五郎の首かけ石。勇将木山弾正の遺子と伝えられる横田五郎は、横手町に育ったのでこの名が付いた。父弾正は、天草一揆の時に、清正に破れ戦死した。築城人夫に身をやつし、父の恨みを晴らそうとしていた。その素性を見破られ、井戸掘りをしている時生き埋めにされた。この石は1800kgあるが、五郎が首にかけて運んだものと伝えられている。
H.24.10.07〜10日
雲仙岳とは、普賢岳、国見岳、妙見岳の三峰と五岳からなる、「三峰五岳の雲仙岳」と言われる。1792年に雲仙岳眉山で発生した山体崩落と是による津波災害は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれ、肥前肥後合わせて死者・行方不明者15000人の有史以来日本で最大の火山災害となった。主峰は普賢岳だが、1990年から1995年の火山活動で形成された平成新山のほうが高い。1991年の火砕流により43名の死者行方不明者を出した。
2000年から2001年にかけて、日蘭交流400周年記念事業として、平戸港交流広場から松浦資料館に通じる沿道に歴史上の人物のブロンズ像が設置されている。
藤枝からJR,京急と乗り継いで、羽田空港へ。12時20分のJAL機で福岡空港に飛んだ。添乗員と合流し、43名とバスは満席状態で、旅行が始まった。福岡県、佐賀県と走り、長崎県に入り、平戸に着いて平戸千里ヶ浜温泉に泊まった。
加藤清正は、「文禄・慶長の役」の際に、明・朝鮮連合軍を相手に、「泥水をすすり、死馬の肉を食らう」という苦しい篭城戦をしました。その経験を基に城内に井戸を120以上掘ったとされています。深さ水面まで40mあります。
阿蘇温泉郷に泊まる。熊本のユルキャラ「クマモン」と一緒に。
生月島
平戸
宇土櫓。熊本城に残る唯一の多層櫓で、古くから小西行長の宇土城天主を移築したものと伝えられ、宇土櫓の名前の由来とされていた。解体修理の結果、熊本城内で創建されたものであると明らかにされた。清正が創建した初代の天主ではないかという説もある。内部は、武者走りの廊下などがある。
2号橋
佐世保は、長崎県では長崎についで2番目の人口で、約26万人である。旧海軍が置かれた港町であり、現在も造船、国防の町として知られている。造船所や大きなクレーン、港には戦艦などが目に付く。
松浦資料博物館。松浦氏は、嵯峨天皇の皇子源融を始祖とし、以来嵯峨源氏を名乗ってきました。室町時代末期に平戸の領主に松浦隆信、鎮信親子がでて、積極的に南蛮貿易を行い、平戸は大いに勢力を伸ばし、江戸時代に平戸藩を確立した。博物館となっているこの地は、蘭英貿易時代の藩主邸「御館」跡で、石垣と石段は当時のままです。松浦隆信の銅像がある。
私は、ずっと前に、熊本城を見ているが、夫は初めてということで、駆け足で城内を見学した。修学旅行生が沢山見学に来ていた。本丸御殿も綺麗に復元され、掛川城の御殿とは叉違う感じで、良かったです。
街の中には、加藤清正の像がある。江戸時代熊本藩の大半を治めたのは、細川氏だったが、西南戦争で天主が焼失する様を見て、庶民は「清正公(せいしょこさん)の城が燃える」と悲しんだという。また、熊本城を攻め落とすことが出来なかった西郷隆盛は、「おいどんは官軍に負けたのではなか、清正公に負けたとでごわす」と言ったとか。今でも清正公は、街の人に慕われている様です。
塩俵の断崖。島の西部は殆どが断崖だが、ここの奇岩は柱状節理といい、溶岩台地の上に玄武岩が重なり、垂直方向に亀裂が入って、五から七角形の断面を造ることにより、柱がいくつも立っているような形になっている。南北に500m、高さ約20mの規模で広がっている。
手湯、足湯
平戸港交流広場から、教会坂を上がっていくと、寺院と教会の見える風景がある。光明寺、瑞雲寺と平戸ザビエル記念教会が一緒に見える。
生月大橋を渡って生月島に渡る。生月大橋は、平戸島と生月島の両島を隔てる辰の瀬戸をまたいで連絡する道路橋(トラス橋)である。長さは960m(前後の高架橋を含めると1332m)
熊本城。日本3名城の一つで、加藤清正が最多の実戦の経験を生かし、慶長6年から7ヶ年の歳月を費やして完成したものと伝えられる。周囲5,3kmに及ぶ豪壮雄大な構えで、120余りの井戸を掘り、かっては櫓49、櫓門18、城門29を数えた。明治12年の西南戦争で多くの建物を焼失したが、薩軍の猛攻撃に耐え、名城としての真価を発揮した。熊本城の石垣は、特異な勾配と堅牢さでしられ、「武者返しの石垣」と呼ばれる。現在の天守閣は、昭和35年に再建された。
天草国立公園の中での絶景は天草西海岸の妙見ヶ浦で、奇岩。、洞門が連なっている。
島の最北端は約100mの断崖になっていて、大バエ断崖と言う。その断崖に大バエ灯台が立っている。この灯台には階段が付いて展望台にもなっている。晴れた日には壱岐・対馬も見えるそうです。手前に鯨島、向こうには的山大島が見える。バスに戻り、「日本本土・最西北端の島到達証明書」を貰った。(100円だそうです。)バエとは、鼻のことで、突き出た所と言う意味だそうです。
長塀と坪井川
1号橋
4号橋
天草パールラインを走り、天草5橋を渡ります。天草五橋は、熊本県宇土半島先端の三角から天草諸島の大矢野島、永浦島、池島、前島を経て天草上島を結ぶ上天草市内の五つの橋の総称で、1966年に開通した。途中天草パールセンターでタコ飯の昼食をとる。蛸壺に入ったタコ飯は美味しかったが、量が少なくおかわりが出来なかったのが残念でした。
大江天主堂。天草のキリシタンは、江戸幕府の禁教時代にも隠れキリシタンとしてひそかに信仰を続けた。フランス人神父ガルニエは、明治25年32歳でこの地を訪れ昭和61年、82歳で亡くなるまで、布教を続けた。天草言葉を巧みに操り、「パアテルさん」と親しまれた。現在の天主堂は神父が信者と協力して昭和8年に完成させた。明治40年の北原白秋らの「5足の靴」の旅は、パアテルさんに会うのが主な目的で、天主堂を訪れ、ガルニエ神父に会っています。二人のシスターが迎えてくれました。
朝、ホテルを出て、雲仙岳や今はすっかり復興したが噴火の火砕流で流された所などを通って、口之津港から島原湾をとおり、鬼池港に30分ほどのクルージングで着いた。
3日目
佐世保から諫早を通って島原に入る。諫早では、「スポーツクラブ内村」をガイドさんが教えてくれた。体操の内村選手の実家で、彼の体操人生の原点でもある場所である。 島原温泉 ホテル南風荘に宿泊した。ここは、今回の宿の中では一番良かった所です。OPの「あわびの踊り焼き」は美味しかったが、奥尻島の蝦夷あわびほどの大きさしかなかった。
佐世保鹿子前町にある西海パールシーリゾートで昼食をとり、鹿子前港から九十九島を回遊する。九十九島には208の島がある。九十九とは、数え切れないほどの沢山の島があるという意味で、江戸時代中期にはこの呼び名があった。島の数え方は、満潮時に水面から出ていること、陸の植物が生えていることだそうです。島には、色々な名前が付いている。島の中には、人が住んでいる島が4ある。黒島(約600人)、高島(約300人)、前島(86人)、ドウ泊島(71人)これ以外はすべて無人島です。50分の遊覧を楽しんだ。
平戸城が見える。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。
大蘇鉄、江戸時代初期の平戸には、イギリスの東インド会社による貿易の窓口が置かれていた。樹齢400年になるこの大蘇鉄は、当時の貿易商、川ア屋の庭に植えられていたものである。
六角井戸、明の海商、王直は1542年、松浦家25代隆信の優遇をえて、平戸に居を構え、貿易を行い、多くの明商人が平戸に定住した。この井戸は当時、明の様式で造られたといわれ、六角の石柵でおおわれている。大勢の人が一度に水を汲めるということらしい。
平戸ザビエル記念教会。平戸は、日本で初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民が洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かった。昭和6年に現在の教会堂が建てられ、昭和46年に聖フランシスコ・ザビエルの像が建てられ、聖フランシスコ・ザビエル記念教会と呼ばれるようになった。数年前に外観を塗り替えたと言うことで、綺麗な教会だった。
じゃがたら娘像
平戸オランダ商館1639年築造倉庫(復元)、日本で初めての洋風建築物。
明治40年夏、新詩社の与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野真理が富岡に泊まり、わらじがけで、大江教会にガルニエ・パーテルさんを訪ねた。昭和7年鉄幹は晶子夫人を伴い籠でこの地を訪れ数々の名歌を残した。
平戸大橋は、平戸島と本土を隔てる平戸瀬戸にかかるつり橋。長さは665m。
熊本空港から羽田空港に飛び、京急、新幹線、JRと乗り継いで帰ってきました。お天気にも恵まれ、島々と綺麗な海を見ることが出来ました。
天草四郎は、島原の乱首謀者とされている人物で、幕府の攻撃による原城の陥落により、自害したとされている。16歳の少年が大規模な反乱を組織したり、戦いを指導したとは考え難く、実際の主某者は、庄屋や浪人たちで、四郎は祭り上げられた性格が強い。様々な奇跡を起こし、キリシタンの間で、神格化され、救世主として擁立された人物である。
本丸御殿の庭のあったところに、清正が植えたと言われる大イチョウがある。この城は別名銀杏城とも言われる。
阿蘇草千里に行く。阿蘇山は熊本県阿蘇地方に位置する活火山で、正式には「阿蘇五岳」と言う。世界でも有数な大型カルデラと雄大な外輪山を持つ。
西海橋公園は、佐世保市と西海市にまたがっている。1955年に西海橋が架橋され、橋の両側の丘陵地に桜とツツジが植栽され、橋直下の針尾瀬戸の渦潮と合わせて、観光客を集めた。西海橋は、アーチ橋である。2006年には平行して新西海橋が開通した。鋼中路ブレースドリブアーチ橋の主橋部と連続ラーメン箱桁橋の入り江部からなる。桁下には歩行者専用道路があり、下の渦が見えるような窓も開いている。また、真珠湾攻撃の指令を発信した針尾送信所無線塔が見える。
針尾送信所跡
オランダ橋は三十三代藩主雄香公の命で、1702年に築造された石造単アーチ橋。
2日目
パールセンターの天草四郎の像 タコ飯
与謝野夫妻の歌碑
リチャード・コックス、甘藷を広めたイギリス商館長。
ウイリアム・アダムス、オランダ貿易会社の航海士。和名「三浦安針」
王直、中国船・南蛮船を手引き。大海賊の首領。
フランシスコ・ザビエル、平戸にキリスト教を広めた。
道の駅・生月大橋から見た生月大橋
新西海橋
西海橋
車えびの養殖池
4日目
ホテルから見えた阿蘇山
大天主・小天主
復元された本丸御殿の内部