本堂の左側に、「百雁木」という123段の自然石の石段を上って行くと宗家代々のお墓が並んでいる。日本三大墓地といわれる。(金沢の前田藩墓地、萩の毛利藩墓地) 境内には3本の大杉があり、樹齢1000年以上と言われていたが、調べたところ、300年くらいだそうです。
H.23.10.13〜15
東洋一の黒崎砲台跡の図
彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) (山幸彦)と豊玉姫命を祀っている。鳥居が海の中まで並んでいて、潮が満ちると神社の中の川も海水で一杯になり、鳥居は海の中に建っているようになる。私達が行った時は潮が引いていたので、土台まで出ていた。 山幸彦がたどり着いた「海宮」との伝承もある。
壱岐・芦辺港〜<ジィェットフォイル>〜対馬・厳原(しではら)港 (1時間5分)
前の日に名古屋のホテルに泊まり、駅前からバスに乗り、名古屋空港へ。5月30日にも、この旅行に参加するために、ここまでは同じでした。台風で、船が出ないとのことで、空港で解散となり、家に帰りました。今回は、無事に福岡空港まで、行くことができました。
諫鼓 領主に対して諫言しようとする領民に打ち鳴らさせるために設けた鼓。諫鼓鳥とは、諫鼓の上を鳥が飛ぶように諫鼓をを打ち鳴らす必要がないように領主が善政を施すことをいう。
岳の辻展望台 (郷ノ浦町)
昼食のため、うに工場の二階にあるあまごころ本舗で、うにの説明を聞いた後、「うに飯定食」を食べて、最初の観光地、郷ノ浦町にある黒崎砲台跡に着いた。1922年のワシントン軍縮会議で、主力艦を廃棄することになる。その頃建造中だった戦艦「土佐」は、軍縮の取り決めで、沈められた。しかし、主砲を保管し、昭和8年、黒崎砲台が完成する。対馬海峡を航行する艦隊を攻撃するために造られたが、一発の砲弾を発射することもなく、昭和25年に解体された。
和多都美神社 (豊玉町)
男岳神社・石猿群 (芦辺町)
福岡空港から、バスで博多港に移動する。時間があったので、福岡タワーに上り、博多の街を見渡した。博多港には、福岡競艇場があり、ボートが練習をしていた。
鬼の窟古墳 (芦辺町)
墳丘の直径が45m、高さ13,5mの県下最大級の円墳で、6世紀末に造られ、7世紀後半まで追葬された。三室構造の両袖式横穴古墳で、石室を巨大な玄武岩を積み重ねて築くため、巨石噴とも言われる。壱岐島では、現在260基の古墳が確認されている。
壱岐は玄界灘にある島で、九州と対馬の中間に位置する。古事記には、伊伎国と書かれ、国土誕生の際、日本で最初に出来た大八島のひとつとされる。魏志倭人伝には、邪馬台国の支配下にあった一支国が存在したと記されている。
万松院(対馬・宗家の菩提寺) (厳原町)
椎根の石屋根 (厳原町)
三柱鳥居 磯良恵比須の盤座には、鱗状の亀裂があり、磯良の墓ではないかという伝説もあり、古い祭祀における霊座か御神体石だったのではないかともいわれている。
郷ノ浦の東方にある岳の辻は、標高213mで、玄海灘に周囲を囲まれた壱岐島の最高峰で、天気が良ければ、九州本土や対馬も見渡せる。しかし、朝からの雨で、景色は殆ど見えなかった。写真は、狼煙台と龍光神社です。
対馬歴史資料館に寄った。その前に朝鮮国通信使之碑が建っていた。資料館には、宗家文庫や資料、大陸との交流を示す資料が収蔵されている。
武家屋敷跡 (厳原町)
黒崎砲台跡 (郷ノ浦町)
韓国に近く、韓国人の観光客が多いということで、看板やあらゆる所にハングル文字があふれていた。天気が良ければ、朝鮮半島が見えるということだったが、雨が降って見ることは出来なかった。朝鮮半島と近いということで、交流も盛んで、また元寇などの被害も受けている。のどかな島で、もっとゆっくりまわりたいと思った。
左京鼻竜神
万関橋 (美津島町)
ジェットフォイルで、1時間5分ほどで、壱岐・芦辺港に着いた。お天気もよく、波も穏やかで、80k/h出るというスピードが感じられず、「いつ、スピードが上がるのかな。」と思っていたら、もう75キロくらい出ているということでした。
砲身の長さ 18m
砲身の重さ 150t
砲の直径 40cm
砲弾の直径 40cm
射程距離 35km
前は、入り口から入って中を見学できたのだが、今はひびが入って危ないので、入れない。上に上がって砲台のはずされた穴をのぞく。
山門 桃山式建築 1615年(元和元)建立
金石城は、市街をはさんで北東隣の桟原城と合わせて厳原城とも言われる。文禄・慶長の役の際に置かれた清水山城の麓に位置する平城で、宗氏の居城で、金石屋形とよばれる館であった。朝鮮通信史を迎えるため、近代城郭に改築したといわれ、石垣や堀切が廻らされていたが、天守は築かず、大手門を天守の代用とした。城跡は国の史跡にしていされて、跡地を利用した庭園が国の名勝とされている。
砲台からしばらく行くと、猿岩に出る。黒崎半島の突端にある岩で、高さは約50m。この方角から見ると、猿が横を向いて座っているように見える。まつげまで付いている。
対馬髭地鳥鍋定食の昼食をとって、ジェットフォイルで博多港まで帰り、福岡空港〜名古屋空港〜バス〜新幹線と乗り継ぎ藤枝に着きました。
対馬は、玄界灘にある長崎県の島。本土から132km、韓国まで50kmという国境の島である。魏志倭人伝にも「韓国よりはじめて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る。・・・・居るところは絶島にして森林多く、道路は鳥と獣の小道のごとし。千余戸あるも、良田なく、海物を食らいて自活し、舟に乗りて南北にしてきす。」とある。米ができなかったので、壱岐や韓国から買っていた。
厳原は古代には国府、中世から近世にかけて対馬藩主宗家の居館が置かれ、政治、経済、文化の中心として栄えた城下町だった。その名残の石塀が残っている。大きな石を並べ、その間に小さな石を入れるという技法で作られている。今は、塀だけで、古い屋敷は残っていなかった。
椎根の石屋根倉庫は、穀物を中心とする食物や、日常生活用品を保管するために使われた。現在もその機能は変わっていない。ガイドさんによると、前に見たことがあって、食料はもとより、衣料や布団、通帳や現金も保管されていたそうです。ひし形の金属がついていて、めくると、鍵穴がある。鍵をあけるが、二重になっていて、鍵穴からのぞくことはできないそうです。 以前は、全島的に石屋根倉庫が造られていたが、近年は、厳原町の西海岸に残っているに過ぎない。この倉庫は「島山石」を使い、その様式を伝えている。 このあたりには、石を瓦に葺き替えた倉庫もあったが、何軒も残っていた。
神社の横は小茂田浜の海岸になっている。添乗員さんと。
この地は、元寇の古戦場で、1274年(文永11年) 1281年(弘安4年)に蒙古襲来で、対馬全土が酸鼻を極める惨状を呈した。宗助国公以下国難に殉じた人を祀り、毎年11月に大祭を行なう。
小茂田浜神社 (厳原町)
3日目
対馬グランド・ホテルは、部屋は綺麗で、お風呂も良かったが、食事が定番のお料理でした。
日本有数のリアス式海岸の浅茅(あそう)湾の中央に位置する烏帽子岳は標高176mで、天気が良ければ朝鮮半島まで見渡せると言うが、今日はあいにくの雨で、折角、長い階段を息を切らせて上ったのに、少し見えただけでした。山々では、紅葉が少し始まっていました。
烏帽子岳展望台 (豊玉町)
万関橋は、旧海軍が戦艦を通すために、切り開いた万関水道にかかる3代目の橋。平成8年にかけられ、橋長 210m、橋高 2.5mの橋です。1代目は明治33年にかけられた。ギリシャのコリントス運河に似ていた。
港についてから、昼食だったが、場所はひどかった。ろくべえ定食ということで、こんにゃくのようなものが浮いた汁が付いていた。ろくべえとは 長崎県島原半島と対馬に郷土料理として伝わる麺料理。サツマイモを細かく切ったものを発酵させて澱粉質を取り出したせんだんごを原料に用いる。せんだんごを水に戻し、湯の沸いた鍋の上で、穴の開いた鉄板で押し出し茹で上げる。手間はかかっているが、あまり美味しいものではなかった。気持ち悪いといって食べなかった方もいるようです。
男岳(おんだけ)神社のある山は魚釣山で、壱岐で3番めに高い山で156mあります。鳥居のところで、3匹の(聞か猿 言わ猿 見猿)が迎えてくれます。階段を登り、随分と歩いた先に神社はありました。展望台もありましたが、雨が降っていたので、登りませんでした。 石猿を奉納する習慣はそう古くなく、最初は、牛の平安や繁栄を祈願して石牛をあげていたのが、段々、石猿をあげるようになった。祭神が猿田彦命」の関係で、そうなったようです。現在、石猿が230体、石牛が30体ほど奉納されています。
一支国博物館 は黒川紀章氏が最後に設計した建物です。魏志倭人伝」に記された一支国の王都とされる原の辻遺跡や島内の遺跡に関する資料や出土品を収蔵展示している。2010年3月にオープンした。 また、近くには原の辻復元公園があり、登呂遺跡のように復元されている。
2日目
郷ノ浦港にある「ビューホテル壱岐」に泊まった。お部屋も綺麗で、お料理も美味しかった。参加者の2人が、釣竿を借りて、魚釣りをして、沢山の魚を釣ってきました。これは、唐揚げにしてもらった魚です。お相伴にあずかりました。
八幡浦の海辺に立つ6体のお地蔵さんです。お腹に丸い穴がいているので、この名前が付いています。満潮時には、小さなお地蔵さんが隠れるくらいに海水が来るので、お供え物が流されないようにと穴を開けたそうですが、随分小さな穴でした。何回か移動させられて、今はここに安置されています。鯨がとれますようにとか、遭難した海女さんの冥福を祈るとか、疫病が流行らないようにとかいろいろ言われているそうです。
はらほげ地蔵 (芦辺町)
八幡半島の先端にあり、前の海は玄海灘。玄武岩の柱状節理が発達してできたもので、観音柱と言われる。昔、神が壱岐の島を作った時、流されてしまわないように周囲に8本の柱を立てて島を縛った。これはその1本で、最近まで中央2本の柱が建っていたが、玄海地震で1本になってしまった。
壱岐は麦焼酎発祥の地で、米麹と大麦を1:2の割合で麹を熟成させた後、蒸留し醸造される。「壱岐の蔵」では、今は製造していないとのことで、製造過程を見ることは出来なかったが、試飲をして、好きな方は買い求めていた。
月読神社 (芦辺町)
金石城跡
清水山城の跡
壱岐
左京鼻 (芦辺町)
朝鮮王国から贈られた三具足
元寇700年の碑とある。
古事記によると、イザナギノミコトとイザナミノミコトが天照大御神の次に生んだのが月読命で、京都の月読神社は、487年壱岐の県主の先祖オシミノスクネが壱岐から分霊したもので、神道の発祥の地とされる。
古墳の入り口から中をのぞくと、ずっと先に石棺があり、仏像が置かれていた。
後の写真は、砲台があった頃の写真で、兵隊さんが働いている所も写っていた。
右 戦艦大和の主砲砲弾 左 黒崎砲台砲弾
黒崎砲台跡入り口
ソバの花が咲いていた。