H.30.2.25~26
東京駅で集合し、なすの257号に乗って、新白河駅に着いた。今日は旅館に入るだけなので、ホテルの送迎バスに乗り1時間30分ほどで、芦ノ牧温泉「大川荘」に着いた。新白河駅には雪が無かったが、走るに連れて雪深くなる。芦ノ牧温泉は、福島県会津若松市にある大川(阿賀川)の高台にある温泉街で、行基による発見説や弘法大師発見説がある。
天守閣に上り、会津磐梯山や飯豊連峰を眺めた。昼食は「わっぱ飯」だった。
鶴ヶ城は、1384年芦名直盛が東黒川館を建てる。
1589年、伊達政宗が会津に入る。
1590年、蒲生氏郷が会津藩主として黒川を若松に改め、名前も鶴ヶ城と命名する。今よりも高い7層の鶴ヶ城を築き、茶室麟閣も建てられた。
1593年、上杉景勝が会津入りし、120万石となる。
1601年、景勝が米沢に転じ、氏郷の子、秀行が会津に入る。
1627年 伊予松山から加藤嘉明が会津に入る。
1643年 天守閣が五層に改められる。北出丸が整備される。
1643年 家光の弟、保科正之が最上から23万石で入封。
1862年 容保京都守護職を命じられる。
1868年 戊辰戦争がおき、鶴ヶ城開城。戊辰戦争後、天守閣は取り壊された。昭和40年に復元。
今回は温泉に入るということがメインの旅だったので、ゆったりとした時間を過ごすことができた。観光地は一回来たことがあるところばかりだったが、季節が変わって雪景色を見ることができた。
大内宿に移動する。会津西街道の宿場町として栄えた。以前夏に来たが、今回は雪景色を見ることができた。名物の「ねぎそば」は、お昼を食べたばかりだったので、食べることはできなかった。
観光を終えて、新白河駅に着いた。駅前には芭蕉の像が立っている。
台座には「心もとなき日数重るまゝに 白河の関にかかりて 旅心定まりぬ芭蕉 奥の細道」と刻まれている。
塔のへつり(岪)は、南会津東部を流れる大川が形成する渓谷。長い間の風化と浸食によって形成された柱状の断崖である。全長200mにわたって、奇岩が整列している。
出発まで、時間があったので、温泉街を散策する。「金精神社」がある。傍には「子宝の湯」足湯があり、座れるようになっている。
起き上がり小法師
赤べこ
渓谷露天風呂(たなだ)や空中露天風呂が有名で、お風呂に入り、食事を楽しみ、夜には「餅つき大会」があった。中居さんが輪になって棒で臼に入った米を撞く。そのあと泊り客が変わり番こについた。夫や私も参加した。撞き上がったお餅は黄粉餅にしたふるまわれた。
バスで、「塔の岪(へつり)」に向かう。前回来た時は、橋を渡って向こう岸までいけたが、今回は吊り橋が冬季封鎖されていて、対岸から眺めただけだった。
高倉神社は、平清盛の全盛期に挙兵した高倉宮(後白河法皇の第二皇子)が戦いに敗れて潜行したと伝えられている。毎年7月2日に行われる「大内半夏祭り」は高倉宮ゆかりの祭りである。
「開湯1200年 芦ノ牧温泉へ ようこそ」
「切り立った山々と清流の渓谷美」
「戦国大名 芦名氏 ゆかりの湯」
の看板が並んでいる。
国道121号線の橋の上から大川のほとりに建つ「大川荘」が良く見える。オレンジ色の建物は「たなだ」と呼ばれる三層の露天風呂である。「会津藩の家中諸法度」に因んで「会津芦ノ牧藩 家中諸法度」が書かれていた。
「足ポッポ」と書かれた足湯がある。その先には「出会いの湯滝」がある。(古事記によると、日本平定のため遣わされた四道将軍ひとりである父親の大彦命とその息子である武渟川別命(たけなかかわわけのみこと)の父子がこの地で出会ったことに因んで「曾津」と呼ばれるようになった。現在の会津盆地は古代には大きな湖であった。)
ホテルの送迎バスに乗り、会津若松駅に向かう。バスを乗り換え「鶴ヶ城」に向かう。
かまくら広場には7基のかまくらが並んでいる。