お伊勢参りの参詣者は、江戸方面からは、東海道の「日永の追分」から伊勢路に入り、京方面からは、東海道「関宿の東の追分」から伊勢路に入った。今日は「伊勢別街道」と呼ばれた「江戸橋の追分~関宿」まで歩きます。18.6kmなので、今日中に歩きたいと思います。 この両追分に挟まれた「石薬師宿」「庄野宿」「亀山宿」はひと通りが少なく、寂しい宿だったようです。
江戸橋~関
H.26.06.01
JRを乗り継いで、名古屋まで。途中舞阪、鷲津あたりで濃霧のため徐行運転したため、名古屋に着くのが遅れ、紀勢線はあきらめて、近鉄の乗り場に急いだ。急行に乗り、江戸橋には9時40分に着いた。江戸橋の追分には、大きな常夜灯があります。駅からだと、左折する道が関に向かう伊勢別街道で、右折すると、前に歩いた伊勢参宮街道です。 両方面からの参宮者は、ここで合流しお参りを済ませた人たちは、両方向に分かれた。
ひろびろと 露曼荼羅の 芭蕉かな
かけたかと 松を一望 ほととぎす
中町橋を渡ると、豊久寺がある。境内には句碑が二基ある。
右側には、田んぼが広がり、その中に、古墳のようなものがある。田んぼで働いていたおじさんに聞くと、「この辺りにあった城の家老とその家来の墓」ということだった。「あちらのこんもりしたものもそうだ。平家の落ち武者があそこで自刃したので、手を付けられない。」と言っていた。また「向こうの車が走っている道路は昔は軽便が走っていて、向こうのサークルkのあたりに駅があった。」と教えてくれた。
近鉄名古屋線の江戸橋第2号踏み切を越え、右折します。道なりに歩き、伊勢鉄道線の平野高架橋をくぐり、一身田大古曽に入る。この辺りにも、幕板を下げた伊勢特有の旧家がある。街道沿いに「成願寺」があり、永代常夜灯には外灯が付けられていた。
時間があったら食べていきたいと思っていた「食事処山石」さんの前を通り過ぎ、駅に急ぐ、もうじき3時になる。駅に着くと、すぐに亀山行の電車が来て飛び乗った。伊勢うどんも食べ損ねた。関西線、東海道線と乗り継ぎ7時過ぎに藤枝に着いた。 暑くて大変な旅だったが、大きく間違えることもなく、歩くことができた。
懐かしい関宿の街並みを見ながら街道を歩く。今までまだ整備されていない古い家並みが残る街道を歩いてきたので、関宿はかえって、整備されすぎ、作り物という感じがした。どちらがいいのか分からないが、古い街並みも残す努力を行政ともども続けないと、いづれなくなってしまうのが心配です。
鈴鹿川を勧進橋で渡り、JR関西本線のガードをくぐり、国道1号を信号木崎町で渡る。上り坂を登ると、鳥居が見えてきた。関宿東追分です。
「御厩の松」(亀山市関町古厩地内にあり、往時高さ15M、幹周り6Mの松であった。この松は古代駅家跡の象徴として管理を続けた。東の幹は昭和57年に、西の幹は翌年、松くい虫による蝕害により伐採された。樹齢407年が確認されている。平成7年、「御厩の松」の館を造り、松樹を納めて、永く顕彰するものである。)古い松の幹の輪切りが祀られていた。
旧道は10号線に合流し、この角に「鈴鹿駅跡(うまやあと)」がある。大化の改新後、ここに駅(うまや)が置かれ、駅馬20匹を常駐し、目印に松を植えたと記されている。
名阪国道の高架をくぐり、すぐ右折し道を下る。古厩にも古い家がたくさん残っていて風情がありました。
その先には、「石山観音道」道標がある。石山観音公園には、石仏や摩崖仏があり、時間があれば行って見たいところだった。
県道10号線に合流し、すぐ先の左側に「庚申堂」がある。直前にあった案内によると「庚申塚 青面金剛石像 馬頭観音 石盥」と書かれていた。 お堂のほかに、石仏が何体も祀られている。お堂の中の像が青面金剛石像だろうか?
枡形の先に、「楠原問屋跡・高札場跡」の標識がある。かなり新しく最近作って建てたのではないかと思う。
小堂のY字路も見つけられず、道なりに歩く。急な坂道を上った覚えはないが、急な下り坂になり、山道を下る。県道10号線にでて、右折する。中ノ川を新玉川橋で渡り一本目を左折する。 楠原宿は、関宿に近く小宿でした。宿内には古い家が残り、とてもいい雰囲気です。宿半ばに、枡形が残っています。
林町に入ると、小さな祠がある。祠の先「ウオシン」を左折する。その角の右角には、廃屋になった建物がある。その先に小学校があるので、昔は学校だったのか何も書かれていない。ロープをくぐって玄関の石段に座り休んだ。暑くて食欲がないが、もう13時30分をまわっているので、持っていたパンを飲み物で流し込んだ。少し休んで歩き始める。
池に沿って左折し、道なりに右折すると、池から離れ新立寺の前に出る。県道10号線を横断する。渡るとファミリーマートの角に「安濃鉄道終点林駅跡地→」の木柱が立っている。サークルkではなかったがここがおじさんの言っていた駅の跡地だろう。反対側には、「御神燈」があり、「右さんぐう道」「左り 京道」と刻まれている。
枡形の先、突き当りを道なりに右折すると、横山池の堤に出ます。横山池は、1862年、この地の駒越五郎八翁が、二万両の私財を投じて着工し、1866年に竣工したものである。この池により、この辺り二百町歩の灌漑が可能になった。隣には、「仁王経碑」がある。案内板によると(疫病流行の治除をを目的とし、仁王経上下二巻12191文字を一字づつ書写した小石が碑の下に埋められている。1805年、椋本宿の西と東の入り口に建てられた。
「霊樹大椋従是南二丁」の石標がある。2丁ってどのくらいかなと思いながら、暑いので、行くのをあきらめ街道を歩く。(1丁は約109M)200Mなら行ってもよかったかなと後で思った。光月寺には、椋本の地名の由来となった椋の木があるそうです。高さ18M、樹齢1500年の大椋。
突き当り、百五銀行の角を右折する。曲った角に「左 さんぐう道」と書かれている。関方面から見た表示になっている。そばには、明治の木製「里程標」がある。木製標柱には「津元標へ三里三十三丁八間」「関町元標へ弐里弐丁五十壱間」「大里村字窪田へ弐里弐丁五間」と記されている。これは明治時代に道路の起点、終点、分岐点など知事の定める位置に設置された。明治43年に設置され、この標柱は2代目です。)
旅籠「かどや」があらわれる。軒下には、当時の伊勢講札が沢山かかっている。当時から料理が自慢の旅籠だったようです。今でも営業しているそうです。店の案内板によると(角屋旅館は、伊勢別街道椋本宿の中ほど、鈎の手のように道が屈曲する角で宿泊業を営む旅館です。旅館としての創業は江戸時代で、保管されている伊勢参宮講札で最も古いもので文化3年まで遡ります。) かどやの角を左折する。
旧道は、県道10号線に吸収され、左側には鈴鹿山系の山並みが広がります。伊勢自動車道をくぐり、グリーンロードを横断し、しばらく進むと、椋本宿への分岐点に差し掛かる。JAーSSの左に分岐する。旧道に復帰しました。旧家がところどころに残り、地蔵堂がある。あまりの暑さにこの堂に入らせてもらって、休む。自販機があると、水物ばかり買って飲んでしまう。よく掃除され、イグサのスリッパも用意されたお堂でした。
この辺りには、「造園業」が多く、両側には、さつき、南天など植木がたくさん植えられている。
(ある抜け参りの者が、ここで神宮まであと20日はかかると嘘をつかれ、ここで神宮を遥拝し、松に賽銭を吊るし、引き返した。騙したものが、賽銭に手を出すと、銭は蛇に化身して襲い掛かった。引き返した者は、後に嘘と分かり、改めて参宮にむかい賽銭を取り戻し、無事参拝を済ませた。)という言い伝えがあるそうです。
道は左からの10号線に合流する。大里ミートセンターを過ぎるとY字路になり、右方向の下之庄方面649号線に入る。道路上の地図には、関は左と書いてあるがこれは車のための標識で、旧道は右方向に入る。すぐに「ぜにかけ松」堂がある。
青木地蔵を過ぎ、向沖橋で中の川を渡ると地蔵堂がある。地蔵堂の隣には、「役の行者」を祀った行者堂がある。常夜灯が二基並んで立っていた。
寺を出て、右のほうに歩いていくと、JR紀勢線一身田駅がある。寺町の駅だけあって、立派な駅であった。 一身田踏切を渡り、旧道に合流する。その先に大きな常夜灯がある。案内板によると(窪田常夜灯・高さ8.6mで市内最大である。1817年に造られたもので、伊勢別街道の窪田宿の東端の近江屋、大和屋といった旅籠の近くでつくられた。伊勢神宮へ運んできたが、荷車が壊れたりして、相談してここに建立したと伝えられる。)
明治天皇一身田行在所
山門
御影堂
専修寺唐門
道は、一身田小学校の敷地に沿うようになり、旧道は紀勢線をまたいでいて通行不能なので、真っ直ぐに歩き、毛無川を桜橋で渡る。川のところに「寺内町の環濠」の説明板がある。寺内町とは、戦国時代に、真宗寺院を中心に濠、堀などで防御された自治都市のことで、ここでは、「高田本山」を中心としている。東西500m、南北450mの環濠に囲まれ、濠の内側には2~5mの堤があった。と書かれていた。
街道沿いに「伊勢別街道」の説明板があった。(東海道関宿から分かれて江戸橋で伊勢参宮道に合流する道は江戸時代には「いせみち」「参宮道」と呼ばれ、「伊勢別街道」と呼ばれるようになったのは、明治10年以降と言われる。江戸時代には、楠原、椋本、窪田に宿場が設けられ、主に、京都方面からの伊勢参宮道者の道であった。)、
如来堂