第6部  1946年、日本の夏


酔いしれた江山に

豪傑は踊り

うらびれた天地には

英雄も泣くだろう

エー ア、ヨイショ

はるかに広がるサンサディヤ

錦繍江山美を極めても

主がいなけりゃ

寂莫江山だ

裏山の森で鳴く

杜鵲の声に

主を亡くしたこの身は

悲しく日を送るだけなのか

一一雑打令より一一


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頭でも冷やしてみよう

1945年8月15日、溢れんばかりの感激の中に祖国の解放を迎えた。
君も私も解放と独立の喜びに浮き立っていた。
そうした中で、米軍の駐屯、軍政の宣布、および反託(信託統治に反対すること)と賛託(信託統治に賛成すること〉をめぐった左・右の争い、暴力の横行等の無政府状態は国民を殆ど狂乱状態に巻き込んだ。

お前は右翼か、俺は左翼だ。やい、このなってない奴、パンパン!!
お前は金九か、俺は李承晩だ。こいつ奴死んでしまえ、パンパン!!
寝ては暗殺、覚めれば暴動だ。
親米派と親ソ派の世の中だ。
何だと、民族自主派?では機会主義者だ。これでも食らえ、パンパン!!

'ソ連に騙されず、米国を信じるな'誰が言ったのか国民の共感する言葉が流行した。
左・右両大勢力の荒れ狂う状態の背後には、米・ソがそそのかしているという感じがした。

全部が愛国者だった。他人の組織をぷちこわしても愛国で、人を殺しても愛国だ。まったく、愛国者でない人はなく、愛国でない行動はない。

親米おべっか使い、共産主義者、親日反逆者ということなく、一朝にして愛国者に変身した。真の憂国の志士は立場がなくなるほどになってしまった。

無知な者が有識者の振りをし、愚かな者が偉そうな振りをし、知らない者が知った振りをし、汚い者がきれいな振りをし、目を開いていても本核を見ている者はなく、耳で聞いても聞き分ける者はなく、真っ直ぐに立っていても骨のある人はいない世の中になってしまった。

くそっ!見るもの聞くものすべて頭ががんがんと痛いことばかりだ。全員が異口同音に叫びまくった。私が一番正しい、私について来い、私の下に集まれ!!(自分がイエス・キリストでもあるかのように)。

親日派は親米派に変身、労働者は共産主義者に化け、父親は右翼、息子は左翼。口に泡を飛ばしながら論争、闘争、殴ったり殴られたり、挙げ句の果てにパンパン!!

このままだと消化不良、胃潰瘍、神経衰弱、ひょっとしたら精神分裂症にまでなるかも知れない。
どうしよう?ふらふら旅行でもしてみるか?
そうだ、この際、敗戦日本の視察でも一度してみるか?

'ところで、どうして行こうか?'
'玄海難を泳いで行くのはだめだな、水泳が出来ないから。'
'密航船に乗って行けばいいんだ!'

こうして一人で心を決め、妻には釜山に用事があって何日間か行って来ると嘘をついてひょいと家を出た。
ストレス解消法としては突拍子もないことだった。
どんな気持ちでそんなことを考えたのかと聞かないで下さい。それは私にも分からないから。恐らく世の中がとても乱れていて、私の頭がしばらく混沌状態だったのかも知れません。多分そうだったのでしょう。

ポケットに金が幾らあったのかも記憶にないが、当時も今も金とは縁がない私だから、幾らにもならない金額だったということは壮語出来る。'私は何だか金燦三(有名な無銭旅行者)気取りであったようで。'今思っても世紀の不可思議だ。

解放されてから丁度1年目になる時のことで、金は日本の貨幣をそのまま使っていたので銀行に行って両替をする必要もなく、旅券のようなものは発給する部署もなかったが、まして密航するのには必要でもなかった。こっそり行って、こっそり帰ればよいのだ。
 
   

洛東江の葦原

釜山の南浦洞裏通りの小さな旅館だった。
主人を招いてそっと頼んだ。
「日本に行く密航船をちょっと調べて頂けませんか?」
「そうですねえ、まあ、調べて上げましょう」
翌日、主人が入って来る。
「お客さん、船がありますよ」
「そうですか? それはうまく行きましたね。いつ出るのですか?」
「今、人を集めているところです。明日の夜には出るようになるそうです」 
「では、きっとそれに入れてもらえるように、ちょっと話を入れて下さい」
「分かりました」
こうして日本行きの船を探しはしたが、思ったほど簡単ではなかった、もし露見すれば手錠を掛けられることなので、ずいぶんと用心しなければならなかった。船も釜山埠頭から堂々と出発するのではなく、洛東江の河口の葦原に隠しておいたという。

こうしている中に、もしや詐欺にあうのではないかとの疑念も起きた。
詐欺にあうとすれば、後頭部をがんと殴って帰って行けばそれまでだな。
案内者に従って、人目を避けて三々五々、3里は充分にある田舎道を歩いて夕暮れに目的地に着いた。
葦が生い茂っている湿地帯がどれだけ広いのか、葦の茫々たる大海だ。水は足首を浸す程度に浅く、川の水は見えないが、それでも洛東江なんだって。

私は川の河口というものは、滔々と流れる川の水と、川の水を受け入れてどうどうと音を立てる果てしなく遠い海を想像していたが、こんなに広い湿地があろうとは夢にも知らなかった。その上、背丈を越える葦の生い茂っている様は恐ろしくさえあった。水滸伝で、梁山泊周辺が葦に覆われており、多数の船舶を待ち伏せさせておいて、何も知らずに攻め寄せる官軍をみな殺しにしたという山場を読んだことは読んだが、中国式誇張だとばかり思っていたので、今更のように私自身の無知さが恥ずかしくもあり、同時に大自然の偉大さに感嘆もした。

日がだんだん暗くなった。このような葦の林の中で案内者を見失った日には一巻の終わりだという気がして、若しかして離れはしないかと、ぴったり後にくっついて歩いた。どこをどれだけ歩いたのか、東西南北を選ぶ暇もなくがむしゃらについて行くと、突然'しっ'といって、にゅっと立ち止まった。

ぎくっとして後に退り、目を大きく見開いて立っていると、小さい声で言うには、「船のある所までもう来ました。安全かどうか確認しなくてはならないので、声を立てず静かにしていて下さい」と言って前方を指差す。よく見ると果たせるかな黒っぽい船の姿が見えた。

案内員は我々に身を隠させ、口笛で烏の鳴き声のような合図を送った。すると、直ぐに船からも応答があった。
その時初めて案内員は、「大丈夫です。では参りましょう」といいながら船に近付いた。一行は無事に船に乗り込んだ。

船長が、船に乗り込んだ乗客達に一場の訓示(?)をした。
「よ一し、警戒が厳しいから、少ししてから出発することにします。船艙で暫く待って下さい」という。船長の言葉付きでは慶尚道か全羅道か見分けがつかない。どうなろうとも船に乗ることは乗ったなあ、と言って船艙に降りて行き、濡れた履物と靴下を脱いで脚をぐっと伸ばしてから、「しまった」と言った。
   

密航船とまて貝

乗客は全員で20名だが、大部分は4,50代で、若者は私一人だけだった。その中には夫婦も3組いた。
船艙に車座になって、人々は風呂敷をほどいて御飯や餅のような食べる物を取り出して食べ始めた。ところで私はそんな準備は全くしていなかったのだ。
密航船も船だから外の旅客船のように食事が提供されるだろう、と考えたの が間違いだった。こんな馬鹿な話があるかと思い後悔したが時すでに遅しで、こんなことが分かっていたらせめて乾パンでも何袋か買って来たものを、と言 いながら鞄をあさってみると、干したまて貝の身が出て来た。

釜山市をちょっと外れた何処かの道端で買ったものだった。私は都会地でだ け暮らし、海辺の事情はよく知らない。通りながら見ると、貝の身を竹の串に刺して干したものを売っているが、ソウルでは滅多に見られないものだった。
そこで好奇心が起き買ったものだが、食べてみもせず何か貴重品ででもある かのように鞄の中に人れておいだものだった。

まで貝という貝は手の指のようにやや長い形をした貝だが、貝の中でも最もまずい卑しい貝だった。そんなこととも知らず貴重な品物だとばかり思って5串買った。
これ位なら栄養補給になるだろうと思って、1個引き抜いて口に入れもぐもぐ噛むが、かちかちに堅く噛みにくいのはおろか全くまずかった。変な臭いもして到底食べられなかった。3,4個食べて、'えい、だめだ'といって元通り鞄の中に押し込んだ。

あのまて貝の奴にはつくづく愛想が尽きた。その時の記憶があるためか、今でも中国店でうどんを食べていて、まで貝が出て来ると箸で押しのける。食べるものがなければ絶食しなくてはならない。物を食べなくても夜は明けるものだ。何も食べずに行こうと決心して、目をつぶってうつらうつらした。

船は50トンのぼんぼん船だった。機関はディーゼルエンジンだが、いわゆる'やきだま'というもので、エンジンを掛けるためには、ちょうど玉蜀黍弾き屋がするように、トーチランプで機関を暫く熱しなくてはならない。30分か1時間か、かなり長くあぷり回した末にエンジンを掛け出発した。

小さい船だったため船艙が機関室で、機関室が船艙だった。ポン、ポン、ポン、ポンというたびに船がやたらに鳴り響いた。始めは面白かったがだんだん胸がどきどきし始めた。胸がむかむかして頭も痛い、まったく気分が悪い。周囲を見回すと他の人達は平気な顔をしていた。多分訓練が出来ている人達のようだった。

釜山から下関までは、関釜連絡船で8時間ぐらい掛かった。こんなぽんぽん船だと20時間は掛かるのだ。こんな状態で20時間我慢しなければならないと思うと情けないことだった。
どうなることか! 不可抗力、運命の然らしめる所と堪えるだけ。体から力が抜け、精神もばうっとなる。(いくら安くても、誰が買ってまで苦労するものか)船酔いは腹が空いているとひどいと言うが、朝食の後何も食ぺるものがなかった。他の人達は船酔いするとよく吐くというが、私は吐く体質ではなかった。胸がむかつき吐き気がしながらも吐きはしなかった。そんな状態で夜を過ごした。眠りもしたような、しないような状態だった。(気分が良ければちゃんと眠れるのだが)

朝になった。人々が起き上がり活気づいて動き出す。私一人だけ元気がない。若い者がそう横になってばかりもおれず、甲板に上がって行った。甲板に出てみると、船は海の真ん中を進んでいるが、四方どこを見ても茫々たる大海だけで、通り過ぎる船は一隻も見えなかった。しかし、空は澄み渡り風は涼しく、気分が爽快になった。

海の上を眺めると、魚が空に向かって跳ね、飛んでは水に落ちた。再び跳び上がって飛びながら船と並んで走っていた。それも1,2匹ではない。まるで船と競走をするようだった。余りにも不思議なので聞いてみると、'飛魚'だという。広い海、涼しい風、そして飛魚を見た後で大分気分が良くなった。

「トイレはどこですか?」と船員に聞いてみた。
「あそこです」と顎で一か所を指す。
そこは船の後方だったが、まるでベランダのように船の外に古い布を張り回らせた所だった。
あ一、あそこだな、と何とも思わず幕をめくって、一足踏み出し'あっ'と肝をつぶして飛び退いた。冷や汗がだらだらと流れる。
 
 
日本の地を前にして

世の中にこんな便所がほかにあろうか?
幕をめくると、棒が二本、船の外にくくりつけてあるだけだった。下を見ると海水がスクリューに砕けて、勢いよく押し出されていた。要するにその棒を踏んでしゃがみ込み、落ちないように船縁を掴んで用便をするシステムだ。

空中ぶらんこ乗りよりも、もっとはらはらするサーカスだ。
最高に衛生的ではあるが、私にはそんな度胸がなく、こっそりと引き下がった。
空は澄み、風は静まり、まるで747ジェット旅客機に乗ったように楽々と進んだ。夕暮れ時になると船長が緊張し始めた。日本に近付くと、ひょっとして巡視船がいるのではないかということだった。

前方に小さな島が一つ見え始めた。
船長は、その島の方にゆっくりと、警戒しながら接近した。船長の話では、'おきのしま'という無人島で、時々漁船が風浪を避けて臨時退避する島だが、そこに隠れていて、夜に出なくてはならないとのことだった。
その島はたとえ小さくとも、すっぽりと入り込んだ湾があって、船を隠すのには誂え向きの場所だった。

船長は経験豊富で老練な人だった。
目的地がどんなに間近であっても、いま出て行っては間違いなく捕まえられるということだった。彼はこの近所の海上の事情は、掌を見るように隅々まで知っていた。時間も完璧に計算し、合わせているようだった。船長は灯火管制を命令した。明かりを見せてはいけないということだった。

その中間休息は私には大助かりだった。まず、どんどん響く音がなくなり生き返ったようで、船酔いも治った気がした。そしてサーカスをするのが怖くて我慢していた用便を無事に解決しすっきりした。

解放されてから満1年の8月なので、土の上に仰向けにごろっと横たわっていても寒くなく、むしろ快適だった。
何時間か休息を取り終えてエネルギーが充満できたようだった。

夜明けの2時頃になって再び出発した。速度を落とし、とてもゆっくり進んだ。泥棒猫のように忍び足で接近する。(泥棒といえば泥棒だな) 船長が船室に降りて来て、「もう直ぐ目的地に着きます、そこは下関から日本海の海岸沿いに〇〇キロメートルになる所で、左側には村があり右側は低い山です。それで右の方に静かにお行きなさい。そこから1キロメートルほど行くと、汽車の停留場があります。しかし、ここに船が着いたという噂が流れているかも知れないから、次の停留場から乗るのがいいでしょう」と、地理と注意事項を教えてくれた。

私はたった鞄一つだから、手足まといになるものもなかった。しかし、他の人達はそうではなかった。大概が日本に家族がいる人達だった。事情は各々異なるだろうが、必ず行かなくてはならない人達であることは間違いないようだった。

国家間に外交関係があるわけでもなく、正式に行くことが出来る交通の便がないものだから、密航船でも利用しなければならない切迫した人達ばかりだった。
その人達は、私が用もなく無鉄砲に行ったり来たりする狂った奴とは想像も つかないだろう。それで、私は他の人々と話をすることをなるべく避けていた。
何処まで行くのか?何の用で行くのか?根掘り葉掘り聞かれれば答えに困るので・・・・。
 
   

下関駅で


ついに上陸だ。夜明け前の真っ暗な夜だった。一人づつ静かに降りて四方に散ばった。各個分散?突撃、前へ!
呆れるほどタイミングをよく見計らって、我々を降ろしてしまった船は暗闇を利用して真っ直ぐに公海上まで出て行くのだ。
低い山の中腹伝いに暫く行って、鉄道駅が遠くに見える地点で夜が明けるのを待った。

朝6時頃起きて身なりと髪をざっと整えて、停留場の方に歩いて行き汽車の 時間表を見ると、7時に下関行きの列車があった。まず切符を一枚買い込んで鞄に入れ、ちょっと離れた場所に行って座った。

密航船で来た人達が一人、二人づつ入って来はじめた。ところが暫くして周辺が騒がしくなって、手に棒を持った青年が3,4人押しかけて来た。彼等の喋る話を聞くと、「きのうの夜、密航船が入って来た。ここにも密航者がいるだろうから調査しよう」と言葉を交わし待合室に入って来た。

その青年達は多分村の自警団員か何かのようだった。待合室に入った青年達は人々を疑わしい目付きで上から下までじろじろ見ていたが、一人づつ調べ始めた。何度か言葉をやりとりしてから、彼等に引っ張って行かれる人もいた。一人の奴が私の鞄に触って、「これは誰の物か?」といって四方を見回す。私は大きな声で、「あ、それは私のです、そこに置いておいたのです。」といった。私が自信たっぷりな大声で叫んだので、こ奴はぴくっとして、「あ、はいはい」といって引き下がってしまう。恐らく日本人と思ったようだった。(田舎者は仕方ないさ)

そうしている中に汽車が入って来た。私は悠々と鞄を持って汽車に乗り込んだ。堂々とした振りをしたが虚勢に過ぎなかった。背筋からは冷や汗が流れた。

その列車は地方小都市を連結する通学列車のようで学生達が大勢いた。次の停留場からは密航の同志が何人か列車に乗るのも見えた。多分一停留湯を歩いて乗ったようだった、骨が折れても安全が第一だね。

そこから下関までは遠くはなかった。永登浦と安養間の距離のようだった。
列車内の風景は別に目につくことはなく、ずっと、平凡な田舎の列車に、平凡な乗客で、平凡な雰囲気そのものだった。

下関駅で降りて改札口を出ようとすると、駅員と並んで立っていた警察官が 呼ぶので、私は怪しげに見える行動をしたつもりはなかったがと思いながら、(泥棒の足を痺れさせるやり方だな)怪訝な表情で巡査を見上げた。

以前は巡査は刀を吊っていたが、今は刀の代わりに拳銃をさしていた。米国式に変わったのだなあと思っていると、「鞄の中をちょっと見せて下さい」という。

ははあ!所持品調査だなと思って、黙って鞄を開けて見せると、巡査は中を覗いて見て、「結構です」という。私はゆっくりと鞄を閉め歩いて出て行った。私は調査を受ける間じゅう一言も言わなかった。そんな時は物を言わないのが相手に圧力をかける要領だ。

腹が減った。丸一日中何も食べずに緊張した瞬間を乗り越えたので、急に空腹感が襲って来た。
駅前できょろきょろ見回して、「そうだ!駅の構内食堂に行こう」再び駅に入って行き二階の構内食堂に上がって行った。大体鉄道駅の構内食堂は、列車食堂と同じく高級だ。腹ペこの挙げ句、上品に栄養補給をしようというっもりだった。メニューを見ると海草をいためたものだけだという。海草というものは真っ黒でみみずのような形をしたもので、到底食べられない代物だ。それよりは、まて貝が百倍ましだ。

「えいくそ、戦争が終わってから一年も経っているのに、いまだに代用食に海草を食べているのか?」
内心ぶつぶつ言いながら、黙って立ち上がった。いやに運がないなあ!
私は駅食堂を出ながら考えた。
「そうだ。米だ。米がないのだ。鞄を見せろというのも米の調査をしたのだ、それなら方法があるさ」
   

戦に敗れた日本の中の朝鮮人

私は朝鮮人部落を探して行った。
朝鮮人が朝鮮人を深すことは難しいことではなかった。
朝鮮人部落の食堂に入って行って主人と挨拶を交わした後で、朝鮮から今朝着いたが腹が減っているので御飯をちょっとくれと言うと、あ?そうかと言いながらすぐ膳をこしらえてくれた。

今は、私は年取って翁とかおじいさんとか言われるが、その時は20代中盤のぴちぴちした若者だったから、御飯を丼一杯瞬く間に食べてしまった。  
おなかが一杯になると気持ちに余裕が生じ、食後に主人と祖国の話、日本の話、この話、あの話をする間に日本の事情を沢山知ることが出来た。情報だ。昔も今も情報はいつでも必要なものだ。

日本はその時までも配給制度を維持していて、配給量が足りずに闇取引で米を買って食べるといい、食堂でも旅館でも御飯がないといった。御飯を買って食べようとすれば、中国飲食店か朝鮮人部落を訪ねて行くしかなかった、

中国人は戦勝国民であるため取り締まることが出来ないという。
ヤルタ会談でも蒋介石総統は参加しなかったではないか。それでもマッカー サー司令部には中国代表が堂々といらっしゃる。中国人に触れることはタブー中のタブーに属する。それで中国人は殆ど治外法権だという。(中国野郎がずいぶん出世したなあ。苦労の末に楽が来たわけさ!日本野郎も痛い目に合わなきゃ) 本当に不思議なのは朝鮮人の立場だった。朝鮮人は日本人でもなく戦勝国民でもなかった。朝鮮人達は'我々は戦勝国民だ'と主張はするが、それは公認されたものでない自分達の主張に過ぎず、国交がないので外国人待遇も受けられなかった。(建国もしていなかったので国交があるわけがないさ)

強いて言えば無国籍者だった。憤懣やるかたないが法的にはそうだった。それで、当時の朝鮮人達は権益を保護してくれるほどの機関もなく、利益を代弁する機関もなかった、完全に捨て子だった。

日本政府は朝鮮人間題を忌避した。朝鮮を放棄した以上、日本人ではないという論理だった。敗戦国の政府としては頭が痛いことが山積していたので、朝鮮人間題まで手を回す余地がないのは当然のことであった。

日本政府は、出来ることなら朝鮮人問題に介入しないことを望み、朝鮮人達が如何なる問題も起こさず静かにしていることだけを願った。結局身勝手な責任回避に過ぎなかった。
戦争中は内鮮一体だ、何だといって嫌という程こき使って、戦争に負けると、私は知らないというのだ。何の対策もなかった。お前達はお前達でよく判断してやれという姿勢だった。

生きて行く方法は一つしかなかった。団結することだ。ひとかたまりになって突破することだ。その道しかない!法の保護を受けられないからには、法を守る必要もない。残された道は悪いことをするしかない。やくざしかない。強引に持ち堪え、実力で押して行くことだ。朝鮮人達は3,4名づつ組になって、田舎に行って米を買い、途中で引っ掛かれば力づくでも突破して来て売り、小遣銭も使い、食べ、生きた。

朝鮮人部落では御飯も売り、マッコルリも売った。命をかけて米を運搬した、
それでこそ生きて行けた。そのようにして生きて行った。
日本人達は朝鮮人から米を買って食べていた、それでも朝鮮人を嫌った。

時々、日本人と朝鮮人の間で争いが起きる時もあったが、そんな時には朝鮮人達は無条件で加担し、日本人を敗走させた。殴り合いをしてでも勝たねばならなかった。
そうでもしなければ、その社会で生きて行くことが出来なかった。
強引な実力で、拳骨で生きるしかないのが朝鮮人に与えられた運命だった。

戦に敗れた日本の地での話だ。 僕はそこで米を一升買って鞄に入れた。
 
   

'大人'(ターイン)になったチャンコロ

中国を自分の意のままに侵略し、自分の意のままに引っ掻き回して行き来し、阿片商売、密輸、略奪、強姦、殺人等、とても人間としてはなし得られない諸々の悪行をほしいままにしながら、中国人を'チャンコロ'といい、ぞんざいに扱って来たのが日本人だ。

特に中・日間に戦争が続いている間(たとえ宣戦布告のない事変という名称であったとしても)、中国人達は戦争捕虜と異ならない状態にあった。  
台湾は日本の領土となっていたので、形式的には日本だが、中国本土との関係を恐れ、台湾出身といえども色眼鏡で監視と統制を強化し、本土出身中国人は特に無権利状態にあった。

昔から中国の山東省、河南省等北部出身者は韓国、日本に多数移住しており、福建省、広東省等南部の人達は東南アジア方面に大勢進出していた、 
韓国は日本と言語の系列が同じで、文化的共通性が多かったため、二つの民族間の融和が比較的たやすく、お互いを良く知っており理解も容易だった。

中国はこれとは反対に、たとえ日本が漢字文化圏に属しているとはいえ、言語の系列すなわち人種学的に異なっており、お互いを理解することはたやすいことでなく、日本人は日本人なりに、中国人は中国人なりに排他性が強い民族性があって、民族的融和が難しい状態にあった。日本内で商売をして暮らしている中国人は日本人にぺこぺこしながら生きて行くことが当然の慣例となっていた。

それが1945年8月15日、日本が連合軍に降伏することによって立場が正反対に変わった。横暴を事とした日本は降伏し、無残な目にあってのみいた中国は連合軍の一員として降伏を受ける立場になったのだ。

日本人は敗戦国民であり、中国人は戦勝国民になったのだ。
日本に居住している中国人は、連合軍司令部(マッカーサー司令部)の保護を受けることになった。それだけでなく、中国人には連合軍司令部から食糧、医薬品、生活必需品等を大量に支援・供給するようになった。

こうして日本人は食べる物もない乞食生活を免れないが、中国人は急に金持になったわけだった。
中国人が経営する見すばらしいうどん屋に入ってみてはびっくりした、 17,8歳位になる日本の娘達が5,6名従業員としていた、大阪、東京ということなく、何処へ行っても中国人の飲食店には日本人の娘達がうようよしていた。まだ幼さの抜けきれない小娘達が濃い化粧をして客を迎える。

しかし日本人が経営する飲食店は扉が閉まっていた。売る食べ物がなかったのだ。
中国飲食店には肉科理、御飯、野菜、魚等ないものはなく、何でもあった、値段はべらぼうに高かった。食べる人は金を出して食べ、金のない人は相 手にしないという姿勢だった。

中国飲食店での日本人の娘達は、とにかく御飯をもらって食べた。中国人が 3名なら、日本人の娘達は6名は充分いた。中国人達に娘の福がやって来たのだ。

娘さん達にこっそり聞いてみると、通勤している人はいないと言った。全員が食べて寝ているということだった。これ以上気を回す必要はない。分かり切ったことかも知れないから。けちなことで名高い中国人達が、経験もない幼い娘達を何のために何名も食べさせているのか?こんなことを不問可知(問わずして知ること)と言うんだよ!

中国飲食店で働く娘達も、少しも恥ずかしがるとか暗い表情ではなかった。
日本人達は如才ない。日本内では中国人に向かって'チャンコロ'と呼ぶ人はなくなった。彼等の内心を知る由もないが。

昨日の'チャンコロ'が一日のうちに'ターイン(大人)となったのだ。
'ターイン'とは、我が国の言葉で'オルン(ダンナ)'という意味で、中国人特有の敬語だ。
   

パンパンガール

大阪は日本第二の大都市だ。豊臣秀吉が築き上げた大阪城は建築の美しさや栄辱の歴史で有名な所だ。
大阪の歴史は長い。大阪は長い間、商工業の中心地、経済の中心地だった。'大阪商人'といえば、我が国で'開城商人'というのと似た意味になる。

大阪は日本のニューヨークだ。いつも活気に満ちている都市だ。野心を持ち生存競争で鍛えられている人達の瞳は生き生きときらめき、早口で喋り、大阪特有の方言は人々を惹き付ける魅力もある。
鉄道の駅も大阪は東京よりも進んでいて、新庁舎を建てて現代化を計り、地下鉄も早くから発達していた。

淀川は大阪の中心を流れる川で中之島という小さな島があるが、この一帯を道頓堀といい、大阪の中心地で繁華街、歓楽街だ、道頓堀はいつも不夜城を誇る所だ、例えて言えば明洞と鴨鴎亭と瑞草洞のモクチャ横町を合わせたような場所だ。そんなに華やかだったネオンも、騒々しい広告板も灯が消えていた。薄暗く蒸し暑い通りを人々はあっぷあっぷしながら歩いていた。

昔の学校や工場と見られる建物には米軍が入っていた。日本人は米軍を'進駐軍'と呼んだ。
'米軍'でも'占領軍'でもない'進駐車'だ、私は'進駐車'という言葉を反芻してみた。自分達は武力で占領されたのではなく、平和裡に迎え入れた軍隊だという意味だ。そのように言うことで降伏した屈辱を薄めようという意図が明らかだった。

日本人は敗戦日を'終戦日'という。敗戦を認めながらも'敗戦'という言葉を口にしない。'終戦'という名前で統一しているのだ。
日本はサムライの国だ。 絶え間なく争い、勝ったり負けたりする。争いでの勝敗は兵家の常だ。争いに負けたといって恥ずかしいことではない。相手が私よりもっと強かったために負けただけだ。

同じ論理で、過ぎし日周辺国家を侵略したことも、間違いだという観念は全然ない。それは強者の当然の権利くらいにしか考えない、
自分が強いときは無慈悲に支配する代わりに、自分が征服されたときは如何なる屈辱にも堪え抜く習性が歴史的に骨に染みているようだ。そんなこともサムライ根性の一端のようだ。

米軍部隊の塀の周辺には数多くの日本娘達がうろついた。人々は彼女達をパンパンガールと呼んだ。語源がどこから来たのか、日本語なのか英語なのかも無知な私には知るすべもないが、どことなくしっくりした表現のような感じがする言葉だった。

米軍が部隊から出て来ると、待機していた娘が近付き腕を組む。彼等がどこに行くのかは、ついて行って見なければ分からない。そんなことに関心を持つ人間は誰もいない。
擦れ違う人達の視線を注意深く観察しても、関心を示す人はいなかった。
梨泰院通りで米軍と手を組んで歩いて行く洋公主(パンパンガールを皮肉っていう語)を見る韓国人の視線とは違っていたという意味だ。

8月の蒸し暑さを冷そうとして薄暗い中之島に下りて行った。道端の低い木の茂みの中から変な声がするので、思わず振り返ってあっとびっくり仰天した。軍人と女が一体になって色情をぶちまけていた。よく見ると、中之島一帯がことごとくそんな様子だった。

日本の中心地大阪、大阪の中心地道頓堀中之島で繰り広げられる夜の行事だった。夜の日本の通りはまるで女性の国だった。何処に行っても女性がうろうろし、誰かが声を掛けてくれるのを待っていた。汽車の駅であろうと、地下鉄であろうと、街頭であろうと。
日本人達はこのような現実を何の拒否感もなく受け入れているようだった。

後で聞いた話では、日本が再起するのにパンパンガ…ルが稼いだドルが大きな役割を果たしたという話もあった。一理ある話だと思った。
パンパンガールは外国煙草、チョコレート等を受け取らなかったという。
ただドル($)だけ。
   

一汁一菜

大阪を歩き回っていても夜寝る時は大阪から京都に行って宿を取った。京都は千年の王都だ。徳川幕府の滅亡と中央政府の樹立は、封建制度から民主主義制度に移行する日本のブルジョワ革命だった。
これを日本人は明治維新という。 維新後、王は東京へ移住した。主人が移住し、空き家が残された都市が京都だ。

日本の王は、ただの一度も実権を握った時はない。そして日本の王には武臣がいない。身辺の警護は当時の実権者が当たる。だから体のいい操り人形に外ならない。
若し王が武臣を持ち、実権を行使しようとしたならば、命が幾つあっても足りなかっただろう。それが日本の封建制度であり、サムライの気質なのだ。

実権のない王、ただ名目だけの王が住む都邑では商工業を発展させなかった。王都で必要なすべての物資は、大阪と神戸から搬入した。京都、大阪、神戸は三角形をなし、実質的な支配権は大阪にあった。この三角地帯は政治、経済の中心地だった。

そのような歴史的与件は、京都を独特な文化と雰囲気を持つようにさせ、言語も大阪弁とはまた違った風雅な趣がある。
京都はソウルと同じく山で取り囲まれている。
私は京都の雰囲気が好きで、宿所を京都に定めた。
大阪から30分の距離で、静かできれいで、気持の休まる所だった。
夜遅く旅館に入って行った。日本の旅館はいつでも親切だ。
(これは韓国の人達が大いに見習わなけれぱならないことだ)

「明日の朝、朝食をお願いしたいのですが・・・」
「でもお米がありませんが、どう致しましょう?」
(韓国だったら'御飯は出来ませんよ'というだろう)
「お米を上げればいいですか?」
「はい、それでしたら、して差し上げましょう。私が器を持って参ります」
素早く出て行って器を持って来る、
「さあ、ここにあるから好きなだけ掬って行って下さい」
ずいぶんと豪気に振る舞ってみる。
「まあ、どうしましょう。本当に豪華版でございますね。お米をこんなに持ってお歩きになって羨しい御身分です」
「遠慮せずに充分に持って行って下さい」
(えっへん。長者の度量はこんなものさ。えっへん)
「はい、はい、でも、とてもそんなには」
といいながら、一粒も零さないように用心用心して一食分だけ移して、器に盛って素早く立ち上がり出て行く。
翌日の朝だった。適当な時間に合わせて朝食の膳を持って来た。

ああ、ところでこれは何だ!
御飯は茶碗一杯、味噌汁一杯(味噌汁をちょっと見ると、薄いといっても程がある。呆れたことに、茄子を薄く切ったものがたった一片浮いている。茄子1個で30杯は作れるだろう)そして、沢庵二切れ。それが全部だ。
いくら一飯、一汁、一菜だといっても、あまりにもこと欠いた暮らし向きが気の毒で呆然と跳めているだけだった。そうする中に担当の女性が声を低めて、
「申し訳ございません、あまりにもおかずがお粗末で。なにしろ品物を求めるのが難しくて」と言い、どうしていいか分からないと言った。

私はその言葉にはっと気を取り直した。
「あ、そんなことはありません。ちょっと外のことを考えていましたので、御苦労様でした。頂きます」と言って、さっさと食べてしまった。

旅館を出ると玄関の前が清潔だ。水を撒いてきれいに掃いてあった。玄関前の道の横にある壁に寄り掛からせて小さな水槽が作ってあったが、その中を見ると、錦鯉が数匹泳いでいた。なかなか風情のある眺めだった。

戦争には敗れ食糧は不足し、人々は栄養失調でぶよぶよ腫れ上がっているが、依然として鯉を飼っていて、夜誰かが盗んで行くようなこともなく、触れる人は誰もいないようだった。これが京都の人の気質だと言おうか。

日本は仏教の国だ。数十の仏教の教派がある。その多くの教派の本山は大部分が京都に集まっている。京都を取り巻く'比叡山'には各種の仏堂が集結していて、巡礼者の往来が絶えることがない。
京都は茶道の本場でもある。そのせいかどうか分からないが、近郊には'伏見'という地方があるが、'伏見焼'という陶磁器の名品を生産している。
   

サムライ根性


数年前、KBSで離散家族探し運動を繰り広げ、大きな成果を収めたことがある。その時、KBSの建物がすっかり張り紙で覆われたことを記憶している。

敗戦当時、日本の地下鉄や鉄道の駅のように人が大勢集まって来る場所は、色々な張り紙で覆われていた。戦時中に家を出て、帰ってみると家が爆撃でなくなり、家族を探している張り紙だった。

ところで、離散家族を探す張り紙よりもっと多数の張り紙で目が痛かった。
'我々は戦争に負けた、今は苦しい。日本国民は克ち抜かねばならない、艱難に克ち抜いて必ず再起しよう。日本は再び起き上がるのだ'

このような張り紙が大変な枚数張ってあった。名前もなく筆体もまちまちである。文句も少しづつは違っている。
しかし、'苦痛に勝ち抜いて再び立ち上がろう。'という趣旨は同じだった。大阪、京都、東京どこへ行っても同じ様子だった。人の手が届く所は隙間なく檄文か張ってあった。

多分すべての人が、敗戦の欝憤を檄文にぶちまけて再起を固く誓うもののようだった。私は檄文を見ながら、得体の知れない一種の戦慄を感ぜざるを得なかった、そうした中で、ぞくっと鳥肌が立つような新聞報道を見た。事の内容はこうだ。

広島県のある田舎の村で起きたことだ。
腹の減ったある少年が、他人の家の西瓜畑に入って西瓜を取って食べたが、見付かって捕らえられ、隣近所の子供達が飛び掛かって殴り殺した事件が起きた。警察の調査でのその子供達の答弁が身の毛がよだっものだった。
「日本が戦争に負けたからといって、腹が減ったといって他人の品物を盗み食いするそんな腐り果てた奴は殺さなくてはなりません」と叫んだというのだ。
私はこの新聞報道を見ながら身震いした。

サムライの後裔達に伝え継がれている'血の執念と根性'。 これがどれだけ恐ろしい民族性か?我々はどれだけこれらのことを知っているか?誰が日本を正しく知っていると壮語できるだろうか? この時の少年達は今は60歳を越えただろう。これから先も続いて行くだろう。

彼等は表面は謙遜で親切だ。法をよく守り、自分の仕事に熱心だ。勤勉で、事ごとに抜け目なく几帳面に処理する。それでいて苦痛を甘受することが出来る。克ち抜くことが出来る。パンパンガールが通りに溢れていても'女子の当然の任務'程度に認識している。

中国人達が急に勝者になり、日本娘達を2,3人づつ抱えているといっても、知らない振りをする忍耐性がある。冷淡で薄情だ。
度が過ぎた偏見だと私に言う人もいるだろう。もう一つの例を挙げてみよう。

私が何日間か歩き回りながら、市場や商店で出くわした人の中には、外国煙草を吸う人を一度も見掛けなかった。そんなに食糧が不足していても、その求めやすいチョコレート、キャンディー、ソーセージ類を食べる日本人は一人も見かけなかった。
甚だしくは'ガム'を噛む女性を見たこともなかった。パンパン族さえも・・・。

我が国では'ラッキーストライク''キャメル'を吸ってみたことのない人がいるか?外国煙草が'ホッジ'司令部にだけあって、'マッカーサー'司令部にはないと考えるのか?
そうではない。根性が違う。精神的姿勢が違う。 民族精神、正にそれだ、 今日彼等は戦勝国米国を凌駕する経済力を保有している。我々は彼等から

何を学ばなければならないのか、何を警戒しなければならないのか?
   

原子爆弾が残した痕跡

日本軍国主義の元凶である東条内閣も、マリアナ群島(南洋群島)が米軍により陥落し米軍が沖縄に上陸するや内部からの非難と分裂に堪え得ず総辞職してしまった。

マリアナ群島は第1次大戦後に日本の委任統治領に決定された太平洋上の群島で、事実上の日本領土だった。

東条内閣の後を継ぎ、小磯国昭陸軍大将、米内光政海軍大将が共同で内閣を引き受けた。しかし、ずでに大勢は傾き、戦勢を導いて行くことのできない状態だった。それでも彼等は本土決戦を叫ぷばかりだった。

1945年2月、ソ連クリミヤ半島のヤルタで開かれた米・英・ソ首脳会談では次のような決議が採決された。

1.ドイツ降伏後2〜3か月以内にソ連が対日戦に参戦する。
2.日露戦争で日本に奪われたロシアの権益を回復する。
3.日本の千島列島をソ連に引き渡す。(日本が返還を要求している北方島
嶼は、この時すでにソ連が取ることで国際的に協約されていた)

いわば、ソ連を対日戦に引き入れるためにソ連に配当を約束した会談がヤルタ会談だった。
沖縄の戦闘は日増しに苛烈になった。
(苛烈になったという言葉は不利になったという意味だ)1945年3月には小磯内閣も崩壊した。
内閣を指導して行く人がいなかった。元老達は皆尻込みした。誰も葬儀社役をするのが嫌だったから。それで仕方なく立てたのが、天皇と近いという名分で鈴木貫太郎海軍大将だった。

この人は政治的識見も力量もない人だった。当然の日本の立場を知らなかった。戦争を終える方途を準備する代わりに、前任者達が騒いだ通りを踏襲しただけだった。
彼は就任直後、日本内のすべての壮丁を軍に召集した。(支給する銃もなかったという。)そして食糧の配給量を1合3勺から1合に減らした。一人当り2,400カロリーは摂らなくてはならないのに、1,200〜1,400カロリーを配給しただけだった。

このような政策は国民の犠牲を増加させるだけの結果を招来した。
45年6月には遂に沖縄が陥落した。
沖縄の戦闘で、日本軍10万名と民間人15万名が死んだ、
日本の南海の離れ島が完全に廃墟になったのだった。
1945年5月7日遂にドイツが降伏した。

1945年7月17日ベルリン近郊のポツダムで開かれた米・英・ソ三国首脳会談で以下の4項を宣言した。

1.日本の無条件降伏。 
2.軍国主義の除去。
3.連合軍の日本本土占領。
4.国家統制を精算し、自由と人権の回復を賦課する。
ソ連は日本と交戦状態でなかったので、米・英両国の名前で日本に通告した。

ボッダムの一日前の1945年7月16日、米国は原子爆弾の実験に成功した。
20日後の8月6日朝、広島に史上第1番目の原子爆弾が投下された。
当時広島の人口は40万乃至44万だった。人命の被害は次の通り。

被爆生存者161,179名中、負傷者157,000名
死亡者24万名乃至28万名(広島市役所50年10月集計)
結局40万名中4千名だけが無事だったという話になる。
負傷者15万7千名は放射線患者として一生を終えることになる。

それから3日後、日本の西端長崎に第2弾を投下した。長崎の人口の半分が死に、半分は負傷した。結局全滅してしまった。
最初の原子爆弾はTNT2万トン級だという。現在の水素爆弾は50メガトン級に発展している。

原子爆弾の中心温度は3万度ともあるいは30万度ともいう。
原子爆弾が爆発すると、短い時間ではあるが途方もない高熱になり、数千度の旋風が起きる。この火の風は地上のあらゆる有機物質を'灰'にして飛ばしてしまう。

広島は平野地帯だ。その広い野原を埋めていた家々が一瞬にして痕跡もなく消えた。都心地のビルディングだけが、骨組のみ、やせさらばえて残っていた。窓枠さえなくなったままで。
原爆が爆発した中心から半径2キロメートル以内にあるあらゆる建物が完全に焼失し、遠い所に立っている電信柱や大木は市内の方向に向いた片面が真っ黒に焦げていた。
10月には米・日合同調査団が構成され調査をしたが、調査資料は米国側が持って行き、日本には何も残して置かなかったという。
   

戦勝国の胸算用

日本の敗北は時間の問題だった。そのことは誰でも皆が知っていた。ただ、何時、どんな方法で降伏し、戦後処理はどの線でやるようになるのか?等が残っているのみだった。
これに関しては、米国、ソ連、日本は、それなりに胸算用を異にしていた。

米国の胸算用

米国は戦争を一日でも早く終わらせたかった。
しかし、日本はじれったいほどに最後の決戦を叫んぞばかりいた。問題は、一日も早くソ連を参戦させて米国の犠牲も減らし、戦争も早く締め括らなくてはならないと判断し、ポツダムでスターリンに大きな手土産を与えたことだった。

そんな焦燥感から、たった今実験が終わったばかりの不完全な原子爆弾を、2発も投下する冒険をしたが、日本は引き続き本土決戦を叫ぶばかりで、今後も相当の期間戦わなくてはならないと判断した。

(この部分は判断が誤っていた)
結果は、原子爆弾を爆発させる間にソ連が素早く参戦し、1週間も経たない中に日本は降伏した。
こうして米国は戦争に勝っても苦い杯を飲むことになった。
事実、対日戦は米国が独りで事に当たった。犠牲も大きかった。

日本がアジアで占めていた利権(?)は莫大なものだった。朝鮮、台湾、中国(満州を含む)および東南アジアの魅力的な支配権だ。弱小国の立場からは自尊心が傷つくことだが、強大国としてはこのようなことは魅力の対象であることには間違いない。

日本がそんなに早く降伏することが分かっていたら、スターリンに譲歩をするのではなかったものを、労而無功(骨折り損)だ。粥を炊いて犬がいい目をした体たらくになってしまった。

余談のようだが、モスクワ三相会議で、5年間米・中・ソが朝鮮を三国で信託統治することを決議したにもかかわらず、共同委員会の過程で覆したのも、南朝鮮の支配権だけでも確保しなければならないという打算があったと見ることが出来る。
 

ソ連の胸算用

ドイツの機械化部隊の奇襲を受けたソ連は、3年間力に余る戦争をした。
スターリングラードの戦闘で悪戦苦闘の末にドイツから決定的勝利を勝ち取った。ソ連は対独戦に全力投球するため日本と不可侵条約を結んでいた。

連合軍はノルマンディーに上陸をしたが、ぐずぐず時間を延ばし急ぎはしな

かった。ソ連がドイツと第二戦目の投球を繰り広げている時、遠くから声を張り上げている状態だった。

ソ連は莫大な出血をしながらドイツと戦わなくてはならなかった。結果的にはソ連はドイツを打ち破りドイツ領土に進入した。これは連合軍側からは予想外のことだった。ぐずぐずしていてはドイツを根こそぎソ連に奪われる状況になると思い、慌てて総進撃をしたが一足遅く、ベルリンをソ連が占領してしまった。

極東に対しては、ソ連としては怨恨も大きく野心も多い。日露戦争で樺太を奪われ、満州の支配権(南満州鉄道と大連港)を失った。極東で不凍港を確保することと、べ一リング海域の支配権を掌握すること等が、ソ連とすれば見逃すことの出来ない命題だった。

ポツダム会議で、対日戦に参戦する条件として予め対価の約束を得ていたのも、最大限の利益を確保しようという計算からだった。
ドイツが降伏した後3か月以内という但し書きは、出来るだけ遅く参加して損害を少なくし、大きな収穫を上げようという胸算用があったためだ。 

約束した3か月は近付くが、ドイツの場合とは反対に日本は急速度で潰れるのではないか、そうだとしたら九仭の功を一 簣にかくことになると思い、準備もろくにしないまま宣戦布告と同時に進軍を命令した。

それは広島で原子爆弾が破裂した2日後のことで、ドイツが降伏してから満3か月が過ぎた翌日の
1945年8月8日だ。
ソ連が参戦してから1週間で日本が降伏した。
対日戦でのソ連の犠牲は殆どなかった。ただ占領して行くだけだった。

日露戦争で喪失したロシアの権益中、満州に対するものは、中国が連合軍の一員であるため放棄しないわけにはいかず、辛うじて38度線以北の朝鮮を占拠する線で満足することになった。

樺太は元来がソ連の領土なので論外で、ソ連が対日戦で得たものは千島列島のみだ。千島列島は軍事的要衝地だ。米国、日本、ソ連と相接した重要な地点だ。 これを日本が返還しろと言ってもソ連が聞くわけがない。米国は、'当事者間で解決して下さい'と、そっぽを向いでいる。そうするしかない。
   

降伏前夜

ABCDラインで海上輸送路が封鎖され、中国戦線が膠着状態に陥った時、

米国は日本に、海上封鎖を解除する条件として中国からの全面的撤収を要求した。 若し日本が、その時その条件を受諾し中国侵略を断念していたら、韓国は解放されはしなかったし、ひょっとしたら満州の支配権さえも日本にそのまま残った可能性もないことはなかった。

しかし、日本の若いサムライ達は得意の絶頂にあり、老練な政治家達の忠告に耳を傾けはしなかった。
沖縄が陥落し、ポツダム宣言が通告されても、日本軍部は大本営発表を操作し、虚偽の発表ばかりしていた。

原子爆弾が投下されl個の都市が全滅しても、核兵器に対する知識がなかった軍部は、特異な新兵器程度に見なしただけだった。

日本軍を決定的に絶望させたのはソ連の参戦だった。ソ連までが襲い掛かった場合には、日本としては不可抗力だった。

そんな日本は連日御前会議を開いた。日本が戦争に負けたということはすでに認めていたが、少しでも有利な条件で戦争を終わらせようという議論だった。

日本が最も恐れたのはソ連に支配されることだった。前首相で皇族の近衛文麿は、「今この時点で最も警戒しなければならないのは、日本の国体を変化させる心配があるということです(天皇制廃止を指摘する言葉)。今しなければならないことは、日本の国体を保存することに注力することだけです」と主張した。

ソ連が押し入って来る前に米国に降伏しなければならないという主張をした。
その後日本は、降伏条件に対し次のようなメッセージを送った。

'天皇の国家統治の大権に変更を加える要求を含んでいないという理解の下にポツダム宣書を受諾する'

日本の意思表示に対し米国務長官バーンズは次のような強硬な回答を送って来た。

'降伏する時から、天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合軍最高指揮官に従属することとする。日本国の最終の統治形態は、国民が自由に表明する意思により決定されなければならない'
1945年8月12日のことだ。

日本の最高指導部は、宮城の奥深い所で連日降伏問題をめぐって御前会議をしていたが、国民はもちろん隷下の軍指揮官にまでも秘密を固守した。軍民の士気低下によって、若しかして反乱や暴動がありはしないか心配だったからだ。

1945年8月14日、天皇の主張で無条件降伏を受諾することに決定した。
しかし、今まで'本土決戦だ''最後の一人まで戦う''竹槍で米狸犬(メリケンをこのように書くように新聞に強要していた)を殺そう'、このように国民を指導して来たから、降伏するとなると国民を納得させるのが難しかった。

この問題は皇室の権威で解決する外ないとして、鈴木内閣を辞職させ、その地位に皇族の東久遷宮稔彦を首相として任命し、その日の夜、天皇の降伏文書朗読が肉声で録音された。

翌日の朝から全国のラジオは国歌を演奏し、正午に天皇の重大発表があると繰り返し放送した。
国民は訝りながらも、何か良い知らせがあるのかと思って期待を掛けたが、降伏せよとは夢にも思わなかった人が大多数だった。
   

降伏万華鏡


1945年8月15日天皇の降伏放送がなされると、フィリピンにいたマッカーサー元帥は、16日、日本政府に降伏使節をマニラヘ派遣することを指示する。

日本はこれに従い、19日、参謀次長河辺虎四郎中将を全権代表として、16人の降伏使節を派遣する。彼等はマッカーサーから'要求書'を受け取って帰国し、'ミズーリ艦上の降伏式'の手続きを踏むことになった。

日本の上層部は日本が敗戦することを知っていた。これに比べると、一般国民や中・下位級の軍人達には降伏するということは想像も出来ないことだった。
日本人には生真面目な点がある。上の言うことをそのまま信じていたため、このような事態に対する対策と心の準備が全然なかったので、大きな衝撃を受けるほかなかった。

国民は観念と現実の大きな乖離を前にして茫然自失し、背信感、虚脱感、そして一種の解放感の中に敗戦・降伏を迎え入れなくてはならなかった。 

日本の大本営は'日本軍および日本軍支配下のすべての軍は即時敵対行為を中断し、武器を棄て、現在位置で連合軍に無条件降伏せよ'と命令を下した。
生真面目で忠誠心に冨んだ日本軍は、このような命令に忠実に従った。

南方軍   74万4千名     ラバウル    7万名

中国   105万6千名     満州   66万4千名

朝鮮    29万4千名      台湾   16万9千名

樺太     8万8千名

ソ連は日本軍 58万名をシベリアに移送し強制労役を賦課した。

日本政府は、戦争準備のため備蓄したり民間から徴発した貴金属を、分散隠匿しておいた。その方法も色々で、寺の床下に理めるとか海に沈めておくとか多様だった。

財閥達は予め分かっていて、現金はインフレで価値が下落することまで予想して、財産を銀行から引き出し、主に不動産に替えでしまっていた。この不動産投資は後日途方もない利益をもたらした。
金持ちは国が興ろうと亡ばうと金を稼ぐ。
近衛師団の一部兵力と、水戸、厚木等の地で若干の反乱があったが、直ぐ鎮圧された。
中国では降伏日本軍を、共産八路軍と対戦するのに動員した。

盲目的な忠誠心に燃えるサムライの後裔達は名誉(?)の割腹自殺を敢行した。特に宮城の前で割腹する人も幾らかいた。

終戦当時、日本本土の兵力は235万名だった。彼等は秩序正しく武装解除を受け、軍装備を収集・廃棄するのに協力した。

敗者は潔く、敗者としての義務を全うするのが武士の道理というサムライ気質を、こうしたことからも窺うことが出来た。

一一一1945年8月31日ニューヨークタイムズ東京発

日本人は全体的に彼等が当面した軍事的敗北を理解出来ず、戦争の初日から、規則違反という名分で連合軍捕虜をむやみに殴った戦争犯罪行為に対する自分達の罪を悟ることが出来ずにいる。

一一一1945年8月31日UP通信東京発

彼等は重々しく威厳のある姿勢で敗北を迎え入れていると言わなければならない。彼等はへつらいもせず、礼儀正しく黙々と助力していた。
 

マッカーサー大王

1945年9月2日、東京湾では時ならぬ壮観な眺めが繰り広げられた。
400台のB29と1,500機の艦上機が空を一杯に埋めて飛ぶ中で、ミズーリ艦上では降伏調印式が挙行された。

9月8日東京米大使館に入ったマッカーサー元帥が星条旗を掲げてから日本の占領が始められた。
当時、日本の一角では、マッカーサーが宮中に入り天皇の居場所を占めるのだという噂も流布したが、マッカーサーは第一生命ビルディングを接収し、連合軍総司令部(GHQ)として使用した。
その外でも使えるビルディングは米軍が徴発して使用した。

連合軍とはいっても事実上は米軍だ。英軍、オランダ軍もいることはいたが、象徴的なものに過きず、米軍の単独占領だった。
その点がドイツと違った点だ。ソ連は38度線以北を占領するに止まったので日本は完全に米国の独り舞台で、マッカーサーの権力の下に掌握されていた。

米国の日本統治政策は'非軍事化'と'民主化'にあった、GHQは、9月11日A級戦犯29人の逮捕令を出し、続いて'特高警察解体'、'治安維持法廃止'、'財閥解体令'、'公職追放令'等を相次いで指令する。

GHQの命令を忠実に執行するために、新しく任命された幣原喜重郎内閣に示達された'民主化五大政策'により女性解放、労組結成の奨励、憲法改正、教育自由化、農地改革等大々的な改革作業に着手するようになった。

日本としては、改革というよりは革命だった。
GHQの指令は絶対的だった。
マッカ一サー自身が、回顧録に、'日本国民に対し事実上無制限の権力を持っていた'と記録している。

11月には天皇が新しい権力者'マッカーサンを訪問した。
このような日本の変化を現地で見ながら、私は我が国と対比して錯雑な思いを禁じ得なかった。

日本は米国に対し多くの被害を与えた末に敗北、無条件降伏して自分の運命を丸ごと米国に任せた敗戦国の立場だ。
それでも彼等は、政府を初めとして行政、司法、立法等すべての統治組織をそのまま維持運営している。それで彼等は'間接統治'と呼んだ。

ところで我が国はどうだろうか?我々は日本の侵略により犠牲となった被害者として、カイロ宣言によって独立が約束された民族だ。
だとすれば、当然米国は我々に自治政府を建てさせて、総選挙による正式政府が樹立される以前に国家体制の基盤を作らぬばならない。

更に、日本の総督は呂運亨に統治権を引き継ぎ、呂運亨は'建国準備委員会'を作って全国の行政組織を人民委員会を通して運営し、秩序整然と米軍の入城を迎えたのではなかったか。

しかし、米軍司令官'ホッジ'は我が民族の自治権を黙殺し、すでに運営中の人民委員会を不法化する、いわゆる'朝鮮での唯一の合法的な政府は米軍政だけで、それ以外は一切受け入れない'という布告令を出し、'直接統治'に乗り出した。

それでは、ホッジが直接統治により朝鮮でしたことは何なのか?
当然、マッカーサーの政策を準用し、非軍事化の代わりに日帝の残滓を一掃しなければならず、民主化五大政策に比肩する、女性の地位向上、労働運動の自由、言論・出版・思想の自由、人権の保障、臨時憲法の制定、農地改革等、統治権者としての実務的責任を全うしなければならなったのではないか。

このように国家建設に必要な実質的な基礎作業を推進する代わりに、背後から左右の対立を助長し民族分裂を深めていたので・・・本当に切なく滅入るばかりだった。
   

米をくれ

戦争に負けた日本国民はひもじさから逃れるために足掻かなくてはならなかった。
1945年度の米生産量は3,900万石で、平年作の55%に止まった。
仕事の出来る男子は徴発され、女子は軍需工場に動員され、極端な人手不足で農作業が出来ない上に、9月の台風で収穫まで台無しになったためだった。

私が行っていた短い期間でも、地下道のような所では、毎日のように飢え死にした死体が何人かづつ転がっていた。
特に残酷なのは爆撃で家と父母を失った戦争孤児達だった。新聞は彼等が1千万名いると報道した。この子供達はあてどもなくさまよい、夜には汽車の駅や地下道で眠り、その場で死んで行った。

戦争は終わったが、政府もそのまま、警察もそのまま、憲兵もそのまま、配給もそのまま、供出もそのままだった。主食の配給としては米、麦、大豆、じゃがいも、さつまいもまで合わせて一人当たり1,000カロリーに過ぎなかった。野菜は一人当たり20グラムが配給量だった。
配給だけでは生きることが出来なかった。食べる物を確保することが生活の第一命題だった。あるいは密搬入で、あるいは闇取引きで。

幣原内閣は米の供出量を90%まで引き上げたが、絶対量の不足で都市も農村も等しく飢えるようになった。いくら農村だといっても90%を供出しては生きて行くことが出来なかった。そこで米を隠すようになり、警察は隠した米を探し出す。こんな悲劇が到る所で起きた。

ある新聞では、共産党書記長徳田球一が昼食に茄でたじゃがいもを食べている写真を報道したりした。一党の党首でも貧しければ仕方がなかった。韓国だったらどうしただろうかと考えてみたりした。
このような状況では闇市場が出来るものだ。闇市場にはありとあらゆる品物が全部あった。主婦達は家族の腹を満たしてやるために高い闇市場を頼りにするしかなく、収入はその方に全部流れて行くようになった。こんな状況では物価は天井知らずに上がって行った。戦争前と比べて120倍になった。自尊心が強い日本人だったが、ひもじさの前ではどうすることも出来ず、闇市場では米軍部隊の食堂から出て来る食べ残りの粥状の豚の餌が飛ぶように売れた。

インフレと食糧不足は庶民達の首を締めた。
46年5月には労組が中心となって、婦人団体、除隊者、帰国者達と連合して宮城前広場で数万の群衆が大々的な示威を繰り広げた。'米をくれ'と叫びながら。
マッカーサーは本国に対し、'米を送るか、そうでなければ軍隊をもっと送れ'と緊急打電したという(頓知のある嘘だ)。

日本政府は米300万トンをGHQに要請したが実際に搬入されたのは70万トンに過ぎなかった。
大量の焼夷弾投下ですっかり焼けてしまった日本の都市は、頑丈な鉄筋コンクリートのビルディングだけ残しておいて全部燃えてしまった。その焼け残ったビルディングは米軍が徴発した。そんなことまで計算に入れていたのか、大きなホテルは米軍の専用機関(宿所、食堂、慰安施設)に変わった。そして、このようなホテルの食堂には依然として豪華版のメニューがあった。しかし日本人従業員には絵に描いた餅だった。

若し、米軍用食品をソーセージー一切れでも盗んで食べるのが見付かれば、その場で解雇された。日本人従業員は米軍が食べ残した皿の残り物に限って食べることを許されていたという。完全に犬になるわけだ。しかし、ホテルは日本人には最高の職場だった。
   

日本の窮乏時代


1946年4月、寒かった冬を辛うじて越して、暖かな春の日差しが照らし始めると、各地で'発疹チフス'が猖獗した。
4月11日、東京都内だけでも4,268名が発病した。
地下、地上ということなく、混んでいるのが東京だ。それで、患者数は急速に増加した。恐ろしい爆撃と飢饉と寒さに打ち勝って生き残った人達は、今度は伝染病で死んで行った。

GHQは直ちに道行く人達を掴まえて予防注射を打ち、DDTを衣服の中に振りまいた。列車、地下鉄を初めとしてすべての交通機関は予防接種の証明がなければ乗車券を売らなかった。
東京で、その年の春に使用した発疹チフス予防ワクチンは160万CC、接種人員116万3千名だったという。それでも少ない数字だ。人口が幾らいるやら。 DDTの使用量はべらぼうだった。家屋散布400万所帯、個人散布1,000万名、その外、学校、列車、劇場、風呂屋に到るまで、あらゆる建物に振りまかれた。

すべての物資が窮乏したこの時代には、食べる物がないだけではなかった。
木炭は日本では重要な燃料として使われるが、この木炭も足りなかった。木炭を手に入れようとすれば山奥に行かなくてはならなかった。木炭を買って来るのが見付かると取り上げられる。包んだ上にまた包んで、分からないように隠す。しかし、どんなに隠しても木炭の黒い色は隠せない。衣服も荷物も顔も真っ黒だ。汽車まで真っ黒になる。そんな人が多いので、烏列車というあだ名が付くほどだった。

飢えに打ち勝つ豪傑はいない。飢えると自然に泥棒が沢山発生した。農村では牛泥棒が頻発した。盗まれた牛は、その日の内に密殺された。それで1946年には牛の数が急速に減って行った。甚だしくは、たった今掘って理めたばかりの墓も暴いて、死体を盗まれることもあったという。

つい最近まで、中国や東南アジアで人間としては出来ないことをほしいままにした彼等だから,家に掃って来て家族達が飢える惨状を見て、どんな真似でもやりかねないと想像できる話だった。
それで,一時肉を求める時、'それ人の肉じゃない?'という言葉がしょっちゅう聞かれたという。

終戦後,日本の警視庁は米軍物資を売買する行為を厳しく禁止した。若し外国煙草を所持しているのが見付かったら、3年以下の懲役または5万円の罰金刑を課すというポスターを全国にばらまいた。多分そのような当局の政策が奏効して、日本人達は外国煙草を吸わないようになったのだろう。 

戦時に発売した煙草、金鵄は1箱35銭、新しく出たピース7円、コロナ10円、私製煙草は20円から30円、新製品ピース、コロナは47年に初めて顔を見せた。しかし、煙草配給量は成人一人当たり月120本だった(1日4本の割合)。
煙草は全面的に私製煙草と闇流出される煙草で需要を補った。

闇煙草の種類は様々だ。外国煙草を外側の包装紙を剥ぎ取り、私製煙草に見せ掛けたもの(30円)、政府煙草をそんな風に見せ掛けたもの、外国煙草の吸い殻と葉煙草を混ぜて巻いたもの、葉煙草だけを巻いたもの等々だった。私製煙草は、最下等が20円した。

私製煙草工場は家庭の部屋だった。46年3月に実施した私製煙草一斉取り締まりで押収した密造煙草は25万本に達した。 
中には、刻んだ葉煙草、紙、煙草巻き器の3種をセットにして売るものもあった。

酒もまた何処でも問題を起こした。我が国も解放直後メチルアルコールが混ざった偽物の洋酒で失明した人がいたが、日本でも航空然科に使ったメチルアルコールを原料に用いて洋酒を作り、沢山の被害者を出し、その外にも密造ドブ酒、密造焼酎等が大いに流行した。

敗戦直後には人力車も出て来た。'輪タク(自転車タクシーという意味)'というものもあった。人力車と輪タクは、チャメッ気のある米軍に歓迎された。

今、金持だと偉ぶっている日本も、終戦後何年間かはこのように悲惨だった。人間の運命は分からないというが、国の運命も分からないことは同じである。
   

ある除隊兵士の話

東京都防衛局は1944年から壕舎建設を奨励した。壕舎というのは、防空壕内部を住宅化して屋根を載せておく家(防空壕住宅)、すなわち体のいい'穴窟'だ。焼け跡の空き地にくばみを掘って、畳を敷き間仕切りもし、煙突も立て屋根で覆って70〜80%の半地下住宅を作るのだ。
穴窟に住みながら戦争遂行に専念しろという要求だった。
そんな穴窟もあったが、爆撃で死んだり避難したりして、空いてしまった防空壕も沢山あった。

千葉の航空基地で整備兵として勤務していて、敗戦で除隊になり故郷の松江に帰る山田健三軍曹は、同僚5名とともに上野駅で列車を乗り換えるために、駅の待合室で一晩過ごすことになった。
泥棒を心配し、荷物を真ん中に積んで置いて回りを囲んで座っていた。彼が小便に行くために通路を歩いていると、5歳位のちびっこの少年が近づき、手を突き出して 「姉さんが痛いって。薬を少しちょうだい」という。

山田は人が病気だというので、「姉さんは何処にいるの?」「あそこ」「じや行こう」といって、ちびっこの後について、ある防空壕の中に入って行ったが、明かりもない真っ暗な中で変な悪臭が鼻を刺すだけだった。
煙草を一本口にくわえ、ライターの火をともすと、片隅に12歳位になる娘が横たわっているのが見えた。
ちびっこが、「姉さん、軍人の小父さんだよ?」と呼び掛けると、少女は消え入るような小さな声で、「乾パン1個だけ」という。 山田は、「ちょっとの間そうしていなさい。私がすぐ持って来てやるから」といって、子供を連れて駅に戻り、同僚達に事情を話し、協力を要請した。しかし同僚達は、「おい、何を言うのかと思ったら、我々の家も火で焼け、家族が飢えているのに、他人を助けてやれと言うのか?」といって拒絶した。

どうしようもなく山田は、自分の毛布と、おこわの缶詰1缶、乾パンの袋何個かを持って、ちびっこと一緒に防空壕に帰った。彼は、横になっている少女に毛布を掛けてやり、火をおこし、おこわの缶詰を温めて与えると、二人の子供はがつがつと食べてしまった。

彼等が食べ物を全部食べた後で山田が帰ろうとすると、娘は、「真一(子供の名前)が見ていても構わないから、気にせずにして下さい」といって寝床に入って横になった。山田はぽかんとしていて、ややあってその言葉の意味を悟って大きな衝撃を受けた。彼は訳の分からない怒りを覚えながら防空壕を飛び出したという。

「私が5年の間、忠誠の一念で軍隊生活をして来た結果がこんなことだと思うと、懐疑と虚無、そして訳の分からない怒りで身震いしました」
山田は私にこのように話しながら悲痛な心情を吐露した。

1946年の夏、蝉の声が騒々しい上野公園での対話の一こまだ。
   

民族の大移動

日本の大陸侵略を論ずるとき、満州事変を始点とみなすのが通説だ。しかし、私は雲揚号事件から始まったと考える。
近代日本の大陸侵略は100年の歴史を持つ。厳密に言えば明治維新に遡らねばならない。100年にわたった侵略政策で、日本国民は朝鮮、中国、東南アジア各地に根を下ろして住んだ。

日本軍が果たして何名国外にいたのかは正確な統計がない。また過去日本軍占領地域に居住した民間人の数もやはり正確な統計がない。ただ近似値として公式に認められている数字は、軍人310万名、民間人350万名、合計660万名だ。

敗戦後・日本はこの人達を一人も残すことなく、日本に送還する作業に着手した。これと同様に、捕虜、強制労働、徴発等、様々な理由で日本に掴まえられて来ていた朝鮮人、台湾人、中国本土人等も全員送還することになった。

中国本土人   5万6千名

台湾人     3万4千名

朝鮮人    156万名中、約100万名

8歳から14歳までの'全羅北道女子勤労挺身隊'1,000余名が博多港で乗船を待っている写真が新聞に載っているのを見たこともある。

上の数字を見ても、朝鮮人をどれだけ多く戦争に動員したのかが分かる。この外にもドイツ人1,968名、イタリア人158名も送還した。

日本軍の降伏は、8月15日に一切の戦闘行為を中止し現地で管轄国の現地指揮官に個別に降伏する方式だった。だから現地の事情により、帰還時期が各々異なった。帰国船便は主に日本の船舶を利用した。昨日まで武装した軍人を運んだ船が、今日は降伏した敗残兵を運ぶことになったのだ。

樺太、千島列島、満州、北朝鮮一一→ソ連管轄

中国、台湾、ベトナムの一部一一→中国管轄

ベトナムの一部、香港、タイ、マレーシア、シンガポ一ル、ビルマ一一→英国管轄

オランダ領東インド諸島一一→オランダ、英国、オーストラリア管轄

南朝鮮、フィリピン、ハワイ、南洋群島、沖縄、その他一一→米国管轄

オーストラリア一一→オーストラリア管轄

在外日本人の帰国が一段落するまでに7年掛かった。
長い間、代々外地で根を下ろして生業に従事して来た多数の日本人中、多くの人々は本国といっても一家親戚が一人もいない人達だった。生活基盤を一朝にして失い、裸で帰国するのは惨憺たる光景だ。また帰国を待つ間、略奪、強姦、暴行を数限りなく受けもした。

突然変化した劣悪な生活条件と伝染病で死んで行った人も多かった。シベリアに引っ張られた人員も10万人を越えた。

我が国の諺に'木登りの上手な人は木から落ちて、泳ぎの上手な人は水に 溺れて死ぬ'という言葉があるように、侵略を好み武力攻撃を事とした日本が武力で滅びたのは歴史的教訓だ。
今、日本の武力は再び膨大なものになった。極東でその武力に匹敵する国はない。彼等が今、平和の微笑を浮かべているからといって、警戒心を解いてはいけないのだ。
   

軍事裁判一一一一勝者の復讐劇


194年6月、英国ロンドンで、米国、英国、フランス、ソ連4か国の国際法の専門家達が集まり、戦後の戦争犯罪を取り扱う国際会議を開いた。

結果、'欧州枢軸国重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定'という長い題目の協定文案が決定され、8月8目調印された。

これを通称ロンドン協定と称する。
ロンドン協定は、従来より一歩進んだ進歩的面もあり、戦勝国の利己的面もあった。その特徴は次の通りだ。

1.占領軍による即決処分を排除する。

2.通例的戦争犯罪に追加して、
  平和に対する罪;侵略戦争の計画、準備、開始等平和を撹乱した行為。
  人道的行為に対する罪;戦時中の殺人、虐待等非人道的行為。

3.戦争指導者の個人的刑事責任を認定することにする。
  人間は利己的動物だ。更に、国際間にあっては、より一層目立つ。米、英、仏、ソは微笑し握手
  しながらも、自国の国益だけを考えた。

今日の敵は明日の友となり、今日の友は明日の敵となる可能性がないとはいえない。まかり間違えば、自分が結んだ条約に自分が拘束される事態が生じることもあるということを考慮して、'枢軸国の重要戦争犯罪人の・・・'と釘を刺した。

もう一度言えば、2か月の間、頭を突き合わせて、'正義と人道主義のために'起草した戦争犯罪者処罰に関する協定を、一回限り用として作ったのだ。

極東国際軍事裁判(東京裁判)は完全に米国のワンマンショーだといい得る。勝者による敗者の審判、強者による弱者の審判は公平というには無理がある。報復酌偏見を払拭することは出来ないのだ。

東京裁判は旧陸士の講堂で開かれ、侵略戦争の時期を、1928年1月1日から1945年9月2日までと定めた。

東条を初めとしたA級戦犯26名が処罰を受けたことは、余りにも広く知れ渡っているのでここでは省略する。

日本軍は東アジア全域に広がっていて、現地管轄連合軍に個別的に降伏した。従って、B・C級戦犯達も各管轄国で個別的に実施する裁判を受けることになった。それで、各管轄国は各々自分の国の法で、自分のやり方で裁判を行った。それは、一貫性と公平性が考慮されていない裁判遊びになってしまった。

日本軍はB29乗務員の捕虜を'日本の都市を無差別爆撃する非人道的行為をした罪'で、ずたずたに切り殺したことがある。そして連合軍捕虜達を'非人道的行為'をしたという罪目でやたらに殴って虐待した。

降伏後の日本では、反対に'非人道的に捕虜を虐待した'という理由で日本軍が処刑された。
その'人道的''非人道的'という言葉の奴が、どれだけ安っぽく勝手に使われたか、吐き気を催すほどだった。

いずれにせよ、B・C級裁判の概要は次の通り。
米国5か所、豪州9か所、オランダ12か所、英国11か所、中国10か所、フランス1か所、フィリピン1か所。

総件数2,244件、総人員5,700名。

死刑984名、無期475名、有期2,944名、無罪1,018名、その他279名。

ところで、この統計もでたらめだ。ソ連が抜けている。
ソ連は575,000名をシベリアに引っ張って行った。その中3,000名を戦犯として裁判に回付したという(多分、飢え死にしたり凍死した人は10万名にもなるだろう)。

戦争犯罪者裁判というものも、勝者が敗者に加える復讐劇である外なく、もう一つの残虐行為に過ぎない。そして、時間が経てば忘れられる人間の醜悪な一面に過ぎない。ちょうど、壬申倭乱(文禄の役)の時の日本の残虐行為、高麗時代の蒙古軍の獣のような行為等のように・・・。
   

2,000トンの帰還船

1946年の夏はとても暑かった。
東京の復旧はまだ前途遼遠で、所々バラックが建てられた状態だった。暑さに弱り果てて力なく歩いていながら、ふと見ると、'金時'と紙に書いて貼ってある。'うわ一!金時があるんだなあ。あいつを一杯食へれば骨の中まですっきりするだろう'と思ってその店に飛び込んだ。ご存知の通り金時とは氷をかいて上にアンコを載せたものである。店の中には長い木のテーブルと椅子が一揃いあり、老婆がいた。私は、'金時ひとつ'と大声で叫んだ。老婆は、はい、はい、と言いながら氷をかいて、氷水を作って来た。

私はせっかちに、一匙さっとすくって口に入れた。瞬間生臭いにおいがぱっと口の中に広がり、危うく吐き出しそうになった。むりやり我慢して飲み込んで、「ねえ、おばあさん。氷水に砂糖を入れずに氷だけかいて来るとはどういうことですか?」とつっけんとんに言った。すると、このばあさん、ちらっと私の方を見て、「砂糖はありませんよ。砂糖は手に入れることが出来ませんよ。でも冷たくてさっぱりするでしょう?」と言ってまじまじと見上げる「今の世の中で、砂糖を探したりする人もいるんだなぁ」という表情だ。私は金だけ払い、黙って出てしまった。小豆が5粒、砂糖のない小豆氷。

とやかくしている中に、金もなくなり、もっと長くいる必要もなくなり、ソウルに帰ろうと決心し京都に行った。実は京都で一晩泊まった時、帰る方法を準備しておいた。

それは簡単だった。すなわち日本で暮らし、韓国に帰るという証明書を1枚作っておいたのだ。証明書さえあれば、米軍が提供する船便で釜山まで難なく行けるようになっていたからだった。
汽車で博多まで行った。博多港の帰還者収容所は税関区域だった。広い倉庫が整然と並んでいるが、帰国する韓国人達でごった返していた。

彼等は風呂敷包みが多い(私のようなはったり屋の帰還者でないので当然だな)。船が入って来るのに2日間待たなくてはならなかった。その間、彼等は木を拾って火をおこし、御飯もこしらえて食べ、鍋料理も作ったりするが、私は独りぼっちで片隅でぼんやり座っていた。

後ろ暗い所のある帰国者なので、他国に引っ張って来られ苦労を重ねて帰って行く同胞達に言う言葉もなく、猫をかぶって彼等とおしゃべりを交わす度胸もないから、そのまましゃがんでいた。
他人が見たらそんな様子が氣の毒だったのか、一人の中年の婦人が近付いて、食べなさいと言って米軍用牛肉の缶詰を一缶くれて、すぐに何処かに行ってしまった。多分1ポンド缶だったようだ。おなかが空いていた時なので無遠慮に受け取って食べはしたが、余りにも済まないことだった。 

今に至るまで、その婦人の有り難さと缶詰の味は忘れることが出来ない。
船が入って来た。2千トン級の大きな貨物船だ。
来る時は金を払い、びくびくしながら50トンのぽんぼん船に乗って来たが、帰る時は2千トンの鉄船で堂々と(?)ただで帰るのだから自分で考えても笑わせる話だ。

夕方乗船を始め、夜になって船一杯に人と荷物を積んで出港した。
明日の朝には釜山に上陸するだろう。夜空には満天の星がきらきら光り、風は涼しく、広い甲板をぶらついた。
大きな船は違う。震動がなく安定し、船が進んでいるのか止まっているのか見分けが付かないほどだった。船尾に行って海を見下ろす。白く波が砕けながら長く尾を引いている。それから見ると船は速い速度で進んでいることが分かった。

水玉が描き出す長い尾を眺めていた私は、大きく目を見開いた。水玉の一つ一つが真珠の玉だ。本当に真珠色そのままだ。
暗い夜の海で、限りなく生まれ、突進し、砕ける水玉が、真珠の玉の玲瓏たる光を発している。私はその美しさに魅了されて、時間の経つのも知らなかった。

朝、釜山に上陸した。列を作って船から降りて行くが、両側に検疫班が立っていて、通る人を掴まえて予防注射を打つ。それも1本でなく、4,5本ぶすっぶすっと刺しまくる。種類別こ全部打つ。どんなに痛かったことか・・・。注射をされるのが好きな人はいないだろうが、同じ場所に何本も打たれると、痛く、痺れ、しきりに火照って。

'アイゴ、これが、突拍子もないことをした罰だなぁ'と思って、じっと堪えるしか・・・・。


‥‥完‥‥


原著   姜 泰遠

翻訳  梶木 恒美  深谷 幸男

 
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