忠臣 趙雄 上巻の1





作者 不詳

(訳者の言葉)

韓国の古典小説には中国を舞台にしているのが相当にあります.

これも其の中の一つですがかたくなな融通のきかない社会でしたので国内を舞台にする

よりも中国の方に舞台を移した方がなにかと便利な所が有ったようです.

場所と人物が中国でも韓国人が書いた韓国の文芸作品には違い有りません.

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宋の文帝が即位して23年になった.

このときは太平の世で国内が平穏で人民の生活も安定していた.

秋の9月、丙寅(ヒノエトラ)の日に文帝が忠烈廟に行幸参拝した.

忠烈廟は忠臣左丞相趙正仁の廟堂である. 臣下の廟堂に皇帝が参拝するのは奇異なこ

とであるが皇帝にはそれだけにゆかりがあるのだ. 

皇帝即位10年、趙正仁が吏府尚書の時不意の乱が起きて王宮が危うくなり皇帝は重臣

らに護られながら避難せざるを得なかった. 皇帝が避難をするほどだから一般の民衆

は言うに及ばない. 国内は大混乱し民心は恐々としていた.

このとき趙尚書は文帝を擁護して地方を回り義勇兵を募集し又援軍を得て三ヶ月目に乱

を平定して社稷を安定させた. 正に “国乱れて忠臣現る”で、文帝は趙公の忠烈を

たたえ靖平王に封じたが趙公がたって辞退するため代わりに金紫光禄大夫兼左丞相に任

じ夫人の王氏にも光烈夫人の爵位を与えた.

国はまた太平に帰った.



平和が続けば官僚は怠慢し乱を忘れ腐敗がはびこり、小人が出世と権力を欲して謀略が

蔓延するのが常である.

奸臣李斗柄は右丞相であったが上司の左丞相趙正仁を目の上の瘤と思いしきりに帝に讒

訴した.趙公は自分の役目が終わったのを感じ毒を飲んで死んだ.

文帝は趙公の死を悼み(イタミ)自ら追悼文をしたため弔い、忠烈廟を建て趙公の肖像画

を掛けて、ときたま参拝をして趙公の人柄を偲んだ.

それだけ君臣を超えての友情が篤かったのである.

この日も文帝は趙公の画像に焚香し過ぎし日の趙公の忠烈の姿をしのび悲しみに浸って

(ヒタッテ)いた. 側に侍立していた兵部侍郎(次官級)李寛が床にひれ伏して帝に申し

上げた.

『陛下の臣下には趙正仁の如き者はいくらでも御座いますし、玉顔に悲しさが宿るのも

畏れ多いことで御座います. 臣下として主君に忠誠を捧げるは当然なことですのに忠

烈廟とははなはだ僭越であります故、廟を取り壊し陛下は行幸なさらぬようなさいませ

.』 と強硬に言った.

李寛は李斗柄の息子で陛下の護衛を勤めていたが陛下は彼に謹慎を命じ、廟で終日を過

ごして日暮れときに帰宮した. 帝は趙公の夫人に位階を上げ貞烈夫人に封じ多くの金

品を下賜され尚 “朕が聞くに趙正仁に子息が居ると言う. 引見したいから連れて来

るよう”との言付けを賜わった.



趙正仁が死んだ時王夫人は妊娠7ヶ月目であった. 産月が満ち男の子を産んだ. 夫

が死んだ時、妊娠中であった子を遺腹児と言う. 

王夫人は子の名を「雄」とつけた. 未亡人王氏は7年間喪中のまま、ひたすら独り子

を育てるのに専念していた.

この日王夫人は皇帝が忠烈廟に行幸なさることを聞きひとしお悲しんでいたが宮廷から

官員が来て王夫人に「貞烈夫人」に加爵された旨と恩賜の金品を伝えた. 王夫人は畏

れ多い皇恩に感激し庭に下りてひざまづき恭しく拝受して王宮に向かって感謝の再拝を

したのち官員を客間に通して改めて皇恩に感謝する旨を述べたが官員は “「雄」を引

見したいから連れて参れ”との仰せが有ったと伝え、より一層恐れ入りながら雄を官員

に従い行くようにした.

このとき雄のとし7歳であったが顔は冠玉の如く輝き礼儀作法が大人を凌ぐほどしっか

りしていた. 雄は御前に出て鞠躬再拝し 『臣趙雄陛下の御命を頂き参上いたしまし

た.』とはっきり申し上げた. 皇帝は暫くご覧の上大いに褒め

『忠臣の子は忠臣にて小人の子は小人なり. 朕汝の挙動を見れば忠孝にはずれるとこ

ろなし、豈美しく有らずや. 又七歳ならば太子と合い年だから尚可愛いのう』と仰せ

られ、太子をお呼びになり趙雄と引き合わせて

『この子は忠臣趙正仁の子で雄と申すのだ. お前と合い年だし忠孝を兼備しているか

ら後日国事を相談しろ. 朕が80を望む歳で協政の人材を得たり、豈嬉しからずや.

雄は宮に留まり太子の学友になれ.』と仰せられ、太子も嬉しさをあらわした.雄はひ

れ伏して陛下に申し上げた.

『陛下の思し召し有りがたき幸せでは御座いますが小臣幼少ですし、尊い太子様の近く

に如何に無冠の民子が宮内に留まり得ましょうや.乞い願わくば小臣退去致し後日立身

致しましてから更に拝謁することをお許し願います.』 幼少な口から出たとは思われ

ない整然とした理論である. 陛下は益々気に入り微笑みながら.

『されば汝が13歳になれば品職を与えるから其の時に国政をたすけよ.』と仰せられ雄

が4拝して皇恩に感謝し太子にも拝礼して宮を辞した.



忠臣 趙雄 上巻の2



帝は朝会のとき居並ぶ重臣に趙雄をお褒めになったあと、あたりを見回し

『侍従のうち李寛の姿が見えぬがどうしたのじゃ.』と聞かれた.

右丞相崔軾が

『陛下が忠烈廟に行幸のおり謹慎を仰せつかり家に居ります.』

『ああ、そうだった.彼の言動が軽率であったがこの度は赦す.』と免罪した.

もともと李斗柄は息子が5人だがみなが一品の官職にいるので官吏たちはみなが其の勢

力を恐れていた. この日皇帝が幼い趙雄をたいそう褒められるのを聞いて李寛らの兄

弟は

『若し趙雄が官職についたら父の仇として吾等を思うはずだ. これは憂うるべきこと

だ. 早急に消してしまうにしくわないが、まだ幼い民間の子供に罪を問うわけにも行

かない. どうすれば良かろう.』と早くも趙雄除去の相談を初めて居た.

雄は宮廷より家に帰り母の前に座った.

母、『お前、 皇上に拝謁したか』

雄、『当然お目に掛かりました.』

母、『陛下にお目に掛かるのが怖くは無かったか.御下問があったはず、どうお答えし

たか』

雄は陛下のお言葉と13歳になれば品職を与えるから入侍することと太子様のことも詳細

に報告した. 母は一喜一悲していわく.

母、『陛下の皇恩は天の如く海の如しだが、お前若し官職を頂いたら必ず讒訴と謀略に

陥るはずだ.如何にする覚悟か.』

雄、『母上は心配なさいますな. 人の生死は天にありますし、栄辱は運に御座います

何を憂いましょう、又人の子と生まれ如何に不倶戴天の仇を目の前にして手をこまねい

ていましょうか.何か妙策を講じねばなりますまい.母上はご安心なさりませ.』

雄は唇をかみ締め覚悟を示した.母子は共に泣いた.



丙寅年大晦日の日、帝は朝会を済ました席上でしみじみと話した.

『翌れば朕の歳既に80である.歳は争えられぬもの朕の死も近い.然し太子がまだ幼少

な為それが心配だ.万一の時には政治を如何にすれば良いのか.如何にすれば朕の憂い

をなくせるだろうか.』

居並ぶ満朝の百官口をそろえて

『陛下がまだご健勝で居られるのにどうして太子の幼少なるをご心配なさいますか.』

礼部尚書鄭沖は

『陛下のお歳が多いことや太子の幼少なるを憂うことは御座りませぬ.丞相李斗柄が居

ますから国事の処理にはいささかも差し支えが無い筈でございます.』と奏上した.諸

臣らは李斗柄の権力を恐れてへつらう発言をする.

『丞相李斗柄は漢の蘇武の如き臣下ですので国事に関しては憂うることが御座いません

.』

帝はうなずきながらも心の隅には一抹の不信の気持ちを捨てられなかった.

この日の日暮れ時何処から現れたのか大きな虎が慶華門から宮廷に飛び込み廷内を走り

回った.官吏、宮女等は悲鳴を上げて逃げ回る中一人の宮女を咥えて塀を越えて去って

いく変事が起こった.

帝も驚いて諸臣に下問されたが前例の無い変事に慌てるのみでお答えの仕様も無く噂は

たちまち市中から全国に広まり民心が騒然とした.

皇帝は不吉な予感が心に宿り寝食もままならない状態にいた.諸臣は

『最近北方から寒い風が吹き付け大雪が降りまして野獣が飢えたあまり人間の村に下り

てきて偶然に宮内に飛び込んだに過ぎ無いだけのことです.』と慰めたが帝の心に占め

た暗いかげを拭い去ることは出来なかった.



このとき趙雄の母親である王夫人の従兄弟に当たる翰林学士王烈が王夫人に書簡を送っ

てきた.おりから王夫人は雄に歴史学、政治史などの勉強を助けていたが下女が王烈の

書簡を伝えるので披いて見たら、

「このまえ陛下が百官を集め国事を相談なさいましたがその日慶華門からいきなり大虎

が侵入して廷内を走り回り宮女一人を咥えて逃げた事件が起こりまして朝野がみなこの

怪異な事件の吉凶を判断しかねています.姉上がこれを判別してお教え願います.」と

あった.

王夫人は暫く考えた後答書を書いて送ってから雄に向かい

母、『国にこのような変事が起きているので将来お前が官職についたら奸臣らの謀略を

受けるに決まっている.どうすれば良いだろう.』と、心配した.

雄、『母上はご心配なさいますな.人間の栄辱はままにならないものですし、梨の花、

桃の花がいっぱい咲いた中に桂の花が一本咲いても決して混ざるものではありません.

梨は梨、桂は桂だからです.ですから小人等が満朝しましても私にさえ過ちがなければ

罪なき者を謀害することは出来ますまい.』

母、『お前は一を知って二を知らないのだ.山に火事が起きたら石も玉も一緒に焼ける

のだ.(玉石倶焚) 国に不幸が起きたらお前の仇らがお前に罪が無いからとて生かし

ておくと思うのか.お前は呑気過ぎてどうしましょう.』

雄、『人が危ない立場にあるからと心配が過ぎれば返って不利になるものです.死地に

居ても生の道有り、亡地に置かれても存の余地が有るものです.天が吾等を捨てはしま

すまい.』 

夫人は雄の度量が深いのを知り少しは安心した.

王翰林が王夫人の答書を見れば

「これは驚くべきことです. 遠からずして内部より変乱が起こりましょう.お前は官

職に未練を捨て速やかに辞職し故郷に帰れ.」と、あった.

王翰林は心に当たるものがあり病気を称して職を辞し故郷に帰った.



丁卯(ヒノトウ)年正月15日諸臣が初の朝礼の時帝は

『この前朕が趙雄を見たとき思慮が深く将来大木に育つ人材と見た.太子のために連れ

てきて書童にして国事の訓練をさせようと思うが卿等の意見はどうじゃな.』 諸臣が

黙々といるなか丞相李斗柄が

『厳かな宮廷内にはっきりした名分も無しに民間の少年を置くのは憚れます.』と、申

し上げた.

帝、『忠孝の人材を登用するのになぜ名分が無いと言えようか.』

丞相、『人材をお求めになるなら都には趙雄よりも10倍も過ぎる忠孝の人材が百余人も

居ますし、趙雄如きは車に積むほど御座います.』

帝は不満であったが口を噤んでしまった.

丞相は御前を退き諸臣と政務を相談するとき

丞相、『以後若し趙雄を推薦するものあれば処罰するから心得ろ.』と、釘をさした.

諸臣は李斗柄の剣幕に皆恐れをなして震えた.

この話しは王夫人の耳にも入った.夫人は恐れを感じ雄は憤慨した.



不幸にも皇帝は偶然病を得て一月が過ぎても治らず益々重くなって行った.

丁卯3月3日、皇帝は崩御した.

太子をはじめ皇后、皇族は勿論諸臣と国民が哀悼に浸かった.全国に国民の哭声がこだ

ました.王夫人と雄はとりわけ深く悲しんだ.

帝は死し太子は幼い.政権は丞相李斗柄の手中に陥り彼の意のままになった.志あるも

のは亡国の将来を見越して山の中に引きこもった.

丁卯4月4日に文帝を西陵に安葬した.

丞相李斗柄は国璽を保護すると言う名目で自分が保管した.

秋10月13日は文帝の誕生日である.李斗柄は重臣を集め

『今や帝王のあとを決めねばならぬが太子のお歳が8歳である.重大な帝王の玉座を8歳

の幼児に継がせるのも甚だ危なかしいことである.秩序が乱れ法令が通らなくなるのも

考えられるし社稷が危険になる憂いもある.諸君の考えはどうかな?』 

『天下は一人のものではありませぬし、10代を続く朝廷も無いものです.いかに8歳

の太子に帝位を伝えられましょうか.又先帝崩御のとき「丞相と協議して行え」との遺

言もございましたが国には二人の王が有り得ず、民には二つの天が有り得ないものです

.摂政王を置くわけにはいけません.』と、 諸臣が口を揃えて答えた.

『帝位が空き国事を休んだのも久しくなります.願わくば丞相殿が帝位を承継され国璽

を収めて朝野臣民を安らかにさせて下さりませ.』

諸臣が一斉に庭に下りてひれ伏し李斗柄が帝座に座ることを願い出た.

これは太子の幼いのを口実に李斗柄が帝王の座を占めようとかねてから企んだ順序だっ

たのだ.丞相父子の権力を恐れていた諸臣には逆らえられないことであった.この日、

丞相李斗柄は諸臣に推戴され帝王の座についた.

太子は廃位になり宮廷からも追い出されて平民になった.

太子を同情し李斗柄の帝位簒奪を恨む哭声が絶えず、全国が騒然とした.



表面は帝位継承であるが事実は臣下による帝位の簒奪に他ならない.

王夫人は大いに驚き身の上に悲惨な禍が降りかかるのを予感した.

“私等母子は殺されるに違いない.”と、昼夜を問わず天に祈りを上げ雄の救命を願っ

た.

雄、『母上は不肖の子を心配なさいますな.それより千金のお体を大事になさいませ.

人がいつか死ぬのは帝王といえども避けられないものですが李斗柄の刀に死には致しま

せん.母上ご安心なさいませ.』と母を慰めた.

李斗柄は長男‘寛’を太子に封じ国号を「平」と改め自ら順帝と称し「建武」元年と改

元した.宋の太子は臨時に客館に移していたが朝臣等の提案で遠島に定配して外部との

連絡を断絶してしまった.





忠臣 趙雄 上巻3



王夫人はこの話しを聞き「吾等もそこえ行き太子様にお仕えしたいが身分が露見して殺

されるに違いないからどうしましょう.」と嘆いたが、ある晩雄は月を見ながら政局の

挽回を考えているうち鬱憤を押さえきれず街をさまよって居たら子供たちが集まって歌

を歌っていた.

「君死して国破れ 父無き子いずる. 

文帝が順帝にかわり 太平が乱世に変わった.

天地は変わりなく 山川は変えられぬ. 

三綱は動かず 五倫は変えられぬ.

空は青いのに雨が降る 忠臣の涙であろう.

悲しいかな人民よ 五湖に小船を浮かべ時を待て.」

童謡を聞いた雄は益々悲憤慷慨して歩いた.目の前を巨大な建物がさえぎった.慶華門

の扁額が掛かっている.あっと気が付き辺りを見まわせば知らぬ間に宮廷の前に来てい

たのだ.宋朝を思えば鬱憤が爆発する.直ちに宮廷の塀を乗り越え新帝の李斗柄を撃ち

殺したいが自分には力がない.彼は懐から筆を取り出し門扉に李斗柄を非難する文章を

大きく書いて家に帰った.



この夜王婦人の寝床に夫の丞相が現れ夫人を揺り起こして「夫人は起きなさい.夜が明

けたら大変なことになります.雄を連れて今すぐ逃げなさい.」 「この深い夜に何処

え行けと言うのですか.」 「数十里を行けば自然に助ける人があるはずです.早く行

きなさい.」驚いて目を覚ませた.夢が不思議で障子を開けて空を仰いたら星が瞬いて

いる.其の時雄が外から急いで飛びこんできた.婦人は大いに驚き

『おまえは何処に行って来るのか』

雄、『気分が鬱陶しくて街を歩いてきました.』

母、『夢にお父さんがお見えになり早くここから逃げろと言われた.早く支度をしなさ

い.』

母から夢の話しを聞いた雄は驚いて

雄、『小子が今しがた街で子供たちの童謡を聞いていたらこうこうした内容でした.憤

慨まぎれに慶華門の扉にこうこう書いてまいりました.』婦人は驚いて息子を叱り付け

た.

母、『お前は考えが足りない.それでなくても赤子を井戸端に置いたようでいつも気を

揉んでいたのにそんな軽率なことをしたのか.夜が明けて人々がそれを見れば直ちに捕

らえに来るはずだ.さあ、ぐずぐずしてはいられない.今すぐ一足でも遠く逃げるのだ

.早く準備しなさい.』と、せきたて当座の着がえだけを背負い忠烈廟に行ったら肖像

画の顔が赤く汗をかいたように濡れていた.母子は肖像の前にひれ伏してひとしきりむ

せび泣いた後肖像画を取り外して包みに入れ手を取り合って道を急いだ.方角もわきま

えず数十里を走れば明け方大河が前をさえぎった.大河は広く対岸が見えない.いざと

なれば河に身を投げ死ぬ覚悟を決めていたら上流から一艘の快速船が近づいて来るでは

ないか.婦人は両手をあげて大声で呼びとめた.

王夫人、『其処の舟は急ぎのものを助けてください.』船は岸に近づいた.見れば童子

が一人居た.

童子、『どうして舟を呼びとめましたか?』と言いながら二人を船に乗せた.

王夫人、『追われる者です.早く船を出して下さい.』舟は岸を離れ矢のごとく走った



王夫人、『早舟で河を走らせるのを見ると急ぎのご用があるはずですのに乗せて頂いて

ありがとう御座います.』と王夫人は童子に礼を言った.

童子、『私は南岳先生の言いつけで困っている人を助けるために八方を巡っているもの

ですからかまいません.』と答えた.

海のような渺渺たる大河を快速船は速く走り昼下がりに或る岸につけ降りるように言っ

た.

王夫人、『お蔭様で無事にここまで参りましたがここは王都からはどれくらいの距離に

なりますか?』

童子、『はい.水路では千三百里、陸路では三千三百里です.』

王夫人、『これから何処え行けば良いのでしょう.』

童子、『あの峠を超えれば村があります.』母子は童子に深くお礼を言い別れた.



その夜新帝は夢心地が悪く一晩中悩まされた.朝遅く目を覚ました時警備の武士から急

報があった.

『朝巡視の時慶華門にこういうものが書かれていまして写してまいりました.』帝が見

れば

“宋室が衰微し奸臣が朝に満つ.

万民が不幸にも国葬に逢う.

太子が今だ成長せざる隙に小人が勢いを得ている.

万古の小人李斗柄よ、職が一品なるになおも足りぬか.

敢えて逆賊になり天に逆らい太子を遠島し国璽を奪うか.

主無き鹿を追う時覇王の蓋世の気と范増の知恵を持っても

捕らえ得ず人手に渡したるを知らぬか.

反賊よ富貴に目がくらみ宋業を絶やすなかれ.

天地に容れられざる汝の罪業一筆に記しがたし.

前朝の忠臣趙雄がしるす.”とあった.

皇帝と諸臣がこれを見て頭を打たれたようなショックを受けて憤慨が極に達した、受け

持ちの官員を巡視を疎かにした為、犯人をその場で捕らえなかった罪で処刑し、一方趙

雄母子を即時逮捕するよう厳命した.軍卒が出動し趙雄の家を包囲して乱入捜査したが

既に逃亡した後だった.

趙雄母子を逃がしたとの報告を聞いた皇帝は益々怒り諸臣に号令した.

『万一趙雄母子を捕らえ得ねば重罰を加える.速やかに捕らえて朕の怒りを晴らせ.』

諸臣は戦々恐々して王都の50里四方を包囲ししらみつぶしに探したが失敗した.

皇帝は怒り心頭に達し

『先ず忠烈廟に行き趙正仁の肖像画を剥がして来い.』と命じたが

『肖像画は既に無くなっていました.』との報告を聞いた.帝は書卓を叩いて

『忠烈廟と趙雄の家を焼き払え.』と命じた.

帝は怒りと焦燥で寝食もままならず、国民は不安におののき社会が動揺した.

諸臣は皇帝に上奏した.

『趙雄は8歳の少年ですし、その母は女ですので遠くえは行けずすぐに目につくはずで

す.各地に通達して懸賞をかけて探せばすぐに捕らえるはずですからご安心なさいませ

.』

帝もそれがよかろうと承認し、“士族、常民を問わず趙雄母子を捕らえるものには千金

の賞金と万戸侯の爵位に封ずる.”と全国に通達し榜を貼って逮捕に努めた.



このとき趙雄母子は船から下りて船童が教えてくれた通り峠を越えて行ったら林間に村

があった.歩きながら村の様子をうかがったら人々がおとなしそうである.井戸端で水

を汲む女に貰い水をして喉を潤し、集まっていた人たちに.

『旅の者ですがこの村で一晩泊まらせていただくお宅は無いでしょうか.』そのうちの

一人が

『それでは私についてきなさい.』と言い、二人をちょっと外れた一軒の家の前で

『この家に入って主人に頼んでご覧なさい.』と教えてくれた.家は静かで人が見えな

い.

『ごめん下さい.ご主人居られますか.』王夫人の呼び声に50代に見える女が出て来た



『旅の者ですが今日一晩泊まらせていただきたくて参りました.お許しくださいませ.



『それは難儀ですね.お入りなさい.』快く中に入れてくれた.男の影は無く十五、六

の娘と二人暮らしだった.部屋に入れば全てがきれいに整頓され清潔だ.

『婦人のお住まいは何処で、どちらえお越しになるのですか.』

女主人の問いに王夫人は溜め息をついて

『不運が続きまして主人を亡くし又禍に逢いまして命を保つために子供を連れてここま

で逃げてきましたが天の助けで奥様にお目に掛かりました.ここは何処でなんと言う村

ですか.』

『桂陽の地で百資村です.』と答え娘に夕ご飯の準備をさせた.出されたお膳を見ると

格式が整い、ただの田舎者のお膳とは違うところがある.味も上等である.ひもじい母

子は腹いっぱいおいしく食べた.王夫人は女主人に感謝の礼を言った.

『粗餐ですのにそうお礼を言われたら恥ずかしいです.』と主人が微笑んで答える.

王夫人は重ねてお礼を言い、旦那の有無を聞けば女主人は溜め息をついて、

『主人は桂陽太守をしていましたが職を辞してこの村に家を構え晩年に得た一人娘を楽

しみに暮らしましたが不幸にも主人が死にましてそのままここに居座って寂しく暮らし

ています.若し行く所が無かったらここで私らと一緒に暮らしたら如何ですか.』と意

外な好意を示す.素性は知らないが、お互いが高官の奥方で何か通じる処が有ったのか

見知れない.

勿論行き先が有る訳が無い.明日は又いずこをさ迷うか心配している矢先だ.渡りに船

である.王夫人は百拝して好意に甘えとどまることにし、部屋一間を借りて夫人は家事

をてつたい女中のごとく働いて報いた.歳月はとどまることを知らず暮れになり年が明

けた.王夫人は五十八、雄は九歳になった.



もともと百資村は付近の山に薬草が多く村人がこれを採集して暮らしているところから

百資村の名がついていた.

或る日村の婆が訪ねてきて王夫人に親切そうに言葉を掛けてきた.

老婆、『人生って夢のようだとも浮き草のようだとも言うのよ.百歳を平穏に暮らして

もなお恨みが残ると言うのにあんたはまだ若い歳でこんなに苦労してどうするの.』夫

人は笑いながら

王夫人、『わたしも人生のはかなさは承知していますがこれも私の運命ですし、息子が

居ますのでそれを頼りに生きております.』

老婆、『まあお気の毒なこと.女手一つで子供を育てるのも大変だけどそうした所で残

るのは虚しい後悔だけなのよ.人間は男と女が助け合って暮らすようになっているのよ

.男と死に別れたらもう因縁が切れたのよ.未練を置くことは無いわよ.わたしの従兄

弟が妻を亡くして寂しく暮らしているがお金も有るし体も丈夫ですの.あんたとはつり

あいの夫婦だわ.私の従兄弟と一緒になったら一生裕福に楽しく暮らせるわ.あんたは

運がついたというものよ.良く考えてごらん.』

夫人は話しを聞いているうち怒りと悲しみが込み上げてきた.然し老婆には穏やかに

王夫人、『国を離れたら賎しくなる(移郷即賎生)と言いますがわたしは節操のない女

に見られるのは迷惑です.そんな話しはまたと言わないで下さい.』ときっぱり断った



老婆はきまりわるく帰り従兄弟に “再婚する女でなさそうだ”と告げた.従兄弟はも

とより強暴な質で評判が良くない男である.

『放っておきなさい.どうせ網に掛かった魚です.いくらでも方法がありますよ.』

=上巻の3 終わり=





忠臣 趙雄 上巻の4





ある日、雄は母に

雄、『ここに来て既に8ヶ月になります.皇城のことも気になりますしまたこんな山奥

に長く居れば人が愚かになります.少子しばらく母上の膝下を離れ周遊しながら朝廷の

動きも知り、あわよくば師を得て学問も修めたく存じます.』

王夫人は村の老婆から変な話しを聞いてから心に不安が募りこの村にひとときも留まり

たくない気持ちだったので

母、『お前がその気なら母も一緒に行きます.おまえを一人発たせて縁故も何も無いこ

こで母が残るわけには行けません.明日の朝発ちましょう.』と旅の支度をして主人に

別れを告げた.

王夫人、『奥様には限りないご恩を蒙りましたがお返しもせずに発つのをお許し下さい

ませ.』と挨拶した.主人も呆然としたが止める訳にもいかず婦人の手を握り別れを惜

しむのみだった.

人の目に触れるのを恐れ朝霧の立ち込む早朝に村を出て道を急いだ.数里を歩いただけ

なのに王夫人は足に水腫れが出来て歩くのが苦しくなった.雄は母の荷物も自分が一緒

に背負い母の手を取って歩いたが王夫人は一歩一歩が苦しくて動けなくなった.その日

はやむなく近くの旅篭に泊まった.貴婦人は出かける時には駕籠に乗り供の者に護られ

るのが常だ.それが一日中歩きつづけたのだから足に水腫れが出来るのも当然だし、そ

の足で歩く痛さも辛抱で耐えられるものではない.あくる日は半日を歩いたが道端に家

一軒無い.足の痛さに加えて喉が渇きひもじさで道端に座り込んだ.休むと言うよりは

へたばったていた.しばらくすると馬に乗った人が通りかかった.雄はすかさず飛び起

きて馬上の人に頭を下げ

『旅の途中人家も無く乾きとひもじさに母が弱っています.何か食べ物がありましたら

恵んでくださいませ.』

『それはお気の毒な、家が近ければお招きしても良いけど、それもなりません.持ち物

とて粗末ですがこれでも良かったら差し上げます.』と、乾糧を呉れた.お礼を言って

貰いうけ母子が分けて食べ飢えを凌いだ.



こう言う具合の旅を三日ぐらい続けた時或る駅村に着いた.まだ日が暮れるには間があ

ったが足が腫れて歩けないから宿を決めて泊まるつもりで居たら

『新しい皇帝が各所を巡幸し“趙雄母子を捕らえる者には千両の賞金と万戸侯に任命す

ると言うのだ.おいらも罪人を捕らえればにわか出世をするんだぜ.』駅の人々が大き

な声で話すのが聞こえるではないか.母子はびっくり仰天肝を冷やして急いで森に逃げ

た.足の痛さも疲れも感ずる余裕が無い.あたふたと人目につかないように山の中に逃

げたのである.深い山の中岩の上に母子が抱き合って泣いた.

母、『もう何処にも行くところが無いのだ.どうすれば良いのか.』目先真っ暗だ.途

方に暮れた.山のなかは日が暮れるのが早い.あたりが暗くなった.春先で大して寒く

は無いが暗い山の中をむやみにさ迷うわけにも行かない.岩のくぼみにもたれて夜を過

ごした.野獣の鳴き声が木霊する.月の光が樹の枝の間から射し込む.枝をゆすぶり通

りすぎる風の音、猿の鳴き声悲しくほととぎすは路宿者の哀愁を煽り立てる.夫人は雄

を抱きしめ一夜を泣き明かした.顔は泣き腫れ別人のようになっていた.朝日が差して

又歩き出したが疲れと飢えで幾ばくも行かずして草の上に身を横たえた.雄は花を折っ

てきて母に上げた.母を思う雄の気持ちが嬉しい.



暫くすると人々の話し声が聞こえ数人の尼僧が近づいてきた.夫人は立ち上がって合掌



王夫人、『お坊様達はどこのお寺でどちらに行かれますか』と聞いた.その内の一人が

尼僧、『夫人はいずこのお方ですのにこの山の中に居られますか』と聞き返した.

王夫人、『道を失いまして迷ううちひもじさに堪えかねて動けずに居るものです.』

尼僧達は哀れに思いそれぞれ持ち合わせの乾糧とおにぎりを出して婦人に上げた.

王夫人、『死に間際の人生をお助け頂き、ご恩は忘れませぬがここからお寺まではどの

くらい有りましょうか.』

尼僧、『この山にはお寺がありません.私らの寺はここから百余里も有ります.険しい

山道ですのでお一人では無理でしょう.私達が寺に帰る道ならお供をしてもよろしいで

すけど私たちは郡の太守が新しく赴任してきましてお祝いに行く途中ですのでそれは叶

いませぬがこの道を数里行きますと村が出てきますからそちらえお行きなさい.』と教

えて別れた.

母子は尼僧から貰った飯を食べ腹拵えをした.雄は持ち物をまとめて旅を続ける支度を

した.

母、『何処え行くと言うの.官員に捕らえられるに決まっている.人に殺されるよりは

この山の中で死ぬほうがました.』

雄、『人の命は天にあります.天に見捨てられたら死ぬまでですし生かして呉れたら生

き延びるのです.どうして山の中で野獣の餌食になりましょう.心配しないで村に行き

ましょう.』

母、『お前は大きなことを言うな.吾等母子が人目につけば必ず疑われるに決まってい

る.道を立つ前に私が姿を変えるほうが良いと思うのだ.私が髪を切って尼僧になりお

前は沙弥になれば人目を騙すことになるではないか.』

雄、『然し母上.命も大事ですが、どうして髪を切り落とせましょうか.』と涙を流す



母、『削髪をしたからとて必ずしも坊さんになるわけでもないし、身なりはどうでも構

わないではないか.落ち着けば髪は又伸ばせば良いものだ.わらわは断固と髪を切り落

とす.』

雄、『しかれば少子も削髪してください.』雄は涙ながらに申し上げた.

母、『お前は考えが足りませぬ.子供が削髪をしたら返って目に付きやすい.何故さよ

うに愚かですか.』母の凛とした叱咤に気おされた.

雄、『承知しました.』と言うしかない.王夫人は荷物の中から鋏を取り出し雄に渡し

て.

母、『さあ、母の髪を切りなさい.』 雄は鋏を受け取り端正に座った母の後ろに回り

腰まで垂れている母の髪の毛を切ろうとしたら涙がこみ上げ泣いてしまった.考えれば

母にこれほどの難儀を与えたのは皆自分の軽率な行いのためである.自責と悲哀に浸り

手を動かせないで居た.

母、『わらわが今まで生き延びているのはお前を護るためだ.おまえは勇気を出して母

を慰めるべきなのに女々しい態度で母の悲しみを深めるなら母は生きたくありません.

』と叱り付けた.

雄は袖で涙を拭き、気を取り直して母の髪を切った.坊主になった母の姿に雄はその場

にひれ伏して慟哭した.

母、『もう泣くのを止めなさい.母はもっと悲しくなります.』夫人は雄を軽く抱いて

頭を撫で慰めた.夫人は行装の中から白衣を取り出して僧衣に作りなおした.僧衣をま

とい頭巾をかぶり竹杖をついたらまげれもない尼僧である.二人は村に降りて食べ物を

貰い食いをして道を歩いた.尼僧の姿をしているから人人は喜んで食べ物を恵んでくれ

る.乞食の時よりは楽であった.



或るところに行ったら市が立っていた.王夫人は切った髪の毛を雄に売ってくるように

言いつけたら漸く五両を貰って来た.そのお金で饅頭を買って食べ残りを行装に仕舞い

旅篭で寝ていたら夜中に外が騒がしい.驚いて目を覚まして外を覗いたら盗賊等が刀を

下げて襲ってきた.夫人は驚きまぎれに旅篭の塀を越えて逃げ出した.逃げながらはっ

と思って立ちすくんだ.雄を置いてきたのである.村のほうを振り返ると火の手が上が

っているし賊も逃げる村人を追ってくる.夫人は逃げながら“雄や、雄や”と叫び暗く

て何も見えないまま、むちゃくちゃに走っていたら目の前に家が現れた.飛びこんでみ

たら碑閣であった.とりあえず碑石の後ろに身を隠して一息ついていたが心身共に疲労

して知らぬ間に眠りについていた.

この晩、雄が寝ていたら盗賊が入ってきて雄の足を掴み外え放り投げた.幸い怪我は無

かったが見たら盗賊が行装を持って行こうとしている.雄は驚いて跳ね起き盗賊にすが

った.

雄、『その荷物は持って行っても金になるものは有りません.その中にお金が有ります

からお金だけを持って行って荷物は返してください.』と頼んだが

盗賊、『うるせえなこの餓鬼』と足蹴にされ転んだ.それでもひるまず雄は必死に叫び

ながらすがりついた.賊のうち年寄りに見えるものが荷物を開いて見たら三両の銭と画

像が出て来た.年寄りの賊は銭と画像だけを持って行く.雄は又すがり付いて叫んだ.

雄、『画像を持って行くなら私を殺しなさい.』雄の必死の様子を訝しく思ったか

老賊は『この画像にゆかりがあるのか』

雄、『私は和尚様の沙弥ですが、和尚様は何処え行くのにもこの仏像を持って歩いてい

ます.今日和尚様をお供してこの旅篭で寝ていましたが和尚様を失い、画像までなくし

たら後で和尚様にお会いする面目も無くなり私は飢え死にするしかありません.その画

像、貴方方にはつまらないもの、残して行ってください.』と涙を流しながら懇願した

.老賊は外の者と相談して返してくれた.雄は何度もお礼を言い、画像を荷物に入れ包



雄、『何処え行けば和尚様を会えましょうか』と聞いてみる.

老賊、『あちらの道を行ったはずだ.そっちに行け.』

雄、『お蔭様で助かりました.ご恩は忘れません.若し後でお目にかかるかもしれませ

ん.お名前と住所をお教え下さいませ.』老賊は苦笑しながら

『こら、盗賊の名前なぞ知ってもはじまらんわい.早き行け.』雄は更にお礼を言い荷

物を持って賊が教えてくれた道を走った.

“お母さん、お母さん”と叫びながら人気のと絶えた暗夜の山道を走った.



王夫人が石碑の後ろでうつらうつらしていると夫の丞相が現れて.

『雄があなたを探してこの前まで来ているのにそれも知らずに寝てばかり居ますか.』

と言う.

驚いて目を覚まし急いで外に出たら母を呼ぶ雄の声が聞こえる.婦人は大いに喜び

母、『雄や、母はここに居ます.雄や、雄や.』と呼び合い離れていた母子が再会した



まだ幼い雄は母に逢い嬉しさに母に抱きついて泣き出した.婦人も泣きながら、

母、『おお雄や.無事だったか.どうして賊の手を逃れたのか.』と聞いた.雄は心を

落ち着かせて賊に起こされ銭をやり画像と荷物を取り戻した一部始終を話した.

母、『命を失わず画像まで護りぬいてお前は本当にえらいことをしました.私は賊に追

われて遮二無二逃げましたがお前を置いてきたので死んだと思いここで死のうと思いま

したが碑閣があったのでとりあえず飛び込んで身を隠し』 うとうとと居眠りしたこと

、丞相の霊が現れ起こされた話しをした.二人は先ず碑閣にはいり夜を明かした.

やがて夜が明けた.母子は外に出ようと扉を開け一晩世話になった碑閣の中を省みた.

石碑には金文字で 大国忠臣兵部侍郎兼各道鎮撫御史趙正仁不忘碑 と書いてあった.

碑文の内容は 「皇上が明らかに判断し魏王を処罰されたが百姓は戦乱に次いで凶年に

逢い生き延びるため四方に散って行った.皇帝が百姓を助けるよう良臣を送られた.こ

の方が万民の父母になり赤子を救いたまわれた.その恩徳は泰山よりも重く報いるすべ

も無し.ひたすら万歳を叫び称えるのみ.」と記していた.

趙雄母子は碑文を読み丞相に逢ったような気持ちになり石碑に抱きついてひとしきり泣

いた.

その悲嘆の有り様は飛ぶ鳥や野獣までもが共に泣くほどの哀れさであった. 

雄、『父親の石碑がなぜここにありますか?』と母に聞いた.

母、『この碑石を見ればここが魏国の地だ.おまえの父親が兵部侍郎のとき魏王、杜侵

が暴悪な性質で桀・紂のようだったので百姓は塗炭の苦しみを受けていたのだ.当時 

“わが王様いつ亡びるの.一日が三秋だよ.” と言う童謡が流行ったものだ.そのと

き魏王は反逆を図って皇帝になろうとし、妖邪な道士の話しを聞いて十五歳になる童男

童女等を殺してその肉を薄切りにして乾し、陰陽に応じて天祭を挙げ、兵を起こして攻

め入ったが戦いに敗れて亡びたが戦争と3年間の旱魃続きで百姓が四方に離散した.皇

帝はおまえの父親をこの地方に派遣して救民に当たらせた.父は祈雨祭をあげて雨を得

たし、国の穀倉を開けて国民に食料を分配して百姓を安定させた.お父さんの具徳を称

え石碑に残したのだ.』

母子は紙筆を出して碑文を転書し拝礼して碑閣を出た.

然し母子はもう僅かな金子まで賊に取られ無一文の状態で向かうあて先もない.

母、『もう街の旅篭は危険ですからどこかお寺を探してそこえ行きましょう.』と話し

が決まり.道々人に寺を訊ねたら或る者は知らないと言い、或る者は“僧が寺を知らな

いのに俗人はなおさらだよ.”とあざ笑うし、或る者は詳しく教えてくれるものも居た

.忠臣 趙雄 上巻の5





家を捨て追われる旅に出て既に三年、雄の歳十一になった.逆境の中でもすくすくと成

長し背も高く力もひとかどの大人並みに育った.行くてに川がさえぎれば母を軽々と負

ぶって越えた.或る日は一日中歩いても人家にも人にも逢えずひもじさと喉の渇きで道

端に呆然と座っていたら山間の険しい道から一人の山僧が鉄の杖をついて急いで降りて

来るのが見えた.

山僧は母子の前に来て背嚢より食べ物を出して婦人に上げながら丁寧に

山僧、『旅先にひもじいでしょうからお上がりなさいませ.』と勧めた.母子は飢えた

矢先なので恥も礼儀もわきまえずがつがつと食べた.その様を僧は可憐な目つきで黙っ

て見つめていた.

夫人は大方食べた後自分の失態を感じ、恥じらいに顔を赤く染め大きく溜め息をして

王夫人、『飢えて歩けず死を待つのみでしたが生き仏様にご馳走を賜わり助かりました

.ご恩は忘れられません.』と礼を言った.僧は笑いながら、

山僧、『僅かな食べ物をご恩とおっしゃれば小僧は奥様より千金を頂きました.そのご

恩は如何でしょうか.』と言うから驚くほかは無い.

王夫人、『小僧は貧しい僧侶でしていつも乞食のように貰い食いをしていますのに千金

などとは縁が御座いません.』

山僧、『あなたは趙忠公殿のご夫人でありませんか.身なりを変えられでも小僧が知ら

ないはずがありません.』と言った.夫人と雄は大いに驚いて、

王夫人、『ここで我等の身分が露見したからには敵に捕らわれ死ぬ運命ですか.』と泣

いた.

王夫人、『吾等母子を捕らえて官庁に差し出せば千両の賞金と万戸侯に封ぜられましょ

うが富貴は浮き雲のような、泡のような物です.一時の栄華を省みず命を助けて下され

.僧は仏様の弟子でしょうからお慈悲で命をお助けになれば必ずや成仏されるでしょう

.和尚様どうか命をお助け下さいませ.』と合掌して僧にすがりついた.和尚は笑いな

がら、

山僧、『奥様は心配なさるな.小僧は奥様に危害を与える者ではありません.落ち着い

て聞いてください.ご夫人は良くご覧下さい小僧をお忘れですか、私は殿様の画像を画

いてあげた僧の月鏡で御座います.その時殿の画像を画き終わりご夫人にお目にかかっ

たとき千両の大金を下賜されました.小僧は夫人の面影を忘れていません、ご夫人は小

僧をお忘れでしたか.』

そう言われて良く見れば見覚えがある顔だが時が長く経ったのではっきりしないし、だ

からと言ってこの人を信じて良いのかもしれない.

王夫人、『千両を上げたのは間違い有りませんが、気をつけてあなたを覚えているわけ

ではありませんでした.ご遠慮なくはっきりしたことをお教え下さい.』和尚は夫人の

疑い深さにあきれたが.

山僧、『夫人が長い間逃れ歩いた辛苦のため疑われるもごもっともです.小僧があらか

じめ感じ取り証拠を残しておきました、持ってきた殿の画像を出して御覧なさいませ.

』婦人は益々驚き

王夫人、『乞食も同様な身に画像など有るはずがありません、今となっては俎板上の魚

、和尚様の御意の通りなさいませ.』と泣き崩れた.僧はあわでて

山僧、『どうしてそれほど疑われますか.その時画像を画くとき夫人を拝見すれば妊娠

7ヶ月くらいでした.婦人の相を見て思い至るところがありまして前頭苦行を記し画像

の裏に貼りつけました.それをご覧になれば小僧に対する疑いは晴れると存じます.』

夫人は訝しく思いながらも画像を取り出して裏張りの紙を剥ぎ取れば一枚の紙が出て来

た.

「万花が咲き競う如き美しい王夫人が削髪とは何事なるや. 荒波にもまれる時亀に救

わる.

城主は屈三閭の忠魂の持ち主. 腹中の胎児、闊達な奇男児なり. 公子を沙弥とし変

装しても、尊き姿画像の如く変わらざるなり. 以上は魏国上陽の地、康善庵月鏡が謹

書す.」と書いてあった.



王夫人は書き付けを見終えて大いに驚き且つ喜んで月鏡の法衣を掴みこらえてきた悲し

みを一度にあらわす如く慟哭し

王夫人、『見覚えが悪くて済みませんでした.わが母子は命を逃げ延びていますが、皇

帝は吾等を捕らえるべく全国を督励しているとのことです.ここに至り幸いにも尊師に

巡り会い嬉しくも有り悲しくも御座います.』とまるで肉親に会ったようにその間のい

きさつを詳らかに話した.

月鏡、『おおよそは判っていましたが、興亡盛衰と尊卑貴賎は天の定めるところですか

ら逃れられるものでは御座いません.小僧は今日お目にかかる事を判っていましたから

早く来てお待ちするはずでしたが寺に用事ができて遅れました.申し訳御座いません.

』と言いながら二人を寺に案内した.道は樹木と岩石に隠れ迷路の如く複雑であったが

月鏡の後を付いて難なく山奥に入っていった.樹木は密生し巨岩が四方を遮り外界と隔

てている中、谷間の水は瀑布となり淵をなして人の心を洗い流すような清らかさがあっ

た.或る所に着けば前方がバット開け大きな湖水が現れた.深い山奥であるだけに神秘

に思わせる山上の湖水である.そこには既に数人の僧侶が舟を用意して一行を待ってい

た.僧侶たちは王夫人母子に丁寧に合掌拝礼して船に乗るよう案内した.湖の周辺は鬱

蒼たる森林と奇岩絶壁に覆われさながら仙境である.

舟は絶壁の角を回り暫く行って山門の前に着いた.寺は人跡の届きにくい別世界にもか

かわらずきれいに整備され隅隅まで人の手が行き届いていた.

王夫人、『今日尊寺を拝見しますと本当に仙境で御座います.賎しい世俗の者が仙境を

汚しまして恐れ多いことでございます.』と王夫人が挨拶をした.諸僧は

『むさいところに尊いお方をお迎えし光栄で御座います.寺が貧しく庵子が風雨に頽落

し倒れそうになりましたのに以前月鏡和尚が皇城に参りました折夫人に千両の大金を頂

いてまいりお蔭様で寺を重修致しましたが貧しい山僧がご恩を如何にお返し出来ましょ

うか.』

王夫人、『僅かな布施をしましたのにそんなに篤くお礼を言われるとお恥ずかしい次第

です.』

諸僧が別堂を開けてあげ親切にもてなすので漸く心身が安定して落ち着くことが出来た



月鏡大師は雄に学問やいろいろな術法を伝授した.雄は一を聞けば十を知る叡智があり

大師も感嘆して自分の知識の全てを喜んで伝えた.



王夫人は家を離れて三年間の艱苦を経て安楽な日にちを送り雄の歳十五歳を迎えた.雄

は骨格も逞しく英雄の気性が満ち溢れる好青年に成長した. ある日、 

雄、『小子既に十五になりましたしその間月鏡大師のお陰で学問も大きく増進しました

.ここが仙境なるゆえ心地よい所ではありますが、男児世に生まれ安逸に長居するのも

望ましくありません.小子膝下をしばし離れ山を下りて世間を周遊して経験をつみ皇城

の様子もうかがいたく存じます.』と述べた.王夫人は大いに驚き

母、『さようなことを考えるとは意外です.故郷を千里も離れ母はお前のみを頼り、お

前も母を頼っていますのに一時なりとわらわがお前を離れられますか、もってのほかで

す.お前が山を下りたければ母も一緒についていきます.二度とかようなことを申しま

すな.』と厳重に戒めた.

雄は母に叱られすごすごと引き下がったがどうしても世に出たい気持ちを押さえきれな

かった.悶々と悩んだ挙げ句、月鏡大師に相談した.

雄、『小生今世に出ましても人に引けを取るほどでは有りませぬし又小生が僧でも有り

ませぬしここに長らく居まして皇城の事も気になります、小生の志を伸ばす機会を得る

ためにも山を下りようと思い母に申しましたが叱るだけで許してくれませんでした.大

師様が小生の為に母を納得させて頂けないでしょうか.母も大師のお言葉には従うと存

じます.』と懇願した.大師は

月鏡、『公子のお考えは男児としてごもっともです.』と賛成して王夫人に逢い四方山

の話しのついでに雄の下山の問題を持ち出した.

王夫人、『お話しはわかりますが一人息子を万里の他郷に放浪させ、わらわ独り寂しい

山の中に取り残されてどうして堪えられましょか、息子又年少で経験に乏しいのに険し

い世間に出てどんな目に逢うかもしれませんので許しませんでした.』

月鏡、『夫人のお話しも当然至極ですが公子は年少ながら千兵万馬の戦場の只中でも愁

うること無いほどの実力を備えておりますし天数亦夭絶の運ではございません.鴻門宴

の殺気の中でも沛公が生き残り、世が覆る荒波の中で夫人が生き残ったではありません

か.小僧亦公子の運命を測られないならばどうして公子の世に出るを薦められましょう

か.公子が下山した後でも常に小僧が吉凶禍福を観ていますからご安心なさいませ.』

夫人は熟考の後

王夫人、『万が一でも大師のお言葉通り行かなければ如何に致しましょう.』

月鏡、『公子の一生の栄辱をすべて見通していますから心配なさいますな.』と太鼓判

を押した.





忠臣 趙雄 上巻の6





趙雄は月鏡の案内で山を下りた.雄志は蒼い大空よりも高く闘志と希望に燃え、未知の

世界に大きく一歩を踏み出した.各地を周遊し地理とか民心の動きなどを調べて回り、

はや半年が過ぎた.或る処に至れば千門万戸の賑やかな街である.大道を歩きながら街

の風景を見物していた.道端に半白の老人が粗い麻の羽織に黒い帯を締め端正に座り膝

の上に一振りの宝剣を置いているがどこか脱俗の気風があった.雄はその剣に見とれて

いた.欲しかった、しかし売る売らないも知らないし懐には持ち金もない、ただ剣に見

とれて離れた所から剣と老人を見ているだけであった.街行く人が「その剣売り物です

か?」と聞くと老人は「ですが値段が千両を越えますよ.」と答えると人々が笑いなが

ら通りすぎた.雄は物凄く欲しかったが千両どころか一文も無いので話しも掛けられず

、かといって其処を離れたい気も起こらず遠くで漠然と立ち尽くしていた.やがて日が

暮れ出店を仕舞う頃老人は剣を袖に仕舞い立ち去った.

雄は近くの宿で泊まり翌くる日その場所に行って見れば老人の姿は見えない.店の主人

に聞いてみた.

雄、『昨日ここで剣を売りに来ていた老人を見かけましたが今日は来ませんか?』

主人、『その老人はもう一ヶ月もここで剣を売ろうとしていましたが値段も高いし買い

手があってもなぜだか売らなかったようでしたよ.』

雄はあせった、先ず老人の居所を知っておいて、寺に帰り月鏡と相談するつもりで、

雄、『また来たら居所を聞いてみてください.』と店の主人に頼んでおいた.

その後老人が来た.店の主人が老人に

主人、『或る青年がご老人の居所を聞いていましたよ.』老人は驚いて.

老人、『どんな身なりをしていましたか?』主人は見たままを答える.

老人、『その人の居所を知っていますか?』

主人、『居所は知らないが又来るはずです.待って御覧なさい.』

老人は一日中座って待った.雄も亦一日中離れた処で見つめている.老人は雄が自分を

見ているのを知らない.又日が暮れた.老人は溜め息をついて懐から紙筆を出して数行

の詩を認め主人に渡し

老人、『その若者が来たらこれを渡して必ず私に逢うように言って下さい.』と頼んで

去った.

老人が去った後雄が店の主人に老人の居所を聞きに行ったら主人は、

『何処に行ってましたか?老人が必ず逢いたいと言ってましたよ.』と言い書信を渡し

た.

急いで披いて見れば

華山道士一袖重   華山の道士は袖が重い

月佩江如売剣士   風情はまるで剣売りの如し

人人一剣價幾許   人人は値段を聞いてくる

翁道三時五有士   老人は待ち人有りと答える

紛紛市場幾男子   賑やかな市場に幾人の男が来たか

前過千人不願売   目の前に一千人が過ぎても売るを願わず

雄児消息問誰知   雄児の消息を誰に聞こう

座則支顎起遠視   座れば顎を支え立てば遠くを見る

雄は書信を見て大いに喜び又焦った.それは老人が自分を待っていたのが確かだからで

ある.雄は店の主人の許しを得て其処で老人を待った.やがて老人が来た.雄は老人の

前に進み丁寧にお辞儀をして剣の値段を聞いた.老人はしばし鋭い目つきで雄を見てい

たが嬉そうに顔をほころばせて雄の手を取り.

『そなたの名前が雄か?』

雄、『はい、雄に違い有りませぬが尊公がどうしてご存知ですか.』

道士、『自然にわかったが天が宝剣を預けその主人を探して全国をさ迷っていたが数月

前大将星がこの地に現れたのでここで一月も待ったが現れないので夜毎に天数を見たら

星は去っていないので辛抱していたのだ.その甲斐有って斯く逢えて嬉しい.とにかく

あちらに行きましょう.』と雄を連れて町外れの静かなところえ行き剣を出して雄に渡

しながら

道士、『是は貴方の剣です.お受け取り下さい.』と言った.雄は一旦受け取ったが訳

がわからず、

雄、『まだ値段も知りませぬのに宝剣を先に下さるとはどういうことでしょうか?』と

聞いた.

道士、『何も聞きなさるな.値段は要りません.貧道はただ主を探して渡したので満足

です.』

雄は首をかしげながらも剣を鞘から抜いてみた.刃渡り三尺二寸、光沢と言い、作りが

尋常な宝剣で無い.中ほどに金文字で“趙雄剣”と銘打ってある.見れば見るほど気に

入る宝剣だ.

雄はその場に膝まついて叩頭拝礼し

雄、『重宝をただで下さいまして感謝に堪えません.このご恩をいかにお返しいたしま

しょうか.』

道士、『それは貴方の宝です.私はお伝えしただけで恩とは言えませんよ.』と謙遜し

雄と共に数日を過ごして別れるとき

道士、『別れるのは惜しいがそなたの行き先がせわしいから勤めて大名を成し遂げなさ

い.』

雄、『何処に行けば良き師を得られましょうか?』

道士、『ここから南方に七百里を行けば官山と言う山が出てくる.その山の中に天官道

士という方が居るが誠を尽くせば逢えましょうが普通には難しいから格別に慎んで教え

を請いなさい.』と教えてくれた.雄は道士と別れて宝剣を腰に差して南方に向かい数

日後に官山に至った.

山の中に深く入れば奇岩絶壁が天を突き森林は鬱蒼と茂り万丈絶壁間開闢さながらであ

る.ふと瞳を巡らせば幾棟の茅屋があり石門が開いている.雄は門内に入ったら池塘に

は蓮花が咲き周りは菊が満開である.外堂には二人の童子が碁を囲んでいた.雄は先生

を訪ねたら

『最近は川猟を楽しまれ遅くお帰りになります.』と答えた.

雄、『いつ頃お帰りですか?』

童子、『日が暮れて月が出てから帰られます.』

雄は日が暮れるまで待ったが何時まで待つわけにも行かずまた主人と約束をしたわけで

もなく自分が必要で訪ねたので主人留守の家に長居も道理にそむくと思い一旦引き下が

り山を下りて村で泊まり翌る日再び訪ねた.家は依然静かである.童子が出て来て

『三更に帰られ鶏が鳴くとき出掛けました.』と言う.しかたなしに半日を待ったが消

息が無い.

又村に下りて夜まで待ち四更に訪ねた.童子は

『鶏の初鳴き時に出かけられました.』と言う.雄は溜め息をついて.

『千里の道を歩いて先生をおたずねしました.願わくば先生の行き先を教えてください

.』と、頼んだ.童子は笑いながら

『樵が弓を引いて雁を射止めそこない、自分の修業の足らないのを悟らず弓矢を折った

と言う話しがあります.貴方も自分の誠意が足りなかったのを省みず主人の留守を恨み

ますか.先生がこの山の中に居られるのは確かですが千峯万壑の中、居所を如何に探し

得ましょう.』と、言う.童子には話しをしても無駄である.取り付く島も無い.無聊

のまま半日を待ったが先生の姿は見えない.雄は紙筆を取り出し数行の字を書いて壁に

貼り付け童子に別れを告げて茅屋を辞退した.残念な気持ちを抱いてすごすごと山を下

りる足は重かった.





忠臣 趙雄 上巻の7



この時天官道士は岩に腰を下ろして隠れて雄の挙動を見ていたが書き付けを残して帰る

のを見て急いで帰り張り紙を見た.

遽作十年客   師を探して十年の書生が

迎見万里外   万里の外から訪ねて来ました

濛澤龍遊飛   霞んだ池から龍が飛び出さんとする

是声未達也   その声が届かないのです

書き付けを見た天官道士は急いで童子を命じ雄を連れてくるようにした.童子は山を駆

け下り雄に追いついて先生が招く旨を伝え一緒に帰った.先生は門前で待っていて雄の

手を取り、

『こんな山奥まで良く来てくれた.何度も留守をして済まなかったなあ.』と笑い顔で

迎えた.

先生は晩御飯を持ってこさせて共に食事をした.雄は先生の親切と歓待に感激する一方

、ここ数日の心労が一時に晴れ腹いっぱい美味しく食べ先生に感謝を述べた.

先生は本を二冊出して雄に渡し

『これを読んでみよ.』と言った.その晩から雄の勉強が始まったのだ.雄は端正に正

座して本を開いた.“聖経賢伝”である.雄が読み終わり他の本を要請した.道士は微

笑みながら六韜三略を渡した.雄はそれを貰い朗朗と声を出して朗読をした.道士が見

たところ雄が本を朗読しながら既にその奥義を会得しているのを感知し大いに感嘆して

天文図一巻を渡した.雄が見れば内容が深奥を極めている.雄は先生の指導の元に数々

の術法を習って行った. 或る日の夕暮れ時、狂風が吹きすさび山を揺るがすような野

獣の鳴き声がするので雄が驚いて、

『先生この山にも猛獣がいますか?』と聞いた.道士は

『実はね、家に疲れた雌馬がいたが体が弱いので昼間は外に出して放し飼いにしていた

が或る日天地が震動し雷が轟き何やら騒がしい、私は馬が心配になって外え出て探した

が五色の雲が垂れこめて目先が見えない、呆然と立ち尽くしていたがやがて雷声が止み

雲が消え明るく静かになった時雌馬が汗びっしょりになって帰ってきた.馬が被害を受

けずに帰ってきたのが嬉しくて連れて帰り体を洗ってやり、餌をやるなど介抱をしてや

った.それから馬が妊娠をして子馬を生んだ.親馬は出産後一月も経ずして死んでしま

った.子馬は生まれた時から気性が荒く人が近づくのを許さない.朝には山に入り日暮

れに帰ってくる.若しも人に怪我でもさせるかが心配だ.』と述べた.雄が眺めたら千

丈の峰の間を一頭の馬が平地の如く走り回っているではないか.雄が感嘆しながら見と

れているとやがて馬が帰ってきた.雄が迎え出て両手を広げて馬を止めた.馬は雄を見

つめていたが頭を上下に動かし、尻尾を振る.雄が大声で

『お前は主人を知らぬか』と叫び馬に近寄った.馬は雄を見つめ、匂いを嗅ぎ、顔を摺

り寄せた.雄は喜んで首筋とたてがみを撫でてやる、馬は尻尾を振り振り従順に従うそ

ぶりを見せている.人を近つけなかった荒馬が雄に従うのを見て天官道士は感激した.

雄は道士に

『この馬を買いたいのですが値段をお教え下さい.』と申し出た.道士は

『天が龍馬を出す時には必ず主が居るもの、是はお前の馬に違いない.人の宝物に値段

を言うわけには行かないよ.無事に主人に渡すようになり幸いなだけた.』と、上機嫌

になった.

『高い知識をお教え頂きご恩限りが御座いませんのにまた千金の駿馬を頂きまして益々

恐縮に御座います.』とお礼を申し上げた.

『艱難に遭うもそなたの運命、栄貴を得るのもそなたの運命だ.私の恩とは言えない.



雄はますます師の徳を尊敬し学問と術法の勉強に励んだ.一年が過ぎたときには神通妙

術を通達し実に刮目の境地に至った.



或る日雄は道士に願い出た.

『客裏に母を置いて参りましたので暫くお暇を頂き母を安心させてから帰りたく存じま

す.』

『うん、行って来なさい.なるべく早く帰るよう.』と、許してくれた.

雄は師匠に挨拶を申し上げ馬にまたがった.

馬は主人を背に乗せうれしそうに一声嘶き走り出した.険しい山道も峠も平地の如く走

りぬける.七百里を走ったが未だ日が残っている.ゆっくり休むつもりで宿屋を探して

いたら道端に居た人が良い宿を案内しますと言ってきた.見れば普通の客引きとは違っ

て慇懃である.雄は心を引かれて付いて行ったら大きな邸宅に入っていった.

この家は魏国張進士の家で張進士が早く亡くなり婦人が一人娘を頼りに暮らしているが

、令嬢がとびきりの美人でしかも詩書に通達し達筆な秀才である.母親は娘に相応しい

婿を娶りたく旅の若者の内、容姿や態度の優れた者を家に招いて泊まらせ婿を選んでい

たのである.

この日、雄が離れの客舎には入れば侍婢が主人の代わりに挨拶を述べた.そのもの腰が

淑やかで品が整って居るので感心をした.この時張婦人は別堂に客が入ったと聞いて侍

婢を呼び何時もの例に従って客の容貌や態度などを聞いた.侍婢は簡単に、

『未だ未成年の者でした.』と答えた.婦人は失望し

『年月の流れは速く娘のよおい16なのに似合う連れ合いが見つからないのね.』と嘆

いた.

趙雄は客舎で独り言をつぶやいた.

「この家に閨中絶色の娘が居て人材を求めていると聞いたが人を見る目は鈍いらしいな

あ.」と

雄は無聊のまぎれに庭に下りて明月を鑑賞しながら散歩をしていたら何処からか玲瓏な

琴の音が聞こえた.雄はその美しい音に聞き入った.曲にいわく、

「山の木を切り客舎を建てるは人材に巡り会うためなのに、英雄の姿は見えず乞い客の

み現る.桐の木を切り琴を作りしは鴛鴦を見るためなのに、鴛鴦は来らず烏鵲のみ来り

囀る.

ままよ、杯に溢れるほど酒をつげよ、酩酊すればもろの憂さは散り行くもの.」

雄は琴の曲を聞いてローマンチックな青春の情感が湧いた.

「吾、乞い客に見られるままに居るは男が廃ると言うもの、対曲を贈らざるを得まい.



行装より横笛を取り出して吹き出した.婦人と令嬢が笛の音に誘われ外に出てみれば客

舎から聞こえる.笛の音は玲瓏として神妙の境地に有り人の心を引き付けるものがあっ

た.曲には

「十年を励み天文図を学びしは月宮に入り仙女を見るためなのに、銀河に烏鵲橋無く渡

りがたし、蘇湘の竹を切り笛を作りしは玉蟾に会うためなのに月下に吹いていても知る

人ぞなし、とまれ遠客の旅愁を慰めん.」

婦人と令嬢が塀越しにお客を見れば雄の顔が冠玉の如く輝き体格と挙動が非凡である.

婦人は大いに喜び、

『やっと瓊児に似合いの立派な青年が見つかりましたね.』とつぶやいた.令嬢は恥ず

かしさに顔を真っ赤に染めて自分の部屋に走って帰り寝台に体を横たえ胸の動悸を静め

たがそのうち緊張が緩んだのかうつらうつらと居眠りを始めた.夢うつつの間に父親が

現れ、

「お前の良き連れ合いを連れて来たから今宵の佳縁を逃がすな.天地に家無き客だ、一

度離れれば又とは逢いにくいだろう.」と、娘の手を引いて客舎に連れて行った.客舎

には五色の雲に包まれた黄龍が七つの星を弄んでいたが顔を上げて令嬢を見つめた.少

女は驚いて自分の部屋に帰ったが龍が追い掛けてきて少女の体にぐるぐると巻きついた

.少女は驚きのあまり悲鳴を上げる拍子に目を覚ました.一場の夢であった.令嬢は心

のどよめきを静めるために琴をおろして寝床の上に座ったままの姿勢で弾き始めた.

この時、雄は笛を吹き終わり庭をそぞろに歩いていた.月は明るく星は空一杯に輝いて

いる.辺りは物音一つしない静けさである.雄は一人嘆息した.

「琴は知っていても笛の音は知らないのか.乞い客の田舎笛にみなされただけか」と虚

しさを感じていた矢先に又琴の音が聞こえた.琴は訴える如く、誘う如く雄の心を揺る

がした.雄は琴の音に引かれ夢遊病者さながらに令嬢の別堂に足を踏み入れた.紗窓に

はあかあかと灯火がついている.雄は閨房の扉を開け静かに入った.瞬間、何とも表現

のしがたい香りが鼻をついた.雄は令嬢の寝台の前に立った.少女は驚いて目を大きく

見開き声も出せず口だけをばくばくさせている.

雄、『お嬢さん、驚きなさるな.私は今日客舎に留まった客ですが、明月に旅愁を慰め

て居ましたら神妙な琴の音に引かれここまで参りました.お嬢様の麗しい姿に小生の魂

はお嬢様に吸いこまれてしまいました.今宵良縁を結び生涯の契りを交わしたく存じま

す.断らないで下さい.』

雄は大胆不敵にも初めて会う少女に自分の欲望を率直に打ち明けた.少女は寝床の上で

危機を感じ、しかも逃れ難いのを悟ったが辛うじて口を開いた.

令嬢、『天下には法があり、礼節が存在して居ますのに斯くも無礼に閨房を犯しまする

は許されません.速やかに退き一命を保ちなされ.』と抗議した.

雄、『花を発見した蝶々が火を厭いましょうか.水に逢った雁が漁夫を恐れましょうか

.一命が惜しくば斯くも大胆になりましょうか.今宵お嬢を得ねば一歩たりとも退きま

せぬ.』と、寝台に座りこんだ.もう手を伸ばせば届く距離である.少女は勇気を出し

て最後の抗弁をした.

令嬢、『窈窕淑女は君子の好逑と言う言葉もありますし、わらわとて空房の独り寝を好

むわけではありませぬが我が家は9代の進士の家柄です、父母の命を受けず六礼を行わ

ないまま如何に体を許して祖先と門戸の罪人になれば如何に命を保ち得ましょうか.願

わくば一旦退いて後日を期して下さいませ.』と哀願した.雄も道理に叶った話しとは

わかっているものの自分の今の立場が通常の礼法を履行し難いし少女に対する欲望が強

く、強引に押して通すことにした.

雄、『六礼とか媒介とかは世俗の通例に過ぎません.独り旅に居るもの如何に形式を揃

えましょうや.私自身が媒介を兼ね体で六礼を示し百年の佳約を誓います.』と言い、

寝台に上がり令嬢を抱きしめた.青年の迫力有る力に押さえられ、もがいて見るが所詮

叶わず男女の縁が結ばれた.少女は嘆いて言う.

令嬢、『わらわが士族の家門で閨中の娘ながらこのように罪を犯しどうして生きられま

しょうか.』

世の中の娘で華やかな婚礼を望まないものは居ないはずなのにこのように処女を散らし

た名門の令嬢の気持ちを汲み雄はやさしく慰めた.

雄、『私こそ罪深いものです.父母に告げずに妻を娶るは最大の不孝ですが、琴の音に

笛で答えるは天が定めた因縁です.大事に生涯を通して護ります.』二人は既に身も心

も一つに溶け合い睦みあった.愛する時の一夜は短い、いつしか三更が過ぎ遠くで鶏の

初鳴きが聞こえた.雄は起きて着物を着た.

令嬢、『母が郎君を見たいはずです.今日一日お泊まりになって下さいませ.』

雄、『母を千里の外において三年が経ちました.一刻が千秋の思いです.滞る事は出来

ません.』と部屋を出ようとする.少女は慌てて袖を掴み涙を流して訴える.

令嬢、『今離れれば何時の日又便りを受けましょうか.人の生涯計り難いものです.御

しるしの信物でも頂きとう御座います.』雄ももっともな事と認めるが、悲しいかなこ

れと言った持ち物が無い.思案の末、手に持った扇子を開いて書を数行書いて渡しなが

ら.

雄、『これで後日の信票にして下さい.』と言った.少女扇子を開いてみれば.

洞蕭長和玉女琴   笛にて玉女の琴に応える 

寂寞深閨狂夫知   静かな奥の間に興に引かれて犯す

今夜児郎誰家児   今宵の若者はどこの家の子か

張氏芳縁趙雄是   張氏と佳縁を結ぶは趙雄なり

蚊帳翠壁掛一袍   寝所の壁に羽織をぬいて掛け

奔到華筵弄佳姫   華やかな褥の上で佳姫を弄し

晨風数語掩涙辞   暁に数語を交わし涙で別れる

消息茫々不道時   便りもままならず日にちも決め難し

と、書いてあった.雄は馬を引き出して跨る.少女は門柱に凭れて涙ぐむ.龍馬は一陣

の狂風の如く瞬く間に走り去った.少女の嗚咽のみを残して.



忠臣 趙雄 上巻の8





この夜張婦人は夢に青龍が別堂に入り娘を抱えて雲間に去って行くのを見て驚いて娘の

名を呼びもがいている内自分の声に目を覚ました.窓を開ければ既に夜が明けている.

急いで別堂の娘のところに行って見た.幸い娘は安らかに寝ている.少女は人が来る気

配を感じ寝ている振りをして居たのである.婦人は娘をゆり起こして、

母、『夜が明けたのにまだ寝ているの.』

令嬢、『ああ、お母様、早くお起きになりましたね、何かご用ですか.』とぼけたよう

に聞いた.

母、『お前の様子がぼんやりしているようだ.何処か悪いのか.』

令嬢、『いいえ、昨夜月色を鑑賞して晩く寝ましたので少し疲れたようです.』

母、『寝不足は病気の元になりますよ.用心しなさい.』

婦人は侍婢を呼んで朝食の支度をさせた.暫く後侍婢が帰って婦人に、

侍婢、『奥様、別堂のお客はもう発たれた後です.』と、報告した.婦人は驚いて

夫人、『何時頃発ったのか』

侍婢.『それも判りません.』

夫人、『お前等がおろそかにしたからお客様が何も告げずに発ったのだ.』と、不機嫌

に言い卑僕を呼んで呼び戻すよう言いつけ馬で追いかけさせたが龍馬の足を叶うはずも

無くそのまま帰った.婦人は大いに失望して、

夫人、『私はどうしてこんなに運が悪いのか.何年に掛けての努力の末漸く気に入った

青年に逢ったのにこんなにはかなく失うとはもう生きたくも無い.』と座りこみ悲しん

だ.

令嬢、『お母さんあまり心配しないで、あの人が家と因縁があれば行っても又来るはず

ですし、世の中は思う通りに行くのでも有りませんから心配してもし方が無いのです.

』と娘が慰めた.



このおり王夫人は雄を旅発たせた後日夜に憂いが積もり寝食も不安な状態になり諸僧が

慰めいたわって居たが一日は月鏡大師が夫人に

『ご夫人は心配なさいますな.公子は良い先生に逢って勉強していますし一身に宝を得

て居ますから祝福する事です.』と申し上げた.

王夫人、『どうしてそれをご存知ですか.』夫人は半信半疑して聞いた.

月鏡、『夢に公子に逢い話すうち壁に字句を書いて朗朗と読み上げました.その声に目

を覚ましましたが思い出すと“三達渭水 両得天池”でありました.小僧が易を若干知

っていますので解釈してみますれば“三達渭水”は渭水の地に呂尚(太公望)のような

先生に逢い学術に通達したとの意味であり、”両得天池”とは天池は龍馬の棲む処です

から龍馬を得たのですし、両得ですからもう一つは天池は水ですから‘金生麗水’で金

物、つまり神剣を得たことになります.公子は神剣と龍馬を得、良き先生に学問を教わ

っているのです.ご夫人は小僧の話しをたわけなと思わないで後日公子にお会いの時に

は確かめられる事ですからご心配なさいますな.』

『大師様の仰せの通りなら何を心配しましょうか.』と安心した.

或る日夫人が夢に虎を抱いているが怖い気が起きず返って可愛がっていた.不思議に思

い月鏡大師に聞いた.大師は

『公子が遠からずお帰りになります.』と、大いに喜んだ.夫人が訳を聞けば.

『凶即ち吉と申します.虎の字は好の字に通じます.確かに公子に逢う夢に違い有りま

せん.』

『それでは何時頃来るのでしょうか』王夫人は一刻千秋の思いである.大師は暫く後

『公子の影が百里以内に居ますから今日の辰の時にはお見えになるはずです.』婦人は

喜び

『大師様それではわらはと賭けをしましょうか.』と久しぶりに明るくはしゃいた.

辰の時が近い頃、王夫人と月鏡大師は山門のところに出て雄を待った.やがて谷間の険

しい小道を一頭の騎馬が疾風の如く駆け上って来た.馬上には一人の仙童が飄然と跨っ

ている.見れば紛れも無い雄児であった.馬は瞬く間に二人の前に止まった.雄は馬上

より飛び降りて母の前に跪いて

『母上、お元気で居られますか.小子ただいま帰りました.』と、帰還の挨拶を申し上

げた.

その間、背も大きく伸びたし態度も堂々と大人びている.夫人は身をかがめ雄の手を取

り.

喜びの涙を流しながら喉がつかえて話しも出来ないで居るのを大師が慰めて落ち着かせ

た.

『母は無事安泰に居ましたがお前は何処で泊まり又剣と馬はどうして得たのか.』

雄は剣を得たことと天官道士に師事した事龍馬を得た話しなどをかいつまんで申し上げ

た.

夫人と大師は話しを聞いて驚くばかりである.

『是は天がお前を導いてくださったおかげに違い有りません.わらわはお前が旅に出て

以来身は安らかにすごしたが一日12時、一年365日を一時もお前を忘れた事は無かった

.一月程前大師様が夢を見て占ってくださり、わらわまた夢を見てお前が今日帰ると大

師様が仰せられ

門前で待っていたら果たしてお前が帰ってきたのです.こんな嬉しい事は有りません.



夫人の言葉に雄は改めて大師と他の諸僧にお礼を申し述べた.

『不孝、不肖な小生に代わって母を保護してくだされご恩を如何にお返し出来ましょう

か.』

大師は

『その間の公子の労苦は計り知れないでしょうが天下を周遊し、万里の外から無事にお

帰りになり嬉しい限りで御座います.』と明るく言うのであった.

ある日は諸僧が宴会を開いて趙雄母子を上座につかせ、

『寺が貧しくてご夫人のご恩を万分の一もお返し申し得ないのを恨みましたが、長らく

心を揉まれた公子様をお会いになれた喜びをお祝いする意味でささやかな準備を致しま

した.お受け下さいませ.』と真のこもった精進料理を出して鉦鼓を打ち鳴らし仏舞を

舞い楽しく慰めた.

雄は立ちあがり

『尊師のお慈悲を蒙りまして世に捨てられたものをお拾い下さったご恩が計り知れない

のにこのように歓待され恐縮に御座います.』と深く謝礼した.



雄の歳既に16歳である.威風堂々たる美丈夫に育っていた.或る日夫人は雄に.

『お前は立派に成長したが周辺に親戚が無く万里他郷で拠り所のない身の上なので、誰

がわらわの為に仲人に立ち嫁の世話をして呉れよう.わらわは歳と共に老い行き冥土を

催促しています.悲しくもこの母は生前にお前の嫁の顔を見ずじまいになるのではと思

います.』と母らしい心配で涙を流していた.雄は母の前に平伏して

『小子許されまじき重大な不孝を犯しました.お叱りくださいませ.』謝った.母は驚

いて.

『俄かに重大な不孝とは何のことですか.わが母子はいま罪人の立場ですのにお前が外

に出てどんな罪を犯したのか詳しく言って御覧なさい.』と顔を蒼ざめて詰め寄った.

『小子如何に人に罪を犯しましょうや.このたび師を離れ旅の途中、、、、、、』宿を

取る時、  張家に泊まるようになり張少女を犯し夫婦の契りを結んだ経緯を詳らかに

申し上げた.

夫人は喜び

『わらわは又朝廷にお前の身分が知れる事をしたのかと思い驚きました.』と言い更に

『張少女をわらわはまだ見ていませんがお前の話しを聞けば窈窕淑女に違いなく是亦天

の導くところでしょう.しかしうちの立場からして如何に礼節を整え得ましょうか.一

つも罪になることでは有りません.』と納得して、もっと詳しく聞きただした.雄はそ

の晩の出来事を詳細に説明した.話しを聞いた夫人と諸僧は感嘆して

『天が定めた奇縁です.』と喜んだ.月鏡大師は満面笑顔を作り

『如何ですか奥様、小僧の占いが当たっていましょう.賭けに負けたことを認められま

すか.』と夫人に聞いた.王夫人は

『大師の占いは神占の境地です.完全に降伏しました.』と大笑いした.



それから雄は月鏡大師に周易をはじめ各種の神通術を習った.

年月は流水の如くはや3年になろうとした或る日、雄は母に申し上げた.

『このたび帰りました折先生と帰還する日にちを決めてまいりましたので又膝下を離れ

先生との約束を護りたく存じます.』母は

『お前の話しは判りますが又別れるのは辛いです.若し長く便りが無ければお前の在り

かを何処で探しましょう.』側に居た月鏡大師が

『奥様は少しも心配なさいますな.公子様の居所は小僧が存じております.』と言った



『大師様の神通力は十分に存じております.それでは安心でございます.』と安堵した



雄は官山に帰った.山川は変わらず、草木も懐かしく雄を歓迎する如く故郷に帰ったよ

うに心和むのを感じた.草慮に着けば童子が喜んで出迎える.書斎に入り先生にまみえ

床に膝をついて挨拶を申し上げた.先生は

『果たして信士だ.約束を忘れなかったね.偉いぞ.』と上機嫌で迎えた.

『母上はご無事で居られたか?』雄は母の近況を報告した.師は

『お前の様子を見れば以前と違うぞ.嫁を貰ったのか.嬉しいぞ.ハッハハ』と破顔大

笑した.雄は恥じらいに赤面しながら

『先生のお許しを得ず重大な罪を犯しました.申し訳御座いません.』と謝った.先生



『天が定め導くところだ.何で罪といえよう.わしは皆見抜いているから憚るな.』と

励ました.

それから先生は主に六韜三略と智謀将略を集中的に教えた.一を習えば十を知る知恵を

持った雄は速やかに通達して行った.先生は

『お前は知っているのか.天意はこうであり、将星はああであり、どの星はどうである

ところを見れば宋の大国はお前によって回復するであろう.』と予言した.雄は覚悟を

新たにし自信を持った.ある日の朝、雄の顔色を見た先生は大いに驚いて曰く

『お前の妻家に死亡が目前に迫った患者が居る.一刻も早く是を持っていき患者を助け

よ.』と、目玉ほどの丸薬を三個手渡した.雄は丸薬を懐に入れて直ちに馬を走らせ張

家に向かった.

このとき張少女は雄と一夜の契りを交わしたのみで数年間も便り一つ無いので心の焦り

が病になり終にねたきりになった.魏夫人は一人娘の重病に驚き慌て百方手を尽くした

が百薬が無効で命が旦夕に迫っている状態であった.

雄は龍馬をひとっ走りに走らせ張家に着いてみれば空気が落ち込んで喪家のようである

.家に飛び込み侍婢を呼び様子を聞いた.侍婢は雄の顔を覚えていて

『実はお嬢様が危篤でお泊め出来ませんから他の所にお決めなさいませ.』と断る.

『いや、そうじゃない.お前奥様に申し上げろ.俺は旅の者だが医道に心得があるから

お役に立てるために参ったのだ.病録を見せてくだされば方法が御座いますとな.』

侍婢は奥に飛んで行き婦人に申し上げた.

『以前泊まった事のある秀才が参って、このように申しています.』

婦人は大いに喜び急いで客間に案内し接待をさせる一方娘の病録を書いてもって行かせ

た.

雄は病録を見て持ってきた丸薬を渡し、

『これを飲ませば効果があるはずですから、食べ物を上げて元気をつけさせなさい.』

夫人は早速丸薬を水に溶かして娘に飲ませた.不思議にも昏睡状態を続けていた少女が

目を覚まし意識を戻して空腹を訴える.母なる魏夫人の喜びは言うに言われない.嬢に

お粥を上げるように命じ自ら客間に来て見れば客はかつて気に入っていた趙雄である.

夫人は雄の手を取って救命の感謝を述べ再会を喜びながらかねての願いを打ち明けた.

『あなたが以前来た時は忽然と去ったので相談が出来なかったのを残念に思いましたが

この度は娘の危急を助けてくだされ感謝に堪えません.わらわには適齢の娘がいますが

ふつつかではありますがあなたに娘の一生を任せたく存じます.お引き受け下さい.』

と懇ろに頼んだ.

雄、『当ても無く放浪する者にも拘わらず、さように仰せられ光栄に存じお受け致しま

するが母が居ますので帰って申し上げた後お便り申し上げます.』翌日夫人に出立を知

らせた.

魏夫人、『母上のお許しの便りを速く下さい.』と別れを惜しみながら卵大の宝珠一対

を渡し、

『人の因縁は天意によるもの、わらわには息子が居ないからわらわの一身もそなたに任

せる事になります.これはわらわの大事な宝物ですから信物としてそなたに上げます.

大事に仕舞ってください.』

雄は其れを頂いて官山に帰り、師にまみえた.師は

『お前が行かなかったら重大な事が起きたはずじゃのう.』

雄、『それ、ひたすらに先生のお蔭で御座います.』と心から感謝を述べた.

或る日、師は雄をともない峰の頂上に登り天機を見ていたが大いに驚いて、

師、『お前あれを見ろ.あの星はああゆうになっており、あの方角はああゆう具合にな

っている.中国はあちらにあたるのに東の角星が揺れてさ迷う形だ.当今は西蕃が強盛

して中国を侵入する形だ.お前が行って魏国を助けて敵を防ぎひいては宋を回復せよ.



雄、『小生の能力で如何に功を得ましょうや.矢石が飛び交う戦場で如何に生還を望み

ましょうか.』

師、『大功を得るはずだ.勇気を出して行け.行って中原を回復しお前の仇も討て.』

と断固と命じた.雄は直ちに旅装を整え魏国の路程記を師から貰いうけ師にお別れの挨

拶をした.

師は雄の手を取り別れを惜しむ.

師、『悲しいかな、別れが長引くだろう.行って大功を建てよ.』と励ましてくれた.

雄は師を別れ、一旦母がいる寺に帰った.母が喜んだのはいうまでも無い.雄は母に先

生の命令で張少女の命を助け魏夫人から正式に結婚を申し込まれた経緯を細かに報告し

た.

母は先生の能力に深い感銘を受け褒め称えて止まなかった.