廃墟になった町の残骸で作った作品。

セコビア

バスでマドリッドの空港に向かい12時30分のキャセイパシフィックで香港に向かった。所要時間は約12時間35分のフライトだった。香港で乗り継ぎ香港時間10時10分、約3時間50分のフライトで中部国際空港に着いた。 念願だったサンティアゴ・デ・コンポステーラに行くことができて巡礼者とも話ができた。もう少し若ければ、100lmくらいはチャレンジしてみたいと思った。

2連泊したホテルを出て、約265km、約4時間走りサラゴサに向かう。雪山を横に見て、風車の丘を見て、昼寝をしながらバスは走る。

サンタ・マリア教会は15世紀に建てられたゴシック様式の教会。オンタビリアの城壁の中腹にある。1660年6月3日、フェリペ4世の娘、マリア・テレサフランス国王ルイ14世とこの教会で結婚式を挙げた。その後二人の孫がフェリペ5世としてスペインのブルボン家の初代国王になる。

1660年5月8日、ルイ14世とマリー・テレーズの結婚式が教会で行われることになった。バスクの風習ですべての家は花の付いた旗と垂れ幕で飾られ、王様一行が通る狭い道には凱旋門がかけられた。王様や御付きの人々の宿泊先となった有力者ハランデ船主の館「ロホビアグ」には豪華な赤いじゅうたんが敷かれた。パティシエのアダムスはアダム家秘伝のアーモンドのマカロンを献上した。マカロンを召し上がった王太后は、息子のルイ14世にもお分けになって、王様はマリー・テレーズと大変喜んだ。彼らの子孫は今でも店を守り、レシピは当時のまゝ、守られている。

7日目

県会議事堂

人気のバル

ビルバオ郊外、ネルビオン川河口のポルトゥガレテとゲチョを結ぶ、全長160mの鉄橋は、ビスカヤ橋という。エッフェルの弟子のビルバオ出身のエンジニア、アルベルト・デ・パラシオの設計で、世界初の運船橋として1893年に開通した。橋は2本の鉄塔から延びるケーブルで支えられ、橋桁は船の運航を妨げないように水面から約45mの高さに設定されている。鉄のワイヤーでつりさげられたゴンドラが人や車を乗せて移動する。橋桁の上を歩いて渡ることもできる。片道0.4€でゴンドラに乗り向こう町に渡った。

グッゲンハイム美術館はニューヨークの本部を置く分館として1997年に開館する。かって造船所があった川岸にそびえる前衛的な建物はアメリカの建築かクランク・0・ゲーリーによるもの。光が反射して刻々と変化する外環はそれ自体が芸術作品と言える。美術館前には、アメリカ人アーティスト、ジェフ・クーンスの作品「パピー」が置かれている。全体が花で出来ている。

約50km、約50分でかってのレオン王国の首都レオンに着いた。ホテルの壁には「巡礼路案内」がある。

ガウディ設計の司教館(パラシオ・エピスコパル)。まるで城のようなデザインのため、教会側と衝突し、ガウディは設計をやめてしまった。その後ほかの建築家に受け継がれ、完成はしたが、司教は結局住まなかった。ステンドグラスから天上のアーチまでガウディらしい才気が感じられる。

バスに乗り、アストラガに向けて約280km、約4時間走る。途中の山は雪に覆われ、その先には風量発電の風車が沢山立っている。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ

カテドラルは16~18世紀にかけて建設されたゴシック様式。旧カテドラルは12世紀に建てられたロマネスク様式。旧カレドラルのガーリョ塔はスペインで最も調和のとれた美しい塔のひとつ。

貝の家は15世紀後半に建てられたゴシック様式の建物で、約400ものホタテ貝の装飾が外壁に取り付けられている。ホタテ貝サンティエゴ巡礼のシンボルで、かってこの家は巡礼者を守る騎士団の家だった。現在は、図書館になっている。町の建物の壁に巡礼の目印が張り付けられている。

3日目

サラマンカ

アビラ

レストランで昼食をとる。名物料理・コチニーリョ・アサード子豚の丸焼き)生後2~3週間の子豚を焼いたもので、柔らかく、お皿を使って切り分け、そのお皿を割ってお皿でも切れるということを証明する。「美味しい」「かわいそう」と言いながら軟らかな豚肉を食べた。前菜はモルシーリァ(豚の血入りの腸詰め)と白インゲン豆。

マヨール広場には、カテドラルがある。1525年に建設が始まり、1768年に完成した。ゴシック様式の大聖堂としては、最も新しく、優美な姿から「カテドラルの貴婦人」と呼ばれる。高さ88m、内部は奥行き105m、幅50m、付属の美術館には幼児の墓がある。乳母の手から滑り落ちて死んだエンリケ2世の子、ペドロのもので、乳母も後を追って城から身を投げたという。スペイン最後のゴシック建築。

川を挟んで対岸にはシブールの町がある。作曲家モーリス・ラベルの生地であり、彼の生家が残っている。

オリジナルの樫の木

ここにも巡礼路の道標があった。

主祭壇

オブラドイロ広場に面して、カテドラル、今日の宿 パラドール・デ・サンティアゴ・デ・コンポスティーラ市庁舎が立っている。広場には、巡礼者が歩いている。一人の女の人に皆で話しかける。彼女はポルトガルから歩いてきたということで、ひざを痛めたらしくサポーターをはめていた。スタンプの押されたノートを見せて、、誇らしげに証明書を広げてくれた。

ゲルニカ

小形の白菜のサラダ

ビスケー湾に向けて開けた、スペイン屈指の港湾都市。かっては鉄鋼、造船の町として栄えたが、重工業の衰退ともに、深刻な不況に陥った。打開策として、アートによる都市再生プロジェクトだった。1997年に造船所跡地にグッゲンハイム美術館が完成。美術館直下をビルバオ・トラムが走っていた。

2018.3.17~26

北スペインとバスク10日間

8日目

カミノ・デ・サンティアゴ」伝説によると、キリストの十二使徒の1人である聖ヤコブ(サンティアゴ)がスペインで布教活動を行った後、エルサレムに戻り殉教した。弟子たちは彼の遺骸を舟でスペインに運び埋葬した。イスラム教徒がイベリア半島に侵入し、キリスト教徒が迫害され、墓の所在が忘れ去られる。9世紀初めに、星に導かれた羊飼いが聖ヤコブの墓を発見し、その場所に小さな教会を建てた。現在のカテドラルは墓の上に建っていることが確認されている。  ピレネー山脈から歩くとサンティアゴまで約800km。30~40日かかる。巡礼道には巡礼宿(アルベルゲ)が完備され、低料金で宿泊できる。徒歩で100km以上、自転車で200km、巡礼手帳(クレデンシャル)にスタンプを押してもらうと巡礼事務所で巡礼証明書(コンポスティラーノ)を発行してもらえる。巡礼道沿いには中世の教会が数多く残っている。

中部国際空港をキャセイパシフィック航空で16時5分に香港に向けて出発する。約4時間40分で、香港時間19時45分に到着する。0時35分、香港からマドリッドに向けて出発する。約14時間25分の旅で、現地時間午前8時にようやくマドリッドに着いた。バスに乗りこみ、観光が始まる。参加者は19名である。マドリッドから北西に95km離れたセコビアに向かう。「ピレネーを越えるとアフリカだ。」とナポレオンが言ったというが、荒涼とした風景を見ながら約1時間30分走った。

アルカサスは、ローマ時代の要塞があった場所に13世紀初めに城が築かれ、以後数世紀にわたって歴代の王たちにより増築された。1474年にエンリケ4世の訃報を聞いたイサベル・ラ・カトリナはこの城でカスティーリア王国の女王として即位することを宣言した。また1570年、フェリペ2世がアナ・デ・アウストゥリアと「国王の間」で結婚式を挙げた。1862年の火災で城の大部分が焼け落ちたがその後再建されている。映画「白雪姫」のモデルとなった。

ローマ水道橋は、15km以上離れたアセベタ川の水を町まで引くため、紀元1世紀前後に建造された。全長は728mに及び、最も高いところはアソゲホ広場付近で、約20mに達する。アーチの数は166個。各石の間には接合材は一切使われておらず、1884年までは水は上部を通ってセコビアの町に供給されていた。1928年からは同じ場所に水道管が設置され、今もその役目を果たしている。

マドリッド・アトーチャ駅からバスに乗り、マドリッド車窓観光をする。今日は駅の上にあるターミナルホテルに泊まる。18時からの無料開放を目当てにプラド美術館には大勢の人が集まっていた。駅の上にあるターミナルホテルに入った。

スペイン新幹線AVEに乗るためサラゴサ・デリシアス駅に向かう。15時43分発のマドリッド行に乗る。約1時間30分でマドリッド・アトーチャ駅に着いた。周囲の景色は緑から赤茶色の台地に変わる。

マリア出現から1年後、ヤコブはマリアをたたえる小さな礼拝堂を建てる準備を整えた。最初の教会は処女マリアに捧げられた。エルサレムに戻った後、アグリッパ1世によって処刑された。12使徒ではじめて信仰の殉教者となった。彼の弟子たちが遺体を引き取り、スペインの最終の埋葬地に連れ帰った。この最初の礼拝堂は他のキリスト教建物の多くと同時に壊された。しかしマリア像と円柱はサラゴサ市民が守って無傷のまゝであった。

狭い道を歩きレストランで昼食をとる。店にはピンチョスがある。今回の旅行で皆でそろって食べる最後の食事である。  食事の後、戻る途中に「ゴヤ美術館」がある。ゴヤはサラゴサから南44kmにあるフェンデトドスで生まれた。ゴヤ版画博物館、ゴヤの生家がある。ゴヤは1746年に鍍金師の子供として生まれ、サラゴサの画家に師事する14歳まで子の生家で過ごした。ディエゴ・ベラスケスとともに宮廷画家として活躍した。

ラ・セオ」とは、アラゴン語でカテドラルのことで、正式名は「サン・バドール大聖堂」という。ロマネスクからネオ・クラシックまでの各様式とムデハル建築の調和がすばらしい。時間があったので、入って見学した。付属の博物館には14~17世紀のフランスとフランドル地方のタペストリーが集められている。手前の像はスペインを代表するフランシスコ・デ・ゴヤの像である。

教会に並びに旗がひらめく市庁舎が建っている。前には「聖ヤコブ」「聖母マリア」の大きな像が立っている。

ピラール広場に面して巨大な「ピラール聖母教会」がある。伝説によると、紀元40年1月2日、エブロ川の岸辺にいた聖ヤコブの前に聖母が現れ、信仰の礎となる柱(スペイン語でピラール)を渡したという。後にキリスト教徒が礼拝堂を築いたその場所に、聖堂が17世紀に建てられ、18世紀にはシンボルとなっている彩色タイルで飾られた丸屋根が加えられた。(塔に上り上から丸屋根のタイルを見ることができるようです。)教会内部には「聖母の礼拝堂」があり、柱と木彫りの聖母が納められている。 ちょうど、洗礼式が行われていた。

彩色タイルの丸屋根

エブロ川を渡ると、向こうにローマ時代に造られたピエドラ橋が見える。PVENTEは橋と言う意味なので「サンティアゴへの橋」と言う意味なのだろうか?

サラゴサ

エレベーターで丘を下り、バスでサン・セバスティアンに帰る。バル巡り2日目ですが、昨日のバルに又向かう。バルのお兄さんがカメラを向けると笑顔になってくれた。昨日と違うものを食べ、満足しました。

サン・クリストバル広場から北に進むと、港があるマリーナ地区に至る。ボート乗り場があり、対岸のエンダイヤの街並みが見える。

カルロス5世城は、ナバーラ王国の防衛上、重要な位置を占めていた要塞である。伝説によると10世紀にナバーラ王サンチョ・アバルカが建てたといわれ、16世紀にカルロス5世によって修復された。外壁には砲弾の跡が生々しい。現在はパラドール・デ・オンタビリアで、テラスからはビアソタ川と対岸のエンダイヤの街並みが一望できる。

オンタビリアは、サン・セバスティアンから東にやく20km。ビダソア川の河口に位置し、対岸のフランスのエンダイヤを望む国境の町。バスク地方でよく見られる赤や緑の窓枠が付いたカラフルな家が立ち並ぶ。アルマ広場の周りには古い家々が立ち並び、向かいにはパラドールとして使われているカルロス5世城が建っている。

オンタビリア

どれも洗練されたきれいなプレートだった。最後に紅茶を頼むと、砂時計が出て来た。

シャトー・ヴュは13世紀、イングランド軍が建設した城郭に、15世紀にシャルル7世が手を入れた。大聖堂でフリータイムとなり、添乗員に教えてもらったモノプリに行き、エコバックを8個買った。パリにあるスーパーだが、こちらはモノップと呼ばれるコンビニのような小さなスーパーだった。プラボトルから作られたバックで、日本でもネットで売られているそうです。

サント・マリー大聖堂は、13世紀から14世紀にかけて建設されたゴシック様式の大聖堂で「ノートルダム・ド・バイヨンヌ」の別名をもつ。85mの二つの鐘楼を持つ。ステンドグラスは15世紀のもの。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路として世界遺産に登録されている。バイヨンヌの守護聖人である聖・レオンの聖遺物を保管している。聖レオンはノルマンディー地方カランタン出身で、10世紀のバイキングによるバイヨンヌ侵攻の際に殉教した。切られた首を自ら持って立っている姿でしばしば描かれている。

フランス領バスクの中心都市である。ビスケー湾からアドゥール川をさかのぼったニーヴ川との合流地点にある。

今日もいいお天気で、ホテルの窓からは、コンチャ海岸、サンタクララ島が見える。今日は、愛らしいフレンチバスク地方に行きます。ホテルを出発して、約58km、約1時間走ってバイヨンヌに着いた。

ホテルに入り、添乗員と一緒にバル街に向かう。皆と別れサンタ・マリア教会見学してから、教会前「CASA ALCALDE]に入る。並んだピンチョスを選びお皿に入れ、会計をして奥の席で食べた。アルコールを頼むので、一軒だけでおしまいにした。ほかの方に聞くと、2軒、3軒と梯子をしたようだ。小さく切ったパンの上に食べものを乗せつまようじや串をさしたもの。鰯の天ぷらのようなもの、アンチョビを乗せたもの、ムール貝、ホタテの焼いたもの、などを食べた。

バスでモンテ・イゲルドに向かう。頂上には遊園地やレストランがあり、展望台からはコンチャ海岸、サンタクララ島が見える。遊園地は改装中で閉園していた。

人気のバルを教えてもらいながら町を散策し、海岸沿いの県会議事堂で自由時間になる。扇状に広がるコンチャ海岸の右手にはモンテ・ウルグルの丘が見える。町の北西にある丘で頂上にモタ城があり、城の上に高さ10mのキリスト像が町を見下ろしている。 左手には、モンテ・イゲルドの丘がある。

サン・セバスチャンはフランス国境に近く、「ビスケー湾の真珠」と言われる美しい町。中世にはサンティアゴ巡礼の中継地として、また16世紀以降には海洋貿易で栄えた。スペイン独立戦争中の1813年ナポレオン軍と英国軍の攻防戦によって町の大半は炎に包まれた。その後再建され、19世紀にハプスブルク家の王妃マリア・クリスティーナが保養地として以来、高級避暑地としてその名が知られるようになった。

サンタクララ修道院は議事堂の裏手にある。

ゲルニカ市の旗を持って説明する日本人ガイド。十数年前に美術史の勉強に来て、現在はバスク人の夫と暮らしている。

議会室の内部

バスク議事堂は空襲被害を免れた建物のひとつで、「ゲルニカの木」と呼ばれる樫の木をモチーフにしたステンドグラスが天井にある。バスクは19世紀まで、自治権を与えられていたが、その起源はこの樫の木の下で独立宣言をしたことによる。現在議事堂の北側にある木は1860年二植えられたもので、オリジナルは議事堂西側に大切に保存されている。

ピカソのゲルニカ ゲルニカ爆撃当時、パリに住んでいたピカソはこの悲報を聞き、その夏に行われるパリ万博のために大作「ゲルニカ」を書きあげた。戦争と無秩序をテーマにしたこの作品は、ニュー近代美術館に移管されていたが、フランコ死後のスペインに変換され、現在はマドリッドのソフィア王妃芸術センターに展示されている。これはタイル職人が作った「ゲルニカ」を再現した壁画である。

市庁舎平和博物館が建つフォル広場。ゲルニカ平和博物館には、ゲルニカ爆撃で破壊された建物のがれきや家財道具が陳列され、当時の写真なども展示されている。

バスク鉄道(Eusko Tren)のゲルニカ駅の前で、日本人ガイドと待ち合わせをする。

ホテルに入り、夕食をとる。今夜の食事が今までで一番おいしかった。アスパラガスと白アスパラのサラダ、イベリコ豚のステーキ。

カンタブリア海に面したスペイン北部には、それぞれ特色ある地方が存在している。フランスと接するバスクには、古くからバスク人が暮らし、独自の文化と伝統を保って暮らしている。彼らの話すバスク語は難解で、その起源は解明されていない。その西カンタブリアは海と山に囲まれた自然豊かな地域。アストゥリアスは、スペイン王国発祥の地で、イスラム教徒から国土を取り戻すレコンキスタはここから始まった。さらに西に進むと、イベリア半島北西部のガリシアにいたる。公用語のガリシア語はポルトガル語に近く、バグパイプなどケルトの文化も受け継いでいる。

ローマの交易路「銀の道」について・ 北はカンタブリア海に面した港町ヒホンから南はアンダルシアのセビリアまで、全長800km以上に及ぶ銀の道。イベリア半島を南北に走るこの旧街道は、古代ローマ時代に築かれた交易路で、レオン銀の道サンティアゴ巡礼路が交差する地点で、交通の要衝として栄えた。スペイン北部では銀が採掘されたので、この主要鉱産物に因んで「ビア・デ・ラ・プラタ」と呼ばれるようになった。オビエトは鉱山の町として発展してきた。道沿いには世界遺産に登録されているオビエト、サラマンカ、カセレス、メリダ、そしてセビーリァまでみどころいっぱい。

ラ・カテドラルで昼食をとり、港湾都市ビルバオにに向かう。約330km、約5時間バスで走る。いよいよバスク地方に入ります。

セマナサンタとはスペイン版イースタ(聖週間)で、町中にポスターや旗があふれていた。様々な教会から繰り出した「パソ」と呼ばれるキリスト像やマリア像を乗せた神輿、三角帽子の集団、ブラスバンドが街を練り歩く。春分の日の後の最初の満月の次の日曜日と決まっているので毎年違う。ショーウインドーには、三角帽子の人形が飾られていた。

昔の城壁の跡が残っている。

10~12世紀にかけて栄えた旧レオン王国の首都。後にレオン王国はカスティーリア王国に併合され、統合スペインの母体となった。ベルネスガ川のほとりに開けたこの町は、現在この地方の商工業の中心地になっている。中世にはサンティアゴ巡礼の要所であったためロマネスク様式のサン・イシドロ教会、ゴシック様式のカテドラル、ルネッサンス様式のサン・マルコ修道院など、重要なモニュメントも多い。

魚貝のパエリアの昼食をとり、街を散策する。巡礼者のための宿・アルベルゲがあり、前に巡礼者の像が立っている。杖を持ち、コートにトランクと言ういで立ちだが、昔はこんな格好で旅をしたのだろうか?

晴天に恵まれ、サンティアゴ・デ・コンポステーラの町から東へ約5kmの「歓喜の丘」と言う意味の「モンテ・ド・ゴソ」には旅人のモニュメントがある。800kmも歩いてきた巡礼者は遠くに見えるカテドラルの姿を見て歓喜の涙をながし、もう少し頑張ろうと思ったに違いない。遠くの丘に見えるモニュメントは前ローマ法王パウロ2世の訪問を祈念するモニュメントである。

パラドール・デ・サンディアゴ・デ・コンポスティーラで、私達の部屋は二つの中庭を横切っていかなければならなず、部屋に行きつけなかったり、鍵の使い方がわからなくて部屋に入るのに時間がかかった。1499年にカトリック両王が巡礼者のために建てた病院兼宿泊所。内部はゴシック様式の礼拝堂やいくつもの回廊がある。今でも1日に10食ほど、巡礼者に提供しているそうです。

回廊の南側には博物館があり、ルーベンス、ゴヤなどの下絵によるタペストリーが飾られている。テラスからは下の広場が見え、今日の宿パラドール・デ・サンディアゴ・デ・コンポスティーラが見えた。

聖ヤコブの棺があり、蓋は本物で、そのそばに地下に通じる階段があった。行けないようにしてあった。

儀式の際に6人の男性が振り回す大型の香炉(ボタフメイロ)がつり下がっている。以前振り回された香炉が見ていた信者に当たったことがあるという。これも博物館に収められていた。

聖ヤコブの日である7月25日が日曜日に当たる年は「聖年」とされ、普段は閉じられているカテドラル裏側の門「免罪の門」が開かれる。次回は2021年。この門を通った者はすべての罪が許されるといわれる。

9世紀に聖ヤコブの墓が発見されると、その地に小さな聖堂が建てられた。イスラム教徒によって破壊された後、11~13世紀に僧正ディエゴ・ペラーエスのもと、スペイン最高のロマネスク様式の教会が完成した。その後増改築が繰り返され、現在の姿になった。外壁の修復工事が行われているため、バロック様式のオブラドイロの正面を入るが今回は脇の門から入った。

巡礼者は杖、ホタテ貝、ヒョウタンを持って巡礼した。左の建物は「巡礼証明書」を発行してくれる巡礼事務所である。

ガイドと共に旧市街を散策する。かって旧市街は7つの門をもつ城壁に囲まれていて、巡礼者は東にある「巡礼の門」をくぐって聖ヤコブの遺骸が安置されているカテドラルに向かった。

サラマンカから約424km、5時間50分でサンティアゴ・デ・コンポステーラに着いた。カレドラルは修理中だった。町をガイドと共に散策する。  イベリア半島北西部に位置するサンティアゴ・デ・コンポスティーラはエルサレム、ローマに次ぐキリスト教三大聖地のひとつ。9世紀初めに聖ヤコブ、すなわちサン・ティアゴの墓がこの地で発見され、ヨーロッパ各地から多くの巡礼者が訪れる聖地となった。ピレネー山脈からスペイン北部を横断してサンティアゴへといたる、「カミノ・デ・サンティアゴ」は約800kmである。

バスに乗り、2時間走り途中の休憩でコーヒを飲む。峠を走ると、周りの景色は雪景色に変わった。ベリンと言う町で昼食をとる。店の民族衣装を着たお人形と記念写真を撮る。

16時30分にはホテルに入った。元気な方は旧市街に出かけたらしいが、少し横になった私達は寝過ごして、電話で起こされた。こちらでは20時からの遅い夕食である。

1時間20分走ってサマランカに着いた。古代ローマ人によって築かれ「銀の道」の中継地として栄えた。1218年にはスペイン最古のサラマンカ大学が創設され、ボローニャ、パリ、オックスフォードと並ぶヨーロッパ有数の大学都市として発展してきた。参加者の中にサラマンカ大学に1年間留学していた方がいたのは驚きでした。 エンリケ・エステバン橋から旧市街が見える。

バスに乗り、アルカサスが良く見えるところで、写真タイム。岩山を利用した大きな城である。

水道橋まで戻る。近くの塔の上にはコウノトリの巣があり2羽のコウノトリが巣ではばたいていた。空を飛んでいる鳥もコウノトリだろう。モロッコでは、塔に上りすぐそばの巣を見たことがあるが巨大なものだった。

サン・エステバン教会は、13世紀に建てられ,,後期ロマネスク様式で、回廊や柱頭は当時の姿をとどめている。6層に積み上げられた高さ53mの塔は、スペインの鐘楼の中でも「塔の女王」と呼ばれている。

冷たい雨に中、サラマンカの街を散策する。1534年に造られたサラマンカ大学の正面入り口はプラテレスコ様式の傑作。三段に分かれた彫刻の下段はカトリック両王のレリーフ、中段はカルロス5世、カトリック両王、国家の紋章、上段はローマ法王と僧侶たちのレリーフに囲まれたビーナスとヘラクレス像。  正面入り口の広場パテオ・ラス・エスクエラスに立つ像はフライ・ルイス・デ・レオン。スペインの高名な学者で、彼が教鞭を執った教室がそのまま保存されている。  

アルカサスから歩いて戻る。サンディアゴ門をくぐりさまい路地を歩く。城壁の向こうにサン・エステバン教会とカテドラルが見える。

アラゴン王国とは、イベリア半島東北部に成立したキリスト教国。15世紀後半、カスティリアと合同してスペイン王国となる。イベリア半島北部のナヴァラ王国から分かれ、1035年東北部に成立した。レコンキスタ運動と共に勢力を南下し、バルセロナを併合して強大になった。このカタルーニャとアラゴンの同君連合国家をアラゴン連合王国という。さらにバレンシア地方にも進出し、レコンキスタを完成させた。

ローマの建国神話に登場する双子のロームルスレムス。双子は狼によって育てられた。

私達がスペイン語と言っている言語はカスティーリア語で、カタルーニァ地方ではカタルーニャ語、ガリシア地方ではがリシア語、バスク地方ではバスク語が公用語として併用されている。南北アメリカ大陸ではメキシコ以南の21の国の中で16か国がスペイン語を公用語としている。

スーダの塔

バスクリネンの店でナプキンを買った。

様式の異なった天井

受胎告知

セコビアの町をガイドと散策する。サン・ミリアン教会アラゴン王アルフォンソ1世によって12世紀に建てられた。美しい柱頭をもつ外部の回廊は、ロマネスク様式の傑作。

マヨール広場では、市が開かれていた。野菜、マメ、肉製品などが並び、私は豆を2種類買い求めた。2ユーロのショールを何枚も買った方もいた。野菜ばかり見ていたので衣類があるのが気づかなかった。

カテドラル 13世紀から14世紀末にかけてけんぞうされたゴシック様式の大聖堂。内部を彩るステンドグラスは見事で、太陽の動きによって刻々とその色合いが変化する。

レオン

5日目

水道橋の上に上がる。

マドリッドとバルセロナの中間に位置する、スペイン第5の都市。町の歴史は古く、紀元前ローマ時代までさかのぼる。その後、西ゴート族、イスラム教徒に支配されたが、1118年のアルフォンソ1世によって奪回されアラゴン王国の首都となった。19世紀にはナポレオン軍の攻撃により大きな被害を受けた。現在の街並みは後の再建されたもの。全スペインの守護聖母ピラールを祀る教会があり、スペインにおける聖母信仰の中心となっている。

雨が降っていた町を後にオンタビリアに移動して、ミシュラン一つ星のレストラン「アラメダ」で昼食をとる。日本の金沢にあるアロスのシェフがこの店で修業したとのことです。

サン・ジャン・バチスト教会は町の守護聖人洗礼者ヨハネに捧げられた教会。現在の教会は17世紀に建てられたもので、ルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズが結婚式を挙げた所でもある。

マカロンで有名なメゾン・アダムやチョコレートを売る店が立ち並ぶ。

フランス領バスクのラプルディ地方にある。ピアリッツの南にある漁港であったが、今はリゾート地として有名である。ルイ14世ゆかりの町で、ルイ14世が滞在した館や王女の館がある。

サン・セバスチャンに向けてやく80km、約1時間30分走る。昼食をとり、市内観光に出かける。

サン・イシドロ教会 セビーリャの大司教イシドロに捧げられた教会。11世紀末に着工、その後増築され、ゴシックやルネッサンス様式などが混在している。

アストラガは、レオンから西へ約50kmのサンティアゴ巡礼路上にある人口12000人ほどの町。司教座が置かれた都市である。古代ローマの遺跡や15世紀に創建されたゴシック建築の大聖堂やガウディ設計による司教館がある。 

広場にはバグパイプが奏でる音楽が流れていたが、どこで演奏しているのか分からなかった。ガリシア地方の伝統音楽を演奏しているのだそうだ。旧市街には行かなかったが「ガリシア博物館」がある。ガリシア地方の郷土文化や庶民生活に関する展示物や写真が陳列されている。

中央祭壇には17世紀後半に造られたチュリゲラ様式で、中央に聖ヤコブの像が祀られている。祭壇の左横には地下礼拝堂への階段があり、聖ヤコブの棺を拝むことができる。さいだんの右横の階段は聖ヤコブの像の裏側に通じていて信者たちは後ろからマントにキスをする。私たちも信者ではないが後ろからマントに触らせてもらった。キスをするときに埋め込まれた宝石を歯で引きちぎる不埒なものが現れ、本物は宝物館に安置されている。

マヨール広場は、王位継承戦争に協力したサラマンカに感謝し、フェリペ5世が18世紀に建造した。チュリゲラ様式を広めたチュリゲラ兄弟の末弟アルベルトとその弟子が手がけた。スペインで最も美しい広場と言われる。北側の時計台がある建物は市庁舎。南側の建物の壁にはフェリぺ5世の胸像のレリーフが飾られている。あいにくの雨でゆっくり見られなかった。

11世紀にイスラム教徒から町を取り戻したアルフォンソ6世の娘婿ライムンド伯爵が、1090年から9年間かけて防備のために築いた。全長2,5km、幅約3m、高さ平均12mで、90の塔を持つ。

1時間20分ほど走るとアビラの町がある。クレドス山脈の北側に位置するアビラはかってこの地がイスラム教徒との戦いの最前線であったために、旧市街全体を囲む巨大な城壁が造られた。旧市街が一望できる「クアトロ・ポステル」で町を眺める。

ビスカヤ橋観光後、約40km、約1時間30分走り、ゲルニカの街に入る。スペイン内戦中の1937年4月26日、フランコ軍に味方するナチスの空軍機がゲルニカを襲った。史上初の都市無差別爆撃により2000人以上が死傷し廃墟と化したこの町は、その後生まれ変わった。ゲルニカはバスクの文化が最も強い都市のひとつで、住民の多くはカスティーリャ語とバスク語を話す。

6日目

セコビアは標高1002mの城塞都市。15世紀にはカスティーリア王国の中心として、重要な役割を果たした。

ステンドグラス

カサ・ロス・ボティーネス ガウディが設計した建物で、建物の四隅にそびえる尖塔がガウディの作と思わせる。現在は銀行として使われている。前にガウディがベンチに座っている像があり一緒に記念撮影。

ビルバオ

夕食は、自由だったので、ホテルのレストランでピッツアを食べた。違うピッツアを2枚頼んだらLサイズ出来たので、お隣に分けたら、生ハムのお返しをいただいた。

サンタ・マリア教会

コンスティトゥンシオン広場 市庁舎(現在は図書館になっている。)

人工の滝

9日目

散策後、約28km、約30分でサン・ジャン・ドゥ・リュズに着いた。

サン・ジャン・ドゥ・リュズ

バイヨンヌ

サン・セバスティアン

アストラガ

4日目