第2部 郭公が鳴いていたソウル


アリラン峠だ 停車場建てて

電車の来るのを 待っている

電車は行くよと スイッチ入れるが

あの子が縋って 涙をほろり

南山の麓に 奨忠壇を建てて

軍楽隊長の音頭で 棒げ銃

アリランアリラン アラリヨ

アリランアリラン 遊んで行こう


――― ソウルアリラン打令より ―――
 
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北清 水売り・北村 水売り


ソウルは水が貴重だった。日本人の家には、すべで水道があったが、朝鮮人の家は、水道のない家が大部分だった。

"日本人は文化民族なので水道が必須だが、朝鮮人の家庭にまで全部水道を設置するには予算がとても足りない。逐次拡大して行くから、それまで待て。"こんな口実だったのだろうと想像される。朝鮮の家庭では、井戸水と共同水道を利用した。ソウルには、水質のよい井戸が沢山あった。しかし、人口が増えるに従い、水質が急速に悪化し、飲料水としては適合しなくなった。井戸水は使い水として使い、飲料水は共同水道から汲んで飲んだ。共同水道は、利用に便利な5,6坪程度の空地に設置したもので、まるで消火栓のように水か多量に出る。共同水道は、個人が許可を受けで自分の金で設置し、水の料金を貰う、水の小売商というわけだ。1チゲ当たり、どれだけの金を貰ってもよい。水を売った金で水道料を払い、残りは主人の所得だ。安全で楽な商売だ。

水は'水チゲ'で運ぶ。水チゲは、背中に当るほどの板の両方に担ぎ紐を通して、長い棒を固定させ、両端に吊るし鉤を掛けた簡単なものだ。その鉤に水を入れた石油缶を掛けて背負うのだ。だから、水一チゲは、石油缶二つの水という事になる。

北村には金持ちの家が多かった。北村に大きな家を構えて住む人達は、大部分が旧王朝の宮吏すなわち両班達だ。彼等は、ほとんどすべてが地方に大きな領地を持っている大地主だ。(先祖が王様から貰った領地を代々世継ぎし、日韓合併後、自分の名義に登記したのである。)領地の小作人達に、肥料を前貸しする為に買って送る化学肥料だけでも、毎年数百トンに達するほどの者が多かった。過去暫くの間、大統領を務めた某貴族もこうした大地主の一人だった。

奴婢は影を潜めて永くなったが、大地主達の家には、針母(縫女)、饌母(料理女)、乳母などが居、その他に、面白い職業(?)として、住込み家政婦と言うものが居た。これは、主人の家の玄関脇の部屋、一間を借りて使う代りに、女が下女を務めるのだ。男は自由に外で働いて生活費を稼ぐ。つまり家賃代りに女が下女の勤めをするシステムである。

そんな家では、水売りから水を配達してもらった。水を配達してくれる水売りは正確に毎日欠かさず水を配達しなければならない。その家にとっては重要な存在である。水は、一日たりともなくてはならない重要な必需品である為、安定して供給されねばならない。それで、長期契約をするようになる。水は、饌母の所管であり、饌母と水売りとの関係が旨くいってこそ、水を心置きなく使う事ができる。饌母は、水売りに食べ物を提供したりして付合っているが、主人は見てみぬ振りをしてやる。水売りと饌母は、そんな持ちつ持たれつの関係に有った。水売りは誰でもやる事が出来た。体が健康で、労働をいとわない人、そして、真面目で、責任感が強い人が望ましかった。その、多くの水売りの中、北青水売りが、とりわけ有名だった。彼らは真面目一方で、勤勉で、大概独身で暮し、数ヶ月働いては他の人に引継ぎ、去って行った。誠実で信用も有り、お得意の評判も良く、酒も飲まない、賭博もしない、女にも目を呉れない。ただ黙々と働いては去って行くのである。一般の人には謎の働き手であった。

私が調べた秘密は大体次のようなものであった。

北青と言う所

北青は咸鏡北道北青市であるが、この北青という所は歴史的な特徴が有る。
昔、政変が起きると必ず処罰される者と、出世する者とが出てくるが、罪人は総てが高官の地位に有った者達で流刑が多かった。北青は北方の流刑の地だった。流刑はつまり、居住地の制限が特徴である。北方に流された者は、"北青から南には足を踏み入れてはならん"というのが規則であった。北青はつまり、北方に流刑された者の南方境界線であった訳だ。

北青の雰囲気

北青は土地の荒い小さい漁村である。そこえ、都からは士族の流刑者を送ってくる。一旦来た者は帰れない。自然積ってきて、原住民よりも数が多くなるが、彼らは元々士族なので漁師や商売人にはなり難い。士農工商の時代なので幾らかの土地で畑を耕すのが関の山である。然し、知識は高く、子孫えの教育熱はとりわけ強かった。代を重ねるにつれ土着化してはいるが先祖からの伝統は引継がれるのである。
20世紀に入り、新文化の波が韓国に流れ入るや、辺鄙な北青では子孫に教育を受けさせる為にはどうしてもソウルとか、東京あたりに、留学をさせるのが必須であるけれども、財源が無いのが難題であった。


北青、水売り誕生。

村の長老会議は研究を重ねた結果つぎのような決議をした。

学資の調達の為水売りを始める。

村の男のうち、丈夫な者を数人選抜して、ソウルに派遣し一定期間、水売りをやらせる。

派遣された者は、一生懸命稼いで食費を除く全額を村に送る。

村は共同で派遣者の畑仕事や、家事の面倒を見る。

期限が来たら他の者と交代させる。

奨学金の給与。

村の学生の中、成績が良く将来性がある、有望な学生を選抜し、ソウルや東京などに留学させ、その学費を、全額村で援助する。

北青の水売りが、ソウルで活動した経緯は、大体以上の通りである。
 
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"薪割りっ!"

朝鮮人は暖房をオンドルに依存する。しかし、日本人達は、オンドルの代わりに、部屋の床面に'たたみ"を敷き、"こたつ"という暖房器具を置いて住んだ。こたつは、たたみ半畳を取り外し、板の間も打ち抜いて、そこに火炉を置き、その上に角材で30センチの高さの枠を組み立て、大きな掛け布囲を被せておくものだ。人は掛け布囲の中に足を入れ、四方を囲んで座る。こたつは、大きな部屋に一か所だけあっで、寝る時は、家族全員が、こたつに足を突っ込み一緒に寝る。文化的に良い風景ではない。中国人達は、寝台くらいの高さと広さでオンドルを作り、ここを"カン(坑)"と呼ぶ。カンには焚き口があって、無煙炭を焚く。良く暖まったカンに、たわって寝る。これらと比較して、オンドルは文化的で、理想的だ。ただし、燃料が沢山要るのが欠点である。

薪は、主に清涼里駅を通って沢山入って来た。清涼里駅と往十里駅の間に、広い薪野積場があったが、そこがソウルの薪市場だ,薪を売買する単位は'坪'(6尺立方)だ。薪を横に一列、縦に一列、きちんきちんと重ねて積み上げ、6尺くらいの高さになると、それが1坪だ。薪は松たが、良し悪しがあって、質によって値段も異なる。一所帯当たり、普通、一冬で10坪乃至20坪の薪を焚くことになるので、ソウル全体で見ると、薪の消費は莫大な量だった。冬には、家ごとに軒下をぐるっと巡って、薪を積んで置いた。冬を過す準備の中で、漬け物と薪の準備が最も重要だったが、薪だけ買って置いても、すぺて終わったのではなかった。うまく燃えるように小さく割らなければならない。薪の良し悪しは、ここで区別される。木目が良く、乾いた薪は、容易に割れ、火カも強い。木目が悪く、乾きの悪い木は、割るのにとてもカがいる。薪を割る作業を、薪を'ペグ(斧で割る〉'という。家庭では、婦女子達が薪を割ることは、手に余る作業だ。それで、薪割りに歩き回る人がいた。かなりカ持ちのように見える壮丁が、肩にかなり大きい斧を1丁背負って、"まきわり!"と叫び、路地から路地へと歩き回る。薪を買って置いただけで、まだ割っでいない家では、そんな人を呼んで使う。人夫は金儲けをして良く、家庭では楽で良く、相互扶助だ。
 
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郭公が鳴いていた南山

ソウルには四大門と四小門があった。四小門の中の一つに'シグムン(水口門)'があった。誰でも、漢字の発昔であるスグムンとはいわず、シグムンという。水口門の中は光熙洞で、水口門の外は新堂洞だ。城郭は、奨忠壇と薬水洞の境界を成し、南山に続く。水口門は、一言で死体の出入口だったという。朝鮮時代には、常民(平民)達や囚人達の屍は、ここ屍口門を通ってのみ城外に出ることができたようだ。水口門の外は火葬場と共同墓地があったという。30年代には既に無くなっていたが、新堂洞の一部の区域を、まだ火葬場と呼ぷ人達がいたことから見て、火葬場があったことは事実のようだ。実際に、家の敷地を平らにならしていて、人骨を掘り出したという話を沢山聞いた。

新堂洞一帯には野菜畑が多かったが、中国人の野菜農民達も相当数いた。特に南山の方では樹林が鬱蒼としていて、四季、鳥の鳴き声を聞くことができた。その中で、ポツクグ、ボッボッククという郭公の声か印象深かった。その当時でも市内では滅多に聞けない声だった。

漢江の向こう側のマルチュク通りでは、唐幸子農が多く行われていた。それで、秋、漬物を漬けて貯蔵する時には、生産地のマルチュク通りまで、唐辛しの買出しに出向いたものだ。ところが、それは容易な道のりではなかった。現地まで行くには漢江を渡し船で渡らねばならぬが、その前に、薬水洞から渡し場まで行くには、狭い谷間の峠道を越えねばならないが、ボト峠と言うこの峠道は、険しい山道で昼間でも辻強盗が出没する恐ろしい道筋で、ここを通過する時は鳥肌が立つほど緊張するのであった。その峠の頂上に、ポト薬水という薬水があった。水の味が良いので有名で、峠を越えで行き来する人は、誰でも休んで薬水を飲んだ。薬水洞という洞名も、そこから生まれた。ずっと後になって、現在のような広い新道に変ったが、薬水があった場所に'ボト薬水跡地'という石碑を建てた。文化洞から東の方に行ってみると、小さいトンネルがあった。トンネルを出ると現れる所が、即ち水鉄里という所だ。この水鉄里は、トンネルを過ぎてから江辺までの地域で、純ハングルではムスマクといった。ここは桃の木が多かった。今の改良種の水蜜桃ではない、シンドウ桃という在来種で、肉が堅く、若干酸昧があり、虫が多かった。みんなは笑いながら、桃の虫は食ぺても構わないと言ったが、どうにも・・・。ムスマクには長安寺という小さいながらも有名なお寺があった。ムスマクの川向こうは狎鴎亭洞である。
 
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風美堂の菊花パン

我家の隣に書堂(寺小屋)があった。
私は6歳の時、書堂で千字文を学んだ。所謂読み、書き、手習である。其の年、千字文一巻をテッタ。テッタと言うのは、学び終えた、終了したの意味だ。試験は、本を初めから終りまで暗誦し、逆に、終りから初めの行まで暗誦する事だ。暗誦さえ間違いなくすれば、合格で本一巻をテッタ事になる。

本をテッれば、合格した子供の家では、餅を搗いて書堂に持って行く。自祝の意味と、先生に対する感謝の表示である。餅を皆に奢る事によって子供心にも満足と誇りを覚えるのだ。ところが家では餅を作る気配が見えないのだ、私は拗ねて物も言わず、ふくれていた。父母はそれを見兼ねたのか、3日ぐらい後に餅を作って呉れた。その時は嬉しかった。子供は仕方がないものだ。

千字文の次の段階に進む頃、書堂が方向転換をする事になった。つまり、漢文教育を止めて、新学問(国語、算数など)を教える事に発展したのだ。名前も

同和学院と名付け看板まで掲げた。お蔭様で、私は小学一年生になったのだ。

同和学院は、部屋が二つだった。一つは教室、後の一つは事務室兼先生の住いだ。一学年から四学年まで一つの教室で学ぶ粗末な学校だった。運動場のような贅沢なものは勿論ある筈が無い。私は、この学院で4学年まで学んだ。

5年生に上がる時、学院から、他の学校へ推薦してくれた。訪ねてみると、学院ではない、学校だった。ウワー! 正式に認可を受けた堂堂とした学校だった。たとへ公立学校には及ばないが、私立学校でも1学年から6学年まで、教室が別であり、講堂も有り、運動場も有った。運動場の隅には鉄棒台まで有った。いまや、本物の学校(学校らしい学校)に通えるようになったな、と嬉しかった。編入試験も無難に通過し,5学年に上がった。

5学年からは、国史と地理の科目が追加された。国史という科目は、日本を主とした日本歴史だった。公立学校では、日本人教師が多いというが、その時、この学校には、その年始めて日本人教師1名が割当てられたとの事だった。性格が割におとなしい人で、個人的には好感が持てる先生だった。

1930年のソウルの学園街は物騒がしく、混乱していた。前年の1929年に光州学生事件が起きた。この事件は、通学列車内で、日本人学生が集団で朝鮮人女学生を苛めた(今で言えば'セクハラ'かな?)のが発端だった。これを見ていた朝鮮人学生が激怒して喧嘩になり、それが反日民族運動に拡大したものだった。

光州の火の手は全国に広まり、翌1930年には、ソウルの学園街を沸きだたせた。我々の学校は、たとい小学校であっても、事実、書堂よりは少しましな程度の学校なので、その時でも、年を取った学生が多かった。私だけが11歳で、17,8から20歳までいて、中には結婚した大人の学生も居たものだった。5学年の我々の班では、休憩時間にも運動場に出ずに、中央高等学校、徽文高等学校、養正高等学校などの名門校を初めとした朝鮮人高等学校で連日起きる同盟罷業(デモ)の話と、此れに対応する警察の弾圧の話等に花を咲かせた。

そんな話の中に、風美堂の菊花バンの話が時折り出た。美味しいという話だ。我々の学校から鐘路の方に行こうとすれば、橋を渡らねばならないが、その橋が水標橋だ。水標橋を渡れば貫鉄洞だ。真っ直ぐ行けば鐘路通りに出るが、その前の左側に優美館という映画館があり、優美館の向い側に風美堂があった。風美堂はうどんと菊花バンが専門メニューだった。

菊花バンはバンとは言うものの、本当のバンではない、いわゆる'糊バン'と言うもので、菊の花の模様を彫った型に、メリケン粉とベーキンバウダ等を、水で薄目に練ったドロドロしたものを注ぎ、中にアンコを入れて焼く。大体食べ頃になると、反対側の型を合せて、裏返して焼いたものである。その文様が菊の花の模様をしているので、菊花バンと名付けたものだ。

ほかほかの内に食べると結構美味しいものである。通り過ぎながら眺めると、ガラス窓越しに、菊花バンを焼く様子が良く見え、食欲をそそる。菊花バンは

一皿5銭、うどんも1椀5銭だ。子供達は自慢気に、パンを食べた話をするが、私は買って食べてみることが出来なかった。お金がなかったから。

そんな雰囲気の中で、1学期の期未試験を受けることになった。1学期は短い。4月1日に開学し,6月未までだ。7月には夏休みがあった。国史の科目の1学期教科は、日本の建国神話から始まるが、その中に、古代日本の女王が三韓を征伐したという所が出てくる。我々は、それは嘘の教科だと憤慨した。

"ちょうど、先輩の高等学校で連日反日デモをやっているが、我々だって傍観しているだけでいいのか。この機会に歴史の試験をポイコットしよう。"こんな相談をするようになった。班長、副班長が発意、再請し、全員が賛成した、ボイコットはどんな方法でやるのか?白紙の答案紙を出そう。名前だけ書いて、答は書かないことにしよう。私は編入生なので、他の子供達と親しくなかった。私が立ち上がり、ひとこと言った。"白紙答案を出すことは、日本歴史を認めないという我々の団結した意志を見せてやることだ。それで、もし一人でも背反者か出れぱ、我々の目的は水抱に帰する。だから、我々の意志を確約するために連判状を作ろう""賛成"このようにして連判状を作った。運命の試験の日が来た。問題を見ると、余りにやさしい問題だった。書きさえすれば百点満点は間違いないくらいだ。書く振りをして、時間の経つのを待つ。退屈を感ずる。まもなく班長が、先頭で答案紙を出した。みんなが次々と出した。答案紙を受け取った日本人の先生の表情か妙に固くなったようだった。先生は何も言わず教室を出で行った。試験は早く終わった。みんなが白紙なので・・・。

次は担任の先生が入って来た。名前は思い出せない。ただ、あだ名が'古狸'ということだげしか・・・。担任は何も知らない振りで、講義だけした。5分位すると、小使が班長を呼び出した。また教分後には、副班長を呼び出した。また教分後に一人、こうして順番に一人づつ呼ぱれて出で行った。所が、一旦呼ぱれて行った人は、帰って来なかった。半分位残った時、私が呼ばれて行った。教務室に行ってみると、正面に教頭先生が固い顔つきで座っでおり、両側に先生達が座っていた。日本人の先生の姿は見えなかった。

「姜泰遠、お前が連判状を作ろうと言ったのか?」
「知りません」
「こいつ奴」ぴしやり。頬っぺたに火花がびかっ。
「もう一度聞く」
「知りません」ぴしやり。火花がぴかっ。
「知りません」びしやり。火花がぴかっ。
「知りません」びしゃり。火花がぴかっ。
何度、殴られたか分らなかった。学級で一番のチビが、一番頑張るので、先生の方が手を挙げて、自白(?)する。
「お前、しようのないやつだな、誰がああして、誰がこうして、お前はこうして、誰と、誰、誰が白状して、全部知っているのに、知らぬ存ぜぬで済むと思うか、馬鹿者奴」
その話は、一つも間違っていなかった。既に全貌が明らかになっていたのだ。
私は心の中で悪態をついた。「意気地の無い奴等だな、図体だけ大きくて。」
全部明るみに出された以上、沈黙しても無意味だった。
「はい、先生のお言葉通りです。」と認めた。
「連れて行け」

教頭が声を張り上げた。そして、引っ張って行かれた所は講堂だったが、先に呼ぱれて行った同級生が、皆そこに居た。何時間か経った。警察署からも来なかった。日が暮れても音沙汰がなかった。私は暗くなる空を眺めて独り言を言った。 「あー、1930年よ!」 晩く、皆は家に送り帰された。

班長は停学30日、副班長は停学15日、私は停字7日の判決を受けて。

我らは、2年後卒業した。

当時、卒業生達が学校のガラス窓を壊す慣習があった。私は、こんな慣習は直さなけれはならないと思った。それで級友達に提議した。

「我々は、5学年の時、テモをした。それは民族抗争だ。しかし、学校のガラス窓を壊すのは破壊行為だ。我々は、そんな仕業は止めて、きれいに卒業しよう」みんなが同意してくれた。学校の創設以来初めて、ガラス窓を壊さず卒業する前例を作った。

しかし、菊花パンは、ついに食べてみることが出来なかった。

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ホトクと饅頭‥‥1個5銭

ソウルには中国人達が大勢いた。中国人達が集まって住む所が何か所かあった。明洞の中国大使館周辺と、観水洞一帯、そして西小門だった。中国大使館の中には中国人学校もあり、大使館の前の町には、漢城華僑協会のような団体の看板を掲げた建物もあった。中国人達が集まって住む町は薄暗いのが特徴である。中国人達の家は、煉瓦積で、入口が狭く、道路面には窓が無い。商店は看板がけち臭く、中国の商店は、みな同じだ。一言で言えば、ショーウインドーがなかった。外からは品物が見えない。それで、薄暗くならざるをえなかった。観水洞一帯は、飲食店と商店が多く、西小門も、これと似ていたが、そこには中国の私娼もいるようだった。街頭にうずくまって、こくりこくり居眠りしている人も時折見かけた。畢竟、阿片中毒者なのだろう。明洞は上流、観水洞は中流、西小門は下流、これは私が受けた中国人村の印象だった。ソウルには、中国の飲食店とホトク屋が方々にあった。

中国飲食店の看板は、千篇一律だ。中華料理という小さな文字があり、大きな文字で、何何楼と楼の字を付ける。楼は2階建という意味だ。ところが、単層の飲食店も楼の字が付いている。"漢字の国で漢字を知らぬとは"と、笑ったが、兎に角中国人は大袈裟な表現を好む民族には違いない。そして、必ず表には、漆を塗った木の板に金色で、'中華料理 〇〇楼'と書いて、上に赤い布を掛けた看板を掲げるのが慣しである。

ホトク屋は子供達が常客だった。ホトク(胡の餅)は、小麦粉を練ったものを、円く平らに伸ばし、間に黒砂糖を入れ、その上にも全く同じく練って伸ばしたものを被せ、窯で焼く。窯の形態は独特だったが、中に火炉があって、その周りに20センチ程度の幅で空間を作り、そこでホトクを焼く。その上をア一チ状の屋根で覆い、前面には小さな穴があって、ここからホトクを入れたり取り出したりする。火は無煙炭を泥土と一緒に練り、小さく固めて焚く。無理炭だから煙はないものの、臭いがひどかったが、中国人達は換気には別に神経を使わなかった。ホトクは表面が硬く、中は砂糖が溶けて液状の蜜になっていて、がぶっと噛むと、蜜が外に流れ落ち、手にも、服にもくっ付くので、私は好まなかった。私が好きなのは饅頭だ。アンコ饅頭と、肉饅頭があるが、肉饅頭が好きだった。当時の饅頭は拳を二つ合せた程大きかった。中身は澱粉で作った麺、もやし、韮、豚脂等が詰められていて、味が柔らかく、食べごたえがあった。 饅頭は中国名で"ポーズ"(包子)と言う。小麦粉を"バイメン"(白麺)と言うが、膨らませて、中身を入れたものをポーズといい、中に何も入れず、食パンみたいに蒸したものは"マントウ"(饅頭)と言う。

中国人達はマントウを食ぺる。脹らませずに、練った生地を伸ぱし、中身を入れた朝鮮式饅頭を"キョウズ"という。日本では"ギョウザー"と言うが、正確な発音ではない。我々が、普通、水鰻頭、焼饅頭というのは、全部がキョーズた。ホトグも饅頭も植段は同じだった。1個5銭。私は今でも饅頭が好きだ。

 
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賓待館の料理ビンデトク

韓国人で、ビンデトク(水に浸した緑豆を碾き臼でひき、それに豚肉、ねぎ、もやし等をいれ、平たく焼き上げたもので、小型のビッザーか、ペンケーキに似ている。)を知らない人はなく、好まない人も無い。酒肴のお膳にビンデトクが無ければみすぼらしい。食べ物を準備すると言えば、まずビンデトクを漏らす事はできない。祭祀のお供の膳にもビンデトクは必須だ。鋳物の釜の蓋を裏返して火鉢の上において使えば、お釜の蓋が最上のフライパンになる。

ビンデトクを焼く時漂う匂いが、家の中に広がる時は、涎が出てきて自然に祝宴の気分になる。最初に焼いたビンデトクは、男達に味見に持ってくる。その時に食べるビンデトクの味は実に天下一品だ。

ビンデトクはわが民族特有の食べ物であり、ソウルの食べ物だ。中国、日本等、東洋圏は勿論、他の国にない食べ物だ。昔は油が貴重だったが、それでもビンデトクは胡麻油を引いて焼く。其れで匂いも味も最上になる。貧しい家では、お客様の膳に置くのは胡麻油で焼き、家族だけて食べるのは荏胡麻油で焼きもした。荏胡麻油は値段が安く、香と味は胡麻油よりは落ちる。しかし、荏胡麻油の獨特で刺激的な香と味を好む人も多い。

ビンデトクの語源には異論が多い。

人の体に付いて血を吸う寄生虫の中に'南京虫'が有るが、南京虫が韓国名で"ビンデ"である。あの、忌わしい南京虫と語呂が同じなので、南京虫を連想し何か関係が有るのかと考え易いが、全く関係が無い。又、或者は、ビンデトクは貧者の餅の意味を表すに所以する。と主張する者も居るが、ビンデトクは中々貧者が容易に食べる食品ではない。ビンデトクの材料である緑豆、肉、もやし、 こんぶ、油等が、決して貧しい人が容易に手に入れる材料ではないからだ。むしろ貧しい人達は、祖先えの祭祀の時や、宴会の時でなければ、作る事が出来ない食べ物だった。

宣祖の時代、今の貞洞一帯をビンデコル(賓待界隈、賓待横丁)と呼んだ。

中国の使臣のような国賓を接待する迎賓館がここにあり、ビンデコルと言う名前が生れたと推測される。韓国の料理は中国と違って、油を多く使わない。魚や肉類に粉をまぶして、油で焼く'煎'が有るくらいだが、煎は見た目に豊かに見える様飾るのに不便なところがある。ビンデトクを焼いて何枚か重ね、その上に煎を飾れば、お皿にボリュウムが付いて、ひとしをひきだつ。初めにビンデトクをビンデコルで下飾りとして使ったので、まるで下級の食べ物のような印象を受けたのが、ぞんざいに扱われる様になった原因らしい。

ビンデトクはビンデ(賓待)即ち貴賓を接待するのに使った食べ物だ。漢字にのみ溺れていた両班連が、貧者の餅云々するのはとんでもない間違いだ。

ビンデトクは宮中の食べ物であり、ソウルの食べ物である。

 

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一銭分の買い食い


30年代には餅売りが多かった。籠に餅を盛り、上を木綿布で覆い、頭に載せて、売り歩く。餅商売は婦女子がやる商売だ。餅の種類の中には、今は見られない餅もあった。インジョルミ(糯を蒸した後、搗いて、マッチ箱ぐらいに切って、まぷし粉をつけた餅。日本の餅と同じだが、形が違うだけ。)や、チョルビョン(方形に、花紋型を押した白餅)のようなものは、時々おやつに食ぺもするが、餅売りから何つか買って食ぺる程度は、おやつというものではなく、買い食いだ。私は、幼い時から性分が気難しく、美食家的な傾向があったようだ。インジョルミはぺたべたしで、食ぺると黄な粉が唇に付いで、ちょっと汚ならしい。チョルピョンは腹は満たしでくれるが、味がさほどでもない.それで私は、ケピトク(捏ねた米扮を薄く伸ぱして、小豆.豆などのアンコを入れ、半月形に作り上けだ餅)か好きだった。ケビトグは半月形にぶっくらした形も良く、表面に油を塗り美しく、胡麻油の香りが食欲をそそる。餅の中には気泡があり、緑豆や小豆を固めて作った中身が入っでいる。私は今も、ケピトグを食ぺるたびごとに感嘆する。うまく気泡でぷっくらした形に作ったことよ! ケビトクは薄い外皮と小さい粒だけなので、5〜6個食べても、お腹に負担が掛らない。私はケビトクだけを食べた。

小麦粉を原料として作った、お菓子が有ったし、砂糖とか、飴とかを原料にした飴玉が有った。大飴玉は胡桃くらいの大きさで口に入れるといっぱいになる。固いので容易に溶けもしない。口いっぱいに長く咥えているのは楽しさよりは煩い事だ。それで僕は食わなかった。御菓子類は不味いものが多い。ビスケット類は喉がつまる。そんな訳で僕はキャラメルを好んだ。砂糖類の中には'氷砂糖'と言うのが有った。まるで氷の様に半透明で不規則な形をしている。氷砂糖は値段は高いが甘く後味が良い、氷砂糖は僕が好きな物の一つだ。

漢薬屋の前を通りながら見ると、時々、熟地黄(あかや地黄の根を、御酒で何度も蒸した薬剤、補血剤に用いる)玄関に広げて、干して居るのを見掛ける。

熟地黄は、真っ黒な色で、まるで虫のような形だ。しかし、食べてみると案外美味しい。しこしこして、適当に甘いしとても良い。私は時々、漢薬師にせがんで売ってもらい買って食べたものだ。熟地黄に触ると、指先が真っ黒になる。

ある日、日本人町の横丁を通ったが、焼き立てのパンの匂いがぶんとしている家が有った。道端の門がちょっと開いていたので中を覗いてみた。バン、ケーキ、カステラ等を作る作業場だった。私はかなり長い間見物した。その内、一人の職人がカステラを焼いた鉄板を持って、底にくっついているお焦げをこそげるのを見た。私は一銭銅貨を一枚突出し、その人に、そのお焦げを売って下さいと言った。その男は笑いながら、私にカステラのお焦げをヒト固めにしてくれた。普通の握飯位の大きさだった。そのお焦げは本当に美味しかった.その後、私はお焦げの常連になった。年取った今でも、その味は忘れられない。

私には伯父がいたが、買い食いするお金をあてがってくれるスボンサーだった。私が行って、「伯父さん今日は」と挨拶をすると、「おお、泰チャン、集金に来たな」と言いながら、一銭銅貨一枚を呉れた。頂戴とも言はないのに、わきまえていてくれた。それが私の収入源であった。私は毎日一度集金した。


 
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平壌のクッス‥‥冷麺

冷麺は、蕎麦麺だ。冷麺の本場は平壌だ。平壌の通りには、沢山クッス店がある。クッス店は多いが冷麺店はない。冷麺という名前はソウルで生まれた名前で、平壌ではクッスで通じ、クッス(麺)といえぱ冷麺にきまっている。ソウルでは、クッスといえぱ、すまし汁をぐらぐらと沸かし、麺を入れ、そなえを載せて食ぺるのが常識だ。つまり、韓国式うどんである。平壌では、クッスといえば、冷たいまま食ぺるのが常識だ。冬でも、冷たいキムチ汁にクッスを入れて食ぺる。クッスは冷たいまま食ぺるものだから、わざわざ冷麺という必要がない。ソウルでは熱くして食ぺるのがクッスだか、冷たいまま食べるクッスだから、特別に冷麺という名前が生まれることになったのだ。平壌の人達のクッスは、代用食、間食だが、ソウル地方では、冷麺を普段は食ぺない特別の食ぺ物として食ぺた。普通、クッスは熱い汁を啜りながら食べるものとして慣らされでいるからだ。

宴を催す家に行く時は、普通、クッスや色餅(色とりどりに染めて作った餅)を扶助した。クッス屋でクッスを1笊注文すると、宴会日に、注文した人の名前で配達をしてくれる。1笊は、ワングルで長々と編んで作ったかなりおおきな笊で、クッスを1人前の分量づつ玉にしたものを50個程、ずらりと並ぺたものをいう。宴を催す家では、その麺玉を熱い出し汁に入れ、客の膳に上げればよい。宴を催す家では、別にクッスの準備をしなくても、届けられたクッスで大体間に合せることができた。色餅というのは、角張った笊にお餅を色々な形につくって盛り、他人に贈るものだが、上には、餅で色々な形を作って装飾したものだ。食用色素を使って花の形を作ったり、色々と縁起の良いものをかだどってお飾をした、デコレーション・ライス・ケーキとでもいおうか。色餅も、餅屋から配達してくれた。色餅でなく、インジョルミ(糯米を蒸した後、搗いて、マッチ箱ぐらいに切って、まぷし粉をつけた餅)を扶助することもあり、また、酒を一樽、送りもした。とにかく、宴会に使われる品物で扶助をするのが風習であり、近頃のように金封筒を突出すことはしなかった。

ソウル冷麺は本家の平壌冷麺とは質が違う。キムチ汁を使うのではなく、肉のだしで、具も、片肉(煮て薄く切った牛肉)、ゆで卵、梨、糸切りの唐辛子等を配合し、見た目も、味も、はるかに上等だ。鐘路通りに、冷麺がおいしいので有名な店があったが、昼食時には足の踏み場もないほど混んだ。仕事が忙しい時とか、距離が遠い所からは、電話で注文した。ところで、この冷麺配達は、誰でも出来ることではなかった。自転車で配達するが、長い木の盆に、冷麺の大鉢を10鉢ぽど載せておいて、肩に担ぎ、肉の出し汁を入れた大きな薬缶をハンドルに掛け、片手でハンドルを握り、自転車に乗って行く。今日のように、自動車が多くはなかったが、今にも事故が起きそうで、見る人ははらはらする。しかし、うまく事故を起こさず無事に自転車を走らせる。力も強くなくてはならず、自転車にうまく乗らねばならない。冷麺配達はサーカスだ。鐘路の店から東大門でも西大門でも注文さえあれば配達してくれた。近頃、ソウル冷麺はとても固い。固いあまり、蕎麦クッス本来の味を分からなくしている。ソウルの人の耆好に合わせるためにそうなるのだが、ソウル冷麺は、すでに蕎麦クッスではない。いわゆる咸興冷麺というのは、蕎麦と言うより、澱粉麺に等しい似而非の冷麺である。

韓国では、江原道地方が蕎麦の産地である。春川マックッスはやわらかい味だ。固いソバはソバとは言えない。蕎麦自体が、粘り気の無い穀物であるから、

蕎麦は蕎麦特有の味が有る。ソバも蕎麦特有の味が生きていなくてはならない。冷麺、温麺、ビビン麺、調理法は異なっても、蕎麦の味が生きてこそ、食べるに値する食べ物だと言い得るだろう。

最近は、祝宴の時に、蕎麦麺の代りに小麦麺を多く使うが、かつての蕎麦麺には及ばない。ついでながら、麺(クッス)と言う言葉の概念が南と、北と、違うのが面白い。南部では、作り方は如何あれ、麺類は全てクッスである。北部では、粉を練ったものを、筒状の器に入れ押し出した物だけがクッスで、その他の方法で作ったものは決してクッスとは言わない。
 
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先農祭とソルロンタン

我が国は伝統的農業国家だった。農業は天下の基本也(農者天下之大本)という思想は、農耕社会経済学の基本原理だ。農業の歴史は原始杜会まで遡る。中国では、三皇五帝時代の神農氏を、農業と薬学、植物学の始祖とみなす。農事が豊年か凶年かということは、国家経済と国民生活に深刻な影響を与えた。それで、早春に一日を定めて、君主が自ら田に出て始耕を行い、農民達の士気を高める礼式を行った。高麗朝では、立春後の亥の日に先農祭を取り行い、立夏後の亥の日には中農祭、立秋後の亥の日には後農祭を取り行った。朝鮮朝では、先農祭を、立春後の初めての亥の日でなく、驚蟄後の初めての亥の日に変えて実施した。事実、立春後の初めての亥の日だと非常に寒く、土が解けでもいなかった時なので無理もない。そして、中農祭、後農祭をなくし、先農祭だけを取り行った。ただ一個所、不思議なことに、文献には'驚蟄後初めての亥の日丑時に、君主が先農壇に進み祭を行った'となっているが、丑時といえぱ1時から3時の間を言う。どう考えでも、君主が真夜中に遠く宮殿を抜け出し外出するということは道理に合わない。ここでは、亥の日の朝、君主が祭を行った事にする。

先農壇は、清涼里外の林業試験場の隣りだった。先農壇は、農業の神、神農氏の位牌を祭り、豊年を祈る場所である。神農氏は中国の神だが、農業の神として受入れられた模様である。以前、漢方薬局には必ず'神農遺業'と書いた紙が貼ってあった。

1908年、日本人達は先農壇をなくし、位牌を社稷壇に移した。その後、先農祭は廃止されてしまった。社稷公園には壇が二つあるが、その中の一つが先農壇だ。先農祭の日は、君主を初めとして、王妃と宮女、満朝百官、成均館祭官、兵卒、そして近隣の住民達、農民達、甚だしくは乞食までが集まって来て、黒山のような人だかりだったという。祭が終われば、試耕圃の前で、君主が自ら田に入り、始耕式を行ったという。始耕式は、君主が鋤を取っで田を二回ほど耕すと、次に領議政、左議政、右議政、こうして六曹判書まで全員参加したというが、これを'耕田之礼'といった。士、農、工、商という言葉とともに、農業をいかに重要視したかを知ることかできる。始耕式を終わると、君主を初めとしで全員が全く同じ湯飯(汁をかけた御飯)を食ぺるが、この時の湯がソンノンタン(先農湯)である。其処に集る大勢の人が、全く同じく一椀ずつ食べるようにするには、一々おかずを準備することはできず、牛をつぶし。精肉と骨と内臓までも一緒に煮て、一椀ずつよそってやったものだ。

君主でも乞食でも、全く同じ物を食べたという事から見て、我国の民本主義思想を窺がう事が出来よう。1908年以後、先農祭はなくされたが、その場所は今も残っている。広い広場、涼しい木陰、そこには澄んだ小川の水まであって、夏の真っ盛りには、どの公園よりも奇麗で静かで涼しい所だった。先農壇があった場所は祭基洞、その隣が典農洞だ。成均館周辺に館洞という常民達の村落があって、先農祭のような国の大行事の時は彼等が動員され、牛をつぷしたり汁を沸かしたりする仕事を、彼等が一手に引き受けで行ったという。牛をつぷしたり豚をつぷしたりする仕事は、館洞の人達の生業の一部でもあった。     その後、どれだけ経ってからか、明倫洞にソルロンタン(牛の頭、足、ひじ肉や内贓等を入れて煮た汁に御飯を入れた料埋)の店が出来た。先農祭のソンノンタンが再現したのである。

ソルロンタンは、ソウルで最初に生まれたソウルの食ぺ物だ。
 
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口癖の悪い巡査


巡査とは初級警察官すなわち'お巡りさん'のことだ。巡査は日本人もいたし、朝鮮人もいた。警察の組織は今とほとんど変らない。市内の到る所に、ΟΟ警察署、ΟΟ警察官派出所と書いた長い看板が掛かっていて、出人口と同じ幅の四角形の庇が突き出していた。庇の天井には、西瓜くらいの大きさの赤色の外灯がぷら下がっていた。文字を知らない人でも、赤い外灯さえ見れぱ、そこが派出所だと知ることが出来た。派出所の形態と構造は、どこでも全く同しで、大部分の派出所は、巧妙に重要な道の要所を占めていた。日本人達は、派出所を'こ一ぱん(交番)'と呼ぷ。巡査の服装は黒い洋服だ。今の巡警はネクタイを締めているが、当時はネクタイが必要でない詰襟というもので、警察官だけでなく、学生、軍人等の洋服の上着は全部その式になっていた。腰には幅の広い皮帯を巡らし、長い刀を吊り下げており、その刀を彼等は佩刀と呼んだ。刀全体が白色にぴかびか輝く金属で、握り手にだけ金糸が巻かれでいる。陸軍の儀杖隊が使う指揮刀が正にそれだ。その刀は長くて足首まで達する。巡査が歩く時は、がちやかちやと音がした。それで、静かに歩いてきても、巡査が来るのはすぐ分る。上着のボタンは金色で、帽子は学生帽だ、巡査は日本人も、朝鮮人も居るが、朝鮮人は制服の巡査より、私服の刑事の方が多かった。

巡査は口癖が悪かった。誰にでも"おい、こら"だ。'おい'は、'や'の意味だし、'こら'は、'イヌマ'という言葉で、大変失礼で乱暴な言葉だ。

人々は不快だが、じっと辛抱するより仕方が無かった。ちょっと抗議でもしようものなら、不逞鮮人とか、反日思想家などと、おっかぶせて、ひどい目に逢わされるのが常だった。殴る、蹴るぐらいは、ほんのお手本で、色々とひどい拷問を掛けたものだ。人権なんかは生意気な考えで、拷問の口実を与えるものでしかない。何の罪も無しに思想犯に問われるのが落ちである。それが植民地統治の権力と人民の因果関係である。

いくら質の悪い巡査でも日本人には弱かった。いかに警察でも、日本人には丁寧にしなければならない。もし、日本人に悪く見えたら直ちに上官に抗議を申込まれ、事の善し悪しは別として、叱られるか、左遷されるのが関の山だ。

それで特に朝鮮人巡査は朝鮮人にだけ威張ったものだ。

警察には刑事が居る。刑事は私服なので、その人が刑事かどうかは服装ではわかり難い。刑事は常に人々を密かに探る。其れで気持が悪いし、人々から敬遠される。しかし、刑事よりももっと悪い奴は、'刑事の紐'だ。紐とは刑事の手先情報員を言う。刑事は多くの手先を率いる。紐は大概、こそ泥、すり、売春屋、贓物買い等、兎に角ろくな人間は居ない。紐は刑事に情報を与え、自分の犯罪を見逃してもらう。紐は刑事に弱点を握られているから、刑事は何時でもブタバコにぶち込む事が出来る。それで紐は刑事を主人として仕える。盗んだお金を刑事と山分し、友達も親族も蜜告する。人間の屑だ。

朝鮮人にとって、警察は恐怖的存在だった。派出所の前は通り過ぎるのも忌わしくて、回り道をしてでも避けたものだった。そんな警察の全面的な保護を受けている日本人達が、民族的な優越感に囚われ朝鮮人を軽蔑し、傲慢に対するのも無理ではなかったろう。

口癖のように「朝鮮人の癖に」と言った。その言葉は'朝鮮人奴の分際で'と言う意味の言葉だ。朝鮮人奴の分際で生意気だ。朝鮮人奴の分際でと言う意識が強く敷かれた侮蔑の言葉だ。もし、朝鮮人が日本人に'おい、こら'と言ったら大変な事になる。直ちに警察に引張られて、半殺しの目に逢う。

ただ一つの例外が有った。其れは子供たちの世界だ。朝鮮の子供たちは、たまに日本の子供たちに"おい、こら"と言って喧嘩をしかけた。すると、"朝鮮人の癖に"と、食って掛かる、すると、この時だとばかり、殴り合い蹴り合いが始まる。朝鮮の子供と日本の子供が喧嘩すると、近所の朝鮮の子供達が集まって来て、理非曲直を間わず、日本の子供を殴ってやった。そうこうする中に大人が追ってくると、散り散りに逃げてしまう。殴られた日本の子供たけ損だ。それで日本の子供は朝鮮の子供を嫌がった。ちょっとひどく振る舞っても、こそこそ逃げた。朝鮮の子供達は、鬱憤を日本の子供達に晴らした。大人達の分をもまとめて。

 
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一日置きに熱が出るハクジル(マラリア)

ハクジル(虐疾)は、マラリアの我が国の言葉だ。今はハクジノルはない。近頃の若い人達は、ハクジルといえぱ、東南アシアの密林地帯に住む原住民達にでもある病気だと認識しているかも知れないが、昔はハクジルが多かった。ハクジルは蚊から伝染する病気だ。蚊という奴は、人間の血を吸って、マラリア菌を移して行く。それで夏に多くかかる。私は幼い時、体が弱く、マラリアをたぴたぴ患った。毎年ハクジルにかかったのか、一年の夏でも何回もかかったのかは記憶が正確でないが、何れにせよ、しょっちゆう患ったものだ。ハクジルにかかると、一日病み、次の日はまあまあで、その次の日は病んで、という具合に隔日で悪くなる。それで'一日置き'という名前でも呼ぱれた。ハクジルにかかると、初めはぞくぞくと寒いが、直ぐに高熱が出る。熱が上がって行くと、気を失いもし、うわごとも言い、幻も見える。私ば毎日学院に行った(6才から)。学院で勉強している中、発作を起こす場合が多かった。我々の先生は、発作を直す独特な方法を持っていた。私が発作を起こすと、紙に不思議な文字(まじない)を書いて、私の背にとんと貼り付けて下さって、家に帰れとおっやった。呪符なぞ全くの眉唾もので、あてにはならないけれども、家に帰れる事だけを幸いに思い、背中に貼り付けられた呪符などには神経を使う暇も無く、そのまま家に帰り、寝てしまったものだ。

高熱に苦しむ間は悪夢を見る。夢なのか、幻なのかもはっきりしない。恐ろしい鬼が枕元に現れては、黙って僕の様子を窺がう。暫くしては、また別の鬼、また別の鬼と、交代する。たまたま正気に戻りもする。夢と、幻想と、現実の区別がつかない。それが、私がハクジルを患った時の記憶の全部である。

マラリアには特効薬がある。"塩酸キニーネ"と言うが、庶民層では"金鶏蝋"とよんだ。語源はわからない。'キニーネ'は'キナ'と言う樹の樹液から抽出した薬だ。もし、キニーネが無かったら、その時期に私は既に死んでいたかも知れない。
 

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チュタン、テグタン

どこに行ったら食べられようか

庶民層で、最も大衆的な食ぺ物といえば、何といってもソルロンタンが第一だろう。ソウルでは、我こそはと自慢するソルロンタン店が方々にあった。その中でも、ペウゲ市場の'大昌屋'、鍾路の'里門屋'、南大門市場の'梨南屋'等が有名だった。今、和信の裏通りに'里門食堂'という名前のソルロンタン店があるにはあるが、その昔の里門屋の味ではない。

「ソルロンタンは、夜12時に行ってこそ、真の汁を食ぺることかできる」

この言薬は、私の父の持論だった(事実かどうか確実ではないが)。いずれにせよ、ペウゲジャンのテチャン屋は年中無休で、24時間営業をした。夜には酒の客、夜明けには迎え酒の客、昼には市場の客、どの時間帯でも客がいた。私の父のような"本汁"の客もいて。

昔のソウルの遊興街は茶房横町だ(武橋洞、茶洞、清進洞一帯)。茶房横町には、妓生酒場、売春酒場、居酒屋等、色々な種類の酒場があり、各界各層の客達で不夜城をなした。一晩中、酒をあおり、女を抱いで寝れぱ、項羽のような壮士といえども、朝には目がかすんで見え、頭はぼーっと重たく、喉はからからになるものだ。夜明けの冷たい風の中にひょろひょろと歩き出すと、思い出すのはへジャンクク(解腸汁=迎え酒を飲む時に一緒にすする汁物)1杯だ。それで、清進洞でヘジャンクク店が繁盛した。へジャンククは、牛の雑骨、筋、下等肉を、よく煮込んだ後で、生血とウゴジ(間引きした、あるいは商品価植のない白菜)を入れて炊く。そして、脂臭い臭いはするが、酒色に傷んだはらわたを癒すには最高だ。へジャンクク1杯を食ぺ、げっぷをして外に出れば、気分がすっきりし、体も軽くなって正気に返る。'へジャンクク(解腸汁)'、誰か、うまく名前を作ったものだなぁ。

東大門外の新設洞には競馬場があった。競馬場が出来る前には、東大門キルと清渓川の間に田畑があった。その田畑を埋めて競馬場を作ったが、正門の、道がある方を除いては、両側は田なので地帯が低く、裏の方は清渓川なので、正門以外には出入りする所がない要塞のような位置だった。

その競馬場の横の道端に、芹を植える田を若干高く盛って建てた店があったが、その店が'兄弟酒店'だ。兄弟酒店は、道から見ると半地下室で、三面が芹の田だ。兄弟酒店という酒場の看板だが、実は食堂だ。

兄弟酒店を有名にしたのは'チュタン(鰍湯=泥鰌汁)'だ。テグ(大邱〉地方の'チュオタン(鰍魚湯)'は、泥鰌を茹でて摺り、ウゴジをたっぷり入れて炊くのだか、ソウルのチュタンは、泥鰌を丸ごと茄でる。そこに豆腐を分厚く切って入れ、大葱と牛の雑肉を入れた後で、粉唐辛子を混ぜてぴりぴりするように炊く。 匙と箸で掬うと、泥鰌が目をきょとんと開けて眺める。泥鰌は骨が堅い魚だ。口に入れ、ぐっと吸い込むと、肉は離れて飲み込まれ、骨は吐き出す。 見た目にはグロテスクだが味は一品だ。兄弟酒店はチュタン一つで大きく繁盛した。私はチュオタンよりソウル式チュタンが好きだ。ところで近頃は、人々が高尚になったせいか(蛇湯、みみず湯も食べながら)、ソウル式チュタンは見ることができない。惜しいことだ。

タン(湯=汁物)についての話が出たついでに、テグタンの話もしなければならない。テグタンばチュタンと似たように炊く。ただし、泥鰌の代わりに牛肉を材料として使うが、これもぴりぴりして美味しいタンだ。

もうひとつ、この頃はテグタンといえば、鱈(テグ)のメウンタン(辛味をよく利かせた汁物。魚、豆腐、野菜等を煮込んだ汁に唐辛子味増、調味料等で味を付ける。飲食店で使われる語)と思っている。'いや、牛肉で作ったテグタンのことだよ'と言っては、気違い扱いを受けるのにきまっている。

世の中が変われば食べ物も変わるなぁ。あー、チュタン、テグタン、どこに行って食べてみようか。タイムマシンにでも乗って、60年前に帰らなくっちゃ。

 
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庶民達の酒場‥‥立飲酒屋


人が住む所には酒があり、酒がある所には人が集まって来る。

立飲酒屋(モクノスルチプ)は庶民達が集まる酒場だ。一名'立飲屋(ソンスルチプ)'とも言う。立飲酒屋は座る場所がなく、立って飲み食いする。店に入ると、正面にカウンターがあって、その横に大きな酒甕を二つ三つ、半分くらい埋めて置いてあった。そこをスルチョンまたはチュチョンという。

他の壁の方は、棚がぐるっと取り囲んでいるが、棚の上には色々な酒の肴の材料が陳列されている。酒を飲めば肴は只でくれる。肴には種類により等級がある。くはしく言えば、酒一杯分の肴、酒二杯分の肴、こんな具合だ。

一方の側にドラム缶のような火炉があって、肴を焼いてくれる人が別にいる。スルチョンは大概主人が受け持って座っていて、'マッコルリ2鉢下さい,といえぱ、酒がめから、長い柄杓のような形をしたもので扱んでくれるが、1柄杓が1鉢だ。

客は酒を持って火炉の横に行き、肴を注文する。酒1杯で肴2口もらっても、酒2杯で肴1口もらっても、それは客の自由だ。サービスを超過する肴を食べれば、もちろん超過しただけの値段の金を別に払う。 セルフサービスの元粗だとも言えようか。 酒党は肴を沢山食ぺはしない。自分の分の肴を受け取って、家の子供達に持って帰ってやる。それで、子供達は父親が酒場に行くのを好む。これは、何とゆとりのある純朴な酒の風俗であることか!

これとは別に、内外酒店というのがある。外見は平凡な居酒屋で、中に入って行くと部屋が沢山あって、部屋の客を受け入れる。内と外で酒商売をするということで、内外酒店という名前が生まれたようだ。

部屋の客には酌婦が付き添う。肴は一つのテーブルに幾らという料理店の方式で、酒は薬缶一つが一単位で、1スンベ、2スンベという。ここの営業方式は、退廃と享楽で始まり、パガジ料金(ぷったくられる)で終わりになる。

部屋の客は大概若い層だ。酌婦は、客の横にびったりとくっついて座り、片手を客の太腿の上に載せておき、ゆっくり擦りながらひひと笑う。ここで若い客達は催眼術にかかった状態になってしまい、女のするがままになってしまう。色仕掛け、女色の世界に引っ掛かるように出来ている。

こうなると、薬缶は半分も満たさないままで、出たり入ったり、注文もしない肴がやたらに入って来る。どうすることも出来ずに、ぶったくられてしまう(パガジをかぷる)。

酒客達は、いつもトントン酒(米粒の浮いているどぷろく)を好んだ。醸造場の酒は味が薄いからだった。酒を個人で仕込んで売ることは禁止されていた。

居酒屋で醸造場の酒だけ売っていては、客も来ず、採算も合わなかった。それで、密造酒を売れぱ、取り締まりに引っ掛かり、べらぼうな罰金を納めることになる。自然に居酒屋は一か所、二か所となくなっでしまった。温かくゆとりのある人情とともに。
 
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茶のない喫茶店


唐の国の陸羽という人が、西紀760年頃に茶経という本を書いた。それほど茶の歴史は長い。高麗史にも茶房という名前が出て来ることは来るが、これは茶を売る店ではなく、茶や酒、果物等を管理する役所の名前だ。今で言えば、農林水産部特殊作物課とでも言おうか?

高宗皇帝が、ロシア大使館に身をかくされた時(俄館播遷)に、コーヒーを召し上がってから、コーヒー・マニアになられたという。その時から、漢字音で珈琲茶といった。

1927年に'カカデュー,という名前の茶房(喫茶店)が出現したが、これが、ソウル最初の喫茶店だ。この茶房は、映画監督李慶孫(映画'アリラン'を監督し、俳優ナウンギユを育てた人)が出した店だ。

1929年には、鐘路YMCAの近所に'メキシコ'という茶房が出来た。この喫茶店は、美術家金龍圭が開業し、客としては、春園・李光沫、石松、金炯元、洪鐘仁、卜恵淑、徐月影氏等、文化芸術人が常連だった。

当時の喫茶店は、文化人達の広間のようで、集会場所、連絡場所、休息場所の性格が強かった。コーヒーは主人が手ずから沸かして出し、友達が集まれば何時間も座っているのが普通で、付けも溜まり、僅か1年も経たずに経営難に陥り、弱り目に崇り目で、日本の特高警察の注目の的になりもした。

'メキシコ'が門を閉じる時、未収金が3千ウォンに達したという(今の金では、30億ウォンになるだろう)。喫茶店に何で大きな付けが、と思うだろうが、親しい文化人達が集まるが、コーヒー一杯では、当然、悲憤慷慨するには不十分だ。それで、酒を飲む。それもマッコルリでない洋酒だ。それで、茶房には各種高級洋酒がきっしりと陳列されていた。

1930年には、東京美術学校を出た李順石が、小公洞で'楽浪'という茶房を出したが、この喫茶店は大変長く持続した。30年代中盤には、明洞に'麦'という喫茶店か初めて出現した。その外に、柳致真は小公洞に'プラタナス'を、ト恵淑は仁寺洞 に'ビーナス'を出した。

このように、韓国の茶房は営利事業でなく、文化事業の性格で始まった。喫茶店のメニューは、昔も今もコーヒーと紅茶が主流だ。その外に、ミルクセーキ、ソーダ水、果物ジュースのような飲料と、ハイボールのようなものもあった。'トロイカ'というロシア風の名前を持った喫茶店では、紅茶にウォトカを入れて出し、人気を呼びもした。

紅茶は、茶の葉を摘んで加工する方法により、緑茶と紅茶に分かれるようになるという。コーヒーは茶ではない。茶は茶の木の葉で、コーヒーはコーヒーの木の'種'だ。コーヒーを、茶という人は誰もいない。韓国でだけ、コーヒーも茶、紅茶も茶、緑茶も茶、凡てが茶だ。

茶房は今のように多くはなかった。日本人村である忠武路の方に2,3個所、鐘路の方に2,3個所、その程度だった。喫茶店は文化人達の休息場所で通用した。喫茶店に人れば、そこはかとなくクラシック音楽が流れ、テーブルには必ず新聞が置いてある。茶を飲み、新聞を見、煙草を吸い、談話を交わす。

喫茶店は悠々と時間を過ごす場所だ。喫茶店に入ると2,3時間位座っているのは普通だ。コーヒーや紅茶を飲み、新聞を見て、足を組み、斜めに椅子にもたれて座り、煙草の煙を吹き出すことを文化人の自然の姿勢と見なした。

煙草の煙を'紫煙'と文学的に表現するのを好み、立ちこめた紫煙の中で瞑想を楽しむことを浪漫と考えた時代だった。

文化人でなくても、喫茶店に出入りすることだけでも文化人の仲間に入ることと考える傾向も生じ、だんだんと喫茶店が繁盛するようになった。商業化、一般化されて行った。

いつの間にか、喫茶店は約束の場所に変わって行き、テーブルには新聞が影を隠し、ジャズ、ポップソングが耳を突き刺し、長く座っていることが出来なくなり、1時間ほど座っていても、主人に睨まれるようになった。

双和茶、鳩麦茶、葛茶、木瓜茶、人蔘茶、こんなものは茶ではない。健康飲料ということは出来ても、茶ということは出来ない。ただ韓国でだけ茶になりすましてる。茶まで、似て非なるものが幅を利かしているのだ。

近頃.喫茶店で紅茶を飲むことが出来ないのも、また寂しいことだ。韓国の喫茶店には茶がない。茶のない喫茶店、それが韓国の茶房だ。
   
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日帝とソウルの遊廓

日本は公娼の歴史が長い。豊臣秀吉が大阪城内に公娼村を作り、傾城町と命名したのが西紀1585年だ。1930年代には、日本全国に公娼村が600余か所あったという。

ソウルの公娼は、光武8年(1904年)に日本居留民会から土地7千坪を買収して設立されたが、工事費まで合わせて、7千ウォンが投資されたという記録がある。日本語では遊廓を'くるわ(廓)'という。我が国の言葉ではユクヮク(遊廓)だ。昔の遊郭は広い土地に塀を巡らし其の中に多くの建物を建て其の一軒一軒が女郎屋であった所から廓の名が生まれたらしい。 

ソウルの遊廓は、忠武路(当時の本町)の端にあった。忠武路5街から南山の方にかけて、かなり広い地域が日本人遊廓村(新町)だった。今のアンパサダーホテルの周辺一帯だ。

その前の大路を境界として、向かい側が朝鮮人遊廓村だった。ここの地名はピョンモクチョン(並本町)だ。それで'ピョンモクチョンに行く'といえば、遊廓に遊びに行くという意味が通じた。龍山には第20師団司令部があって、陸軍第78,79連隊が駐屯していた。

好色な日本軍は、軍営から遠くも近くもない龍山区桃花洞(日本名 弥生町)にも遊廓を建てた。

戦時中従軍慰安婦を強制募集した事で問題を起しているが平和時に軍人の性欲の捌け口を公娼婦に依存していた日本軍が野戦軍部隊に専用の娼婦部隊を抱えていたのも肯ける話だ。

1919年12月16日付米国シカゴトリビューン紙は、社説で、日本は侵略政策の一環として、朝鮮人達を堕落させる目的で遊廓を増設していると指摘している。

都市生活は昔も今も息苦しい。特に、蒸し暑い夏の夜は暑さを冷ますために街に出てぶらつくことになる。私は15,6歳から、友達たちと風に当たろうと街に出ると、'やい、そこらを一回りまわろうか?'そうなると、足はひとりでに遊廓村に向かうようになる。日本人遊廓村を満遍なく回って、朝鮮人村の路地から路地を2時間位しきりに覗いてまわる。

日本人遊廓では遊女達を見ることが出来なかった。広い玄関の両側の壁に写真だけが掛かっていた。客はその写真を見て選択する。朝鮮人遊廓は違う。玄関に広い部屋があって、実物陳列方式だ。あの厳しい総督統治下で、どうしでこんなにシステムを異にしたのか?

遊女達は金で売られて来る。日本の女性は九州地方から沢山来た。韓国の女性達は農漁村の女性達だ。みんな貧乏で、娘を売ったり、父母兄弟を助けるために自ら売られて来る現代版'沈清'達だ。人間人肉市場で、公認された奴隷市場だ。

人間は適応力が強い動物であることは間違いない。顔も知らない人に体を売る年若い少女達が経験しなければならない苦難たるや、到底言葉ではすべて表現することも難しいことだろうが、表面上は陰がないように見えた。それ位規律が厳しいということを証明しているのかも知れない。遊女達は隠語を多く使ったが、'スス'という発音が多く入る。自分達だけで話す言葉は、他の人は間き分けるのに骨が折れた。

朝鮮人遊廓村の一番奥にロシア人の遊女の店が一か所あった。夏の夜にはロシア人遊女が、道端に出て来て座り、客を引いた。ところで、どれだけ肥っていることか、まるで河馬か象のようだった。見だたけでも呆れ返った。

しかし、女は明らかに女だった。手真似で通る人を呼ぷ。
 

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楽劇団と歌謡曲

歌謡曲といえぱ一般的に流行歌をいう。我々が流行歌に接するには、3種類の径路がある。1番目はラジオで、2番目はレコードで、3番目は歌手達の公演を直接聞くことだ。

歌を聞くことのできる手段としては、ラジオが最も簡便で、色々な歌を多く聞けるが、自分が思い通りに選んで、聞きたい時に聞けないのが、ラジオの最も大きな欠点だ(当時はテレピジョンはなかった)。

レコードは、買って聞けばよいのだか、先ず金を払ってレコ一ドを買わなくてはならず、蓄音機がなくてはならない。蓄音機は、ビクター、ポリドール等のメーカーが有名だったが、無名メーカーの商品がもっと多かった。価格が安いからだ。

蓄音機は機械式で、手動でぜんまいを巻き、そのぜんまいが緩んで行く力でレコードを回転させ、回るレコードの上の振動機に針を差し、上に置けば音が出る。初めて出た蓄音機は図体が大きく、結構、家具の役割もしたし、また自慢の種にもなった。 蓄音機も発展し、小型化され、カバン式に携帯することが出来るモデルに変わって行った。ポータブル・スタイルだ。蓄音機は拡声振動板の音をそのまま聞くため、音も小さく、針の摩擦音が混ざり、音質が良くなかった。オーケストラ演奏を聞く時は、振動板が音量に十分堪えることが出来ず、雑音が多かった。針も毎回変えなくてはならなかった。

電蓄は、電気モーターでレコードを回すから、ぜんまいを巻く必要がなくなるだけでなく、音質が良い。また、音がスピーカーから出るので、音量が豊富で、低音が蘇る。しかし、値段がかなり高く、庶民達は買う意欲さえも出しえなかった。

電蓄はラジオを兼ねたものが大部分だったが、再生専用電蓄もあった。再生専用電蓄は、ラジオの高周波部がないので、音がきれいだった。

鐘路や忠武路のレコード商店では、試聴室が別に準備されていた。書店で自分が見たい本をその場で心ゆくまで見るのと同じく、自分が聞いてみたいレコードを選んで聞けるようにしておいた部屋だ。試聴室には電蓄があって、クラシック音楽を聞くのにふさわしくなっていた。

レコード店では戸口に大型スピーカーを出しておいて、流行している歌を掛ける。そうすると、通り過ぎる人達が足を止め歌を聞く。歌謡曲の中にもヒット曲がある。楽器店で、新しく出たヒット曲を掛ける時には、自転車に乗って行った配達夫も、自転車を立てておいて、歌を学んだものだ。

レコードメーカーは全部が日本の企業だったが、ビクター、ポリドール、オーケーレコード社が人気メーカーだった。韓国の歌手達の歌は、吹き込みは国内でするが、レコードの製作は日本で行った。従って、韓国の歌の原盤は全部日本に行っていた。 30年代には、楽劇団活勤が活発だった。楽劇団というのは、今でいえばショー劇団ということができる。歌を中心にして、簡単な一幕劇と踊りを添えた歌謡ショーを公演するのだが、舞台が華やかで、人気のある有名歌手達が多く出て来てファン達を熱狂させた。

この中ではOK楽劇団が最も有名だった。当時の人気歌手として、李蘭影,張世貞、朴丹馬、白年雪、蔡奎Y、金貞九、南仁樹等がいた。

OK楽劇団には人気歌手が最も多かった。歌は時代相を反映する。異民族に主権を奪われていたこの時代の歌は、哀調を帯びた歌が大衆に人気があったし、風刺曲も歓迎を受けた。曲調はトロット調とブルース調が主な種類だった。今はポンチャクといって、無視するような表現をする傾向もあるが、それは良く

ないことだ。

大衆歌謡の三大要素は、ロマンティシズム、センティメンタリズム、そしてエロティシズムだ。
 
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新聞の話


1919年3月1日、ソウルのパゴダ公園での独立宣言書の朗読を手始めとして、全国津々浦々に響き渡った万歳の声は、日本政府を突如混乱に陥れるとともに、全世界に広がって行った。

日本は、国際会議で機会あるごとに'朝鮮民族は自治能力がないため、日本が統治してくれることを幸福だと思っている'と口癖のように言って来た。

3・1運動は、全世界の人々に日本の欺瞞宣伝を白日下に暴露し、朝鮮人民に対する苛酷な行為が続々表に出て、世界の世論を沸き立たせることにより、日本を窮地に追い込んだ。

日本は、武力弾圧一辺倒の政策では、朝鮮民族を支配することが出来ないという認識の下に、硬軟両面の政策に転換するに至った。すばしこい日本は、1919年8月、いち早く朝鮮総督を更迭した。新総督斉藤実は、就任初声明で、文化政治を実施すると宣言した。こうして、日帝36年中、比較的自由だった時代が開けるようになる。また、1920年代は、日本の歴史上、言論の自由が大きく伸張した時代だ。

朝鮮人民が血を流して戦った結果が、皮肉にも'日本の春'が来ることになったのだ。当時、総督府の機関紙毎日申報の編集主任だった李相協は、朝鮮語新聞の発行を申請しており、'許可する方針'だという情報を入手し、1919年7月、毎日申報に辞表を出し、新聞発行のためスポンサーを物色する。

李相協は、資本主として金性洙が最適任者だと考え、金性洙に交渉した。その時、金性洙は中央高普を設立した直後で、資金の余裕がなかった。数か月後にやっと新聞創刊に合意する。

題 号  東亜日報 

資本金  100万円4分の1払込

発起人  金性洙 外77名

社 長  朴泳孝

発行人兼編集人 金性洙

編集監督  柳瑾、梁起鐸

主 幹  張徳秀

編集局長 李相協

1920年2月6日付で朝鮮総督の許可書を取得。

1920年4月1日、創刊号を発行。

社是  1)朝鮮民衆の表現機関を自任する。

    2)民主主義を支持する。

    3)文化主義を提唱する。

東亜日報は、朝鮮民族主義勢力の集合体としで創立され、民族の代弁紙として民衆の支持を受けた。東亜日報は、日帝の侵略政策に対し、外国の事例、また歴史的事実等を引用して、間接的に非難、攻撃した。朝鮮の民衆は東亜日報を歓呼し、総督府は目の敵として憎んだ。

創刊してから6か月にもならない1920年9月25日、社説の内容に言い掛かりをつけ、無期停刊を命じ、多数の人員を逮捕して行った。東亜日報の受難が始まったのだ。停刊処置は翌年解徐されたが、その時は財政が枯渇し、陣容が整備されておらず、4か月後にやっと復刊号を出す困難を経験した。東亜日報は、外からは絶え間ない迫害、内からは財政難で、言葉で言い表せない苦境を数多く越えなくてはならなかった。その粘り強い生命力は、社員達の愛国心と民衆の絶対的支持、声援から生まれた。

東亜日報の受難は、単に日帝時代に限られるのではない。解放後でも、軍部独裁政権によって、停刊、記者の投獄等の苛酷な弾圧を受け、全国民が東亜日報を生かす運動を繰り広げた事実を、我々は生々しく記憶している。

東亜日報より約1か月前の、1920年3月5日に創刊された朝鮮語新聞があったが、朝鮮日報だ。朝鮮日報は出発から東亜日報とは性格を異にした。

朝鮮日報は、商工人団体である大正実業親睦会を母体として創刊された。

創刊当時の朝鮮日報は、実業新聞を標榜し、新文明、進歩主義を掲げて出現した。分かり易く言うと、日本と適当に妥協し、中間路線的姿勢を維持するという方針だった。これは、朝鮮の民衆にも日本にも、どちらの側にも歓迎されなかった。結局1924年9月、版権を方応模が引き取る。

社長方応模は、李光洙、朱耀翰、徐春、咸尚勲等の人士達を迎えいれて、民族主義路線に方向転換した。

親日団体である国民協会の閔元植を主軸として、1920年4月1日創刊された時事新聞という新聞もあった。 この新聞は完壁な親日新聞だ。閔元植は1920年東京鉄道ホテルで梁槿模によって殺害される。閔が死ぬと、時事新聞も永遠に消え去った。このように、3・1運動により醸成された民族自決の激しい旋風は、日本内にも言論自由の花を咲かせた。しかし、その貧弱な自由さえも、日本内の極右派と軍部の合作により、大陸侵略の道に入るに従って、長続き出来ないようになる。


第 2部 終り
 
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