三光台・江戸時代末期、蜂谷理八の設計により、船津町の名匠、石田春犀が屋台を新築した際,日、月、星に因んで改称された。(旧竜門台)見送り枠の上部に巻き付いた竜の彫刻と、見送りの「虎図」と対で「竜虎」を表現している。

H.29.4.19~20

毎年1月15日に「三寺まいり」が行われる。1月15日浄土真宗の開祖・親鸞聖人のご遺徳を偲び、円光寺、真宗寺、本光寺の三つの寺を参拝する伝統行事。目抜き通りには2mをこす雪像ろうそくが立ち並び、瀬戸川沿いには千本のろうそくが灯され、古川の冬の風物詩となっている。 明治、大正時代、信州の製糸工場に出稼ぎに行った娘たちが12月末に帰省し、着飾って三寺参りに出歩いたことから、嫁を見たてる良い機会となり、多くの縁が結ばれたという。

飛騨古川祭り

各町内にある「付け太鼓」と呼ばれる小太鼓を立て、若者がその周りを囲み、上にかけ上り、お腹を軸に掛け声に合わせてまわる。上に上がれない人もいて、肩を貸し、足をもちあげ、上に上げる。こんなことはここに来ないと見られない光景です。傍にいた幟をもった中学生に聞くと、今日は祭りに参加する人は休校で、明日は全員休みだそうです。付け太鼓に上がっている人は全員学校を卒業した人だそうです。寒いのに裸同然の格好で頑張っています。

毎年4月18,19日に行われる「古川祭り」に行きたいと夫が言い出したが、もう日にちが迫っていて宿がとれるかどうか分からなかった。ネットで調べ、全滅で、一軒一軒電話を掛けた。あきらめかけた時に、「今、キャンセルが入った。」と云ことで幸運にも「のとや旅館」に泊まれることになった。

雨も上がり、「宮本組」の獅子舞を見た。宮本組は神輿巡行を先導しながら、町内各所で獅子舞を奉納する。2日間で、氏子の家々を回ります。

円光寺・室町時代の様式を今にとどめるお寺で、棟の両側の妻に「水よびの亀」があり、明治37年の大火から寺を守った。山門は増島城門を移築したものと言われている。

子供たちのお囃子演奏が上手でした。たくさん練習をしたんでしょうね。

祭り広場には、今夜の主役の起し太鼓が濡れないようにビニールに包まれて、出番を待っている。「飛騨古川祭り会館」に入り、からくり人形の実演を見た。3Dビデオによる祭りの紹介を見て、祭りの全容が分かりました。

早朝家を出て、新幹線で名古屋へ、「ワイドビュー飛騨号」で高山へ、乗り換えて飛騨古川に着いた。曇り空からは今にも雨が降って来そうだ。駅前は祭りの支度でごったがえしていた。「のとや旅館」に向かい、荷物を置いてすぐに祭り見物に出かける。今日はお天気が悪いので、屋台の曳揃えはないというので、屋台蔵をまわることにした。

白虎台の蔵に着くと、台に梯子がかけられ子供が上っていくところだった。下段が高く飛騨最古の様式を残す貴重な屋台。昭和59年の大改修の際、踊り台と源義経の人形を復元した。百数十年途絶えていた子供歌舞伎を復活させた。謡曲「橋弁慶」に合わせて弁慶と義経が演舞する。

青龍台の蔵に行くと、からくりが始まっていた。謡曲「鶴亀」に合わせ、25本条の糸で操られる。福禄寿の肩にかけた梯子を唐子が登り、福禄寿の長い頭の毛剃りを表し、左手の持つ亀が鶴に変わる。大津絵「外方の梯子剃り」を題材とした巧妙な糸カラクリである。

古川の春の訪れを告げる古川祭りは、気多若宮神社の例祭で国重要無形民俗文化遺産「山、鉾、屋台行事」のひとつとしてユネスコ無形文化遺産に登録されている。19日に行われる「起こし太鼓」は、さらし姿の裸男たちに担がれた櫓上の大太鼓は直径80cm。ちょうちん行列に先導されて、町内を巡る。

2日目

気多若宮神宮で厳粛な神事が行われた後、氏子に護衛された神輿が、獅子、闘鶏楽、采女、舞姫、雅楽を伴い、巡幸し、各く町内で祝詞が奉納される。神輿行列が通る道は、住民の手によって、塩で清められる。

闘鶏楽とは、古くは鳥毛打とも呼ばれ、打ち鳴らす鉦の音から町民は「カンカコ」の俗称で親しんでいた。白地に鮮やかな鳳凰の意匠が施された衣装で鉦と締太鼓を打ちながら巡行する。時々止まっては、丸くなり、演奏する。

駅前や辻などに「」が立っている。祭りの目印となる旗で、神様が降りてくる目印としてたてる。春や秋の祭りの時期に、飛騨各所に見ることができる。

鳳凰台・立派な鳳凰の棟飾りが輝く屋台。児童が歌舞伎を演じた時代もある。現在の屋台は大正11年に、村山群鳳により新築された。

三番叟台・明治37年の大火により大部分を焼失。現存するのは、女三番叟のからくり人形と猩々緋大幕のみとなった。台社を新調し、台名旗を棒持三番叟台として参加している。

神楽台・上段の太鼓に黄金の大鳳凰。烏帽子に直垂の伶人が搭乗し神楽奏楽し、獅子と共に屋台行列を先導する。屋台の外に大きく身体をそらし太鼓を叩く姿は、多くの人を引き付ける。

清曜台・三之町下組と分離の際に改名(旧扇子台)明治26年、曳航中に倒壊する。昭和16年に新築する。極彩色の牡丹は蜂谷理八の傑作。

雨の中、瀬戸川と白壁土蔵街を散策する。白壁土蔵やお寺の石垣を背景に約1000匹の鯉が泳ぐ。大きな鯉だった。冬は寒くなるので、越冬池に移すそうです。約400年前に、増島城の濠の水を利用して、新田開発のために造られた「瀬戸川」は川筋を境に西の方に発展した町人街の裏手に当たるため、背戸川とも呼ばれた。

起こし太鼓は、怒涛の勢いでやってきてあっという間に駆け抜けてしまった。毎年来ているというカメラマンのおじさんは「今年はゆっくりでよかった。」と言っていた。いつもはこれより早く行ってしまうのだと驚いた。

宿のおじさんの案内で、近くの辻で、太鼓が来るのを待つ。やって来たと思ったら、大勢の人々が押し寄せ、行ってしまった。大太鼓の音が響きます。夜中まで続くが、宿に帰って休んだ。

竜笛台

麒麟台

金亀台

各町内にある詰所に置かれた付け太鼓

金蔵獅子(天狗&おかめvs獅子)のおもしろい獅子舞を見る。農作物を食い荒らす獅子を退治する為に、金蔵が戦いを挑む。最初獅子に負かされ気を失い、獅子は毛づくろいを始める。正気を取り戻した金蔵は攻撃を仕掛け、獅子を退治し、村人に感謝される。ゆかいな獅子舞だった。

大工道具 三種の神器 「差し金 墨壺 チョウナ」

祭り屋台の曳きまわし。「白虎台」では子供歌舞伎が行われていたが、昨日とはまた衣装が違っていた。

真宗寺・本堂金箔と飛騨の匠による麒麟、龍、亀の彫刻が見事。匠の技が施された平成の山門も見ごたえがある。

麒麟台では、からくりが始まるところだった。上段から差し出された桶で、かわいらしい唐子人形が謡曲{石橋」に合わせて、花籠を捧げ、中から花が出てくる。童子は喜んで獅子頭を被って舞ううち、五色の花吹雪が激しく飛び散る、中段の側面には十二支の彫刻がある。

20日夜、祭りのフィナーレ「夜祭」が行われる。提灯を灯しながら屋台を曳行する。曳別れの曲を奏しながら、各屋台蔵に帰っていく。 そこまで見ることができないので、15時過ぎの電車で帰途に着きました。
行って見なければ、わからなかったことが多く、華麗で豪壮な祭りを楽しみました。運よく取れた宿も良い場所にあり、上から起こし太鼓を見ることができて、こんな感じと言うのが良く分かりました。夜撮った写真がはぼやけていますが、様子はわかると思い載せました。
 猛烈に混む「高山祭り」と違って、まだ余裕を持って見物できる祭りでした。

清曜台

鳳凰台

神楽台

青竜台

三光台

三番叟台

気多若宮神宮では、神事が延々と行われ、8時近くになり、さらし姿の二人が直径80㎝の大太鼓に乗り、さらしで双方の体をつなぎ、櫓には8人の男たちが提灯を手に乗りこむ。太鼓が鳴らされ、宵祭り始まります。大太鼓にのる「太鼓打ち」は一生に一度あるかないかの名誉なこと。太鼓のばちは柳の生木から自分で切り削って作ります。太鼓打ちのひとりは武者震いなのか、寒いのかガタガタに震えていました。 私達は宿に帰り、行列が来るのを屋根に造った桟敷で待ちます。下を通る通行人が、屋根に乗っている私達を見つけて、カメラを向けたりします。

のとや旅館

金亀台・現屋台は天保12年に完成。先代屋台は安永5年建造で、いずれも当町最古のもの。ゴブラン織りで厚手の純金糸を織り込んだ見事な「双龍図」四方のへりはテフテン生地で、裏地はインド更紗の貴重なものです。

龍笛台・古川の屋台の中で一番大型で豪壮を誇る屋台。両側から見送りを抱えるようにした大きな昇り竜と降り竜が見事である。

夕食の時間に合わせて、宿に帰り、心尽くしの御祭りの御馳走をいただく。起こし太鼓が宿の屋根に造った席で見られるという。その前に「まつり広場」に向かう。

町の辻々では、若者たちが「付け太鼓」と呼ばれる小太鼓を掲げて待ちかまえ、大太鼓めがけて突っ込む。それぞれの町内の名誉をかけて先陣を争う激しい攻防戦は、迫力がある。起こし太鼓の起源は、神輿をお迎え出来るように屋台飾りなどの祭りの準備を始める合図として、太鼓を叩き氏子の眠りを覚まして廻ったことによるといわれている。

朝、起きると、昨日と打って変わって快晴で、朝食をいただき、まつり広場に急ぐ。会場では屋台は各町内から集まってきていた。屋台蔵に入った状態から、2階部分を伸ばし、絢爛豪華な屋台が10台集まっていました。

壱之町通りにある「三嶋和ろうそく店」今日はお祭りで仕事はお休みだったが、店主がいろいろ説明をしてくれた。240年以上続く「生掛け和ろうそく」の老舗。植物原料を使い、すべての作業を手作業で一本一本作られている。赤いのは5kg、白は13kgの大ろうそく

「飛騨の匠 文化館」地元の大工たちにより飛騨の木材を使い、「飛騨の匠」の伝統技術を駆使して建てられた飛騨古川の木造建築の集大成の建物。館内では、匠の道具や技術の展示、木組みを体験できるコーナーもある。

本光寺・明治37年の大火で焼失し、再建された。十四間四面総ヒノキ造りで、飛騨で一番大きな寺である。明治時代に女工たちが寄進した玉垣や、山門も見ごたえがある。