愛娘(アイラン)と裴稗将(ベビジャン)
作者 : 未詳
時代 : 李朝中葉
人生おしなべて平等な筈だ.然し実際には優劣の差がある.男は賢人、君子も居るしおろかで卑劣な者も居る.女は淑やかな婦人も居るし淫らで奸悪な人も居るのはいつの世でも変わりが無い.実に測り難いのが人間の性格、個性等の'人となり'である.
人の性質というものはその居住する地方の山川風気に寄るところが多いという.山河が緩やかで綺麗なところの人は性質がおとなしくて悪い気が無く、山川が険しい地方では荒くてずるい者が多いと伝えられる.湖南左道(全羅道)濟州郡漢拏山は昔、耽羅国の主山で南方島の中でも第一の名山である.険峻且つ秀麗な精気が凝り固まって技生愛娘(アイラン)が生まれたようである.
愛娘(アイラン)が賎しい技生に生まれはしたものの顔立ちは西施・楊貴妃を越え、知恵は男では陳平・張良の下でないし、奸猾さは九尾の狐が還生したのか好色の男が網に掛かれば蜘蛛の巣に掛かった虫のように性根まで吸い取られ残骸だけ残り、捨てられると言う.
漢陽に金卿という両班が居た.文才非凡して15歳にして生員・進士、弱冠にして壮元
及第し翰林学士を始として注書・吏曹・玉堂・承旨・堂上を経て、大臣の推薦によって濟州牧使に任命された.
金卿は任地に出発を前に吏・戸・禮・工・兵・刑の六房を選抜する時、西江に住む裴(ベ)先達を呼び禮房を申し付けた.裴(ベ)は喜んで拝受し家に帰り母に申し上げた.
『小子が八道の景色の良い所は遍く見ましたのに濟州島は海の中ですので行けませんでしたがこの度贔屓にして下さる旦那が濟州島牧使になり私が稗将にお供する事になりましたから行って参ります.』
『濟州島と言う所は水路千里、陸路千里の遠い道程、その間私が死んだら臨終も出来ない筈じゃないの、行かないでくれ.』
『お上の仕事です.行かないわけには参りません.』側に居た家内は.
『濟州島は海の中の島とは言え色郷だとの評判です.万一そこで酒色に嵌まり帰れなくなったら父母にも不孝だし私は口惜しくてどうします?』
『それは心配するな.
二八佳人体似酥 (芳齢の美女の肌は白く柔らかい)
腰間長剣斬愚夫 (股間の長剣(女の性器)で色男(男の性器)を斬らんとする.)
雖然不見人頭落 (されども男のそれの頭が切り落とされるのを見たことは無い.)
暗裡招君骨髄求 (只暗い所で君を招き骨髄(男の精気)を欲しがるのみ.)
と言う言葉もあるが俺は堅いから女はおろか小姓相手の鶏姦もしないよ.』
と、壮語をして出発した.
伝令牌を腰に吊り瀛州に向かう、ときしも芳春花節だ李花・桃花・杏花・芳草・楊柳青々・禄水蒼蒼・満山開花の景色を眺めながら珊瑚金鞭勧馬声も賑やかに行雲の如く走り沿路要所での昼食、宿泊も特徴があって面白い、海南の關頭につけば新延の使いが待ちうけている.牧使殿船頭を呼び寄せて聞いた.
『ここから船を出せば濟州島までどれくらいの時間が掛かるのかね』
『へい、天気が良く西風がそよそよ吹けば双帆を上げ、帆綱で震え声がし、舳先で水が分かれる音が、秋にバカジを煮る如くチュバチュバ音がしたら、一日に千里も行きますし半ばくらい行った所で倭風に遭い漂えばイギリスに行くことにもなりますし、まかり間違えば海水も飲み魚の餌食になることも有ります.』
『濟州に当日着けたら重賞を与える.抜かり無く致せ.』
牧使殿の言い付けに風を図ってから.
『おり良く天気も清明し西風がそよ吹きますから殿様は登船して下さい.』
殿大いに喜び部下を督励し乗船する.新しく建造した船の船室に幔幕を張り山水屏、牡丹屏を幾重にも巡らし座布団、脇息、書案、文具、タバコ盆、灰皿等抜かり無く配置し牧使殿乗船すれば通引は左右に並び立ち稗将等は座っている.その他の者は幕外に陣取る.乗船が終われば船頭は無事航海の祈りを上げ砲声一発出航の合図を知らせる.
"大海茫々千里波" 千里の波路に船を出せ.
"早潮退走晩潮来" 朝に潮引き夕に潮来る.
"倚船漁夫一肩高" 船夫は力強く櫂を漕げ.
"浩浩滄浪蘆花月" 広い海に船を出せ.
船頭は舵を取り役軍は帆を操り船は海を滑るように静かに走る.
殿は一安心して酒を出させ稗将共と飲み始めた.
『生死を共にした船の中じゃ無礼講で飲め.』
皆は酒を飲み始め不安を追い払う.殿は上機嫌で詩を詠ずる.
『"青天倒水中 漁遊白雲間" 水に空が映りて魚は雲間に遊ぶなり.如何じゃ?この
詩.』 稗将等そろって
『結構に御座ります』と褒める.
船は順風の時はどの乗り物よりも楽な物だ.牧使殿調子に乗って
『濟州の船路は怖いと言っていたが臆病者の怖じ気だったのか.おい船頭海には尻尾の大きい魚が居ると聞いたが本当か?』
『小さな湖水にも守り神が居ると言います.広い海を渡りながら酔談はおよしくださ
い.』先頭は鋭く釘をさした.
船が和布島を過ぎ楸子島を後に進めば"洞庭西望江分 水盡南天不見雲"渺渺たる大海の中で澄み切っていた空が俄かにかきくもり一陣の飆風が吹きすさび帆は破れよとばかりにはためき、空は真っ暗、静かで平だった水面は波が立ち海水が船側を叩きつけ甲板を流す.風は船室の屋根を吹き飛ばし太い帆柱をへし折ってしまう.へさきが水に浸かるかと思うとともが沈み船室の人達は其処に置かれた品物と一緒に前後左右に転がる.牧使殿は船頭を呼ぶのみ、船頭は嵐もさることながら偉い人の怒りを恐れ、がくがくと膝を震わせて『へい、へい』と言うしかない.船内はにわかに緊張と恐怖に包まれ一行の顔色があおざめた.
『こら.やんばん(両班)は海に慣れないから震えるがお前は船頭の癖に何故震えるの
か?』
『小人は15の時から飯炊きに船に乗り黒山島、大馬島、七山、延平と海を股に駆けま
したがこんな嵐は初めてございます.地府王が叔父、降臨使者が義父、四海竜王が外叔父でも生きるのは難しいみたいです.』
船頭の様子では海中の藻屑になり兼ねない.稗将達も嘆き出した.
『我が家の鶴髪両親千里島中俺を発たせ息子の無事帰還のみを思い、紅顔妻子我妻、君思い寝付けず涙と溜め息で待ち焦がれているのに俺はここで死ぬのか.こんな厄運もあるものか.』
『俺は歳40だが子供も産んでいない.これで家系は断絶、先塋の香火も絶やす事になるのか.』
『俺は貧乏で濟州が涼太(カッ.ヤンバンの網冠)の産地だから涼太一梱り持って帰り
家用のたしにもし、女房の下着でも買ってやろうと付いて来たのに悲しいかな、魚の餌食になるのか.』
『俺は暮らしに不自由が無いから家に居れば良いものを役人の経歴を作る為に来たのに馬鹿な籤を引いたもんだ.』などと其々が絶望に嘆き牧使を恨む.
牧使その様子を見て居たが何か思い当たった如く船頭を呼び申しつけた.
『竜王が供養が欲しいみたいだ.祭祈を丁寧に上げてみろ.』
船頭直ちに艫〔トモ〕の甲板に拝席を設け青神、紅神の旗を左右に立て、白米一俵に牧使の上着を貰いかぶせ、豚肉一頭丸ごと供え、二度大拝し、米俵、豚肉、酒一樽、海中に投げ入れ、大太鼓を帆柱に高く結び付け船頭は太鼓桴を両手に分け持ってドドンドンドン打ちながら祈りの言葉を大声て叫んだ.
『天地乾坤、日月星辰、皇天后土、神霊禄星君、感動なされ漢陽城内北部松峠居、金氏乾命濟州新官牧使をお助けあれ.ドドンドンドン.東海広利、西海広徳、南海広燕、北海広宅、水上の竜女婦人、水下の河水竜王、參軍令監降臨され瀛州の海路に順風を賜われ.ドドンドンドン.』
祈願祭祀が終わって牧使自嘆して
『生は寄、死は帰なり.夏禺氏の仰天嘆は吾に当てはまるのか.』と呟く.
やがて風が収まり月は明るく輝き海水も穏やかに静まった.
舟はすべるが如く濟州島についた.
"月中天涯独去舟" 月も明るい夜、独り舟を漕ぐ.
"水波潺潺不興" 波静かにておこらず.
"言居水勝居山" 水に住むを山に住むより良しと誇る.
"三公不換此江山" 此の江山、三公の地位とも換えたく無し.
此の気持ちここに来て見て解かる気がする.
一同ホットして眺めれば地勢も良いが景色が更に良い.陸に上がり大地を踏めば生き帰った感動が湧いてくる.行列を作り濟州牧の役所禾北鎮に入った.
濟州十八景の内、望月楼が第一景である.
望月楼を眺めれば或る若者、青春男女が手を取り合って恋々離別落涙の愁嘆場であった.それは離任する舊官牧使信任の鄭稗将と守庁技生愛娘(アイラン)の別れの場面であった.(ちなみに守庁技生とは夜の奉仕役'現地妻'の技生を言う.)
『達者で暮らせ.俺は京城に生まれて濟州が景色が良いと聞いてここに来てお前と芳春佳縁を結び暮らす間、お前の妖艶な姿態と清雅な歌声に故郷も忘れていたのに別れるのは辛い、清江告の鴛鴦が連れを失う形だ.高い山深い谷間、人気の無い所で二人だけ寄り添っていたのが別れるのと同じだ.嗚呼別れ、別れが斯くも辛いものか.離れの字を作った者、吾の仇だ.垓城秋月深夜中に虞美人と別れる時の項羽の慷慨嘆と、馬嵬駅の黄昏時楊貴妃と別れる明王の辛さだって吾に勝りはしない.一心相思お前のみだ.達者で暮らせ.』 愛娘(アイラン)は桃花玉鬢ややしかめ長嘆する.
『旦那聞いてよ.旦那に仕えて居る内は衣食に困らず居ましたが是から誰に頼りますか.一朝離別とは、どうすれば良いの?』
鄭稗将、太っ腹な男らしさを示し愛娘(アイラン)を安心させる為に言う.
『それは心配するな.俺が居なくても当分不自由せぬよう充分に残して行く.』
倉庫係を呼んで
『お前船荷の中で今すぐここに書いた物を出して愛娘(アイラン)にやれ.』と 出庫書を渡した.
それには太涼一梱り、(涼は両班網冠の庇、高価品)中涼一梱り、細涼一梱り、宕巾1
0個、牛黄10斤、人参10斤、月子(女の長い髪の毛)30束、馬尾100斤、ノロの皮40枚、鹿皮20枚、紅貝・鮑・なまこ各100個、章魚30匹、鯖50匹、石魚100匹、大海老一盥、長和布・小和布・昆布各1梱り、柚子・柏子・石榴・枇子・青皮・陳皮・鹿茸各10斤、樺榴製化粧具・3層欄干竜鳳箪笥・二重文函・山柚子函・米櫃各6個、馬2頭、驢馬3
頭、鞍2個、白布一梱り、細布3疋、苧麻5疋、綿紬3疋、簡紙100巻、扇10個、簡筆1束、草筆1束、硯滴10個、煙管掛け10個、双福寿白銅製長煙管一組、タバコ函1個、南草10斤、生下ろし蜜1升、熱下ろし蜜1升、生栗1升、大蒜100個、生姜1升、糯1俵、黄肉10斤、胡椒1升、以上相当な物量である.鄭稗将は倉庫係にこれを今すぐ愛娘(アイラン)の母に配達して受け取りを貰って参れと指示した.
愛娘(アイラン)は涙を拭きながら
『下さった品物は千金なりとも大した物ではありません.百年を結んだ約束一場の夢とは虚しい.旦那は私を捨てて行っても白髪の父母が慰め、紅顔の妻子が喜んで迎え相愛の情、熱く滾らかすとき私のような薄命小妾思い出しもしないでしょう。
"離恨空随江水長 別離の離の字も悲しや"
"更把羅衫問後期 何時の日又逢えるやら"
"洛陽千里郎君去 恋しき君を送る辛さよ"
"空房寂々秋夜長 独り寝の夜の長さよ"
"疊疊愁多夢不成 嘆息尽きるひま無し"
離れの字悲し、別れの字又悲し、送るの字遣る瀬無く、君送り思い出す想いの字は心を焦がし、千山萬樹遥かな空の下、望みの字虚しく.独守空房、愁いの字さびしく君にあえない恋のつらさ、病の字悲しい、相思の病に薬無く死ぬだけ、魂魄の魂の字に化するか.腹中長在の恋心、忘の字も頼りなし.一去郎君、出るの字で出た君、何時の日帰るやら.ああ悲しさに耐えられない.』としゃくりあげる.
『お前の話し聞けば情の字切なし.俺の持ち物欲しければなんでもやろう.話してみよ.』
愛娘(アイラン)の奴それで無くてがも彼の皮まで引ん剥いてやるつもりで居るのに、甘くなった鄭稗将何でも呉れると言うのだからしなの樹の皮を剥くようにトコトン剥いてやろうと悲しそうに言う.
『旦那さんカッ(網冠)と羽織私にぬいて下されば旦那行った後月日の経つとき花落ちて春が過ぎ芳草夏節そしてまた秋になり庭の樹は紅く染まり葉は落ちて玉窓の外には霜が降り秋の夜は長く寂しい、独り空房で、転々また反転、このように寝られぬ時、鴛鴦の蒲団夫婦枕薄い掛け蒲団足で蹴り除け旦那の羽織を敷いて横になり裾を合わせて体を包み袖は枕にして寝たら旦那に抱かれて寝るようで幸せに寝れる筈ですの.』
鄭稗将それを聞いて新調の羊皮の羽織をぬいて愛娘(アイラン)に渡しながら.
『孟嘗君の狐白裘も秦王の愛妾幸姫にやり、須賈の一苧袍も范叔にやった恋々故情とはこの事だ.俺もこの着物お前にやるから敷いて、被せて、身に纏い俺のこと忘れるな.』
愛娘(アイラン)又
『旦那さん聞いてよ.旦那行った後で、月明霜降冷たく白帝城金風の時、洞庭湖の秋月も傾き、江村の暮に雪が降り千樹萬樹李花白雪粉粉の時、楚水呉山に道行き難く雪吹雪北寒風吹きすさぶとき、耳が凍えどうしましょう、旦那が被った豚皮の防寒帽ぬいて私に下されば耳まで深く被れば肌裂く寒風にも汗が出ると言うもの旦那様のおかげです.』鄭稗将は防寒帽あっさり抜いて渡し、
『手で毛並みを整え息で毛を立たせて被れば厳冬雪寒の寒さでもお前の耳は温かい筈、被る度に俺を忘れるなよ.』
愛娘(アイラン)又言う.
『旦那聞いてよ.私は女ではあるけれど昔の話しを聞いています."遊人は五陵に去るとも寳剱は直千金"と言います.その刀値段が高くても、それを贈呈する心はもっと尊いものです.旦那腰に吊った鉄柄刀私に呉れて行ってよ.』
『これは俺の防身宝剣だからお前に遣るわけにはいかない』
『昔の故事にも有りますよ.延陵を訪ねた季子、逝きし徐王の意を汲んで生きて上げられなかった寳剱を墓に掛けてやったその心奥ゆかしくも美しい.旦那も私に寳剱を下されば別れの情表には最高ですよ.』
『俺の言う事も聞いてみろ.丈夫の防身寳剱値も高いが若しお前にやった後俺に対する情を俺の剣で斬るかも知れない.お前の家の包丁を良く砥いて使うのが良かろう.砥ぎ賃2文俺がやる』
『私の家には包丁だけでなく胡桃殻蜜花粧刀・烏銅鉄柄犀粧刀・玳瑁粧刀皆有りますが旦那の愛刀その鉄柄刀を下されば使い道があるのです.』
『何処に使うのだ.』
『忠臣は孤臣からでて.烈女は賎妾からでるものです.烈女に習い君の為、操を守る時紅顔薄命の若き身が空房に独りぼつねんと座り行燈の明かりが照らす己の影を友に、君慕う想いに耽るとき、柴門より犬の吠え声けたたましく"風雪夜帰人"とか、酩酊した豪快男児私を狙い"月沈沈夜三更"に家に押し入り扉の締め具を足蹴にて壊し侵房すれば旦那の愛刀を抜き放ち背の高い男は腹を刺し小さい男は首を刺して身を守れば果たして鄭稗将の教えを受けただけは有ると二人を称える筈、私に剣を下さい.』
鄭稗将呵呵大笑し
『苦しい離別の暑症病に益元散一服に清心丸一個を合わせて飲んだ如く気持ちがすっきりするわい.』と、上機嫌になり腰の寳剱解いて渡しながら
『古の用剣法を聞いておけ.呉国の蜀鏤剣は忠臣子胥を斬った為無用の用剣であり、秦始皇の太阿剣は六合天地をしたから智恵竜剣であり、漢兵仙の元容剣は戦必勝、攻必取したので無双用剣で有り、鴻門宴盛り上げの時項伯・項莊対舞用剣、范増が斬った玉杯粉粉と散ったので粉粉用剣であり、荊軻の鋭い短刀、許廳琴一曲に秦王を刺し得ずして刀を捨て返って自分が斬られた、これは虚しい用剣ではないか.關雲長の青龍剣は華容道伏兵で捕らえた曹操を斬らずに放免した、これ仁義用剣ではないか.一剣曽当百万師は無敵剣であり.瑶池寳剱動星文は老将用剣稀である.おれがこの剣をお前にやる.お前これを用剣する時定州山石で砥ぎ守節空房犯す者、大胆に刺せば萬人敵には及ばなくても一人敵はするであろう.』
愛娘(アイラン)鉄柄刀受け取り側に置いて又泣いて言う.
『旦那、貴方が着ている熟袖裝衣盆袖バジ上下の衣服皆脱いで私に下さい.』
『女の着物なら貰いたいのも尤もだが男服はお前に用が無かろう』
『私の悲しい気持ちがそんなに解かっていただけませんの.旦那の上下の着物着てみたり綺麗に畳んで衣掛けにかけて座って見、立って見、寝て見、起きて見、外出から帰ってきて見、君恋し心遣る瀬無く君の思い出尽きない時、空房に寝ても寝付けず"雁尽書難寄、愁多夢不成"で居ても立っても居られない時、君は去っているけど衣掛けに旦那の着物は掛かっていれば君褥に寝てるように、しばし小用にでも出た如く、千の悲しみ、万の愁い着物を見れば春雪の如く溶けましょう.』
鄭稗将大いに感激して、着物をぬいて愛娘(アイラン)にやった.
愛娘(アイラン)着物を受け取り側に置いて又泣く.
『ねえ旦那聞いてよ.旦那と別れてつぐつぐと思い出すほど遣る瀬無き悲しさをどうす
れば良いの.何を持って慰めましょうか.旦那が着ている上下の下着一切、褌まで抜いて私に下されば綺麗に畳んでおいて、旦那の想い切なく寝付かれぬ夜出して肌に抱き匂いを嗅げば旦那の匂い、汗の香り吸いこめば旦那と肌を合わせている如くなり悲しみも忘れるでしょう.』 と可愛い事を言う.
鄭稗将可愛さに蕩け下着はおろか生皮まで剥いてやりたい気持ちで下着を脱ぎすっ裸になった.鄭稗将は
『おい小僧、細縄一束持ってまいれ.』と小使いの少年に言いつけ縄を束ね褌代わりにして漸く下を隠した.
『おお、寒いのう、島の風が冷たいわい.』
濟州島の又の名が風多、石多、女多の三多島で風が強いので有名である.
愛娘(アイラン)は又せびる.
『旦那、旦那のちょん髷を切って私に下さい.そうすれば私の髪に合わせて髪を結わえばそれこそ一身雲髪で何時までも旦那と一体でいられます.』
『お前の気持ちは解かるが俺に坊主になれというのか?』
愛娘(アイラン)は声を上げて泣きながら
『旦那が優しいとは云え私の気持ちは知りません.それはさておき粉壁紗窓に向かい合いお互い笑い合うときの旦那の魅力ある前歯一本抜いて私に下さいね』
鄭稗将呆れて
『今度は父母から受けた遺体まで呉れと言うのかそれを何に使うのだ?』
愛娘(アイラン)答えて曰く
『皓歯一本抜いて下されば私の宝物として絹に包み包みして宝石箱に入れておき、旦那の顔が目にちらつきにっこりと笑う時の其の魅力ある歯並みを思いだし、出して見たら慰めにもなりますし私が死んだ後は一緒に棺に入れてもらえば合葬一体になりますから私の本望が遂げられると言うものです.』 鄭稗将大いに感動し
『おい.工房庫子は金槌とやっとこを持って来い』と大声を上げた.
『へい.ここえ持って来ました.稗将殿』
『おまえ歯を抜いてみたことが有るか?』
『へい.歯はもう何百本も抜いてみました.』
『お前ほらを吹くな.俺の前歯を一本だけ抜け.他の歯は触らないで.』
『歯抜きに掛けてはお手のものでさあ、任せなせえ.』
小さいやっとこで抜けば良いものを大きな物で口いっぱいに突っ込んで歯茎もろとも締めつけて揺すぶるから堪らない、鄭稗将悲鳴を上げて頭を動かした拍子にやっとこで鼻筋を強かに打った.鼻血を噴き出し顔が血みどろである.
『馬鹿者、歯を抜けといったのに鼻を抜くつもりか.』
すっ裸に腰には細縄を褌代わりに巻き口と鼻から血を流し喚き苦しむ大の男が可哀想でも可笑しくもある.
愛娘(アイラン)は内心可笑しさが込み上げるのをぐっと堪え、憎らしいほど落ち着いて
『旦那、"両脚山中の朱将軍"半分切って私に下さい.』鄭稗将今度は呆れ返って
『俺の跡取りまで絶やそうとするのか.それは又何に使うのだ.』
『旦那が行かれた後独守空房を守る時空き家のままに置くのは寂しく何者が入り込むやも知れませぬがそれを入れておけば私の中に何時も貴方が居る訳、"一夫当關、萬夫莫開"で、誰も犯し得ませんわよ.』それを聞いて気持ちは悪くないが、だからとてそれを切った日には生涯使い物になら無くなる.気の弱い鄭稗将ぐずぐず決め兼ねている時房子の小僧焦って、
『旦那、法螺貝が初吹き、二吹き、三吹が終わり殿様登船なさいます.速く舟に上がり
なさい.』 と催促する.
鄭稗将しかたなく立ち上がりながら
『"櫓歌一声漢陽舟"か.船は帆を上げんとするに別れの悲しみは万端懐なり.』と嘆
き愛娘(アイラン)は鄭稗将の手にしがみ付き放さず嘆く
『偶然の出会いとは云え旦那、わたしを置いてどこえ行きますか.秦の方士徐市は東海の三神山に不老長生採薬の船出に童男童女を積んで行き、越の范相国も五湖清風万里船に西施を積みました.一日千里を走るあの船に私も積んでください.生きては逢えない君、死して後還生したら逢えようか.君は死んで鶴になり妾は死んで雲になり"雲従鶴、鶴従雲、白雲疊々、雲雨嫋々"になりたい.』
鄭稗将是に答え
『お前は死んで高堂明鏡明るく照らす鏡になり、俺は死んで闇を照らす太陽になって明るく照らし合おうぞ.』このように別れを惜しむ様を、役所禾北鎮の庭で望月楼を眺めていた新官牧使がお側付きの房子に聞いた.
『あの楼上で若い男女が先程より別れを惜しむような仕草をしているが男が裸じゃない
かあれは何事じゃ.』
『あれは技生の愛娘(アイラン)』と前官牧使殿の鄭稗将とのお別れの場面で御座いますが愛娘(アイラン)に持ち物を巻き上げられている模様です.』とお側付きの房子がお答え申した.それを聞いた裴稗将(ベビジャン).自分の男らしさを示す為肩を張って嘲笑う.
『なんと頼りない男じゃな.離親戚遠父母し、千里の外にきて女に惑わかされ醜態を晒すとは男の恥じゃ.我が輩は万古絶色楊貴妃、西施といえども蕩けは致さぬ.』
房子メ鼻で笑い
『旦那も人ことだからそうおっしゃいますが愛娘(アイラン)にかかれば凹の字(女性の性器)に嵌まり込みそこに所帯を作る筈ですよ.』
裴稗将(ベビジャン)いかにも自分は律義者であるように房子を叱る.
『無礼者、両班(ヤンバン)の節操を如何に見てそのようなかるはずみなことをいうのか』
『それならば私メと賭けをしましょうか』
『どんな賭けをするというのか?』
『稗将殿がお帰りになるまで技生を近付け無ければ小人の家卒が挙ってお宅の下僕になりますし若し旦那様があの愛娘(アイラン)に惚れたなら旦那の愛馬を私に下さい.』
たった今、大言壮語をした手前今更尻込みも出来ない成行に任せた裴稗将(ベビジャン)は
『それは宜しかろう.馬が千金といえどもお前に二言は致すまい.』
そうこうするうち新旧牧使の印交を終えいよいよ新官牧使正式に就任の町回を始める.新官牧使を中心に行列を作り威儀も厳かに街を一回りして人民に新官牧使の威厳を示すというものだ.
三弦手(琴、伽耶琴、琵琶)、吹打手、前陪・後陪・使令・軍奴・三升・摂手・黄、紅、藍の纒帯、戦笠には勇の字を付け、槍には朱の房、棍杖、朱杖捧げ持ち各種の弦楽、打楽、吹楽、ドンチャンドンチャンビリリビリリと遠近山川に響かせながら東門内の大路を、美人技生は煌びやかに着飾り二列に並び清道一双、巡視二双、五色の旗幟を翻し、前陪稗将は公州綿紬の羽織に大緞天翼を肩に掛け、純銀装飾の官帯を締め背負う弓箭も凛々しく猪毛笠には蜜花貝瓔・銀入糸の猛虎鬢を挿して被り、銀鞍白馬に虎皮を敷いて高く跨り雲従竜、風従虎の威風堂々としている.各稗将亦是に倣う.永舞亭を望み山芝川を渡り北水閣を過ぎ七星通りの大路を観徳亭の脇に進む、勧馬声、吹打声は大地を揺さぶる.人民は土下座し草木も頭を下げるようである.展謁殿に四拝し萬景楼についた.近くの老若男女雲の如く集まり新官牧使の行列を見物する.
各房房任、帯卒軍官、吏奴令等御目通りの儀式を済まし新任稗将等は割り当てられた在所に入り落ち着けば既に西天に日は落ちて東嶺に月が出で清風明月泰平の夜である.
新任稗将等各々好みの技生を抱えて一堂に集まり酒宴を開き清歌単琴、杯を傾け旅の疲れを癒す.只独り裴稗将(ベビジャン)のみは皆と遊びたい気持ちは山々だが先程牧使の面前で房子と賭けをしたてまえ男子の一言、千金より重しで女を呼ぶわけにはいかない、負け惜しみで意地を張り、表面では人々のだらしなさを嘲笑しながら心の中では鬱々としていた.稗将等酒宴を楽しみながらも裴稗将(ベビジャン)のみが居ないのを惜んで同任の誼で房子を遣わしてさそう.
『お前禮房殿に行って丁寧に挨拶し、物色之地濟州に来て愁心なさる事は御座いません.美色を選び守庁をさせ愉快に遊びましょうとの伝言で御座います.と申し上げて参れ.』
房子禮房殿にお伝え申した所裴稗将(ベビジャン)答えていうのに
『まず、お言葉有り難く承ったと申し上げ、私の事をよくご存知無いでしょうけれども
私は九代貞男でして女子を好まざる性分ですのでご遠慮致しますゆえ、私には構わずご随意にお楽しみなされ.と申し上げろ.』と言った後、何か思い出したか房子を呼んで
『今技生の頭が誰か?』
『はい.行首はチャジレでございます.』
『それではチャジレを呼んでくれ.』
『はい.畏まりました.』
裴稗将(ベビジャン)チャジレに申し付けて曰く.
『お前万が一、是より以後技生如きを儂に寄越したら厳棍に処すから覚えておけ.』と
戒めた.裴稗将(ベビジャン)の異例な言行は忽ち営内に広がり牧使の耳に入った.
牧使殿微笑して官妓(官庁専属の技生)を呼び寄せた.
侍従が技生の名簿を捲りながらいちいちご披露する.
『渭城朝雨潤軽塵して客舎青々柳色が紗窓に映る,
繊繊影子、初月です.
借問酒家何処在、牧童です.
遥指杏花、思君不見、半月です.
独座幽篁、琴線です.
漁舟逐水、紅桃です.
四時長春、竹葉です.
顔が綺麗、花色です.
態姿流麗、月下仙です.
風流多彩、逢夏雲です.
歌の名唱、秋月です.
満堂春光、紅蓮です.
謫下人間、降仙です.
蓬莱方丈、瀛州仙です.
歌舞能熟、第一色、愛娘(アイラン)で御座―い.
呼び上げる度に牧使の前に出て丁寧にお辞儀をする.一通りご覧になった上牧使が言う.
『お前たちの中に裴稗将(ベビジャン)を喜ばして笑うようにする者が居たら重賞を遣
わす.自信有る者はいないか?』
皆が顔を見合わせて居るうち、愛娘(アイラン)が申し出た.
『小女不束ながら殿様の仰せの通り致します.』
『お前が若し裴稗将(ベビジャン)を毀節させたら濟州の技生にも人材が有ると言えよ
う.』 殿の言葉に愛娘(アイラン)が申し上げた.
『時は正に芳春佳節ですから殿様明日にでも漢拏山に花見に御出ましになれば、裴稗将(ベビジャン)を計画に嵌まるようにして見事に陥れてご覧に入れます.』
牧使は裴稗将(ベビジャン)を除く各房の稗将と密かに相談し漢拏山花見に行くことにした.
この時の牧使行列は龍頭を彫刻した朱紅藍輿に虎皮を敷いて座り戦鉞斧鉞、三営執事、巡視令旗、左右に並び、禄衣紅裳の美女等は白繻汗衫高く振り風楽の中に踊り"ジワジャー"の囃子、萬樹花林の中、六角声に合わせて山鳴水応、以鳥鳴春である.百鳥も美声を競う."ジリリッ・チュチュ.ホウホケキョ・カッコウ・ソッチョン・ビリリッ・チャリチャリ・ジジジジ.百花山に諸百鳥、碧渓潺潺好春風に、縺れ合い重なり茂る木々は長川緑林垂楊枝であり、分流桃花黄河水の如く曲がり曲がりぶっつかりごろごろと流れる水は長天瀑布九曲水だ.青山に告が曲がり流れる、萬丈蓬莱がここなるかな.
牧使、松の木の下に藍輿を下ろし周辺の景色を観賞する.瀛州の四方は蒼い海が長天一色にめぐり白鴎双双に飛び交い点々漁船は広河に帆を上げて漂うている.清風赤壁の蘇子瞻がここを見たなら赤壁江には遊ばなかった筈、縢王閣楽舞の中に王勃が見たならば'落霞与孤鶩斎飛'をここで詠んだだろう.
山景水景、瀛州春景、無限風景、良哉善哉.牧使を初め全ての稗将が名妓色技に酌をさせ甘紅露、桂糖酒の杯を傾けほろ酔い機嫌で楽しむ時、独り裴稗将(ベビジャン)だけはさも清高であるように一同に与せず、松亭の岩の上に単座して人々の遊興を嘲笑い作詩を詠じた.
'天長漢陽路千里' 漢陽から千里もはなれたところ
'海濶瀛州波萬頃' 広い海の中の濟州島で
'如花美人看楚越' 花のような美人を側に置き
'酔弄江山無限景' 景色を鑑賞しながら杯を傾ける
一見脱俗の気風のようだが本当は皆と同じ様に女を抱いて笑い興じたいのを意地で堪るために反対の方を呆然と眺めていたら水布洞緑林の桃花咲き乱れた合間に何か動く者がある.良く見ると一人の美女が緑林と花の間に見えつ隠れつ消えたり現れたり、座ったり立ったり、動くような舞うような、月桂花が明月宮に月娥の仙女が歩くように、陽台雲雨深い巫山で仙女が戯れるような姿態に吾を忘れて見惚れている時、上下の着物を抜いで盤石に置き淵に飛び込み水浴びをするではないか.平泳ぎ、背泳ぎ、潜り、浮き、水に濡れて白く滑らかそうな皮膚が陽光に照らされてまぶしく輝いている.
別有天地武陵の春に桃の花が流水に杳然と去るように流れに任せたり、白鴎が戯れる如く自由奔放に様々な嬌態を演ずる.肩まで露にして腕を擦り洗うかと思うと皓歯丹唇大きく開けて嗽もし、まろやかな乳房を手のひらで揉んで見たりする.枝垂れ柳の葉を毟り取り水に流したり紅紅爛漫の花を取り口に咥えて見たり花の小枝を折っては髪に刺して見たり水中の小石を拾い囀る小鳥に投げて飛ばして見たりするそのそぶりが可愛らしく自ずから微笑みを浮かばせる.豊かな黒髪を水に浸かしてざあっと上げ無造作に二つに分け九竜吐水、碧花春天の様にぐるぐと巻き上げ金鳳釵の代わりに柳の小枝を挿しこむ.金魚が華やかな尾鰭を動かし悠々と泳ぐ如く碧波淡々漣と戯れる如く春波を弄して水浴びする様子、腕も洗い脚も洗い背中、腹、胸も洗う、揉む如く擦る如く掴む如く乳房を丹念に洗う.裴稗将(ベビジャン)其の仕草に見惚れ、節操高き九代貞男跡形も無く消え失せて瞳は淫らに光り顔色も赤く呼吸もままならないのか肩で息をする.
『何処の女子か知らぬが男殺しじゃわい.』と独り言を呟く.おなごの正体を知りたい
が誰に聞くわけにも行かず唾を飲みこみ虚しく胸を焦がし情欲の虜になって、
『あれを抱ければ男冥利に尽きるというものじゃがなあ』と欲望に燃え溜め息が出る.
この時牧使殿は既に駕籠に乗り還官すべく先陪を催促していた.稗将達をはじめ技生、下僕等列に加わり動き出した.裴稗将(ベビジャン)は後に残るつもりで、お腹が痛いと偽病を使い蹲った.他の同任稗将らは裴稗将(ベビジャン)の気配を悟り「もうぞっこん惚れこんだらしいのぉ」密かに囁き合いながらも表では如何にも同情する口振りで慰めの言葉を投げる.
『禮房殿は急な癨乱らしいですなあ.鍼が効きますよ.』
『いやいや、鍼を受ける程ではありませぬ、暫く居れば直るでしょう、お気遣いかたじけない.』
稗将等はこみ上げる可笑しさを堪えながら房子を呼んで言いつけた.
『お前の旦那が病気らしいから鎮まるのを待ってお供して参れ.』と言い、裴稗将(ベビジャン)には
『殿には宜しくお伝えします故安心してゆっくりと鎮めてからお帰りなされ.』
『同官のご好意、真に忝い.何卒殿に宜しく頼みます.ああ痛い、腹いたや.』
悪戯好きな同官は裴稗将(ベビジャン)を困らせる為わざと付け加える.
『それは心配なさるな.聞く所に依ると急な腹痛の時には女の手で腹を撫で擦るのが効くというから技生を一人残して行きますからそれに腹を揉ませなされよ.』
『いやいや拙者の腹痛は他の人と違って女を見るだけでもひどくなりますので御免蒙り
ます.鎮まるまで静かに置いて下され.お頼み申す.ああ腹痛や.』
『それは又奇怪な、'同是洛陽之人'として共に千里の道を参り情誼が兄弟の如き間なのに其の様に苦しむのを独り置き去りにするのは忍べぬ事、鎮まるのを待ち某も一緒に居るしか御座りませぬ.』
『同官は拙者の体の癖を知りませぬ.拙者は病の時には独りで鎮めれば速く止み申すが万一兄弟なりとも人が側に居れば治る所か返って痛みが加わるのみ故、何卒独りにさせて下され.』
『それではこのまま行くしか御座らぬ.無情だと恨みはなさるな.お大事になされ.』
と言い残して牧使の後に従った.
これで漸く邪魔者は去った.これから存分に水浴びする女の裸を楽しむ事が出来る.裴稗将(ベビジャン)は急いで房子を呼んだ.
『おい房子や.ああ腹痛や.』
『へい旦那』
『なあ房子や.俺は腹痛で目も良く見えぬ.ああ腹痛や.』
『へいあっしも旦那の苦しみを見ていると目が眩みそうです.』
『牧使殿どの辺に行かれるか良く見てみろ.』
『山の中腹です.』
『ああ腹痛や.又良く見ろ.』
『曲がり角です.』
『ああ腹痛や.又良く見ろ.』
『林に隠れてもう見えません.』
『山回路転し、君見えずか.俺の腹痛はもう鎮まったぞ.』
水浴びの美女を見ようと渓辺花草の細道を低い姿勢で隠れ下りながら細い声で房子を呼ぶ. 房子答えはするものの言葉使いは次第にぞんざいになる.
『へい、なんですかい.』
『お前あれを見てみろ.』
『何かありますかい.』
『おい、大きな声を出すな.静かに見てみよう.』
水に戯れ山に遊ぶ百万の嬌態を演じ上半身はおろか時にはお尻まで見え隠れする其の姿態、
『金の如く玉の如しだ.』
『あの水が麗水でもないのに金が出る筈が無いでしょう.』
『じゃ玉か.』
『ここが荊山でもないのに玉が出ますかいな.』
『金でも玉でもなければ花か? 芳春欺罔梅の花か?』
『東閣雪中でないのに梅が咲きますかいな.』
『梅花でなければ桃花か?』
『武陵春風でないのに桃の花がありますかいな.』
『然れば海棠花か?』
『10里明沙でもないのに海棠が咲きますかいな?』
『然れば黄菊丹楓菊の花か?』
『九日竜山でないのに菊花が咲きますかいな.』
『花でなければ竜女・仙女・貴妃・越西施か?』
『五湖清風でもないのに越西施来る筈も無し.温泉でもないのに貴妃の浴とは有り得ませんよ.』
『西施でも貴妃でもなければ入眼混迷して狐狸の類いか?悪狐でもかまわぬ一度なりとも抱いてみたいのう.堪らんわい.』 いよいよ本音が出た.
『旦那は何を見て左様に興奮なさいますか? 私の目には何も見えません.』
『ほらあそこ、あそこの淵で水浴びするあれが見えないのか?』
『ああ、あっしゃ旦那がなにをみて左様に夢中なのかと思いましたよ.あの下の渓流で
水浴びする女の事ですか.』
『お前も見たか?常人の目は両班より鈍いらしいのう.』
『へい、目はまあ班・常が違いますから小人の目が旦那の目より鈍くて左様な非礼の様
が見えませぬが、心も班・常が違い旦那の心は小人より黒く淫乱で恥も知らず閨中婦女子の水浴びの姿に欲情して魂を囚われなさるのですか?最近ソウルの両班方威勢を張り、女を見れば恥も外聞も顧みず欲情に任せて手を出せるとこ出せないとこを弁えず妄りに物にして恥をかくのを見ましたよ.有夫の佳人を誘い出して本夫に見つかれば袋叩きに合い官府に訴えられ処刑を免れませんよ.あの女のことは見るのも想うのも止めなさい.』
裴稗将(ベビジャン)は小僧の房子にこっびとくひにくられきまり悪くて言い訳をする.
『もう見ない.だがなあ、心に迷いが付いたか見まいとしても磁石に針で目が自然とそ
ちらに向くのだ.』 房子見て居たが
『又見ている.』
『いや、見ていない.』
と言いながらも女に目が向くので咄嗟に知恵を出して房子を呼び.
『房子や、あの景色良いのう、西を見てみろ扶桑三百尺に燃えるような日暮景が素晴らしいではないか、東のほうを見よ弱水三千里に春色杳然たる中一双の青鳥が飛んでいるではないか、南の方をまた見ろ大海茫々千里波に大鵬が飛んでいる、北を又見よ青天削出金芙蓉に鎮国名山正是也だ.中央を見てみろ白鷺に乗りし呂洞賓、鯨に乗りし李謫仙が騎鯨飛上天しているのう.』
房子メ裴稗将(ベビジャン)の思惑を見透かして居ながら騙されている振りをして景色を見ているような仕草を作り横目で裴稗将(ベビジャン)を見ると女に見惚れているではないか.
『あの目、何か事を起こすにちげぇねえ.』 裴稗将(ベビジャン)驚いて.
『俺は見ていない、気にするな.』其の時いきなり房子が大きくくしゃみをした.
其の瞬間女は驚いた様に慌てて岩の上に置いていた衣類をくるめて樹の陰チマを張った仮幔幕の中に隠れてしまった.十五夜明るい月が雲に隠れたようなもの、咄嗟の事で裴稗将(ベビジャン)呆れてぼうっとして居たが舌打ちしながら.
『こら、お前の不用意なくしゃみ一発でおじゃんになったわい、惜しいこっじゃ.』
もう君子気取りもなんのその、あからさまに口惜しがる.暫し後.
『おい、房子や.』
『ヘイ旦那.』
『お前あの幔幕の所に行って挨拶をしてその女人に伝えろ.この山の過客が花遊登臨の途中、疲労困憊して飢渇が甚だしく難儀しています故救急のお恵みを願いまする.と申し上げて参れ.』 房子メとんでもないと言う表情で
『手前は死んでも左様な言付けは致しかねます.まるで初対面の人妻に食べ物を呉れと言い寄れば叩き殺されるのが必定ですぜ.』それでもベビジャン.
『なあ房子や.万一叩かれそうになったらお前は逃げろ.俺が叩かれるから.』
『旦那が其処までおっしゃるなら殺されでも行くより仕方がありません.』
房子メフラフラ恐る恐る幔幕に近づいてお辞儀をするよう腰をかがめて.
『しーっ、アイランや.ベビジャンがぞっこん惚れこんだぞ.何か食べ物が有ったら用
意して渡してくれ.』
愛娘(アイラン)が笑いながら食べ物を山中で稀に出る山菜を清潔に盛り.玳瑁のお盆に金彩の花器をならべ、美味しそうな清油白粉・杜鵑花煎一皿、真っ赤な紅柿一皿に洞庭秋波の清酒一壜を上げながら言う.
『お前の殿、無礼なれど飢渇甚だしき由にてこれを上げます.殿もお前も'両人対酌山
花開、一杯一杯復一杯'して直ちに怱怱退去なされ.愚図愚図していれば大変な目にあいます.』 と駄目を押した.
房子それを貰って帰り、口上と共に旦那の前に置く.ベビジャン大いに喜び褒め称える.
『人はうわべによると言うが違いないわい.俺は斯く成ると思っていたわい.処でこの柿に歯を当てた跡があるのは何事か?』
『女が柿の蔕(ヘタ)を歯で噛んで取ったからです.』ベビジャンからからと笑い、
『この食べ物お前が皆食え.俺は柿だけ食べる.』房子メ意地悪く柿を掴んで
『歯の跡が付いているし女の唾もついて不潔ですから手前が食べます.』
『こら、詰まらん事をぬかすな、これへ寄越せ.』とひったくり皮ごとむしゃむしゃ食
べた後女へ伝言をさせた.
『結構な食べ物ご馳走様でした.と伝え、又無礼ではありますが'天は陽を生み、地は
陰を生むと申します.陰陽配合は人の常なる事、豪放の客が偶然この山に到り探花蜂蝶の情、切なるをわかってくださいませと申し上げて参れ.』
房子ベビジャンの伝言を伝えに行ってから戻って曰く.
『其の女が答礼も聞かずに、ひどい目に逢う前に速去速去せよと言いました.』
『仕方があるまい、帰ろう.』
寝所に帰り昼夜に其の女の想いに耽り呻吟想思の念に悩んでいる.
『漢拏山の清い浄気を一身に受けて斯くも綺麗に生まれたか、忘れられぬが恨めしい、寂莫な洞房の中、君想う心如何ともし難し、想思の病骨髄に到りて此の侭青春の怨鬼に化すのか、北堂の白髪両親、春閨の紅顔妻子復逢うも覚束なし、ああ如何にすべきや.』と悩み続けた挙げ句.
『死んでもこの気持ち伝えて見るのだ.』と覚悟を決め房子を呼んだ.
『なあ房子や.』
『なんですか?』
『ちょっと近くに参れ.俺はまた重病に罹ったみたいだよ.』
『何の病でさほど深刻ですか?敗毒散でも上がって見なさいな.』
『いや、敗毒散飲む病気ではない.』
『それでは邪欲艶情病らしいですね.それには特効薬がありますよ.』
『おう、それはどんな薬だ?』
『棍杖でお尻を血が出るほど叩くのだそうですよ.』
『余計な事を言うな.俺の病気には薬は有るけどそれが手に入れ難いのだ.』
『何の薬がそんなに難しいのですか.空の星でも取って来て上げますよ.』
『其の言葉嬉しいな.俺の生死はお前の手にかかっているのだ.助けてくれ.』
『大袈裟な事をおっしゃいますが誰も死にゃしませんよ.話して御覧なさい.』
『お前も知っているだろう、昨日漢拏山水布洞で水浴びしていた女が忘れられず恋煩いに罹りどうする事も出来ないのだ.其の女を逢わせてくれ.』
『駄目ですよ.あの女は閨中の人妻で滅多に外出もしませんよ.』
『仕方が無いなあ.お噺の本でも借りて来い.』
やむなく本でも読んで紛らわそうとするが、南原府使の息子李坊が春香を想いながら本を読む如く全然頭に入らない.三国誌・九雲夢・林慶業伝、ページをめくるだけで放り投げ淑香伝を手にとって読んで行く.「淑香や、淑香や、哀れなる哉その母の別離の言葉、坊や坊やお腹空いたらこのご飯食べて喉乾いたらこの水飲んで達者で暮らせよ.かあちゃん僕も行く、ああん.漢拏山水布洞で水浴びしていた女を抱きしめて雲雨の情事に耽りたし.」
側で聞いていた房子
『私はそれが淑香伝と思ったのに水布洞伝でしたか?』ベビジャン房子に言う
『なあ房子や.物は相談だがなあ.その女がお酒まで添えて、食べ物を呉れた
と言う事はつまり気が無くも無いと言う事じゃないか.駄目を覚悟で話しだけでも持ち
かけて見ようじゃないか.』
『誰に話しを持ち掛けますか?』
『その女にだ.』
『滅相も無い.あれの亭主が向こう見ずの破落戸ですよ諦めた方が身の為です.』
ベビジャンそれでも強引に
『まあ兎に角話しを入れて見るのだ.俺が書状を書いてやるから彼女に伝えろ.うまく
行けば300両を褒美に遣わす.』 房子メ褒美を呉れると言う言葉を聞いて、役所の
水を飲んで来ただけに狡さを隠し、さも純真そうな面をして.
『小人はその書状のお使いは致しかねます.』
『おい、それは又何故か? 俺が千里も離れた所まで来て心を許している下僕がお前だけじゃないか.』
『はい、小人も旦那との情理で言えば水火も厭わぬ所ですが小人には訳が御座います.』
『どう言うわけか話してみろ.』
『小人は3歳の時に父が亡くなりまして母一人の手で育ち10歳から房子をして居りま
すがお上から下さる手当ては銭2両が全部で朝から晩まで使われていますから草鞋代にもならないくらいです.食い物はまあ旦那方の食べ残りを母と分けて食べ何とか生き延びています.旦那のお使いで死んだとて惜しい事も有りませんが若し叩かれて肩輪にでもなれば房子も勤まりませんし、老いた母も養えません.だからそんな危ない綱渡りは出来ないと申し上げるのです.』
『そんな事は心配するな.若し傷を受ければ俺が治してやるし母の保養も俺が責任持つから心配するな.』と言い、手箱から100両を出して坊子に渡しながら
『これは僅かだが母に上げ当座の使いにしろ.そして俺の為に一肌抜いてくれ.』と頼
む.房子メ、内心ほくぞ笑んだがおくびには出さずしぶしぶと.
『じゃ、文を書いて下さい.』
ベビジャン大いに喜び恋文を書いて坊子に渡しくれぐれも頼む.
『事がうまく行く行かぬはお前の手段にかかっているから抜かり無くやってくれ.』と
房子を行かせて胸をどきどきしながら一刻千秋の思いで待った.
房子はニヤニヤ笑いながらベビジャンの書札を愛娘(アイラン)に渡した.手紙に曰く.
「濟幕の乞徳サ(コトセ)が頓首再拝・恐敢一封書を娘子に差し上げます.
悲しい哉この身は蓋世の豪気は有すれど才質と運勢に恵まれずして功名成らず、数千里瀛州島に人の扁稗として参り世俗の情事に意が無く主に自然の風景を嘆賞し奇岩絶壁に登り茫々と広がる眼下を見下ろし浩然の気を養うを好みたるに昨日漢拏山に登遊の帰路偶然にも娘子水浴の姿を拝見いたし入眼魂迷に陥り帰房しても娘子の美しき姿が眼にちらつき欲望は忘れ難く、思うまいと思えど想い自ずから甦り出で、不食・不眠、魂は身から抜け君を求めてさ迷い病骨髄に到り申す.長嘆息・断腸声は卓文君の懐心思なり.
花は咲けば萎む物、娘子の花盛りの身とて何時まで若さを保つだろうか.知らぬ間に老いて紅顔も白首になり時間は逆には戻らず若帰りは致し申さぬ.相思の病深く神農氏の百薬草も効無し.娘子の一身両脚山中の保身湯の薬にて島中孤客を救い給え.操を守るを尊しと雖も活人の積徳には及ばざるもの、丈夫の生死は娘子の一存に有り、娘子身を許すの一言に有り申す.一言にて丈夫の生死を決められよ.万端の悲懐一筆に記し難し、取り敢えず訴え申する次第、よくよくお考えの上良きご返事を賜わらん事を乞い願い更に亦乞い願い申します.」とあった.(註:丈夫は一人前の男の意)
読み終わった時房子が愛娘(アイラン)に、
『返事は充分気を揉ませながら聞いてやるように書けよ.』とけしかけた.
房子は愛娘(アイラン)の手紙をベビジャンに渡した.ベビジャンは手紙を手に取り深く息を吸いこみ恭しく膝まづいて王の親書でも読む如く開いた.
『わらわは答書一片を濟幕搨下に送ります.一面識も無いのに文を相通じるとは迂闊な事、'欲望忘れがたし'も奇怪にして'思わざれど自ずから思い出す'も笑わせることです.そなたの病や薬などわらわとは何の拘わりも無きこと.卓文君を云々するとは妄想も甚だし.従夫之節は天地之常経にして古今の通義なのに人の貞節を奪おうとするのを見れば忠節の心とて疑わしいことです.
又人妻の身を妄りに欲するのは恐ろしいこと、口実も又幼稚です.狂気の沙汰に取り合いたく無いから心を入れ替えて退去なされ........』 ベビジャン'退去'の字に驚き、
『嗚呼万事休すか、続けて読んでも何になろう島中の寃鬼になるのみか.』
虚脱して目も虚ろになる.側にいた房子が.
『旦那続けて読んで御覧なさい.然しの字がありますよ.』
『あっそうだ.然しの字があったわい.』
『然し丈夫の厚身、わらわ故に病を得たのなら捨て置くのも忍ばないこと.わらわは閨中の妾身にて出入りもままなりませぬゆえ、月落深夜に碧軒堂を内密にお越しになれば君を迎え同寝致しますが、若ししくじればそなたの生死も亦保証できません.万一来るなら家内に人も犬も多いから北側の塀の壊れた穴より入り静かに忍び入り人目につかぬよう用心なさいませ.』とあった.
ベビジャン思わず "ヤッター" と叫んだ.嬉しい哉娘子の回答嬉し.江湖に病を得儚く死すかと思っていたのに病は吹っ飛んでしまった.ベビジャン欣喜雀躍、夜の深けるのを待った.
待つ時間は長いが時は進む物一日中わくわくそわそわしている内ようやく夕暮れ時になった.夕時の点呼には称病の報告をしに房子を行かせ独り部屋の中で支度に取りかかった.
一重織りの網巾、定州宕巾・快子・氈笠・冠帯をきりりと締めて独りで予行演習をする.
"静かに近づいて咳払いをすれば女が待ちうけていて戸を開ける筈.軍禮をして挨拶を交わすのだ."独りで呟いている時いきなり房子が飛びこんできて.
『旦那何してますか?』ベビジャン驚いて.
『お前もう帰ったか.』
『はい.点呼済ませて来ました.』
『こら.驚いたじゃないか.背に汗が出たわい.』
『じゃ、行こう』と言って外へ出るのを慌てて房子が止めた.
『旦那、考えが足りないですね.夜中に有夫の女と姦通しに行くのに官服を着て行く人
がありますかいな.その衣冠みな脱ぎなさい.』
『これぬいたらみすぼらしいではないか.』
『みすぼらしかったら行くのを止めましょう.』
『そうつれなく言うなよ.脱ぐよ、ぬいたら良いだろう.どうだこれで?』
下着だけで立っている.
『誰か見たらきちがいと思われますよ.濟州島人の服装をしなさい.』
『濟州島人の服装とはどんな物だ?』
『犬皮の羽織に犬皮の帽子を被りなさい.』
『それは亦みすぼらしいなあ.』
『みすぼらしかったら行くのを止めましょう.』
『そうだと言う話しだ.犬皮ところか豚皮でもかまわずに着るよ.』
ベビジャン狗鹿皮の羽織に犬皮の帽子を被り自分の身なりを見ながら
『なあおい、虎に出くわしたら犬に間違えられるぞ.軍銃一挺持って行こう.』
『恐ければ行くのを止めましょう.』
『おい、お前がそんなに薄情とは知らなかったな.行きたくなくても俺が背負ってでも
行くぞ.』ベビジャン房子の後について歩いて行く.暗い道を歩いてある家の塀伝いに
北の方に回ると果たして塀に穴があいている.穴から中を覗けば北窓に灯かりが見えた.遠くて三更を知らせる鐘の音が聞こえる.房子は敏捷に潜り込んで.
『しっ旦那、下手に音を立てたらばれますから両の足を穴に入れなさい.』
ベビジャン言われた通り両足を入れたら中から房子が引っ張ったが大きな腹に支えてはいらないベビジャン目を白黒させ苦しんだ挙げ句.
『足を放してくれ』と哀願した.こんな最中でも漢文の言葉で話す癖があるベビジャンだ
『飽腹不入にして出糞而幾死だよ.』
房子中で笑いながら足をパット放したらベビジャンは外に転げ落ちた.
『万事が順理に逆らうから思うように行かない.子供を産むときも頭から出るのを順産
と言うから俺が頭を突っ込むからお前は髷を引っ張れ.』
ベビジャンおずおずと頭を穴に突っ込んだ.房子は待っていましたとばかりベビジャン
のちょん髷を犬皮の帽子ごと掴んで力限り引っ張ったから堪らない.ベビジャン痛さに
もがいた.もがく内に腹が通過してポント入ってしまった.死地から生を得たようであ
る.ベビジャン痛いとも言えず
『俺の背中は掠り傷でいっぱいらしいのう.』と呟く. 房子は
『灯が点っているあの部屋に入って思いっきり遊んで暁までには出で来なさい.』と言い残し自分は物陰に隠れた.いよいよ宿望が遂げられると思えば興奮する.四方に気を配りながら忍び足で部屋の前に近づき障子の前に佇み聞き耳を立てるがしんとして物音がしない.指に唾をつけて障子に穴をあけて覗いた.行燈の前に座ったあの女、近くで見ればなおさら美しい.齢は二・八か、行燈の灯よりも明るく、咲き立ての桃花も君の前では恥じらうであろう.
その女の様子に見入っていれば金海簡竹・白銅の煙管に三登草を軽く詰め青銅火鉢の白炭に火をつけばくばくと吸い始める.香ばしいタバコの香り'一條の香煙紫煙を生む'で部屋に漂い障子の穴から外に吹き出た.ベビジャンその刺激に不用意にもハッションとくしゃみをした.
部屋の女が吃驚して障子戸の掛け金を外し戸をパット開け"泥棒"と叫んだ.ベビジャ
ンも驚き咄嗟に 『こんばんは』 と挨拶をした.女は男が犬皮を被っているのを見て『どこかの犬が迷い込んできたのか.』と煙管で頭をぽんと叩く.
『私は犬ではありませぬ.』
『じゃ誰か?』
『裴乞徳サ(ベ コトセ)です.』それを聞いて女が笑いながら.
『約束の旦那がお出でですね.お入りなさい.灯を消しましょう.』と導き入れた.
古より'一盗二婢三娼四妾五妻'と伝えられる通り人妻を頂戴する事こそ一盗にして一
等である.しかも惚れこんだ相手なればなおさらだ.もとより経験豊かな者どうし、予行演習も前戯も要らない、時間も無い.二人の男女着ているものをさっさと脱ぎ捨てすっ裸になり鴛鴦襟寝の上に抱き合って転んだ.
両脚山中の温泉に無眼の朱竜が遮二無二突入すれば、俄然部屋の空気が一変し 天地創造の混沌の中三更月夜に四つの足が絡み合い踊る.歓喜の叫びか断末魔の悲鳴か、苦しみか喜びか、声の限り喚き力の限り撃ち合う.既に何回か生死の頂点を越えた.良くも頑張るものだ.やがてベビジャンは全ての性根を注ぎ込み力尽きてへたばった.指一つ動かす気力も無い.
其の時突然外から大音声が聞こえた.
『早く明かりをつけて俺を迎えろ.お前の旦那が帰ったぞ.』外に居た房子が声を変え
て叫んだのである.女は驚いて慌てふためくとき又怒声が聞こえる.
『この淫乱なあま.草履が二組あるのを見れば俺が出て行った後男を引き入れたに違いない.今日は許さぬぞ.二人とも叩き殺してくれる.速く戸を開けろ.』ベビジャン仰
天して蒲団を被ってぶるぶる震える.そんな中でも漢文の言葉で話すのは忘れない.
『夜将過半に来呼開門する号令者は誰也?』
『吾家出頭天です.』
『それが本夫郎君か,性質は如何なるか?』
『性情は最も悪人だし、愚かさは盗跖で、力は項羽の如く、酒を好み、短気で気に触る
事あれば白昼抜剣し張子竜の如く空中用剣一突きで猛虎も砕骨し鉄壁も突き貫けます.そなたはおろか張飛、張達でも生きられませぬ.可哀想に貴方は殺されるのよどうしましょう、私の為に殺されるなんて、私が死んで貴方が助かることなら幾らでもしますよ.』 ベビジャン手を合わせて哀願した.
『昔秦の宮女は荊軻に捕まり大きな拳骨一打ちで殺される秦王を弾琴一声で助けた故事もある.娘子も知恵を出して俺を助けてくれ頼む.』女は何時用意をしたのか大きな袋を開け.
『ここに入りなさい.』
『ここにはどうして入りますか?』
『其処に入っていれば自然生きる方法がありますから速く入りなさい.』
ベビジャンは言いなりになるしかない.仕方無しに裸の侭袋の中に入った.女はすばやく袋の口を紐できりりと括り部屋の隅に立てかけた後、行燈の明かりを灯した.男が部屋に入り辺りを見まわしたり鼻をクンクンならして匂いをかいたりした後.
『あの隅っこに袋に入れて立てかけたのはなにか?』
『それは知ってどうするの?』
『このくそあま、亭主が聞けば素直に話すのだ.口答えするとはけしからん.半殺しにして呉れるぞ.』
『琴に新しい線を入れて立てたのよ.』と不機嫌に答える.男は気を取り直したように
『琴か.じゃ弾いて見るか.』と煙管の頭で腹の辺りをポンと叩いた.袋の中に入って
いるベビジャン目は見えないが声は聞こえる.痛いのを我慢して"デンドン"と琴の音
を出した.
『その琴の音雄壮で良いのう、大弦を打ったから、今度は小弦を打ってみようか.』
ベビジャンの鼻を叩いた. "ヂンドン"
『この琴は可笑しいな.下を打っても上を打っても上の方で音が出るぞ.』
女が答える.
『知らなければ黙っていなさい.五音六律と言って'宮・商・角・徴・羽'に清濁があるの
よ.それは上清音と言うのよ.』
『まあ良いさ.世事は琴三尺・生涯は酒一杯、西亭の江上月・東閣の雪中梅と言うからお前の酌で琴を聞きながら一杯やろう.雪隠に行ってくるから用意しとけ.』と出て行っ
た.男の役をしている房子は部屋の外で中の様子を窺う.
『娘子よ旦那が琴を好むらしいから俺を他の所に移して下さい.』と低い声で頼む.
女は他の隅に置いていた木箱を開けて.
『速くここに入りなさい.』ベビジャン箱を見て癖の漢文で言う.
『体大櫃小するに何以隠身?』
『その箱小さいようだけど充分に入るから速く入りなさい.』
ベビジャンやむなく箱に入り膝を抱えて蹲れば女がすかさず蓋を閉め錠を施してしまった.
こうなれば落とし穴に落ちた虎であり網にかかった魚も同然だ.ベビジャンやり切れな
い気持ちで"嗚呼この先どうなる事やら、こんなみっともない格好で箱の中で死ぬのも
俺のような好色男の業果というものか."と自嘆する.かわやに行った男が帰ってきて.
『どうも興が湧かん.先程居眠りが来てうとうとしている時の夢に白髪の老人が現れ俺
に"お前の家に大きな木箱があるか"と聞くので有りますと答えたら"金神が櫃中に侵
入して良くない悪戯をして家に災難を起こすから其の櫃が有れば汝の家は亡び・無ければ汝の家は興るのだ."と言ったからあの箱は厄箱だ.焼き払ってしまうから藁束を積んで火をつけろ.』
自分が入っている木箱が厄箱だから焼き払うと男が主張している.
"いよいよ火葬にされるのか"
女が同じく男に怒鳴り返す.
『先祖から伝わる大事な箱よ.その箱の中に福の神が居て何不自由無く暮らして来たのよ.それは福箱よ.焼き払うなんてとんでもないわ.』
いよいよ夫婦喧嘩が始まった.男も負けじとまくし立てる.
『亭主に楯突くお前のような女はもう御免だ.家財道具も美人の妾もいらねぇ.おらー
この箱だけ持って出て行く.この福箱さえあれば何とかなるさ.』
男が箱を背負って出て行こうとしながら.
『このくそあま、本夫の旧情を捨てて間夫の新情に嵌まろうとすれば家も地所もお前が占めて暮らしてみろ.』女は箱に縋り.
『お主が箱を持っていけば私は廢家しても良いと言うの?この箱はやれないわ.箱は私に頂戴.』
『それじゃ箱の真ん中に墨を引いて切り取り一つつづ持ったら公平だろう.』
男が鋸で箱を切りながら音頭をとっている.
"鋸で箱を割ろう. シュッシュッと箱を割ろう.品行の悪い女を知らずに可愛かってい
たが今日になって解かったわい.月老結縄の因縁この鋸で切って見よう.この箱を割り
切って上のほうはお前にやり、下のほうは俺が持てば俺は小富、お前は大富.福を分けて別々に暮らすのだ." さくさくと箱が挽かれる音、箱の割れ目からは鋸屑が入りこむ.さあ大変だ.生きたまま箱の中で真っ二つに挽かれ殺される羽目に陥った.ベビャン慌てて.
『何と了見が足らんのう.箱を切ってしまったら元も子もなくなるじゃないか.今まで
可愛がって来た女に.呉れてやってしまえ.』男が鋸を放り投げ.
『やれやれ福の神か厄の鬼かが人間に代わったぞ.これは尋常な事じゃない.ヒョット
するとたたりがあるかもしれんから海に捨ててしまおう.』と箱をチゲに載せ背負い歩
き出した.歩きながらお葬式の時に棺を載せた葬輿を導く挽歌を歌い出した.
『えーほーえーほー、遠山に霧が籠り近村には鶏が鳴く.えーほーえーほー、谷間の濡れた霧は月峰に上りまつわる.えーほーえーほー、漁村には犬が吠え回雁峰には雲が立つ.えーほーえーほー、東を眺めば暁星一点明るく光り千里碧海は影を宿して暗い.えーほーえーほー、高高天辺日輪紅は扶桑に高くかかっている.えーほーえーほー、この箱を海に投げて水葬すれば箱の鬼神も成仏するだろう、えーほーえーほー.』 男は箱を地面に下ろした.
『やっと着いたか.重たいなこの箱.箱鬼メたらふく食って肥えているらしいわい.
海に投げたら事の終わりだ.胸がスーッとするだろう.フフフ』
本夫にみつかる間際慌てて入った箱が座棺になってしまうのだ.てっきり鬼神と思って
いるから何を言っても相手にしない.これで俺の一生も終わりか無念じゃとベビジャン
嘆く.
ベビジャンが入っている箱は海辺ではなく官府の庭に下ろされたのだ.庭には既に大きな水桶に水がいっぱい張っている.牧使を初め稗将等が取り巻いて面白そうに眺めている.
男(房子役)が最後の宣言をする.
『箱の鬼神はよく聞け.お前の罪は万死無惜ながら滄波中に流すのだ.遠くに消えろ.』
水に浮かすように箱を動かし他の使令が水を箱にかけてやる.箱は絶え間無しに揺れ水は箱の隙間から入りこみ体を濡らす.箱の中のベビジャンはてっきり箱が海に流されていると思った."箱は海に流されている.水が箱に詰まれば沈むに違いない.嗚呼、死体も人の目に付かなくなるのか."と嘆き箱に中で一人呟く.
『もう逢えないのか?見れないのか?千里故郷の白髪父母、紅顔妻子又と会えないのか?この海で死ぬとも汨羅水にあらずば屈原の素節にもならず、呉江水にあらずば子胥の忠節にもなるまじ.名前も知られず人知れず耽色亡身死するに到る、俺こそ死んでも惜しくないならず者に違いない.幸い船でも通れば若しや生きる道があるかも.』
この時牧使殿側の者を呼んで言いつける.
『お前等が船が通るようにしろ.』
下僕らが協力して三門を開けたり閉めたり軋ませ櫓の音を立てヨイシャヨイシャ舟を漕
ぐ音頭を立てた.ベビジャン箱の中で船の通る音を聞いて喜び考える.
"キーキーするのは櫓の軋む音だ.江東に行く船、張瀚か吾を助けよ.500人乗せて
入海島中の船、徐市か吾を助けよ.壬戌秋赤壁江の泛舟遊、蘇子瞻か吾を助けよ.青山万里共に行こう.一孤舟や吾を助けよ.遠浦孤帆、この箱掬い上げ吾を助けよ."
箱の中のベビジャン大きな声で
『其処に行く船、話しを聞こう.』
『何じゃ?』
『其処の船は何処の船か?』
『濟州の船だ.』
『何を積んでいるか?』
『わかめ、なまこ、貝等だ.』
『俺の言う事聞いてくれ.』
『なんだ?』
『この箱を引き上げて人を助けてくれ』
こんなやり取りをしている最中に他の者が割り込んだ.
『無辺大海の中に箱の中で人の声がするとは奇怪だ.きっと厄物だぞ、縁起でもねえ.棹で押してしまえ.』 ベビジャン慌てて.
『私は厄物なんぞじゃない.人間だよ.助けてくれ.』
『人間なら居住、姓名を言え.』
『濟州の裴乞徳サ(ベ コトセ)だ.』 もう一人のものが言う.
『濟州と言う処は物色之地だ.人妻通姦に行ってあんな目に逢ったんじゃないのか?』
『その通りです.よくご存知で.』 ベビジャン助かる可能性が見えるので続けて.
『天のお助けか軒轅氏船を送り吾を発見するは救助の船なり.水に溺れて死ぬ命、お慈悲で助けて下され.』
『縁起が悪いから船に上げるわけには行かないが箱の蓋を開けてやるから泳いで行けるかの?』
『その心配は御無用.私は竜山、麻浦の江で犬掻きを覚えました.』
『海の水は塩分が有るので目に入ったら盲になるから目を閉じて泳がねばなりませんよ.』
『目は見えなくても良いから命だけは助けてください.』
『ならば盲になっても私を恨みなさるな.』と言いながら槌で錠前を一打ちで壊し蓋を
開け放した.ベビジャン裸の侭飛び出し目を閉じたまま必死になって犬泳ぎの恰好で地面を這って行ったが東軒の階段の石に頭をぶっつけ目先に火花が散らして転んだ.目を開けてみれば東軒に牧使殿をはじめ三公、六房官属、技生、使令等が居並び口に手を当てて可笑しさを堪えている様が見えた.牧使殿曰く
『貴官はどうしたのじゃ?』
瞬間的にベビジャン、愕然と事の成行を悟り畏まった.とっさに機智を発揮して
『ハハッ.小人の故郷が東小門外ですがつむじ風に当たり斯様になりました.』
殿は呵呵と大笑し衣類を出させて着せた.
―おわりー