アイルランドについて
ケルト以前ーアイルランドにケルト人がやって来たのは紀元前200年頃。それ以前に住んでいた人たちは巨石墳墓や、ドルメンなど造ったが、ほとんどが謎に包まれている。

ケルトの進出ー古代アイルランドでは、150もの部族を中心とした小王国が乱立していた。文化的には統一されていて、同じ言語(ゲール語)、宗教(ドルイドを中心とした自然崇拝)法律(ブレホン法)を共有していた。

聖パトリックとキリスト教ー5世紀の入ると急速にキリスト教化していく。アイルランドの守護聖人・聖パトリックの影響である。在来の宗教をキリスト教の中に取り込んでいった。当時の信仰の中心は修道院で、祈りと労働、聖書研究の日々を送り、「学者と聖人の島」と言われるようになる。

ヴァイキングーヴァイキングがアイルランドの歴史に登場するのは8世紀の末。ヴァイキングは略奪者であったと同時に優れた商人であり、次第にケルト人に同化していった。

ノルマン人ーイングランドを征服したノルマン人がアイルランドに進出してくる。ヴァイキング同様アイルランドに同化していった。

宗教改革とアルスター入植ー英国王ヘンリー8世の離婚問題に端をはっする宗教改革により、ヘンリーはカトリックから離れて、英国国教会を設立する。アイルランド王になることを宣言する。エリザベス1世はスコットランドからプロテスタントを入植させ、反乱を起こさせないようにした。
これが、北アイルランド問題の発端になる。

クロムウェルーエルザベスが死去し、テューダー朝が断絶したことによりイングランド王はスコットランド王のスチュアート朝に受け継がれた。スチュアート家はカトリックであったため、プロテスタントの議会と対立する。議会派のクロムウェルはイングランドの混乱を鎮め、アイルランドに遠征し、カトリックを弾圧した。クロムウェルは今でもアイルランドで最も嫌われる歴史的人物となっている。

独立運動ー18世紀末のアメリカの独立は、アイルランドに大きな影響を与えた。ユナイテッド・アイリッシュメンという組織が作られる。1798年、ウエックスフォードで蜂起するが、鎮圧され、アイルランド議会は1801年イギリスの一部となる道を選んだ。

解放者ダニエル・オコンネルーカトリック教徒は選挙権も被選挙権も無く、いくつかの職業につくことも禁止されていた。1823年カトリック協会を設立し、1829年にはカトリック解放令を勝ち取る。

大飢饉ーオコンネルが失脚した1874年頃、大飢饉に襲われる。1845年二始まったジャガイモの立ち枯れ病はアイルランド全土に広がり、大打撃を受ける。イギリス政府は有効な対策をとらず、子の飢饉により100万人が餓死し、100万人がアメリカなどに移住したといわれている。

イギリス・アイルランド戦争ー独立宣言によって1919年に戦争が始まる。長い交渉の末、北アイルランド6県がイギリス側に残ることと、イギリス連邦に残ることを認めさせられた。第二次世界大戦でアイルランドは完全に中立を守り、1949年には正式にイギリス連邦から脱退し、アイルランド共和国が誕生した。

北アイルランド問題ーイギリス領に残った北アイルランドはプロテスタントが多数を占め、カトリック教徒は少数派であった。1972年、市民13人の死者を出す「血の日曜日事件」が起きた。翌年には、北アイルランド議会が閉鎖される窓など、混迷を極めた。IRAをはじめとするカトリックの過激派がテロを繰り広げ、プロテスタントもテロで応酬するという泥沼状態が続き、IRAの囚人10人がハンガーストライキで餓死するという事件も起きた。幾度かの前進と交代を繰り返し、平和に向けて歩みを続けている。

4日目

塔の少し先の道が封鎖してあって、先には行けないようになっていた。崖崩れがあったようだ。命知らずの人が中にはいって歩いていた。

塔に登れると聞いていたが、入口は開いていなかった。

今日は、少し遅く9時にホテルを出発して、ロッサヴィールへ。ロッサヴィールは、コマネラにある漁港のある村で、ゴールウェイ湾にあるアラン諸島へのフェリーが出ている。途中で現地ガイドの日本人女性と合流する。この地方では泥炭がとれるという。切り出して干し、燃料にするということで、実物を見出てもらった。この地方の昔の茅葺の家で、「ギネス」の看板の出たレストランである。

 

コングコリブ湖とマスク湖の間にある細長い小さな町で、コングはゲール語で「細長い場所」と言う意味。サーモンやマス釣りのメッカとして知られている。また、コングの街は映画「静かなる男」のロケ地として知られている。私は見たことが無いが「ジョンウエイン」と「モーリン・オハラ」主演の映画だそうだ。街角には二人の銅像が立っている。

コング修道院はアウグスティヌス派の修道院で、7世紀の創建。12世紀にコナート王により現在みられる建物が建造された。16世紀半ばヘンリー8世の修道院解散命令に寄り閉鎖された。イギリス宗教改革の一環として1536年と39年に修道院を解散して、その所領を没収した事件である。推進者はクロムウエルで、その直接の目的は所領没収による王室財政の改善であった。

約133km走って「コング」の街へ入る。5つ星の古城ホテル・アシュフォード城内のレストランで昼食。生ハムのサラダとチキン・リゾットだった。ボーイさんがチキンの蓋を同時に開けてくれた。

バスで「聖キアラン教会」遺跡に移動する。聖キアランはアイルランドにカトリックを伝え広めた。今日も国の守護聖人として崇められている。

港からフェリーに乗り込む。アラン諸島は「イニシュモア」「イニシューマン」「イニシィア」の3島からなり私達は「イニシュモア」に行く。アイルランド語で「アラン」は「長い山」で「イニス」は「島」の意味である。、「「モア」は「大きな」、「マーン」は「真ん中」、「イア」は「東」の意味である。アラン諸島は石灰岩の岩盤で出来ている。土が風で飛ばされないように畑を石垣で囲み、岩盤を槌で砕き、海藻と粘土を敷き詰めて土をつくるところから始まった。手編みのアランセーターも有名。風が強いと船が揺れるので、薬を飲んで乗船したが、風も無く波も穏やかで揺れも少なかった。

アイルランドに行く前の印象は「強風吹きすさぶ荒涼たる大地」だった。いつも風は強いそうだが、私達が行ったときは、初日の吊り橋以外は穏やかだった。いつも雲が空を覆って、空が低い印象だったが、草地で羊や牛、馬が草を食んでいる風景が広がり、のんびりした気分を味わえた。また、古城、廃墟になった教会が沢山あり、廃墟マニアには、たまらない国だと思う。参加者の1人は「もう廃墟の教会はイヤ。お墓の上を歩くのもイヤ。」と言っていたが、気を付けても土葬なので、気が付くとお墓の上を歩いてしまっていることがあった。   土地はやせていて、どこで野菜やジャガイモを作っているのだろうと思ったが、日本人の女性ガイドさんが「家の庭でジャガイモを作っている家が多い。私も作っています。」と言っていた。   夫の今回の旅行の目的の一つが「フェルメール」を見るということだったので、それは果たすことができて良かった。ただ、ダブリン国立美術館で見たかった。

ホテルを出て、バスでダブリン空港へ。1時間30分のフライトでロンドン・ヒースロー空港に着いた。ロンドン発15時30分のブリティッシュ・エアウエイズで約11時間35分のフライトで成田空港に着いた。1時間ほど遅れて12時頃空港に着き、無事に家に帰りつきました。

7日目

夜、「アイリッシュダンス」を見に行くことになった。 夕食もついていたが、食べた後なので食べられなかった。 「ダンス」というより、「歌」が多かった。ダンスは上半身の動きを止めて、足のステップだけで表現する。色々なダンスがあるようだが、今日は男女4人のダンスだった.。   偶々、今日CSで「タイタニック号」をやっていた。デカプリオが3等客室でタップダンスを踊っていった。アイルランドの楽器、フィドルというバイオリン、肘でふいごを動かすイリアン・パイプス、アコーディオンなどを演奏していた。また、乗客の半分しか助けられない救助ボート、や氷山の存在が分かっていたのに、何の回避もしなかった。という場面もあった。

最後の晩餐、肉料理

U字谷の針葉樹林に囲まれた森の中に「アッパーレイク」「ロウアーレイク」がある。この湖は氷河が押し出した堆積物によって形成された湖である。「ロウアーレイク」までウオーキングしました。

ダブリンに戻り、ダブリン組と合流する。リフィ川の向こう側にある「ギネスビール」の工場。

聖ケビン教会は特徴的な急こう配の屋根とそこから突き出る円塔はすべて石積みで造られている。ロマネスク様式がアイルランドに入って来る以前の建築である。

大聖堂は屋根も無く、崩壊が著しいが、石積の初期教会の代表的なもので、アイリッシュロマネスク様式の特徴的な「折れ模様」を内部のアーチに見ることができる。

ラウンドタワーは高さ33mの円塔で、ただ石を積み上げ、先端にいくにつれ細くなっている。地上3mの所に入口が開いている。デーン人などの襲来の際に、この入口に梯子をかけて塔内に避難し、入口を閉め、通り過ぎるのを待ったという。

石積の門「ゲートウェイ」。この門の造りはアーチ型の四角のチョークストーン形式のブロックで組まれ、門全体は平らな自然石を積み上げた構造のものが、前後二重に並んでいる。

ここはかって「7つの教会の町」とよばれたグレンダーロッホ。6世紀に聖ケヴィンがこの地で修行したのが始まりとされる。アイルランドにおける初期キリスト教の聖地のひとつである。12世紀に入りノルマン人がアイルランドに勢力を広め、次いでイギリスの支配が確立するにつれて急速に衰退していった。

昼食後、「ダブりン自由散策組」と「グレンダーロッホ観光組」に分かれる。私達はバスに乗って、グレンダーロッホに向けて走る。

ダブリン市街を散策し、「アイリッシュパブ」でマッシュルームのフライとフィッシュ&チップスの昼食をとる。

緑色のポスト

聖パトリック大聖堂はアイルランド最大の教会。20世紀初め、教会横の公園で、ケルトの十字架が刻まれた、井戸に被せる石板が見つかった。井戸は450年頃、アイルランドの守護聖人パトリックがキリスト教への改宗者の洗礼を行った聖なる泉だと言われてる。作家として有名なジョナサン・スイフトはこの教会の司祭長を務めた。彼のデスマスクや恋人ステラの墓がある。

クライストチャーチ大聖堂・アイルランド教会のダブリンとグレンダーロッホ教区の主教会である。1038年に北欧系のデーン人により木造の教会が建てられ、1172年に当時の大司教ローレンス・オトゥールとノルマン人騎士のリチャーデ・ド・クレアにより石造大聖堂が建立された。

ダブリニア・&ヴァイキング・ワールドここは1983年までアイルランド教会の統轄地で、クライストチャーチ大聖堂と1870年頃に美しい橋でむすばれた。

ケルズの書」が収められている「オールド・ライブラリー」。ケルト芸術の最高峰といわれる「ケルズの書」や「アーマーの書」、ケルズの書より古い「ダローの書」を見学した。  「ケルズの書」とは豪華な装飾が施された4つの福音書のことで、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝が収められている。トリニティー・カレッジの図書館に約300年にわたって保管され、最高の装丁写本のひとつとして知られている。制作者は、9世紀初めにヴァイキングの襲来でスコットランドからケルズに逃れて来た修道僧である。全部で340枚ある。ベラム紙といわれる牛の皮で作った書写材が使われてる。

トリニティー・カレッジは1592年に英国のエリザベス1世によって創建された由緒と伝統のあるアイルランドの最高学府である。2階にある長さ20mの「ロングルーム」には図書館の中で最も古い蔵書20万冊が納められている。

室内の両側には、大理石でできた胸像が14体あり、これは「ガリヴァー旅行記」を書いた「ジョナサン・スィフト」の胸像である。15世紀頃創作されたアイルランド最古のハープも展示されている。ハープはユーロ硬貨のデザインにもなっている。

アイルランド国立美術館で「フェルメール」を見る予定だったが、国立美術館が改修中ということで、市内の仮の建物で見ることになった。  「手紙を書く婦人と召使」を鑑賞する。1974年にゴヤとルーベンスの絵画と共に盗難に遭っている。盗難後8日目に発見された。1986年にも盗難に遭い返還された絵画は国立美術館に寄贈された。

ホテルを8時30分に出る予定がバスが遅れて9時10分に出発した。

6日目

コング村を散策し、ガイドさんと別れて、約256km走ってダブリンへ。ホテルに入ってベジタブルスープとサーモンフィレの夕食をとる。

食堂跡

映画にも出てくる教会

映画に出てくるマーケット・クロスとコハン・バー

川に設けられた「釣り小屋」看板が英語とアイルランド語で書かれている。

コリブ川

アシュフォード城は何世紀にもわたって拡張され5つ星ホテルとなった中世の城である。コリプ湖のほとりに建てられ以前はギネス家が所有していた。

古城ホテルのトイレが素晴らしかった。思わずカメラに収める。

来た道を戻り、今度は左の道を上っていく。先ほどの塔や海に突き出た石柱が良く見える。今日は風も無くウオーキング日和です。強風が吹くと、海水が水しぶきとなって雨のように降って来るので、フード付きのコートがあるといい。とあったが、今日はいらなかった。

モハーの断崖」はバレン高原の南東にある断崖で、切り立った崖が続く。アイルランド語で「破滅」を意味する崖である。大西洋からそびえ立つ断崖はハグ岬で120m、8km離れた最高地点オブライアン塔の真北で214mに達する。オブライアン塔はおおよそ中間地点にそびえる円形の石の塔である。アイルランド上王ブライアン・ボルの子孫、サー・コーネリアス・オブライアンが1853年に見物客の監視のために建てた。ハグ岬に建つ白い廃墟はナポレオン支配の時代の見張り塔の残骸と言われている。

今日は7時30分の出発で、「モハーの断崖」に向けて約80km走る。途中ドライバーさんが景色の良いところでバスを止めてくれて写真撮影。ヘビースモーカーのドライバーさんが煙草を吸いたくなったのかもしれないですが。片側には川が流れ、羊が草を食んでいる。反対側には、石灰岩の浸食大地が広がっている。

5日目

ローストビーフの夕食をいただく。

リンチ家の城・リンチ家はゴールウエイを支配した14家族のなかで最も有力で、最初の知事をだした一族。1320年に建てられ、19世紀に修復された。現在はAIB銀行の支店として使われている。正面の石壁にはリンチ家の紋章が彫られている。

キーストリートを散策する。街角にはパフォーマーが沢山いる。ガイドさんの説明を聞きながら賑やかな通りを進む。

聖ニコラス・アングリカン教会。中世最大の教会。コロンブスも航海の安全を祈願したという。

大聖堂は1965年に造られたカトリック教会。ルネサンス様式の聖堂で、緑色のドームが印象的。

フェリーでロッサヴィールに戻り、約40km走りゴールウエイの街に入る。ゴールウエイは、「アイルランドの2言語の首都」と言われる。アイルランド語使用地域(ゲールタハト)の入り口に位置し、2言語による道路標識や店の看板にアイルランド語を見ることができる。周辺の地域の人間はアイルランド語を話す。

そのあと、キルローナン村を自由散策する。アランセーターのお店や郵便局の中を覗いたりした。 ドン・エンガスを上から写した写真を見ると構造が良く分かる。崖に面して祭壇があり、円形の石垣が何重にも取り巻いている。

ビジターセンターまでバスに乗り、「ドン・エンガス」まで石灰岩の道を歩く。断崖を背景に築かれた環状の石の砦で、古代ケルト人が築いたとされる。今日は風も無く穏やかな日だったが、いつもは強風が吹き荒れているようです。

シーフードチャウダーと鯖のオーブン焼き。鯖は塩焼の方が美味しいねと言いながら食べた。下にはもちろんマッシュポテトが隠れている。泥炭のようなケーキ。

アイルランド語で書かれた看板。

タクシーに分乗してホテルに帰った。