加賀屋に泊まる北陸の休日

H1.24.01.06〜08

2日目

朝8時30分に家をでて、JR、新幹線、京浜急行を乗り継ぎ、羽田国際空港に着いた。飛行機は、定刻13時に離陸し、13時50分には、小松空港に着陸した。宿に着いて、新聞によると、野球の松井選手が、2時過ぎの飛行機で、小松空港から、東京に向かったという記事が載っていた。

五箇山民俗館は、菅沼集落の家屋のひとつを資料館として公開している家です。一階は住居の様子を、2階は生活用具や養蚕に使った道具などを展示してあります。その近くに、塩硝の館がある。そこは撮影禁止でした。

白川村の合掌造りのなかで、最大規模を誇る和田家住宅は、式台つきの玄関など格式の高い造りで、江戸時代初期と見られる建築文化の粋を今日に偲ばせている。和田家は天正元年(1573)から代々、弥右衛門の名を継ぎながら、江戸時代には、庄屋や番所役人を務めるとともに、白川郷の重要な収入源であった塩硝の取引によって栄えた。現在、半分は住居として使いながら、半分を公開している。   一階は住居、2階は倉庫、三階以上を養蚕に使っていた。蚕の糞は塩硝の原料として重要だった。

和倉温泉・加賀屋

東町ひがし 藩政時代、金沢城下への入り口にあたる、北国街道の朝野川、犀川両大橋界隈には、御茶屋が立ち並んでいた。文政3年に、加賀藩の許しを得て、この「ひがし」の茶屋街が犀川外の「にし」と共に開かれた。以来、城下随一の賑わいを見せた。通りに面して、一階をそろいの出格子にして、二階を吹き放しの縁側とするお茶屋が並ぶ町並みは、幕政末期以来の茶屋街の特徴をよく現している。

和倉温泉は、七尾湾・和倉の浦にある温泉で、開湯1200年と言われる。傷ついた白鷺が癒しているのを見た漁師が発見した温泉であると言われている。。和倉とは、「湧く浦」で、つまり、湯の湧く浦(入り江)の意味で、海の中から発見された。温泉は塩分を含み少し塩辛い。

塩硝は、家の縁の下に穴を掘り、蚕の糞、ワラ、土を重ねてそのうえにおしっこをかけてる培養法で造る。

白川郷は、岐阜県内の庄川流域の呼称である。白川郷の萩野地区合掌造りの集落でしらる。独特の景観をなす集落が評価され、箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に、世界遺産に登録された。   合掌造りとは、急勾配の屋根を持つ日本の住宅様式のひとつである。   勾配は、45度から60度で萱葺き屋根である。    ユネスコは合掌造りの定義を「小屋内を積極的に利用するために、切妻造りを屋根とした萱葺きの家屋」とした。名前の由来は、掌を合わせたように三角に組む丸太組みを合掌と呼ぶことからきたと推測される。高山市の旧荘川地区の合掌造りは入母屋屋根になっている。

この公園は、埋め立てられるまで、「弁天島」という海に浮かぶ島でした。亀そっくりの亀岩は、埋め立てられた後に残った弁天島の一部で、長さ6.5m、幅5mほどで、昔この岩の周囲から温泉が湧き出ている様子が、亀が海の中で息をしている様に見え、人が落ちたら、浮いてこないなどの伝説も残されている。

能登半島の食材を使ったお料理を仲居さんの接待で、堪能する。夕食の後、30分のショーを見て、錦小路から錦大路のお土産処でお土産を買った。

昭和56年から平成21年まで、29年間連続総合一位の旅館で(プロが選ぶホテル・旅館100選)、12階建ての能登渚亭、20階建ての雪月花、9階建ての能登客殿、8階建ての能登本陣があり、客室は合計232室で、最大1500人泊まれるそうです。ツアーの基本プランは客殿宿泊でしたが、2万円アップで、雪月花に泊まれると言う事で、雪月花にしました。

霞ヶ池ことじ燈籠 足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ていることからこの名前が付いた。 

五箇山の養蚕

であい橋

虹橋

瓢池海石塔

五箇山塩硝のおこり
400年ほど前から、加賀藩の支配下にあった五箇山では、火薬の原料である塩硝作りがさかんに行なわれた。山深い秘境は、幕府の目を逃れるには好都合であったらしく、素朴な技法の塩硝作りは明治初期まで続けられた。

五箇山 菅沼合掌造り集落

子供達が雪穴を造って遊んでいた。

バスで、展望台まで上がり、上から白川郷を眺める。雪が舞っていたが、見ることが出来た。その後、白川郷を散策する。

白川郷

七里が浜

3日目

噴水 この噴水は、上にある霞ヶ池を水源としており、自然の水圧で上がっている。通常は、3.5mで、池の水位の変化によって変わる。日本最古の噴水である。

石川門は、三十三間長屋と共に、旧金沢城の数少ない遺構のひとつである。1788年に建立された。今は雪で白く輝いているが、鉛瓦を使用しているので、いつも白く輝いている。

唐崎松 13代藩主斉泰が琵琶湖湖畔の唐崎から種子を取り寄せて、実生から育てた黒松で、11月に雪吊り作業を始める。

東町をはずれ、卯辰山に登る。坂に「子来坂(こきざか)と書かれた石柱があった。{慶応3年卯辰山が開拓された時、作業にでた住民が子供が来るように賑やかに登ったのでこの名前が付いた。今はこらい坂と呼んでいる。}と書かれていた。宝泉寺まで上がり、兼六園方向や、東町を眺めた。 これより上は地図によると寺が多くある様です。

五箇山では、4月下旬から5月にかけての春蚕、7月から8月上旬掃きの初秋蚕(なつご)、9月までの晩秋蚕(あきご)の3回の養蚕がおこなわれていた。 蚕を掃きたててから、簇にあげるまでが約1ヶ月位で、まぶしから繭をかきとって出荷するまでを一回で40日は要した。五箇山では、冬を除いて、殆ど養蚕の作業で賑わっていました。

細かい砂が適度な塩分を含んで固まり、車が8kmに渡って疾走する。羽咋の地名は、開発神の石衛別命がこの地から滝崎に住む怪鳥を射殺した伝説に由来する。昔は幅が100mほどあったが、最近は10mくらいに減ってしまっていて、土手を崩したりして砂浜の確保に努めているようだが、何年かすると、なくなってしまう恐れがあるそうです。   渚ハイウエイは、今日は、車の乗り入れが禁止で、走れませんでした。 

弁天社、高浜虚子、佐々木信綱の歌碑などもあります。

亀岩

源泉の供給施設。

翌朝、1月7日ということで、七草かゆを用意してくれた。部屋の窓から七尾湾の海がよく見えた。

和田家住宅

兼六園は、江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴をそのまま残している。もともとは、金沢城の外郭として、城に属した庭であった。

雁行橋

湧浦の湯壷

出発までの時間、宿の前にある、湯元の広場、・弁天崎源泉公園を散策する。

夕顔亭 園内で最も古い建物で、1774年に建てられた茶室である。茶室の次の間の袖壁に、夕顔(瓢箪)の透かしがあるので、この名前が付いた。

この後、昼食をとって、小松空港から羽田空港に無事に下り立った。3日間、雨あり、雪あり、晴れ間ありのお天気でしたが、北陸は冬はこんな感じで、(弁当忘れても、傘忘れるな)と言われているそうです。一度行ってみたかった白川郷の冬景色を見ることが出来ました。

雪下ろしをしている人