奄美群島4島めぐり

H.24.12.19〜23

12時10分、与論港から、フェリーに乗って沖永良部島に寄航して、徳之島の亀徳港に16時25分に着いた。

19日朝7時10分、羽田空港に集合のため、18日、羽田近くのホテルに前泊する。19日、朝ホテルを出て、ホテルのバスで空港に到着する。添乗員、同行の皆さんと会って、鹿児島空港へ。鹿児島空港からは、プロペラ機で与論空港に13時55分に到着した。今回は総勢19名の参加者です。

糸芭蕉  古くから栽培されている草本植物。この茎から採れる繊維で織った芭蕉布の着物(バシャギン)を戦前まで着ていた。奄美の方言で不美人のことを「バシャ山」と言う。不美人の娘を持った親がバショウの山を付けるから娘を貰ってくれと頼んだことに由来する。バナナに似ているが、実は美味しくない。ちなみに美人は「キョラムン」美男子は「キョラネッセ」と言う。

マングローブパークに移動して、希望者だけカヌーに乗る。初めての体験だったが、インストラクターの指導もあり、マングローブ原生林を流れる川で、1時間楽しんだ。 マングローブとは、熱帯や亜熱帯の遠浅の海岸沿いの砂泥地に海水の塩分濃度に耐えうる樹木が多く集って作る樹林をいい、紅樹林ともいう。主に、ヒルギ科、シクンシ科、クマツヅラ科、センダン科などの植物からなる。

デイゴ並木・諸鈍

与論民族村(琉球様式の武家屋敷)

高倉

大浜海浜公園

5日目

震洋

寅次郎紅の花

犬田布岬(インタブミサキ)「戦艦大和の慰霊碑」

与論の古民家は、茅葺で、円錐形をしている。母屋と台所が別になっていて、倉庫は高床式になっている。

与論島は、奄美群島の一つで、鹿児島県最南端の島で,島の周囲はリーフで囲まれた美しい島である。正式名称は「よろんじま」だそうです。萱葺き屋根の中に、機織り機や、農業・漁業機具などの、昭和30年までの与論の生活がそのまま残っている。

鶏飯    白飯にほぐした鶏肉、錦糸卵、椎茸、ねぎ、紅しょうが、海苔をのせて、鶏からとったスープをかけていただく。軽いので、するするっと入ってしまった。スープが少し濃かったかな。

原ハブ屋

シャリンバイ 海岸近くに生える低木で、4月頃に、梅に似た白い花を咲かせる。茎と根を煎じた汁は「泥染め」とともに、大島紬の重要な製造工程テーチ木染めの使われ、奄美になくてはならない植物です。

市街地に近く、キャンプ場やバースハウスなどの施設が整備され、自然に恵まれた海水浴でもある。夕日も綺麗で、日本の「渚100選」「海水浴場100選」にも選ばれている。園内には、「奄美海洋展示館」や癒しの体験施設「タラソ奄美の竜宮」もある。 今回は、冬だし、朝早かったので、誰もいなかった。

海上タクシーで古仁屋港に戻り、瀬戸内」海の駅で海鮮丼の昼食をとる。「半潜水式観光船」でサンゴや熱帯魚を観賞する。雨が降ってきて、海の色も悪くあまり良く見えなかった。

震洋は、第二次世界大戦の日本海軍の特攻兵器。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艦首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗者が乗り込み、上陸船団に体当たりする。終戦までに6000隻が生産された。
 島尾敏雄は、第18震洋隊を率いて加計呂麻島に駐屯する。出撃前に終戦になる。駐屯中に知り合った大平ミホとの逢瀬を描く「島の果て」、特攻隊員として出撃を待つ「出発はついに訪れず」等を書いた。代表作に「死の棘」がある。

奄美大島は、九州南方にある奄美群島の主要な島で、単に大島ともいう。面積は712kuで、周囲は461kmある。佐渡島に次ぐ面積第4位の島である。

マリンステーション奄美に宿泊する。奄美で唯一の貸切露天風呂があるというので、予約して行ってみた。栓をしてお湯を入れる五右衛門風呂で、熱い場合は、井戸をこいで水を入れるようになっている。今回の旅行では、部屋風呂ばかりで、大浴場がなかったので、久しぶりにゆっくりした。露天だったが、外は真っ暗で何も見えない。

蛙岩

亀岩

犬之門蓋(いんのじょうぶた)

ホテル・グランドオーシャンリゾートに泊まる。部屋の窓からの夕日が綺麗でした。

百合ヶ浜グラスボート遊覧
奄美の文化は、沖縄県に近く、同じ琉球文化圏に属している。奄美大島から与論島に南下するに連れて、琉球文化の色彩が濃くなっていく。奄美に伝わる風習の中には、沖縄県とも本土とも異なる奄美独自のものや、沖縄より本土に近いものもあり、方言にも昔の大和言葉の発音などが残っている。 実際、ガイドさんが島の方と方言で話をすると、外国語を聞いているようで理解できない。島唄も島言葉で歌うので、意味も分からない。本当にここは日本か?と思ってしまうこともあった。 今年は、台風の当たり年で、大変だったようだが、奄美の家は普通の家は平屋で、二階建ての家はなく、屋根も瓦は使わないで、強風に備えている。

ハブは、昔琉球王から薩摩藩主に珍しい生物として「ハブ」を献上するため、壷に入れて運ぶ途中台風で船が沈没し、枝手久島に流れ着き、奄美全土に広がったとされている。

ハブ屋のおじさんの説明を聞いて、笑い転げた。ハブを捕まえる時の説明では、それらしい格好をしてきて、本当におかしかった。ハブは、奄美、徳之島にはいるが、与論、沖永良部には生息しない。夜行性で、サトウキビ畑に良く出没する。

染色も織りも沢山の行程を経るので、値段が高いのも仕方がないと思った。

大島紬の染色法   シャリンバイ染色は、シャリンバイの煎出液と泥土に含まれる鉄塩類の媒染によって独特の渋みのある黒色に染色されることが特色です。シャリンバイ液のカテコールタンニン色素と少量のカテキンが含まれており、泥土の中の鉄塩類が水に不溶性の化合物を絹糸の上に造ることにより染色される。

奄美大島の中心部にあるホテルウエストコート奄美に泊まる。夕食は、地元の郷土料理店「吟亭」で島唄と島料理を楽しんだ。最後に、皆で、「六調」を踊りお開きになった。

島尾敏雄文学碑

樹齢300有余年のデイゴからなる85本の並木は、毎年4〜5月にかけて真っ赤な花を咲かせます。内、21本は国の巨木樹に指定されている。今は、葉も落として、枝だけになっています。

山頂には、砲台跡がある。

金子手崎防備衛所

弾薬格納庫

仁屋港から海上タクシーで加計呂麻島へ向かう。加計呂麻島は、面積77kuで、周囲147kmで、大島海峡を挟んで奄美大島南岸と向かい合っている。また地形は細長く、海岸線が複雑に入り組んでいるので、海岸線が長い。島の薩川湾は、太平洋戦争中、軍港として栄え、大和や武蔵などの連合艦隊が停泊した。

ホテルの前庭

アダンの林(食糧難の時はこの実を食べたそうですが)

モンパの木が群生する。

海岸線に侵食された奇岩が並んでいる。

徳之島の南西部に位置する岬で、奄美十景の一つ。琉球石灰岩海食崖が続き、切り立った断崖と自然に生える高麗芝のスロープ地帯とあわせた雄大な景観はほかに類を見ない景勝地である。

この沖で、第二次世界大戦で、特攻艦隊として沖縄に向かい、撃沈された「戦艦大和」の戦没者を祀った慰霊塔が建立されている。

徳之島は、面積が247kuあり、周囲は約80km。南西諸島における「生物の宝庫の島」のひとつである。ハブが多いことでも有名で、生きて捕まえると1匹5000円もらえる。動物は、アマミノクロウサギケナガネズミ、イボイモリなどが生息する。また闘牛がさかんである。

30分間だけ、島に上陸した。

船にあった、牛が砂糖キビ絞り機を引いて回している写真。

高倉(今から470年前に南方から伝わった。現在奄美に880棟くらい残っている。天井裏は床の広さよりも広く、穀物が多く収容されるように工夫されている。)

伏龍の形に積み上げられた石垣。(龍が卵を守るように城の石垣が積まれ、敵が攻め入るハキビナ湾を大口を開けてにらむ。))

海上集会は、1963年から沖縄が返還される1972年にかけて、サンフランシスコ条約が結ばれた4月28日に実施されていた。先に本土復帰を果たした本土側(与論以北)と沖縄側の関係者が漁船や艀に乗り込み復帰運動を展開しました。

ヤンバルクイナ(絶滅危惧種)

1405年〜1416年の間に琉球北山王の三男王舅(オーシャン)が築城しとした未完の城である。北山が中山王の尚氏に敗れたため滅亡し、未完となった。地主神社(とこぬしじんじゃ)、琴平神社があり、島の一大民族芸能「与論十五夜踊り」模様される場所でもある。

ブーゲンビリア 蘇鉄の葉で虫かごを作る。

ガジュマル(気根を地面に向かって垂らし、幹になる)

アダンの木(パイナップルのような実をつける。)

ハイビスカスは一年中咲いている。

5000坪の敷地に亜熱帯の花や木が300種以上集められている。

ユンヌ楽園(亜熱帯植物園)

百合ヶ浜は、大金久海岸の沖合いに引き潮になると顔をだす浜で、潮流の関係で此処に砂が集る。冬は昼の引き潮が少ないため出現することが少ないそうです。今日は、上陸するほどは引いていませんでしたが、存在は見ることが出来ました。

2日目

夜は、プリシアリゾートヨロンに宿泊した。ギリシャのミコノス島と姉妹都市で、ギリシャ風の白い建物やコテージが並ぶ広い庭と、ビーチが綺麗でした。

与論十五夜踊りに使われるお面  竜神に雨乞いをして、五穀豊穣、嶋中安穏、人畜の繁栄を祈願します。この祭りで奉納される踊りは大和風(1番組)、琉球風(2番組)の踊りで構成される。

なくさみ館は、ドーム型の施設で、島内で唯一の公営闘牛場である。

徳之島の北西崎原崎に位置する。あたかもムシロを敷き詰めたよう巨岩、奇岩が連なっている。珊瑚礁の多い徳之島にあって珍しく花崗岩が広がる場所である。

ムシロ瀬

バイキングの昼食をとった後、平土野港から14時10分のフェリーで奄美大島古仁屋港に16時40分に着いた。加計呂麻島に沈む夕日が綺麗だった。

4日目

ホテルを出るとバスで数分で、ホノホシ海岸がある。奄美大島の南の海岸すべてを占める瀬戸内町は、加計呂麻島、与路島、請島も含む。その瀬戸内町の太平洋側の先端にほのほし海岸がある。岬の先端にあるため、波が荒い。海岸の石はすべて丸くなっている。リーフに守られた海岸が多い奄美では珍しい光景です。この小石を持って帰ると夜な夜な動き出すとか、色々いわれがある。

安脚場戦跡

昭和16年に構築された施設で、戦時中大島海峡に潜水艦の進入を防ぐため、防潜網並びに機雷を布設し、潜水艦の接近を監視し、さらに進入した場合、機雷を爆破する施設で、これらはすべてこの防備衛所でコントロールしていた。

この山頂には、大正9年ころから旧陸軍の砲台が設置されていた。その当時に、砲弾の格納庫として構築されていたが、昭和16年に、旧海軍の砲台が設置されてから、砲・高角砲の弾薬庫として使用した。 今は、すっかり見えてしまっているが、当時は、木や草で覆われ敵に見つからないようにしていた。

渥美清の「男はつらいよ」の最後の作品のロケ地でもあり、リリーさんの家も残っていて、山田洋次監督は今でも、スタッフと此処を訪れるそうです。

水間黒糖工場

3日目

長寿世界一になった、本郷かまとさんの生家の前を通った。1887年9月16日から2003年10月31日まで、長寿世界一になった女性である。1887年、現在の伊仙町に生まれる。かってやはり長寿世界一だった泉重千代さんも伊仙町の生まれである。その生年月日には、異論もあるが、徳之島は、出生率も高く「子宝の島」とも言われている。

ああ犬田布岬(戦艦大和を旗艦とする第二艦隊戦士慰霊塔

小銃、機銃の弾薬を格納するために、大正9年に旧陸軍が構築した。太平洋戦争中は、主に海軍が兵器庫として活用していた。

弾薬庫

大島紬村

家内工業で黒糖を作っているところにお邪魔しました。機械で、サトウキビを搾り、その液を熱し、二人で、桶をかき混ぜ、どろどろになったら、下の桶に移し熱を冷ます。またその桶にサトウキビ汁を入れるを繰り返している。出来たばかりのまだ暖かい黒糖を買い求めた。

古民家

徳之島

砂糖車、牛が引く。

琴平神社

村主神社

サバニ・漁具(海の家)

赤瓦民家(琉球の影響を受けている。)

東シナ海に面した海岸線一帯のことを言います。昔、人畜を襲った犬の群れを捕まえて海に投げ入れたということから由来している。この穴は、隆起した珊瑚が季節風や荒波によって侵食され出来たもので、「メガネ岩」と呼ばれる。

大金久海岸

沖合いの珊瑚礁で、熱帯魚を観賞する。

少し出現した百合ヶ浜

海がめが泳いでいるのを見ました。

与論城跡(未完成の城跡)