。
野木交差点から国道4号線に入る。まもなく左手に熊倉本陣跡があり、堀前に「野木宿」の説明版がある。熊倉七右衛門が勤め、問屋を兼ねた。その先に満願寺があり、門前に元治元年(1864)建立の十九夜塔がある。通りを渡ると、生垣に「野木の一里塚跡」解説がある。江戸日本橋より17里目であった。
左側にある長屋門を過ぎると、「西堀酒造」がある。創業明治5年、銘酒「若盛」「門外不出」の蔵元。酒蔵は国登録有形文化財指定。
街道沿いの家の庭に栃木名産の「かんぴょう」が干してあった。その先に「十九夜塔」がある。明治2年の建立で、如意輪観音像が陽刻されている。
野木神社は延暦2年(783)征夷大将軍坂上田村麻呂が社殿を造営。下野國寒川郡七郷の総鎮守であり、古河藩の鎮守祈願所であった。一の鳥居から長い参道を歩くと、2の鳥居があり、大きなケヤキとイチョウが聳えている。日露戦争開戦2年前に 「のぎ」の縁から陸軍大将乃木希典が参拝し「指揮用サーベル」を奉納している。
県道261号線に入ると右側に「栗橋道道標」がある。15分ほど国道を進むと右側の奥に「塩滑地蔵菩薩」が祀られている。地蔵尊に自分の患部と同じところに塩を塗ると霊験あらたかという。御堂の前には塩がお供えしてあった。下総國(茨城県)と下野國(栃木県)の境を通る。往時は西側に大榎があった。その先に「野木神社鳥居」が左側にある。
野木宿の西に流れる思川には野渡河岸、友沼河岸があり江戸との舟運が盛んであった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒であった。
JR東北本線古河駅で下り、前回の続きから歩き始める。街道の右側に「古河藩使者取次所跡碑」があり、本町交差点を挟んで、高札場と本陣跡碑が立っている。この辺りが古河宿の中心であった。取次所は大名の使者を応接する役所で、「御馳走役所」とも呼ばれた。前の筋は、「肴通り」と呼ばれ、古河城に食料品を運び込む道であった。
隣接して「泉龍寺」がある。疫病が流行り、本尊の不動尊に祈ると清らかな泉が湧き出し、病がたちまち平癒したところから「泉龍」と称するようになった。鐘楼は享保5年(1720)の建立 。境内には芭蕉句碑がある。「川上とこの川下や月の友」
15時を過ぎたので、間々田駅から小山駅まで電車で移動し、駅前のホテルに入った。
街道に戻る途中左に入ると「現聲寺」がある。時宗秀郷山。藤原秀郷が創建した。遊行(一遍)上人が4度立ち寄っている。街道にもどると「若松本陣跡」がある。破風の玄関を残し、前には「明治天皇行在所碑」が立っている。
少し残る旧道跡を歩き、栗宮交差点を左に入ると「安房神社」がある。粟宮村の鎮守。天慶2年(939)藤原秀郷が平将門討伐の際に戦勝を祈願し、守護神とした。境内には市天然記念物である「モミの群落」があるということだったが、見つけられなかった。
嘉永4年(1851)日光東照宮大修理した宮大工が社殿の再建を行った。本殿東には市の.天然記念物に指定されたコナラの木が3本あり、根元部分がつながった夫婦杉もある。
右側に琴平神社がある。乙女河岸の河川交通安全を願って創建された。
向かいには「さやま酒店」がある。家屋内部には商家造りの間取りで箪笥階段等を残している。朝早いので、開いていなかった。
2日目
交差点の向かいには「佛光寺」がある。二代将軍秀忠から十石の寺領を賜った。参道には文久元年(1861)建立の十九夜塔がある。
左側に「馬頭観世音道標」がある。文化10年(1813)の建立。乙女河岸、網戸河岸への道。「是より左 乙女河岸 あしと とちき さのみち」と刻まれている。その先に江戸より18里目の乙女の一里塚がある。しばらく行くと若宮八幡宮があり、風雨にさらされ「濡れ仏様」と呼ばれた銅製大日如来坐像がある。今は屋根がついている。
イチョウは樹齢1,200年、樹高13m、幹囲9.7mで気根が垂れ下がり、黄葉が始まっていた。ケヤキは樹齢650年以上で、樹高40m、幹囲6mである。
赤門の寺と書かれた「本成寺」には古河藩五代藩主土井利益の生母の墓がある。街道に戻るとY字路に「古河宿燈籠」が立っている。古河宿の日光口(北口)である。
その先の向こう側の角には「日光街道古河宿道標」が立っている。「左日光街道 右江戸道」常夜燈を兼ねている。角を左折しその先を右折し「よこまち柳通り」に入る。
創業百年の鰻料理店「武蔵屋」があり、その向かいには「古河提灯竿もみ祭り発祥の地」碑がある。長い竿の先に提灯を付け、激しくもみ合いながら提灯の火を消しあう奇祭。
本陣跡の前の道を線路の方に行くと「常光寺」がある。寛延元年(1,748)鋳造の青銅阿弥陀如来像は戊辰戦役「小山の戦い」で被弾した痕跡を残している。その像が観音堂の前にあるということだったが、今はない。
その先で「須賀神社参道」を歩く。参道にはイチョウやケヤキの木が並び、百基の朱色の燈籠が美しい。須賀神社は、 平将門の乱を平定した小山氏の祖・藤原秀郷が天慶3年(940)京都の八坂神社を勧請した。境内には「御神木 樅ノ木」がある。樹齢800年で、大正時代に社殿の方に倒れてきたので、上を詰め、昭和11年に今のような姿になった。
門前には「小山評定碑」が立っている。家康が会津の上杉景勝を討つべく小山に着陣すると石田三成挙兵の報せを受け、急遽軍議(小山評定)を開き、三成打倒に評議一決し大返しとなった。
神鳥谷東で国道50号高架をくぐる。左に「天満宮」がある。石鳥居は享和3年(1850)の建立。この辺りは小山宿の江戸口(南口)で土塁や矢来があった。その先の永嶋銅鉄店を左に曲がると「寺宝寺」がある。小山氏の祈願所であった。八代将軍吉宗日光社参の休息所となった。梵鐘は寛永4年(1792)の鋳造。
40分ほど国道を歩くと左側に「古墳のまち千駄塚」の看板があり、奥に入っていくと、千駄塚古墳の上に浅間神社が鎮座している。この古墳は円墳で、6世紀のものと思われている。石段を上ると、ブルーシートのかかった社殿があり、奥の本殿は今にも崩れそうになっていた。周りには多数の摂社が祀られている。
間々田交差点の左側に「問屋場跡」説明版がある。上原家が勤め、名主を兼ねた。その先に「間々田本陣跡」説明版がある。本陣は青木家が勤め、明治天皇の休息所となった。
酒店の隣奥に「龍昌寺」がある。本尊は「寝起不動尊」と呼ばれる。不動尊を背負った僧が衰弱のあまり寝込むと「この地こそ我が済度縁の地」と僧を寝起したという。三代将軍家光の亡骸を移葬する際、境内に「御霊屋」を設営し安置所とした。その先に「間々田ひも」がある。県指定無形文化財になっている。
間々田駅に戻り、街道に出る。右側に.明治末期築の「小川家住宅」が公開されている。現在は「小山市立車屋美術館」になっている。屋号が車屋で肥料業を営んだ。その先に「逢の榎」碑がある。江戸と日光の中間天に当たるところから「間の榎」と呼ばれた。縁結びの木として信仰を集めた。
間々田駅入り口を左折し、進むと「乙女不動原瓦窯跡」がある。ここで焼かれた瓦は下野薬師堂、下野國国分寺に用いられた。窯や工房が復元されている。
左側に「村社八幡宮社標」があり、中に進むと「乙女八幡宮」の鳥居がある。乙女村の鎮守で、乙女河岸で働く人々の信仰が篤く、鳥居は元禄16年(1703)に船問屋が寄進したもの。境内の狛犬は文化10年(1813)の建立。
法音寺の向かいには「友沼八幡宮」がある。源頼義、義家親子が前九年の役、凱旋のおりに勧請し、友沼村の総鎮守となった。古河城を出立した日光社参の将軍は境内の所西運庵で休息した。境内にはケヤキの大木が立っている。推定樹齢550年、樹高30m、目通り幹囲 5.8m。
その先で小山市に入る。
役場入り口交差点を過ぎると、左の草むらに小さな馬頭観音が祀られている。その先に法音寺がある。門前には芭蕉句碑「道ばたのむくげは馬に喰われけり」がある。「奥の細道」「紀行の芭蕉は間々田に宿泊した。
国道を30分ほど歩くと、右側に観音堂、馬頭観音等が祀られている。背後の塚上には愛宕神社が祀られている。
その先に浄明寺があり、大きな2本のイチョウが形よく聳えている。しばらく歩くと、「大平山道標」が立っている。「思川の渡し」を越え日光例幣使道の栃木宿太平山神社にいたる。「日光山近裏道」と呼ばれた。
その先に神道の庚申塔「猿田彦大神」が祀られ、奥に観音堂があり、境内には十九夜塔や馬頭観音等がある。この辺りは野木宿の日光口(北口)で土塁と矢来柵があった。松並木があったという松原新田を進むと「長屋門」のある家がある。
境内には芭蕉句碑がある。「一疋のはね馬もなし河千鳥」
よこまち通りから1本入った通りに3つの寺が並んでいる。徳星寺は古河藩初代藩主土井利勝が古河城の鬼門除けとした。正麟寺には鷹見泉石の墓がある。晩年は蘭学にいそしみ安政5年に没する。