蕩児 李春風

作者:未詳
時代:李朝中葉

李朝19代粛宗大王即位の初期.
人和世豊 国泰民安 雨順風調 家給人足
山無盗賊 道不拾遺 堯之日月 舜之乾坤
難しい漢文を並べたが、要するに平安無事な時代、太平の世の中だったと言うわけである.

ソウルの都に一人の男が居た.姓は李、名は春風である.都でも名の知れた大金持ちの一人息子で両親がちやほやと育てた.眉目秀麗で背も高い好男児で良いものずくめの環境なので世間知らずの人の良い'坊ちゃま'どら息子だ.
金持ちでも寿命にはかなわないもの、父母が共に急死した.悲しみの中に3年の喪を済ませた.近い親戚も無く意見をする者が居ない、気の向くまま何でもしたい放題である.苦労を知らない春風が知っているのは遊ぶ事だけである.男前は良いしお金はふんだんに有るときている、もてもてで好い気になり女遊びに耽った.親譲りの財産がもれだすのは当然のことだ.自然と遊び人や風流男、ばくち打ちなど城内の良くない連中が春風を取り巻いた.慕華館での弓試合、掌楽院での風流遊び、賭け将棋、賭け碁、骨牌、双六、闘牋等のありとあらゆる賭け事、子供には小遣いやり、大人には酒奢り、美女あさり、銘酒あさり、ご馳走あさり、飲む打つ買うの三拍子に上を掛けて遊ぶこと面白いことは何でもしたから城内の遊女、博打打で春風の金をせしめない者はいない、元々おめでたい坊っちゃんである.煽ててやり褒めてやれば好い気になって何でも言いなりだ.よってたかって何百何千両と巻き上げていたから堪らない.春風は幾ばくもせずしてすっからかんになってしまった.世の中は冷静なものである.金をバンバンばら撒いている間は大名のようにまつりあげ機嫌を取り親切にして居た者どもが金が切れたとなるとその瞬間から離れて行き近寄ろうとしない.偶然顔を合わせてもそっぽを向けてしまう.
お金がなくなった李春風は同時に友人からも女からも締め出しをくい行き場が無くなってしまった.

仕方なく家に帰り妻に言う.
『"家貧にして賢妻を思う" との諺も有るがどうしたものかなあ.』
『私の言う事聞いてご覧.男として世に生まれたなら文武の何れかに身を入れ励み春塘台謁聖科に壮元合格し桂樹花を頭に挿し青羅の羽織を纏い家族を誇らしくしたが運悪く廃家になることもありますが、それでも恥にはなりません.でなければ治産に精を出し農業を励み妻子を飢えさせず衣食なりとも不自由なく暮らし末年には子孫に伝えて夫婦が共白髪に終わればこれ亦良い事では有りませんか.そなたは男の行く道を歩まず、放蕩三昧に耽り父母の莫大な遺産を一朝一夕に無くし数多な奴卑、田地を皆何者かに貢ぎ、妻子を顧みず酒池貪色闘牋賭博と昼夜を問わず入り浸り終にすっかん貧無一文に落ちぶれてどうするつもりですか.よしてよやめてよ、酒色雑技好むなよ.放蕩した者滅ばないためしはありません.芹洞の李牌頭は青楼の美色に溺れ終には路頭乞食に成り下がり、東門外の呉聴頭も闘牋雑技に耽り終には流浪の末野垂れ死にをし、南山洞の花真さんも少年金持ちだったのが酒色雑技に身を滅ぼし惨めに死に、織物屋通りの金富者も酒好きで豪放磊落な人として有名だったが数万金を使い果たし油行商に落ちぶれたとさ.これを見ても酒色雑技は身を滅ぼす元なのを知らなかったのですか.』辛辣に戒めた.
これに対する春風の答えはまだまだしゃあしゃあとした物だった.半分くらいは後悔もしているがそれよりお金が無くて遊べないのが辛いだけの気持ちで居る.
『俺の話しも聞いてみろ.使喚(小使い)の大実は酒一滴飲めずとも金一両の蓄えも無く、李角童は50になるまで酒色を知らなくても他の家の使喚を免れず、塔洞の福童は闘牋・骨牌知らずとも数千金を無くし飢え死にしたのを見ても酒色雑技が財産を無くす本とは言えない.又有るから聞いてみろ.酒飲みなら李太白だ、鸚鵡杯で百年、3万6千日、一日須傾三百杯で日毎に長酔しても翰林学士を勤めたし、寺谷洞の逸遜は酒色雑技しても後日一品の位に上がった.これを見ても酒色雑技を好むは男の常なる所、今でこそ俺も落ちぶれてはいるが一品の役職を頂き名を後世に残さないと誰が言えるのだ.』とうそぶいた.反省するとか後悔するとかの色は無く女房の前に亭主の弱みを見せたくない気持ちだけが強かった.

然し人が生きるのには食わねばならぬのに食糧が無い、めぼしい物を売ってみるが限度がある.飯が粥になり、粥が水になった.もとより仕事をしたりお金を稼ぐのを知らない李春風は生きていく方法が無かった.にっちもさっちも行かなくなって初めて春風は悔過自責の念を起こし妻に謝りすがりついた.
『おまえ、怒らないでくれ、悲しまないでくれ.俺は過ぎし日の過ちを今にして悟っているが是ほど貧しくてはどうして良いのかわからない.今日から家事の全てをお前に任すからお前の思い通りに賄い飯だけでも欠かさぬようにして呉れ.』
『父母が遺した数万金を酒色に蕩尽した貴方です.若しも私が針仕事、織物と仕事に励み女の手で少しの金を貯めて見てもそれを惜しみ大事にする貴方では有りません.』
『お前が俺を信用しないなら差し入れ書を書いてあげるよ』
紙筆を出して自から書く.
「某年某月某日手記を認め後日の為に遺す.私李春風は放蕩により祖先の遺したる累万金を青楼に雑技に散尽した過ぎし日の過ちをさとり(覚今是而昨非)後悔するも既に及ばざるなり.本日以降家中全ての事を正妻金氏に一任する.金氏治産の後には家夫の李春風は一分銭、一斗粟なりと任意にせざるを茲に手記を持って証す.今後若しも雑技に手をつければこの手記を持って官辺に訴えるべく署名捺印するなり.家夫李春風と書いて妻に渡した.妻は受け取らず
『手記の末尾に"官辺に訴えるべく"とあるが家長を官に訴えるのは私の本意では有りません.』
春風は妻の話しを聞き末尾を訂正した.
『...手記を持って金氏に誓う.若しも是に背く時は吾、鄙夫之子なり.手記にて証す.』と書いて渡した.金氏は手記を受け取り丁寧に畳んで深くしまった.

この日より婦人金氏は袖を捲し上げ家勢再建に取りかかった.
李春風の妻、金氏は良家の閨秀で学識と教養を備え礼儀作法正しく賢淑な婦人である.
金満家の一人息子李春風に嫁ぎ、義父母にも大事にされ多くの召し使いの奉仕を受け大家の若奥様として何不自由無く居たのが義父母の没後、夫春風は遊蕩にふけり巨万の資産が塵芥の如く吹き飛ばされる悲運に遭った.夫に意見をし様にも外にのみ出歩き顔を合わすのも難しかったのである.それが無一文になり妻の所に帰ってきたが口では済まないと言いながらも本当に後悔しているのかも疑わしかった.然し坊っちゃんの春風が飢餓の辛さに耐えかねて家内に縋り差し入れ書を書くまでになったのである.金氏は自分が家勢を興す覚悟を決め奮い立った.

先ず貴婦人のチマは長くて地面を引きずる.それを切って活動しやすく短くした.上着のチョコリは広い袖を狭く直した.針仕事、機織、何でも引き受けた.5分で足袋作り、2分でひとえ縫い、3分で古着直し、4文で羽織作り、5文で官羽織作り、6文で天翼作り、7文で蒲団作り、1両で初誕生ヌビ縫い、3両で外衣ヌビ縫い、2両でバジヌビ縫い、4両で官服一式作り、冬は綿布織り、夏は麻織り.秋には染め物、季節を問わず昼夜を問わずてんてこ舞いを何年間続け儲けた金は日無し貸し、月貸しと利回しにも怠らなかった.稼ぐに追いつく貧乏無しで数千金の財を女手一つで作りあげた.春風が家産を散らししょんぼり閉じ篭もった時とは雲泥の違いだ.以前の程ではないが家計が立て直った.全ての用度が豊かになりゆとりが出来た.春風は女房のおかげて衣服冠網が華やかになり膏梁珍味で腹を満たし美酒長酔の毎日を送った.裕福な旦那様に帰ったのである.次第に傲慢大胆になりソロソロッと昔の癖が出て来たがお金は女房が握っているから思うように使えない.

或る日春風は悠々と戸曹(財務省)に出向き国庫金2千両を借り出してきた.平壤向けの商売を始めると言って出発の準備をした.それを聞いた妻の金氏が大いに驚き口を極めて止めた.
『貴方、私の言う事を聴いてよ.二十歳の時に父母が遺した巨万の資産を蕩尽しその間5年も家に閉じ篭もっていて世間の物情も疎遠なのに平壤商いとは持っての外です.戸曹の金がどんなに怖いか知ってるの?まかり間違えば打ち首に磔よ.平壤は有名な色街なのよ.奢侈誘惑が激しく青楼の美人は色と愛嬌で金を持った浮気者を立たせたまま裸に剥く所よ.行きなさるな平壤に行きなさるなよ.』
『俺とて人間だよ.二十歳前に廢家し口惜しさ骨髄に徹しているし、今度の商売で見事に取り戻して見せるからお前は心配するな.』
『この前失敗して"一分銭一斗粟も拘わらない""しからざれば鄙夫之子"だと書いて私が保管しているのにそれを忘れましたか?衣食は私に任せて飲んで食って気楽に暮らし平壤には行きなさるなよ.』
春風是を聞いて大いに怒り善良貞淑な妻の長い髪の毛を片手で掴み織物屋で絹地を巻く如く、船頭が錨を巻く如く、ぐるぐる巻いてこぶして殴り足で蹴り
『家長が千里遠征商いの門出に妖言を弄してけちを付ける女子は許しておけぬ.』
鬼に憑かれたように妻を半殺しにしておき妻がしまっておいた有り金全部の500両をも取り出して馬に積み別の馬には鞍に虎皮を敷いて高く跨り馬二頭で出立した.

この時春風は凱旋将軍の如く意気揚揚と延韶門を過ぎ母岳峠を越え一路北に進み青石洞に至る頃春風は嬉しさに自ずから唇がほころびる.長い嬶天下の憂鬱な時代は過ぎた.これからは自由である.お国から借りた高利の金だろうが何だろうがとにかく千両箱二つに五百両も加えている.つべこべ干渉する者は誰も居ない.時は正に春も三月の好時節、四方に花は咲き乱れ枝垂れ柳の千万糸には黄鶯飛び交い人の目を楽しませる.正に我が世なるかなである.道々の風景を楽しみながら悠々と進み洞仙嶺を越え黄州兵営を見物し中和に入れば平壤はすぐそこである.兄弟橋を過ぎ一里長林を通れば大同江が目の前に広がる.牡丹峰を望めばその下に浮碧楼が絵のようだ、大同門、練光亭、第一江山とはここなるかな.箕子・檀君、2千年の遺跡普通門が迎える.永明寺亦良し、花の都憧れの都平壤である.
城内に進めば往来の人も華やかで街中が繁華活発である.春風は馬上におっとり構えて繁華街を睥睨すれば昔の気分が自ずと甦る.青楼の近くに客舎を定め千両箱の大金を下ろし部屋に入れた.宿の主人を呼びつけ商用で参った旨を告げ色々と物情を尋ねた.蛇の道は蛇でソウルの豪商李春風が数千両の大金を持参して来たと春風の評判が忽ち花柳界に広まった.春風が客舎の欄干に凭れ向かいの家を見ると家の作りも華やかだが其処に居る女が飛び切りの美人である.彼女こそは平壤技生秋月で美人の上に歌も名唱で歳こそ15ながら手練手管に長けた男誑しの名手で城内の豪傑客、八道の伊達男が何百両も散財をしては去って行く男泣かしの妖婦であった.








この時ソウルの富商李春風が数千金を携え向かいの宿に泊まっているとの話しを聞き秋月は春風を蕩かすつもりでわざと紗窓を半開して外から覗けるようにして艶めかしい嬌態を演じながら緑衣紅裳を纏い寂しげに座っている.春風が見ると顔と姿態が青天明月の如く牡丹の花、朝露に濡れ半開しているようであり、その姿態の絶妙さは一幅の美人画、月宮の仙女のようであり、咲き立ての海棠花か、西施の生き返りか、楊貴妃の再現のようである.青楼に独り座り梧桐腹板の琴を膝に乗せ卓文君を誘惑したる司馬相如鳳凰曲をトドントントンと奏でる楽音に李春風は恍惚と酔い理性は影を潜め魂は磁石に引き付けられる鉄屑のように引き付かれていた.李春風のざまを見れば三国誌の劉備が公明を訪ねる如く、西王母の瑶池宴に周穆王が尋ねる如く、渭水辺の姜太公を周文王が訪ねる如く、公明が請兵の為江東を訪ねる如く、陶淵明が尋陽に訪ねる如く、雁の群れ洞庭湖を訪ねる如く、鶯が楊柳木を訪ねる如く、蜂蝶が花畑を訪ねる如く、孟嘗君の八の字の歩みで中門を入れば秋月の様子亦見物だ.李春風が来るのを見て玉顔に微笑を湛え草履も履かずに足袋の侭庭に降り春風の羽織の裾を掴み上に上げる.

左右を眺めば調度も華やかだ.六間大庁床広間、前後に続き廊下欄干も美し、座敷にはオンドルの角壮紙もすべすべと光り、小欄の天井、菊の花を刻んだ卍窓、山水屏・雲霧屏の美人画が美しい.竹葉の墨画を押し入れの引き戸に張り鴛鴦の襟寝、続き枕箪笥にしまい、粉壁の柱聯には董仲舒の策文あり、諸葛亮の出師表あり、赤壁賦・襄陽歌が掛かっている.
真鍮の燭台が一対小卓に乗り、部屋の隅にはヨガン(小便壺)・唾具・灰皿が控えめに置いてあり、青銅の火鉢、三層の樺榴藏籠程よく配置し、竜毯、白毯、花紋蓆が敷かれ.衣掛けには絹の女物が掛り艶めかしさを加える.秋月のしぐさには初対面のぎごちなさが無い.李春風を席に付かせ秋波を半ば開き迎え座る美しさが男をそそる、麗しき八字春山両の眉に半粉黛を施し豊かな黒髪を端正に結わえ金鳳釵でまとめ、白紡紗水禾紬の下着、薄木綿の下チマ、細白水禾紬の幅広バジ、統明紬一重チョコリ、南大緞一重チマを纏い、飾りも非凡なり宮廷の香料、密花、佛手、金の斧をぶら下げ豪華を誇る.丹唇皓歯半開して微笑む姿、春風桃李開花時に半開の紅蓮を連想させる.
繊繊玉手で全羅道の鎮安草に平安道の三登草を混ぜ煙管に詰めて青銅火鉢の白炭の火をつけ春風に差し出せば其の香り座敷に漂う.春風煙管を受け取り吸いながら言う.
『俺は京城で育ち青楼の美色とも結縁したがここに来て客懐が寂しい.今宵は「可憐今夜宿倡家 倡家少婦不羞賓」せよ.(今夜は可愛いお前のところで泊まりたい.恥ずかしく思わないでサービスしてくれ.)』

『遠路京城から恙無くお越しなされましたか?直ぐ向かいにお泊まりながらどうしてかように遅くお越し成されましたか.』和やかに挨拶が交わされる中に心得た物ではやくも酒饌が出る.菊花を彫り込んだ統営盤に高麗磁器の酒やかん、紅蛤・蒸し鯛・鮑・五花糖・橘餅・半月餅・蜜餅・花煎・雉・嬰鶏・カルビ・蒸し豚肉等等酒肴に各種の果物まで二人掛かりで漸く運べる大きな盤面に所狭しと並べられている.酒壜も数々.碧海の亀壜・家鴨壜・花鳥壜・日月壜.酒類もさまざま.李太白の葡萄酒・陶淵明の菊花酒・安期生の過夏酒・百日酒・焼酎・黄酒・一年酒・桂当酒・甘紅露・蓮葉酒と揃えている.繊繊玉手にて鸚鵡杯にチョロチョロと酒を注ぎ両手で春風に差し出す.李春風はすっかり大名気取りで.
『平壤は小江南と聞いている.勧酒歌を聞かせてくれ.』秋月丹唇を半開して歌う.
"杯を取り この酒飲めよ 人生百年 憂楽も半ば 酔えば幸せ."
"この酒、酒にあらず、漢武帝の承露盤で受けた命の朝露、甘辛問わず飲むのよ、草露の人生、一度逝けば更に術なし、生きてるときに飲みましょう、飲んで楽しむときこそ幸せ."
春風一気に飲み干し興は高まる.
『秋月、春風、因縁を結びて一つに楽しむとするか.』
秋月答えて.
『李白桃紅柳克桙ノ春風もよろしく、露白風清黄菊時に秋月も明るし.秋月春風共に親しみまするか.』
春風が秋月にて次韻して曰く.
『峨眉山半輪月 到記迎門良秋月、北堂夜夜人事月、洞庭月、關山月、黄山陵明月、呉州に如見月、2月3日のみなり.月白風清如此良夜に吾は春風、なれは秋月、我等二人配匹を結び天地が変わろうとも風月は変わるまじ.』
秋月答えて
『旦那は月の字を韻にされましたから私は風の字を韻にして見ます.』
『淮水山に西北風、洛陽城に見秋風、万国兵前草木風、巫峡長酔万里風、楊柳垂糸萬江風、吹笛江山楽園風、三月花信風、冬至晦月雪寒風、皆捨てて秋月春風配匹結び大同江が乾くまで秋月は変らじ.嬉しい哉清風明月夜深更に両人の心両人が知る.花柳蜂蝶良き因縁何故遅まきに逢いたるや.』

春風は大いに喜び商売も何の其の2千五百両秋月と遊ぶのに使い始めた.
宿を引き上げ秋月の家に入り浸り長酔不醒享楽に耽った.秋月は春風の金を巻き上げるべく愛嬌を滴らせて言う.
『ねえ旦那、統漢緞双文織、トリ佛手綾羅緞緑のチョコリ生地を買って頂戴.銀竹節の金鳳釵、玉翡翠の飾り買って頂戴.東莱飯台・安城鍮器・九畳重箱・青銅火鉢買って頂戴.白銅口、銀口、金口、福寿口煙管買って頂戴.烏賊、鮑、肉蒲、酒の肴に買って頂戴.延安・白川の美味しいお米買って頂戴.東莱、蔚山の和布昆布買って頂戴.』 買いたい物も多い.
鼻の下の長い春風のこと何でも言いなり次第、良いよ買え買えだ.金箱から掴んでは出し、掴んでは出す.流れる河の水でも有るまいし数千両の大金も限りが有る物、一年足らずで空っぽになった.春風のお金が切れたのを知った秋月は態度がコロット変わり当たりが冷たくなった.無邪気なお人好しの春風は自分がこの家の主人にでもなった気分で未だのんきな物である.

秋月は一文なしの春風が座敷を占領して居候を決め込んでいるのが堪らなくて当たり散らした.
『あんたお金を持って来るか、出来なきゃさっさと出て行ってよ.商売の邪魔だからね.』
旦那さんがあんたに変わった.食事も一汁一菜の使用人並みだ.銅鏡、灰皿投げつけて犬のように苛め出した.
『此れ路賃に上げるから何処えでも出て行きな.』と一文銭を投げる.
春風は秋月が何時までも相思の愛人として自分に奉仕してくれるものと思っていたからおめでたいものである.彼は抗議した.
『我等が初めて逢った時、鴛鴦襟寝並び寝て相離を願わずと誓い大同江が乾くまで離れぬとの固い契りは嘘か真か.出て行けとは何事だ.』
秋月顔色変えて.
『あんたは馬鹿かね.ここは青楼で私は技生よ.路柳墻花は人皆可折と言う言葉も知らないの?平壤技生秋月を甘く見ないでよ.あんたが持ってきたお金はあんたが皆使ったのよ.商売の邪魔だから早く出て行ってよ』と背中を押す.

李春風は秋月に追い出されて自分の行動を悔いた.2500両がいくら大金でも何時かは切れる事も知っていた.数万の家産も蕩尽した春風ではないか.ただ秋月一人に注ぎ込んだのだから金が切れても知らぬとは言えまい、形だけでも夫として待遇してくれたら満足するつもりだった.然し春風は花柳界の生理、特に秋月の気質を知らなかった.己の欲求に囚われ甘すぎたのである.だから秋月のみを恨むわけにも行かないし言い分も無いのだ.初めから商売に自信が有った訳でもない.只女房の目の届かない所で思う存分遊びたかった.心行くまで豪勢な遊蕩をした.其の点では目的を達成した事になる.然し来るべき時が来たのである.是からどうすれば良いのだ.彼は途方に呉れた.庭の片隅に頭をうなたれて考え込む.何処え行くと言うのだ、行く所が無い.女房を叩きのめして500両の金までかっぱらって来た手前乞食に成り果てて帰る訳には行かない.それよりも戸曹の金2000両はどうする?禁府の獄に繋がり拷問死にするのは必定である.身の毛のよだつ事だソウルには死んでも行けない.他の地方に行くにも懐にびた一文も無しには叶わぬ相談.大同江に身を投げる?そんな勇気も無い.憧れた都平壌の街をさまよい戸々に乞食をするにも老少の人民、子供、婦女子、官卒、犬にまで軽蔑され罵られ石を投げられ、それも出来ない.妙案が無い.思い余って秋月の前に行き跪いて哀願した.
『秋月や.俺の一言聞いてくれ.我が朝鮮は人情の国だよ.あまり薄情にするなよ.行き場が無いのだ.助けてくれ.ここに居て水汲みでも何でもするから奉公人にでも使ってくれ.』
『お前、奉公人になりたかったら其の言葉使いからかえなさいっ.ご主人に対して何て言い方なの.』
今度はあんたからお前に変わった.良くも豹変できるものである.溺れる者は藁おも掴む、長いものには巻かれろとも言う.春風の口から
『はいお嬢様、心得ました.』と言う卑屈な言葉が自ずから飛び出した.

この日から春風は秋月の家僕になった.正に生不如死'生きて死に如かず'である.かつて絹であった着物は汚れっぱなし破れっぱなしてぼろぼろになり、食べる物とは欠けた茶碗に焦げ飯に味噌が全部である.箸も無しに台所の隅や天気が良ければ庭に蹲って食べる.犬より悪い.
伊達者達は昼夜を問わず青山に雲が群がる如く、水陸斎に僧侶が集まる如く、開城府に商人が集まる如く、秋月の家に来て良酒佳肴に飲めや食えや、歌い踊り縺れ合って乱痴気騒ぎを繰り返す.春風庭先にて其のざまを覗けば目は豊年口は凶年心は残念.思わず目を閉じて歌を口ずさむ."世間事可笑なり.吾も京城の粋男で伊達友酔談し、青楼美色歌舞の中数万金を浪費し又この辺地に来たりて主を妾室にし離れざると思いしに吾の姿斯くの如し.世間事可笑なり."
この時は厳冬にて日落西山せば風涼涼、月色は明るい.
"鳴き行く雁よ、吾の声聞いて吾が郷に伝えてくれ.吾が妻子恋し、吾想い死したか生きたか吾思うにつれ大丈夫の一寸肝臓溶け失せる春雪の如し.数多の情念皆捨てて懐かしの歌詞を歌わん."梅花打令のひとくさり
『梅よ、春又巡り来る.花咲く頃なれど春雪粉粉、咲くや咲かずや.世間事可笑なり.』
この時秋月の部屋で飲んでいた客が歌声を聞き訝しげに聞いた.
秋月答えて曰く.
『私の家で使い走りの奴がソウルの李春風という者ですがそ奴がする事気に掛けないで下さい.』
『ソウルの者か可哀想じゃな』
盃洗に酒をなみなみ注ぎ下げてやった.春風は久しぶりの酒に'渇之又渇'渇渇と飲んだ.

一方春風の妻金氏は春風が発ってから百々の思い、昼夜に溜め息、"遠き道程大きな商い無事に事遂げて帰りますよう"祈っているが春風は帰らず風の便りに聞こえるには'ソウルに住む李春風とか言う男が平壤に行って技生秋月に現を抜かし豪勢に遊んだ末数千の金を悉く絞られ終には秋月に虐められながら召し使いになっている.'との話し.金氏は胸をむしり慟哭した.
『哀号々々口惜しい哉、悲しい哉.吾が連れ合いの家長、如何に斯くも遊蕩なる哉、青楼美色に一度の廃家にも心を入れ替えず千里他郷に莫重国銭を高利で借りて又々遊蕩に散財したのか. 嗚呼この難儀をどうしたら良いのか.誰を頼りに生きていくのか.前世の罪なのか女に生まれ夫に恵まれず生涯苦界の苦しみを受けるのか.是が吾が運命なのか.どうする?.方法も無いのでわないか?. 湘南山森の中に強靭な絹帯大木の枝に掛け首吊りて死んでしまいたい.閻魔国十前大王餓鬼使者遣わして吾が命収めて下さい.』
又、歯軋りをして.
『平壤に行って秋月の家に押しかけ秋月の髪の毛を掴み春風を捉えて彼の腰紐で首を括り死んでしまおうか.』
口惜しさ込み上げてひとしきり泣いたが又思いなおし.
『そうする訳にも行かない.是からどうしよう、吾が家長助け出さねばならぬが成す術が無いではないか.少年に廢家し、わが身を省みず昼夜仕事に励みて家計を立て直し衣食が足るようになって吾が夫婦平穏に暮らすかと思ったのに、恨めし口惜し平壤商い恨めし.』 思い悩んで居た.

隣に參判宅がある.大旦那は亡くなり長男が後を継いているがこの人が才能に長け少年及第し要職を多く経て參判になっているが平壤監司の物望に上っているとの噂が立っていた.
身分の格差がある為付き合いは無いが隣同士で針仕事の得意先でもあるので女同士は顔見知りの仲である.參判宅には參判の母親の老婦人が居られた.參判は清廉潔白な人で高官でありながら家は貧しい.従って老婦人の食べ物も粗末である.金氏は老婦人に栄養のあるご馳走を作って上げていた.老婦人は金氏の親切に喜び何時も感謝していた.金氏は"このお宅の権勢を借りて春風を助けだし秋月を懲らしめる他は無いだろうか."と考え老婦人に朝夕ご馳走を上げ続けた.
『あり難や、このご恩どうしましょう.』と老婦人は感激する.
『あなたは針仕事で漸く暮らしていると聞いてますのに美味しく頂いてはいますけど済みませんね.』
『いいえ私には食べ物がありますし私独りですので何時も余ります.余り物を差し上げて恐縮で御座います.』としおらしくかわいい.或る日參判殿老婦人の部屋に来て
『母上この頃何か良い事が御座いまするか.和気満顔に居られます.』
『はいお隣の春風の妻が毎日ご馳走を運んできて元気になりました.』
參判殿が春風の妻を招き禮を言う.春風の妻益々老婦人に誠を尽くした.其のうち參判殿が平安道観察使を拝命した.平安道観察使(略称、監司)は平安道の地方長官だ.平安道は経済的、軍事的に最も重要な地方である.平安道と全羅道は産物が多く所謂ドル箱でもある.任期はわりあい短いが次は大臣の席が待っている誰もが憧れる地位だ.春風の妻は老婦人にお祝いを述べた.
『この度は殿が陛下に平安監司の大役を仰せつかりおめでとうございます.』
『私も平壤に行きます.お前も付いて行って春風にも逢い、見物もしたらどうじゃな.』
『私メも嬉しいですがそれより兄が居ますがそれに稗将をさせて頂きたくお願い致します.』
『お前の頼みなら断れないわね.』老婦人は殿に話し承諾を得た.稗将は司令官である監司の幕僚で指揮権を持ち役目によって数人が居る.春風の妻が頂いたのは'会計稗将'である.
ちなみに監司は行政、司法、軍権を握っている所から監司の事務庁を'監営'と称する.

春風の妻は縫い物が専門だから稗将の服装はお手の物である.着ていた着物を脱ぎ捨て、髪は男のちょん髷に結わい網巾、玳瑁貫子きりりと締め濟州宕巾、稗将帽から始まり足のつま先まで稗将の服装に身を固めた.誰が見ても女とは思えない凛とした美男児である.日の落ちるのを待って夕食の膳を老婦人の離れに持っていった.床にひれ伏し
『春風の妻ご機嫌伺い申し上げます.』老婦人驚き.
『春風の妻が男装は何事じゃ.』
『小女、夫が放蕩致し青楼の浮気に家産を蕩尽し又戸曹の金2千両を高利で借りて平壤商いに参り秋月に現を抜かし遊蕩に耽りまして有金を全部使い果たし終には秋月の召し使いに落ちたとの噂に小女痛恨に悶えて居ましたが幸い殿のご恩を蒙り稗将としてお供を申して秋月を懲らしめ戸曹の金も回収し、夫を救い出して百年偕老しますれば是皆大奥様と殿様のご恩に御座ります.』老婦人聞き終わり愉快に笑われ、
『お前の心がけ殊勝なる哉.望み通りにさせて上げます.』この時監司離れに来て是を見て、
『何者が大奥まで参ったか無礼者.誰か居ないか、こ奴を縛れ.』と怒鳴った.老婦人は慌てて笑いながら春風の妻の稗将になる経緯を話し老婦人からも殿に金氏の事を頼んだ.
監司は全てを了解し笑いながら春風の妻を褒め励ましてやり家中の者に厳重に口止めをした.

いよいよ平安道監司赴任の行列の出立である.会計稗将は監司のみ知り他に知る者が居ない.
「会計稗将なる男、何処から来たのか男前は良いが髭が無いのう.」とひそひそと話す.
行列は器具も華やかだし威儀も厳粛だ.白馬に双轎・独轎・四人轎.左右に護衛の将卒並び威勢良く行進する.先陪稗将・後陪稗将・冊房を従え虎皮の敷布に高々と腰を下ろし.吏房・戸房・禮房・首陪・引陪・通引・官奴・駅馬夫、各庁の房子・軍奴・羅将等が左右に並び従う行列の物々しさ.
弘濟院を経て舊把撥を過ぎ砥石峠を越え坡州邑に宿を取り、臨津江に到り前後蒼屏見渡せば絶景である.壬戌之秋七月既望蘇子瞻遊んだ赤壁江山、水閑境等見物し東坡駅を過ぎて長湍邑で昼食を取り翠石橋を渡り小坡で一泊、青石谷を通って左右の山川を観賞しながら進み金川邑で昼食、上峠を越えれば平山の地である.前峠を越えて太白山城を望見し、南昌駅で馬の手入れもさせ葱秀館に泊まる.鴻州院にいたり屏風岩壁を通りぬけ九月山にいたれば山勢は峨峨となる.鳳山邑で昼食、洞仙嶺を越えて前方の山城を眺めれば林は繁り飛禽忙しく行き交う景色に自ずから心も安らぐ.吹打の楽で迎える黄州兵営に入り宿し、翌日は中和邑に泊まり兄弟橋を渡れば営本府である.大小官僚行列の前に現れ新任歓迎の挨拶を述べる.訓練都監の指揮下閲兵が始まる.左青龍、右白虎、東西南北青紅黒白の軍旗も華やか、儀仗隊、軍楽隊、騎兵隊、歩兵隊、相続いて行進する.禄衣紅裳に着飾った娘子群左右に並び前陪、後陪の稗将は馬に跨り行列を導く.長林を過ぎれば大同江辺に到る.禄水青波滔滔と流れる河を赤壁の戦いでの連環計もさながらに船を繋いだ浮橋で渡る.大同門に入れば前後左右に見物人が山を成す.営門に入って行列を解散した.監司が執務室である宣化堂に座すれば礼砲三発を放ち観察使就任を知らせる.

百余名の官技が室内に入り監司に初のお目通りの式を行う.監司は『稗将、冊房皆集まれ.』と呼んで一緒に技生達を見た.道の監営、郡の東軒には官技が有る.官技は官に所属する技生で宴会と寝室の奉仕が役目である.自宅を離れて赴任している者にも女に不自由は無いわけだ.
或る日監司は会計稗将に冗談でからかう.
『外地から参った稗将、冊房まで女を抱いて寝るがお前は平嬢の如き色郷で独守空房する由だが真か.何故じゃ?』
『小人は4,5年も独身で暮らすのが習慣になりまして色には関心が御座いません.』とお答え申した.
会計稗将の隠れた心の悩み監司以外に誰が知ろう.元々しっかり者の春風の妻は会計稗将の役目にも抜かり無く税収を確保し浪費を防止して数朔を過ぎないうちに道の財源を数万両おも増やし監司の信任も篤かった.

春風の妻は秋月と春風の現状を密かに探知し監司の内諾を得て、現場の確認方秋月の技房を一人で訪問した.中門を入れば水桶を背負って行く男が見えたが其の姿も哀れ哉、着物はぼろぼろ、蓬頭乱髪、顔とて洗わぬか汚いこと形容もし難し.稗将は己の夫なるを直ちに見分けたが春風は妻が目の前にあるを知る由もない.春風の妻悲しく口惜しい気持ちを押さえ秋月の部屋に入れば奸智に長けた秋月は権勢も物々しい新任稗将を誑しこもうと色目を使い愛嬌をふりまいて格別に山海の珍味をしつらえた酒肴の膳を出してもてなした.稗将は暫く食べるふりをした後召し使いに下げてやり.
『哀れじゃな.お前は元より乞食か?』 春風地べたにひれ伏し
『小人は京城の者ですがここえ参りました事情は申し上げる事も御座いません.旦那様のお膳を賎しい私奴にお下げてくだされ有り難う御座います.』
稗将はそのまま帰った.

数日後捕卒を遣わし春風を捕らえて来た.刑具に縛り会計稗将の秋霜の如き審問が始まった.
『お前が李春風か?』
『左様で御座います.』
『お前は大事な戸曹の国庫金数千両を借りだし4,5年に至るまで一文も返さずに居るから捕まえて処罰して呉れとの公文が至っている.お前は其の金を全部どうにしたのか?.罪人が正直に白状するまで容赦無く打て.』
命令一下、刑吏が刑杖にて打ち始めた.金持ちの一人息子に生まれ未だに荒仕事を知らない春風が耐えられる物ではない.悲鳴を上げ続けていたが杖20にして下半身血みどろになり気絶した.冷水をぶっ掛け蘇らし会計稗将峻烈に問う.
『春風とやら.お前其の金を如何にしたのか有りの侭に申せ.』
『戸曹の金を持って平壤に来て一年間秋月と遊んでいる間に一文も残らなくなりました.他に使ったところは御座いません.』
会計稗将是を聞いて大いに怒り捕卒に命じて直ちに秋月を逮捕して刑具に縛り頑丈な刑吏を選び.
『容赦無く打て.』と先ず10杖をお見舞いした.
秋月は側に春風が拷問を受けたのを見て李春風の件だと直感していた.
『秋月、速やかに白状しろ.お前自身の罪を知るであろう.』
秋月もしたたか者、春風を睨み.
『李春風の金とは小人拘わりが御座いません.』としらを切る.
稗将大いに怒り.
『知らぬ存ぜぬで通ると思うかたわけ者.戸曹の金を一文残らず巻き上げて居ながら何をぬかす.お前如き妖婦は叩き殺して遣わす.此奴を死ぬまで打て.』
50杖までは意地で耐えたが、さすがの秋月も是以上はこらえ切れぬ.打殺されそうである.死にたくない.命あっての物種だ.
『助けて下さい.国銭が至重であり、官命又厳しいので李春風の金を全部お返し致します.』
『戸曹からの通牒でお前を打ち殺そうとしたが、お前が罪を悔い金を返すと言うから生かしておくが戸曹の金は子母之例により5000両を返せ.』
『はい.10日間余裕を下さい.5000両をお返しします.』と申した.
その場で覚え書きを取り春風・秋月の戒めを解き、春風に.
『10日以内に秋月から5千両を回収して京城まで持って俺の家に参れ.秋月は5千両を春風に渡せ.若し間違いが起きたら監営で許さないぞ.俺は急用が出来て先に京城に行く.粗相無く致せ.解かったか?.』と念を押した.
春風は
『稗将殿のおかげて戸曹の金を全部回収できるようになりご恩は実に'白骨難忘'で御座います.京に上りお宅に真っ先にお伺い致します.』秋月も
『稗将殿、お約束は必ず守ります.』
それで二人は釈放された.春風の妻は監司にお目にかかり、事件処理の顛末を報告した後.
『秋月も懲らしめましたし春風も取り返し、戸曹の金も回収出来る様になりました.ご恩は感謝に耐えません.小人女子の身にて長居しますのは宜しくないと存じますのでこの際職を辞し帰宅したいと存じます.お許し下さいませ.』
殿も了解し許した.春風の妻は老婦人にも帰京の挨拶を申し述べ翌日会計稗将最後の締めくくりとして国に奉納する金5万両を手形に変えて京城に送った後平壤を発ち帰宅して春風の帰るのを待った.
監司は部下を秋月に遣わし督促して5千両を取りたて春風にやり家に帰らせた.春風は地獄から娑婆に戻ったようなものである.春風は衣冠をただし5千両の大金を馬に積み自分は銀鞍駿馬に高々と跨り晴れて帰宅した.

春風の妻は急いで玄関に駆けつけて
『貴方お帰りなさい.どうしてそんなに遅れたの.ご苦労様でした.さあさあおはいりになって.』と喜んではしゃぐ.春風は
『うんお前も無事だったか.』と鷹揚に答える.
春風は千両箱を下ろしながらさも商いで儲けた如く鼻高々である.春風の妻は急いでかねて用意した酒肴の膳を出して、
『お疲れ様です.さあ一献お受けになって.』
と愛嬌たっぶりに酒を注ぐ.春風は調子に乗って家内を貶しつける.
『相変わらず不味いなぁ、こんな物食べられるか、平壤では毎日良酒佳肴で山海の珍味に口が慣れて、平壤に戻りたい.』
箸を放り投げ食べかけた肉も吐き出してしまいながら、
『平壤美人秋月と毎日ご馳走を食べ豪華に暮らして居たが家に帰るとあじけない.早々に戸曹の金を返し幾らか持って平壤に行き妾と楽しく暮らすのだ.』
家の家内は何も知らないと思い横柄に振る舞う態は見られるものではなかった.春風の妻はもう一度懲らしめてやろうと思い膳をかたつけて家を出た.日が暮れた後春風の妻は稗将の姿で春風の家に現れた.烏銅壽福花竿竹の長煙管を咥え春風の家に入り.
『李春風居るか』と大声を上げて呼んだ.春風が玄関に出てみると平壤で秋月からお金を回収してくれた其の姿も厳めしい稗将殿である.吃驚驚天素足で庭に飛び降り地べたえひれ伏した.
『小人本日帰りまして日が暮れましたので明日お伺いするつもりでいましたが稗将殿が先に御越しなされ恐縮に御座ります.』
『いや、通り掛かりだったのでな.』
つかつかと部屋に入ってしまう.全く遠慮無しだ.
『お前も入って来い、部屋で話そう.』
『稗将殿が居られるのに私奴がどうして入れましょう.』
『文句言わないで入って来い.』
やむなく春風は恐る恐る膝歩きでへやに入りひれ伏した.
『秋月から金は貰ってきたのか?』
『へい、稗将殿のお蔭様で受け取りました.稗将殿のご恩は山の如しで御座います.』
『其の時の杖刑はどうだったか、痛かったか?』
『小人にその杖刑は薬に御座います.どうして痛いなどと申し上げられましょうや.』
『お前の家に酒は有るのか?』
春風が慌てて台所に行き急いで酒と魚を用意して来た.
『お前の女房は何処え隠して俺に顔を出さないのか.速く呼んで酌をさせろ.』
春風が慌てふためいて妻を捜すが見つかる訳が無い.仕方なく自分が酌をした.稗将は二口三口飲んだ後、
『お前が平壤で秋月の召し使いをした時、其のざまは惨めだったなぁ.乞食のうちでも最低だったぞ.蓬頭乱髪、着物はぼろぼろ、擦り切れ足袋.どうか?懐かしいか?』
春風は恥ずかしさに身の置き所を知らず、若しや妻が聞き耳を立てているかはらはらものだが稗将の言葉を遮るわけには行かない.居ても立ってもいられずもじもじしている.

『南山麓の朴承旨宅で大酔した帰りにお前の家に寄ったが腹も減ったし喉が乾いて仕様が無い.お前、蔦粉粥でも作って参れ.』
春風は妻を探しても見当たらず何をどうしたら良いのか解からないので愚図愚図していると稗将の叱声が飛んでくる.
『お前の女房は何処え隠したか速く呼んで来い.』春風はうろたえるばかり.
『お前は粥も作れないのか.お前平壤での事を考えてみろ.家に帰ったからといってそう大層に構えて良いのか.』
春風は稗将に怒られながらなんとか蔦粉粥を作って稗将に差し上げた.
稗将は少し食べるふりをした後
『お前食え、お前秋月の家で欠け茶碗に焦げ飯と味噌だけの食事をしかも箸も無しに指で掴んでして居た事を考えて食べろ.』
稗将は遠慮無しに大きな声で話す.春風は粥をすすりながらも妻が何処かで聞いて居るようで気が気でない.

『夜も深けたから今日はお前の家で寝て行くぞ.』と言ったかと思うと立って稗将帽と網巾を外した.春風は恐ろしい稗将殿に気圧され帰って呉とも言えずもじもじしているばかり.今夜は久しぶりに妻を抱けると思ったに稗将殿が泊まると言うのだから参ってしまった.稗将は稗将の官服を脱ぎ春風が見ている目の前で何の遠慮も無く裸の身をさらす.完全に女である.驚きに春風の目は皿の様に見開かれた.良く見ると紛れも無い吾が妻である.春風は呆れ帰り阿呆の如く頭の中がまっ白くなって床に尻をついて目を白黒させている.春風の妻は肩を掴み、
『是でも私を知らないの?』
春風は其の時確然と悟った.妻が自分を助ける為のはかりごとだったと.
『平壤官営の会計稗将がわが妻だったとは想像だに出来ぬこと.これが夢か現か、おお神様』
春風は感極まって前非を悔い新しく生まれ変わる事を誓い妻に謝罪した.春風の放蕩癖により破滅の憂き目に遭っていたが妻の働きで救われたのである.その夜二人は旧情を蘇らし深く愛し合った.妻の肩をなでながら春風が言う.

『どうして稗将になって平壤に行けたの?.又幾ら俺が悪かったとしても家長を刑台に縛り付け叩いてもあれほどひどく叩くとは、それを見てお前は愉快だったのか?』妻答えて曰く.
『貴方は自分から進んで一分銭、一斗粟なりとも手を付けないと覚え書きして置きながら気でも狂ったのか戸曹の金を数千両も高利で借りだし止める私を殴る蹴る半殺しにして家の金まで根こそぎ持ち出し家計を台無しにした事は忘れましたか?一文二文稼ぐ金で參判宅の老婦人に朝晩ご馳走を作って差し上げ殿のお許しを得て稗将になり平壤に行きました.口惜しさに半分殺して足の骨を折り片輪にしたかったけどかわいそうでそれ位にしたのです.4・5年も独りで苦労した事を思えば、あの時の苔刑は痛快だったわ.』
二人は過去を水に流しひとしきり笑った.
戸曹の金を全部返済し春風は心を入れ替え酒色雑技など一切止め真面目に働いて家産も漸次ゆとりが出来子供も生まれた.監司が任期を終え家に帰った後は隔たり無く往来し春風一家は生涯信義を守って仕えたと言う.

おわり