第3部


懐かしい山河、懐かしい歳月


正月には饅頭ポンポク

2月には松餅ポンポク

3月にはなずなポンポク

4月には蓬ポンポク

5月には欅葉ポンポク

6月には大麦ポンポク

7月には小麦ポンポク

8月には唐黍ポンポク

9月には南瓜ポンポク

10月には千切ポンポク

11月には小豆粥ポンポク

12月には長餅ポンポク

これ位あれぱ、12か月のポンポクは満足だな。


――ポンポク打令――

(*)ポンポクとは、穀物の粉に南瓜等を混ぜて

糊状に炊いた食べ物を言う。

 
 
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叢石亭から眺める東海


1937年秋、大人達について、金剛山見物をする幸運を掴んだ。2泊3日の予定で、日暮れ頃、清涼里駅から京元線の列車に乗った。京元線とはソウルから元山までの鉄道線路名だ。

当時の汽車は、文字通り汽車だ。機関車にいっぱい石炭をくべて、水を沸かし、蒸気を発生させる昔の汽車、正にそれだ。

童謡で'チチポポチチポポ,というのが、機関車から、ピストンを動かす時発生する蒸気が漏れ出る音だ。

暗闇を貫いて、ひたすら北に走っていた汽車が、鉄原を過ぎる頃から喘ぎ始めた。三防峡の高い峻嶺を越えなくてはならないからだった。ここからは、機関車が後方にもう一つ付くようになる。すなわち、前から引っ張り、後ろから押す方式だ。それでも、まるで喘息を病む人の痰がつかえる音のように、はあはあぜいぜいしながら喘ぎ続ける。

走るのではなく這って行くのだった。冬に雪でも降りしきる時には、更に厳しくなる。乗客達が汽車から降りて小便をし、いたずらをしながら行っても、ついて行って掴まえることが出来るほどだった。

三防峡、福渓一帯は薬水でも有名な所だ。この峠を越えれば坦々たる大路だ。'シンゴ山が、がらがら、咸興行列車が走る音に'という新高山がある淮陽、りんごの有名な産地、安辺を過ぎれば元山だ。元山は、我が国の腰の部分に位置する重要な港として、製油工場があり、有名な松涛院(松林海岸)海水浴場がある。

北方の咸興、清津港の海は冬には凍り付く。しかし元山は不凍港だ。それで、より重要な港だ。元山は海に沿って長く広がり、北は咸興、清津に通じ、西は鉄嶺7里峠を越え、陽徳を経て、平壌に至る。

早朝、元山で東海線に乗り換えた。東海線は、元山から外金剛まで続いているので、途中の東村で降りた。

昔は、東海(日本海)で鰯が択山捕れた。鰯は生臭い味が強いが、脂身が多く、あっさりした味のする、背中の青い魚だ。あまりに沢山捕れたので、東村に大きな油工場を建て、鰯の油を搾り、残り粕は肥料として売った。それが魚粕というものだった。

日本が満州で戦争を始める項、天罰が下ったのか、数年前から、そんなに多かった鰯の群れが、まんまと消え失せた。日本は、あらゆる手段を尽くして探したが、行方は依然として分からなかった。どこに行ったかも明らかに出来なかった。我々が東村に行った時には、鰯工場の残骸だけががらんと残っていた。

東村には叢石亭がある。我々は叢石亭を見るために降りたのだ。叢石亭は海辺の崖の上にある小さな東屋で、東屋自体は別に見るべきものもない普通の東屋にすぎなかった。ところで、叢石亭から海を見下ろすと、眼下に広がる、息の詰まる絶景が目を驚かせる。

崖から4,5百メートル位離れた海の真ん中に、5個の大さな岩の柱が高く聳えていた。エンパイアビルディング程の大きな岩の柱が凄まじく垂直に聳えていたが、海の水の中から空に向かって真っ直ぐ聳え立っていた(3個だったか5個だったか?)。その何個かが、大きさも形も全く同じだ。周りが幾らで、高さが幾らだとただすことなぞ、何の意昧もない、ひかえてもらおう。

人間は、造物主の傑作に驚き、感嘆し、圧倒されて、鑑賞すればよいのだ。

東海の水は清く澄んでいる。叢石亭から海を見下ろすと、水の中に魚が泳ぎ回っている様子がはっきりと窺えた。目を上げれば、遠く水平線が果てしなく続き、近くの海には物凄い岩柱が聳えていて、水の中には魚が自由に泳ぎ回っている絶景。私は我を忘れ、ぼんやりと見惚れるばかりだった。ただぽんやりと・・・。


金剛山の樵


東村から外金剛までは遠くなかった。外金剛駅を出ると、そこが温井里だ。我々一行は温井里ホテルに旅装を解いた。温井里は名前そのままの温泉地帯だ。夜の間に、汽車旅行で積もった疲労を温泉の湯で洗い流した(一日も早く統一されて、ここに新婚旅行に来るようにならなけれぱならないだろう・・・)。

金剛山は広い地域だから、登山コ一スも多くの分岐がある。我々は日程が2泊3日の予定になっていて、検討の未、外金剛から昆盧峰を越え、内金剛に下りて行くことにした。金剛山には山の案内者がいた。山が深いからだろうが、分かれ道も多くて、安全のためには案内人がどうしても必要だった。我々が雇った案内人は日本人だった。私が「どうして選りも選って金剛山の案内人になったのですか?」と聞いた。

『私は日本で中学校の教師でした。夏休みを利用して有名な金剛山を見るために観光にやっで来ました.来てみると、その景観が余りにも美しく玄妙なので、日本に帰る気持がなくなりました。それで、完全にここで暮らしながら、金剛山の隅々まで歩き回り、歴史や伝説も研究するのですから、案内人が私にはまたとない職業となったのです。』といいながら、満足気に笑っでいた。彼は金剛山樵という雅号を自ら付けたと言った。

彼の名前は忘れたが金剛山樵という号は記憶している。樵という字はナムックンという意味で、日本音では'きこり'と読む。

一行は、午後、九竜爆布を見るためにホテルを出た。九竜瀑布は、我々が選んたコ一スとは反対方向で、そんなに遠くはなかった。谷間に入ると、もう滝の音が殷々と聞こえた。'飛流直下三千尺'という表現もある。三千尺は中国式誇張だか、100メートルはあるようだった。はるかに高い空から真っ直ぐに落る夥しい水流は、実に壮観だった。その力強い雄叫びは魂を圧倒し、四方に飛ぴ散る飛沫の中から空高く立ち昇る虹は、神秘と敬虔の念に深く浸からせた。滝の下には広く深い淵がある。水がどれだけ澄んでいるか、滝の水が深々と沈んでから、水滴となって上がって来る様子が一目ですっかり見えた。一行は、樵氏を先頭に、九竜瀑布の頂上に登った。頂上は比較的平坦だった。滝に流れ入る水流の途中々々に大小の淵がある。その淵が9か所だという。「それで九竜瀑布という名前が生まれました」と、案内人は説明した。

山の中では日が早く暮れる。日が薄暗くなる頃ホテルに帰った。温泉は疲労を解いてくれもし、疲労を呼ぴ起こしもするもののようだった。私は宵の口から正体なく眠りこけた。


樵と仙女

急いで朝飯を終えた一行は、軽い足取りでホテルの門を出た。今日は日が暮れる前に毘盧峰まで登らなけれぱならない。傾斜した山道伝いに歩いて登った。空は晴れ、景観は秀で、樹林の香りが爽快なぱかりだった。'金剛山一方二千峰八万九庵子'昔の歌の歌詞が頭の中をかけめぐる。にょきにょきと突き出ている奇岩怪石が全天地を埋め尽し十二万峰、いや、百二十万峰を越えるようだった。金剛山は本当に奇妙な山だ。道も渓谷も、高い所も抵い所も、数十里に広がった山全体が、一つの岩の塊だ。土は見えない。岩には木が生えており、岩の根元にも、岩の中問にも、岩の頂止にも樹かぴっしりと立ち込んでいた。それも美しく大きな大木が生い茂っている。木の種類も種々様々た。岩の小さな割れ目、小さな突出部ごとに、どのような力があって、そこに根を下ろし、木が育つことが出来るのか、神秘なばかりだ。一方に深い谷がある場所に着いた時、樵氏が足を止めて説明する。「あの下に見える谷に丸い淵が見えるでしょう。その横に長い枝がある松の樹がありますね。あそこが仙女が降りて来て水浴ぴをしたという所で、あの木の枝に掛けておいた仙女の羽衣を樵の万寿が隠したと言う伝説が伝えられる所です。」と説明をしながら「その淵を'仙女潭'といいます。」と付加えた。

仙女と万寿の伝説を伝える場所は所々にある。単なる伝説に過ぎないのを知りながらも、金剛山で見た仙女潭は何故か実感があった。さぞ、昔の人達にとっては一大ローマンだったに違いない。

一行は内陸の方に登って行った。暫く行ってぐるりと後ろを向いて座り休息した時、案内人が手を高く挙げて遠くに見える山の峰峰を指して説明する。

「あれが万物相です。こちらが新万物相ですよ。」

我々はかなり高い所に登ってきていて、その方向は東海の海の方角だった。

それでも万物相が遮っていて海は見えなかった。

万物相は、まるで屏風を巡らしたように、目に見えるこちらの端からあちらの端まで、垂直に広がっている。頂上には色々な形の岩がにょきにょきと隙間なく立ち並んでいる。あるいは人間のようでも、あるいは牛か虎のようでもあり、馬に乗った将軍のようでもある様々な形で、ぎっしり立っている。それも数十里にわたって・・・。荘厳な万物相の威容は、人々をして粛然とさせ、大自然の偉大さに襟を正させる。万物相は造物主の偉大な傑作であり、金剛山の象徴でもある。

登山路の要所々々には簡易売店があった。売る品物は、小型の木彫品や、木の皮を張り付け金剛山の景色を表した額縁工芸品、そして簡単な菓子類がすぺてだった。飲料水はなかった。その当時は、飲料水といっでもサイダーとラムネがすぺてだったが、金剛山には、車輌が通ることが出来ないので、すぺての品物は人が背負い荷として運ぱなけれぱならなかった。それで、ガラス瓶に入った飲料水は持って来て置くことが出来なかった。そして、飲料水は事実必要がなかった。きれいな渓谷の水が最も良い飲料水だったから。

売店ごとに記念スタンプがあった。スタンブは絵が描かれたゴム印だ。絵は売店ごとに違う、仙女潭の近所の売店では仙女潭の絵、万物相の近所の売店では万物相、こんな式だ。スタンプを押すのはフリーだ。私はスタンプ帳を一冊買って、売店を通るごとに押した,後日、スタンプ帳は良い記念として残った。


金剛山で神仙になる


午後2時頃、一行は三仙巖にたどりついた.三仙巖は独立した3個の巨大な岩だ。まるで童話から出て来たもののようだ。ぐっと見上げると頭が見える。頭には丸い岩か置かれている。その頭は、神様が別の所から持っで来て置いたのか、元々そんな形なのか、不可思議たが、良く似合っている。三仙巖の前には、高くて平たな岩があった。我々はそこに座って、休息を取った。ところで、あぁ、こんなに美しいものが!下を見ると、白雲が足の下を悠々と流れて行く。我々は雲の上に座っているのだ。私は、雲は空にだけあるものと思っていたが、足元のそこら辺に浮かんでいた。秋酣の時なので、青い葉、黄色い葉、赤い葉、色とりどりの木の葉が風に揺れて入り乱れ、全天地が万国旗を振って歓迎しているようだった。遠くに目をやると、一万二千峰の山峰は、数十里の野原を埋めた群衆が、我々を仰ぎ見ているようでもあり、途方もない威容を誇った万物相も足の下ぐらいにあって、群峰を護衛するように取り巻いている。その向こう、遥かに広がる東海の海は、空と接して、海も空であり、空また海だか、細く引かれた水平線は神秘なばかりであり、ぽつりぽつり海に浮かんでいる白い灯台が絶妙な調和を成す。ぼんやりと大自然の美しさに酔っていると、案内員が言う。

「あの南の方をご覧なさい。四角い出入口のようなものが見えるでしょう。 あれが天門です。自然が作った傑作の一つですよ。」なるほど、山と山の間に広く高い空間が有るが、ただの空間でない、門であった。その門を通して青い空が見えた。

この巨大なスケール、燦爛たる美しさ、その総てが私の足下に有る。私は空の上でそれらを見下ろす。後ろには三仙巖が護衛に控えている。その瞬間、私は神仙であった。金剛山で神仙になっていた。

道は白樺の森に繋がっていた。行っても行っても白樺の森だ。白樺の幹は白色の鱗で覆われている。掴んではがすと、簡単に離れる。案内人は'しらかんば'と言った。売店に白樺の皮で精巧に作った額縁か多かったが、その時になってやっと、その理由に思い当だった。白樺は金剛山の特産品だった。

毘盧峰の頂上にやっとたどり着く頃、道端にみすぱらしい墓があった。金剛山のこの深い山の中に、どうした墓かといぷかしく思ったら、案内人が「ここ

が正に麻衣太子の墓地です」という。三国統一を成し遂げ、天下に威勢を轟かせた新羅の、最後の王太子、彼は亡国の悲しみを抱いて、麻布に身を纏い、身を寄せる所もなく、世の中を流れ歩き、金剛山の深い山中で、寂しく世を離れ、人の世の栄枯盛衰に虚無と悲哀の流浪の末、この地で悲しき人生を終えた。

ついに毘盧峰にたどり着いた。日も暮れた。ここには丸太小屋があった。丸太小屋は、話で聞いたたけで、実物を見るのは初めてだった。本当に丸太を積んで作った家だった。屋根も丸太だ。'久米山荘'と書いてあった。'久米'は日本人の苗字だ。多分、日本人が経営している所のようだった。中に入ると大きなホールだ。そのホールが客室の全部だ。ワンルームシステムである。

部屋の周囲には簡易寝台が置かれてあり、部屋の真中にはテーブルと椅子が有った。中央の壁の大きなベーチカに火をくべるが、薪も丸太だ。丸太薪の火は熱気が凄まじく、広いホールがぽかぽかした。夕食が出た。ご飯と、おかずは海苔とわかめ汁が全部だ。野菜も肉類も無い。山の頂上で食べられるのは海産物だけだった。奇妙なアイロニーではないか。


毘盧峰の御来光

周囲か騒々しいので、やおら目を開けた。まだ寝足らなくてぽやっとしている私に案内人が笑いながら言う。「御来光を見に行くので、起きなくではいけません。」見れぱ、投宿者全員が起きて、衣服を着替えようと騒がしい。仕方なく眠さを振り切って、ついて出掛けた。いくらも行かずに、東海に面した崖にたどり着いた。日はまだ未明で薄暗く、夜明けの空気が思ったより冷え冷えとしている。「ここが毘盧峰頂上で、標高1620メートル、ちょうどこの下の方に九竜爆布があります。」案内人の説明だ。「ここまで来て、御来光を見ずに行けば、金剛山見物をしたことになりません。」と付け加える。まだ周囲が暗いが、遥か遠くの水平線から夜が白々と明け始めた。ぼうっと白みがかって明けて行く空と海が、だんだん赤い色を帯び始めたが、一瞬の間に赤い色が濃くなりながら、空と海と全天地が赤色に染まる。

その時、水平線の彼方の深い海の中から、物凄い火の玉か水の上にゆっくりと浮かぴ上がってきた。人々は黙って眺めていた。火の玉が水の上に浮び上がり始めるや、空は赤い色が簿くなりながら、透明な明るさに変わり、海は依然として赤かった。この瞬間、空と海は二つの色に画然と分れた。ついに太陽が海の上に勢い良く上がるや海は元来の蒼い色を取戻し夜は完全に明けた。引返す人々は言葉が無かった。大自然のあまりな荘厳さに厳粛を通り越し粛然としたのだろう。

飯一椀、わかめ汁一杯、海苔数枚の山荘メニューで朝飯を終え、再び出発した。金剛山は毘慮峰上を境界として、北方が外金剛、南方が内金剛だ。我々は内金剛の起点から内金剛の終点に向っての歩みを踏出した訳だ。幾らか進むと、切立った急傾斜が現れるが、石の階段が積まれている。石段は遥か下の方に伸びているが、先が見えない。案内員が「この石の階段は一里に亙っています」と説明してくれた。

一里に亙って桟道が続く山の雄大さに驚き、一里の崖に石段を積んだ人のちからにも驚かざるを得ない。我々は下り道なので危なくは有っても力は要らなかった。反対の方向から登ってくる人は、一里の階段を上がって行かなくてはならないからどんなに力が要る事か。我々はコースをうまく選んだと思った。遂に一里の階段もおしまいになった。左右には森が鬱蒼とし、落葉が積っていて、土も有る。奥まっていて静かだった。

ごつごつした尖った岩山でなく、丸っこい普通の山だ。外金剛を男性的だと言えば、内金剛は女性的だとも言えるだろう。底は深い渓谷だった。渓谷に沿って下っていった。内金剛を女性的だと表現したが、やはり金剛山は金剛山だ。

渓谷は上から下まで一つの岩で成っているようだ。単独で転がっている岩は全く無い。渓谷に沿って下りて行くと、谷を此方に渡り、あちらに渡り、行ったり来たりしなければならない。

渓谷の水は澄み、水量は豊富だ。この深い山中の何処からこの澄んだ水が流れ出してくるのか不思議なほどだ。谷間にはえぐられて、やや窪んだ淵が多かった。案内員は "潭"だと言った。渓谷の水は、平な岩面を流れ下り急流となって潭に入って行く。潭は何時も水をいっぱい湛え、平らな岩から溢れて流れる。潭の数が多い事も驚くべき事だが、潭の水がどうしてそんなに蒼いのか、晴れた空よりももっと青い。平な岩面を流れる時は、澄んで奇麗なだけだった水が、どうして潭では青く見えるのか不可思議である。

"青山裡碧渓水よ、足の速さを誇る勿れ"。と言った、明月の歌詞を思い浮べる。真の"碧渓水"であった。水は冷たく手を浸けたら凍えるような感じだった。

山を下りて行くと、所々左右の山裾にぼっかりと掘った跡が見えた、獣の穴の様ではない、案内員に聞いてみると「あれは盗掘の跡です」と言う。「盗掘だって?何を?」「金剛山にはタングステンが多いのです。タングステンを盗掘した痕跡ですよ。」タングステンを盗掘してお金を儲けるのも重要だろうが名山を傷つけるとは情けないと思った。

名山を傷つけると言えば思い出す事が有る。噂に依れば北朝鮮の為政者は秀麗な金剛山の特に目立つ岩の崖に "偉大なる首領"云々のスローガンを大きく彫り、そこに真赤なペイントを塗りつけたと言う。金剛山に留まらず、白頭山も、妙香山も、人の集る所には全て同じ事をしていると言う、実に嘆かわしい事だ。 権力者一人の宣伝の為に麗しき錦繍江山を無残に傷つけても良いのだろうか? おー、神よ、


空中に浮かんでいる普徳窟

切り立った崖の中腹に、渓谷に突出している家が一軒ある。下から一本の青銅の柱がその家を支えているが、約20メートノルはあるようだ。家の一方の端は崖に架かっており、他方は柱一本で支えられていて、家全体は完全に空中に浮かんでいる。案内人は「あの家が普徳窟です。」と説明する。

横の方に、家に上がって行く狭い登り道があった。

のっそのっそ這うようにして、やっと家のある所まで上がって行った。良く見ると、崖と家の間が1寸程度離れている。ちょうど駕の長柄を崖に打ち込んだ形だ。家は正方形をしており、約3坪程度で、中はがらんと空いていた。床は分厚い板で、開いた隙間から下の渓谷が見下ろせた。「入ってご覧になっても構いません。ただし、一度に一人づつお入り下さい。」案内員の話だ。私は好奇心に駆られて、靴を脱ぎ中に入ってみた。窓の外の景色を見ると、家か揺れているようだった。直ぐにでも崩れてしまうようで、冷や伶やしで肛門かびくっぴくっとこそばい。もっと居ることが出来ずに、直ぐに出でしまった。

誰が、どの時代にこんな酔狂な家を建てたのか、そして、空中に浮かんでいる家に、どうして窟という字を付けたのか、謎だが、さしずめ、どこかの僧呂が

危ない場所で生死を超越する修行の目的で建てたのだろうと想像してみた。

普徳窟を過ぎ、しばらく下りて行くと、傾斜地が終り平地になる。その平地に長安寺があった。境内に入ると広い庭だ。運動場のような大広場である。周りには巨大な建物が立並び、お寺なのか宮廷なのか区別が出来ないほどだった。

私が長安寺で受けた印象は、ただべらぼうに大きいと言う事だった。長安寺は

我国で屈指な寺だ。なぜ、この深い山中にこんなにまでも巨大な寺を建てだのか? 恐らく全盛期には数千名の僧呂が居たのだろう。長安寺で案内員と別れた。案内員は、我々が来た道を戻って行った。

金剛山電気鉄道は、鉄原と内金剛を連結する民間鉄道だ。この鉄道は当時としては唯一の電鉄だった。鉄原から内金剛に行こうとすれば、断髪嶺を越えねばならないが、世俗の縁を断ち仏門に帰依することを決心して、金剛山に入山する人は、この嶺の頂で、自らの誓の為に剃髪をするということで有名な、非常に険しい嶺だ。 

列車は、前に行ったり後ろに行ったり、'之'の字の進行だ。山が余りにも険しいので、真っ直ぐに行けないで、行ったり来たりしながら前進する。上がって行く時も下って行く時も用心深くゆっくりと動く。山を下ると鉄原平野だ。ばっと開けた野原では、秋の取り入れの真っ最中だった。2泊3日の金剛山旅行を終えて、夜行列車で帰って来た。当時では、夜行列車を利用すれぱ、時間だけでなく経費も節約できた。


 
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懐かしの歳月

 1月1日の夜光鬼神


元日の風俗は、ソウルだけでなく全国どこでもほとんど同じで、韓国、中国、日本の東洋三国は互いに類似点が沢山ある。


l月元旦

l月1日は最大の名節(重要な年中行事の行われる日)だ。家族全員が朝早く

起き、洗面をして、新しい衣服に着替え、チャレ(茶礼=民族的な節日に行う簡単な祭祀)を取り行う。茶礼は、別名、名日(節日や祝祭日の通称)祭祀ともいう。茶礼膳には御飯は用いず、雑煮を用いる。献酒も忌祭では三杯献だか、茶礼は単杯(祭礼では、三献するところを一度ですませる杯)だ。茶礼が終われぱ雑煮を食ぺ、まず父母に歳拝(新年の挨拶)を差し止げる。ところで茶礼には順序がある。 田舎のように、一つの村で身内(同一高祖、8親等間)が一か所に住む場合には、宗家(本家)に行き、まず茶礼を行う。そして祖先の順位に従って、順序通り場所を移っで行き、祭事をすることになる。それで末子系の一家は最後に祭を行う。歳拝は、身内の目上の人を訪ねて歩き、御辞儀をし、徳談(幸せを析る言葉)をする。歳拝の客を迎える家では、酒肴のもてなしをする。子供達にはお年玉を与える。子供達にとっては一年中で最も嬉しい日だ。御辞儀さえすれば、お金が貰えるのだから。お年玉が幾らになろうと大人は干渉しない。それで、嬉しくなるぱかり・・・。目上の人のいる家には、漏らさず歳拝に行かなくてはならない。これは礼儀だ。 日本人は茶礼もなく、

歳拝もない。雑煮は食ぺる。日本の雑煮は、白米の餅でなく糯米の餅だ。だからインジョルミ(餅を丸めないで、平に伸ばしマッチ箱位に切って、まぷし粉をつけた餅)の汁だ。日本の雑煮は、肉も実もない。インジョルミの味噌汁だ。

韓国の御雑煮は白米の餅を(白餅と言う)丸型に長く伸ばしたのを斜めに薄く

切って肉を入れて作る。似て同じからずである。

お正月は1月1日から1月15日までの期間だ。歳拝も必ず1日に行うということにかぎらず、お正月の期間を越えなけれぱよい。元日の朝には、福チョリ(その年の福をもたらすと言われ、元日の夜明けに売り歩く取っ手のある小笊。磨いだ米をよなげる時に使う)売りが歩き回った。'ポクチョリサーリョ!ボクチョリサーリョ!'と、叫びながら歩き回ると、どの家でも1個づつ買った。福チョリは、竹を薄く剥いで、三角形に編んで作ったものだが、米をよなげる時に使う道具だ。米をよなげるということは、御飯を炊く時に、米に混ざっている石を選り出すことだ。昔は精米技術が不足し、米に石が混ざっていた。女達は御飯を炊く時、石が御飯に入らないように丹念に米をよなげなくてはならなかった。万一、舅、姑や他の家族が御飯を食ぺていて、石を噛めぱ、ちょっとやそっとの心苦しさではないからなぁ ! !

石を選り除くには、色々な方法があるが、チョリを使うのが一番手安く確実だ。

婦人達には、チョリは極めて大切な道具だ。それで、年の始めの元旦にチョリを買込む事は意味の有る事だった。

元日の夜には、夜行鬼神が歩き回る。人間の家にこっそり入って行き、靴を履いて見て、足に合えば履いて行く。元日から靴を盗まれたら、どんなに縁起の悪いことか?それで予防をする。夜光鬼を防ぐ方法として篩を掛けておいた。

夜光鬼は好奇心に富む鬼だ。こいつが靴を盗みに来て、篩を見て'これは妙な形をしたものだな。どうしで穴がこんなに多いのかな?どれ、幾つあるのか数えてみよう.'といって、篩の穴を数え始めるが、篩の穴は、もともとぎっしりと多いので、時間が経つのも知らずに数えている中に、夜が明けてしまう。夜が明ければ、すべての鬼共は居ることが出来ない。'アイゴ、大変なことになった。'といって逃げてしまう。鬼神の心理の把握まで、このようにやったのだから、我々の祖先達は正に鬼神だね。

 
藁人形かプロムを下さい


三災厄払い

三災とは、風災、水災、火災を言う。三災は誰にでも9年ごとに訪れ、3年間運命に影響を与えて去る。

己、西、丑年生まれはーーー→亥、子、丑が三災

申、子、辰年生まれはーーー→寅、卯、辰が三災

寅、午、戌年生まれはーー一→申、酉、戌が三災

亥、卯、未年生まれはーーー→巳、午、未が三災

初めの年は'入る三災'、次の年は'留まる三災'、3年目は'出る三災'という。三災の気も、発生→全盛→衰退のように変化するということだ。

予防法として護符を貼り付けたが、護符は、白紙に朱砂で鷹を3羽描いたものだ。その護符を壁か天井に貼れぱ、三災が入って来て'驚いて逃げ出す'

(信じようと、信じまいと)。

トッナル

1日(ついたち)から、最初の卯の日をトッナル(ウサギの日)といい、この日だけは、朝、男が表門を開けなくてはならない。この日、紡いた糸は、トッシルと言って、この糸で作った服を着ると長生きするという。暦法の糸であるトッシルは、貴重なものなので、娘や嫁に分け与えもする。

テポルム(陰暦1月15日)

正月テポルムには、14日から行事が多い。

直星(人の行年によって、その人の運勢を受け持つという九つの星)がある年(厄年という意味)は、すなわち、

男子=11歳、20歳、38歳、47歳、56歳

女子=10歳、19歳、28歳、46歳、55歳。

直星のある人は、1月14日にサルプリ(厄払い)をしなくてはならない。

サルプリの方法は、藁人形の腹の中に米や、お金を入れて捨てる。他の人がそ

の藁人形に入っている米かお金を取り出すと、危運がその人へ移って行くので、厄運を免れる。それで、14日の夜には、子供達が'藁人形かプロム(年中おできの出来ないようにと、陰暦1月15日朝に、子供達が噛む栗、胡桃、南京豆等)を下さい。'と叫んで歩き回る。

その声を聞いて、藁入形を与え、プロムも与える。子供達は藁人形の腹を開けて、その中に入っているお金を取り出して持って行く。子供達は算盤が合ったと喜ぴ、厄神は天真爛漫な子供達に取りつくことも出来ず、こっそりと他所に行ってしまう。韓国の厄神は性根が善良だ。14日には五穀飯(五種の穀物で炊いた飯)と五色山菜を食ぺることになっている。山菜とは山野で採取した、蕨、桔梗、コビ等を言う。この風俗は畑の穀物と山菜のお祭だ。楽しく食べ、隣りに配りもする。分けて食ぺ合うのも楽しい事である。暮し上手の婦女子は

予め山菜を採取して、乾燥して貯蔵して置いて、野菜の希な冬に食べる。

15日の朝には、目を開けるやいなや、プロムを噛む。プロムは栗、胡桃、松の実のような外皮が固い実をいう。固い皮をがりっと噛めば、一年中おできが出来ないという。男の大人は、朝、酒を一杯飲む。これはクィバィギ酒(旧暦1月15日の朝、耳が良くなるようにと飲む酒)を飲む。15日は、お正月が終わる祝祭日だ。中国では元宵節という。ところで、楽しくない人(?)がいる。15日は犬には飯をやらない。人間達は良く食ぺ楽しいが、犬は飢えなくではならない。これも風俗だ。それで'犬が節句を過ごすようだ'という言葉が生まれた。夜は月見をする。子供達はチュイプルノリ(正月の初めの'子'の日に農家で鼠を追い払うという意味合いで畦道などに付ける放火)もする。踏橋(陰暦1月15日夜、橋を踏み、その年の邪気を徐くこと)といって、

橋(タリ)の上を行ったり来たりする。そうすると、足(タリ)が丈夫になっで、千里の道を行っても足の病気が出ない。昔は神妙なことも多かった。



正月の占い

お正月には占いを欠かすことが出来ない。人間が未来の運命を知りたく思うのは本能だ。東西古今その方法は違っても目指す目的は同じだ。占う方法は色々とあるが、大きく三つに分けることか出来る。

第1は、陰陽五行説に基づいて、金、木、水、火、土、五行の相生相剋の原理で解釈をする、四柱、観相、手相、骨相、星占、土亭秘訣(一年の運勢を占う暦)などかこれに属する。

第2は、理論的仮説を一切無視して、霊感に依存する方法、すなわち巫女、盲の易者などだ。

第3は、易経に基づき、筮竹をゆすって引き抜くことによって、乾、坤、坎、離などを選んで、吉凶を判断する方法で、偶然を占いの要諦とみなす。亀ト、

鳥占が、この部類に属する。道を行き来してみると、東洋哲学とか、ΟΟ道士とか、ΟΟ神占とかいう看板を見ることがあるが、このようなものは、人の関心を引くための宣伝に過ぎず、哲学でも科学でもない。四柱は一生の運勢を概観し、星占いはその年の運勢を見るものだ。生年の干支、生月の干支、生日の干支、生時の干支を四柱という。干支は五行に分類されるが、例を挙げると次の通りだ。

十干:甲、乙は木。丙、丁は火。戊、己は土。庚、申は金。壬、癸は水。

十二支:亥、子は水。卯、寅は木。巳、午は火。酉、申は金。

丑、辰、未、戌は土。 

このようになるが、彼らは此れを哲学だ、科学だと主張する。

要するに占いは「当るも八卦、当らぬも八卦」が、真理であろう。

結婚する時には四柱単子を送るが、これは新郎の生年、月、日、時間を五行で表示し書込んだ紙だ。新郎の四柱と、新婦の四柱とを対比してみて、吉凶を判断する。即、相性を見る為のものだった。五行で吉凶を見るのは、次の相生相克の原理を適用する。

金生水(金は水を生じる)    火剋金(火は金に勝つ)

水生木(水は木を生じる)    金剋木(金は木に勝つ)

木生火(木は火を生じる)    木剋土(木は土に勝つ)

火生土(火は土を生じる)    土剋水(土は水に勝つ)

土生金(土は金を生じる)    水剋火(水は火に勝つ〉


中国人は連綿と数千年にわたり、この陰陽五行を絶対的真理と考え、人間の運命もこれによって糾明しようと努力して来た。神も人間を予側することは出来なかったようだ。人間も小さな神なので。

庶民達か新年に最も多く見るものは土亭秘訣だ。土亭秘訣は誰でも見ることが出来、広く普及していて、お金が掛からない。土亭秘訣によれば、ずっと昔、我々はやらなければならないことも多く、禁忌することも多かった。科学の発展とともに、次第にその重要性が弱まってはいるが、まだ我々の民俗には守らねばならないことも、禁じなければならないことも多い。伝統を守ることは非常に重要だか、民俗だといってやたらに守ることよりも、不必要なことは果敢に捨てる勇気があってこそ、発展することが出来る。四柱の書物を見ると、色々な'殺'が沢山ある。数百種類になる。禁忌も多い。東方に行くな。西方に行くな。木姓(五行の木に属する姓=金・高・朴・崔など)と付き合うな。金姓(五行の中の金にあたる姓〉と取引するな。こんなことは脅迫だ。脅迫に負けるのも良くないことだし、ロ車に乗るのもやめなくてはならない。西洋では星占、中東では砂占、東西古今、占がない所はない。

 

正月の遊び

元且にはお年玉をもらって子供達のボケソトは分厚い。おなかも一杯だ。次は面白く遊ぷ番だ。子供達はお年玉で、凧、こま、癇癪玉、めんこ等を買う。

凧上げ

正月の遊びの中では凧が断然王様だ。凧の中でもパンペヨン(四角形で中央に

穴があり、尾を付けた凧)が第一だ。パンペョンは、上、下、左、右の機動カが優秀なのが特徴だ。凧上げはお金も沢山掛かる。それは、凧糸が凧の生命であるため、丈夫で軽い糸を買わなくてはならないからだ。凧糸は軽くて強くなくてはならない。今はナイロン糸があるが、昔はナイロンはなかった。それで絹糸が最適だがとても高いので、子供達の遊びには合わなかった。従って木綿糸を多く使ったが、その中で質の良いのがミシン糸だ。ミシン糸一巻さえあればよい。糸をそのまま使ってはいけない。子供達は瀬戸物のかけらを砕いて、きれいに粉を作り、鰾(魚の腹の中にある浮き袋で、魚屋で売っている)を沸かして、そこに瀬戸物のかけらの粉を入れ、よくかき混ぜ、冷める前に糸に糊を染み込ませる。鰾は接着カが強く、冷めても柔軟性を維持してくれるからだ。次は糸枠だ。糸を糸枠に巻き、凧を結ぺば準備完了だ。凧は、丘か野原で揚げなければならない。家の近所では、凧が電線に掛りやすいから、広い所に出て行かねばならず、周囲に大きな木があってはならない。凧上げに良い場所には、当然、凧揚げの連中が集まるようになっている。各自が秘蔵の技術で凧を揚げるが、浮かぺるだけでなく、'凧争い'をするようになっている。またそれが凧の妙味だ。自分が凧を揚げていて、外の人の凧が見えれば、凧を操縦してその凧を追い掛ける。そして、糸が互いに行き違いに擦れ合うようにして摩擦させる。そうすると、弱い方の糸が切れる。'糸の切れた凧'という言葉もあるように、糸が切れた凧は、風に乗ってどこかに飛んで行く。勝った方では意気揚揚で、負けた方では凧を亡くし口惜しがる。抗議することも出来ない。それが慣例だ。糸が切られ飛んで行った凧は拾った人の所有になる。瀬戸物のかけらに鰾を染み込ませたのも、他の糸を容易に切るための方法の一つだ。普通の糸と、瀬戸物のかけらのついた糸とを擦ると、普通の糸が切れやすいのは当然だ。しかし、また、凧を操縦する技術が上手であってこそ勝つことが出来る。凧争いは糸枠で行うが、巻く手、解き手、または、ばっと放つ等色々と技巧がいる。凧の喧嘩は、他の凧糸に自分の凧糸を掛けると同時に、凧糸を続けて動かし、相手の凧糸の一個所を擦りあげるようにするのが要領である。そういう技術を会得するには相当な場数を踏んで経験を積まねばならない。凧の動きを見れば凧主の腕前を察する事が出来る。不利だと思ったら逃げるしかない。
三十六計逃げるが第一だ。

こま回し

こま回しは最も簡便な遊ぴだ。こまと、こまの鞭だけあれば、何処であろうと楽しむことが出来る。鞭は、棒に紐を縛り付けれぱよい。独楽は、おもちや屋で売っている鉄で作った物もあるが、朝鮮こまが一番よい。朝鮮独楽は、木を削って作ったものだ。木は、斧折、欅、楢樫等、堅い木がよい。重たくて遠心カを経持するのに有利だからだ。こまは先が容易にすり減る。先が純くなると、摩擦を多く受け、回転カが弱まるので不利だ。それで、暫く使った後で、先にボールベアリングの球を打ち込んで使った。こまは何処でも回すことが出来るが、凍り付いた水溜まり、池等が最高だ。独楽でも喧嘩をする。こま喧嘩は、二個のこまを互いにぷつけるようにして、先に倒れる方が負けだ。独楽争いは負けても別に被害はない。

ユッノリ(擲 木ヘン四)

ユッツは蒲鉾型の木の切れである。4個一組で、此れを投げて半球の面と、平な面との数で駒を進める、双六、ベッカンモンに似た物である。

ユッノリは韓国にだけある最も韓国的な遊びだ。ユッノリを知らない韓国人はいないのだ。ユッノリは多くの人が一緒に楽しむことが出来る良い遊びだ。正

方形に対角線を描いたユッ盤があって、ト、ケ、コル、ユっ、モに、1から5までの点数が割り当てられでいる。ユッとモが出れぱ、もう一度投げるブレミアムが与えられる。ユッノリ盤で、出た点数だけ駒を進行させるが、駒の進め方によって勝敗が分かれることもあり、スリルもある。ユッノリは、家族同士、隣同士、友達同士での遊びだ。我々の民俗遊戯は賭博性がないのが特徴だった。しかし、日本文化が入って来るにつれて花札が盛んになったが、韓国の遊びは

金を賭けることはなかった。商品は与えるが、金を賭けることはしなかった。これは我々の美しい伝統だ。

チェギ蹴り

チェキは、葉銭(真鍮で作った昔の金。中央に四角の穴がある)に韓紙(和紙と同じ)を巻き、葉銭の穴に通して捩り、細く裂いて作る。チェキは作るのも易しく、面白くもある。チエキを足で蹴り、上がって落ちるのをまた蹴る。

熟達すると何十回でもうまく出来る。誰が、落とさずに回数を多く蹴るかが賭けになる。チェギ蹴りは、年中いつでも時を選ばなかった。時期を選ばない遊びは、チャチギ(地面に寝かした短い木の棒を、少し長い棒切れで打ち飛ぱして、その距離の長短によっで勝負を決める遊び)、めんこ、ビー玉などかあり、女の子達は縄跳びを好んだ。


板跳び

板桃びは、女達、特に娘達の遊びだ。10〜12尺位の長さの厚板の下に、藁束か筵を巻いて中心点に置き、両方の端に人が立ち、一方の人が跳躍して落ちる落下力を加えて足でどんと踏みならすと、その反動力で反対側の人が跳び上がる。サーカスでよくやる跳躍台と同じである。

チマの裾が風に飛ぱされて、はだけるのを押さえるために腰を紐で括る。色とりどりの新しい衣服で身じまいをし、長く垂らした髪に、赤いテンギ(弁髪の先に付ける布や織)を風になびかせる姿は、まことに美しい我が国土の風景だ。


 残りの11か月


2月

正月に十分遊ぷからか、2月には一般行事はない。1日は大掃除の日だ。家の内外を清掃する。最初の丁の日には文廟で祭礼を取り行う(春期文廟釈奠)。文廟は、孔子を祭った祀堂だ。文廟の釈奠は成均館で行う。

3月

3月になると春だ。'春三月好時節'という言葉があるように、3月は万物が生動する時だ。3月3日には、花煎(糯米の粉・小麦粉・黍の粉等を捏ねて平たくし、花弁をつけ、フライパンで焼いたもの)を焼いて食ぺた。春の花煎は、つつじの花で作る。そして、花麺を食ぺる。花麺とは、緑豆の粉で作った麺をいう。息子のいない人は、この日、男の子が生まれるように神仏に祈り、死んた日付が確実でない人は、この日に祭祀を取り行う。日本では"お雛祭"である。寒食は、冬至から105日目になる日で、この日は子孫達が祖先の墓参りをして祭祀を行い、墓の雑草を刈ってきれいにし、墓を見回る。

4月

4月8日は、お釈迦様の誕生日だ。信徒達は寺に行き供養をする。夜には、燈夕といって、提灯をともし寺の庭に吊して置く。燈タは仏様の功徳を析り幸運を析る表示だ。提灯には家族の名前を書いて、火の良否を見分けて、その年の吉凶を占いもする。

5月

5月5日を端午といって、地方によっては、正月の次の大きな名節と見なしもする。端午に、女達は菖蒲をたいた水で髪を洗い、菖蒲の根を削っで簪として髪に挿す。女はブランコに乗り、男達は相撲を取る。端午の節句には、朱砂で辟邪文(邪鬼をしりぞける書き物)を書き、護符とする。日本では明治維新以後、3月3日は太陽暦3月3日に、端午は太陽暦5月5日に、陰暦を太陽暦に変えて3月3日は女児の節句、5月5日は男児の節句としている。

6月

6月15日は流頭という。新羅の風俗では、この日、悪いことをすっかり払い落とすために、東方に流れる水で頭を洗ったという。

7月

7月には、梅雨が過ぎた後なので、蔵書や衣服を外に出して、天日に曝して乾かす風俗になっている。7日は七夕だ。この日の夜は、天の川を隔てて向かい合っでいる牽牛星と織女星が最も近くて逢うという日だ。恋人達である彼等は、玉皇上帝の判決で、天の川を間に置いて、互いに離される罰を受け、離れて逢うことが出来ずにいるが、七タの日だけは、鴉たちが互いに嘴で尻尾をくわえて橋を架けた、烏鴉橋の中間地点で逢って、懐かしい想いを晴らすという、物寂しくも浪漫的な伝説が伝えられている。7月15日は百中だ。干蘭盆会という仏教の祭日たが、風俗化されている。百中は死んだ人の霊魂を慰める日として、それなりの形式に従い祭祀を行う。日本では、太陽暦で7月15日を'盆'といって、1月1日とともに、二大名節と見なしている。ところで、この盆というのは于蘭盆会の略称だ。

8月

8月15日は中秋といい、一年中で最も良い名節だ。8月15日は寒くもなく暑くもなく、天気は澄み渡り、山野には五穀と百果が結実する心暖まる季節だ。特に農民にとっでは、田畑で実って行く穂と、木の枝にふさふさとぷら下がった五色の果物を見ると、春、夏、流しつづけた汗が報われる時であるだけに、喜びと満足感も一層大きいのだ。新しく取り入れた殻物で、神様と祖先に感謝の祭を取り行うことも当然だと言えるだろう。朝は祖先の祭を行い、昼ば墓参りをし、タ方は月見、風楽(韓国固有の、昔からの音楽)遊び等をする。新羅では、宮中で機織競進大会を開いたという記録もある。

9月

9月9日は、重九、重陽等といって祝日とするが、これは中国で盛んに行われる風習であり、我か国では秋の取り入れに忙しい時で、8月に十分祝ったから重複するので、特に変わった行事はない。9月9日には燕が江南に帰って行く。

10月

10月は、上月(新穀を神に供えるのに一番よい月の意味)という。10月は時祭を行う月だ。高祖までは家で忌祭を行い、その上の代の祖先は、一年に一度、墓所または祀堂で祭をするが、これを時祭という。

11月

冬至は、子午線が最も長い(太陽高度が最も低い)日を指す言葉で、太陽暦では、いつでも12月22日が冬至だ。冬至には小豆粥を食ぺる風習がある。

12月

12月は一年の最後の月だ。漢字では臘月とも書く。12月の大晦日には、ムグン歳拝(古い歳拝=大晦日の夕方、その年を送る挨拶を目上の人にすること)をする。守歳といって、子時(夜11時〜1時)になるまで眠らない。

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