第5部 太平洋戦争と若き隣組長
トン横町家の トン坊が
トンガム〈統監府)に沿った
トン先生のお宅に
トンハク〈通学〉中だった
プルトン(欠席)をして
タンベトン(煙管の雁首)で
テガルトン(頭)をなぐられ
ウルトン ブルトン(凹凸)になって
トントン(かんかんに)怒った
チョルグトン(臼)の後に行って
カムルトン(水桶)をひっかぷり
スムトン(息の根)がふさがり
ボクトン(腹痛)になったとさ
ートン打令一
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米飯・麦飯・粟飯
1929年10月28日は、世界経済を破綻に陥れた最悪の日だった。
ニューヨーク・ウォール街の株式市場で株価が大暴落したのだ。株価の暴落には、すべての株式が含まれていて果てしもなかった。数日後、証券取引所を閉鎖するに至った。到る所で企業家が破産、自殺し、労動者は暴動、略奪を行った。
経済大恐慌の余波は、アメリカー国に止まらず、すぺての国の産業界を強打した。不景気、破産、失業の悪循環は世界の市民達の生存を脅かした。特に無産大衆の生活を悲惨な状況へと変貌させた。このように、政治、経済、社会全般にわたった不安状態は各国の政府をして自国の安定化に没頭するのに余念なくさせた。このような与件がやがてドイツでのナチ、イタリアのファシズム、日本の軍国主義等、全体主義・侵略主義の台頭に相応しい環境を提供したと見る事ができる。
第2次大戦後、アメリカが素早く'マーシャルブラン'を実施したのも、第1次大戦後の大恐慌の悪夢を、事前に予防する為に計画した措置であった。
この様な世界の与件の中で、1930年度の朝鮮半島での米の生産量は1370万石であった。当時の人口を2500万人と見た時、需要量の55%に過ぎない生産量だ。
日本は其の中で、強制供出により550万石を日本本土に搬出し、朝鮮には中国から大豆、黍、粟、とうもろこし等の雑穀を輸入して、米の代わりに配給した。このような米の収奪政策は年毎に増大して行き、総生産量の60%を超過するに至った。
農民達は秋の取り入れをしても、半分以上を供出で奪われ、残った米の内、借りて食べたものを返し、市場に出して売り、ゴム靴を何足か買い、カナキン1疋位買えば、春に農作業を始める時は、既に米が尽きた。米を生産する農民は、米の代わりに雑穀を食べ、都市の人達は米の飯を食べる不合理な現象がおこった。朝鮮人は米作の伝統が長いだけ、米に対する神仰が強い民族だ。私の父母は祖先が貧農の出身で特に米を貴重にした。母は一粒の米も失くさなかった。ご飯を食べる時も零さないようにし、若し零した米粒は必ず拾って食べるよう教育したものだ。夏、米に穀象虫がわいた時には、箕で煽ってご飯を炊いた。時折地べたに米を零すと、土ごと掃き集め、箕で振るって米を選り出した。
秋に新米が店に出回っても、敢えて古米を買って食べた。古米は新米より飯が増えると言う理由だった。我が家では雑穀飯も良く食べた。母は白米のご飯は味が薄いと言っていたが、実際は家の暮らし向きでは、値段の安い雑穀飯を食べるしかない事を私も分かっていたので、粟飯も喜んで食べた。私はこの様な環境で育ったので、いまも雑穀飯に抵抗を感じない。近頃、人々は健康に良いと言って、雑穀飯を食べる人が居るが、私が育った時代には純然たる経済的理由から雑穀飯を食べた。
麦飯は米飯にもっとも近いが、食べると屁が頻繁に出る欠点が有る。小豆飯は値段が高いので贅沢に近い。私が好きなのは大豆ご飯だ。飯用大豆は粒が大きく色が派手て軟らかい。粟飯は粘気が無いので、食べる時気を付けないと、口に入るよりも零れるほうが多くなる。
平安道や咸鏡道では、サル(米)といえばチョブサル(粟)を指す、米はイプサル(白米)といわなければならない。中国でも粟を"小さい米"すなわちショーミ(小米)という。米の代用としては粟が最高だ。貧しい人達は粟飯を沢山食べた。粟で御飯を炊くと量が増える。御飯を食ぺた後でも腹一杯でひもじくなく、カがいる仕事をしても平気だ。
第1次大戦で大きな被害を受けなかった日本だったが、大恐慌の余波で不景気の沼から脱け出せないでいた。日本の極右派と軍部は、日本が不景気から脱出し食糧間題を解決する道は、ただ満州大陸を完全に掌握することにあると主張した。
朝鮮の米の味
日本は島国で人口密度が高かった。それで食糧の安定的供給は重要な意味を持つ。朝鮮からの米収奪政策で面白味を知った日本は、満州大陸の広闊な地域を占めることにより、食糧の確保を期することが出来るという戦略を立てる。"我々は食糧さえ豊富ならば世の中に怖いものはない。英国もインドを所有したので大英帝国になることが出来た。我々も満州大陸を占有することで、アジアを支配できる足場を築きうるのだ。"これが日本軍部の基本戦略だった。地大物博な満州の原野。日本軍部は、まるで鹿の群れを狙う飢えた狼のように満州侵攻の作戦計画を推進する。1930年当時の満州は、陸海空軍副司今兼東北別方軍司令長官という長い肩書きを持った張学良軍閥によって統治されていた。日本軍部は、満州侵攻計面を極秘裡に進行させて行きながらも、気軽に出て行くことは出来なかった。
1931年4月、総選挙で勝った日本民政党は若槻礼次郎内閣を成立させ、財政の緊縮と軍備縮小の二大政策を明らかにした。このような日本国内情勢の中では、大規模な軍事作戦を遂行するのが困難と判断し、正面から軍事作戦を押し出す代わりに、民族感情を刺激して世論を操作する狡猾な方法を実行に移し'万寶山事件'を起こす。
満州に居住する朝鮮民族は大部分米作を行った。中国人は稲作を知らずに専ら畑作に依存していた。朝鮮民族の米作は満州地方の農業に一大変革を齎し、中国民族の食生活にも影響を与えた。稲作には水が無くてはならない。それで、朝鮮、中国の農民の間では、時折水の問題で紛争が起きる事も有った。中国人達はよそ者を軽んずる事が甚だしく、朝鮮人達は常に弱者の立場に有った為、口惜しくても譲歩をして大きな問題に発展する事はなかった。
中国人はご飯の炊き方も知らなかった。ご飯は一度沸き上がった後、蒸らさなくてはならないが、中国人は水を多く注いで其の侭沸かす。つまり御飯でなくお粥だ。粥でも、雑殻ばかり食ぺて来た中国人には蜜の味だ。パイメイ(白
米)といえぱ最高のものと見なした。日本軍部は手先を使って朝・中両民族間に紛争をけしかけ、民族感情に発展させるぺく工作した。
万宝山は、満州内陸に位置する長春(後日満州国首都となる)郊外の小さな農村の部落だ。ここで水路問題で争いが起きたが、意外にも暴力沙駄に発展し各地へ急速に拡散した。満州の多くの地方で中国人が朝鮮人を襲撃する事件が発生し、新聞は大大的に騒ぎ立てた。これに呼応でもするように、ソウルでもならず者達が群れをなして歩き回り、中国の飲食店、ホトク屋、商店ということなく悉く打ち壊す事態をもたらした。ちょうどLAの黒人暴動と同じ事態が、満州と朝鮮の両方で起きた。不思議ではないか? 農村の小さな争いが、なぜ急に満州全体と朝鮮にまで拡大したのか? 警察はなぜ傍観したのか? 私も、人々が中国店を打ぢ壊すのを直接目撃した。中国で起きたことで、ソウルに居住する人に報復することは道理に合わないと思った。日本の内閣は事件の拡大を願わなかった。万宝山事件で惹起された騒擾は、約1か月間継続してうやむやに終わり、軍部の工作は失敗に帰してしまった。
米が必要な島国
日本軍部は満州侵攻を目的として万宝山事件を起こしたが、日本の内閣の呼応が得られないと見るや、'劇薬処方'を計面する。朝鮮農民と中国農民間の衝突程度では、軍の大々的投人へと駆り立てるには説得カが弱いと判断した日本軍部は、苦肉の策を用いるに至る。1931年8月、関東軍情報将校中村震太郎大尉が興安嶺付近を密かに探っているのが馬賊団に発覚し処刑される。日本軍はこれが中国軍の敵対行為だと責め立てた。1か月後の9月18日には、瀋陽北方郊外の柳条溝で満州鉄道の線路が爆破される事件が発生する。'南満州鉄道'はロシアが建設した鉄道で、シベリア鉄道と連結されていて、満州の大平原を縦横に連結する満州唯一の大動脈だ。日本は日露戦争の勝利により、鉄道の運営権をロシアから移譲された。満州鉄道の掌握は事実上満州の息の根をしっかりと握り締めているのと異ならない。日本が満州に軍隊を駐屯させているのも、満州鉄道を警備するという名分からだった。
"満州鉄道を爆被することは日本に対する重大な挑戦行為だ。"
"軍は止むなく自衛権を発動する。"このような名分を掲げて、その翌日の19日大部隊を動員し、中国軍の北大営本営を攻撃し張学良軍を敗走させ、瀋陽
全市街を占領する。実に電光石火の如き作戦だった。日本軍は此れに留まらず
鉄道沿線の総ての都市を占領し、事実上満州全土を掌握した。ただ、黒龍江省の城主馬占山軍は頑強に抵抗し、日本軍に莫大な損害を与えた。
日本は此れを "満州事変"と名付けた。
満州を完全に掌握した軍部は、政府とも対立する状況を醸成し、12月には若槻内閣が総辞職し、政友会犬養毅が首相になり、現役陸軍中将である荒本貞夫を陸相に任命した。翌年(1932年)1月には、満州政府の首都である錦
州を占領し、2月にはハルビンを占領し、満州侵攻を完了する。この時から日本は'満州は日本の生命線だ'と公々然と主張し始めた。満州は日本本州の40倍に達する広い平原だ。山は、朝鮮と国境を接する長白山脈、ソ連と蒙古の国境をなす興安嶺山脈があるのみで、汽車に乗って一日中走っても、遥かな地平線が果てしなく続く肥沃な大平原だ。土は黄土質で石はない。肥料をやらなくても植物は良く育つ。朝鮮の貧農達はどんなに骨析って農作業をやってみても、家族を扶養することが出来無かった。それで、多くの農民達が間島地方(間島省)に移住した。最初に移住する人々は何も持っていなかった。無一物だった。完全に無から始めなくてはならなかった。彼ら農民の目に映った満州平野は、実にとてつもない野原だった。彼らは土を観察した。土は軟らかだった。
彼らの目に驚くべき風景が映る。其の広い野原に散らかっている落ち穂だ。
粟を植えた畑には粟の穂が一面に散らばっていた。大豆畑には大豆殻が、黍畑には黍の穂が幾らでも散らかっていた。主人も居ない、野鼠が主人である。
彼等は一生懸命落ち穂を拾った、拾い集めた。故郷の朝鮮で一年中百姓仕事をしたよりも、もっと多くの穀粒を確保することが出来た。たとえ雑穀ではあっても、それで冬を満腹で越し、翌年の農作業も行うことが出来た。
私がなぜ、我々祖先の悲惨な過去を暴き出すのかと咎めるなかれ。今日の我々は、あまりにも豊かさに慣れている。特に近頃の子供達は全然もったいないということを知らず、貴重ということも知らない。奢侈の習慣、過剰消費の風潮があまりにも蔓延している。我々が過ごして来た歴史を、うわべだけでなく実際の体験を洞察しながら学ぷことが意識改造の近道だと思うからである。
満州事変は、中・日間の15年戦争の始発点となった。満州を掌握した日本は、カの真理、カの自信感を持つようになる。そしてカの真理は、日本をしてすぺてのものを失わしめた。
** カによって興る者はカによって亡ぽされるのが真理だ **
上になり下になり
日本は、満州侵攻が国際的に悶着を起こすや、満州を中国から引き離すため、独立国家を建てることを決定する。
3歳の幼さで大清国の皇帝の位に上がったが、辛亥革命で追い出された'愛
親覚羅溥儀'を捜し出し執政の位に就かせ、1932年3月1日傀儡満州国の独立を宣布した。
日本は領土的野心はなく、新生独立国を保護する、というのが表向きの名分であった。
その年の9月15日には'日本国は満州国を承認する'と宣言する。2年後の34年には満州帝国と改称し'溥儀'を皇帝に推戴する。これで満州帝国は日本帝国と同等な資格を備えた堂々たる独立国ということだった。
これがいかに薄っぺらな日本式ごまかしであることか!
これに先立つ1932年1月には上海にある日本人紡績会社に火災が発生したが、これを口実に、翌2月には、日本は上海に3個師団を上陸させ上海を占領する。これが'上海事変'だ。
日本は上海を占領し、続いて戦線を拡大する前に、新生満州国の政治・軍事的安全を確保するために、33年3月熱河作戦を決行して、熱河省承徳市を占領し、西方では蒙古国境まで、北ではチチハルを占拠し、ソ連国境と接するに至る。
以上で、満州全域を完全に掌握した日本は、1933年3月27日国際連盟を脱退する。第1次世界大戦後、敗戦ドイツと共産ソ連を牽制するため創設された国際連盟は、日本とドイツが脱退し、ソ連を新たな加入国として受け入れ、創設目的が変質しつつ有名無実化する。
日本はこれに止まらず、1935年12月にはワシントン条約を廃棄し、1936年1月には軍備縮小会議からも脱退してしまった。以後いかなる制裁も受けることなく、安心して軍備拡張を始める。
このように日本が軍国主義の道を一歩づつ進んでいる時期に、日本陸軍で反乱が起きる。
有名な2・26事件だ。過激な近衛師団青年将校達の2・26反乱は、政府の優柔不断な政策と穏健なインテリ達が国の前途に立ちはだかっていることを見過ごすことが出来ない、というスローガンを掲げていた。日本の強硬派は一斉に決起して、反乱将校達の愛国のまごころ(?〉に同調し行動を始めた。
そうして、この時から日本は本格的に軍国主義、ファッショ政策を基本国是とすることになる。
1936年3月、新たに組織された広田内閣は
1。国家統制政策
2。デモ禁止令
3。軍部大臣現役制導入
以上3大基本政策を発表し、次のような対外政策を明らかにした。
'帝国の基本国策は、外交、国防を互いに調和せしめ、東亜大陸での帝国
の地位を確保するとともに、南洋に進出発展することにある。'
これを易しい言葉で解釈すれば
1。中国大陸の支配権を確保する。
2。南進政策に注力する。
3。以上2大政策を軍が主導し、外交が後押しする。
11月には日・独防共協定を締結し、ドイツと日本の軸を形成する。このような軍の独走は決して平坦裡に成し遂げられたのではなかった。
各政党は、国会を中心に大きく反発し行動を始めた。各大学教授等を初めとし、学界、言論界でも戦争拡大に反対した。1937年4月、内閣総理林銑十郎は国会を解散し総選挙を実施したが、結果は林派の惨敗となって現れた。
日本国民は平和を願っていた。
日本では'鷹と鳩'の争いが上になり下になりの有り様だった。1931年から、1940年9月に東条英機が執権する時までの、9年5か月間に13名の首相が交替したことからも証明される。
鷹は鳩を沈黙させたが、禿鷲に傷付けられて墜落する。
狂った戦争 狂った兵士
日本は総選挙の結果、軍部内閣が退き、新しい首相として近衛文麿を迎え入れた。近衛は貴族出身で、穏健文弱な性格の持ち主だった。
軍都は新たに戦争を挑発すべく、1937年7月中国北部で鉄道橋梁を爆破して、中国側に罪を擦り付けた。これが有名な盧溝橋事件だ。廬溝橋は、北京西南方郊外にある永定河に架けられた鉄橋だ。
軍はこの事件を契機として、国内から3個師団を急いで現地(中国)に移動させた。しかし、近衛内閣は戦争拡大に反対し、現地協定による事態の収拾を指示した。ところが今度は、中国国民党政府が現地協定を拒否し、抗戦を決意した行動に出た。進退極まった軍部は、国民党政府を懲らしめるという名目で南京を攻略した。
1937年8月13日、上海に2個師団を上陸させ、すでに駐屯中の3個師団と合流、5個師団で南京攻略に乗り出した。8月15日、上海派遣軍司令官松井石根大将の指揮下、陸・海・空軍合同で、大々的な立体作戦を開始した。
南京は満州や北中国とは異なった。揚子江下流には天然の要害が多く、船舶を利用した上陸作戦でなくては占領することが出来ない上に、沿岸の砲台からの猛烈な砲撃により、接近することさえ困難だった。日本軍は優勢な海軍と空軍の支援を受けながらも、陣地を一つ一つ占領するのに、肉弾突撃を敢行するしかなかった。
こうして南京まで到達するのに3か月も掛かり、兵力の半分を喪失した。
南京市に突入した日本軍は狂っていた。老若男女を選ばず手当たり次第に虐殺した。勿論指揮官の指示に従ってだった。
女子は10歳未満の子供から80歳の老婆に至るまで悉く強姦した後で殺した。このようなことを、どうして正常な人間の行為だと言えようか!これがどうして許しうる行動と言えようか!
人間であることを放棄した者、悪魔の魂を持った者だけがなしうることだ。一言で言えば、狂った戦争、狂った指揮官、狂った兵士だけがなしうることだった。
人々はこれを'南京大虐殺'と呼んだ。極東軍事裁判の記録によれば、南京大虐殺の犠牲者は11万9千名だという。
1937年11月13日から23日までの10日間に起きたことだ。10日間、毎日1万人づつ殺し続けた事になる。兵士にも父母兄弟がいるだろうに、どうして、これ程にまでも残酷になれるのか。
10日後、南京には中国人は一人も残っていなかった。
11万9千名の哀れな魂よ、あなた達に何の罪があるのか!
ただ狂った世の中に生まれた罪、人間に生まれた罪なのか? おお神様、
人間は果たして神の子なのか? 悪魔の子孫なのか?
私が結婚した1938年の春、総督府は、朝鮮での軍事力確保のために'朝鮮陸軍特別志願令'を公布した。朝鮮で志願兵を募集し、軍に入隊させるというのだ。有り難いお言葉で、朝鮮人でも皇軍(天皇の軍隊)になりうる機会を与えるということだった。
続いて'国家総動員法'を公表した。一言で言えば、すべての物的資源、人的資源を、国家が必要とする時には、いくらでも徴発して使うという法律だ。すなわち、この法律の下では人権も私有財産も一切無視された。
ハングルを教える
私は、妻を自分に合った人間にしようとすれば、まずハングルから教えなくてはならないと考えた。ところが、それは易しいことではなかった。嫁家に来たばかりの妻は、舅姑の機嫌を伺わねばならず、それ以上に、一人になった義姉の気がねをして、私に接近しようとはしなかった。愛嬌とか可愛さとか言う感じは一切無い花嫁さんだった。都合のよい時だけ部屋に入って来たし、呼べば入って来たが、すぐに出て行った。すべてのことに不慣れな妻には緊張の連続だったに違いない。部屋に入って来れば、どんなに疲れていたのか忽ち寝入ってしまう。 夫婦とは名ばかりで対話をする時間が全然なかった。
尊敬する頑固居士殿の常識では、年上の人達の前では、若い者達がはしゃいだり、ひそひそ話をすることは禁止事項だ、以前ならば自分勝手にしても、それだけのことだが、今はそうすると罪のない妻に火の粉が降りかかるだけだ。 さればといって、何時から何時までは私が必要なので一切呼び出さないで下さいということも出来なかった。嫁入り暮らしを少しでも楽にしてやろうとすれば、私が素知らぬ振りをする以外には方法がなかった。
夏になると、私は町の公会堂を借りて、夜間ハングル講習を始めた。合法的に妻にハングルを学ぶ時間を準備してやったわけだった。受講生は町内の婦人達約10余名だった。8月になると愛国班組織が始まった。ハングル講習の先生という名声(?)のため、私に隣組長を引き受けろという。
愛国班というのは、我々式に言った言葉で、日本語では'となりぐみ'と言った。組長は今の統長だ(統は洞の下、班の上。)秋になると気候が肌寒くなって、ハングル講習は中止され、残ったのは公職のみだった。我々の組は、10所帯で1班を基準とし、10班で組織された。町役所からは公文が毎日のように下りて来た。私はその中から必要なものだけ選んでおき、一括して班長達に伝達したものだ。
日が経つにつれ緊張が高まり、父は田舎に都落ちする計画を立てた。ちょうど昨年父の勧めで田舎に田を何マジギ(田畑の面積の単位〉か買っておいたのがあるので、都落ちしても食生活は何とかなるようで、父母と兄嫁一家の合計5人家族だけ京畿道利川郡の故郷に移住させた。
父は浮き浮きしていた。他人の田を小作するだけでは到底生きて行くことが出来ずソウルに来てから、20年振りに小さくても自分の土地で農業をするようになったので、良いことばかりで。兄嫁は兄嫁なりに、舅姑に仕え別に住むことになって、義弟の顔色を伺わずにすむので良く、私は私なりに、身軽になって万一の事態に対処するのが楽になり、妻は妻なりに、別に所帯を構えさせたことを喜び、あまねく処理がうまく行ったわけだ。
熊に噛まれた猿
1938−39年には、中国戦線は膠着状態に陥った。
日本は突撃戦術でがむしゃらに戦線を拡大して行ったが、中国は広い土地だ。中国人民達は決して日本人を歓迎しなかった。
戦線を拡大するほど補給が難しくなり、後方からのゲリラ活動で最前線が孤立することもしばしばだった、また、新たに占領した地域で、日本軍の補給品が積んである所を発見したのも一、二度のことではなかった。中国は闇取引を通して日本軍の軍用物資を買い込んで、それで日本軍と戦った。
三井物産の現地責任者が、軍需物資の流出嫌疑で死刑を受ける事件もあった。腐敗した日本軍は、自分達の罪悪を隠蔽するために民間商社を犠牲にしたのだ。軍需物資の盗みは軍人だからこそ出来ることだ。
日本軍は前進することも後退することも出来ない立場にあった。
1938年7月張鼓峰事件が発生する。 張鼓峰は間島省琿春県南方にある低めの高地で、ソ・満国境地帯だが、ここは明確に規定されていない地域で、互いに自分の領土だと主張する場所だった。ある日、張鼓峰でソ連軍が陣地構築作業をするのを日本軍の偵察兵が発見し、直ちに上部に報告する。
この報告に接した日本軍参謀本部は、折しも中国戦線が膠着し苦悶していた最中だったので、果たせるかな、ソ連軍がどの程度の戦力を特っているのか、また軍の士気がどの程度なのか試してみる良い機会だと思い、朝鮮羅南の19師団を急いで派遣しソ連軍を攻撃した。
これに対しソ連軍は一歩も後へ引かず反撃を加え、日本軍に甚大な打撃を与え撃退した。猿は熊の相手にはならなかった。日本軍は、1キロメートル地点まで後退する協定に調印し、この事件を終えた。
翌年、日本軍は蒙古、ソ連、満州の三国国境地帯であるホルンバイル地方でもうー度ソ連軍と衝突する。ホルンバイルはバイカル湖に連結する重要な要衝の地だ。ここを日本軍第23機甲師団を動員して、ソ進軍守備部隊を攻撃した。3回にわたる衝突で、日本軍は23師団が全滅する惨敗をしてしまう。
ソ連軍戦車部隊の威力は、やはり世界一だということを痛切に感じさせる事件だった。この事件を'ノモンハン事件'と呼んだ。日本はソ連に対し、常に脅威を感じていた。軍内部でも北進論と南進論が対立していた。しかし、ノモンハン事件は、北進論が陰をひそめ南進論が支配する結果をもたらした。
スターリンが恐ろしく、ソ連のタンクも恐ろしく、ソ連の寒さも恐ろしい。ソ連に触れることはタブーになった。その後、日本軍は南方侵略に専念することになる。
創氏改名と日本
日本人は保守性が強い民族だ。どこへ行っても自分達の生活様式に固執する。弱者には強く、強者には卑屈な島国的生理とも相通ずる。満州や中国の現地でも、家では畳部屋で浴衣を着て刺身を食べなくては満足しない。
食事をする時は、女子(妻がいなければ自分の母や娘でも、とにかく女子)が正座して御飯をよそってやらなくてはならない。御飯の器はどんぷりではなく茶碗だ。育ち盛りの人は茶碗5〜6杯を食べてちょうど良い量くらいの大きさだ。大きなどんぶりに御飯を盛って食べるのはサンノム(身分の低い男に対する卑語)のやることだと見なす。どんぶり鉢のような大きなお椀に飯を盛って食べる朝鮮人はすべてサンノムと見なす傾向さえある。酒も、とても小さい盃でちびりちびりと飲む。それも女子が注いでやらなくてはならない。たとえ自分の母でもというのだ。母でも女子は女子だから・・・・。
中国に行っている日本人の中には風土病で苦しむ人が多かった。生水をそのまま飲み、刺身を食べたためだ。北部中国の黄河流域では水を必ず沸かして飲まなくてはならない。
中国人達は大きな薬缶に茶の葉を入れ湯を沸かす。常に沸かしている。ぐらぐら沸いている茶をふうふう吹きながら飲む。沸いている茶をもてなす。ソウルでも中国店に行くと、中国人同士で茶を飲みながら対話をしているのを見ることが出来る。 それが中国人の生活習慣だ。
日本軍が朝鮮人青年達を志願兵という名目で半強制的に入隊させ、兵士に仕立てたが、解決困難な難関にぶつかった。それは朝鮮人兵士の名前のせいだ。日本人だと、おい中村、田中、小川、こんな風に呼べばよい。 ところが朝鮮人兵士の場合は事情が異なる。例えば、金哲沫(キムチョルス)、金学峰(キムハッボン)、金万吉(キムマンキル)だとしよう。'おい金'と姓だけ呼んだら3人が同時に答えることになる。それならば名まで合わせて呼ばなくてはならないが、'おいキムチョルス、キムハッポン、キムマンキル'こんな風に呼ぶことは日本人にとっては発音するのが大変ややこしかった。軍隊で名前を呼ぶとき、その通りに呼ばなければ統率がとれないのだろうか?
日本軍部は思案の末に奇抜なアイデアを考え出した。朝鮮人の名前を全部日本風に変えてしまおうというのだ。そこで出て来たのが'朝鮮民事令改定案'だ。朝鮮民法中の戸籍法を直せばよいというのだ。
1939年11月に公布し、1940年2月11日から施行した。
これが創氏改名だ。 朝鮮人の姓は数千年前から父の血統を受け継いで伝わって来ている不変の文字だ。 俗っぽい誓いを立てる時"これが嘘なら姓を変えます"という。この時"姓を変えます"という言葉は"私の父親でない人の息子であることを認めます"という意昧だ。下品な言い方ではあるが、天に誓う、神に誓う等と同じ比重を持つ、いや、それよりもっと切実な血の誓いを意味する。
しかし日本人には姓がない。血統の証明がないためだ。氏があるだけだ。
日本では氏を苗字といった。ほんの100余年前まで、士族と中人(苗字帯刀を許された人、その子孫)の外には苗字がなかった。すなわち名だけあって姓がなかった。 すべての日本人が氏を持つに至ったのは明治維新以後のことだ。無知な百姓達は村長が付けてくれた通り、田中とか中村とかに従ったまでだ。従って、兄弟間でも従兄弟間でも氏が異なる。異なっても構わない。氏は血統とは関係ないのだから。氏は苗字だから。
日本人は従兄弟が結婚しても別に悪くはない。養子にするときも血統を選ばない。養子縁組をすれば、養子に行った家の氏に変わっでしまう。婿養子に行けば妻の家の氏に変わる。嫁入りすれば夫の氏に変わる。
一部貴族や武士の家門でだけ血統をうるさく言った。その外は全部が血統がない雑種だ。名だけあって姓がない人達に、氏という苗字を便うようにしたのは途方もない民主改革だった。
ほんの100余年前の朝鮮では事情が異なる。朝鮮人達には厳然として姓がある。それで、姓を変えるといえば当然抵抗があるのではないか?それで、姓を変えるのではなく、氏を作って氏を使えという論理を展げたのだ。それで、創氏改名だ。厳密に言って、創氏改名でなく、創苗字改名だ。馬鹿ども。
立派な姓があるのになぜ日本式の氏を使うのか?
ABCDライン
日本はアジアで最も物資が豊富な国になっていた、北部朝鮮は地下資源の宝庫として、城津には高周波製鋼所、清津には日本製鉄の工場があった。
咸鏡北道茂山地方には良質の磁鉄鉱が豊冨だ。アオジには高カロリーの有煙炭がある。 鉄鉱と石炭がある所に製鉄産業が発展することは当然のことで、製鉄産業が発展した所には機械工業が発達することもまた自然な結果だ。
また、北朝鮮では到る所に落葉松林があった。落葉松は電柱、橋梁、坑木に適した木材として、やはりなくてはならない重要な資源だ。黄海道の百年鉱山は金で有名だ。その外、銀、銅、錫、亜鉛、マンガン、モリブデン、タングステン、鉛等非鉄金属もまた豊富だった。近頃ではウラニウムまで発見されたという。いや、それだけであろうか、朝鮮こは知識水準の高い人的資源がやはり豊富だ。
興南には窒素肥科株式会社があった。この工場には専用港と専用発電所である赴戦江水力発電所があった。普通は化学肥科工場としてだけ知られているが、東洋最大の化学工場でもある。化学繊維、化学調味科まで、化学製品としてはないものはない。液体酸素、液体窒索、液体水素等超低温製品も生産される。(北韓のミサイル燃料もこの工場で生産していると推測しうる)
艦艇、航空機、電車、自動車、銃、砲、弾薬等武器生産で朝鮮は大きな割合を占めていた。
満州はどうだろうか?、撫順一帯には、数百万坪の土地がことごとく無煙炭だ。露天で掘り出しさえすればよい。百年掘り出しても堀り尽くせるものではない。それよりも、満州の特徴は農産物にあった。一つだけ例を上げるとすれば、満州には大豆が多かった。豆腐を作る味噌玉麹用の大豆だ。日本は、大連に近代式大規模製油工場を建てた。満州全域で生産される大豆を、強制供出で系統出荷する。
大豆がどれほど多いか、包装することが出来ない程だった。それで、豆粒をまるで石炭か砂を積むように無蓋貨車にバラのまま積んで運んだ。秋、大豆の運送がたけなわの時には、豆粒が沢山落ちる。貨車が震動すると自然にこぽれるようになっている。こぼれるものはこぼれ、残るものは残る。こうして大連の工場に運送する。朝鮮では想像することも出来ない途方もない量だった。
大豆だけでもそんな具合だから、他の農産物は言うに及ばない。
日本は足りないものはなかった。ただ一つだけを除いて。その一つとは石油だった。北海道で石油が出ることは出るが、北海道の石油は所要量の百分の一にもならない。石炭で飛行機を飛ばすことは出来ない。固体燃科が役に立っこともあり、液体燃料でなくてはならないこともあるのだ。石油の不足、これが日本の唯一で最大の弱点だった。
ここでアメリカは、日本の侵略行為を阻止するために石油封鎖作戦を繰り広げた。それがABCDラインだ。ABCDは、アメリカ、イギリス、中国、オランダの頭文字だ。すなわち、中国、香港(英領〉、フィリピン〈米軍墓地)。インドネシア(石油産地)を連結する線で、日本に輸送される石油を遮断する作戦だ。外交径路を通してアメリカと交渉しなければならない。アメリカは'中国から撒収して下さい。完全に撤収し、再び中国を侵略しないで下さい。そうすれば石油を上げましょう。'と言った。
日本は腹の底からむらむらと怒りが込み上げるだけだ。'畜生'、'馬鹿野郎'と悪態を吐くだけだった。数年間多くの血を流して得た土地を、一言の脅しで差し出すことは出来なかった。ABCDラインを武力で打ち破るとすれば、出来ないこともない。しかしこれは正に米英連合勢力との戦争を意味する。
中国政府は、曹操に追い掛けられた劉備のように重慶に遷都するが、重慶まで攻め込むのは日本の兵力規模では不可能だった。海岸一帯を占領されたが蒋介石はビルマまで高速道路を建設して、インド洋、ビルマ、重慶のルートを通して安全に、物資を運び入れていた。
中国人は漫漫的(マンマンデー)だ。憎らしい程いかにも満足げで、急ぎもしない。南京から重慶まで長距離爆撃をしてみたが、惜しい石油を消費するだけで効果を収めることは出来なかった。日本がジレンマに陥っている時、北から救援(?)の手が差し伸べられた。
スターリンが日ソ不可侵条約を結ぼうと申し入れて来たのだ。日本はソ連に対してはジンクスを持っている。張鼓峰、ノモンハンで散々な目に会った。
第一次大戦後ソ連の公民戦争に便乗してシベリアに出兵して全員凍死の悲運も味わった。日本にとってソ連は手におえない相手である。
ところで、若しソ連と不可侵条約を結び、北からの脅威が除去されれば、安心して南方作戦を遂行することが出来た。これこそが天佑神助だ。スターリンも遂に毫碌したなあ。こんな機会を逃すことは出来ない。あたふたと日・ソ不可侵条約に調印する。
真珠湾奇襲
日本は南方作戦を推進するに先立ち、目の上の瘤である国内の平和論者達を沈黙させる必要があった。それで、絶対聖域である天皇を引っ張り出した。1940年に、いわゆる'御前会議'を開催した。御前会議で決定された事項は誰も異議をはさむことは出来ない。それは日本の国民性だった。
'天皇は神聖にして侵すべからず。'日本憲法は明文で規定している。
我々は日本の天皇に対して正確に知る必要がある。天皇は権威の象徴であり、権威の所有者ではないということだ。天皇の伝統は'無抵抗'にある。荒々しい武士達の争いの中で、死なずに生き残る秘訣は正に無抵抗にあった。
天皇は、実権者のしようという通りにする。それが天皇の伝統であり、天皇が生き残る唯一の方法だ。天皇は実権者に名分を提供し、実権者は天皇を養い活かす。それだから、天皇はその時代の実権者の保護下で命脈を維持して来た。これが天皇の数千年の伝統の実状だ。1940年の実権者は陸軍大臣東条英機だった。
東条は米英との一戦が不可避だということ、国民団結のため一国一党制を実施しなければならないこと、それらのことを効果的に遂行するためには自分が首相にならなくてはならないこと等を力説した。
こんな場合に天皇が言いうる言葉はただ一言のみだ。'良きに計らえ'、その一言を残して退場する事でお役目を果たすのだ。
各言論煤体は御前会議の結果を大々的に報道した。
1。すべての政党を解散し、大政翼賛会を組織する。
2。陸軍大臣東条英機を内閣総理大臣(首相)に任命する。
名実共に全権を掌中に納め、東条一派は反対勢力を粛清した。米国・英国との戦争に備え、合同参謀本部格である大本営を設置し、本格的に作戦計画を樹立した。この時、戦争の三役を担当しなければならない海軍が反対に乗り出した。勝算がないというのだ。愚かな日本陸軍は、刀を抜いて張りかざし突撃する勇猛さを知っているだけで、科学的知識は不足していた。
しかし東条は、海軍軍令部総長を、皇族の' 久邇宮'に更迭する。皇族であるということは名誉将軍であるだけだ。
このように日本内部での戦争反対論があったにもかかわらず、参謀陣は苦心の末に真珠湾奇襲攻撃を計画した。卑劣な日本は、この作戦の秘密を維持するために、2名の大使をしてアメリカとの外交交渉を継続させていた。奇襲攻撃をする時まで。遂に1941年12月8日早暁。ハワイ、香港、フイリピンを一斉に攻撃すると同時に、米国・英国に対し宣戦布告をした。太平洋戦争が始まったのだ。
しかし、中国の広闊な領土と粘り強い気質を持った5億の人口は、日本が百年戦っても征服できない相手だった。米国はどうなのか。日本が飛び掛かるには余りにも手に余る相手だった。日本は自分が強いという自信感があるだけで、相手の力量を正確に評価せずにいた。
4年にわたる太平洋戦争は、日本を完全に無力化した。かくも利に敏かった日本も、原子爆弾の威力の前には膝を屈しないわけにはいかなかった。敗北が現実として現れ、支離滅裂な惨状が目の前に起きた時、初めて迷夢から覚めた。その時はすでに南洋群島を初めとし、満州、台湾、朝鮮、樺太まで彼等の手から去っていた。
組長だけが忙しい防火訓練
日本の真珠湾奇襲作戦は成功だった。日本は緒戦の勝利を謳歌した。
しかし、2億の米国民を激昂させ、2億の東南アジア人に反日感情を起こさせた。
油田地帯を占領したといって揮発油になるのではない。井戸からスンニュン(お焦げ湯)が出て来ないのと同じだ。
太平洋は余りにも広かった。輸送路が余りにも長かった。空軍力で米国に余りにも立ち遅れていた。軍艦も輸送船団も空襲を受ければ全滅した。ミッドウェーでガダルカナルで、そして、すべての海上で…。
ソウルでも、防空訓練をやれ、防空壕を掘れ、大騒ぎを始めた。
我々の町内は貧民村だった。防空壕を掘れといっても掘るだけの場所がなかった。やっと床下を少し掘り出して防空壕の真似事をした。万一本当に爆弾でも受けて家に火でも付けば、その中にいる人は丸焼けになることは間違いない。隣組長、班長が忙しくなった。
3日にあけず防火訓練をさせた。両班村では言うことを良く聞かないので、貧民村にだけさせた。男達はあれこれ抜け出し、婦女子と老人達だけが集まる。
女達はモンペパジ(モンペは日本語だ)というものを穿く。
防火訓練といっても実際に火を放って行うのではない。言葉でやる訓練だ。
組長の説明を聞いて、模範動作を見て帰るのが訓練だ。組長だけ忙しい。各家屋ごとに防火用水を準備しなくてはならない。その外にも、鳶口(燃えている家を壊す時に使うもの)、火叩き(事務室の床を磨く、長い柄付いた雑巾を、水に浸して火を叩いて消す物)、バケツ、砂袋等の品物を常に準備して置くようにした。
東京が爆撃を受け始めた。焼夷弾を多く投下し、爆弾は時々混ざっている程度だった。'日本の家は紙と木で作られている'これが米軍の判断だ。それで、焼夷弾を使うのが効果的だという結論だった。
焼夷弾は嵩が小さく軽い。それで沢山積むことが出来る。中には硫黄が入っていて、火が付くと消えない。米軍は焼夷弾を、まるでアリゾナで飛行機から玉蜀黍の種を播くようにばらまいた。
B29は1800馬力4基、総7200馬力の超大型プロペラ爆撃機だ。高度2万メートルの上空を悠々と飛行する。日本の戦闘機は接近することも出来ない。 B29の大口径火器は、有効射程距離で戦闘機とは比較できない程長い。日本の戦闘機はB29に出会えば、全速力で逃げるのが上策だった。実際にB29は日本本土上空を思いのまま縫って飛んだ。
米軍の爆撃技法はあくどい程完壁だった。第1陣は市の外郭地域をぐるっと巡って爆撃した。第2陣は少し内側を、第3陣は更に内側を、このようにして、まるで網で魚を追い込んで捕るように市全体を焼き払った。
バケツで水を振り掛けて消せる火では決してない。ソウルが爆撃を受けなかったのは非常に幸いなことだった。住民達は知っていた。防火訓練が無駄な気違い沙汰だということを。
戦争の終わり頃
日本は、完全に全体主義的統制経済を実施していた。インフレは日ごとにひどくなり、物価は上がって行った。政府は価格統制を実施して物価を管理した。公定価格(政府告示価格)、協定価格(政府許可価格)だ。
品物が足りないから自然に価格が上り、公定価格でない闇取引価格が形成される。闇取引をすれば公定価格違反に引っ掛かる。各警察署ごとに経済課が出来て、経済事犯を取り締まった。米は配給制であり、安価で配給通帳によって売る。
寄留届(住民登録〉という制度があって、寄留届に載っている人に限って配給を与えるが、雑穀も混ぜて与え、後には大豆粕まで混ぜて与えた。しかし庶民達は配給をもらわないで生きることは出来なかった。別に対策がないから。
田舎から米を持って来るのも違反だった。バス、列車全部くまなく探した。住民達の生活はだんだん難しくなって行った。
生活必需品は不足し、不足するから自然に闇取引で高い価格で買うしかなく、そうなると、辛抱できることは後回しにし、まず急ぐことだけを解決する生活をせざるを得なかった。庶民達の顔には、次第に栄養失調の気色が現れ始めた。
革は重要な軍需品だ。牛革が足りず豚革が出て来た。民間人が履く靴は大部分豚革で作った。その豚革も足りず、天幕の切れ端で表面を覆い、靴底は古タイヤをかぶせて靴を作った。靴というよりも運動靴だ、私も天幕地とタイヤで一足作って履いた。最近ではプラスチック製品がむしろ革を押し退けているのが現実だが、当時では高分子化学製品はなかった。
油類不足で困った日本は、石炭から油を取り出す研究にも力を注ぎ、試験的には成功した。しかし実用化は出来ずに終わった。
代用品の白眉は揮発油に代わる木炭ガスだった。民間のトラックには、木炭ガス発生器を取り付けて走り回った。木炭ガス発生器は長い円筒型の火鉢だと思えばよい。上から木炭を入れ火を付ける。木炭は不完全燃焼しながらガスをエンジンに送り、エンジンを動かすものだが、ガスがうまく出て来る時は円滑によく走るが、炭火の付きが悪かったり、殆ど全部燃えて、木炭をもっと入れなくてはならない時には、うまく走らなかった。そんな時には車を止めておいて、灰を抜き取り木炭をもっと入れ、ファンを回し、炭火が早く燃え上がるようにしなくてはならない。運転手はすっかり炭の煤まみれで、その恰好たるや話にもならない、
木炭車は力も弱かった。けれども、そうでもして物資を運送するしかなかった。バスも木炭車だ。木炭車でなければ車を転がすことが出来なかった。寒い冬には苦労は並大抵のことではなかった。
最悪の代用品は大豆粕だ。大豆粕は大連にある大豆油工場から出て来る。
大豆粕は油を搾って残った大豆の残りかすで、元来は肥料用だった。大きさは馬車の車輪くらいだ。家畜の飼料でもなく肥料用だ。それを細かく砕いて、食糧だといって与えた。犬も食わないものを…。
米はほとんどお目にかかることが出来なかった。米がないので一般食堂では営業が出来なくなった。窮余の策として海草類で代用食を作って売りもした。到底食べられる食品ではなかった。
若い統長(隣組長)と徴用状
戦況が急迫するにつれ、日本はありったけの最後の力を振り絞った。
朝鮮人達が代々子孫に伝えて大切に使用している真鍮製の器を奪って行った。真鍮製の器は銅と亜鉛が主成分だ。真鍮を溶かすと、そのまま、銃弾、砲弾にすることが出来る。どんな奴が目を着けたのか、ひどい奴だ。どうしようもなく、家の中にある真鍮の器物を全部集めて出した。
我々の統の班長達は大部分婦女子だった。亭主は働きに出て行かなくてはならないから女主人が班長を引き受ける。5班の班長は60に近い上品な方だった。私はその老人とは忘年の交わりを結ぶほど意志が良く通じた。ことごとにこの老人と相談して決定した。
ある日、区役所で国債が割り当てられた。戦費を準備するための方法だった。
金をくれ!よし、くれというならやるよ…。幸いにも多くの金額ではない。それも聞き入れてやった。
ところで、またある日、徴用者5名が割り当てられた。すなわち、お前達の統の住民の中から5名を選んで名簿を出せという。そうすれば、区役所でその人に令状を発行するということだ。徴用は目的地が明示されなかった。服務期限もなかった。
これは、秦の始皇帝が万里の長城を築くために人を徴発したのよりももっと
悪い条件だ。人をいけにえに捧げろ…、人をいけにえに捧げろ…、
これはどうすればよいのだろうか? 5班のこの老人と相談もして見たが、すっきりしなかった。配給もくれる通りにもらう。防空演習もやれという通りにやる。真鍮の食器類もくれといえばやる。金も出せといえば出す。
今回は人をくれだと?、だめだ。絶対にこれだけはやれなかった。いや、私は出来ない。私がどうして人間として他人を犠牲にすることが出来ようか。私は出来ない。私はやらない。私はやらないのだ。 もうこれ以上は御免だ。
私は一旦心に決めたらためらう性質ではなかった。私がこのことをやらない方法は一つしかない。引っ越しをするのだ。他の洞に引っ越せばそれまでだ。
消極的で無気力な方法ではあるが、私と家族のためには外に方法がなかった。私は後のことをすべて5班の班長に任せて敦岩洞へ引っ越した。住んでいた家は従兄にやった。
敦岩洞の新しく引っ越した所は静かな住宅街だった。家も良く、町内も清潔で満足だった。
約ーか月の間、妻と3歳になった長女と平和な団欒の中に暮らした。ある日外出から帰って来ると、妻の顔色が青白く、物も言わず只事ではない気配だ。
「どうしたのかね、何かあったか?」
妻は黙ってー枚の白い紙を取り出す。受け取って見ると、徴用令状だ。私は他人を徴用に行かせるのが嫌で引っ越しをしたのに、今度は私に徴用状が下った。前の家が班長の家だった。その家には息子が二人いる。それなのに家族を抱えている家庭に徴用状を出したのだ。しかし、咎めても何だし。世間の人の心はそんなものだ。苦笑いをするだけだった。
その頃、私は私の勤めていた日本人の会社に辞表を出し家で休んでいた。
知り合いだった日本人達とは関係を断っていた。また、徴用問題で彼等に助けを求めるのは私の自尊心が許さなかった。何時かはこのようなことがあるだろうこと位予想出来ないことではなかった。ただ、思ったより時期が早かっただけだった。
鴨緑江鉄橋を越えて逃避行
徴用令状を受け取った私は、翌日の朝セブランス病院に入院した、
私は幼い時から脱腸があった。私が幼い頃体が弱く、成長が他人より遅かったも、脱腸が影響したのかも知れない。田舎の人達は、これをトサンプリ(鼠けいヘルニアによって一方の陰嚢が大きくなった人)といって、治療方法を知らなかった。私は物心がつくにつれ脱腸帯を使用していた。今回の機会に脱腸の手術をして病気を直し、時間を引き延ばして対策を立てようという意図だった。脱陽の手術は簡単な手術だ。ヘルニア門戸という仕切りを縫って、小腸が出て来ないようにすれぱよいのだ。手術を受け、診断書を警察署に提出しておいた。
入院中に、満州にいる8親等の兄に連絡し、満州に行ってからの居場所を準備しておいた。10日後に退院したが、その間刑事が2回ほど来たという。前の家の班長も来て、病気見舞いをする振りをして動静を探って行く。
あたふたと荷物をまとめて、また引っ越しをした、田舎に都落ちすることにして、妻と娘を田舎に残しておき、私一人で満州に逃亡した。
京義線の列車の、宣川から新義州の間では移動警察がうようよしている。しかし、私は尤もらしい会社の出張命令書を準備していた。しつこい奴等でも何ができるものか・・・・。
そうこうする中にも鴨緑江鉄橋を渡り、安東駅に到着してやっと安心した。
新京(元来の地名は長春)駅に着くと、兄が出迎えに来てくれていた。新京は満州国の首都だ。兄は'満洲生活必需品会社(略称;生必)'に勤務していた。生必会社の社宅に兄嫁と二人で暮らしていたが、私は兄の食客になった。そして何日か後に、私も同じ生必会社に就職出来た。
社宅は3階建の集合住宅で何棟もあった。社宅団地の庭の片隅に仮小屋がーつあって、そこには中国人、王が住んでいた。王は生必の営繕課に属している大工さんだった。社宅の入居者は全部が日本人職員で、朝鮮人は兄一人だけだった。
満州生活必需品会社は、満州全域に支店がある満州国の国策会社だ。私は生必本社の農産課果実係に配置された。果実係は係長を含み日本人8名、朝鮮人(私)1名、中国人1名だ。中国人、劉は未だ少年で給仕だ。
満州国は日本の完全な傀儡国家だった。日本のどの地域よりも完全な国家統制を実施していた。生必は、食糧を初めとするすべての生活必需品の生産、買入れ、貯蔵、分配の各分野を一括管理するどえらい企業体だった。
満州全域で生産されるすべての果実は生必で統制管理した、農民といっても自分の思い通りには出来なかった。生必の機構は膨大だった。各支社との電信電話だけでも毎日数百通に達した。私は末端新入社員だったが、先任日本人社員の補助の役割くらいをすることに別に支障はなかった。
私は日本人達より給仕の劉と親しく過ごした。
地下室は構内食堂だ。昼食は構内食堂で食べるが、御飯が少なく、量は一杯に入っていなかった。
満州国長春の素描
日本は満州国を経営するに当たって、百年の大計を立てたようだった。すべてのものが巨大なスケールだった。狡猾な日本人は、長春駅を旧市街から遠く離れた所に建てた。広い面積を取って、新市街地を心置きなく建設した。
長春駅で降りると、北方に真っ直ぐ大同大街という大きな道が延びているが、路幅が150〜200メートルはあった。道端は草地で、所々に大型の建物がある。大型の建物は政府機関や準政府機関で、満州国政府庁舎も町はずれに建ててあった。
中心街は完全に日本の機関だけだった。駅前から暫く行くと十字路に出るが、この十字路の人道を一回りまわると2キロメートルだという。十字路の真ん中にはロータリー公園が作られていた。
十字路の曲がり角は新京特別市庁舎、満州中央銀行、満州警察庁が一か所づつ占めていて、一隅はまだ空いていた。
十字路から東西に延びている大路を興安大路というが、興安大路に沿って東に暫く行くと旧市街地に出る。大同大街の右側は公園が果てしなく延びていて、生必会社は大同大街にあった。会社から社宅に行こうとすれば、公園を横断しなくてはならないが、おおよそ30分掛かった。兄と私は1時間の距離の道を歩いて出退勤した。
新京には電車もあった。電車は大同大街や興安大路を避けて裏通り(?)を走っていた、、新京の顔に相当する大路に電車を行き来させるのは美観上良くないという理由からだという。
そのことだけ見ても、日本が満州建設にどれだけ遠大な計画を立てていたか推察できる。多分、満州は永遠に日本の領土だと考えたようだった。
私は、休日には旧市街地見物をしに歩き回った。先ず奇異に感じたのは、中国人の服装が4原色だという点だった。すべてのものが、赤、黄、青、そして黒色で、外の色はなかった。男も女もそっくりな原色の人の波は、目が痛いほど強烈な印象を与えた。
市場に行ってみると人が多い。人が多いことはソウルと変わらない、何でも秤で計って売るということだけが異なる点だった。鶏卵も計って売り、酒、油のような液体も計って売った。1斤は500グラムで、酒1升は3斤だった。
中国人は油で揚げたものを好む種族だ。鶏卵も油で揚げて売る。豆腐も揚げて売る。通りを歩くと西瓜の種売りが大勢いる。リヤカーに西瓜の種、南瓜の種、ひまわりの種をうず高く積んで売る。我が国の飴売りとそっくりだ。ただ、売る品物が種(クォズ:瓜子)だ。
ひまわりの種が一番安く、次が南瓜の種、西瓜の種が最も高い。だから西瓜の種が最も高級で、南瓜の種、ひまわりの種の順だ、西瓜の種は小さく滑らかで、殻を割って食べるのが難しく、中身も小さく食べる所もない。値段が安く、殻を割って食べるのが楽なことはひまわりの種だが、味はさほどでもない。
適当なのは南瓜の種だ。私は手慰みに時々南瓜の種を買って食べた。まことに不思議なのは中国人達の種の殻を割って食べる才能だ。私は種を軽く噛んで間に裂け目を入れておいて、両手で割って中身を取り出して食べる。ところが中国人は種を口に人れ、もぐもぐさせて、ぺっと吐き出すと間違いなく皮だけ出て来る。口に人れてぺっ、口に人れてぺっ、物凄く速い。べっべっべっ・…。ある日、中国映画館に入って見た。映画館は中国も韓国も大同小異で、一つ違う点は歩くたびに種の皮が踏まれてがさがさと昔がすることだ、アメリカ人達が劇場でポップコーンを食べるように、中国人は種を食べる。どんな所でもぺっべっだ。汽車に乗っても3等車ではがさがさする。種を沢山食べる種族だ。
砂風と纏足
3月になると満州にも春が間違いなく訪れて来る。満州の春は砂風から始まると言える。ゴビ砂漠で起きた旋風により砂が巻き上げられ、空高く飛んで、何物にも邪魔されずに満州の野原を覆う。
そんな時は、日食でもないのに空がかすんで暗くなり、真昼でも事務室で新聞を読むのが難しくなる。全天地が風と砂で満ち満ちる。
若し、風をまともに受けて行くとすれば、よろよろしながら必死に歯を食いしばって歩かなくてはならない。前に進むことが出来ないばかりでなく、砂に叩かれて顔がひりひりと痛い。若し、二人で歩いていて話でも交わすときには、口の中じゅうがじゃりじゃりになる。それで、外出の時には必ずマスクをしなければならない。
こんな時、一番困難な目に合う人は中国の婦人達だ。中国の婦人は纏足をした人が多いためだ。纏足というのは、女の子の足を幼い時から木綿で縛り上げ、その上に革靴をぎゅっと合わせて履かせ、足が大きくならないようにしておくものだ。だから、どんなにか痛くて窮屈なことだろうか!
足が育たない代わりに尻だけ大きくなる、尻は大きく、脚は短く、足は小さいので、平常時でもよちよちと歩くしかない。
中国人達はこれをあひる歩きといい、セクシーな美しさとして崇め尊んだが、呆れたこととしか言いようがない。
あひるの歩く格好を後から見ろ、その格好がセクシーで良い、といって、人為的に女子をそのように作る男達・…本当に罪の多い衆生達だ。
纏足を解くことは禁忌事項だ。足を洗う時だけ解き、すぐに元通りに巻いておく。だから、そこから出る臭いはどんなにひどいものだろうか?昔の中国の男達はその臭いを楽しんだという。中国の春画に、纏足をした靴に酒を注いで飲む画を見たこともあった。
女子は絶対に、夫以外の男に足を見せることはない。もし靴を脱いで足でも見せれば、女のすべてのものをその人に公開することと同じだとする風習のためだ。そのことについて面白い話がある。
ある日、日本軍の将軍が、中国人の高級官吏を自分の官舎に夫婦同伴で招待した。日本人の住居は畳部屋で、靴を脱いで上がるようになっている。ところで中国の夫人は物ともせず、靴を履いたまま平気で部屋に上がって行った。
これを見た日本人主人夫婦はびっくり仰天して、かんかんに怒った。日本人の常識では、土足で他人の家の部屋に入ることは並大抵の失礼ではないからだ。
日本人婦人は、'あの女は私を何だと思って、敢て私の家に土足で上がって来るのか、'と思い顔色が変わり、靴をすぐさま脱げと怒鳴った。
今度は中国人婦人が顔色を変えた、'あの女は客の前を素足で横行し怪しいと思ったが、敢て私に靴を脱げだって?'なんと下品な人間だ。と腹を立てて帰ってしまった。
風俗の違いで起きた、笑えないナンセンスな一駒だ。
中国(満州)の水道水を、ガラスのコップに注いで見れば泥水だ。10分位、置いておくと、3分の1は砂が沈んでいる。これが満州の水道だ。どんなに強心臓でも、こんな水をそのまま飲むことは出来ない。中国人達がいつも熱い茶を飲むのが理解できる。中国では水は沸かして飲まねばならない。
満州の荘園
満州の地図を広げて眺めると、張家荘、李家荘、または蘇家屯、王家屯のような地名が見られる。鉄道の駅にもそんな所が幾つかある。これは、その地方一帯が張氏や李氏の所有地か、代々伝わる領地という意味だ。
我が国も、田舎へ行けば、一つの姓氏を持った人達で部落の大部分を占めている所がよくある。しかし、我が国の場合は大きいといっても、やっと一つの'里'を占める程度だ。ところが中国の場合は一つの'郡'程度の広さを占めるのが普通で、日本の'県'くらいの面積を持った荘園もあるという。地図上で地名として呼ばれる程なら、思い半ばに過ぎる。
実際に、地方を馬車で行くと、大きな刑務所のような建物がしばしば見られる。高い煉瓦塀が取り囲んでいて、隅には聞違いなく望楼がある。こんなひっそりと寂しい田舎にどうして刑務所があるのかといぷかしく思うが、それが正に荘園だ。いわば、その一帯を所有している大地主の住居用の家だ。住居用の家という表現は間違いで、小さな城だ。荘園の中には数百棟の家がある。荘主の外にも農奴(小作人)達が荘園内に住む。荘園内は鍛治屋、家内工場のような工房施設、警備兵の軍用施設もある。警備兵は無論私兵で、銃砲類も備えている。
警察力というものは官公署を守る程度のみで、地方までは力が及ばなかった。それで、万ー馬賊団の襲撃を受ければ、警備兵力と住民が一か所に固まって戦わなくてはならなかった。
満州は祝福された土地だ。大部分黄土質で石のないきれいな土から成っていて、広い野原なので畝も長い。こちらの端からあちらの端まで500〜600メートルづつは十分にある。
満州には牛がいない。馬が農作業をするが、全部がチョラン馬(体の小さい駄馬)だ。チョラン馬に犂をつけて畑に行く。
満州は冬が長く、しかもとても寒い。零下30〜40度は普通だ。そんなに寒いから土地が深い所まで凍る。4月になると氷が解け始めるが、地面がまるでスポンジのようになる。冬の間ずっと深い所まで凍ってから解けるのだから、土の中の有機物が容易に腐って肥料を別に用いる必要がない。
犂は我が国のものより小さい。手の平くらいだと形容しうる程度だ。その小さな犂をチョラン馬が引くが、どれほど速いか、犂の柄を握ってついて行く農夫は走るようにしなければならない。土地がスポンジのように軟らかいので力が要らず、力が要らないのでチョラン馬は自分の性質通りに走る。そんなに速く走っても畝が長いので、かなり長い時間を掛けて帰って来る。
春に畑を耕すと、犂の先に氷のかけらが混ざって出て来る。土地の下の方までは、まだ十分に解けていない証拠だ。土が軟らかく、土地の下の方が解けながら湿気を提供し、日差しが暖かく、土地の中に有機物が豊富であれば、農業はうまく行く外はない。満州の土地は福を受けた土地であることは間違いない。
土が良いので農作業がうまく行くが、雑草もよく育つ。夏の除草作業も我々とは全く違う。長い柄の先に付けた熊手のようなもので、腰も曲げず立ったままで、ゆっくりと掻きながら後退りすればよい。もちろん精密ではないが、しないよりはましだ。それに、その広い野原をどんな方法で精密にやれるだろうか。農作業なるものも大さっぱだ。
冬は長く夏は短い関係で、我が国より遅く種を播き、早く取り入れなくてはならない。従って二毛作というものはない。
じゃが芋、大豆、玉蜀黍、ねぎ、白菜、大根、粟、小麦、黍ということなく、いちどきに種を播き、いちどきに取り入れる。じゃが芋を取り入れた畑を耕し返し、キムチ用白菜を植える才知を働かせることが出来ないのが満州の農業だ。けれども、土地がなくて農業が出来ないということはない、空いた土地はいくらでもある。農業をする人がいなくて、遊んでいる土地がいくらでもあるのが正に満州だ。
配給制度の魔術
満州ではすべての生活必需品が配給制度によって割り当てられた。配給カードには等級があったが、日本人が第1級で、その次が朝鮮人、満州国高級幹部、中国人公務員、その他等々で、詳細な事項までは知ることが出来なかったが、5等級になっていると聞いた。
朝鮮人と日本人の差は砂糖と石鹸の配給量が違うだけで、その外は同じだという。朝鮮人の協力がなくては満州を統治することが出来ないだけでなく、朝鮮人は最も有用でありながらも最も怖い存在であったためだった。
朝鮮人はすべての部署に多くいた。朝鮮人は中国人達ともよく打ち解け、事務方面でも卓越した実力を発揮した。さぞかし急いで内鮮一体を掲げて日本人化してしまいたかったことだろう。
配給制度というものの、実状は、蔭ではぶつぶつと零れて行くものだった。何故かというと、配給の計画、運用、監視、評価、すべてのことを日本人と朝鮮人が担当しているためだった。
中国の酒は、唐黍を発酵させ蒸留した焼酎が一般的だ。名前は焼酎、白干、高梁酒等と呼ばれたが、みんな同じものだ。醸造場は中国人が経営する。しかし、中国人は自分の醸造場で生産する酒であっても勝手に売ることが出来ない。配給表があってこそ出荷することが出来る。日本人は勝手に配給表を発行するから自分の物と同じだ。
私は昔も今も酒を飲まないが、兄は酒が好きだった。仮小屋に住む中国人大工の王も酒を好んだ。酒は兄が調達した。酒を買って来ると王と一緒に飲んだ。中国人、王は人が善く、兄と義兄弟の誓いを結ぴ、兄はターコー(大哥=長兄)、自分はアールコー(二哥=次兄)、私はシゥンディ(兄弟=弟)、このように呼んだ。兄は、知人を通じて酒の配給表を受ける。難しいことは一つもない。電話だけすればよい。しかし、中国人は一滴も手に入れることが出来ない。それが配給制度の魔術だ。
統制政策とは、統制される者にとっては'無'に変わる政策で、統制する者には独占できるようにする政策だ。
次は煙草だ。満州の煙草は高級品はとても高級だ。下級品はずいぶん悪かった。我々職員達は生必会社から毎週煙草を配給してもらうが、私のような愛煙家も(一日23本が定量)不足しない程度にもらい、全部が高級煙草だった。
一般の煙草屋では割当量が足りず、煙草が出て来る日は、店の前に夜明けから長蛇の列を作って待っていて、徒労に終わって婦るのが毎度だという。公務員でない中国人は、煙草を買うのがとても難しいという話だ。
ある日、中国市場をぶらついていると、シャオハイ(小孩子=少年)が脇腹をこつこつ突きながら、'イェンチャンルヨウ?イエンチャンルヨウ?'(煙草有るか?煙草有るか?)という。私は、あ、こいつは煙草を売れということだなと感づいて、'ティンダンユウ'(天壇有〉といって煙草の箱を出して見せた。
天壇、前面(チェンメン)は高級煙草の商品名だ。小孩子は満足したように、'ハオマイマイ(好売買)という。売れ、買おう。そんな意味だ。'トゥオシャオチェン?'(多少銭?)と尋ねると、値段を言うが、私が配給を受けた値段の5倍は出すという。その日は1箱を売り、次の日曜日に会おうと約束して別れた。
次の週、会社に余っている煙草を私が全部引き受けておいて、日曜日に10箱を持って行って小孩子に売った。その金で食堂に入って昼食を沢山食べて、見物もし、うんと遊んだ。煙草商売で小遣い調達の味を覚え、日曜日ごとに市場に出掛けたものだ。
配給制度は統制経済政策の核心を成す。ナチは'国家社会主義'と名付け、日本は'国家総動員'といい、共産党は社会主義計画経済'といい、色々な名称で呼び、実行方法も少しづつ違うが、分かってみると本質は同じだ。
1。執行主体には物資を最大限集中し、
2。一般消費大衆には最少限の消費を強要する政策だ。
配給がふんだんにあれば、もはや配給ではない。足りないのが配給だ。一か所に、まとめて一度に与えるのが配給だ。まとめて貰う方は天国で、疎外される方は地獄だ。新式表現で言えば、'苦痛の専担'を強要する政策だ。
何のための統制か?
誰のための苦痛負担か?
それが問題だ。
ソウルに帰る列車
1945年5月からは日本人職員達が軍に召集されることがしょっちゅうだった。日本人職員は大部分30〜40代の家長で、軍隊の経歴がある除隊者だ。それで徴集でなく召集だ。
果実係でも日本人職員の中から一人二人づつ抜け始めた。空いた席は私が埋めた。人が抜ける度ごとに、私は係長が座っている方に席を替えて座った。
戦争の様相は不利になって行くばかりだった。召集は頻繁になり、その度ご
とに私の席はひっきりなしに上がって行った。日本人達は心理酌に不安になり、仕事が手に着かなくなった。結局私だけが忙しかった。
成り上がりも並大抵の出世でなく、駆け出しの末端だったのが、すべての事務を私一人で処理する職位になった。生必本社は満州全国を統括する組織だ。だから事務量も大変多かった。しかし、軍隊の召集が多くなるにつれ事務は麻痺状態になった。本社のみならず各地の支社も同じ状態であるからやむを得ないのである。
広島に原子爆弾が投下され、ソ連が日・ソ不可侵条約を破棄して宣戦布告をすると同時にソ満国境を越えて侵攻した時は、係長も出征した後で、我々の部署には私と中国人給仕、劉だけが残っている有り様だった。
私は戦争の推移に敏感になって、辺境の支店に電信、電話を掛けて、ソ連軍の進撃状況を点検するのに全力を傾けた。ソ連軍が、チチハルを経てハルビン近郊まで進出したという消息を聞いた時、私は兄に韓国に撤収することを提議した。
関東軍は100万だと宣伝して来たが、その当時では中国と南洋方面に全部選び出され、事実上、空の殻だけ残っていた。ソ運の参戦情報を入手していたのか、あたふたと満州にいる殆どすべての日本人達を軍に召集したものと推測される。
満州は朝鮮人にとっても日本人にとっても避難所であることは同じだった。
日本人達も本国にいる人達よりは楽な生活をしていた。いや、ただ楽なだけでなく天国だった。あらゆることが安定していた。
そんな人達を強制召集して訓練をしても、精兵にすることは出来ない。戦力はどうであれ数字でも埋め合わそうと、人間を掻き集めているのは確かだった。その程度なら結果は火を見るよりも明らかだと判断したので、一日も遅滞なく撤収しようということだった。
兄もこれに同意して、八方手を尽くして鉄道便を調べた。その時はすでに一般旅客列車は運転が中止されていて動きが取れなくなっていたが、それでも、死ねという法はなかったのか、日本人軍人家族を疎開させる列車が夜12時に出発するということだった。我々は軍人家族と見せ掛けて、その列車に乗ることになった。
列車は客車でなく無蓋貨車だった。新京駅はその列車に乗るために押し寄せた人で、それこそ阿鼻叫喚の騒ぎだった。全員が女子供達で、男は兄と私の二人だけだった。日本の女性達からは毒々しい眼差しも受けたが、恥知らずに仲間入りした。
新京から安東までは一日の道だ。ところが、この列車は時間もなく目的地もなかった。停車場を幾つか行っで止まると、またいつ出るのか誰も分からなかった。吉林に行くという話もあり、安東に行くという話もあった。満州こ居住する日本人は、大多数が政府か、重要な機関の職員達だ。そんな人達をことごとく召集してしまったので、家族達を安全に保護する責任があったので疎開させたと思う。何年か住んだ家も所帯道具も全部捨てて、やっと着替える衣類を数点だけ取りまとめて、避難しろという命令に従って列車に乗った婦女子達で、みんなが不安に震えていた。
鉄道は完全に関東軍が運営していた。駅長も機関士も軍で命令する通り動いた。各駅ごとにプラットホームには仮小屋があって、'停留場司令部'という看板が掛かっていた。列車の乗客は全部が日本軍の家族であるため、警備兵達も干渉をしなかった。
"暁に帰った"ソウル
新京から奉天まで行くのに3日掛かった。奉天駅から3,4駅過ぎた所に'蘇家屯'という駅がある。列車が蘇家屯に到着したのは夜だったが、翌日も汽車は出発する気配が見えなかった。
正午頃、私はひどくじれったくて、プラットホームをうろついていると、'停留場司令部'の窓から人々が覗き込んでいるのが見えた。好奇心に駆られて、私もそこに行ってみたら、みんながラジオ放送を聞いていた。
たどたどしく何かの声明書を朗読している様子だが、ひどく沈んだぎこちない話し方で、'敵は暴虐なる原子爆弾を使用し・・・朕はポツダム宣言を受諾し・・・停戦することを命ずる。我が臣民は・・・。'
聞いていた軍人達は悲憤慷慨する様子で、民間人達はただ粛然として頭を下げるのみだった。その日は正に8月15日だった。私は8・15を'蘇家屯'で迎えたのだ、私はこっそりと抜けて兄の所に戻ってきて、
「兄さん、日本が降伏しましたよ。今、私が天皇の放送を聞いて来ました。」
他人に分からないように朝鮮語でこっそり話した。
「それ本当か?」
「本当の話ですよ。確実です。」
「もう戦争は終わったから、私は一刻も早くソウルに帰らなくてはなりません。」 兄は兄嫁と頭を突き合わせて暫く相談していたが、
「すでに戦争が終わったのなら、我々は新京に帰らなくてはならん。」
「えっ、それはどういうことですか?」
「色々と整理することもあると思うので、一旦帰って収拾することを収拾した後で帰るから、お前は先に行け。」
私は徴用を避ける目的で逃避生活をしたのだが、兄は違った。生活の基盤が満州にあった。
一時避難することは不可避だが、何の対策もなく徒手空拳で帰国するというのも、考えるべき問題ではあった。それで、兄と別れ私だけ帰国することにした。暫くして列車が再び新京に戻るという噂が立った。
夕方、南に向かう軍用貨物列車があった。私はその列車の連結部分にある小さな空間に乗り込んだ。日本の軍人は、悲憤糠慨して自暴自棄の状態であるため、どんな乱暴な仕業をするか分からないので、見つからないよう用心することが並大抵ではなかった。
私には切符のようなものは初めからなかったし、金も荷物もなかった。食べ残しの玉蜀黍一本と満州の貨幣数十元が全部だ。ところで、その列車も途中で止まってしまう。また別の列車に乗る。こうして何回か繰り返した末に、その日の夜、安東に到着出来た。
折よく安東駅ではソウル行き旅客列車が出発直前だった。私は持っている金をすっかりはたいて切符を買って、汽車に乗り込んだ。満州の貨幣は朝鮮では使えもしない金だが、今や完全に無一文だ。
汽車が鴨緑江鉄橋を渡るとき、もう大丈夫だ、これで助かったと思い、故国に帰ることが嬉しくてたまらず、外のことは何も気に掛けなかった。
汽車が新義州駅に入ると、汽車に乗ろうとする大勢の人の喚き声が凄ましかった。私は安東から乗ったので座席に掛けることが出来たが、新義州からは超満員で立錐の余地がなくなってしまった。客車内の通路はもちろん、列車に乗り降りする階段にまで人々がぎっしりと一杯になってしまった。それでも人々はぶら下がってでも乗ろうと必死になっている。
一人の青年が大声で叫んだ。
「みなさん!私達は今や一等国民です。秩序を守りましょう。」
私は、この一言が、じ一んと胸に響いた。
「そうだ、独立国の国民だ。一等国民でなくてはならない。」
それから24時間を、汽車の中で一滴の水も口に出来ず完全に絶食だった。
けれども腹が減った気がしなかった。
新義州からソウルに行く間じゅう、沿線で太極旗を振り万歳を叫ぶ光景を至る所で見ながら、溢れんばかりの感激と喜悦に浸って空腹を感じる暇もなかった。 ソウル駅前の広場に降り立つと、夜明けの1時を過ぎているのに、駅前は人が大勢居て活気に溢れていた。
あぁ、私は遂に私の国、私の故郷ソウルに帰って来た。
独立した祖国の地に!
第5部 終わり
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