忠臣 趙雄 中の1



数日後、母に申し上げた.

雄、『今、西蕃が強く栄え中原を侵略しようとしています.少子無才ながらも行って様

子を見ようと存じます.』 

母、『女が子を産んで戦場に出せばどうして生還を望めるか.迂闊な事を申すな.』

雄、『少子も母上を一人置き去りにしてただの好奇心で戦場に行くのでは御座いません

.先生からこうこう指図を受けて行くのです.師の命に従わざるを得ますまい.』

母、『師の命が左様なればいたし方あるまい.魏王は父上とは同僚であったのだ.名前

は申光だ.先ず魏王を助けて功をあげて一応帰ってきなさい.』

雄は母に別れ師から貰った路程記に従って腰には三尺の宝剣を吊り、龍馬に跨って流星

の如く走るさまはまさしく雄々しい偉丈夫であった.

一日を走ったが人家一つ無い.石ころの多い山間の小道をとぼとぼと進んでいたら犬の

声が聞こえる.一夜の宿所を求めてそこえ行ったら数戸の家が有った.家には灯火がと

もっており農作の話しをする声が聞こえる.雄は馬を下りて戸口に立って主を呼んだ.

やがて一人の老翁が出てきた.雄は一夜の宿泊を頼んだら老人は快く迎え入れ離れの客

舎に案内した.見れば離れの客舎はさほど古くも無いのに完全に空いている.

一通りの挨拶を交わした後.

雄、『どうして離れにあきやをお建てになりましたか.』

主、『この一帯には家も宿屋も無いので行き来の旅人を泊めて上げるために建てました

.』

雄、『それは有り難い思し召し.多くの人が助かる事ですね.』と感謝した.

老人は夕食の支度をさせ雄に上げた.雄は有り難く頂いた.

それから灯火のしたで兵書を見ていたら三更に近い頃一人の絶世の美人が緑衣紅裳をま

とい腰には月佩を吊り部屋に入りもの静かにお辞儀をした.

雄、『お前は何物か?夜中に男を訪ねるとは何事か?』

女、『私はこの村に住むものですが将軍様の寂しさをお慰めに参りました.』

と応えるが幽鬼に違いない.雄は逐鬼の呪文を唱えたら女は泣きながら出ていった.

雄は心を落ち着かせるため兵書を低い声で朗読をして居た.三更が過ぎた時刻、一陣の

狂風が吹きすさび木の枝が千切れるように揺れ砂石を飛ばし部屋の戸が開いたり閉じた

りする.

雄は驚いて成行を注視していた.やがて一人の将軍が現れた.見れば8尺の長身に甲冑

をまとい三尺の剣を持ち書案の前にどっかとあぐらをかいて座る.人を圧倒する威風が

ある.

雄は宝剣を引き抜いて雷のごとき大声で

『邪は正を犯し得ない筈だ.汝は如何なる幽鬼が大丈夫の前に現れたのか?』と、叱咤

した.

すると将軍は一歩遠のいて座りなおした.雄は剣を振るって切りこんだ.将軍は驚いて

逃げていった.雄は眠られず息を整え心の安定をたもつのに勤めた.

やがて扉の外で人の声があり、

『深夜に甚だ失礼ですが将軍にお目に掛かり是非お話し申し上げたい事が御座います.

お許し下さいませ.』と、来訪の意を告げる.雄は不審ながらも言葉が丁重なので、

『お入りなさい.』と許した.

一人の官員が入ってきた.正式の官服に黒の官帯を締めて静かに入って頭を下げた.

雄、『深夜ゆえ人神の区別はつきかねるが何の用件で夜中に来ましたか?』

男、『私は浩然の気がありまして関西地方で将軍になり戦場を駆け回りましたが志を達

せぬ内に口惜しくも戦死をしました.さきに将軍の姿で現れましたのは貴方の度胸のい

かんを試したのです.将軍のお出ましを迎えまして私の達し得なかった勝利を得、怨恨

を晴らす機会だと喜んでいます.その前の美女は私の愛妾でした.』と言い戸を開けて

女を呼び入れた.

美女は甲冑と宝剣を両手で捧げもち男の横に座る.

男、『この甲冑と剣で勝利を収めて下されば小将の畢生の恨みを晴らしてくださる事に

なります.ご恩はお忘れ申しません.お帰りの時に甲冑と剣を墓の前に埋めてください

ませ.』と、言い終わると女と共にお辞儀をして去って行った.

夜が明けてみれば黄金の甲冑と三尺の宝剣が置いてある.雄は不思議に思い主人を呼ん

で聞いてみた.

雄、『この近くにお墓がありますか?』

主、『裏手に将軍のお墓があります.』

行って見れば碑石に「関西将軍黄達之墓」とあり、その下手の少し小さい墓には「魏夫

人月娘之墓」と書いた碑石があった.

雄は将軍の忠魂に感動を受け勇気百倍して甲冑と剣を持ち魏国の戦場に向かった.





忠臣 趙雄 中2



数日の後魏国の都付近に着いてみれば戦争は既に始まっていた.

百里にわたる広い地域に両軍は陣地を築いていた.西蕃の陣は泰山を背景にしており、

魏軍は大江を後ろに背水の陣である. 西蕃の陣勢は堅固で将軍の数も多い. 対陣一

月あまりの間魏国軍は蕃軍に連日連敗を重ね今にも崩れ落ちる有り様であった.

雄は身を潜めて両軍の形勢を眺めていた.両軍入り乱れての戦いが酣である中、一人の

蕃将が左冲右突戦場を無人の境の如く駆け回り蕃刀が振り下ろされるたびに魏将の首が

刎ね飛ばされている、勢いを得た蕃将は「吾に刃向かう魏将あらば出て参りわが刀を受

けよ.」と大音声で叫んだ.その声は雷の如く戦場に響き全軍を震いあがらせた.魏軍

には将は皆戦死し軍を率いる将軍がいない. 魏王は涙を飲んで急いで降書を認め後将

軍を呼び上げさせた.

後将軍は降書を持って出て行った.蕃将は後将軍を見つけ蕃刀を振りかざして駆け寄っ

た.慌てだ後将軍は王の降書を高く掲げ「降書です.受け取ってください」と恭しく捧

げた.蕃将は呵呵と大笑いをして降書を読んだ後大いに怒り

『お前の王が生意気にも降書のみを出し陣前に膝まついて首を差し出さぬとは許し置け

ぬ.先ずお前の首を跳ね見せしめにする.』と刀光一閃に後将軍の首が飛んで地面に転

がった.

蕃将は後将軍の首を刀に突き刺して意気揚揚と陣中を疾駆した.

万策尽きた魏王は敵に捕らわれ辱しめを受けるよりは自ら切腹をしようとした.



見るに見かねた雄は怒り天をつき黄金の甲冑に三尺の宝剣を振りかざし龍馬に跨って駆

けでて大声で 「蕃将はわが剣を受けろ」と叫んだ. 両軍の将兵は突然現れた天兵の

ごとき雄の威風に呆然としていた.雄は蕃軍に突入し秋の草を刈る如くなぎ倒した. 

意気揚揚した蕃将も数合を交えずして首が飛んだ. 雄は蕃将の首を剣に突き刺して高

く掲げ魏軍の本陣に入った.

天から降りたのか地から突き出たのか忽然と現れ陣中を蹂躙し破れかかった魏国軍を助

け勝利一歩手前の西蕃第一の猛将の首を撥ね群がる蕃軍を踏みにじった雄の勇姿に両陣

とも唖然としなすすべを知らなかった.

魏王は展望台で敗戦直前の逆転に狂喜して雄を傍らに招き賞賛して止まなかった.

雄は台下に降りてひざまづき申し上げた.

『小将は営外のものでありながら僭越にも陣中に飛びこみ勝手に人を斬る罪を犯しまし

た.処罰してくださいませ.』と謝罪する. 王は多いに感激して

『余が才能が足らないから将軍のような俊材を招き得ず一命が尽きる間際でしたのに意

外にも将軍が現れ余の命を助けたのみならず魏の国を救いました.願わくば将軍の大名

をお教え下さい.』 雄はさらにひれ伏して身分を明らかに申し上げた.王は雄が趙正

仁の息子であるのを知り大いに驚き且つ喜んで、雄の手を取り感慨にふけるのであった



『将軍の父親は余とは竹馬の友です.今そなたを対するに旧友と会うようで嬉しくも有

り又悲しくもあります.』としみじみと語りながら又聞いた.

『そなたの便りは全然聞けなかった.何処で如何していたのか. 又大国の状態も聞か

せてくれ.』 雄は涙を流しながら、李斗柄が宋の帝位を簒奪し自ら帝王の座につき、

太子を泰山府渓良道に安置した事、自分母子が亡命して歩いた経緯をかいつまんで申し

上げた.魏王は話しを聞いて失神したが周囲の介抱で息を吹き返した. 雄は魏王に

『未だ侵略軍を撃退致しておりませんからまず戦いを平定してからご相談申し上げます

.』と言って励ました.魏王は気を取り直して蕃軍えの作戦に取りかかった.

このとき、蕃王は諸将に

『先の敵将は如何なる者か?剣術が尋常でなかったぞ.憂えるべき相手であったぞ.』

一将が大きな声で答えた.

『そ奴の首は少将の槍先に御座います.殿下はご覧下さいませ.』と槍を携え馬に跨り

躍り出て.

『敵将は速やかに出て吾が槍を受けよ.』と大音声(ダイオンジョウ)を張り上げて駆けて

出た.

雄は“おう”と答え龍馬を鞭打ち迎え出た.正に「猛虎出林の気象」である.10合に足

らずして蕃将の首が落ちて草地に転がった.勢いに乗じて雄は宝刀を打ち振り敵陣を蹂

躙して大きく叫ぶ.

『蕃王は速やかに出て降伏せよ.若し逡巡すれば汝の首を撥ねて西蕃を滅亡させるまで

だ.』

その声が天地を震撼する如きである.蕃陣は慌てふためいて大混乱した.

雄は悠々と本陣に帰った.魏王は雄の奮戦に案堵しながらも若しや傷でも受けるかと心

配した.蕃王は顔を蒼ざめ『敵将を如何にすれば捕らえられるかのう.』と溜め息をつ

く.左将軍 李黄が立ちあがり、 『明日は少将が出陣して敵将を捕らえてご覧に入れ

ます.』と豪語した.



魏王は趙雄を大元帥に任じ魏軍の総指揮官を命じた.大将旗に金文字で「大国忠臣魏国

大元帥」と書いて陣前に高く掲げた.趙雄は陣前に出て宝剣を抜いてかざし蕃陣に大音

声を張り上げた.

『蕃王は速やかに出て首を差し出せ.』その声は天地を揺るがせるようであった.

蕃将李黄が勇躍出陣して戦いが始まった. 龍虎相打つ勢いで砂石が飛び空が霞んで敵

味方の区別も難しい中、蕃陣ではもう一人の猛将が躍り出て李黄を支援した.天地混沌

の大混戦が続いたが剣が中天に光を発したかと思うと一将軍の首が空中に撥ねられ地上

に転がった.良く見れば蕃軍の左将軍李黄の首である.又数十合を交えた後支援に出た

蕃将の首まで地に落ちた.勢いを得た魏国の軍勢が一斉に鬨(トキ)の声を張り上げな

がら蕃陣に殺到した.

趙雄大元帥は剣を打ち振り無人の境を行く如く敵陣を蹂躙し守門の将を蹴散らし門旗を

破り刃向かう者を斬り倒し 「蕃王は出て首を差し出せ」と叫びながら敵陣内を駆け回

った.

まるで天神のような趙雄の勇姿に蕃軍は蜘蛛の子が散るように逃げ出し、蕃王も兵卒に

変装して逃げて漸く死を逃れた.趙雄は逃げ遅れた敵将を縛り本陣に引き上げた.

魏王は陣門まで大元帥を迎え出て趙雄の手を取り展望台に導き手柄を褒め称えた.雄は

『これひとえに殿下の弘徳で御座います.』と謙遜した.

指揮所に引き下がり中軍に命じて蕃陣を捜査し遺棄した食料と兵器をあつめてはこび入

れ敵陣を焼き払うよう命令した.やがて捕虜にした蕃将14人を引き出して形式的な取り

調べをした後

『お前等を斬首にするべきだが特別に釈放するから帰ったらお前等の王に申せ.これか

らは国境を侵すなと.』と言い放してやった.命拾いをした蕃将らは涙を流して感謝し

て帰った.

魏国軍は戦勝祝いの大宴会を開いて将兵を慰労した.その席で魏王は

『早く大元帥を逢っていたら大将を一人も失わなかったろうに8人の大将を失ったから

彼等が可哀想でならん.』としみじみと語ッた.元帥が申し上げた

『天の命運なるをいかが致しましょう.8将軍の魂なりと慰めてあげましょう.』と言

い、等身大の人形に亡き将軍の鎧兜を着せ席順にしたがい席にすえて生きたときと同じ

ように杯に酒を盛った.不思議にも杯の酒が減り人形が体を揺るがして、まるで戦勝を

共に祝うようであった.居並んだ将兵は元帥の思いやりに感謝し誉め慕う雰囲気の中で

思い切り戦勝を祝った.







忠臣 趙雄 中の3



元帥は魏王を護衛して凱旋の道についた.

将兵は凱旋の喜びに意気揚揚として活気に満ち威容が堂々としていた.蕃陽の地に着い

たとき泰山を背景に陣を設置し泊まる事にした.この地は景色の良いところである.元

帥は次席の将軍二人を伴ない山に登り景色を鑑賞しながら歩いた.日は西に傾いて空が

くれないに染まる頃或る所に行けば夕焼けとは違う火の手が上がっている、かがりびに

ちがいなく、人人のざわめく声も聞こえる.訝しく思った元帥一行は静かに影を潜めて

近寄ってみた.其処には一団の兵卒が集まっていた.良く見ると蕃軍の敗残兵である.

蕃王の姿も見える.蕃王は前に出て

『者共静かにせい.魏軍は今山ノ下に陣を敷いているのだ.敵に気づかれたら大変な目

に逢うぞ.魏軍は今、勝利に酔って油断をしているはずだ.深い眠りに就いた夜中に奇

襲をすれば魏王と元帥は網にかかった魚も同然だ.捕らえるのは訳もない筈だ.敵を壊

滅させる絶好の機会だ.皆のもの命を賭けて戦いに臨め.最後の一戦だ、尻込みする者

は斬首に処すから心得ろ.』と命令をして居た.

一部始終を偵察した趙元帥は蕃王の執念深さに憤慨しながら、逆手を取って懲らしめて

やろうと思い連れて来た将軍に作戦を指示して本陣に帰った.



元帥の命令を受けた将軍は直ちに精鋭を先発して出動させひそかに蕃軍を包囲して命令

を待った.実に電光石化のごとき速さである.包囲が完成するや趙元帥は竜馬に高く跨

り宝剣を振り突撃を命令した.魏軍は四方八方から鬨の声を上げて蕃軍に突入した.奇

襲を受けた蕃陣は大混乱し右往左往する中蕃王を捕らえろと言う叫びが天地を揺るがし

魏軍の槍と剣がきらめく所に蕃軍がなぎ倒された.王様も命令も有ったものではない命

あっての物種た蕃卒は半ば殺され半ば逃げ出し、蕃王を始め14人の蕃将が捕らえられ縄

を受けた.

出動も密かにしたが帰る時も静かに帰った.しかしいきなり蕃王をはじめ多くの蕃将を

捕縛して陣中に入ったのだから騒然とせざるを得ない.魏王は寝ていたが騒がしさに目

を覚まし元帥を呼んだ.元帥が王の前に畏まる.

『陣中が騒がしいようだが何事か』

『蕃王と蕃将14人を捕らえて外に待たせております.』

『何? それが本当か? 如何したのじゃ?』魏王が驚いて立て続けに聞く.

趙元帥は詳しく王に報告した.魏王は元帥の神妙さに感嘆し又狂喜した.

魏王は威儀を正して蕃王を始め蕃将14人を庭に引き出して蕃将は首を切り梟示した後蕃

王の処罰にかかった.魏王は厳粛に命じた.

『蕃王は魏国を侵略し敗北した後も懲りずに奇襲を図った.許されぬ者だ.磔にして焼

き殺しに処する.』と宣言した.蕃王は涙を流し額を地べたに打ち付けながら哀願した



『魏王殿下聞いてくだされ、李斗柄が大国を簒奪し公憤が天下に広がっていますが小臣

も李斗柄を討ち大国を回復しようと思い兵を起こしたので、決して貴国を侵略する意図

は御座いませんでした.命を助けてくだされば兵を準備して貴国が大国回復に出たとき

貴国の一翼を担いましてご恩をお返しいたします.どうぞ命を助けてくださいませ.』

魏王と元帥が観察するに蕃王は生き延びたい一心でもっともらしく名分を立てているの

みで本音ではないことを見透かしていたが、戦争は殺すのだけが能ではない点もあるの

で降伏文書を取り許してやる事にした.

『蕃王は聞け、お前の罪は万死をも惜しくないが特別に許して遣わすのだ.以後には魏

国を侵すな.』と諭した.蕃王は百拝謝礼して帰って行った.



魏王は国民の歓迎を受けながら堂々と宮に凱旋した.

宮に帰った魏王は盛大な戦勝の祝賀宴を開いて将兵と官僚をねぎらった.宴会は三日間

続けられた.魏王はまた、将兵の論功行賞を元帥に一任した.趙雄元帥は賞罰を公平に

行い全軍の賞賛を受けた.宴会が終わった後元帥は休暇令を発し各々家に帰り休む事を

命じた.

三万の軍卒がこぞって元帥の徳を称えた.

魏王は朝会を開いて重臣達と元帥の功労を話した後、こう付け加えた.

『国は一人の物ではないし、余は年老いて王の役目を果たしにくいので、魏国の国璽を

趙元帥に譲り渡すつもりだがどうかのう.』王の話しを聞いた元帥は慌てで王の足元に

ひれ伏し

『もってのほかで御座います殿下.臣は貴国に長居は出来ない身の上で御座います.臣

の功労は論じないで下さいませ.』と固く辞退し続けて

『少将が菲才ながらも神助と殿下の徳のお陰を蒙り勝利を収めましたし、亡き父の旧友

である殿下にお目にかかり、おやに逢った如くうれしう御座いますが.未だに謫所にお

わす太子殿下をお救い申す大任が御座いますれば一時も早くお側を離れねばなりませぬ

.ご了承願いまする.』と申し上げた.王は雄の忠義に感激して

『余もまた同じ気持ちだから一緒に参ろう.』と仰せられた.元帥と重臣が一斉に

『国政を一時なりと空けるわけには参りませぬ.』と反対した.

『うーむ、やむなく同行は出来ぬが余が無能なため太子殿下を謫所で苦労されるのを見

過ごす不忠をして居た.思えば懺悔に堪えぬ.実に申し訳無い事をした.』と後悔し、

雄に

『太子殿下を御救い申しても行くところが無いからここで大国の復帰を図るようにしよ

う、』と仰せられ一千の兵卒と数十人の将軍を与えて励ました.趙元帥は勇気百倍して

太子救出の壮途に向かった.







忠臣 趙雄 中の4



この時、魏国江湖郡の張進士宅では婿の趙雄が旅に出た後便りが無いので心配が重なり

病気になるほどの状態で居た.聞こえるところでは戦いが不利になり多くの将兵が死ん

だとの噂で、若しや戦場で命を落とすか大怪我をしたのではないかと心配したり、また

勝利を収め西蕃を撃退したとの噂でそれなら無事に帰れるかと一喜一憂して気を揉んで

いた.

この折江湖知事が妻に先立たれ後妻を求めていたが張家の令嬢が才色兼備していると聞

き乳母を派遣して張少女を見てくるよう命じた.乳母は張家を訪れて夫人に逢い知事殿

の使いなるをあかして、

『お宅の令嬢が容姿と徳望が優れていると聞きましたので参りました.見せてください

.』と言った.つまり良かったら知事の後妻に入れるから下見をさせろと言うのである

.夫人は

『それはとんだ間違いで御座います.娘が一人居ますが才能も無く体が弱くて病気ばか

りして歩行すらままなりませんからお見せする事も出来ません.申し訳ありません.』

と断った.

『わたしも聞いたことがありますから是非お見せ下さい.』と、乳母はひるまず強引に

要求した.

夫人はやむなく侍婢を呼んで娘に知事宅の要求を伝えた. 令嬢は話しを聞いて驚き

『病中の身ですのでお目にかかりかねます.』と断りの言葉を伝えた.

しかし乳母は構わないからたって逢わせろと夫人に迫った.夫人もむげに断り通すわけ

にも行かないので侍婢に乳母を娘の居室に案内させた.令嬢は侍婢が知らない女を連れ

て来たのを見て驚いて.

令嬢『その方はどなたか?』

侍婢『はい、先にお目に掛かりたいと言った方です.』 

令嬢『お前は客があれば前もって知らせるべきなのにいきなり人を連れて来るとは何事

か』と、

怒りを表し下男を呼んで侍婢の小娘を罰するように言いつけ、訪ねてきた乳母には

令嬢『私は病がある者で座ってお相手が出来ませぬ』と、断り横になり布団をかけた.

乳母は白けて話しもかけられずもじもじしていたがそのまま引き下がった.然し乳母が

見た目では令嬢が稀に見る絶世の美女であり.その声又金のお盆に玉を転がす如く澄ん

で精気があるのをはっきり見てとった.乳母はそのまま引き下がり夫人に白けてお話し

も出来なかったと言った.

夫人『娘がふつつかでしてお目にかけたくなかったのです.悪く思うな.』と言い、若

干の茶菓をもてなして帰した.

乳母は官邸に帰り知事に

『張少女は実に稀に見る窈窕淑女です.容姿は万古の絶色ですし立ち居振舞いに非の打

ち所がありませんでした.』と絶賛した.

知事は大いに喜び直ちに張家に婚礼を申しこんだ.

夫人が心配をしていたら令嬢が、

『お母さん、心配なさいますな.他のところに既に婚約をしていると言えば済む事です

.』

夫人はその通り伝えた.知事は大いに失望した.側に居た乳母が入れ知恵をする.

『殿様、その家で婚約をしたと言うなら結納を貰っているかどうかを確かめなさい.』

知事の使いは趙家に赴いて“婚約をしたなら結納を貰ったはずそれを見せなさい”と迫

った.

さあ大変だ.張夫人の悩みは趙雄とは固く約束は交わしているもののまだ正式な儀礼は

踏まれて居ないので婚約の証拠が無く、県知事に対し言い逃れが難しいのが問題であっ

た.

夫人は娘と相談のうえ“結納は某日、吉日は某日だ”と偽って使いを帰した.それを聞

いた知事はほくそ笑み“まだ結納前なら主無き者じゃ、先に結納をした者が主人になる

のだ.結納は某日、吉日は某日だと伝えろ.”と、つかいを出した. 夫人はおろおろ

するのみ、令嬢は

『男女間の縁談にはそれぞれの定めがあるのに、結納前の女は主の無い者とは畜生にも

及ばぬ事、権力で婚姻を強いるなら権力の無い者は婚姻もままに出来ないのか、世の中

にこんな不合理は無いものだ.二度とうるさくするなと伝えろ.』と憤怒を込めて斥け

た.



話しを聞いた知事は大いに怒り捕らえて殺そうとしたが乳母が意見をして結納品を送り

『婚礼の吉日は某日に決める.もし、婚礼をあくまで断るなら母女を捕らえて拷問死さ

せる.』と脅迫の宣言を伝えた.

結納の品を受け取り婚礼をして知事の後妻になるか、捕らえられて母女が共にむごい拷

問を受け死ぬか、二つのうち一つを選べと言うのである.



夫人は『この事をどうしましょう.いいなずけの趙公子は便りが無く生死すらわかりま

せん.また知事の権勢に反抗する力もありません.今結納を断れば直ちに捕らわれ拷問

を受けて殺されるでしょう.わらはが死ぬのは惜しくないが、罪なきお前が殺されるの

をどうして忍びましょう.』

母と娘は共に抱き合って泣いた.泣くしかない、しかし泣く事で事が収まるのではない

.使いの官員は決定を催促している. 

急場を逃れるため仕方なく張夫人は一応結納品の包みを受け取り官員を帰した後侍婢の

梅香の部屋に預けた.一時の急は逃れたがこれといった妙案も無いまま空しく日にちが

経ちいよいよ婚礼が明日に迫った.官署では朝から人が来て張家の門前で仮幕舎を幾つ

も建て幔幕を巡らすなど婚礼の準備に大騒ぎをしている.家の中は喪家の如く落ちこみ

夫人は布団をかぶって泣いており家僕らはおろおろとし少女は自殺をするつもりで天を

仰ぎ涙を流す内、ふと父の遺言を思い出した.父は臨終間際に1通の遺書を渡し“お前

に緊急な時が来るだろう、その時には是を開けてみて其処に書いてある通り行え.”と

言い残していた.少女はハット思い書箱の底から父の遺書を取り出して披いて見た.

「お前は江湖知事の権勢に逆らえられないだろう.西江に行けば舟があるはずだ.その

船で上陽の地、康善庵に行けば助人がいるはずだ.」と書いてあった.

読み終わった少女は父親の先見の明に感嘆しながらも、今まで温室の花のように育ち世

の荒波を知らない閨秀なので途方にくれるしかない.まず母に遺書を見せて相談をした

.母は喜んで遺書の通りすぐに出発するように言いつけた.

娘『では母上も一緒に行きましょう、母上を残して私のみ逃れるわけにはまいりません

.』

母『母は心配しなくても好いです.嫁になる本人が家出をしたのにその母を責めても仕

方が無いでしょう.自分の恥にもなるから殺しはしますまい.』

娘『でも、私独りでは心細くて如何しますか、かあさん』 夫人は厳粛に叱った.

母『女は貞節を守るのが第一です.おとうさんもお前を守るためにわざわざ遺書を残し

たではないか.ぐずぐずしないで直ぐに行きなさい.』と厳命し、下の者にも知らぬ様

に静かに着替えの衣類数点と幾らかの金子のみを包んで侍婢一人に供をさせて裏門から

密かに送り出した.



張少女は急いで西江に行き快速船を雇い下流に三百里を下った処で船を下りた.夜は既

に明けていた.

張少女は道行く人にたずねたずねて険しい山道を上って行った.奇岩怪石が畳畳と聳え

山は高く谷は深い青空には白雲が悠々と浮いている.そよ吹く風は木の枝をゆすり鳥の

鳴き声又美しい.若し物見遊山にきたのなら素晴らしい絶景に感動も起こるはずだが逃

げる身には険しい山道を登るのが苦しくも心細いばかりだ.運良く薬草を採る老人に逢

い康善庵に行く道を詳しく聞いた.張少女と侍婢の二人の娘は教えられた通りに汗だく

になり息を切らして進んでいった.ふと、念仏の時に叩く石磬の澄んだ音が聞こえた.

二人はその音に導かれて寺までたどり着いた.寺には康善庵と扁額が掛かっている.張

少女は本堂の庭先で和尚を呼んだ.

出てきた和尚は合掌して迎え

『ここは辺鄙なところでして普通では来にくい処ですのにか弱いお嬢様が如何してここ

までお越しで御座いますか.』と物腰も丁寧に聞く.

『私は魏国江湖の地に住む者ですが兵乱に父母を失いさまよう内にここまで参りました

.どうぞ哀れに思し召され助けてくださりませ.』と頭を下げた.どうみても良家の令

嬢に違いない.

『しばらくお待ち下さいませ.』とことわり、大師と王夫人に少女の来訪を申し上げた



『魏国江湖の地に住んでいると言う若い女性が参りましたが、絶世の美女です.寺に世

話になりたいと申していますがいかが致しましょうか.』

王夫人『ここに連れて来なさい.』

僧『畏まりました.』 連れて来た少女を見れば成るほど傾国の美女である.物腰にも

品があり凡庸な育ちでは無い.夫人は少女の手を取って席に座らせて、

夫人『未だ年少の身で如何してここまで来ましたか.魏国の兵乱の勝敗を知っています

か.』

少女『道で承りますれば、西蕃が負け魏国が勝ったと申していました.』

これを聞いた王夫人と月鏡大師はそれなら雄も遠からず帰って来るのではないかと期待

した.

少女『ここは誰でも容易に来られる所ではなさそうですが、如何して奥方様はお一人で

居られますか.』と夫人に聞いてみた.

夫人『わらわは家の禍でここに避難しているのです.』と溜め息をついた.

大師『小僧の拝見しますところではお嫁に行かれた様ですがどんな家柄に行かれて、ま

た戦乱の中で家門をなくしたのですか.』と突っ込んで聞いてみた.

少女『まだ陰陽を知らない身です.出嫁は致しておりませぬ.』 

月鏡は訝しく思いながらもそれ以上詮索するわけにも行かず、先ず少女の部屋を決めて

やり落ちつかせた後、夫人に.

月鏡『あの娘さんを見ますと.稀に見る美貌の閨秀です.江湖の張少女は拝見していま

せんが男を知っているように見うけますが本人が否定するので若しや娼婦かとも思いま

したが娼婦ではなく危急に臨み慌てて逃れた良家の閨秀で張少女に違いないように見受

けます.』

夫人『しかし、張少女は見たことは有りませぬが家を出てさすらうはずがありません.



月鏡『人の運命はわからぬものです.夫人は如何してここにおわしますか.』

夫人は黙ってにがわらいした.この日から張少女は王夫人とともに寺に留まっていたが

時々外に出ては遥か遠くを眺めすすり泣いていた.王夫人は哀れに思いいろいろと慰め

た.

あるひ王夫人が月鏡と張少女とともに話しているとき、

王夫人『わらわが聞きまするに江湖の張少女が絶世の美人だと承りましたが、あなたに

は及ばないでしょう.』

張少女『どうして張少女をご存じですか.』

王夫人『わらわが聞いたことがあります.あなたも張少女を知っていますか.』

張少女『閨中のおなごがどうしてよその娘を知りましょうか.』とお答えしながらも内

心訝しく思っていたし、夫人も又少女の正体を掴めず気にかけていた.



ある満月の夜、明月を眺めていた張少女が悲しさに堪えきれない様子で部屋に帰り包み

より何かを取り出して人気のない深夜に仏堂に入り仏前にその品物を置いて焚香再拝し

祈りをたてた.おりしも仏堂の前を通りかかった王夫人がその声を聞いて足を止めた.

“母と郎君を会えますようお祈り申し上げます.どうかお慈悲を垂れ下さいませ.”そ

の祈る声あまりにも切々で夫人も胸を打たれた.

あくる日夫人は月鏡大師と会ったとき、そのことをはなしたら

月鏡『あの娘は確かに郎君が居るのに、居ないと言い張るのには訳があるでしょう.持

ち物を調べたら判るはずです.』と話しを交わした.



張少女が侍婢を伴ない風呂場で湯浴みをしているとき王夫人と月鏡が少女の荷物を調べ

てみた.その中に王夫人に見覚えがある扇子があった.急いで扇子を開いて見たら数行

の詩句があり、“張嬢に信物として残す. 趙雄が書す”とあった.疑う余地のない嫁

の張少女である.

王夫人と月鏡大使は大いに喜んだ.

夫人『大師様の慧眼には敬服に堪えません.嫁が何故にこんな風に身を逃れたのでしょ

うか.』と不思議に思いながらも会いたかった張少女との奇遇を喜んでいた.

少女が風呂から上がって部屋に帰る時王夫人が満面に笑みを湛えているのを見て.

張少女『お顔に喜色が溢れておられます.何か嬉しい事が御ありのようです.』

王夫人『子を戦場に送り生死もわかりませんでしたが、先ほど大師に伴なわれ観音様に

お祈りを上げたら嬉しい便りを得ました.』戦場から嬉しい便りを得たと言う言葉につ

られて.

張少女『如何してお便りを得ましたか?』と聞いた.

王夫人『ここの観音様はご利益がありまして真心を込めてお祈りすれば願いを聞いてく

ださいます.あなたも願い事が有れば大師様と一緒にお祈りを上げなさい.』

少女は喜んで部屋に入り包みを解いて何かを探していたが見つからないので中身を全部

引き出したが見当たらない.絶望した少女はついに顔を蒼ざめ足を投げ出して泣き出し

た.

王夫人と月鏡大師は少女の泣き声に少女の部屋に行きおどろいたように、

王夫人『何か無くなったのか?』と聞いた.

張少女『この中に大事な信物が有りましたのに無くなりました.』と、茫然自失の態で

答えた.

王夫人『無くなったのが父母の信物かね.』

少女は答えもせずに悲しみに堪えかねて頭を下げて涙をぼろぼろと流しているだけであ

った.側に居た侍婢が見かねて主人の代わりに夫人に申し上げた.

侍婢『お嬢様が郎君になる若様を初めてお会いしてから直ぐにお発ちになる時に、郎君

が下さいました信物で御座います.』それを聞いて王夫人は扇子を返してやりながら.

『この扇子は吾が子、雄の持ち物だ.そなたが張少女なら間違い無くわらわの嫁じゃ.

』と少女の手を取り感極まって嬉し涙を流した.又.

『前に雄が江湖地方を往来した時、張進士宅の婿になったと言ったことが有るがわらわ

は生きている間に嫁のお前に逢えるだろうかと思っていましたに、こんなに逢えて夢の

ようです.』と心境を語った.張少女も大事な扇子を自分の包みより持ち出した事に疑

惑を抱いていたが恋しい郎君趙雄の母上であるのを知り嬉しさと感激に胸を躍らせ改め

てお目通りのお辞儀をし、

『他郷に母上を居まわせていると伺いましたが、ここにおわすとは思いもしませんでし

た.』と申し上げた.王夫人は、

『わらわは運命が険しく家を離れ、ここに留まっていますがお前は如何してここえ来る

ようになったのか.』 少女は初めに雄と会った日の事から、煩いで死ぬ間際に雄の霊

薬で助けられた事、江湖の太守に強制結婚を強いられ父の遺書に導かれて康善庵を訪ね

てきた経緯を詳しく申し上げた.王夫人と月鏡大師は話しを聞いて大いに感激した.

その日から嫁と姑になって、張少女は真心を込めて孝行をし、夫人は亦嫁を可愛がった







忠臣 趙雄 中の5



魏国の大元帥趙雄は軍団を率いて宋太子を配所から救い出すため行軍の途中、先ず黄将

軍の墓地に寄った.行く時は単身で侘びしい姿であったが帰る時には大元帥になり軍団

を率いているから大変な違いである.この時は道々官署に前もって通達をしたので地方

の官署では出迎えやもてなしにおおわらわであった.黄将軍の墓地を綺麗に手入れをし

て.そこえ軍、官、民の主だった者が参席して盛大な慰霊祭を上げた.周りは数多い軍

幕と軍旗、槍剣が並び立ち威容が山川をも圧倒するようである.砲声一発、軍楽が演奏

される中祭祀が厳かに行われた.石の箱に黄将軍の黄金の鎧兜と宝剣を入れて埋めた.

祭祀が終わる間際に一陣の霊気が場内に渦巻きを起こしたと思う時墓より先ほど埋めた

黄金の甲冑に身を固め宝剣を持った一位の将軍が涌き出て祭壇の酒を飲み干しては消え

た.居並ぶ群集は将軍の霊験に感動するのみであった.

祭祀を終えた大元帥は将兵にさけとにくをやり飲み食いさせて休ませた.

大元帥は宿所に帰り灯火の元で兵書を読んでいたら三更が過ぎた頃、黄将軍が入ってき

て軍礼をした.大元帥も立って答礼を返し、

元帥『幽冥こそ違いますが国に捧げる忠魂は変わりません.将軍の霊魂に助けられ勝利

を得ました.ありがとう御座いました.』

黄将軍『将軍の卓越な能力を蒙り.死して尚残す恨みを晴らしました.なお墓を整備し

ていただいたのみならず盛大な祭祀まで上げてくださいましてこのご恩をいかにお返し

出来ましょう.

なにとぞ大宋を回復され大名を千秋まで残されることを願います.』と、謝礼して消え

た.

明くる朝郡の長をはじめ村の庄屋などを呼んで墓の手入れと春秋の祭礼を命じて出発し

た.



途中官山の麓を通る.官山は趙雄が数年間を起居し学問を治めたところで故郷のように

懐かしいところである.特に先生には言うに言われないご恩を蒙っているので先生に逢

い今日の成功を申し上げたがった.大元帥は官山の麓に兵を駐屯させ単身先生の草廬を

訪れた.

先生と童子の明るい笑顔を想像していたが門は開け放され庭には雑草はぼうぼうと生え

ていた.部屋ごどに空いていて人の影も無い.完全な廃屋であった.師は去ったのであ

る.

空は蒼く遠くて猿の鳴き声が聞こえる.趙雄は虚しさを抱いて師が好んで登っていた岩

の上に上がって眼下を見下ろし過ぎし日を偲んでいた.ふと見るとかつては無かった一

連の詩が岩に彫ってある.

華山の道士、役を終えて帰るなり.

やがて江湖に花咲き鳥が舞うであろう.

人の笑い声亦天地に満ちるであろう.

快傑と相見る日、何時の日か来たらんや.

雄は詩文を見終えて深い溜め息をついた.青い空に師の和やかな姿が浮かぶようであっ

た.



大元帥趙雄は江湖地方に向け進軍に先立ち伝令を派遣して江湖の官憲に大元帥の地方巡

察を通報し合わせて宿所を張進士宅にする、と知らせた.

江湖知事は大元帥の通報を受けて大いに慌てた.選りにも選って張進士宅に泊まるとい

うのだから困ったものだ.あの家に寄り付かせてはならない、張家の件がばれたら傷が

つく、隠蔽するに限ると決めて大元帥を迎え挨拶を述べた後.

『張家には折悪しく殺人がありまして獄に繋いでおりますのでお泊まりは無理で御座い

ます.官の貴賓室を準備しておきましたからそちらでお寛ぎなさいませ.』と申し上げ

た.

張家に殺人があったと聞いた趙雄は驚いて入獄中の罪人の目録と調書などを取り寄せ再

検討をしてみたら不審な点が多い.罪人は100余人も居た.一人一人呼び寄せ審問して

みればほとんどが知事が収奪するのを逃れようとした罪であり、無実をでっち上げた罪

であった.張夫人は重罪人に施す首枷をしてその惨めなさまは見るに忍びないものであ

った.元帥は夫人に罪人になった経緯を聞いた.張夫人は喉が詰まって言葉も出ず懐か

ら漸く陳情書を出して差し出した.其処には江湖知事の婚礼の強制から娘の逃走、夫人

が獄に繋がるまでの経緯が詳細に記されていた.大元帥は義憤に体が震えるほど激怒し

た.直ちに夫人の首枷を解き部下を付きそわして家に送らせ、その他の罪人も無罪放免

して帰した.そのあと、大元帥は知事を捕らえてくるよう命じた.近侍の兵士らが知事

を高手小手に縛り上げて連れて来た.

『お前は国録を食らう官吏でありながら人民の財産を略奪し、婦女に婚姻を強制して聞

きいれない者には不当な罪目を付けて苛酷な行いをしたのは許し難い事だ.国王に代わ

って斬首に処す.』と宣言して.斬首した.知事には部将のうち一人を選び任命し、魏

王に報告した.

一応江湖府の処理を終えた後元帥が張家を訪れて見れば.人が住まない廃家になってい

て荒れ放題の有り様であった.夫人の居間に入れば夫人はおそれいって丁寧に頭を下げ



『大元帥はどなたでいらっしゃいますか.是非を正しく裁かれ哀れな命を助けてくださ

いましてありがとう御座います.』大元帥は夫人の手を取り起こして、

『長らく獄中で苦労をされたため小生を見分けられませぬか、小生はお宅と縁を結んだ

趙雄で御座います.』夫人が驚いて良く見れば一時も忘れた事の無い趙雄青年に間違い

が無い.夫人は嬉しさと悲しさが同時にこみ上げ趙雄の手を取り涙を止めど無く流した



やがて心を落ち着かせてその間の出来事を詳しく話し

『娘は某月某日に侍婢一人を伴ない逃れたまま消息を知りません.実に心配で堪りませ

ん.』と言い又涙を流した.元帥は

『人の命は天にありますし、運命もまた定めが有るものです.大事は御座いますまい.

』と慰め

『小生も力を尽くして探しますからご安心なさいませ.私と共に母が逗留している康善

庵に行きましょう.』とすすめ、夫人の家卒を率いて出発をした.前触れの通知には

“大国忠臣魏国大元帥兼各道按察御使趙雄”と銘打っていた.



王夫人は婚約の嫁、張閨秀と月鏡大師と共に前触れの書を読み驚きもし喜びもして感激

した.まだ少年と思っていた雄が戦いで大功をあげ魏国の大元帥にまで上り予てより望

んでいた宋の太子様を配所より救い出すべく大軍を率いて来ると言うのだから嬉しいの

は当然である.

王夫人をはじめ張閨秀、月鏡大師と多数の和尚が寺の入り口で趙雄の一行を待った.

やがて多くの旗幟を先頭に騎馬の大元帥が甲冑に見を固め堂々と位置し数多の将兵が続

いた.実に千軍万馬とはこのことか.大元帥趙雄は馬から下りて王夫人に帰還の挨拶を

述べた. 王夫人の感慨は特に計り知れないものが有った.帝位が簒奪される政変の中

、幼少な雄を伴ない権力に追われ風前の灯の如き命をはても無くさまよう事数年、かけ

がえの無い一人息子を戦場にやり日夜憂慮の日々を送っていたが、その雄が今日戦場で

大功を上げ魏国の大元帥になり大軍を率いて帰ってきたのである.嬉しい中にもあふれ

出る涙を止められずにいた.

月鏡は『さあさあ、中に入ってゆっくりとお話しを承りましょう.ご夫人様.』と雄に

母を助けて部屋に行かせ接待に遺漏の無いよう手配をした.

副将は全軍を指揮して康善庵の周辺に部隊を駐屯させた.一糸乱れぬ整然さであった.

部屋に入り大方落ちついた後王夫人は.

『お前を戦場にやり便りが無いので日夜気を揉んでいました.その間の経緯を話してく

れ.』

はい母上とまえおきし、雄は西蕃を討って降伏させ魏国を安定させた事、魏王より大元

帥に任命され宋太子を救出する軍を預かり帰り道に江湖に寄って見れば進士宅には大変

な禍を受けていた事、獄に繋がっていた無実の罪人を放免し魏夫人を救い出して連れて

来た事、知事を処刑して国の紀綱を正した事をかいつまんで申し上げた.聞いていた皆

が感嘆した.

王夫人は『それでは魏夫人を早くこちらにご案内申せ.迂闊だぞお前は.』と雄を叱り

促した.

やがて魏夫人が入ってきた.魏夫人は獄中での苦痛で体が弱まりやつれていた.母を見

た張閨秀は末席から飛び出し「おかあさん」と一声叫んで母に抱きついて泣き出した.

意外にも娘をここで逢ったので魏夫人も嬉しさ悲しさが一時にこみ上げ泣き出した.場

内は一時に愁嘆場になった.人人は母女の気持ちを汲みもらい泣きをしながら黙々と静

まるのを待った.

暫くのち大方落ちついた頃を見計らって王夫人が

『奥さま、母女再会もしましたしここに居れば安心ですから安らかにお過ごしなさいま

せ.』と慰め別堂に娘と一緒に暮らすように計らい、雄と大師と共に夜がふけるまで話

しの花を咲かせた.あくる日大元帥は将兵を一日休ませ進軍の途中、各郡、邑で進上し

た慰労の金品を寺の庭に集めたら山のように積まれた.元帥は月鏡と主な和尚を呼んで

『大師と皆様のご恩は計り知れないものが御座いますが.とりあえず小生の誠意と思し

召してこれらをお納め下さい.』と言い寺に奉納した.康善庵が俄かに裕福に成ったの

で諸僧が恐縮して拝受し雄の家族を益々貴賓として奉仕するのを惜しまなかった.







忠臣 趙雄 中6



家族を安定させた大元帥はいよいよ太子救出の進軍を開始した.ここから太子の配所ま

で行くのには通常なら宋国の影響下に有る諸国を通過せねばならぬがそうすれば遠回り

になるし諸国との摩擦も考えられるが西蕃の地を通過すれば近道でもあるし宋えの秘密

も維持できる.

大元帥は西蕃を通過する道を選んだ.一部の参謀は「西蕃は大元帥に対し復讐を狙って

いるから敵中の突破は無謀です.」と反対もあったが.元帥は断固として聞き入れなか

った.

『西蕃に入れば蕃王は必ずいろいろな工作をして来るはずだ全軍は緊張をゆるめぬよう

にしろ』と訓辞を出し.蕃王には領内の通過を知らせた.道のりを知らせての通告であ

った.

蕃王は隷下の諸将を集めて戦略会議を開いた.

『趙元帥は普通の人物ではない、どうすれ良かろう?』

『趙元帥は財欲が深く好色だそうですから美女を送り奉仕をさせる一方千金の財と万戸

侯に封ずると誘えば必ず受け入れると存じます.』と申する者があってそのように決め

ていた.

やがて趙元帥蕃国に至れば蕃王は使臣を派遣して歓迎の意を述べ千金を差し上げた.趙

元帥それを受け取り将兵に分けてやり蕃城に進軍して駐屯させた.

蕃王は白米100石と牛と羊を贈って元帥と面会をした.元帥は蕃王を快く迎え入れ

『過去のいさかいは各々国の為に起きた事、水に流しましょう.再会してうれしいです

.この度はお世話になります.』と.挨拶した.蕃王はすかさず本論に入った.

『元帥は元々魏国の人ではありません.あなたを見込んでの頼みがありますから聞いて

ください.わが国は小国とは言え四方千里の広さと100万の軍隊があります.河水南方

の地を統括する陽南侯に封じますから我国の発展のために元帥の力量を発揮して下さい

ませんか.』と、単刀直入に提案した.趙元帥は真面目な表情で

『極めて凡庸な私を高く評価して下さるのは光栄ですが、小生は故国に重要な任務があ

りましてご好意をお受けするわけには参りません.』とはっきり断った.

蕃王は失望して諸臣に

『趙元帥は確固たる目標があるみたいで味方に引き入れるのは難しそうだ.どうしたら

良いか』

『その気があっても初めての提案でおいそれと受け入れましょうか?今夜美女を差し向

け懐柔をすれば聞き入れると思います.』と申し上げ、美人計を使う事にした.

蕃王は蕃国随一の美女で歌舞でも名が通っている妓女月戴を呼んで密命を伝えた.

『お前が今宵趙元帥を誘惑してお前に溺れさせれば重賞を与えかつ元帥の側室にしてや

るからお前の能力を発揮して彼を虜にしろ.』 月戴は王命を受け元帥攻略に取りかか

った.

念入りに化粧をし華やかな衣装をまといて魏陣に元帥を訪ねた.

『お前は何者か、何の用で参ったか.』

『将軍様陣中のお慰めにと王様の命を受けてまいりました.』

元帥はわざと嬉しそうな表情を浮かべ

『お前は歌舞が出来るか.』

『はい、心得て御座います.』

『それでは一曲頼もうか.』

『はい.』 月戴は姿勢を正して唄い出した.声は清雅にして朗朗たる美声である.



夢美しくとも 夢は夢 

鹿を追い 荒野を駆けても 

鹿を射止める あてもなし

花の青春 空しく過ぎるのみ



元帥は妓女月戴が元帥の意を挫こうとする意思に憤りを感じだがわざと歌を褒めてもう

一曲を歌ってくれと頼んだ.



万戸侯に千金も 小さいながら 鹿には違いなし

やがて大鹿を射止める 足がかりにもなるはず

大望に身を任せ 大鹿のみを追いかけるは

烏江の烟月に 楚覇王の恨みを 繰り返すやも



元帥聞き終わって怒り天をつき叱咤した.

『汝は妖邪な奴じゃ.おなごが企みを含んで大丈夫の志を挫こうとはもってのほかじゃ

、許し置けぬ.』と剣光一閃月戴の首を刎ねて落ちたこうべを軍幕の外に蹴飛ばした.



噂が広がるのは早い物である.この事件は元帥の陣中は勿論蕃王側にもショッキングに

伝えられた.蕃王は慌てて戦々恐々した.元帥は力で押さえられる人間ではない、だか

ら美人計を使ったのだ.

『馬鹿なおなごがどじを踏んだな.』宮内の妓女はおろか女官までも呼び集めて.

『お前等の中で元帥を慰め喜ばせる自信が有るものは出て来い重賞を遣わす.』と言っ

たが.

宮女らは震え上がって誰も答えようとしない.怖い漢族の鬼将軍に何をされるかしれな

い.

場内は一瞬にして水を打ったように静かになった.冷気さえこもるようだ.その時一人

の技女が琴を抱えて立ち上がり蕃王の前に膝を折り、

『臣が元帥を慰め心をもどるように致します.』蕃王は喜んで良く見れば金蓮と言う妓

女だ.

『お前はしくじるな.』と蕃王は励ましてやった.

金蓮は琴を抱いて元帥の前に現れた.見ると絶世の佳人である.

元帥『お前は歳が幾つか』

金蓮『はい、19で御座います.』元帥は可愛く思い、側に座らせて琴を聞かせて呉れと

命じた.金蓮は琴を奏でた.その音が清らかで絶妙を極めていた.その曲に曰く



月の台 月の台 満月の台

日月の如く 輝く忠義を

一曲の歌で 枉げられようか

美しいかな 宋室の宝なり

宋室の宝なり



金蓮が琴を置いて涙を流し.

『妾はもとより蕃地の者では御座いません、魏国西江地方の劉盛の娘で御座いますが早

く父を亡くし老母と細々と暮らしていましたが西蕃の侵攻に逢い逃げまとう内に母とも

離れ離れになり小妾は蕃軍に捕らえられ蕃王の宮中に置かれました.母の生死なりと確

かめたいのが小妾の願いで御座います.願わくば将軍の後に従い母の所在を探すように

お許し願います.』

金蓮の話しを聞いた元帥は哀れに思い願いを許しその夜褥を共にした.

あくる日、行軍の際蕃王に使いをやり

『このたびは大王のご好意を頂き感謝致します.亦金連と言う妓女は魏国の者ですし、

母を捜していますので連れて行きますからご了承を願います.』と伝えた.

蕃王は伝言を聞いて口惜しがった.

『多くの財物を使い美しい宮女まで取られた.口惜しい限りじゃ.』と歯軋りして臣下

を集め、

『趙元帥の帰り道には必ずこちらに付くよう対策を立てろ』と熟議をした.



元帥は数日後泰山府の境界近くに陣を敷き泰山府の情報を集めた.それによると泰山府

の長官が賜薬を持って太子の配所に向うと言う.元帥が驚いて詳しく糾せば次ぎの通り

だ.

即ち“宋の皇帝が賜薬を送って太子に飲ませて毒殺しろと命じ、又太子を慕って来てい

た旧宋朝の重臣等を一斉に検挙して朝廷に移送しろ.との命令が来て泰山府長官が明朝

賜薬を持って太子が軟禁されている桂陽に向かうというのであった.ちなみに賜薬とは

死刑の形式の1つで皇帝が下賜する毒薬であって、死刑のうちでは最高の待遇であった



元帥は慌てて太子の居られる桂陽の道のりを聞けば70里と言う.参謀に全軍出動の準備

をさせ待機するように命じ、自分は単身竜馬に跨り桂陽に走った.

太子の在所には警備の将兵が水も漏らさぬ体制で建物を包囲していた.元帥は物影に隠

れて中の様子をうかがった.

広い座敷には太子が上座につき、老若の忠臣が居並ぶなか一人の女が琴を抱え悲しく相

別の曲を弾いていた.



玉斧 金斧 刃を立て といて

斬るは 月宮の桂の樹

桂陽の地に 集まるは

我が帝を 奉るため

雪中梅 一枝に 花が咲く

集まりしは 宋朝の忠臣

2年には 町を作り

3年には 城を築くと思ったに

桀紂は 望みを 無惨に 斬り壊す

祈ります 天の神に 祈ります

今宵の 五更が 来らぬよう

時間を止めて くださりませ

暁の寒風 吹きすさぶ中

嗚呼 毒皿を口に運びて

涙の別れを せねばならぬか



美人は琴の弾奏を終え涙を流して泣き繰れた.

忠臣らは一斉に太子に四度の拝礼を上げて、座を立って行った.







忠臣 趙雄 中の7



元帥は空を飛んで飛びこみ太子の前にひれ伏して

『小臣、前朝の忠臣、趙正仁の倅でございます.太子様におまみえ申し上げます』

太子多いに驚いて

『おお、これは夢か現か.汝は鬼か人の身か.鬼でなくばどうしてここえ来られようか



太子は元帥の手を取り涙に濡れて言葉を続けられずに居る.

元帥『お気を静められ話しをお聞き下さいませ』元帥の言葉に太子は漸く心を落ち着か

せた.

太子『どうしてそなたは死地に参ったのか.余は命運尽きて今日のみの命だ.生前にお

前に会えるとは思わなかった.夢の様だ.8歳の時に逢い今になって再び顔を合わせる

とは嬉しくも有り悲しくも有るのう.』

元帥『おそばの女人は誰ですか.』

太子『ここの官婢だが桂陽の別将が余の世話のため送ってくれたので余を慰めてくれて

いる』

元帥『その別将の名前は何と申しますか.』

太子『白成就と申して、これまた忠臣である.ここえ来てから白別将の心づくしで不便

無く過ごしてきた.』と前置きし、故国の忠臣らがこの地に集まり慰め、運命を共にし

ている事、明日の辰の時(午前9時頃)には賜薬を飲まされること、集まっている忠臣

らを一斉に捕らえ都に押送する手はずになっていること、これらの事が皆泰山府の長官

の建議に基づくことまで話して聞かせた.元帥は悲憤慷慨に絶えないながらも太子を慰

労し.

元帥『事態が急迫して御座います.小臣が10里以内のところに軍を駐屯させています.

先ず事態を把握するために単身参りましたが直ちに引き返して軍隊を率いてまいり太子

様をお迎え致しますゆえそれまでお体を大事になさいませ.』と申し上げて御前を辞退

した.



陣中に帰った元帥は直ちに作戦を指示し、出動を命じた.既に夜は明けかけている.

時間が無い、元帥は騎馬隊を率いて疾風の如く桂陽になだれ込んだ. 別宮に近づいた

時には既に辰の刻であった.元帥は雄たけびを上げて竜馬を馳せ別宮の庭に躍りこんだ

時には泰山府長官の指揮の元で宋の忠臣らはすべて縛り上げられて居り、賜薬を太子に

上げるところであった.元帥は馬を止める暇も無く走る馬の上から宝刀を振り下ろして

薬使の首を撥ね、続けて泰山府長官とその一行を全て誅殺した.続けて到着した将兵は

忠臣らの縛めを解いてやり、宮の内外を整備し警戒にあたった.実に電光石火の早さで

あり且つ水が流れるように淀みのない鮮やかな進行であった.

元帥は太子の前に進み四拝を上げて

『これからは小臣が太子殿下を擁護して反逆の輩を打ち取り大宋の栄光を復活致します

る.ご安心なさりませ.』と決意の程を申し上げた.

太子の喜びと感激は計り知れない物が有った.若き命を取られ祖宗の偉業が亦煙と消え

る間際に命を助けられたばかりでなく国をも取り戻す光が差すのを身を持って感じる事

ができた.

太子は感激にむせび泣きながら趙雄の手を取り

『おお、これが夢ではありませぬか.夢なら覚めないようにして下され.』

『太子殿下、ごあんしんなさいませ.小臣と魏国の軍隊が殿下を守ります.李柄斗は国

民の信望を失っています.必ず大権を回復して殿下に差し上げまする.』

元帥の自信に満ちた言葉に場内には歓声が上がった.

元帥は忠臣らを壇上に呼び太子殿下の側近に座らせた.地獄で菩薩に会ったとはこの事

か.満場の忠臣らも希望に輝いた.



この時中軍将元沖が本隊を引き連れて来た.別宮の周辺は旗幟槍剣が林立し大宋の威厳

が蘇えったごときであった.中軍将は進軍の途中桂陽の主な役人を皆捕らえて庭に跪か

せた.

主な役人は斬首に処し罪の軽いものは訓戒放免するなど一瀉千里に処理して太子に報告

した.

太子をはじめ居並ぶ旧朝の忠臣らは慧星の如く現れた趙雄の忠誠により命を助けられた

ばかりか大宋復活の希望を持つようになりその感謝と賞賛の気持ちは言い様が無いくら

いだった.

元帥は中軍長に命じて太子と旧朝忠臣の労苦を慰める大宴会を開いた.

李斗柄に朝廷を簒奪されてから今日にいたるまで10年間、侮蔑と死の恐怖の中で戦々恐

々して居たのが救われ祝賀の宴会にのぞむのである.その感激と喜びは言うに及ばない



「元帥の功徳は海の如く山の如く計り難い.吾らご恩をいかにお返し出来ようか.」と

一斉に元帥を称えながら喜び合った.居並ぶ忠臣らは老若を問わずすべての憂いを払い

、すがすがしい気持ちで痛飲した.太子も久しぶりに蕩然として側近に侍っていた妓女

梅花を呼び寄せ、

『この嬉しい宴会に歌が無いとは寂しいのう、お前が太平曲を唄って見せろ.』と命令

した.

梅花は琴を膝に乗せ端座して琴の太平曲に合わせて即興詩を歌い出した.



懐かしいかな 嬉しいかな

雪に埋もれた中に 春風が吹いてなつかしや

遅いかな 遅いかな

君千里馬で駆けるに 如何に斯くも遅いしや

太古の昔より年月の道のりが長いためでしたか

五色の石を磨いて奇宝を作っていたためでしたか 

炎帝に足を止められたためでしたか

神農氏の百草で万百姓を助けるためでしたか

9年大雨の氾濫を治めるためでしたか.

7年旱魃で悩む殷王を助けるためでしたか

瓊宮瑶台の伊尹になり桀紂を誅するためでしたか

舜の曽参にならい近親孝行したためですか

首陽山深い谷で蕨を採っていましたか

屈原に逢い忠孝を論じていましたか

婦女子の墓を訪れ花を捧げていましたか

介山の子推になり寒食を進めていましたか

身に漆を塗った予譲になり章河水で刀をといて居ましたか

亀池の大宴席で秦王に撃斧を伝えていましたか

日中不決の秦楚会に判決師をしていましたか

寒風そよふく易水の上で荊軻を嘲笑っていましたか

秦始皇の鹿になり主を探していましたか

鴻門宴の華やかな宴席で沛公を救いましたか

鶏鳴山尺八の音で8千の兵を斥けましたか

淮陰城下にて漂母にあいひもじい腹を足していましたか

紀信将軍の魂魄に逢い弔文を書いて祭りを挙げましたか

二十八宿麒麟閣に第一忠に名を掲げましたか

雪山に春風になり万物を蘇えらせましたか

旱天に慈雨になり万民を助けられましたか

崑崙山大火中に玉石を探しましたか

万里の長城をあまねく回り地形を調べていましたか

如何に斯くも遅いしや

千里馬駆ける足並み如何に斯くも遅いしや

雲を望むる我が君 天日よ照らし給え

嗚呼我が君の命を狙う薬器が迫る 

白髪の忠臣、縛めを受ける中

日月も光を失せ、蒼海も息を潜めるか

卯の時の末、辰の時の初めに

三魂は散り、魂魄虚空に飛ぶ時

一陣の狂風起こして千里馬駆け来る

北斗星の快剣光を放ち、閻魔の光臨さながらに

瞬く間に死生を変え、悪鬼は地獄に落ち忠臣は救わる

自由を得た忠臣・百姓、君と共に万歳まで楽しもうぞ

万歳 万歳 億万歳に功徳は輝きましょう.

と唄った.



太子の無事を祝い10年にわたる配所での労苦と太子を慕い苦しみを分け合った忠臣らを

ねぎらい人民に新しい世界えの希望を持たせる意味で三日間の大宴会を開いた.又、倉

庫の穀物を出して貧民を救済し民生の安定を図った.元帥は祝賀を終えて太子に上奏し

た.

『泰山府の長官と旧邑の守令を取り除きまして政務が停止いていますから忠臣らの内適

当な人物に命じ職に付く様になさいませ.』太子は大宋を代表して初めて官僚を任命し

た.

元帥は太子を護衛しいよいよ大宋復活の壮途に登った.







忠臣 趙雄 中の8



この時蕃王は趙元帥が帰ってきたらその時には必ず捕らえてしまおうと考えていたが折

から偵察兵から趙元帥が宋の太子を救出して帰還するとの報告を聞いた。

蕃王は早速重臣を集めて戦略会議を開いた。

『この前は趙元帥に千両の大金と絶世の美女を失っただけで何の成果も無かった。 口

惜しくて堪らない。余の鬱憤を晴らす方策は無いか?』

一人の参謀が策を申し述べた。

『宋の太子を伴なって来ると言いますから先ず太子を宮中に誘い入れて、我等が兵力を

支援するから共に大宋を回復しましょうと言えばきくはずですし、若し聞かなければ魏

国に通ずる道々の部落の百姓を立ち退かせて無人の境にし、所々に軍を伏兵して襲えば

数日の内に元帥を捕らえ得ると存じます。』

蕃王は賛成して其のように施行するよう命令した。和戦両面の作戦である。



元帥は数日の後に蕃国の都に着いた。

蕃王は1里まで出て太子一行を出迎えた。元帥は蕃王に

『大王は昔日のいさかいを省みず我が軍の通過に斯くも好意を示され有り難く存じます

。』と謝意を述べた。 蕃王は

『ハッハハ、兵家の恨みは戦場に限る物です。 我が家を訪れた客を粗末に扱う法は有

りません。 元帥は遠慮なさいますな。 若し所要の物あらば申しつけてください。 

わが国は小国では有りますが物資には事欠きません。 また軍兵の強は諸国に比べても

最上であります。 何を憂いましょうか。 わが国と力を合わせれば何事なりと成就し

得ない事はありますまい。 元帥は余の提案を良く考えなされ。』

元帥は大笑して

『大王のご好意には感謝しますが、欲が過ぎるようです。 日月も盈れば虧けるもの、

大王は余り大きなものを望みなさるな。 貴国を通りながら見ますと国が小さいとは言

え富国強兵にて大王の生涯は安穏でしょうし、隣国よりの脅威もまた有りますまい。 

何を好んで無理な冒険をなさいますか。』 蕃王苦笑しながら

『元帥のお言葉も判りますが古より国を興すために戦うのではありませぬか.元帥のお

考え通りだと軍の武力をいつの時に使いまするか。』 元帥は笑いながら

『大王のお言葉を承りますと、欲が多すぎまして平和は望みがたく存じます。 隣国が

侵略をしてきたとか、国が不幸にして逆賊が乱を起こすかした時に戦争が起きるもので

す。 大王は富国強兵を誇り主有る国を武力で手に入れようとなさるは遺憾で御座りま

す。』と、反対した。 蕃王は

『蕃国の弱小国の恨みは長い歴史に渡り積もりに積もっております。 蕃国の軍隊はそ

の恨みを晴らすための物です.』と、悲壮の面持ちで言う。 元帥は

『国の貧富、大小はそれなりに各々主が有るものです。 大王は既存の秩序を武力によ

って取り壊そうとなさります。 天運は計り難いものですが、鴻門宴にて力抜山気蓋世

と范増の力をもってしても沛公を殺し得ず天下を失いました。 大王は不義を企てて居

られます。 また小将を虚しく褒め称え間違った道に導こうとなさいますが小将は大王

の如き者を打ち破るのを本望と致しておる者です。 左様な事を仰せまするな。』と、

断固と言い放った。 蕃王は愧を感じたか

『小王の望むところは分に過ぎることに有らず国が狭すぎるので若干の地所を広めたい

に過ぎません。』と、幾分後退を示した。 元帥は笑いながら

『いかに鶴の足の長短を論じましょうや。 貴国の土地の長短亦小将の知るところでは

有りません。』と、そっけなく答えた。 蕃王は言を失い帰った。

元帥は副将に今日はここで休むと言い渡し太子の前に出て蕃王とのやり取りに付いて詳

しく報告したのち退いて自分の幕舎で休んだ。



蕃王は宮に帰り諸臣を集めて。

『余が元帥と話してみたがあの男は余に従わすことは出来ない男だった。 どうすれば

良かろう?』 右僕射の張幹が申し上げた。

『現在趙元帥の如き人物が御座いませんからこの際亡くしてしまう方がよかろうと存じ

ます。 又承りますと最近一人の道士が居まして諸葛亮を凌ぐとの評判です。 礼物を

上げて迎え入れ彼の智謀を借りれば如何でしょうか。』と申し上げた。

蕃王もそれが良かろうと賛成して左僕射の朱鴻達を道士に派遣した。



この夜、蕃王は宮殿の奥深くに宴席を設け、太子誘拐作戦を始めた。 

先ず右僕射張幹が太子を訪問して趙元帥の偽の伝言を述べさせた。

『蕃王が宴席を開いて小臣を招きましたのでむげに断りきれず参っておりますが太子様

もご同席願えればと存じ張幹を護衛に差し向けます。』と元帥の口上を述べた。

又張幹は『臣の王が餞別の意味で宴を開き趙元帥を招きましたが元帥は太子様がおわす

のに自分だけはと申し箸に手を付けませぬので王が小臣を差し向けた次第で御座います

。 小臣がご案内致します。 なにとぞおこしあそばせ。』と付け加えた。

太子はやむなく張幹に従い宮殿に行けば門前に蕃王が自ら迎えに出ていた。 

太子は蕃王と共に宮殿に入り後宮深く静かな別閣に豪奢な宴席と美女、楽士等が待機し

ていた。 太子は蕃王の案内で上席に席を占めたが元帥の姿が見えない。

『元帥は何処に居ますか?』

『外に居ります。』

太子は雰囲気が通常でないのを感じしきりに元帥を呼ぶが何も知らずに軍幕で寝ている

元帥が知るよしがない。 蕃王もこれ以上隠しきれないと悟り、口を開いた。

『実は大王をお招きしたのはご相談したい事があったからでした。』と前置きし。

『小王には一人娘が御座いますが美人で詩書にも通じていますので大王に差し上げます

からお側において可愛がって頂きとう御座います。』と自分の娘を貰ってくれと言った

。 蕃王に騙されてつれてこられたのを知り太子は大いに憤慨した。 斯様な術策を弄

ずる蕃王は信ずるに足らないと思い大喝した。

『一国の国王たる者が偽りを持って人を誘拐するとは何事か。 余は何も聞きとうない

。速やかに趙元帥を呼べ。』と蕃王を睨みつけた。

蕃王は周囲を斥け太子一人を残して部屋を出、出入り口を閉鎖して完全に幽閉した。

蕃王は諸臣と相談をしたが、或る者は殺してしまおうと言い、或る者は穏やかに帰した

方が良いと言い意見がまとまらず逡巡していた。



趙元帥は眠りから覚めて何故か太子が気になって仕方が無い。急いで軍装をまとい太子

の幕舎に行ったら太子の姿が見えず侍女の梅花がぼつねんと座っていた。

驚いて梅花に聞いたら、先ほど蕃王の使いが来て蕃王の宮中に呼ばれて行った事を話し

た。

元帥は大いに憤慨して副将に全軍に戦闘準備をさせ、単身蕃宮に飛んでいった。

元帥は宝剣を振りかざし前を遮る者を切り倒し蕃王が諸臣と協議をする政殿に突入した



元帥の剣幕は凄まじく通り魔のような勢いであった。趙元帥は蕃王の首に剣を付きつけ

『トックに殺してしまう奴を生かしておいたのにもう許さん。』

一突きに蕃王の首を突き刺そうとした。 蕃王は死の恐怖におののき、諸臣は恐れをな

して逃げていった。 蕃王には元帥が閻魔に見えた。 魂魄は半ば飛んでいる。 両手

を合わせて

『助けてください、 何でも致します。』と我知らず命乞いをした。 元帥は怒気が天

を突いて

『大王は何処におわすか? 早く申せ。』 大音声で怒鳴った。 その声は雷の如く宮

中を震撼した。 蕃王は平伏して手を合わせ、

『お願いがございます、お聞き下され。』と言うが怒りに燃えた元帥の耳に入るはずが

無い。

『煩いっ、 余計な事を申すな、 大王のおわすところを申せ。』と今にも斬りかから

んばかりの気勢である. 狡猾な蕃王は危急の中でも言い逃れてみようとして、

『太子の居所は小王も存じませぬ。』としらをきった。 元帥の目から稲妻がひらめい

た。

『うぬ、生かしておけぬ。』と剣光一閃蕃王の首にひらめいた。

蕃王は倒れた。 しかし血は流れていない。 首は斬られてなかった。 蕃王の髷を王

冠もろども切り落としたのである. 気絶した蕃王を足蹴にして気を付けさせた。 蕃

王は自分が死んだのか生きているのか判らなかった。 思わず首を撫でたら頭が付いて

いる、嗚呼然し髷が切り落とされて髪が乱れているではないか。 蕃王は観念した。 

到底叶わないと悟った。 太子の居所を白状した。 元帥はきびすをかえして別宮に飛

び込み守備兵を切り捨て太子の前に平伏した. 幸い太子は無事であった。 元帥は太

子を護衛して本陣に帰った。



蕃国の重臣らは蕃王の回りに集まり王を慰めた。

蕃王は血にまみれていた。 気を付けて見たら指が斬られていた。 元帥は蕃王の首を

斬る代わりに髷と指を切ったのであった。 蕃王は歯軋りして口惜しがった。

あくる日、元帥は副将を呼び直ちに出発するように命じ蕃国には書面で知らせるように

言ったが副将は、

『朝点呼で調べましたら陣中に過労による病者が50人余り居まして即時薬を飲ませまし

たが未だ効き目が御座いません。 いかが致しましょうか。』と問う。

元帥は太子にお伺いを立てた。 

『将兵に過労の余り病気になった者が多いとのこてです。 ここで留まり先ず、病者を

治療するようお許しを願います。』 太子は

『蕃王が何を又画策しているかが気に掛かる。』と仰せられ元帥が、

『それは小臣が十分用心居たしますゆえご安心なさいませ。』と申し上げた。

元帥は副将に患者の治療に励む事と蕃国の動静を偵察し警戒を厳重にするよう命じた。



このおり、左僕射朱鴻達は例の道士に逢っていた。

道士『わしが四日ほど前天機を見ていたら将星が蕃国に現れていた。 それが趙元帥の

星だったのだ。 この将軍は尋常の手段では捕らえ難いだろう。 だが烟州の地、函谷

は谷が深く山が険しいので飛ぶ鳥といえども出入りがままならないところだ。 某月某

日にそこえ陣を敷くはずだ。 我等は前もって山の上に城を築づいて地点を確保し、谷

の中には火付けの柴草を沢山準備して伏兵しかくかくしかじかすれば全滅させるは明ら

かである。 わしは彼を亡くした後蕃王を助けに現れるであろう。』と言った。

左僕射朱鴻達は帰って蕃王に道士との面談の結果を詳細に報告した。

蕃王は喜んで直ちに施行するよう命じた。 趙元帥から受けた屈辱を思えば恨み骨髄に

透る思いで切歯扼腕して居た矢先なので一条の光が差し込む思いであった。







忠臣 趙雄 中9



このとき趙元帥は兵士の病気の為に数日を過ごしたがそれ以上留まるのはよろしくない

と見て馬に乗せていくことにした。 蕃王に“馬30頭をよこせ”と通達したが一向に従

わない。 元帥は憤慨して側近の武士に「直ちに蕃王を捕らえてこい」と怒鳴りつけた

。 その声が天地を揺るがすほどであった。 それを知った蕃王は恐れをなして馬30頭

を直ちによこして来た。 元帥は病者等を馬に乗せて出発した。

軍の行列が行軍をしながら見れば所々に立てておいた休息用の軍幕は勿論村家まで取り

除かれていてあまっさえ以前には無かった城が建ち門を固く閉めている。 

先鋒将魏鴻昌が城楼の守備兵に大音声で、

『魏国大元帥が太子殿下を護衛して通る行列なるぞ速やかに城門を開けろ』と叱咤した

。 

『戦場では天子の命なりとも聞かざるもの、どこの賊兵が我が城門を開けろと言うのか

。』と嘲笑する。 元帥は多いに怒り「城門を破って進撃しろ。」と突撃を命じた。



破城隊が勇躍突進して城門を破壊し城内に進入した。

守備軍は城内に防御体制の陣を敷いていた。 元帥は太子を門楼に安置して単身竜馬に

またがり三尺二寸の宝剣を振りかざして敵陣に突入し守門将の首を刎ねて転がし左沖右

突、手当たり次第に敵兵を斬り倒し無人の境を行くが如く敵陣を蹂躙した.

城に居た蕃軍は多くの戦死者を出し残りは反対側の城門から逃げてしまった。



太子は高い門楼の上で趙元帥の勇猛な奮戦ブリを目撃し感嘆且つ信頼を篤くした.

元帥は城内の軍備、軍糧を押収して残りは焼き払い出発した。

元帥は考えた。 「これは俺を捕らえる為の作戦だ。 前途にも色々な工作があるはず

だ。」と覚悟を改めた。 豈はからんや宿所站に到ればそこにも城が築いてあり、前に

一人の蕃将が現れ戦いを挑んで来た。

『反賊趙雄は首を垂れて我が剣を受けよ。 昨日の敗戦の報いに汝の首を貰うぞ』と大

音声を張り上げて挑戦する。 元帥は前面に出て。

『蕃将は妄りに勇を誇り、惜しい一命を落とすな.』と言ったが、蕃将が突進して来た



元帥は迎え出て合戦数合をいでずして蕃将の首を切り捨てて

『蕃陣に吾にはむかいたい者は一時に出て来い。』と声を張り上げた。 蕃陣の中から

一人の将軍が躍り出た。 見れば黄金の兜に鎧を着、長い槍を構え片手には蕃刀を振り

かざして馬を駆けて来る。 元帥はこれを迎え撃ち一合のもとに蕃将の首を刎ね飛ばし

た。 元帥は大音声で叫んだ。

『汝らの内将官が何人いるのか。 一時に参れ。 皆殺しにしてくれる。』

蕃陣では元帥の気勢に怯え陣門を硬く閉ざして応戦せずに居る。 元帥は全軍に突撃を

命じ蕃陣に殺到した。 蕃兵の死体は山を成し、血は流れ川を成した。 



あくる日、軍を発進させて暫く行くと又城が出て来た。 蕃国では元帥の通路の要所要

所に城を築いで防衛し、消耗戦をしかけているのであった。 元帥は敵の先鋒将を斬り

捨てたら、10余の蕃将が一斉に駆けいで元帥を包囲攻撃した。 元帥は竜馬を馳せ瞬く

間に蕃将等の首をはねてしまった。 蕃陣の将兵は蜘蛛の子を散らすように四方八方に

逃げて行き蕃陣はおのずから崩壊した。

この様にして第五関を破り第六間に到った。 見れば城門は開け放たれ人の影が見えな

い。 城内に入れば城は完全に空いている。 元帥は考えた、これは空城計を使ってい

るのだと看破した。 敵の計略を逆に利用する戦略を立て、全軍に命じ城内に留まるこ

とにした。 三更に俄かに城の周囲に大軍がうごめく気配が感じられた。 連日の戦闘

と行軍に疲れ果てた魏軍が安心して寝ているところに奇襲をかける作戦に違いなかった

。 元帥は輜重の車や旗幟はそのままにして、密かに全軍を北門周辺に隠し、太子と北

門の門楼に上がって様子をうかがった。 

魏軍の幕舎はしんとして静かであり真っ暗闇である。 数千の蕃軍は一斉に幕舎を襲い

手当たり次第に殺戮を敢行した。 抵抗らしい抵抗も無かった。 蕃軍は勝利に酔い松

明をともして勝利の現場を見た。 嗚呼こわいかに、死傷者は皆蕃軍で魏軍は一人も居

ないではないか。 暗闇の中で自分たちで殺し合ったのである。 元帥の計略に嵌まっ

たのを知ったが時既におそしである。 蕃軍は唖然として顔を見合わせるのみ。 



北門の門楼で戦闘の状況を見ていた元帥は攻撃の命令を発した。 暗闇に隠れていた魏

軍が一斉に飛び出して蕃陣に突撃した。 呆然として居た蕃軍は戦意を失い逃げ延びる

のに汲々した。 優勢であった蕃の奇襲軍は壊滅した。 太子をはじめ随行の忠臣らは

元帥の卓越な作戦に感嘆し賞賛を惜しまなかった。

第六関で破れた蕃軍の将兵は蕃王の前にひれ伏して敗戦の責任を問い処罰してください

と願い出た。 

『小将らが六関の戦いで趙元帥を捕らえるのはおろか敗戦して多数の将兵を失いました

。 何の面目で生き延びましょうや。 陛下の処罰を願います。』 蕃王は

『戦いの勝敗は兵法者の常なるところだ、論ずるに足らん。 下がれ。』と命じ、魏軍

の動きと烟州の地、函谷の準備体制などを綿密に聴取しながら、烟州長官には

「趙元帥は蕃都を出発の際、軍馬30頭を借りて行ったからそれを返してもらえ。」と命

じて口惜しがった。



趙元帥は長い行軍の末、烟州に着いた。 ここで軍を休ませて元帥も幕舎で疲れた体を

横たえまどろんだ。

その時一対の蝶々が元帥の枕もとに降りて両方で元帥を抱えて空を飛んだ。 蝶々がな

すがままに飛んでいくと深い山奥に入っていった。 森林は茂り天を覆い奇岩怪石がが

がと聳え別天地のようである。 ふと眼前に広広とした平原がひらけ、そこえ雄壮な宮

殿が現れた。 宮殿には達筆で万古忠烈門と書かれている。 門内に入れば殿上の正面

には一人の老王が金の冠に竜のころもをまとい座っている中、左右には多くの人がそれ

ぞれ酒肴の膳を前にして居並んでいて多数の美女が杯の奉仕をしているまさに宴会が酣

であった。 

やがて老王はおもむろに言った。

『その方らはこの3千年の間大陸の諸々の事件に臨み国を助けた者どもだ。 しかしそ

れはすでに過ぎ去ったこと。 大宋が逆賊によって滅びているのを如何にみているかの

う。』 

王の言葉を受けて一人が恭しく申し上げた。

『宋室の福祥いまだ長遠でありますゆえ遠からず回復すると存じ上げます。』

もう一人のものが申し上げた。

『そうでも御座りませぬ。 天は宋室を回復させるため趙雄を出しましたが不幸にも明

日の未明には西蕃の計略に落ち命を落としそうです。 哀れなる哉趙雄もわれ等の如く

天寿を全うし得ず敗戦の怨魂に化するようです。』と言う者があった。 

このとき守門の将が腰をかがめ、

『宋の文皇帝のお越しで御座います。』と告げた。 

諸人が庭に下りて迎え入れ座についたあと、

『どうしてかように遅れましたか?』

『宋室の回復の臣は趙雄であるのに、途中或る所を観ますれば西蕃が趙雄を捕えるべく

罠を作っていましたので彼が一命を落とすことを憂い先生に彼を助けてやるよう頼んで

参りました。』 座中の者がこぞって、

『われらは確かに趙雄が死ぬと思い哀れに思いましたが大運が尽きてはいませんでした

ね。天の命数で御座います。』と安堵の声を発した。

元帥目が覚めたら一場の夢であった。



中巻の終わり