小雨のぱらつく中を伊根湾に向かう。「伊根の舟屋」とは、与謝郡伊根町の伊根地区にある民家の種類である。舟の収蔵庫であると共に、住居の役割も持つ。舟屋は江戸時代中期頃から存在し、2000年現在238棟が確認されている。特徴としては、「海への開口」「妻入り」の二点である。伊根湾の海面すれすれに建てられている。土台や柱は椎の木を使い、1階には、船揚場、物置、作業場があり、出漁の準備、漁具の手入れ、魚紐の乾場、農産物の置き場として活用され、2階は、居室、民宿といった生活の場所になっている。
H.25.09.06〜07
藤枝駅から掛川駅までJRで行き、三島、新富士、静岡から乗ってくる参加者と掛川で、合流し、名古屋に着いた。参加者は総勢44名で、バスは満席だった。名古屋からバスで、琵琶湖の長浜港を目指す。長浜港を11時30分に出航し、竹生島まで約30分の琵琶湖クルーズを楽しんだ。湖面は静かで、鏡のようだった。
三方五湖は、福井県の美浜町と若狭町にまたがる五つの湖のことで、2005年にラムサール条約特定湿原に指定されている。三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖の五つで、水月湖が最大の面積である。レインボーライン(山頂公園)にケーブルで上がり、眼下の湖を眺めた。なかなか、五湖を一度に眺めることは難しい。帰りは、リフトで下りた。今日は、ケーブルやリフトに乗る機会が多かった。
本堂を出て階段を上ると、新しい三重塔が建っている。
長浜港から出航したが、帰りは、今津港まで約30分の船旅です。
舟回廊の下を通って唐門に出る途中に「黒龍大神」「黒龍姫大神」の祠がある。
これで、すべてのスケジュールを終え、「「日本海さかな街」で買い物をし、名古屋までバスで走り、新幹線で帰ってきた。頼んであった、「焼きサバ寿司」と「アナゴ寿司」をバスの中で食べました。
宮津駅で下りる。宮津の駅は思っていたより大きく、駅前は賑わっていた。
丹後由良の駅には、「山椒大夫 安寿姫・厨子王の里」と書かれた看板が立っていた。
龍神拝所では、「かわらけ投げ」が出来、宮崎鳥居の間をくぐると願いがかなうと言うことでした。下は投げられたかわらけで白くなっていました。
「大己貴神社」「天忍穂耳神社}
回廊を歩いていくと、舟廊下に出る。この廊下は、観音堂移築と同時に架けられ、秀吉の御座舟(日本丸)の骨組みを利用している。急斜面に建てられたため、其の足元は、高い舞台構造(懸造)となっている。これも桃山様式で造られたものです。この懸造部分は、修理中で、見ることは出来なかった。
竹生島は、琵琶湖の北部に位置し、周囲2km、面積0.14kuの島で、二つの峯を持つ。北部の高い峯が標高197.6m。全島が花崗岩の一枚岩からなる。
傘松、と「かさぼう」です。頭が松ぼっくりになっていてかわいいマスコット人形(ユルキャラ)と一緒に記念撮影。
神社を通って、ケーブルで上に上がると、笠松公園がある。傘松公園は、海抜130mの高台にあり、日本三景「天橋立」を斜め一文字に見下ろす絶景の展望である。天橋立を中心に内側の「阿蘇海」外側の「宮津湾」を分けて文殊方面に伸びる天橋立を見ることが出来る。公園内の股覗き台から橋立を覗くと、天にかかる橋のように見える。また、階段を上って行くと、その名前の由来となった「傘松」のある「股覗き発祥の地」があり、そこでも覗いてみた。40年以上前、学生時代に来た時は、ここから覗いたような気がします。雨も小降りになって、天橋立がよく見えました。ここを、ウオーキングするというツアーもあるようです。
鳥居をくぐると、「阿吽の狛犬」が置かれている。これは鎌倉時代の作で、重文に指定されている。(伝承によると、作者の一心で魂の入った狛犬が天の橋立の松林に出現して、元伊勢参りの参詣者を驚かした。親の敵討ちに潜んでいた岩見重太郎がこれを聞いて、鎮霊を決意し、一夜待ち構えて、音の方向に剛刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現がやんだ。以来、社前に遷座し、魔よけの霊験が聞こえたという。)
籠神社は、宮津市にある神社で、元伊勢の一社であり、元伊勢根本宮、内宮元宮、籠守大権現、籠宮大明神ともいう。(社伝によると、豊受大神は、本来真名井原の地に鎮座し、与佐の宮と呼ばれていた。崇神天皇の時代に、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移った際に、豊受大神から御饌物を受けた。その四年後、天照大神は伊勢に移り、後に、豊受大神も伊勢に移ったため、当社を「元伊勢」という。)
バスに乗り、北近畿タンゴ鉄道宮津線に乗るため、「四所駅」に向かう。駅舎は新しく建て替えられたようだが、駅名の書かれた板は昔のままだったので、字が消えてしまっていて読み取れなかった。無人駅で待っていると、派手な車体の車両が1両で入ってきた。乗客は学生さんが多かったが、席を譲ってくれたので、座ることが出来た。
急な階段を下りていくと、苔むした桧皮葺の屋根が見えてくる。唐門(国宝)である。(唐門は、唐破風を持つ門という意味で、秀吉が建てた大阪城極楽橋の一部で、現存する唯一の大阪城遺構として注目されている。その後、京都東山の豊国廟極楽門に移築、秀頼の命で、竹生島に渡った。桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に、金鍍金の錺金具がちりばめられ、豪華絢爛で、桃山様式の代表遺構である。) 右にまわっていくと、観音堂(重文)にでる。
(1484年に建立され、江戸時代初期に落雷で、焼失した。図面を発見し、平成12年に約350年ぶりに再建された。古来の工法に基づき建築し、四本柱に32体の天部の神々を描き、四方に真言宗の八人の高祖を配している。)
宝厳寺の五重石塔(重文)(初重塔身の四方に、四仏が配され、鎌倉時代のものと思われる。石材は、比叡山中から採掘される小松石により造られた。重文の指定を受けた五重石塔は全国で、七基しかない。)
帰りは、リフトで下りました。下の草地には、黄色と白の彼岸花が咲いていました。こちらはもう秋の気配がします。
2日目
愉快なガイドさん
由良川橋梁
今津港
階段を下りると、「白巳大神」があり、龍神が祀られ、両脇に「阿吽の龍」。
三重塔の横に、大きなモチノキがあり、説明板によると、(樹齢400年のモチノキで、片桐且元が、国宝観音堂の普請奉行として、来島の時に手植えした記念樹)と書かれていた。
宝物館の横に、経塚がある。宝物館に「経塚の石」が展示されていた。(昭和47年の集中豪雨の時、宝物館横の崖が崩れた跡から、数多くの石経(鎌倉期)が発見された。まだ、地下に数万枚が埋蔵されていると推定される。薄く平たい石に一個一文字の墨字の経文が記されている。)
その向こうに、宝物殿がある。300円払って、中に入った。いろいろ展示されていたが、中でも、「弁財天」が目を引く。(平安時代から続けられている竹生島弁財天の祭り「蓮華会」で頭役を務めた浅井久政(長政の父)が、小谷城で祀られた弁才天を奉納した。)
本堂の左右には、寄進された時期の違う、「弁財天」が置かれていた。
島に入ると、いきなり、急勾配の石段が165段あります。登りつめた所に、宝厳寺があり、四国三十三ヶ所の観音霊場三十番札所になっている。724年に行基が開いたお寺である。。本尊は「弁財天」で、安芸の厳島、相模の江ノ島と共に、日本三弁財天の一つになっている。
焼きサバ