ソウル男物語り
第1部 あの時代のソウル(1930年頃)
漢江の水だよ深く清らかな水に
水上船に乗ってア一ヨイヨイ
船遊びしようや
アアハ エヘヨ
エへヨ オホヤ
オルサハムマ トウンゲティヨラ
私の好きな
漢江の水よ お前の話をしてご覧
英雄の涙の滴か この流れ
遠くに見える 冠岳山は
雄荘な姿だし
帆掛け船は 二つ三つ
ア一ヨイヨイ
ゆったり浮かぷよ
‥‥漢江水打令より‥‥
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漢江にある二つの島
ソウルの人ロ35万!
1930年初の統計だ。その時のソウルは、今とは比較出来ないほどゆったりとしていて余裕があった。しかし、やはり都市は都市なので、都心の息苦しい空間での生活の中で、日曜日を迎え漢江へでも行くとなると、その爽快な気分は到底言葉では表わせなかった。
ソウルをソウルらしくしてくれるのは秀麗な漢江、その漢江の美しい風景は、東湖と西湖を中心として広がった。
東湖とは、現在の玉水洞電鉄駅から見えるその川辺を言うが、都城の東方を流れることから名付けられた名前で、ソウルの人達は普通トウムッゲと呼んだ。漢江の本流と北方から流れてくる中浪川の二つの水流が合わさって流れることから'トゥムルゲ''トゥムッゲ'などと呼んたが、漢字表記では豆毛浦(トゥモポ)だった。(トゥムルケは二つの水流の意)
西湖は、南湖と呼ぱれた龍山江下流の、麻浦の川辺を言った。ここは川幅が広く、水が緩やかに悠然と流れ、渡り鳥が休んで行く栗島とともに、風景がとても清らかだった。
漢江に行けば、大きな帆掛け船を見物する楽しみがあった。大きさは普通の渡し船よりも2,3倍は大きく見えたが、帆がとてつもなく大きく、眩しいほど白く巨大な帆を高く掛け、川の水面を悠々と浮かんで行き来するのに、よく見惚れたものだった。美しい風景だった。
そのとき不思護に思ったことは、船が川の水に逆らって上がって行きもし、流れ下って行きもすることだったが、遠くから見ると動いているようでもなく、ぽっかり浮かんでいたその巨大な帆は、いつの間にか遥かに進み、白い紙の船のように小さく浮かんでいたものだった。
また、漢江では筏を見る興味もあった。江原道から、伐採された豊富な木材が筏を組んで、川の水に乗って下って来た。筏の上では、普通、二人の人が筏を操って水の流れに従って下って来るが、この人達は漢江の水をそのまま飲料水として利用した。その人達にとっては止むを得ないことだったろうが、良くないなと思ったものだ。
そのようにして、漢江の流れに乗って下って来た筏はトクソムに全部集まった。トクソムには製材所が幾つもあって、筏を集め、用途に応じた製材をした。
トクソムは、砂浜がなだらかに形成されていて、水遊びには打ってつけだった。それで、夏には水泳を楽しむために多くの人達が集まり、その人達を相手にした遊船、ボート等も多かった。
水辺には大きな船があって、水遊びに来た人達に飲料水を売り、ポートも貸したものだ。そこでポートを借り、さっばりした気分で流れを分けて行く面白さに、無我夢中で遊ぶと、手に豆も出来、肩が凝り、全身が痛む有り様となるが、それでもただ楽しいばかりだった。
今の江南に行くためには、正に、このトクソムから渡し船に乗らなければならなかったが、奉恩寺に行くのと、蚕室に行く二つの船路があった。奉恩寺に行く船にはいつも乗客が多かった。
蚕室は島だ。漢江には島が二つあったが、その中の一つが 汝矣島で、もう一つは、今では全く島ではないように変わってしまった蚕室が正に島だったのだ。蚕室はトクソムから渡し船に乗って、上流に向かって一路程をさかのぼって行かなくてはならなかったが、土のない砂地ばかりが広がっていた。広い砂原には所々に倉庫のような巨大な建物があって、周囲には桑の木が沢山植えられていた。その当時は、その倉庫の中で日本人が蚕を飼っていた。
本来、蚕室という名は風水説により起こったという。昔は南山が蚕の頭に似ているといって、蚕頭峯と呼ばれたというが、この蚕に桑を与え、地気を生かすという意味で、ここに桑の木を沢山植え、養蚕を奨励したという。
蚕室は大きな島だった。島を横切つて行くと、挟い中間川が現れ、その向こう側が、松坡だ。当時の松坡は住民が多くない小さな村だった。松坡は世宗朝に出陵行幸の便宜を計っで造った渡し場を、松坡渡し場と言ったのに由来する。
漢江にあるもう一つの島である汝矣島は、漢江の三角洲となった所で、そこには飛行場があって、練習用の複翼飛行機が一日中昇ったり降りたりした。汝矣島は蚕室とは異なり、すっかり草原になっており、今の国会議事堂の場所はヤンマル山と呼ばれ、その前方の広い場所をヤンマル原といった。昔から牧草地がよく形成されていて、馬や羊を育てた中心地だったため、ヤンマ山(養馬山、羊馬山)とよばれたという。
春にはチョギ(いしもち)か多かった。家々ごとに、春にはチョギを何チョプ(1チョブは100尾)づつか買って、塩に漬けて甕(かめ)に人れ蓄えもしたし、干しもした。甕に入れておいたものはチョギチョッ(いしもちの塩辛)、干したものはクルビ(干乾しいしもち)というが、普通、祭祀の膳にはクルビを焼いて供えた。
クルビは庶民達が食ぺることは難しかった。それほど金が掛かるからだった。金持ちの家では、クルビを干すのがよく見受けられたが、その近所に行くだけで、生臭いにおいがし、蠅がたかって居て、不潔そうだが、食ぺると美味しかった。
一度、チョギを買いに行くのについて行った。隣り同士何軒かが金を集め共同購買をするのだったが、リヤカーを借り、引いて麻浦西江に行った。私が住んでいた乙支路4街から麻浦まではかなり遠い距離なのに、大人達と一緒に行くことだけが嬉しくてついて行った。
当時の西江の渡し場は、いつも活気が溢れていた。チョギ、えびの塩辛、塩のような海産物が帆掛け船に積載され、続いて入って来て、人も多く、商店も多く、船頭、荷物を運ぷ人、買う人、売る人、騒々しく群がって、喚き声を上げていた。
川辺では、船に足場板をかけておいて、その上を人が行き来するようにしてあった。人が船に昇るため足で踏むごとに、足場板がゆらゆらと撓えて、見た目にも不安だったが、板の震え具合に体を合わせて板を通るのが なかなか上手で、重い荷物を背負いながらも水に落ちる人は一人もいなかった。
大人達について私も一度船に昇ってみた。
足はがくがく直にも転びそう、ヒャヒャ・・・ひどい目にあった。
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清渓川で捕らえたピラミ(おいかわ)
清渓川は、ソウルの真ん中を西から東に貫通する大きな川だった。今は蓋をして、当時の面影がどうだったのか見当を付けることさえできないが、清渓路の路幅から推し測って、その昔の清渓川の規模を描いてみることができよう。
ソウルは、清渓川を中心にして南北に分かれていた。私が子供の時、当時のソウルの北側は北村と呼ぱれていて、主として朝鮮時代の両班の後裔達が沢山住み、南側は比較的低地帯で、南山の麓、今の忠武路一帯に一般庶民層と日本人達が居住していた。
北側の仁旺山の麓は、王宮と、その周辺を取り囲む、いわゆるテガッチプ(大名屋敷)が集っていて、伝統的韓屋が多く集中していた。鐘路通りも北村に位置していた。
当時、日本は、韓国の既存勢力に対抗するため、南に統監府を設置していた。(その後、悪名高い中央情報部が、その場所を占めた。)そして、南山の中腹、正に我々の昔の王宮が見下ろせる所に'朝鮮神宮'という巨大な構造物を造ってしまっていた。
清渓川こは橋が択山あった。廣橋、水標橋、観水橋などが有名であり、その橋の名前は、現在まで地名としで残っている。
水標橋は、現在の水標洞と貫鉄洞の間に架かっでいた橋だったが、世宗大王の時、架けたという。その当時の清渓川は、首都ソウルの重要な川であったが、この川に流れる水の高さを測定するために、水標石を建てておいたために、水標橋と呼ばれるようになったという。これらの橋は全部石橋だった。
清渓川の水は、文字通り清澄だった。仁旺山渓谷から流れ下った水は、洗剣亭、清渓川を経て、トクソムで漢江に流れ出た。
清渓川に架かっていた多くの橋の中に、観水橋があった。現在の観水洞は、この橋の名前に由来しているが、観水、すなわち'水流を見る'という意味だが、清渓川の水が、どんなに情緒があったか推察される。
夏期、梅雨が真っ盛りの時には、漢江の水が、往十里、東大門近所まで押し寄せて来るのがお決まりだったが、このように、一度水が入って来て引いた後には、ぽこっと窪んだ所に必ず魚が残っていた。大人達は、投網、引き網などで川漁をし、子供達は、チェバックィ(篩の円い枠)で、雑魚、ピラミ(おいかわ)等を捕った。チェパックィというのは、網が破れて縁だけ残ったものをいう。
暗い夜は、友達と組んで、浅い所を選んで明かりを照らすと、ピラミが明かりの下に集まって来る。そのとき、速やかにチェバックィを被せて、逃げることが出来ないようにして、手で掴み出せばよいのだか、なかなか面白い遊びだった。しかし、東大門から清渓川を下って300メートル位の所には、屠殺場があっで、そこから家畜の血や糞の混じった汚水が流れて来て、とても汚かった。それで、東大門の下の方へは遊びに行けなかった。
因みに、清渓川は、日帝がソウルの行政区域を恣意的に決めながら付けた名前で、朝鮮王朝時には'開川'と呼ばれたものだ。
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太極旗が掛かっていた奨忠壇
ソウルに住む子供達は、遊びに行く適当な所がなかった。
当時、私の家は青龍橋の近所、すなわち現在の乙支路4街と中部市場との間にあった。奨忠壇公園は、家からそれほど遠い所ではなかったので、友達と、あるいは一人ででもしょっちゆう奨忠壇公園に遊びに行った。奨忠壇公園には広い運動場があり、小さな池もあり、池には鯉も多く、周囲は森が生い茂っていて、走り回って遊ぷのに好都合だった。
公園の高い所に上がると、祠堂のような大さな家が一軒あった。
家は大きいが、塗りが剥げ、門扉もたいへん古びていて、物寂しい感じさえした。門はいつも閉められていたが、隙間から中を覗いてみると、がらんとしたその正面の壁に、たいへん古い太極旗が一つ掛かっていた。その太極旗を見て初めて、'あぁ、あれが我国の国旗で、正にここが奨忠壇なんだなぁ'と悟った。
その時、私が見た太極旗は今の太極旗とは違っていた。今の太極旗は、四隅に八卦があるが、その当時、奨忠壇の壁に掛かっていた太極旗は八卦が8個だった。
奨忠壇という名前からして、そこは、大韓帝国の兵士達の英霊の祭祀を取り行った所であることは明らかだか、残念ながら、私は、そこで祭祀を行ったという話を一度も聞いたことがなかった。後で調べてみると、乙未事変の時に殉国した将兵達のために高宗皇帝の時に建て(*)、祭祀を毎年行ったが、日帝によっで廃棄され、6・25動乱中に祭壇まで焼失したという。
一度、山の中を歩き回る途中で、木の枝に首を吊って死んだ人を見たこともあった。奨忠壇の樹林が深く静かなので、自殺するにも好都合だったのだろう。また、夏期には蛇を見る時も時々あった。
雨が降った翌日は、友達と一緒に南山に茸を採りに行った。栗茸、薙刀茸というのが沢山あった。小麦粉を溶いて茸を入れて、スープを沸かすと、えがらっぽいけれど、なかなか美味しかった。
〈*)奨忠壇は、光武4年(1900)に、国のために命を捧げた忠臣烈士を追墓し、祭祀を行うために建てた。奨忠壇の祭享(国家で行う祭祀)神位は文武の区別なく、多くの数を祭った。祭享を行う時は、軍楽を演奏し、弔銃を撃ったが、
"南山の麓に奨忠壇を建てて
軍楽隊の拍子に棒げ銃だ"
という民謡もあった。祀堂は6・25動乱の時壊され、今は碑だけ残っている。
日本で言えば靖国神社のようなものなのに。
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鐘路通りに立った夜店
当時、ソウルの繁華街は、鐘路と忠武路(本町)の2か所だった。鐘路は道幅が広く、巨商達がいた反面、忠武路は道幅が挟く、日本人の小売商店がぎっしり立ち並んでいた。その当時は、日本人達が商権を掌握していて、鐘路は閑散としていたが、忠武路は混んでいた。
日本人達は、夏は'ゆかた'という上下続きのひとえ物を喜こんで着た。歩いて行く時は、前の裾(おくみ〉がひらひらして、男女ということなく、太股までみな見えるけれども、彼等は少しも恥ずかしがらなかった。その上、大部分は素足だ。素足に'げた'というものを履くが、下駄は木の板に踵(歯)を前後に付けて、孔を3か所に開け、紐を掛けるものだが、足の指の間に紐をはめて覆いた。
それが日本人の履物だ。誰でも下駄を履いた。足の指の間に紐をはめるのだから、素足でなくてはならない。それで、日本人達は素足で歩く。
日本人達が住む通りを通り過ぎようとすると、かたことかたことという下駄の音に耳が痛くなる有り様だった。日本人がいる所では、どこでも下駄の音がした。うんざりするほどだった。洋服を着る時だけ革靴を履き、普段はいつでも下駄を履いた。
しかし、韓国の人はゴム靴を覆くために、音がしなかったけれども、素足で出歩くことはなかった。必ず靴下を履く。靴下か足袋を脱ぐのは寝床に就く時だけである。それが韓国の昔からの伝統であり、外出から帰るとすぐに靴下を抜いて素足になるのが日本人の生活習慣らしかった。
忠武路通りに夜が来ると、その狭い通りは往来する人でいつも混んでいた。肩を触れ合って行き来しなけれぱならないほどだった。道の両側に整然と立ち並んだ商店から溢れ出る灯火で、夜でも通りが明るかった。
夏には、鐘路(*)に夜店が開かれた。鐘路の四つ角(鐘閣)から鐘路3街の間の道に、座板がずらりと立ち並んでいた。夜店は、人道の3分の1程度の空間を占めて開かれるが、一間(ひとま)ごとにカーテンを取り囲んで、内部はなかなかこじんまりしていた。
夜店には、ないものがなかった。食ぺ物、果物、雑貨、衣料、本、玩具まで、何でもあった。夜店には、我が国の人達だけ集まった。それで、見物も買物も気楽だ。私も夜店見物が好きだった。
(*)鐘路は、朝鮮初に、漢陽遷都に伴うソウルの都市計画のとき、中心街として定められた、一番広い大路だった。しかし、日帝時代、日本当局は、韓国人の商店がある鐘路、清溪川、乙支路はそのままにして開発せず、その代わり、日本人達が集まって生活していた忠武路、南大門路、漢江路などに都市計画を立て、重点的に開発した。鐘路の名称は、朝鮮初から、鐘路の四つ角に、都城8門を開閉する鐘楼があったために生じたものだ。鐘楼十字街または鐘街、雲鐘街などと呼ばれた。
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南山エレジー
南山の正式名称は、目覓山または引慶山だ。南山は、山の姿が秀麗であるだけでなく、頂上に上ればソウル市内と王宮が一目で見下ろせる。日本の帝国主義者達は、我が国を掌握するとき、南山に統監府、憲兵隊などの統治機構と各種信仰施設を設置し、その本拠地とした。
その外の地域は、公園だという名目で開発を禁止したが、私が子供の時、南山に遊びに行ってみると、漢城公園という立て札だけがみすぼらしく打ち込まれていて、ベンチが何個か置いてある程度だった。私は、幼い心にも、100坪にも満たない立木も芝も無い、只の路傍の空地が何の公園かと、けげんに思った。
狡猾な日本は、自分達が必要な時は、何時でも公園を用途変更して、思い通りに使用し、我が国の政府や外人は手を触れないように阻んだのだった。結果的に、南山全体を自分達の専用用地にしたわけだ。
日帝が南山に朝鮮神宮を建てる時、公園用地を大部分解除して神社境内に編入し、公園は、一隅に名目上痕跡だけ残しておいたのだ。そこが、私が見た漢城公園の全部だ。100坪にもならない公園。道端の小さい空地に過ぎない公園。
我々は一時、'南山'といえぱ、'中央情報部'を指した記憶がある。そこは正に、日帝時代に悪名を轟かせた恐怖の統監府の位置だ。統監府があったその時代、我々にはそれよりももっと恐ろしい所が、その隣にもう一ケ所あった。'憲兵司令部'だ。朝鮮人の愛国志士は勿論、日本人も、憲兵司令部に連行されたとなれぱ、恐れて手の施しようがなかった。私の知っていた日本人の一人は総督府に勤めていたお役人だがある晩、ホンブラ(本町をぶらつく)に出て本屋に入り本を見て廻る内、向う側に友人が居るのを見掛け手を挙げて挨拶の仕種をした。たった其れだけなのに憲兵隊に連行され半殺しの目に逢った。たまたま彼と友人の間にソ連人が居たとかでスパイの嫌疑を受けたそうである。
個人的な見解では、そのような忌まわしい記憶を蘇らせる施設などは、きれいさっぱりと撤去してしまうのが正しいと考えてきた。何の末練があって、そんな建物や施設をそのまま使うのかということだ。それも国民を監視し弾圧する仕事をする場所としてだ。最近、その2か所の機関を他の所に移し、撤去したという話を聞いた。それでも幸いなことだと思う。
今、ケーブルカーの出発点がある所の、すぐ道を隔てた所に深い谷間があるが、その時だけでも、そこには色々の寺刹が密集していた。京城神社、稲荷神杜、乃木神社、博文寺といった類いの雑多な日本の神杜が集まっていた。簡単に見てみると、京城神社はソウル居住の日本人達の守護神であり、稲荷神社は日本人達の財神として、狐が神様だ。乃木神社は露日戦争で功労を建てた乃木大将の祀堂であり、博文寺は安重根義士に殺害された伊藤博文の祀堂だ。その外、科学館もあった。看板には'恩賜記念科学館'と書いてあった。ここには、機械館、天文館、電気館、化学館、動物館、鉱物館等と、図書室、映写室、講堂等の施設があった。
日本人達が南山に建てた神社の紹介をするために、いまこの文を書くのではない。実に痛根極まりない歴史的事実を知らせようという目的から書いているのだ。日帝は、1931年、伊藤博文の祀堂を奨忠壇に移した。いや、移したというのは間違いで、大々的に新しく建立した。今の新羅ホテルの場所だ。日本の帝国主義者達は、その祀堂をどのように建てたのか?
景福宮内の濬源殿をばらして移してしまい、それを伊藤博文の祀堂の本殿としたのだ。そして、正門(今の新羅ホテルの正門)は、昔の慶熈宮の興化門をばらして移し、詞堂の正門とした。
敢て王宮をばらし、朝鮮侵略の元凶の祠堂として使うとは、これがいかに悪辣な蛮行であり、民族的侮辱であることか。
それも、我か国兵士達の魂を祭った奨忠壇へというのだ。
私は、この民族的屈辱を永遠に忘れることができない。思えばこんな事実は氷山の一角に過ぎない。私は無数の日帝の蛮行を見ながら、また、経験しながら育った。それで、人並み外れて反日感情が深いだけ、私は我が国の政府や執権層の要人達の腐敗、奢侈、虚飾、手練手管等の、国を蝕む行為を我慢することかできない。そのようなことが、国を失わせたのだから。
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野獣が出没したチョンルン(貞陵)
今の忠武路4街から敦岩洞まで電車が通っていた。
道峰山、牛耳洞、北漢山方面に登山に行くためには、電車で敦岩洞まで行って、敦岩洞終点で友達だちと会って、山歩きを開始した。だから、敦岩洞の電車終点は会合の広場でもあった。
ソウルから遠くない所にありながら、都市の騒がしさを忘れうる程度に静かな所がチョンルン(貞陵)だ。チョンルンは、敦岩洞から北の方に向かって狭い道に入って行くと、直ぐにひっそりと寂しくなるが、道の両側は山が高く、谷が深かった。そこにアリラン峠(*)という小さな峠がある。我が国にはアリラン峠という名前の峠が各所にあるが、ソウルのアリラン峠は正にここだ。
アリラン峠を越えて、左の方に行く間道を進めばチョンルンに行くことができる。一言でチョンルンというが、地名としてのチョンルンでない'ヌン(陵)'自体が、チョンルンの片隅を占めている。現在、貞陵洞に住んでいる人も、本物の貞陵かどこにあるのか知らない人が多い。
貞陵は素朴だ。雄壮でもものものしくもない。けれども石垣が張り巡らされていて、'ヌン(陵)'としての名目を維持しているわけだが、静かで寂しく、休息するには適当だが、別に見る所もない。だから余り行かないのかも知れない。
貞陵は、李成桂の後室として朝鮮王朝最初の妃だった、神徳王后康氏の墓所だ。貞陵は、はじめ徳寿宮の横の貞洞にあった。貞洞という地名も、貞陵があるというので貞陵洞と呼んだが、貞洞と略称されたのだ。李成桂は、康氏と康氏の生みの子の芳碩を大層可愛がった。 太祖5年(1398年)に康氏が死ぬと直ぐ、徳寿宮の横に陵を造り、願刹としで興天寺を建立したが、華麗すぎるという世論も多かったという。 李成桂が王位を譲り、上王となり隠退するや、朝鮮王朝の直系だった芳遠は、継母の息子芳碩に権力を奪われることを恐れ、王子の乱を起し、康氏の二人の子供と、それを支持した鄭道伝などを殺し、王権を奪取した。
太宗芳遠は、王宮の近くに陵があることはよくないといって、太宗9年(1409年)に、貞陵を現在の位置に改葬した。ここは地名もないほど人里離れた所であって、貞陵の谷間は行き止まりの谷間で、通り過ぎる人もない、目につかない所だった。 いわば、死んた後で、山の谷間に追い出されたのだった。後日、李成桂が帰って来た後で、新興寺を願刹として指定し、陵を世話するようにした。
ここでまた、同じ切ない事由が付け加えられる。朝鮮王朝最後の王妃である尹氏が、6・25のとき貞陵に避難し、貞陵の近所に隠れて暮らし、毎日貞陵を参拝したという。
朝鮮王朝最初の王妃と最後の王妃が、500年の時空を隔てて邂逅したならば、互いの悲運を哀訴しあったであろう。貞陵から、北岳トンネルが抜け出る西の方に更に行くと、梨畑の谷が現れるが、ここには梨の木が大変多かった。そして、北側の清水荘方向に行く途中には、ぷどう畑が多かった。清水荘の谷間は谷が長く、稜線に沿って山を登ると、北漢山第一峰の白雲台に通じる。北漢山連峰を北に貫いて行くと、松楸方面に出ることが出来、この一帯は、畳々として山が重なり合い、ソウル近郊とは思えない位、深い山奥だった。住む人もなく、野獣だけが出没した。
ソウルから白雲台に登って行く登山路は、色々な分岐点があるが、その中、牛耳洞から道銑寺を通って白雲台に登り、貞陵に降りて来るのが最も近く情趣がある。この寂しく静かだった貞陵の谷間が、現在は1,2,3.4洞に分かれていて、住民が30万だというので、大きく変わりも変わったが、それでもまだ貞陵は静かな住宅街だ。
(*)アリラン峠は、ソウル市内の249個の街路名の中で、大路、路、キルと呼ばれず、コゲと呼ぷ唯一の道路だ。1935年頃に、料理業者達が貞陵一帯の美しい景色を利用し、高級料亭を建ててお客を引くために、この峠の道を平らにならし、民謡'アリラン'の名前を採って、アリラン峠という標識の杭を立てたということに由来する。
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帰らざる橋‥‥ヨンド橋(永渡橋)
東大門から清涼里まで電車が通っていた。東大門を出るや、次第に地帯が抵くなって行き、新設洞、竜頭洞近くに至ると、夏の梅雨期には電車線路か水に侵かり、電車が通れないぼど抵くなる。東大門を出て少し行くと四つ角が現れるが、左側は岩山で、右側に行くとヨンミ橋(永尾橋)を渡って新堂洞に達する。庶民達がヨンミ橋と呼ぷこの橋は、東大門外の最初の橋でもあり、最後の橋だとも言うことができた。何故なら、ここからは清渓川の川幅が広くなって、橋を架けることが難しいためだった。それで、ヨンミ橋は狭い橋だけれど交通量か多かった。
崇仁洞の四つ角から30メートルほど更に行くと、道端に長い石塀が現れる。この石塀で取り囲まれている所が、東廟だ。東廟は、関雲長を祭った祠堂で、ソウルには2か所の関王廟がある。他の一つは南廟で、南大門外の東子洞にある。東廟は、宣祖33年(1600年)、明国、皇帝の下賜金4000斤で建立されたが、敷地2300坪、建坪305坪だ。正門を入ると広い庭があり、その向かい側に本堂がある。本堂の中には、関雲長の木像が高く据えているのみだ。東廟は、ほかのものは見るに足りないが、屋根を載せた形態が特異なので、1931年に宝物として指定された。知って居る通り、関雲長は三国志に出てくる将軍で、中国人達は関雲長を神と見なすが、特に戦争の神として仰き奉る。壬辰倭乱(文禄の役)の当時、我が国に援兵に来た明国の兵士の野戦病院がここにあったが、明軍の士気を鼓舞するため、関帝廟を建てたという。これが、東廟がここに建てられた起源だ。東廟は宜祖35年(1602年)に竣工し、出征する兵士と、武科(武芸と兵書によく通じている人を選抜した科挙)及第を祈願する人達が参拝をした。然し我らの民俗とは融合するものでも無いので歳月が経つにつれ子供等の遊び場に変ってしまった。美術的価値も美しい建物でもないが文化財には違いなかろう。
永尾橋は、またの名を永渡橋とも言った。永渡橋という名がついたのには、実に哀切な事由がまつわっている。李成桂がクーデターで国を建て、その後、芳遠が王子の乱を立て政権を握り、また、幼い端宗を追い出して3度目のクーテターを起こしたのが世祖だった。端宗は、14歳の幼い年で、寧越の地(江原道)に流離のため去らなくてはならなかった。15歳の幼い王妃、定順王后宋氏は、追い出され行く幼い夫を見送りに、ついて行ったが、永尾橋で遮られ、やむなく別れたという。その時から、永遠の別れをした橋だといって、永渡橋という名が生じた。'帰らざる橋'の始祖となったわけと言おうか?(今の帰らざる橋は板門店にある)悲運の主人公となった、15歳になる王妃宋氏は、王妃に選ばれた罪で、実家の父親は賜薬により、母親の閔氏は首を吊られ死刑となった。ヨンド橋で夫の端宗と永遠の別れをした王妃宋氏は、恨多い世の中との困縁を断つために、其処から近い岩山の谷間に定住し、小寺の浄業院で髪を切って尼になり、生涯父母と夫の端宗の冥福を祈ったという。王妃宋氏は、毎日のように、岩山の頂止に登り江原道の寧越がある東方を向い、析りを捧げることを日課とした。それで、この峰を人々は東望峰と呼ぷようになった。宋氏についで来た二人の待婢も、王妃と共に髪を切り尼になったが、王妃があまりのも貧しいので、待婢二人で汚れ仕事を何でもして、王妃を養ったという。役所では、彼等を罪人だと言って百姓達が彼等を助けることを禁止した。彼等に米の一升でも恵んでやれば、捕盗庁に引っ張って行かれ、棍棒で殴られ、死に目にあわせてから釈放したという。逆賊謀議だ、国事犯だ、あるいは国家保安に関する罪だ、その名祢は違っても、一旦そのような罪名が付くと、一家親戚も友人も近付かないのが人心だ。無実で可哀相なことは分かるけれど、後患が怖いのだ。昔も今も、こんな事の前では男達がおじけづき、こそこそ顔を背ける中、婦女子達が立ち上がった。それも両班達に蔑視のみを受けてきた常民の婦女子達だというのだ。いつからのことか、岩山と反対方向の、東大門スケート場があった近所に、女子達だけの野菜市場が出来た。この野菜市場は、男衆は出入禁止だった。男子達には買いも売りもしなかった。このようにして密かに王妃宋氏に野菜などの食料品を提供したと言う。男尊女卑の思想に染まっていた封建李朝社会でもこのようなウォマンバワーが有ったのだから韓国の女性が誇らしくないか。
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オガンス橋の向こう側の乞食村
オガンス(五間水)橋は、東大門の真横の、清渓川6街に架けられた橋で、市内で最も端にある橋だ。ここからは清渓川が広くなる。ソウル運動場と清渓川の川辺の間には、清渓川の抵い土手があり、その一帯は穴窟村だった。この一帯は、梅雨期に水に漬かるのが年中行事だった。ここからは、清渓川は自然のままの状態で流れていた。それも、清渓川は王城の河川なので、国が見兼ねて、英祖36年に人夫20万人を動員して、大々的な浚渫をして、右垣を積んで、都心の河川としての面貌を整えた。しかし、工事をしたのは東大門の五間水橋までであって、その下流は手を着けられない状態だった。五間水橋は、浚渫作業をしながら五個の水門を設置したのに由来する名前だという。河川を浚渫すれぱ、不潔な砂が沢山出ることになるが、その砂を全部東大門の外の川辺に積んで置いた。東大門から五間水橋を渡って行くと、左側に汚らしい川辺の穴窟村があり、右側には穴窟村はないが、やはり汚らしかった。
グラウンドの向い側には高陽郡庁があった。高陽郡庁の横には、京畿旅客という市外パス会社があって、京畿道一帯だけでなく、江原道方面に向かう市外バスが全部ここから出発した.京畿旅客から乙支路の方に回ると、ソウル市立病院(現在の国立医療院〉があって、その横に京城師範学校があるが、この一帯が朝鮮時代の訓練院があった場所だ。すなわち、乙支路6街から清渓川までは、果てしない大平原だったという話だ。ソウル運動場と清渓川の間の川辺を行くと、穴ぐらの貧民村たが、この穴窟村は長い歴史がある。清渓川が完全に蓋をされる時まで、この穴ぐら村がパラック村として残っていた。現在、清渓6街の平和市場から下流側に東大門の先まで、大型商店街が整然と立ち並んだ所が全部そのような所だった。6.25の後には、売春酒場が立ち込んでいた。私が幼かった時、'タンクン'という、蛇を捕りに歩き廻る人達がいたが、'タンクン'は元来'乞食'を指して言う言葉だった。タンクンは乞食の別称で、その由来は次のようだ。清渓川の浚渫で生した砂を、遠くに運搬することが出来ず、東大門の外の川辺に捨てた。その砂が積って砂山になった。乞食等はその砂山に穴を掘って住んだ。穴ぐらは不潔ながらも風雨と寒暑を防さいてくれた。その時から、土を掘って住む、つまり、"土の輩"という意味の(たんくん)と言う言葉が出来、乞食の別称となったと思われる。
そして、日が経つにつれて、乞食達の数が増えるので、問題が生じた。東大門外の清渓川南側は完全に乞食村に変った。然し、彼らは無秩序に生きるのではなく、群の中から毎年一人の代表 'コチタン'(お頭)を、選んで、コチタンの指揮の下、組織的に生活した。それで、自然に乞食のバワーが生じたのだ。もとより、乞食は人非人として、忌避の対象である。捕盗庁の役人等も乞食を相手にするのを避けた。従って乞食村は完全な民主的自治体で乞食国家に等しかった。乞食が増えたのは、政府の責任が大きかった。結果的に政府が乞食を量産したのである。どういう事かと言うと、昔、犯罪人が獄に入れられると、顔や手に罪人のマークを刺青して永久に残した。この刺青を入れる事を"黥を打つ"と言った。我々が悪口に「キョンチルノム」と言うのは、"黥を打つ奴"と言う意味であるが、悪口にもこんな歴史的な所以が有るのは面白い。
一旦、黥を打たれた人は、身の寄せ所が無い。誰も相手にしなかったのだから。たとえ友達や一家親威といっても忌避し、下僕にも、作男にも使わなかった。役所から睨まれるのが恐ろしかったからだ。天地広しと雖、5尺の体、置き所無しである。行着く所は所然乞食村、乞食国だけである。
乞食の増加が社会問題として台頭するや、朝廷では三公六卿等が、鳩首会議を開いた。"乞食問題対策会議"である。
"捕えて殺してしまおう、" "いや、そうはいかない。"あれやこれや、相談の挙句、活性化することに決めたが、その対策が面白い。
乞食活性化方案
1. 慶弔事の際、動員助カさせる。
葬輿が出て行く時、影禎、肖像額等を持って行く事、
門外で歩哨に立ち、他の乞食や第三者の出入りを阻止する事。
2. 内医院、恵民院などで薬剤として使う、蛇、蝦蟇、針鼠、百足のような嫌
悪動物の独占納品権を与える。
こうして、初めに乞食達は収入を上げるために、蛇を捕りに歩き周り、次第に専門職業に変化した。これが蛇取(タンクン)の元祖である。
3. 泥鰌汁(鰍湯)の営葉権を与える。
グロデスクで気味が悪い泥鰌を乞食の取り分として割り当てた巧みな発想だ。このようにして、屍口門の泥鰌汁が有名になったが、ソウル鰍湯(チュウタン)の元祖でもある。ソウル鰍湯は辛くでぴりぴりし、味が特別によい。
非公式には、左右捕盗庁で問者(情報貫〉としても活用した。虞犯名を手先として使う始まりだとても言うか。
それからは、宴を催す家や、喪中の家では、必す乞食が門口を守るようになった。誰も知らせてくれる人がいなくでも、彼等のコンピューター情報網には迅速に現れる様子だった。
もう一つ、笑えないことは、年の初めになると、お頭以下幹部達が、新しい衣服で衣冠を正し.名門勢家に堂々と年始回りに行くことだった。年始回りに来た時には、いくら領議政(総理大臣)とて岨むことか出来ようか。食ぺ物を提供し、手厚くお年玉を与え帰らせた。両班が畏れるのは、王様と乞食だけだった。
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潜水橋の元祖サルコジ橋
往十里とトクソンの間には、漢江の支流が流れていた。ここに架かっていた橋がサルコジ橋だ。以前のトクソムは、平坦な抵地のままで、ザルコジ原といったが、両面が土手(トク)で取り囲まれでいると言うので、トクソムとなった。屍口門(シグムン)は、城内で人か死ぬと、主にこの門を通っで送り出すので生よれた名だか、両班の方達ば屍の字が忌わしいといって、代わりに水の字を書いた。それで、文書には水口門(スグムン)と記録したが、ロで言う時は、シグムン(屍ノ門)だ。死体が沢山出て来るので、墓地が必要だが、屍口門の外は、地面が低くなっている野原で、左青竜右白虎はおろか、地相見達が忌避する平地なので、墓地としては使える所がなかった。たた奨忠壇の方向で、城壁に近い方だけ若干地面が高かった。それで、この方には若干の墓地と火葬場があった。屍口門を出ると、新堂洞、その次が往十里だ。新堂洞は城内と隣接していて、人が多く住んでいた。ソウル市内の人口が継続して増加し、家や土地の値段が上がるので、庶民達は、次第に門の外に押し出されて住むようになった。住所を言うとき、三清洞、嘉会洞など、所謂北村に住む人は官庁でも待遇が良く、新堂洞、往十里に住むと言うと、虞犯者扱いを受けたものだった。
今は江北よりも、江南に住む人がもてなしを受ける世の中に変ったが、昔は反対だった。往十里やトクソムは完全な田園地帯だった。ソウルで消費される野菜と畑の穀物は。巨大な消費市場に接している有利な条件にあったので、主としてここから供給された。そして、ソウルの数十万の人口が排泄する糞尿は、往十里とトクソンの畑にばら撒かれた。
往十里とトクソンに、巨大な糞尿タンクを設置し、そこに市庁の糞尿車がつづけて供給し流し込んだ。それで、その一帯では悪臭が鼻を突いた。
往十里の人達を蔑む言葉として、"往十里の糞蝿"と、からかうのも、これに由来する。往十里とトクソンをつなぐサルコジ橋は、今は、鉄橋の下の川底に埋れた様な状態だが、当時は重要な交通の要所だった。
乙丑年の梅雨時の大雨に、漢江から氾濫した水が、往十里、新設洞、東大門まで入って来て、大洪水の騒動か起きたこともあり、毎年、梅雨にさえなれぱ、水の中に沈んで、交通が社絶したものた。それで、サルコジ橋は、潜水橋(洪水の時、水に浸る橋)の元組であるわけだ。1930年当時の漢江には、鉄橋が、漢江人道橋(ノトウル橋)と広津橋(クヮンナル橋)の、二つだけだった。往十里からトクソンを経て、クヮンナル橋を渡って、京畿、江原、忠清道方面に出て行かねばならないが、サルコジ橋で渋滞が起きた。それで、堤防を高く積み、鉄橋を架けることにしたのだ。今もサルコジ橋があることはあるが、鉄橋から10数メートル以上、下方にある。それだけ道が高くなったのだ。
トクソン(現在は聖水洞)は、別名サルコジ原といった。サルコジ橋、サルコジ原となったわけは次のようだ。異母兄弟と開国の忠臣達を殺し政変を起こした芳遠に激昂した李成桂が、咸興別宮から帰って来ないと見るや、太宗(芳遠)は使臣を送り、太祖李成桂をソウルに帰還させようと努力したが、李成桂は自分を説得しようとして来た使臣達を殺し、帰させなかった。それで、行ったままで帰って来ない人(梨の礫)を、咸興差使と言うようになったが、もし、ついに李成桂が帰って来なけれぱ、芳遠にはクーデターの名分が立たず、政局の安全を期することが出来なかった。太宗が名分と実権の間で進退きわまって悩んでいる時、行きさえすれば死ぬ咸興差使を志願して出た人がいたが、それは朴淳という人だ。彼は李成桂を訪ねて行き、親から離れ、親を探している物悲しい子馬の鳴き声を聞かせ、李成桂を説得したという。その時、李成桂がソウル境内に入った道が、正にトクソン路だ。太宗はサルコジ橋まで出迎えに行った。太宗は、父親の太祖の性格を誰よりもよく知っていたので、父親が自分と面を向き合った瞬間怒りを爆発させる、と予め推側して、サルコジ橋に天幕を張る時、天幕の柱を、大人の腕で二抱えも有る大木を使った。
李成桂は名将で、名弓手だ。李成桂の弓は強弓で、普通の壮士は引くことも出来なかった。サルコジ橋を挟んで、馬から降りた李成桂は、馬に差しておいた愛弓を引き抜き、素早く矢をつがえ、太宗芳遠に向かって一本失を射た。太宗は父親、李成桂の行動を注視していたので、稲妻のように太い柱を抱えで回り、柱の後ろに隠れた。'ぱしっ'と矢は正確に柱に刺さり、余力でぷるぷると震えた。危機一髪だった。太宗は背筋に冷や汗をすうっと流した。太祖李成桂は、やはり英雄だった。芳遠が矢を避け、矢が柱に刺さるや、重臣達が肝を潰し、あっけにとられて顔色を変えている間に、空を仰いで大声で笑い、'天の意なるかな'とひとこと言って、何事もなかったように悠々と橋を渡って行ったと言う。その時から、矢(ファサル)が刺さった(コジョッタ)といって、サルコジ橋、サルコジ原と呼ぷようになった。朝鮮王朝は、建国期にこのような紆余曲析の未に、国家の体制を整備し、その次に世宗大王の文民時代を迎えることになる。
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母岳峠の虎
独立門から北方に、広々と貫かれた道を行くと、左側に昔の刑務所の跡があるが、そこを過ぎ、しぱらく歩くと峠に至る。この峠が母岳峠だ。だから、刑務所の裏山に連なる峰に母岳峠が有る訳である。現在は、統一路に連結される坦々たる大路だが、その昔は、挟くて辺鄙な峠だった。母岳峠には、時々虎が出没し、行人を殺したという。それで、国は、ここに'留人幕'を設置し、軍人を駐屯させた。軍人達は、行人達を留人幕に留めたが、10余人になった時には、峠の向こうまで護送するのが任務だった。ところで、留人幕を守る軍人達が、何時の頃からか通行人から護送料を取り始めた。
もちろん、非公式的な行動で、強要であり、略奪だとも言いうることだった。それで、'母岳峠の虎より留人幕の虎がもっと怖い,という話か生まれもした。後日、その留人幕の場所に監獄を建てたのだ。ソウルには、監獄が2個か所あったが、一つは麻浦監獄であり、他の一つが西大門監獄という正にここだ。名称は、監獄から刑務所になり、現在は矯導所と呼称するが、監獄は矢張り監獄だ。西大門監獄と麻捕監獄が異なる点は、西大門監獄には未決囚監房と死刑執行場があり、麻浦にはない点だ。この近くを通る時は、青い服を着た囚人を、捕縄で腰を列毎に縛り、頭には長い筒状の籠を被せ、顔が見えないようにして、看守が引き連れて通り過ぎる様子を見ることが出来た。赤い服を着せた集団もいた。現在、麻浦監獄は完全に撤去され、西大門監獄は何かの記念品と考えているのか、過去の建物を1,2棟残して置いて、公園だというが、陰惨で不愉快な、監獄の残骸が有る為、市民が寄付くのを好まず、公園としての利用もされていない実情だ。
刑務所の塀を見ると、獄中五苦という言葉を思い出す。
枷械之苦:枷具を使って、手足を縛られる苦痛。
討索之苦:看守や先入者から持っていた金品を奪われる苦痛。金品を無心 する行いは、本人に止まらず家族までも苦しめる。
疾痛之苦:獄中の不潔さにより生ずる各種の寄生虫、病源菌と、栄養不足と、拷間による衰弱によって、疾病に苦しめられる。
凍餓之苦:一口に言えぱ、寒さ、飢え、震え、目まい、衰弱、早死。
滞留之苦;人間が、自由を拘束されるより、大きな苦痛はない。
そんなものに、どんな文化的価植があるとして、一部であっても保存するのか、全く分からないことだ。その上、それしきの空地を管理するのに、何故に大きな管理事務所が必要なのか? 一般人は出入禁止までさせている。市民達は、このような統制区域を見る瞬間、ここは公園ではなく、監獄だということを、今更のごとく感ずる。麻浦と西大門の二つの矯導所を、周辺の都市に移転させた理由が何だったのか。首都の真ん中に嫌悪される施設物を、なくそうというのが目的ではなかったのか?なくすなら完全に撤去するか、保存するなら、何一つ手を付けず、原形そのままを保存すべきではないか。撤去論と保存論の間で、適当に折衷し処理することこそ、主観のない行政の標本だと思う。結果的に、監獄でもなく公園でもなく、ああでもない、こうでもない、国土の非効率と予算の浪費のみに終わった。土一升、金一升の土地ではないか。アバートでも建てで市民の住居でも増やすべきではないか。軍事政権の無定見な行政を、ここでも見るようだ。
峠を越えれぱ、左側に山の中程に火葬場があった。大きな道から火葬場に向かって行く小道は挟く、霊柩車がよけて行くのが困難な程だったが、その小道に入ると、酒場、飲食店などが多かった。火葬場は、もっと遠い所に移すまで其処に有ったが、火葬場の構造は何処でも同じ様なものだ。先ず、火葬場の域内では、火葬場特有の臭いがひどく、その周辺は墓地でぎっしり詰っている。日本人は、火葬をし遺骨を土に埋め、1メートル未満の小さな墓石を立てるが、空間が少なく窮屈そうである。周りの山裾はこのような墓石でぎっしり詰っていた。解放後、その墓石と、墳墓は皆どうなったろうか?
火葬場を過ぎ、続いて下り坂を行くと、下りきった所に小川と橋が現れる。ここが弘済院で、今は、弘済桐、弘恩洞という所だ。弘済院は、朝鮮時代に、中国を往来する使節達を見送り、出迎えた場所だった。中国に使臣が出かける時は、都城を抜け出たこの場所で休息を取りながら、隊列を整備もしたが、ここでは、都城を抜け出した自由な気分で、酒と肴を準備し、妓女達と遊興を楽しんだという。公式使節こそは、4〜5名に過ぎなかったが、荷担ぎ、籠舁き等の雑役夫と、護衛の兵卒達を加えると、数十名に達する。彼等は、その傍らで主人達が遊び、楽しむのを見物するたけで、濁り酒何杯かを貰って飲むのが関の山だった。このような伝統が、後日、ここを色酒家(売春を兼ねた飲み屋)村として繁盛させた。弘済院からは、再び上り坂になるが、峠では右偶にサンゴルの洞窟がある。サンゴルというのは、1〜2ミり程度の立方体の光沢のある鉱石だ。この鉱石をここから掘り出すが、一般には見せてくれなかった。サンゴルは、神経痛に効果があるという。サンゴルは飲む薬だ。過去には一時、人気があった、しかし今はサンゴルを見る事が出来ない。
この峠を越えて行くと、禄蕃里から三叉路を真っ直ぐ行くと、旧坡発に通じ、左に折れてモレネ(砂川)、水色に通じる。
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東洋劇場‥‥韓国最初の演劇専用舞台
ソウルには劇場が沢山あった,優美館、朝鮮劇場、団成杜、光武劇場等と、日本人が経営する劇場も何か所かあった。劇場は、大概、映画を主に上演し、時々、ショーや演芸等も公演した。1935年、西大門の四つ角(現、農協中央会の場所)に、東洋劇場が門を開けたが、東洋劇場は演劇専用劇場として新築開館し、我が国演劇の発展に大きく貢献した。新築開館した東洋劇場は、最新式回転舞台と照明施設を完備した劇場として、城内の話題を集めた。東洋劇場を設立した洪淳彦は、演劇とは関係のなかった人だったが、自分の全財産と、莫大な負債を背負ってまで、韓国最初の演劇専用劇場を建てたのには、それだけの理由があったが、その理由とはすなわち次のようだ。
日本人の養女となったペグジャ(裴亀手〉は、幼い時から演芸的資質か抜きん出ていて、早くから、日本少女歌劇団で主演級として名前を轟かせた。彼女は、所属していた天勝劇団の看板女優となったが、歳月が経つにつれて、心の葛藤により劇団から飛び出し、韓国に逃亡し隠れるようになった。天勝劇団では、八方、裴亀子を探したが、失敗し、天勝も解散してしまった。裴亀子は追われる身となり、各地を流れ歩いて、平壌の小さなホテルに留まっている中に、ホテル支配人だった洪淳彦と会い、彼の助けを受けることになり、二人は結婚した。その後、洪淳彦は妻の裴亀子のために家産を整理し、ソウルに上京し、東洋劇場を建てるようになったのだ。
韓国演劇界は、新派劇で、土月会、朝鮮演劇舎に分かれており、伝統新派だ、改良新派だという分派もあったが、何しろ経済カが貧弱で、活発な活動は出来ずにいる実情だった。このような時期に、東洋劇場の出現は、韓国演劇界に新しい風を起こした。演劇専用劇場の華麗な舞台で公演するのは、すぺての演劇人の夢だった,当然、東洋劇場には、優れた俳優、劇作家、演出家達が集まって来て、東洋劇場では、彼等に対し専属制と月給制を実施した。これは実に画期的なことだった。従来の劇団生活は悲惨だったと言いうるが、立派な施設と給与が保証されれば、安心して芸術に精進することが出来るため、演劇人達が歓喜することは当然だった。東洋劇場では、黄K、沈影を中心とした青春座と、卞基鐘、申銀鳳を中心とした豪華船の二つの劇団を作った。専属劇作家陣としては、林仙圭、李瑞求、李雲芳、宋影、崔獨鵑、金建等錚々たる陣容だった。演出陣は、洪海星、朴珍、安鐘和等が受け持った。東洋劇場では、青春座がソウルで公演している間は、豪華船が地方巡回公演をしており、2~3か月後、豪華船が帰ってくると、青春座が地方に出て行くシステムを採択し、収益金はソウルに送り、必要な経費はソウルから即時補給し、公演に支障が無い様にした。月給も一度も欠かさず、必ず支給されたと言う。
ヒット作を見てみると、林仙圭作 "愛に騙され金に泣く"、李瑞求作 "母の力"、崔獨鵑作 "僧房悲曲"、朴珍脚色 "黄真伊"(高麗朝の妓生、女流詩人)等が有った。
劇場主洪淳彦は、すべてを劇場運営に注込み、自分自身を顧みなかったという。
その洪淳彦が1938年惜しくも病死したので、東洋劇場は衰退の道を辿り、建物と施設全体が、債権者の手に渡った。
また、舞台で一世を風靡した裴亀子は、慧星のように現れた崔承姫に押され、やはり人気の前面から消え去った。
こうして、この国の演劇界に大きな業績を築いた東洋劇場時代は幕を下ろした。その後、青春座は、朴斉行、沈影、徐月影、南宮仙等が中央舞台を創団し、黄K、車紅女、徐一星、金仙草等は、劇団阿娘を作り、別々になった。
その後に人気を集めた演劇としては、林仙圭作、"青春劇場"、"風吹く時節"
"未亡人"、"金玉均"、"彼らの一生"等がある。
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活気が溢れていたヨムチョン橋路
南大門からソウル駅の方を眺めると、ソウル駅に通ずる大さな道があり、その右側に、道が二股に分かれているが、その右の方の道が蓬来洞路だ。蓬来洞路は1指尺(親指と人差し指または中指を広げた間の長さ:ピョンと言う)位の石をぎっしりと敷き詰めた石道だ。この道は、ソウル駅と平行している義州路と出合う。その鉄道を横切る橋があるが、この橋がヨムチョン橋だ。ヨムチョン橋は陸橋で、その下を京義線の鉄道線路が通っている。ヨムチョン橋は、この線路を跨いで立っている陸橋だ。ヨムチョン橋を過ぎると、二股道に出るが、右側は、野菜、果物、魚の卸売り市場で、左側に行くと、ソウル駅構内(裏側)に、ソウル税関と貨物停車場があった。鉄道便でソウルに入って来る貨物は、大多数がソウル駅に入って来て、ここを経由した。それで、ここには多くの運送会社があった。その中で、丸星という会社が最も大きかったが、解放後、大韓通運の母体となった。1930年代でも、トラックは多くなく、大部分馬車を利用した。馬車は、馬が引く荷車だ。車輪は木で作り、その縁を鉄の輪を嵌めていた。馬は、鉄で作ったスパイクを履いている。足には蹄鉄を打つので、馬と荷車が昼夜行き来すると、道路かえぐられてたまらない。それを防止するために、馬車が最も多く行き来する蓬菜洞路に、石を敷き詰めたようだった。
馬車は馬が引き.馬は馬夫が手綱把んで、一緒に歩いて行き来する。品物を馬車で運搬さえすれぱ、馬夫は自分の役目を終わるのだ.荷物を扱うのは、荷物を受け取る側が行い、馬夫は、ただ手助けしてやるだけだった.貨物が貨車でソウル駅に到着すると、関連する運送業者が、人夫を使って荷卸をし、荷主の指示通り運送する。従って、馬車は運送会社の所属だ。事実、馬と馬車は馬夫の所有で、馬は、主人である馬夫が世話をする。主人以上に馬をよく世話することの出来る人はいないからだ。馬の主人は、馬と馬車を運送会社と専属契約を結び、待機していて、指示あるたぴに貨物を運搬する。一時流行した、タクシーの持込制と同じシステムだ。馬夫は、運搬はするが、受取証さえ貰えぱ終わりだ。運賃は運送会社から受け取る。運送会社は、貨車からの荷卸、トラックや馬車への荷積み、運搬または通関、倉庫保管等、運搬に関するすぺての業務を代行し、費用を請求する。一言で荷役というが、荷役労動者も専門分野がある。特に、機械類を積み却しする人夫達は、専門的技術を持たねぱならず、グループに組識化されでいる。老人も、他の労動者より単価が高い。荷役労働者は定額制でなく、徹底的な挙げ高制になっている。
貨物列車は、貨車一輌30トンが基準だ。客車で人と一緒に運搬する手荷物、小荷物は、ソウル駅の正面側で取り扱い、ここは貨車で運搬される大量の貨物だけを取り扱う貨物駅だった。ソウル貨物駅は、ソウルで消費されるすぺての物資の関門だということができた。それで、ソウル貨物駅の周辺である蓬来洞、西界洞一帯には、大型倉庫か沢山あって、倉庫業も盛んだった。ヨムチョン橋を渡った右側には、食料品の卸市場があったが、ヨムチョン橋から西小門、阿現洞に通じる道路までが市場の区域だった。この市場は、6.25当時まで存在していた。ここは、午前3時から夕方まで、大小の商人達の往来が絶えることの無い場所だった。ソウルの所々で商売をする野菜商、果物商、鮮魚商達は、ここに来て、その日店で売る物を買っで行った。特に、午前中は足の踏み場もないほど混んでいたが、その間をジゲ、リヤカー等が人を押しのけて行き来した。いつも活気が溢れる市場だった。午後には、みずみずしい食品を、多少安く買おうとする、つましい主婦達で盛況を呈し、ここを出入する多くの人達を相手に、露店に座板を張った食べ物屋も多かった。
左側の貨物駅は乾燥していて、一日中埃がもうもうと立ったが、右側の農水産市場は何時もじめじめしていた。ヨムチョン橋路は、荷物をいっばい載せたトラック、荷馬車、リヤカー、チゲが絶間無く往来した。小さな石をぎっしりと敷詰めた石道を、ガラガラと陽気な音を立てながら。
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七宮の来歴
七宮を知っていますか?
孝子洞から洗剣亭の方に向って行くと、右側に韓国式の大きな門構が見えるが、柱には宮井洞一番地と書いてあるだけで、それ以外には何の標識もない。規模はかなり大きいし、たしか、古宮の一つには違いないが、長い間手人れを一度もしていない様子で、暗く鬱寂として、門はいつも閉まっている。幽霊屋敷のようで、その前を通り過ぎる時は、いつも気味か悪くなる。そこが正に七宮だ。そこの、もともとの名前は'毓祥廟'で、英祖が建立した李王家の私廟だ。
朝鮮王朝第19代王、粛宗は、3代続きの独り息子たが、30歳を越すまで子供がなかった。悩んた王妃仁賢王后、閔氏は、粛宗の反対を押し切っで後宮を選ぷことになるが、ぞの時選ぱれた娘が有名な禧嬪張氏だ。張氏は、王子を出産するが、その方が景宗だ。張氏は王子を出産し、禧嬪に昇格することになるが、それに満足することなく、様々な策動を尽くし、王妃を追い出し、ついに仁賢王后を死に至らしめた。人間の果てしない欲望は、人を限り無く非情にも残忍にもさせるようだ。気の弱い粛宗は、息子を生んでくれた禧嬪の威勢に押され、恐妻家になっでしまう。重臣達も、逐次禧嬪の勢力に変わるようになり、王は操り人形となる。臣下を支配する王もあれぱ、臣下に支配される王もある。暴君と案山子の岐路だとでも言おうか。操り人形の王であるほど悩みは大きいのだ。粛宗は憂鬱な毎日を送っでいた。ある日、力のない足取りで寝殿に向かっている時、ある小さな部屋の中から、声を殺しで畷り泣く声を耳にする。不思議に思った粛宗は扉を開けで見る、部屋の中には、みすぼらしい祭祀の膳が整えられており、白装束を着た幼いムスリ(宮女に手水を運ぶ宮婢)が一人、位牌に向って泣いているが、驚いた事に、それは仁賢王后の位牌ではないか。
仁賢王后は、自分が捨て、自分が死なせた糟糠の妻であり、忘れ得ない人ではなかったか。ただ禧嬪を憚って、敢えて口に出す事が出来ないだけであった。もしも、仁賢王后の位牌を祭り、祭祀を行う事が知られたら、当然、逆賊に追込まれ、首がばっさり吹っ飛ぶに決っている危険な雰囲気の中で、死を賭してまで前妻の祭祀を行うのが不思議に思われ静かに尋ねてみた。
「お前は何者か? なぜ敢えて仁賢王后の位牌を祭っているのか?」
ムスリは王様に声を掛けられ、驚いて足元にひれ伏し、
「はい、殿下、私奴は仁賢王后様に仕えましたムスリで御座いますが、今日は王后さまの誕生日なので、ご恩を忘れられず祭祀を行いました。どうぞ殺して下さいませ。」その言葉に粛宗は衝撃を受ける。
他の者共は、自分の安全のみを考え、保身に汲々としているが、この娘は死を冒して前主人の祭祀を行っている。このような善良な心根があるのかと、感動する。同病相憐れむとか、同情が愛に変るとでも言おうか、粛宗はムスリを寝殿に呼び入れるようになり、共に夜を過す事が頻繁になった。
この事が禧嬪の情報網を逃れる事は出来なかった。しかし、初めは禧嬪も、それしきのムスリの尼っこ風情がと、高を括っていたが、ムスリが懐妊するに至るや、今度は禧嬪が衝撃を受ける。
それから禧嬪は、本格的にムスリを迫害し始める。ムスリは既に予想もし、覚悟も決めていたし、王様の尊いお胤を孕んでいたので、極力気を付けて、禧嬪の悪辣な策動を巧妙に避けていく。歳月が流れ、臨月となったが、禧嬪は悔しさに堪えきれず、捕えて庭の地べたに跪かせ、折檻を加え、その上に大きな水甕を被せ、その中で死なそうとした。
粛宗は、この状況を伝え聞いて驚き、急いで現場に走り、甕を除き愛人を救い王の寝所に寝かせ介抱した。幸いにも、異常なく王子を安産するが、女人は淑嬪崔氏で、王子は英祖王だ。
このように、封建李王家の権力争いは残忍且醜悪であった。1725年、第21代王として英祖が即位したが、母親の恨みを晴らす為、先ず第一に宮殿から近い所に祠堂を建設して、毓祥廟と命名したのが今日の七宮だ。
英祖は翌乙巳年に、恨み晴らしの大粛正を敢行したが、これが有名な乙巳士禍だ。英祖は、乙巳士禍の余波が静まった頃の1729年、毓祥廟を、毓祥宮に
昇格させた。朝鮮王朝の歴代王を祭る廟堂を宗廟というが、一介の後宮の廟堂に宮号を付けたことが、いかに破格な処置だったか知ることかできる。それから180年後の1908年(隆熙2年)、日本の統監は、他の所にあった6個の祠廟を、ここに追いやり、七宮と名を付けた。日帝は毓祥宮内の毓祥廟の横に、6個の廟屋をぎっしりと建でてしまったが、七宮は次の通りた。
毓祥宮 粛宗後宮 英祖の生母 淑嬪 崔氏の廟堂
延祐宮 英組後宮 真宗の生母 靖嬪 李氏の廟堂
徳安宮 高宗後宮 純献貴妃 厳氏の廟堂
景祐宮 正祖後宮 純祖の生母 綏嬪 朴氏の廟堂
宣禧宮 英祖後宮 荘祖の生母 瑛嬪 李氏の廟堂
儲慶宮 宣祖後宮 元宗の生母 仁嬪 金氏の廟堂
大嬪宮 粛宗後宮 景宗の生母 禧嬪 張氏の廟堂
歳月は流れ、今や七宮は、住む人も訪ねる人もない完壁な幽霊屋敷となってしまった。
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紫霞門外ヌングムの谷間
ヌングム(朝鮮りんご)を漢字で書けぱ、林檎(イムグム)となる。林檎は韓国語でサグヮ(沙果)と言う。日本人はザグヮを'りんご'と呼ぴ、林檎と書く。中国語ではサグヮを'ピンクォ'と呼ぴ、苹果と書く。我が国ではヌングムもサグヮも林檎とは書かない。ヌングムはヌングムで、サグヮはサグヮだ。ヌングムはサグヮと違う.ヌングムはサグヮの始祖、お爺さん位にあたる果物のことだ.見かけはサクヮと同しだが、大きさは、コルフ球ぐらいだ。初めは薄緑色で、熟れると桃色に変わる(桃色であり、赤色ではない。味はとでも酸っぱい。初めは堅いが、熟れすぎると水気がなくなり、むしろ味がまずくなる。ヌングムは酸っぱいだけで、良い昧はしない。外から見ると、可愛く美しい。しかし,いざ食ぺてみるとまずい。それで、子供達もあまり食ぺなかった。従って値段も安かった。ヌングムは林檎の原始種ではないだろうか?
ソウルでは、メングムはありふれていた。ソウルにヌングム産地があったためだっだ。ヌングムといえぱ紫霞門外で、紫霞門外といえぱヌングムだ。それほど有名だった。紫霞門から洗剣亭を過ざ、きれいな渓谷に沿って上がって行くと、両側の急斜面が、ことごとくヌングム畑だった。秋には、色とりどりに、枝ごとに房々とぷらさがっているヌングムが、とても美しかった。日曜日に、一日の遊びに行くには、まことに良い場所だった。紫霞門外にはヌングムも多かったが、李と梅桃(ゆずらうめ)も多かった。私は不思議なことに、私より年下の子供達とは付き合わなかった。友達の中では、私が一番年下で、一番小さかった。晩春のある日、図体の大きな友達と、紫霞門の外に遊ぴに行った。ちょうど梅桃がまっさかりだった。梅桃はとても小さく、真赤な実だ。升で計って売っていた。畑では、木ごと売ってもいた。その日、梅桃の木を一本買った。木を買えば、その木に付いた実は、好さなようにもいで食べてもよい(もちろん、その日一日限りで)。木から直接もいで食ぺるのだから、とても気持が良い。自分が果樹園の主人にでもなったような気分だ。梅桃の木は大きくないので子供でも手が届く。無我夢中でもいで食べた、食い得だから、腹一杯食べたろう。
帰り道に道端で立小便をした。これはどういう事か? 小便の色が赤い、血が出るのかと思ってビックリしたが、他の子供も同じだし、痛くはない。それでやっと赤いゆずらうめの色素が滲み出るのだと思って安心した。小さいゆずらうめでも食べ過ぎると小便の色が赤くなる。
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朝鮮最初の百貨店
豊臣秀吉が日本を統一するとき、商人達と密接な関係があったという記録がある。商人は政権の庇護の下で成長し、政権は商人の支援により権力を拡張する、いわゆる政経癒着が根探い国が日本だ。三井財閥系列の三越百貨店が、我が国に進出したのは1906年だった。しかし、百貨店としての面目を整えるようになったのは、1920年代からであり、現在の新世界百貨店が三越の後身のわけだが、7年の工事の未に、1934年に完工を見た建物だ。小林洋服店が、1921年、丁字屋百貨店を建てたのが、今のミドパ百貨店だ。日本の呉服商中江藤次郎は、1922年、三中井百貨店を設立し、1932年には店舗を新築、拡張した。1930年代は、全世界的に経済恐慌の特代だった。日本本土では、倒産する企業が続出したが、朝鮮は、大陸侵略の後方基地として、経済が活発で、百貨店が発展した。朝鮮人商人達も、大衆の新しい文物を取り入れる傾向のお陰で、新しい経営方式を導入するに至った。その中でも崔楠は、1919年、女性用品百貨店の東亜婦人商会を設立し、好評を博した。1937年、鐘路3街では、韓相憶が設立した東洋百貨株式会社が門をあけた。そして、1939年には、朴興植が、鐘路の四つ角に、我が国初代の百貨店、和信を開店する。百貨店が、国民の購買力を超過し、競争が激しくなると、顧客に対するサービスにも力を入れ、新しい経営方式を導人した。このように、1930年代は、我が国の商業体系に一大変革をもたらした時期でもある。
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ペウゲ市場
ソウルには、2か所に大きな市場があった。東大門市場と南大門市場だ。東大門市場がある礼智洞一帯を'ペウゲ'といった。それで、一般にはベウゲジヤンで通じた。ペウゲ市場は、絹織物、麻布、綿布が主カ商品だ。1905年、鐘路の巨商朴承稷が、数人の反物商と資本を出し合って、クヮンジャン株式会杜を創立し、ペウゲ一帯を市場として開発した。いわぱ、我か国で初めての総合流通基地を作ったわけだ。自然に、各地の反物商達が集まって来て、織物取引の中心地として成長するに至った。このクヮンジャン株式会社は、今も健在で、市場内の大部分の不動産を所有しているという。一方、南大門市場は、形成過程が、東大門市場とは大いに異なる。李完用とともに、国を日本に売り渡すのに重要な役割を果たした売国奴、宋秉oの長男、宋鐘が、1907年、物産会社を設立し、社長になった。これが南大門市場の母体だが、南大門市場は、シンチャンアンジャン(新倉内の市場)と呼ばれた。今も、南倉洞、北倉洞のような洞名が残っているのは、ここに宣恵庁(米穀、布、金銭等の出納を掌った官庁)の倉庫があったことに由来する。南大門市場は、1922年に、日本人の会社である、中央物産株式会社の手に渡ってしまった。このように、ソウルにある2か所の大市場は、その設立主体が異なり、運用方式や主カ商品等が違ったので、互いに異なった特徴を持つようになった。南大門市場は、ソウル駅が近いので、地方から鉄道で上がって来る物資が集中したし、ソウルから地方への輸送にも便利で、主力商品がないにもかかわらず、取り扱う品目が多様で、取引が活発で繁盛した。反面、東大門市場は、絹織物、麻布、綿布を中心とし、糸、ポタン等付属資材と、京畿道東北部、江原道等の地方物資と、伝統朝鮮商人達が集まって来たが、南大門市場の繁栄に追い付くには及ばなかった。
卸売市場の主役は、'物産客主'だった。客主は、店舗と事務室を持ち、'委託販売××商会'という看板を掛けていた。例えば、農水産物卸売市場で、競売に参加する仲買人と同じ様な役割だ。客主の下には巨間がいる。巨間は、店舗がないプローカーを言うが、巨間の役割は仲立ちをすることで、常得意の客主のない地方の荷主を、適当な客主に紹介もし、客主が引き受けた商品を小売人に売りもする。巨間が得るコミソションを口銭という。客主は、財力もなくてはならず、専門性と取引基盤がなくてはならない。専門性は、殻物、野菜、青果、乾魚物、唐辛し、にんにく、のような特産物、または竹製品、ワングル製品のような手芸品に関し、取引基盤は、自分と紐帯関係がある地方組織網をいう。トラックで運送して来る貨物は、一且客主に委託することになるが、当日処分し、代金を精算することを原則とした。代金は、その日の市場相場通りである。客主は正直でなけれぱならず、それに従って、荷主は取引金額に対して、異議を申し立てることができないのが不文律だった。客主は取引金額の一定のパーセンテージを手数料として受け取った。客主は、荷主や運転手を常得意とするために、便宜を図ってやり、接待もした。
鉄道貨車(貨車一輌は30トン)で輸送する物資は、これとは異なり、産地で取引が成り立つ。客主は産地で物資を買い集め、貨車で輸送する。従って、この場合は、委託販売ではなく、自己販売だ。ここで客主の真面目が発揮された。大きな利益を得ることも、大きな損害を受けることもあるからだ。
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鐘路裏道りスケッチ
私は、少年時代、裏通りをよく歩き回った。新道の方は家も大きく、清潔だったが、子供達が歩き回るには、索漠として情感がなく、面白くなかった。それに反し、裏通りは、庶民達の生活がそのまま表れていて、騒々しく汚らしくても、飾らない生活そのままの様子が表れる所で、特別な情を感じた。それだから、ソウルの城内の裏通りの隅々まで、私が知らない所はないほどだった。裏通りを歩き廻ると、見物も多くて退屈せず、近道を行くという気持ちになり、好んで裏道を歩いた。
日本人地域である忠武路通り(本町と称す)は、初めから裏通りがなく、忠武路それ自体が裏通りまがいだった。乙支路通り(黄金町と称した)は、裏通りがあることはあるが、不規則だ。くねくねと、ここで曲がり、あそこで曲がり、行き止まりになったり、つながったり、とでもめちやくちやた。これに反し、鐘路の裏通りは、鐘路4街から光化門まですっと延びていた。両側は、ぴったり揃っていた。鐘路の裏通りは、秩序もあり由緒も深い。鐘路4街から3街の間は、商人達が多かった。3街から2街の間は、食堂、飲屋、売春酒場が多く、2街から1街の間は、同じ飲み屋、売春酒場でも、高級に属する店が多かった。特に武橋洞裏通りは、茶房通りといって、妓生のいる酒場か多かった。そんなわけで、武橋洞一帯は、政治ブローカー(新しい言葉ではロピーストだったかね?)達の巣窟でもあった。朝鮮時代には、使令(小役人〉が"退れ、退れ"と先頭に立って叫ぴまくる、高官達の行列が通って行くと、百姓共は地ぺたにうつ伏せていなけれぱならなかった。百姓達がどんなに急ぎの用事があっても、我れ関せずで、行列が通り過ぎてしまうまで、待たなくてはならなかった。それが馬鹿らしくて、裏通りを往来したものだった。裏通りではそんな目に逢わなくても済むから。それで、鐘路の裏通りを避馬通りと言ったものだ。
鐘路3街には、有名な"明月館"があった。明月館は、食道園と共に、朝鮮料理店の二大山脈であり、明月館の妓生達は、券番から正式に教育を受けた品格ある伝統芸者(キーサン)で、今の言葉で、専門芸能人だ。券番は、妓生達の教育と管理を担当した所だ。ソウルには漢城券番があった。
妓生は、姓を使わなかった。姓が有るには有るが、無いのと同じだ。春深とか、梅香とか、芸名のみで通った。何故かと問うまでもない。もし、男の立場で、妓生が自分の姓と同じなら、交わるのが気まずいからだ。だから妓生は芸名だけの人間だ。妓生は料亭に住込んでいるのではなく、自分の家で独立して住む。お客と予約が有るか、料亭で客が呼べば、料亭では券番に知らせる。券番は人力車を妓生の家に迎えにやる。つまり、券番は妓生等のマネージャ組織な訳である。富豪達の寵愛を受け、多くの財産を所有した妓生もいたし、権力の有る高官の庇護を受け、権勢を振るう妓生も居た。
明月館の裏手の敦義洞一帯は、売春婦の部落だった。一時、"鐘3"という言葉が、売春村の代名詞として、流行したものだった。
開放後、公娼が廃止された以後に出現したというが、やはり、売春は世界で最も古い職業だという言葉は、聞くに値する。鐘3一帯には、浮浪児、泥棒、贓物屋、高利貸、そして、彼等の手先、プ口一カー等の暗い職業が蠢動する場所でもあった。
鐘路の横町は光化門で終わるが、横町が終わる所に、昔は恵政橋という橋があった。この恵政橋は、烹刑を執行した場所として有名だった。烹刑とは、李朝時代に貪贓(汚職)をした官吏に課する刑罰をいい、貪贓というのは、新しい言葉では、不正蓄財をいう.絶対王権社会では、賄賂は通常的な慣行ではあったが、その度が過ぎ、苛斂誅求になると、民心が離脱するようになる。それで、見せしめに処罰をした。一罰百戒と言ったかね。'烹刑'を文字通り解釈すれぱ、茄でて殺す刑罰だ。残忍で野蛮的な刑罰のようだか、刑の執行方式を知っでみれぱ、そうでもない。石を積んで竈を作り、その上に大きな釜を掛けておく、それから、その前に釜の蓋を置き、釜の蓋の上に罪人を縛って跪つかせる。罪人が見ている前で、薪を投げ込み、水を釜の半分位になるように注ぐ。準備が出来ると、命令に従い、罪人を釜に投げ込み蓋を被せる。その次に、薪に火を付けるが、本当に火を焚くのではなく、火を付ける振りをするのだ。火がぱうぽうと燃え上り、湯が沸く(仮想で)。罪人は釜の中で身悶えして死ぬ。間もなく火を消し、蓋を開け罪人を引き出す。罪人は死んだ。いや、死んだ振りをしている。罪人が死んだので、担架に死体を乗せ布を被せる。死体を待っている家族に引渡される。家族達は哭泣し、担架を家に運び去る。以上で烹刑の執行が終るのだ。政府が国民を欺瞞する、裁判ショウにしては幼稚でもあるし、原始的な純真さも有ると言えよう。
更に笑わせるのは、罪人の家では正式に葬礼を執り行うと言う事だ。子、嫁等は、白装束に身を包み空の棺をまもり、お悔みを受け、するべき事は全部する。葬輿に棺を載せ墓地まで行列を作り、哀しみの中に埋蔵し墓標も立てる。
年々忌日には祭祀も行う。死んだ本人は奥部屋に隠れ、他人の目に触れない様にすることで、形式的には完全に死んだのだ。
婦人は寡婦になる。夫と共に暮す未亡人である。生きているので、夜には夫婦が一緒に寝る。夫婦が一緒に暮すから子供も出来る。しかし、その子は、寡婦の子だから、私生児に登録される。その内、本人が本当に死んだらどうする?
仕方が無い、夜中にコッソリお墓に本物を埋める。二度葬儀をする訳にもいかないでわないか。
抱腹絶倒の、奇妙でユウモラスな刑罰、人間を茹でて殺す、惨たらしい烹刑の正体である。恐らく世界の刑罰史上の一ページを飾るであろう。
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出入口扉のない電車
日本は、ソウルを京城と名づけた。
当時、ソウル市内の大衆交通手段は電車が全部だったといいうる。電車の車庫は、今の東大門総合商店街がある所だ。電車は、そこから出発して、車庫のある所に帰る。路線は、東大門から清涼里までが一区間、東大門から乙支路を経由して、クリゲ(乙支路入目)を回り、鐘閣、西大門、麻浦までが一区間、東大門から鐘路を経由して、鐘閣、クりゲ、南大門、ソウル駅、竜山、鷺梁津までが一区間、忠武路4街から昌慶宮、敦岩洞までが一区間、全部4路線で、電車賃は一区間で5銭だったと記憶する。電車には扉がなかった。後で、窓と出入口扉がある電車に替わったが、最初の電車には扉がなかった。速度も速くなく、走って行くと追い付くこともできる程度だった。いつか一度やってみたら、楽々とできて面白かった。電車は前後がない。進む方が前だ。両方に運転台があるからだ。運転台の上の方には安全器があるが、時たま、ぱちっと弾き飛ばされて、火花が出て、乗客達をぴっくりさせたりもする。電車の屋根にある長い鉄の棒の先端に、溝が有る小さい車輪が取り付けられている。この車輪の溝を、空中に張っである電線に嵌め転がって行きながら電気を電車のモーターに伝えるようになっている。ところが、何かのはずみで、この車輪が電線から外れてしまう事がままあった。そんな時は、運転手が窓の外に頭を突き出し、鉄棒に繋がっているロープを引き寄せて車輪の構が電線にぴったり合うように、はめ込まなければならなかった。自動車は、総督府の高官達が乗る位しかなく、タクシーもあるにはあったが、一般人は乗ることなど思いも寄らなかった。その外、映画で時折見る、人力車というものがあった。人力車は、自家用と営業用の二種類があり、人力車は一人乗りで車夫が引いて走る車だ。人力車は、妓生達が多く愛用した。私は、幼な心にも、人力車に乗って行く女性を見ると、あれは妓生だと断定したものだ。何故そう思ったのか、私も分からない。その外、市内電車とは別に、郊外電車があった。東大門電車車庫の向こう側から出発し、トくソムまで運行したが、この電車は実に見物だった。市内電車は1輌づつ運行したが、市外電車は5,6輌を連ねて運行した。また市内電車は枕木とレールの殆が土の中に埋められていて、道はアスファルトで舗装されており、安全感があったが、郊外電車は枕木が地上に露出されていて、とても不安だった。特にアナム川を渡るときは、木で作られた橋の上を通るが、落葉松をごちゃ々々と組立でて作った橋で、電車が通り過ぎる毎にゆらゆらした。それで、乗っていても不安になって、其処を通過する時はいつもはらはらしたものだ。そして、この電車に乗って行く時、もう一つの名物(?)は、竜頭橋を渡ってからの人糞の臭いだった。その一帯は低地帯の野原で、全部が野菜畑なので、ソウルから運ばれる糞尿は、ここの畑にばら撒かれるのだからたまらない。夏は特にひどかった。おまけに、蝿の群にも閉口した。蝿は、電車の天井といわず、柱といわず、隙間なく止まった。蝿は追っても中々動こうともしない。このように、スリルと悪臭と蝿の群れに悩まされながらでも、一旦トクソムに到着して、電車を降りると、涼しい川風が爽やかに迎えてくれた。
第 1部 終り
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