仙女 淑英娘子 (スギョン ナンジァ)
作者:未詳
娘子:未婚女性への尊称、嬢 姫の様に使いますが
ここでは"元々が天国の仙女なので"世俗的な婦人と言わず娘子と呼んだようです。
(原音通りナンジァ(NANG JA)と読んで頂きたい.
第1章
李朝世宗大王の時代、慶尚道安東の地に白尚君と言う裕福な両班(ヤンバン)が居た.
夫人鄭氏を迎え睦まじく20年も暮らしているのに膝下に子供が居ない寂しさから神仏に真心を込めて祈っていた.祈願が天に通じたのか子を孕み晩産にも拘わらずめでたく男児を安産した.
子供は育つにつれ眉目秀麗にして色あくまで白くの表現がピッタリする美貌に、気性がおとなしく文材に長けていた.白尚君夫婦は天からの賜物である一人息子を金枝玉葉の如く大事にし名前を"仙君"、字(アザナ)を"賢仲"とつけた.
歳月の経つのは早いもの、仙君がはや成年になり父母は息子のつれあいを探しだした.嫁の奉仕を受け、孫達を膝に乗せあやす楽しみが欲しくて焦っていた.
春の陽光が柳の蕾を膨らます午後、本を読んでいた仙君は瞼が重くなり机に凭れてうとうと居眠りをしていた.黄色のチョコリに赤のチマを纏った美しい娘子が静かに障子を開けて入りお辞儀をした後向かいに座り
『始めてお目に掛かります.私がお伺いしたのは若様とは天上で定められた許婚であるからです.』仙君は大いに驚き.
『私は塵世の俗人で御座います.娘子は天上の仙女では有りませんか.どうして縁があるとおっしゃるのですか?』
『若様はもともと天上で雨を司る仙官だったのですが或る時、雨を間違えてふらしたかどで人間世界に降ろされたのですが遠からず私と縁組みが出来る筈ですお待ち下さいませ.』言い残し去って行った.
人は去ってもその香りは馥郁と部屋にただよっている.不思議な気持ちで空を仰ぐ瞬間目が覚めた.一場の夢であった.しかし白日夢にしては仙女の姿や声があまりにもはっきりと頭に残って消えなかった.
それより仙君は夢に現れた娘子の美しい姿が忘れられず勉強も頭に入らず万事に意欲を失い終には病となり体は衰弱して行った.
恋煩いに落ちたのである.父母も大いに心配して.
『お前の病気が尋常ではなさそうだ.訳があれば話してみろ.』
『別に大した事は有りません.心配しないで下さい.』と顔を背ける.仙君もこれでは行けないと思い本を読み始めるが娘子の姿がちらつき集中できない.諦めてコロット横になった.この時娘子が現れ
『若様が私を想うあまり患うまでになり私も辛う御座います.若様のお慰めになるかと思いここに金の小姓一対と私の肖像画を持って参りました.この絵を昼は壁に掛け、夜は抱いて寝て心を静めて下さいませ.』仙君は嬉しいあまり娘子の手を執ろうとしたら途端に姿が消えた.吃驚して目が覚めた.夢であった.しかし金のお小姓一対と肖像画は残っていた.小姓は机の上に置き画像は壁に掛け常に眺めた.
世の中は目も口も多いものである.何時しかこの事が口から口へと伝わり
"白仙君の家には仙女が贈った宝が有る"
"その宝にはご利益がある"
"其れに祈れば何でも叶うそうな"噂は尾鰭が付いて広まっていった.
絹や金子を供えて祈りに来るものが増えて来た.しかし白仙君にはそんな騒ぎが面倒なだけである.彼は只管に仙女を恋い焦がれ病が重くなり百薬が無効で床に寝たきりになった.
仙君のこのような状況に心を痛めた娘子も
"私を恋するあまり病になったのだから私も黙ってはいられない"と繁々と夢に現れ仙君を慰めたが皮肉にもそれがまた恋心に火をつけ、しまいには気も狂わんばかりになり理性がきかず仙女のみを求めうわ言をいうまでになった.或る日娘子は
『若様が私を恋い慕うあまり病を得られ私も嬉しくはありますが貴方と縁が結ばれるにはまた日にちが残っています.代わりに侍女の梅月を置いて行きますから私だと思い可愛がってください.』と言った後去って行った.
驚いて目を覚ましたら側にかわいい娘が居た.仙君は仙女の意を汲み入れ梅月を妾室にして仙女の変わり身として抱いて情愛を燃やし仙女えの恋心を慰めていた.
然し其れでも"これは仙女ではないのだ" "これが本当の仙女なら"と言う気持ちが起こり、娘子への思慕の情は依然として仙君を悩ませた.梅月を抱いて体を愛撫している最中でさえ空しさが込み上げ中途で止めてしまうようになった.真の恋は体の代理では満たされなかったのである.鳥のさえずりにもそよ吹く風の音にも五感に伝わる全ての刺激に心を抉られる痛みと苦しみに悩まされ恋煩いは膏肓に至った.
父母は大いに憂い金に糸目を掛けず遠近より医者の薬、巫女の厄払いなど色々してみるが一向に効果が無い.もとより恋煩いに効く薬は無いものだ.ただ一つ恋する相手のやさしい笑顔のみが唯一の特効薬である.仙君は危篤の状態に陥っていた.仙女はこの様相を見て唇を噛み締め覚悟を決めた.天が定めた時期には至っていないが仙君を見殺すわけにはいかない.後で上帝に処罰を受けようとも先ず人を救わねばならないと思い仙君の夢に現れて.
『若様、私等が未だ逢う時期には至っていませぬが私を愛するが故にそれ程に苦しみなさるのを見るに忍びませぬ.私の本身を逢いたければ玉淵洞にお越しなされませ.』と言ってから帰った.
夢から覚めた仙君は父母に逢い
『小子からだの調子が悪くて寝食も侭なりません.気分転換のために風景の良い所を遊覧し名の在る寺刹にも参り特に玉淵洞は景色が良いと聞いています数日行って参ります.』と許しを願い出た.
父母は驚いてもってのほかだと反対する.
『お前は体が衰弱し動くのが侭ならないのに山に行くなど不可能だぞ.』と聞いてくれない.
しかし仙君は普段に似ず強情に山に行くと主張して止まなかった.
子に勝つ親はいないもの、親が折れて許した.仙君は馬に乗り梅月一人を従えて玉淵洞に向かった.
山道は遠く険しかった.衰弱し切った仙君の体は汗を吹き喘いだ.しかし気分は明るかった.娘子に逢えると思うと勇気が湧いた.初行の仙君は道を知らないが幸い梅月の案内で或る日の日暮れに玉淵洞に着いた.山は畳畳鬱々とし谷には清い水が流れ池の水溜まりには蓮の花が菩薩の微笑みを投げ辺りには牡丹の花が咲き乱れ華麗さを競い何処からか鶯の鳴き声が耳をくすぐる.目を上げれば高い絶壁から流れ落ちる滝の水は銀河の如くしぶきが光る.白仙君は敬虔なほどの自然の美しさに疲れも覚えず山道を登った."別有天地非人間とはこのことか"と詩心も甦る.暫く続けて進むと珠欄画閣が見え正面入口の扉の上には「玉淵洞」と書いた扁額が掛けられていた.
仙君は嬉しいあまり扉を押し開きつかつかと中に入った.その時一人の女の人が前に現れ.
『そなたは俗人であるのに何故に敢えて仙境を犯しまするか?』と詰問した.
仙君は丁寧に
『私は山を周遊していましたが道を失いさ迷う内、図らずもここまで参りました.仙境だとは知らずに入りました.お許し下さい.』と謝った.
『判ったら早く立ち退きなさい.』と冷たく言う.
仙君は途方に暮れてうなだれた.しかしここが確かに"玉淵洞"に違いない、されば今ここから出て行けば娘子に逢う術が無いではないか.娘子は"玉淵洞"に訪ねてこいと言った.どんな事があっても娘子に逢うまでは戻れないと勇気を出して
『私はここに知り合いの仙女が居ます.その仙女に逢いたいのです.』とがんばった.
『私のほかには誰も居ません』と言い部屋に入ってしまった.暫く待ってみるが何の動向も無い.取り付く島も無くなった仙君はすごすごと戻りかけた.すると娘子が部屋から出て来て静かな声で仙君を呼びとめた.
『郎君は行かないで私の話しを聞いて下さい.郎君は何故それ程女心を解かりませぬか.我等如何に天が結んだ縁が有るとは言え処女の恥ずかしさに耐えられずつい冷たくしました済みません.どうぞお上がりなさいませ.』仙女の声は仙君が夢の中で聞いたその声であった.嬉しさを隠し切れず急いで回廊に上がり近づいて良く見れば夢で逢ったその顔、肖像画の中のその顔であった.
顔は十五夜の満月の如く白く輝きその姿態は朝露を含んだ牡丹を思わせ双眸に宿る秋波は湖水のように清らかで細い腰は枝垂れ柳もさながらにしなやかであり、紅の唇は鸚鵡丹沙を含むが如くその美しさは何にも譬えられない絶世の佳人と言うべきで、美人に捧げるすべての賛辞を持っても足りない美しさであった.
『今娘子の如き美しい仙女をお会いでき今宵死のうとも余恨が御座いません.』と言いその間無数の夜を悶々と過ごしたやるせなき恋心を訴えた.仙女は恥ずかしさに頬を染めながら言う.
『私如き一介の女子を其れほどに愛され病まで召されましてはどうして大丈夫と申しましょう.私らが天の定めて結ばれるには未だ三年の日にちが御座います.三年経てば青い鳥が仲人になり六礼を整え百年佳約を結ぶ筈です.しかし若し今宵私の体を郎君に差し上げれば天機を漏らした罪を受け天上に幽閉され再び地上の人間世界には降りて来られないのです.ですから郎君は焦らないで後三年間辛抱して待ってくださいませ.』
『その間も辛抱しきれず病気を得ましたのにどうして一時なりと待てましょうか.今日このまま私が帰れば命が尽きるのは必定です.死んで九天をさ迷う怨魂になるでしょう.そうなれば娘子の心とて安らかざる筈です.私は恋の網に掛かった魚です.貴方の手で助けて下さい.』と仙女の手を握り真心をこめて訴えた.
人間の真心は美しくも崇高なものである.仙女は感動を受けた.もともと仙君を玉淵洞に招いたのは自身である.只処女の恥ずかしさから一応撥ねて見たに過ぎない.仙女は嬉しかった.体を仙君の胸に預けたかった.仙女は明るく笑った.仙君の手を取り寝室に導いて彼の懐に身を投げた.二人の魂と体が一つに溶け合った.情愛の儀式に聖なる一夜が瞬く間に過ぎた.
朝、起き上がった仙女は仙君に
『私は既に汚されました.もう仙境に留まることは出来ません.郎君に伴ない参ります.生涯愛してくださいませ.』と言い人間の夫婦になった事を示した.
若く美しい新婚の夫婦は馬に跨り並んで仙君の家に向かった.
第一章おわり
《余談:題名が淑英娘子ですから当然主人公の名前が淑英ですが第一章が終わるまで淑英の名前が一度も出ていません."女子は名前で呼ばないのが礼儀"と云う伝統が有るのをご了解頂きたいです.娘子という言葉で名前に変えています.娘子は淑英を表しもし又本来の'お嬢さん''お姫様'の意も表します.第2章からは読みやすくするため訳者が勝手に'淑英'の名前を入れさせて頂きます.》
第2章
白尚君は病に衰弱し切った一人息子を旅立たせ心配になり焦燥のうちに数日を過ごしたが便りが無いので下僕を各所に送り仙君の行方を探したけれど判らないまま不安な日々を送っていたが突然仙君が帰ったという知らせに急いで出迎えた.まるで死んだ子が生き返ったような嬉しさに父の威厳も省みず息子の手を取り
『その間何処に行っていたのか?.方々探したが解からなかったぞ.体に異常は無いのか?』など止めど無く質問を投げた.仙君は落ち着いてにこにこ笑っている.健康が戻ったように血色も良い.
『はい父上部屋にあがって詳しく申し上げます.』と先に立ち淑英が後に続く.父は淑英を見てしばし呆然としたが急いで息子と肩を並べた.
部屋に上がった仙君は先ず父母にお辞儀をし
『その間父上、母上にご心配をおかけ致し申し訳御座いません.』ときりだし仙女と夢の中での経緯と玉淵洞で本身の淑英と逢った事など一部始終を報告して淑英を紹介した.淑英は夫仙君の父母に丁寧にお辞儀をして初のお目通りの挨拶を述べた.父母は息子の天上の奇縁にも嫁淑英の美貌にも感嘆し止まなかった.父母は大いに喜び淑英夫婦を東の別堂に住まわせた.
仙君と淑英の琴瑟は極めて睦まじく針糸の如く、水魚の如く仙君は一刻も離れず東別堂に入り浸り続けた.書生が学問を省みず女に溺れているので父母は仙君に健全な生活に戻るよう忠告もしたいが又相思の病にでもなることを恐れて只見守るばかりであった.
歳月は矢の様に過ぎ8年が流れた.その間二人の子が生まれた.長女春鶯は七歳、長男東春は三歳である.春鶯は母似で美貌かつ怜悧であり東春は父の気品と母の美貌を共に具え祖父母からことさらの寵愛を受けた.
家の東側、庭の一角にこじんまりした東屋を建て花咲く朝や月の明るい宵には若い夫婦が揃って亭に上り七弦琴を弾き歌い合う風流を楽しみながら暮らした.
何不自由の無い至福の暮らしの中でも父母は息子が学問にも精を入れて欲しかったが仙君はひたすら淑英に溺れ学に関心を持たないのを嘆息していた.
そういう時数年振りにお国で謁聖科を実施する旨の榜が貼られた.(合格すれば王に謁見し直々に官職を賜わる不定期の国家考試)父は
『仙君や.今度国で科挙を実施するとの事だ.お前も必ず応試して呉れ.幸い合格すれば家門の誉れにもなりお前も出世の契機になるではないか.』とねんごろに諭した.
『父上.不孝を申し上げるをお許しください.出世とか功名だのは俗物が欲する儚い欲望に過ぎません.家には数千石の田畑があり、千余の卑僕があり、やりたい事は何でも出来ますのに何が又不足で科挙に及第し官僚になることを望まれますか.私が科挙に応試するため家を発てば妻とは離れることになります.それは小子には耐え難い苦しみです.お察し下さい.』と答え、仙君は東別堂に帰り淑英に父との会話の内容を話した.話しを聞いた淑英は愛情溢れる微笑みを見せながら静かに仙君を諭した.
『科挙を受けないという郎君のお言葉は間違いだと思います.男児世に生まれ立身揚名し父母を誇らしくして上げるのが子孫の道理でございます.其れなのに郎君はどうして私如き閨中の女子に溺れ男児としての堂々たる大事を避けようとなさるは親不孝でありますしひいてはその誹りが私に降りかかって参りますことは明らかな道理で御座います.願わくば深く考えなされ速やかに科挙の準備を整え上京して人に後ろ指を差されぬようなさいませ.』と忠告し時を移さず科挙応試に出立する行装やら必需品を揃えて差し出し.更に強硬に念を押した.
『郎君が若しこの度の科挙に合格せず落第居士になられた場合には私は決して生き延びは致しません.ですから全ての雑念を捨て専ら受験にのみ専念して必ず合格してお帰りなさいませ.』
父に言われた時には軽く躱したが愛妻に斯くも切実に言われてみれば自分が科挙に合格しなければならない使命感のようなものを感ずるのだった.
父母に科挙を受けに上京するご挨拶を述べ家を出る前にもう一度別堂に寄り
『私が科挙に及第して帰るまで父母に良く仕え子供達を良く育てて待ってください.』と平凡な別れを告げた.うわべは平静を装って居たが愛する妻を家に残して行く足は重く一歩踏み出しては顧み二歩運んでは振り返りやるせない別離の辛さを押さえ切れないのであった.その日は一日歩いても三里を行っただけて日が暮れた.宿を取り夕ご飯の膳を前に置いても昨日まで愛妻淑英と差し向かいで楽しく食事をしたことが思い出され食欲が出ない.側に居たお供の下男が.
『若様、そんなに食事をなさらないでどうして百里の道程を行けますか.不味くてもお上がりなさい.』
『うん、いくら食おうとしても食べられないのだ.』と溜め息をついた.粗末な宿屋の部屋にぼつねんと座っていたらひとしお淑英恋しさが込み上げ寂しさが身に沁みる.淑英が側に居る様で腕を伸ばせば空しい空間のみ、淑英の明るい声が聞こえたと思い耳を済ませば風の音である.夜が深けるにつれ寂しさ、切なさがつのり気が狂いそうである.
仙君は下男が寝付くのを待って密かに外に出て馬小屋から人目を忍んで愛馬を引き出し一気に家に向かって走らせた.自分の家でも玄関から入るわけには行かない.東別堂の塀を越えた.部屋に入ると驚いたのは淑英である.
『この夜中に如何なされましたか.朝ソウルに発ったお方がこの深夜に帰るとはどう言うことですか?』
『いや終日歩いて日が暮れたので宿を取ったが娘子が恋しくて又病が起こりそうで今一度娘子に逢い心を落ち着かせるために戻ったのです.』と淑英を抱き夜が明けるまで愛の営みに浸かった.
この夜、父の白公は息子を旅発たせて家が空になったような気持ちに陥り眠れないので夜中に起き出して戸締まりなど確かめながら庭を歩いた.東の別堂に差し掛かったとき部屋の中で何か話し声が聞こえる.今日息子が家を空けたばかりなのに嫁の部屋で男の話し声が聞こえたから驚かざるを得ない.空耳だろうとも思うが奇怪な感じは拭い切れない.嫁は天上から降りた仙女である.清い心と松竹の如き貞節な淑女に違いない.夫が留守したその日から間男を引き入れたとは到底考えられない事である.しかし一応は確かめてみるべきだと思い足音を忍ばせて嫁の部屋に近つき聞き耳を立てた.そのとき淑英は早くも部屋の外で人のけはいを感じて居た.低い声で仙君に
『外に舅がお出でのようですから貴方は蒲団の中に入って隠れていなさい.』と言って夫を隠し、眠りから目を覚ました子供をあやすように
『坊や良い子ねんねしな、お父さんが壮元及第して錦衣還郷するのよ.坊や良い子ねんねしな.』
白公は其れを聞きながらも何か腑に落ちない感じを受けながら踵を返した.
淑英は舅のけはいを感じ、仙君に強硬な忠告をした.
『大丈夫が神聖な科挙を受けるため道を発ちながら閨中の妻女を忘れ得ず引き返すとは君子の道理ではありませぬ.若し父母がこの事を知れば私を妖婦だと思し召すでしょう.夜が明ける前に速やかにお戻りなさい.』仙君も頷き塀を越え逃げるように宿に引き返した.宿に帰ってみれば下男は未だ眠ったままだった.
朝になると泊まり客は忙しく道を発つ.仙君もやむなく道には出たものの淑英の面影が目先にちらつき前に進む事が出来ない.後ろ髪を引かれるような思いで一丁を行っては一時も休む、漸く一里を行ったのみで日が暮れた.又宿を取り壁に寄りかかり足を投げ出してボカントしている.頭は淑英のやさしい笑顔でいっぱい詰まり腑抜けの有り様である.忘れよう忘れようとするほどに恋しさが新しく甦り気も狂いそうである.悶えに悶えた挙げ句いたたまれず昨夜のように家に走り東別堂の塀を越えた.
驚いたのは淑英である.
『郎君は昨夜私があれほどお頼みしたのを忘れましたか.男児が女子の情に溺れ大事を粗相になすは大丈夫の本分に背きまするぞ.私を愛してくださるのはあり難いけど痴情に落ちて溺れるのは私の望む所ではありませぬ.直ちにお戻りなされて科挙の日に遅れぬようなさりませ.』と冷たく詰責しながらも声は悲歌の如く震え涙をぼろぼろと流した.
『私とてそれを知らぬ訳では御座らぬが淑英が一夜なりと側に居ねば気が狂わんばかりにて寝付けられぬをいかが致す.科挙を受けられずとも其の方と離れている事は出来ませぬ.』
『貴方もほんに困ったお方ですね.この絵を差し上げますから途中私に会いたいときには開いて御覧なさりませ.若し色が褪せたら私の体に異常があるとおぼし召され.』絵は生きた淑英の如きであった.淑英は夫を抱き寄せ蒲団に導き慰めた後怱怱と送り出した.
一方仙君の父白公は嫁に対する疑惑が晴れず深更に足音を忍ばせて別堂に入り寝室の窓の下に蹲り様子を窺っていた.やはり昨夜のように男女の話し声が聞こえる.押し殺した小さい声で内容は解からぬが男女の話しには間違いが無い.
"こんな奇怪な事が我が家で起ころうとは何たる恥じゃ.家には塀があり家卒も多いのに毎夜の如く男が出入りするとは畢竟示し合わせての通情に他ならない.あの子が嫁に入り父母には孝行をし夫にも情愛が深く物静かで優雅であるのに夫が留守のその日から男を引き入れ姦通を成すとは人の心の玉石は斯くも測り難いものか."
白公は憤怒と慨嘆に悩んだ.
この事は速やかに始末をつけねばならない.しかし事を表立てれば家門の恥を晒すことになる.思案に暮れた白公は翌日奥方に相談した.
今まで目撃した事を話し.
『左様なわけでその男が誰かは未だはっきり致さぬが決して許されぬ事で御座るし.若しも醜聞が外に漏れよう物なら家門の恥さらしになることだしどうすれば宜しゅう御座るかのう.』
『そんな筈は御座いませんよ貴方.恐らく貴方の聞き間違いで御座いましょう.嫁がどんな人か貴方もご存知の筈、飛んだ疑いをかけるのは考え物です.疑われるなら良く調べてみる事です.』
『わしとて疑いたくは御座らぬ.二晩に亘りこの耳で確かに聞いた事、嫁を呼び叱りつけたいが舅の沽券に関わると存じ躊躇いましたが.今夜は嫁を呼び厳重に糺す所存です.』と心に決めた事を明かす.
『それでは同じ言葉でも角の立たぬようそれとなくお聞きあそばせ.』
舅夫婦は下女に命じ嫁を呼び寄せた.
『仙君がソウルに発ってから家が寂しいので夜、わしが庭を回っているうちおまえの部屋に近づいた時部屋の中で男の声がしたようで訝しく思いながらもそのまま部屋に戻り考えてみてもまさかおまえの部屋に男がいたはずはない、わしの聞き違いだと思っていた.然るに昨夜もやはりお前の部屋で男の声が聞こえたのだ.これは一体どういう事か.お前を疑いたくは無いが事実を明らかに言ってくれ.』淑英はやはり声が漏れていたかと思い慌てたが心を落ち着けて泰然と話した.
『夜には寝付けが悪い東春と春鶯を寝かせ梅月と話しをしていました.他に男が私の部屋に居る筈は御座いません.私は寝耳に水で御座います.』ときっぱり答えた.
白公は仕方なく嫁を帰らせた後、下女の梅月を呼び厳しく聞きただした.
『お前は一昨日と昨日の晩奥様の部屋にお仕えしたのか?』
『いいえ昨日とおとついは小女の体が不都合しまして夜にお仕え出来ませんでした.』
梅月の話しを聞いて白公は嫁に対する疑惑が益々深くなった.
『其れは誠か?最近怪しいことが有るので嫁に聞いたら夜はお前と一緒に居たと言うし、お前は行っておらぬと言う、嫁が舅のわしに偽りを申したのじゃ.間男を引き入れていたに違いない.お前は今後若奥の行いを密かに窺い夜に出入りする者あらば直ちにわしに知らせよ.若しこの事を若奥に知れればお前の命は無きものと思え.』と密令を出した.
この密令が取り返しのつかない悲劇の原因になろうとは思いもしなかったのである.
梅月は命に関わること故昼も夜も若奥を監視したが一向に男の影も現れない.無い袖は振れぬもの、大旦那に報告する種が無い.若し若奥の淑英が不倫でもして呉れたら淑英を追い出すことができるのだ.淑英は自分の主人ながら輿入れをするまでは仙君が恋しい淑英の代理役とはいえ夜毎抱いてくれ女の喜びを得て居たのに、主人が若奥に納まってからは仙君が目も呉れないで居る.梅月は嫉妬に身を焦がしていた矢先である.大旦那の密命は梅月の嫉妬心に油を注いた結果になった.男が居ないなら作れば良い.姦通をしたことにすれば良い.梅月の心に魔が点した.
第2章
《余談:科挙は初試と大科に分かれる.初試は地方で受けるもので定員が無い学歴の証明のような物である.初試を通った者を生員と言う.生員は大科を受ける資格がある.大科は王命で行う国家考試で不定期である.国の都合で何年も無い時も有るし毎年する時も有る.首席合格者は壮元及第と言い王が直接官職を与える.大科に合格しない者は高官にはなり得ない.》
第3章
梅月は自分が仙女淑英の下女であるのは百も承知である.しかし主人淑英の命令で仙君の慰め物になったが男を知り女の喜びを知るようになり仙君を愛し又愛されたくなった.仙君はひたすらに淑英のみを愛し自分には目もくれないのが恨めしく、妬ましく、羨ましく、やるせない気持ちに苛まれていた.そこえ大旦那が淑英を疑い監視せよと言う.そうだ、仙君の留守中に姦通をしたとなれば如何に仙女でも只では済まない筈である.淑英さえ居なければ仙君の愛は自分に戻るに違いない.千歳一遇の機会だ.義理に拘っていては自分が惨めになるだけである.心を鬼にして陰謀を進めた.
先ず淑英のお金を千両盗んだ.その金で無頼漢一人を買収した.トリと言う名の荒くれ男であった.
『お前が私の云う通りにすれば千両をやる.どうじゃ.』
『千両か.よし何でもやる.言い付けてくれ.』
トリが乗り気になったので梅月は恨みの内容を話した.
『うちの仙君若旦那がチョンガーの時からあたいを妾室に入れて毎晩可愛がって呉れたのに淑英娘子が輿入れしてからは8年間一度もかまってくれず下女とのみに相手しているのよ.あたいの口惜しい恨みを晴らすため淑英娘子に姦通の罪をかぶせこの家から追い出す積もりなの.おめえはあたいの言う通りに間違い無くするのよ、解かったかい.』
『おお、解かったよ.承知のすけだ.しんぺぇするな命掛けてやっちゃうから.』
その晩三更、梅月は東別堂の塀に有る小さいくぐり戸を開けてトリを中に入れ耳打をした.
『あれが淑英娘子の部屋だ.おめえはあそこの暗い所に隠れていたらあたいが大旦那に娘子の部屋に男が居ますと告げれば大怒りで飛んで来る筈だ.おめえは娘子の部屋から出て来たように見せて逃げればよいのだ.しくじるなよ.』
『合点だ.安心しておめえは行け.』
『でわ、頼んだよ.』と言うなり梅月は白公の書斎に走り大旦那に注進した.
『申し上げます.旦那様の内命を受け毎夜監視の不寝番を致しました所、今晩怪しい者が娘子の部屋に忍び込みました.小女が確かな証拠を掴むため窓の下に忍び聞きましたところ、淫らなうめきが続く合間に娘子が男に"旦那は父母の厳命でやむなく科挙を受けに行ったけど落ちで帰るに決まっている.その時旦那を殺して金を盗んで遠い所に行って二人で幸せに暮らしましょう."と言うのです.呆れて物が言えません.人面獣心です.大旦那様が賢明でしたから証拠が掴めました.早く取り押さえなさりませ.』話しを聞いた白公は大いに怒り刀を抜いて東別堂に走った.その時慌ただしく娘子の部屋から飛び出した男が一目散に塀を越えて逃げた.潜り戸を開けて外に出てみたが怪漢の姿は既に消えた後だった.
白公は書斎に戻り憤りを押さえ切れず下僕を全部呼び集め厳重に聞き糺した.
『吾が屋敷の戸締まりや塀の造りにも疎かな所は無い.それなのに怪しき者が娘子の部屋に気侭に出入りしている.これは確かに家中の者が娘子と密かに通じ合っているからに違いない.若し正直に申せば命だけは助けてやるも、しからざれば生かしては置かぬ.素直に白状せい.』秋霜の如く厳しく言う.
何も知らない下僕達はボカント口を開けて目を見張るのみ黙々と体を震わしているだけである.
『お前達は別堂に行って娘子を捕まえてこい.』雷が落ちるような白公の厳命だ.梅月が先頭に立った.淑英娘子の部屋の前に来た梅月はいきなり障子を荒荒しく開け放ち両手を腰につけて叫ぶ.
『何てのんきに寝たふりをしてますか.娘子を捕らえて来いとの大旦那様の厳命です.』
驚いて起きあがった娘子は何が何だか解からない.外には多くの下僕達が緊張した顔でひしめいで居る.
『この夜更けに一体何事でこんなに騒がしいの?』と訝しげに聞いた.下僕のうち一人が一歩踏み出し
『娘子は一体何者と姦通をしているのですか.娘子のせいで罪の無いおいらまで叱られているじゃないですか.早く大旦那様に行って姦通した事を自白しなさい.』と吐き捨てるように言い今にも跳びかからんばかりに肩を張る.主従の関係が罪人と捕卒の関係に変わっていた.
娘子はみづくろいを整し白公の前に進み正座して頭を下げ震える声で申し上げる.
『私に何の粗相が御座いまして真夜中に斯くも厳しくお呼びですか?』
『奇怪な事がしばしば起こりお前に聞く.仙君がソウルに発った後淋しいので梅月と夜を共にしたと言うので梅月に聞いたら夜にはお前の部屋に行かなかったと言うた.不審に思いながらも証拠が無いので黙っていたが先程はお前の部屋から男が出てくるのをこのわしが見かけ追って行ったが塀を越えて逃げた.斯くの如く証拠が明確なるにそれでも申し開きが出来ると思うのか』
全く身に覚えの無い罪をかぶせられ悔し涙を流しながら娘子は
『父上は不当な誹りに耳を傾け小女を罪人扱いなさいまするか.悔しゅう御座います.』 と泣き崩れた.白公は益々怒り大声で
『黙れっ.わしの耳で聞き、目で見ているのに其れでも否定しようとするのか.両班(ヤンバン)の家風を汚すにも程がある.おまえと通情した男は何者か素直に申せ.しからざればお前の罪を重くするのみだぞ.』
舅の怒号は秋霜烈日のようにきびしい.然し罪無き娘子は毅然と申し上げた.
『舅御の選ぶ所に依らず六禮を経ず迎えたる嫁とは言え如何にその様な有るまじき罪を問われまするか.あらざる罪をもて、申し開きを致すのも恥ずかしい事で御座います.父上はもっと詳らかにお調べ願います.小女今は人間の体をしていますが氷玉の如き貞節で生きて参りましたのに如何に左様な汚らわしい事が有り得ましょうや.億万回死すとも無い事を申し上げるわけには参りませぬ.』
自明の事にも拘わらず終に口を割らない淑英娘子に白公の怒りは天を衝き卑僕に 『罪人を縛れ』と命じた.
卑僕どもが一斉に庭に引き摺り下ろして容赦無く荒縄にて高手小手に淑英を縛り、結い上げた髪をも解いて跪かせた.いつもは端正にて気品高かりし淑英娘子が一瞬にして汚名を受け下僕等の環視の中で虐待を受ける様は見るに忍びない惨情であった.
『お前の罪は万死を持っても償えるものではない.姦通したものの素性を明かせ.』
答えようの無い淑英は泣き崩れるのみであった.白公は
『しぶとい奴じゃ.白状するまで叩け.』と号令した.
最も原始的な拷問が始まった.所謂丈刑という物で平目の木の棒で尻を叩くのである.力自慢の下僕の一人が出て来て淑英娘子の柔らかいお尻を杖木で容赦無く叩くのであるから堪らない.雪白の皮膚はたちまち赤黒く腫れ血が弾ける.体が砕ける痛みも、下僕に叩かれる屈辱も耐えられるものではなかった.
淑英娘子は渾身の力を振り絞り舅に訴えた.
『郎君が旅に出た日の夜とその翌日の晩に3里ほど行って宿を取ったが小女を忘れ得ず引き返し密かに入って来ましたので私が極力説得して発たせた事はありますがその時は夫の体面を考え申し上げなかったのでしたが其れが為に汚らわしい陋名を受ける原因になったようですが、天地神明に誓い不浄な事は御座いません.父上は小女の真意をお察し下さりませ.』と
辛うじて言い終えた.白公は今晩怪漢が塀を越え逃げるのを確認しただけに益々憎らしく思い
『もっと激しく打て』と怒号した.
下僕は力の限り叩きのめす.手弱女(タオヤメ)の耐えられる物ではない.淑英娘子は天を仰ぎ
『九天の神様よ.罪無きこの身を御察しあれ.五月に霜が降り、十年を恨んでも晴れないこの怨恨を如何にしましょうか.』血を吐くような絶叫を上げ力尽きて気絶した.この惨状を見かねた姑の大奥様が涙を流しながら
『古より覆水盆に返らずと言います.旦那様は事実もはっきり知らないまま無垢な嫁に淫行の罪を被せ酷い折檻をなして若し嫁の無実が明らかになった時にはいかなる面目にて嫁に対する積もりですか.』と
訴えながら庭に駆け下り嫁淑英を抱きしめ泣き崩れた.
『そなたの白玉の如き堅い節操は私が良く存じています.今日斯様な目に遭おうとは思いも及ばぬ事、口惜しい限りです.』
『古より"淫行の噂は拭い難し"と言われております.東海の水を皆傾けようとも私の陋名が洗われましょうや.不倫の汚名を受けた身がどうして生を謀り得ましょう.』姑は淑英が哀れで色々と慰めた.淑英は髪に挿した翡翠の簪を抜き天を仰ぎ合掌して
『皇天は御察しあれ.私が若し他の男と情を通じた事があればこの簪が私の心臓に刺さり、無実の陋名であれば石に刺さるよう御霊験を下さい.』と叫び
簪を天高く投げ両手を広げ胸をあらわした.やがて落ちた簪は踏み石に深深と刺さった.
翡翠で作った細長い簪、石に落ちたら粉々に砕けるはず.それが硬い踏み石に刺さっているのである.天が審判したこの驚くべき奇跡に白公は衝撃を受け、自分の軽率を悟った.白公は庭に駆け下りて淑英の手を取り
『このばかな年寄りが耄碌してお前の節操を疑い大変な過ちを犯してしまった.この罪は万死をも惜しくないものだ.わしの過ちを許してくれ.』と後悔した.
然し淑英は慟哭しながら、
『斯かる汚らわしい陋名を被り如何に生に未練を置きましょうや.潔く死んで恥辱を免れまする.』と死ぬ決意を示した.白公はなお驚き百方に嫁を慰めた.
『古よりたまに君子も讒訴を受けるし賢婦烈女もたまには陋名を被るものだ.是もまた一時の厄運だと思いわしの理不尽な言動を許してくれ.』
姑は淑英を助けて別堂に連れて行き慰めて止まなかった.
『私如きおなごも醜聞が耐え難く恥ずかしいのに況してや家君が帰られれば如何に顔を合わせましょう.唯一の道は死して身の潔白を明かすのみです.』と淑英は泣き止まない.姑も同じく泣きながら
『そなたが若し死んだら仙君も妻を追いかけて死ぬ筈です.こんな悲しい事が又とありましょうか.』
姑は泣き泣き内堂に帰っていった.母の様子を見ていた娘春鶯が
『おかあちゃん、今は死なないでとうちゃんが帰ってきたら口惜しい事を話してからにしなさい.今死んでしまったら小さい東春とあたいはどうするの.』淑英娘子は寝ている東春を抱き上げ乳を与えて白装束に着替えた後春鶯に
『春ちゃん健やかに育ってください.この母は死なねばならない身なのです.』と自らの覚悟を示した.
第3章終わり
《余談:天におわす玉皇上帝は宇宙最高の神様である.多くの神々、仙官、仙女を従え風雨寒暑を司とる.閻魔大王もその隷下にある.昔からその様に伝えられている.》
第4章
淑英娘子は悲しみに浸かりながら娘の春鶯に言う.
『母は今死にますがお父さんが百里の外にいて私が死ぬのも知らない筈ですから淋しいことです.私のかわいい娘春鶯や、この白鶴扇はまたとない奇宝です.母が死ぬ間際にあなたに遺すのですから大事にしまっておきなさい.この白鶴扇は寒い時に扇げば温かい風が出るし暑い時に扇げば涼しい風が出る珍しい宝です.貴方が良く保管して東春が大きくなったら上げて下さい.嗚呼悲しい哉.嬉しさの後には悲しみがあり、苦しみが尽きれば喜びが来るのがこの世の道理だと言いますがこの母の運命が奇しく斯くも口惜しい陋名を被り貴方の父上のお目にもかかれずに黄泉の怨魂になるのですから私とてどうして安らかに目を閉じられましょう.私が死んだ後もあまり悲しまないで弟東春を守って下さい.』遺言がてらに話す一言毎に悲しみが募り終に気を失った.
幼い春鶯は母を抱きむせび泣いた.
『おかあさんしっかりしなさい.おかあさん』
春鶯は気絶した母の体を揺すぶり泣いた.泣き疲れて母に被さり眠り付いた.いくらか過ぎた後淑英は目を覚ました.見れば春鶯が自分に被さり寝ている.天使の如き娘があまりにも哀れであり又汚らわしい陋名を被っているのがあまりにも口惜しく心が裂けるようである.しかし無実の証しを立てる為には死ぬより他に方法が無い.春鶯が起きないようにそっと寝かして優しく撫でながら嘆いた.
『哀れな春鶯よ、私があなた方姉弟を残してどうして安らかに死ねましょう.あなた方は母恋しさに如何に耐えましょう.嗚呼、あなた方を残して如何に死ねましょう.』
涙もて呟きながら蒲団の上に端正に座り短刀を抜いて胸を思いきり力をこめて突き刺した.淑英は徐に倒れ真っ直ぐに横たわった姿勢で死んだ.その瞬間空は黒雲に覆われ暗黒の世界を稲光は天地を切り裂き、雷は耳を劈く怒号をもて天地を揺るがした.この世の終わりのようである.その凄まじい音に目を覚ました春鶯が見れば母が胸に短刀を刺した侭死んでいる.驚いた春鶯が『母上』と叫び母に跳びついて短刀を抜こうとしたが柄の所まで深深と刺された短刀はびくともしない.春鶯は終に大声を上げて泣き喚いた.
『アイゴー、かあちゃん、あたしと東春を置いて死んだのね.あたし等はどうすれば良いの、誰を頼りにして生きるの.アイゴー、アイゴー』
天地の異変に白公を初め皆が目を覚まし何事かと外に出てみたら暗黒の空には稲光が閃き雷が轟く合間に別堂で春鶯のただならぬ慟哭が聞こえる.白公夫婦が驚いて駆け寄ってみれば淑英は短刀を胸に刺したまま死んでおり幼い春鶯が母を抱き泣き喚いている.老婦人は急いで春鶯を抱き上げ、白公は胸の短刀を抜いたがびくとも動かない.この騒ぎに寝ていた東春が目を覚まし母の乳を探した.老婦人が下婢を促して二人の孫を内堂に移してあやしてみるが泣き止まない.
『かわいそうな東春坊やあたし達も一緒に死んでお母さんの所に行きましょう』と春鶯は坊やを抱きしめて泣く.いきなり襲いかかった惨事に老婦人も成す術を知らず呆然たるのみであった.
清浄無垢な仙女である嫁の淑英娘子を世俗の浅はかな考えで事もあろうに姦通の罪を被せ杖刑まで施す暴挙を致したことを白公は深く悔いた.しかし如何せん後悔先にたたずである.
時間は休みなく流れ数日が過ぎた.白公夫婦は相談をした.
『嫁が惨い死に方をしたので仙君が科挙から帰ってこの現状を見たらわし等が無実の罪を作り上げ死に追い込んだと思い自分も死のうとする筈だから仙君が帰る前に葬儀を済ますようにしましょう.』
斯くして死体の収拾をしようとしたが死体が動かない.まるで地から生えた岩の如く、数人が掛かっても微動だにしない.白公は"ああ、天意なるかな"と嘆息するのみであった.
一方仙君は妻淑英恋しさに少し行っては引き返し密かな会う瀬を持っても見たものの妻の忠告と是では行けないと言う反省とで気乗りはしないながらも旅を続け王都漢陽城に到着した.
いよいよ科挙の日、朝鮮八道から集まった受験生が雲の如く受験場の成均館春塘台に続々入場した.
仙君もその一人、県題板に書かれた詩題を見、試紙に達筆で詩を認め一番早く試官に差し出した.詩文を書いて出した者はその場で座ったまま発表を待つ.一応試紙が集まれば別室で王を初め試官達が集まり御前審議を行う.多くの応書のうち王は特に仙君の詩を賞賛され壮元(首席合格)に選んだ.科挙の公平を期する為受験生の住所姓名などの身分内容は密封した封書を試紙に添えて出されている.
壮元に合格した者の身分封書を開いてみれば「慶尚道安東居住白仙君」とあった.
王は仙君を呼び詩文をほめたのち「承政院主序」の官職を授けた.仙君はこの事を父に報せる為手紙に認め下男に託し家に帰らせた.承政院は王の秘書課である.新任の仙君は任務の把握、上司、同僚との挨拶等.新たに任官した者としての必須事項を一応済ませた後休暇を得ねばならないので取り敢えず従僕のみを発たせたのである.下男は数日後安東に着き大旦那に仙君の手紙を差し出し復命した.手紙は二通、父と淑英宛てであった.白公は急いで手紙を開いた.
『小子、天の佑けを蒙り科挙に壮元及第致しまして承政院主序に提授されました.下郷してお目にかかるのは今月の中旬頃になることと存じます.....』との吉報である.又既に死んだ淑英宛ての手紙を夫人が受け取り大声慟哭しながら孫娘春鶯に渡した.
『おお、哀れな春鶯よ!東春よ!この手紙はお前の父がお前の母に宛てた手紙だ.預かっていなさい.』
春鶯は手紙を母の殯所に持っていき母の死骸に置いて泣いた.
『かあちゃん、これを御覧なさい.とうちゃんが壮元及第してかあちゃんに手紙を呉れたのよ.皆喜んでいるのに何故かあちゃんは黙っているの.かあちゃんはとうちゃんの事いつも心配していたじゃないの.嬉しい便りが来たのになぜ何にも言わないの.あたいは未だ字を知らないから読んで上げられないのよ.かあちゃん、アイゴー、かあちゃん』
ひとしきり泣いていた春鶯は内堂に走っていき祖母の手を取り母の殯所に連れて来て、
『おばあちゃんかあちゃんの前でこの手紙を読んでください.そしたらかあちゃんの魂が喜ぶでしょう.ねえ、おばあちゃん.』とせがんだ.老婦人は母思いの春鶯がいじらしく涙ぐみながら嫁に宛てた息子の手紙を声高く読み始めた.
『ここに白仙君は一通の手紙を娘子に送ります.その間両親に良く仕え、体も元気で幼い春鶯、東春も健やかに居ますか.私は幸いに壮元及第し立身揚名をしましたので天佑のお蔭だと思います.ただ娘子とはなれ百里の外に居ますので恋い慕う心が切ないのみです.娘子の面影が一時も離れず娘子の声が何時も耳に漂います.月光は遍く照らし不如帰が悲し鳴く夜、独り故郷の空を眺めれば山々は雲に覆われ果てしなく広がり川水は千里を流れます.夜明けごろ月も傾き冷たい風は雁の鳴き声を運ぶ時、あわよくば娘子の便りがきてはしないかと思い耳を澄ませるけれど虚しい空にはそよ吹く風の音のみ、娘子の便りは更に無し.客舎の独り暮らしは娘子想う切なさを積もらせます.私は恙無く居ますが悲しくも娘子の肖像画が日増しに褪せて行きます.必ずや娘子に何か良からぬことが起きた気がして焦燥し寝食も安らかでありません.喜びの後には悲しみも来るものは世の常なる事、娘子のことが心配で直ぐにでも故郷に跳んで行きたいけれど如何せん朝廷に仕える身、侭ならず遣る瀬無いのみです。お願いですいま少しお待ち下さい.遠からずお互い顔を合わせ積もった情懐の袋を披く時が来る筈です.隼に変わり君の元に飛んでいきたい気持ちは強いが私の体に翼が無いのが恨めしいです.話したいことは千日を書いても尽きないでしょうが是にて筆を置きます.娘子よ平安に居まわせよ.』
祖母は手紙を読み終えて孫娘春鶯を抱き上げ悲しみに浸かった.
『悲しい哉幼いお前が母を亡くしどれほど悲しい事でしょう.死んでいった母とてお前を忘れはしますまい.』
『かあちゃん、可哀想なかあちゃん.とうちゃんのお手紙を聞いて何故黙っているの.あたしと弟はかあちゃん無しには生きられません.速くかあちゃんの居る所に連れて行ってくださいね.』
母を慕い泣き止まない春鶯の哀れな姿は見るに忍びない有り様であった.
白公夫婦は遠からず息子が帰ってくる事を考えると嬉しくも有り又恐ろしくもあった.
『数日後には仙君が帰ったら死んだ娘子のことに気を落とし自分も死のうとするはず、どうすればいいのか.』
昼夜を問わず悩むが既に零れた水、器には戻せない.無辜な嫁を逼迫し死に追い込んだと思えば自責に耐えず息子にも面目がない.息子が何を仕出かそうと口を挟む立場でもない.
この時仙君のお供をしてきた下僕が老公の悩むのを見て遠慮がちに申し上げた.
『この前小公子がソウルに行く途中豊山の地に至りました時色々な花が咲き乱れ春も酣な草地で白鶴と舞を舞い戯れる綺麗な娘を見た事が有りました.村の人に聞いてみたら林進士(進士は未冠の両班)の娘だと言いました.小公子はその閨秀を見惚れてその場を離れませんでした.小人の考えではその閨秀を選んで婚礼を挙げれば小公子も喜ばれ淑英娘子を忘れて行くのではないかと思いますが.』其れを聞いた白公は大いに喜んだ.
『お前の言う事が道理に叶っている.林進士は儂とも知面の仲だ.話しやすいし仙君も出世をしているから婚礼を申し込んでも無碍には断れないだろう.』と急いで支度をし林進士を訪問するため道を発った.
第4章 おわり
余談:李朝朝鮮には成均館が学問の中核であった.成均館は大学、研究室を兼ねたもの.階級は両班でも大科に合格しなければ勅任官にはなれない.広く人材を集めるのは良いが合格をさせれば任官させねばならず、むやみに官僚を増やせば財政が堪らない. それで必要な時だけ科挙を施行するから大変な競争率になる.生員、進士などは"大科を受ける資格はあるが合格はしていない者"即ち書生の事だ.今で言うと"学士"である. 仲人(チュンイン)と言うヤンバンと常民の中間で準ヤンバンに当たる階級が居て下級官吏、地方吏等を占めていた.
第5章
白公は林進士を訪問した.かねて顔見知りの間ではあるが家にまで訪ねて来ようとは思ってもみなかった.珍客には違いない.客間に向かい合った主客は日常の挨拶を交わし特に林進士は白公の息子白仙君がこの度龍門に登ったのを慶祝した.杯が数回回った時白公は話しを切り出した.
『貴公に是非とも聴いて頂きたい頼みがあるのですがお聞き入れ下さいましょうか.』
『それはもう、お聞き入れ出来る事なら致しましょう.先ずお話しを承りましょう.』
『実はですね.息子仙君が淑英娘子と縁が結ばれまして仲良く暮らし子供二人を設けましたが仙君が科挙を受けに上京している間に嫁が急に病気に掛かり急死したのです.息子が錦衣還郷して妻を喜ばせようとしたのに妻が死んだとなると愛妻家の仙君が自分も死のうとするかも知らないので心配です.それで後妻を入れてやるべく良家の閨秀を求めているのです.その内お宅に才色兼備な閨秀が居られると聞き息子が再婚の引け目があるのも顧みず結婚を申し込む次第で御座います.是非お聞き入れ下さい.』と頭を下げた.
林進士は暫く沈思した後口を開いた.
『私には娘が居ますが令息の配偶には及ばない不束なものですし.去年の夏でしたか偶然ご子息夫婦を拝見した事がありますがその時娘子の麗しさ美しさに驚いた事があります.私が貴公のお話しを受け入れたとしてもご令息にはそぐわないので気に入らない筈です.そうなれば娘が哀れになりますしこのお話しは承り申しかねます.』
『それはご謙遜です.』
林進士は気乗りしなかったけれど白公が再三再四丁寧に頼むのでやむなく承諾した.白公は大いに喜び
『それでは今月の15日に仙君が帰ってきます.その時必ずここを通りますからその折に婚礼を済ますのが如何でしょうか.』
『私の方は宜しゅう御座います.左様に致しましょう.』
『突然お伺い致し、あつかましいお願いを申し上げましたのに快くお聞き入れ下されあり難く存じます.』
嫁取り交渉に成功した白公は重ねて禮を述べ林進士と別れた.
家に帰った白公は夫人に話し結納の品を揃え林進士宅に送った.しかし老婦人は心にスッキリしないものがあって心配して言う.
『林進士宅の閨秀と婚姻を結ぶのは良いとして、淑英娘子が死んだのを知らずに来る筈ですのに娘子の死を追及すれば如何になさいますか.』
『それは本当の事は言えないから、しかじか....』
二人は示し合わせて口を合わせた.白公は仙君が帰ってくる日にちに合わせて豊山の地に行き待っていた.仙君が通るのを捕まえて先ず林進士宅との婚礼を先に済ませる計画だった.
白仙君は王より承政院主序を拝命し数日は一応職務の把握を終えた後故郷に帰りソウルに住居を移すため特別休暇を頂きいよいよ錦衣還郷である.
頭には壮元帽、青い官服に玉帯、楽隊を先頭に壮元及第、任官した官名の幟と日傘が続き駿馬錦鞍に跨り従僕、衛兵等を従え堂々と大路を行進した.道々行列を見物したものは壮元及第の栄誉を称え、仙君の秀麗な容貌に驚嘆と羨望を惜しまなかった.行進三日目の午後、休憩のため暫時酒幕に立ち寄り休んでいる時、仙君の前に淑英娘子が血にまみれた姿で部屋に入り泣きながら訴えるのであった.
『郎君が立身揚名され錦衣還郷なさるは嬉しい限りですがわらわは運命希薄してこの世を離れ九天にさ迷う怨魂と成り果てました.わらわに対する郎君の愛情は純粋にして深い事を信じていますが悲しい哉薄命なこの身は郎君と喜びを共にする事は出来ませぬ.私は無実の汚名を被り口惜しくも命を絶ちましたが故に行く所にも行けず九天をさ迷っております.郎君が是非を正し無実の嫌疑を晴らしてくださいませ.』と言い終わるとそのまま消えて無くなった.
驚いて目を覚ませば一場の夢であった.気がつけば背筋に冷や汗が流れていた.一瞬不吉な予感が閃いた.色褪せた肖像画と言い今の夢と云い娘子の身に重大な異変が起きたに違いないと思い道を急かした.次の日からは朝早く宿を発ち晩くまで人馬を督促して急いた.数日後豊山に着き宿を取ったが娘子のことが心配で焦燥の中に夜を過ごしていた.真夜中に思いがけなく父が仙君の部屋に現れた.父は仙君が科挙に壮元及第したのを祝い家族も皆無事にいると安心をさせた後
『男が出世をすれば妻を増やすのが通例になっている.この豊山の地に林進士の娘御が非常に賢淑で器量も秀でているのを知り父が求婚を進め婚礼の日を決めておいたから明日ここで婚礼を挙げて後、家に帰るようにしよう.』と話した.
仙君は淑英娘子が夢に現れ無実の罪に問われ死んだとの事に疑いを抱いていたが父の緊張した態度とか常軌を逸した事の運び方など納得し難い所があった."父が急に妻を娶るように捗るのを見れば娘子が死んだのに違いない.娘子のことを内緒にして林閨秀を抱かせ俺を慰める積もりであるのだ."と判断し父に断固と申し上げた.
『父上の仰せご尤もではありますが今は早く家に帰りソウルに居を構える準備をするのが急ぎます.婚礼は少し遅れても大事ありません.その話しは後に回してください.』ときっぱり断った.
公儀を楯に言われたら白公もしつこくは言えない.困った立場に置かれ悩みの中に夜を過ごした.
夜が明けるのを待って仙君は供の者を督励して急いで出発した.この時林進士は仙君の行列が村に泊まっているのを知り今日の婚礼の手筈を相談するため朝早く白公の宿を尋ねる途中に仙君の一行が通るのに出遭った.林進士は仙君に壮元及第の祝いを述べ白公に婚礼の話しをすれば白公は"公儀の業務が急ぐから"との仙君の言い訳を伝え後に延ばす様に話し慌てて一行に加わり安東に帰った.家に着いた仙君は先ず父母にお辞儀をして安否の挨拶を交わし母に淑英娘子のことを問うた.母は答えに窮しもじもじしている.仙君は急いで別堂に行き淑英娘子の惨情を目撃した.胸に短刀が刺されたまま死んでいる惨めな情況にショックを受け息が出来ないほど胸が詰まり部屋を飛び出した.春鶯が弟の東春の手を引いてきて仙君に抱きつき
『おとうちゃん、何故今来たの?おかあちゃんが死んだのはずーと前よ.おかあちゃんはお葬式も出来ずに居るのよ.どうすれば良いの?おとうちゃん.』と泣きながら母の殯所に連れていった.
『おかあちゃん、可哀想なおかあちゃん.おとうちゃんが来たのよ.早く起き上がってよ.おとうちゃんをそんなに待ってたのに何故起きないの、おかあちゃん.』と泣き崩れた.春鶯の泣き声に仙君も大声慟哭をした.ひとしきり泣いた後仙君は内堂に行き父母に事の成行を問いただした.父母は言いづらいらしく暫く嗚咽した後父が次第に口を開いた.
『お前が科挙を受けに旅に出た後五〜六日経った頃かな、毎朝挨拶に来た嫁のけはいが無かったので不審に思い別堂に行って見たらあんな惨めな姿に変わっていたのだ.家中が大騒ぎになって原因を調べたが未だに解からずじまいになっているのだ.恐らく悪い者がお前の留守を狙って夜中に侵入し犯そうとするのを激しく抵抗したため刺し殺して逃げたのではないかと思う.その後、葬儀を仕様としたが短刀も抜けず死体も動かせなかったのでやむなくお前が帰るまで待つしかなかったのだ.斯かる不祥事をお前が判れば若しや病にでもなるかと憂い林進士の娘と婚姻の取り決めをしたのだ.お前がお前の妻の不幸を知る前に新しい女を娶る事によってお前の悲しみを幾らかでも慰める事になるのではないかと思い左様にしたのだ.どうせ過ぎ去った事だからお前も悲しいだろうが気を取り直して先ず葬儀でも出すようにして呉れ.』
父から一応の話しを聞いた仙君は悲しみが新しく込み上げ妻の殯所に行きあらためて慟哭をした.悲しみと同時に怒りが込み上がった.仙君はソウルから連れてきた護衛の兵卒に命令し、家中の全ての下僕を庭に集め縛り付け跪かした.その中には梅月も混じっていた.仙君は部屋に入り淑英娘子に被せていた白布を捲りのけた.淑英娘子の死体は数十日が経過したにも拘わらず聊かも変わらず生きていようであった.仙君は涙を飲みこみながら"娘子よ、私があなたの恨みを晴らして上げます.胸に刺された短刀が抜けたらその刀で仇を討ちます."と心に誓い短刀を引き抜いたら易々と抜けた.刀を抜いた跡から青い鳥が飛び出し「梅月だ.梅月だ.梅月だ.」と三度鳴いて飛び去った.仙君は梅月が嫉妬のあまり主人を裏切ったのを知った.
庭には既に刑具が整っていた.淑英の胸から抜き取った短刀、刀身には淑英の血に染まっているままの短刀を握り締め庭に下りた仙君の形相は凄まじいものがあった.
『この短刀に胸を刺されて死んだ淑英娘子は姦通の疑いを受けていた.娘子の部屋から出て来たと思しき怪漢が塀を越えて逃げるのを目撃した.これは家の中の者との内通が無くては不可能な事である.その者はお前たちの中に有る.犯人が出てくるまで刑罰を与える、犯人は神妙に白状しろ.』と宣言をして片っ端から順番に丈刑を施した.尻叩きの拷問である.しかし一般の下僕は何も知らない、知らないものは白状の仕様も無い、叩かれ悲鳴を上げ犯人を恨むのみである.最後に梅月が刑台に縛られた.梅月はしぶとく奸悪であった.50丈を受けても未だ否定した.仙君は激怒した.
『打て.白状するまで続けて打て.死んでも構わぬ.容赦無く打て.』と督励した.如何に奸悪であろうとも所詮は人間である.丈が百に至りさすがの梅月も精根尽き果て白状した.淑英娘子が正室に収まった後は仙君が淑英のみを愛し自分を顧みないのを妬み仙君が科挙に発った直後大旦那が淑英を疑い自分に監視をさせたのを機会にならず者のトリを買収して淑英が姦通をしているように作り大旦那をまんまと騙し淑英を姦計に陥れた経緯を吐露した.仙君は直ちに無頼漢トリを逮捕して刑台に縛りつけ詰問した.トリは既に梅月が口を割ったのを知り、千両の大金にて買収され梅月の指示通り淑英の間夫の如く装い大旦那が嫁の不倫を信ずるようにしたと白状した.仙君は憤りに震え
『虫けらよりも劣る人間ども』と絶糾し握っていた短刀で梅月の首をはね、腹を割って肝を取り出して娘子の死体の前に置いて改めて慟哭した.
『嗚呼悲しい哉.聖人君子も斬首を受け、賢婦烈女も辱しめを受けるは古今より無きにしも在らずとは云え淑英娘子のような口惜しい事が又とあろうか.是皆吾仙君の過ちにより生まれたる不幸なれば誰を恨もう.今日その仇は打ったものの既に死んだ娘子は何処に行って逢えようか.吾も死して娘子の後を追うべし.父母えの不孝をお許し在れ.』仙君は大いに嘆息し娘子の死体を抱きしめ大声を挙げて思い切り泣いた.無頼漢トリは官庁に移し流配に処した.
第5章 おわり
余談:位牌を書くとき両班は"顕考 正5位兵曹参議義盛君忠烈公金大男 神位"の様に位階、官名、賜号等を書くが書生に終わった者は"顕考 学生府君 神位"と、書く.それだけに班列に並ぶと云う事は立身出世の目標であった.
第6章
白公夫婦は嫁が無実の陋名を被り死んだ事実を息子に隠していたのが白日下に明らかになり恥ずかしくて一語とも言えず頭を下げてばかりいたが、かえって仙君は父母を労わり葬儀の準備を進めた.殯所に入り死体を棺に納めようとしたがやはり動かない.仙君は人々を外に退かせ蝋燭を灯して独りで死体を守っていたがその内疲れが一時に襲い眠りに落ちた.その時淑英娘子が艶やかにお化粧をし美しい絹の衣を着て部屋に入りお辞儀をした後口を開いた.
『郎君が私の仇を打って下され有り難う御座いました.昨日天上で玉皇上帝が私をお召しなされ「お前は仙君と自然に逢えるようになっているにも拘わらず残り3年の期限を守らず縁故を結んだために人間世界にて口惜しくも誤解を受け死んだのだ.誰も恨む事は出来ない.自業自得じゃ.」と仰せられました.私は平謝りに謝り「上帝の命に背いた罪は万死に当たりますが仙君が私を追い、死のうと致しますので今一度私を人間世界に送り仙君と尽きない因縁を甦らせて下さいませ」と哀願しました.上帝は哀れに思し召され死神を呼び「淑英の罪はその位で補えたから、生き返らせて仙君との尽きない縁が続くようにしてやれ」と仰せられ、また閻魔大王を呼ばれ「淑英を放免して人間に甦らせろ」と命じました.閻魔大王は「畏まりました.然し淑英が罪を償う期間が未だ二日残っていますので二日後に生き返らせます.」と申し上げ上帝が了承されました.又上帝は南極星を呼ばれ私の寿命を定めてやるよう命令され南極星は80歳に定め3人が同時に昇天する様致しますとお答え申し上帝は満足されました.私は仙君と私は二人なのに何故3人ですか?とお尋ね申した所「それは天機であるから漏らす訳にはいかない」と仰せられ不思議に思いました.またお釈迦様を呼んで子供を授けてやるよう仰せられ如来様は3人の息子を授けてくださいました.以上の様ですから郎君は私の死を悲しまないで2.3日お待ち下さいませ.』と言った後忽然と消えた.
仙君は夢から覚め半信半疑ながらも安心して待つことにした.他の家族も仙君が黙っているから成行に任せていた.或る日仙君が外出から帰り淑英の部屋に入って見ると今までまっすぐに横たわったまま動かなかった淑英の体が横向きになっているではないか.驚いた仙君が淑英の体に触って見ると柔らかく温かで生きている人と変わりがなかった.仙君は狂喜して父母に知らせ手足を揉んでやる一方人参汁を出して喉に流し込んだりして居るうち瞼が動き目を開けた.生き返ったのである.死後十数日が経ったのに何の異常も無く生き返る奇跡が起こったのである.東春を抱いて母を見守っていた春鶯は母が生き返るのを見てうれし涙を流しながら母に抱きつき
『かあちゃん、かあちゃん、何でそんなに長い間寝ていたの?ああん、ああん』と泣きじゃくった.
完全に生き返った淑英娘子は娘の手を取り
『お前も坊やも達者でいたの?』春鶯と東春を撫でてやり、起き上がった.天の思し召しならでは有り得ない奇跡に父母をはじめ家中の全てが驚嘆と喜びに小躍りしたのは言うまでも無い.数日後再生の宴会を開き楽しんだ.
一方仙君と婚約を結び婚礼の準備をしていた林進士の宅では淑英が生き返ったことを知り結納の品を返し他に婿を探そうとしたら林娘子が反対を主張し出した.
『女の身で結婚を承諾し結納の禮物まで貰えっていれば既にそのお宅の者です."死んだ夫人が生き返ったから婚約を破棄する"と向こうから破婚を宣言されたとしても他に嫁ぐわけには行かないのです.況やこちらで破婚を申し出るのは不当な事です.国法によって"一夫に二婦を許さぬ"とされない限り私は他には嫁ぎません.』 断固たる態度を表した.
林進士夫婦も淑英娘子が生き返った以上白公に対し婚礼を迫るわけにも行かず、他に縁を探すわけにも行かず、中途半端なまま悩みつづけた挙げ句、白公を訪れ淑英娘子の蘇生を祝い娘の言い分、親としての悩みなどを話した.白公はそれらの全てが自分の責任であるのを痛感し真実に謝罪し林娘子の堅い節操に感嘆して
『なるほど、御令愛の心使いは見上げたものです.そういう賢淑な娘子の生涯を仙君の為に不幸にするのは実に面目の無い事で御座います.是皆私の軽率なために起きた事でしてまことに申し訳御座いません.』と平謝りに謝るのみであった.
側に仕えていた仙君は
『林娘子の金玉の如きお心使いは感激に堪えませんが困った事です.国法では一夫二妻を禁じてはいないとは言え如何に林娘子を第二夫人に下さいと申し上げられましょうか.』
『娘の考え方からして第二夫人をも厭わない覚悟ではないのかな.』等と話しながらその日は帰った.仙君は部屋に帰り淑英娘子に林進士と父の親としての悩み事を話した.
話しを聞き終わった淑英娘子は微笑みながら仙君に答えた.
『林娘子の考えが左様なれば若し郎君が迎え入れなければ一人の女の一生を台無しにする罪を犯すことになりますし、郎君の罪は即ち私の瑕に帰ってきます.郎君は私に遠慮せずに一人の女を不幸にならぬようするべきです.玉皇上帝も三人が同じ日に昇天すると仰せられましたから是又天意に外なりません.郎君は両家の事情をつぶさに王様に上奏しお許しを得なさい.恐らく王様も賜婚なさると思います.そうなれば両家の栄光になり第二婦人になる林娘子の自尊心も光栄に変わり世間からも両家の美談として称えられる事になるでしょう.』
『陛下に上奏しお許しを請うのは難しい事では有りません.これはどこまでも娘子が林娘子を助ける広い雅量で美談の主人公は正に娘子です.だから私は娘子をより尊敬します.』と娘子の手を取り褒め称えた.
数日後仙君は上京し御前に御挨拶を申し述べ淑英と林娘子の事情を詳細認めた上奏文を差し上げた.上奏文をご覧になった陛下は大いに喜ばれ.
『淑英娘子の寛容の美徳は万古に稀なる事ゆえ"正烈婦人"の職牒を与え、林娘子の節操又殊勝なる故仙君との婚礼を許し"熟烈婦人"の職牒を与える』と公表された.
白仙君は皇恩に感謝し改めて休暇を得、家に帰り林娘子と婚礼を挙げた.第二婦人の林氏も稀に見る窈窕淑女であった.新婦は夫に愛情と尊敬を持って仕え、父母には孝行を尽くし、本室の淑英娘子とも理解と譲歩をもって隔たり無く慕い、妬みや嫉妬無く仲良く暮らした.
そうして白氏の家門では常に和気に溢れ、富貴に満ち足りて老白公夫婦とも健康に暮らしたが享年80歳にて病を得、卒した.仙君夫婦三人は悲しみの中に誠意を込め3年の喪を円満に終えた.
歳月は流水の如く流れ正烈婦人は三男一女を生み熟烈婦人もまた三男一女を生んだ.いずれも其の父母に良く似て眉目秀麗にして才気に富み順次科挙に及第し成婚をして家門が大いに栄えた.仙君の齢80の或る日、仙君ら3人の夫婦をはじめ8人の子女及び其の家族まで全てが集まり盛大な宴会を催して3日間一家団欒を楽しんで居た時、突然空に五色の雲が広がり竜の背に乗った仙女が降りて来て.
『白仙君はよくお聞きなさい.その方3人の夫婦が昇天する期日が今日です."連れて参れ"との上帝の命令です.速やかに竜の背にお乗りなさい.』と促し仙君夫婦3人を連れて天に舞い上がった.父母の昇天を仰ぎ見ていた残りの家族は悲しみの中にも父母の遺品を集め棺に納めて懇ろに葬った.
おわり