H.22.06.24〜27

中山広場

大連・旅順・瀋陽4日間

普通の建物は内側から閉めるが、ここは外側からここにある棒をこの穴に差し込んでしめたことにするらしい。

旅順軍港のすぐ近くにあり、ロシア風の木造建築の駅である。 大連との間を一日2往復運転している。

市内の東部、大連湾に位置する。1899年から1939年に完成する。この埠頭は大連商業港の発祥の地である。現在はこのむこうに約4倍の新しい港が出来ている。この港から、戦後日本への引き上げ船が出て行った。白いフエリーは北朝鮮行きの船だそうだ。旅客ターミナルもあり、天津、上海、青島などに向かう海の玄関口となっている。  不凍港のため、帝政主義時代には交通の要所として、ロシア、日本をはじめ列強の的になった。

ガイドのウーさん。中国人の手で数字を示す時の手の形を教えてくれた。これは6です。

旧大和ホテル

203高地陳列館

1日目

3日目

路面電車

中部国際空港から、中国南方航空直行便で、(2時間30分)大連に着いた。遼寧省の南部に位置し、同省では、瀋陽に次ぐ大都市である。 大連は、「北方の真珠」と呼ばれる。中国有数の港町であり、アカシア並木の美しい異国情緒あふれる町である。戦前は多くの日本人が住んでいて、当時の建築物が多く残り、日本人街なども残っている。

四書全書を収蔵する七閣のひとつ

満州族のシャーマニズムは多神教で、観音、菩薩、道教などを取り込んでいるが、特に関羽は武の神様、忠義の神として満州人に厚く信仰されていた。清朝が中国全土を支配したあと、北京の八旗の居住地(満城)に必ず関帝の廟が建てられる。  ヌルハチの一代記「満州実録」には、カササギがくわえていた赤い実を食べた天女が身ごもり、愛親覚羅氏の始祖を生んだという神話が書かれている。また、先祖が反乱者に追われていたとき、「神のカササギ」に助けられたという伝説もある。清代には、カササギが一種のトーテムとして、神話化されていた。

奉天大和ホテル(現・遼寧賓館)

交差点に毛沢東の像がそびえる。

瀋陽駅(東京駅を模した旧・奉天駅

旅順は、遼東半島の最西部(突端部)にあり、かっては、軍港としであった。今でも軍港として機能している。

水師営会見所

満州鉄道
 1905年(明治38年)、日露戦争の終結によるポーツマス条約で、東支鉄道(長春〜旅順とその支線)の利権を得た。これにより、南満州鉄道株式会社が設立された。1911年には、丹東と北朝鮮を結ぶ鴨緑江鉄橋も完成。また、満鉄は、炭鉱の経営にものりだし、撫順での露天掘りや、鞍山製鉄所の操業もはじめた。  看板列車である、特急「あじあ号」が走ったのは、1934年(昭和9年)である。大連〜長春701.4kmを平均時速82.5km、8時間30分で走り抜けた。シベリア鉄道とも連絡できたので、当時は東京〜ベルリンという切符の購入も可能であった。路線距離も第二次世界大戦末期には1万km以上に達していた。

ホンタイジの執務室

五彩瑠璃の浮き彫り

旅順の田舎料理

旧満鉄本社

東の部屋、寝室が見える。

飛行機で前の席に座った、中国系の兄弟。

昭陵(北陵)

清の2代皇帝、太宗ホンタイジとその皇后を祀った陵墓。1651年完成する。市街地の北部にあるので北陵と呼ばれているが、正式名称は昭陵といい、清の関外三陵(昭陵、福陵、永陵)のうちで最大規模である。
 参道には、石人、石獣が両側に並び、墓を守っている。「大白」「小白」の2頭の馬は太宗の愛馬を模した物と伝えられている。

大政殿は、清朝初代皇帝ヌルハチの時代に建てられ、皇帝が式典を行なう場所である。モンゴル族のパオをモデルにした八角二層の建物。前には10の小殿が並び「十王亭」と呼ばれ、大臣達の執務室であり、軍隊の詰め所になっている。この十王亭と大政殿の組み合わせは、君臣が同じ場所で執務するという清朝初期の「八旗制度」を色濃く反映する、清朝のパフォーマンスでもあった。

馬をつないでおいた石であるが、今は入り口の扉を押さえるのに使っている。

三層の鳳凰楼、皇帝が三層で酒を飲みながら月を見たという。後宮の正門

時間と計量は皇帝が支配すると言う権力の象徴

大連に戻り東北料理の夕食。8皿でたが、どれも辛かった。東北料理は、味が濃く、辛いのが特徴らしい。

大谷探検隊は、1902年から12年間にわたりアジア全土を踏破し、貴重な文物を持ち帰った。そのときのミイラ2体が安置されていたが、これは撮影禁止だった。

旅順博物館

1904年の日露戦争の主要戦地の一つ。日露両軍はこの高地を争奪するため激しい戦いをし、ロ軍の死傷者5000人余、日本軍は10000人余。日本第三軍司令官、乃木希典は、戦争で命をなくした兵士達を祈念するため、砲弾の残片で13mの慰霊塔を建て、「爾霊山」{203山}と命名した。激しい戦いの後、206mあった山は203mになってしまったと言う。

203高地

1909年に建てられたロシア様式を取り入れた優雅で堅固なデザインの大連大和ホテル。 一時、日露戦争の日本軍の大本営として使われていて、乃木大将の執務室が2階にあった。今は「大連賓館」という名前で営業している。

大連市内観光

文朔閣

舞台

清寧殿は中宮とよばれ、皇帝と皇后の住居である。周りには側室4人の棟も並んでいる。みな、皇后の姉妹だったり、姪だったしたため、争いは起こらなかったそうだ。

神の竿(お礼参りの竿ともいわれ、カラスを大事にしていた。)

(旅順日帰り観光)

2日目

市内を走る路面電車は昔懐かしい旧式の電車だったが、もっと立派な車両も走っている。運転士は殆ど女性だそうだが、私達の乗った車両は男性だった。ほんの15分ほどだった。

町のあちこちにこのような格好の人がいて、掃除をしている。町はとても綺麗だった。

パリのシャンゼリゼ通りを模して造られた、大連の中心ともいえる大きなロータリー。直径213mの円形で、道路が放射状に10本のびている。中央は芝生の公園で、市民の憩いの場所、周囲は銀行やホテルが林立する。  帝政ロシアが統治していた時代の建造物が多く、日本統治時代に大広場と改名された。旧横浜銀行や旧大和ホテルなどが建っている。

市の東にある清の最初の皇宮。太祖ヌルハチとその息子の太宗皇太極(ホンタイジ)が2代にわたって皇居とした所である。第3代皇帝の世祖、順治帝はここで即位した。後金の天命10年に着工し、崇徳元年{1636年}に完成する。乾降・年間に増築され、6万uに300あまりの建物からなる。規模は北京故宮の12分の1である。  皇居は、満、漢、蒙古族などの文化を折衷した建築様式に特徴がある。初めは、盛京宮蕨のちに、奉天行宮といわれた。清の入関後は離宮として用いられた。

瀋陽故宮博物院

大連駅(上野駅を模した駅)

大連市内には、電柱が立っていない。電線などは地下に埋められているので、風景がとてもすっきりとしていてきれいだ。 この点では、日本より進んでいる。

最後の夜は、オプションで足つぼマッサージ(3000円)をたのんだ。 全身をもんでくれて、疲れが取れたような気がしました。

参道とまつりを行なう建物が四角形の城壁で囲まれた方城と皇帝が埋葬されている円丘を囲む円い城壁円城に分けられる。方城の床はかつて金箔が敷き詰められていた。

予定表には、5:40にホテルを出発とあったが、ガイドがそんなに早くでなくても間に合うと言って、6:30の出発となった。  8:40瀋陽発の中国南方航空直行便で(2時間25分)中部国際空港に着いた。  4日間といっても、正味2.5日の旅行だったが、日本人にとっては、懐かしいような、古傷のようになっている、中国東北部を旅行できて、感慨深かった。

龍頭の彫刻(あまどい)

入り口からここまで2kmを電気自動車に乗る。

ここからは皇帝の私生活の場所になる。

大政殿

朱塗りの台の上に豚を置き、頭を離し、内蔵を取り出し、釜で洗う。頭は神棚に、内臓は神の竿に置きカラス(カササギ)の贈り物にする。  ネットで調べると、この豚はお鍋で煮て、「神肉」といわれ、分け合って食べることは、神、皇帝、臣下が家族関係が結ばれるという「満漢一家」を唱える清朝のパフォーマンスでもあったようだ。

中宮は薩満祭儀を行なう神堂でもある。東の部屋を南北に分けオンドルをもうけ、日常生活の場所である。西の部屋は非公式の宴会や、薩満祭祀をする。位牌や神棚、祭祀の道具を並べている。

日時計

はかり

崇政殿

朝鮮料理の昼食

瀋陽は遼寧省の省都。女真族のヌルハチが後金を興した際には、盛京とよばれ、その後、日本支配時代には奉天となり、1945年に瀋陽に戻った。  瀋陽とは、「瀋水の北」と言う意味ある。

瀋陽北駅

8時に大連駅を出発し、12時に瀋陽に着いた。列車は軟座席と硬座席があり、私達は、軟座席の指定席で、車内販売のおばさんが何度も往復していた。彼女は4時間行ったりきたりしてよく働いていたことになる。ビールは飲まないがつまみのようなものを何個か買い求めた。瓦房店〜鞍山などをとおり瀋陽に着いた。

オプション{3900円}で、雑技観賞した。ここのは、雑技のほかに、少林寺やマジックなどがあり、顔をなでると次々に京劇風の顔が変わるというマジックは不思議だった。北京や上海に比べると劇場も小さいし、少しさびしい。

ロシアとの友好記念塔

水師営とは中国清朝、北洋艦隊(北洋水師)隊員の駐屯地の意味。 日本代表は乃木希典大将、ロシア代表はアナトーリ・ステッセル中将で、農家を接収して、野戦病院だったこの場所で、会見した。現在の建物は1996年に復元したもの。

9皿の料理がでたが、パンのようなものに野菜をはさんで食べるものや、春巻きの皮にモヤシやねぎを挟み味噌をのせて巻いて食べるものが美味しかった。ここでも、入り口に魚が並んでいた。

日本式280ミリメートル榴弾砲の模型と重砲観測所。(ここから、旅順港のロシアの船に山の下に居る大砲を撃つ指揮をした。)

大連港大港区埠頭を臨む。

オプション(2000円)で、大連の夜景を見にでかけた。大連テレビ塔は、労働公園のある海抜360mの山の上にあり。タワーは190m、タワーの形は12角形で、世界ではじめて、空間桁架の構造を採用した。  高度285mからの展望台からは、大連の町が見渡せる。

ひらめのお造りや食べた後の唐揚げ、海老やイカ、などの海鮮料理。入り口には生きた魚が水槽で泳ぎ、料理を待つ魚が並んでいた。

旧横浜銀行

大連泰達美居大酒店

一度ホテルに入り、「天天漁港」で海鮮中華の夕食。

大連夜景観光

203高地から旅順港を見下ろす

旧関東軍司令部

旧大和ホテル(現在は人民解放軍招待所になっている。)

旧粛親王府(川島芳子の生家)

旅順港

旅順駅

大連雑技観賞

降恩殿

二柱門、石祭台

墓の入り口

階段を上り、昭陵を見た。木が一本植わっていて、カササギが何羽か遊んでいた。

角楼が四隅にある。

新宿にも支店があるという「老辺餃子館」で夕食。

水餃子、蒸餃子、焼餃子と次々持ってこられて、どれを食べたのか分からなくなった。最後にスープ餃子で締めとなったが、一人の方が「このスープにラーメンを入れてくれるらしい。」というのでスープを残して待っていたがなかなか来ない。結局聞き間違いだったようで、満腹でお店を後にした。

方城の上を歩く。

最新車両の路面電車

4日目