隠君子 許生


作者:未詳
時代:李朝中葉


朝鮮の王都は、漢陽城内の王宮を中心にして北岳の麓に高官の邸宅が並び鐘路は商店街で盛り場になっている.清渓川から南は俗に言う下町で庶民の町であった.そして南山の麓は又貧乏人の町で官職にあり付けない貧乏書生が多く住んでいた.其の中の墨井洞あたりに許生の家が有った.そこは厨房一間、居間一間の藁葺きの家で今にも倒れそうなあばら家である.許生は雪や強風が部屋に吹き込もうが雨が漏れようが吾関せずただひたすら読書三昧に耽っている.彼の妻が針仕事などで辛うじて飢えを凌いでいる現状である.或る日妻がひもじさに耐えかねて泣きながら言った.
『貴方はずっと科挙の試験も受けずに本ばかり読んでどうするの?』
『うん、未だ勉強が足りないから科挙の試験をうけてもし様が無い.』
『それじゃ、何か仕事でも探したらどうなの?』
『仕事はしたこと無いから探したって仕様が無い.』
『それでは商売でもしてみなさいよ.』
『商売は元手が無いから仕様が無い.』
女房は怒ってがみがみまくし立てた.
『あんたは昼も夜も、本ばかり読んでいたのに習ったのは"仕様が無い"って言葉だけなの?仕事も出来ない、商売も出来ない、それでは泥棒でもしなさいよ.』

許生は本を閉じて立ち上がった.
『惜しい事だ.俺は10年を期して本を読んでいたのに7年で終わりになるとは.』と呟き乍ら家を出た.街に出たけれど知りあいが居ない.彼は鐘路に向かった.鐘路には豪商が多い.道行く人を呼びとめて聞いてみた.
『漢陽で一番の金持ちは誰かね.』
『そりゃあ、卞さんに決まってるじゃないか.』
許生は漢陽一番のお金持ち卞さんに会った.卞さんは金持ちでも町人だから身分が低い.士族に面会を要求されたら断るわけには行かない.貧乏書生の許生が話しを切り出した.
『私は貧乏なので商売の元手が無い.一つ手を着けてみたいことが有るから私に金一万両を貸してくれませんか.』と臆面もなく図々しく言う.暫く考えた主人が.
『はい.いいでしょうお貸ししましょう.』と答えその場で一万両の手形を渡した.許生は有り難うの挨拶も言わないで其のまま一万両の大金を懐に入れて悠々と立ち去った.
卞さんはお金持ちなので家族、使用人、食客など取り巻き連中が多い.一万両の大金を持って家を出て行く許生の格好を見ればどうみても乞食である.士族の身なりとは言え帯に付いている房(フサ)は形だけだし、革草履の踵は擦り切れているし、網帽子('Kat=カッ')も羽織もよれよれだしみっともなくて見られた物ではなかった.許生が去った後取り巻き連中が呆れて卞さんに聞いた.
『あの人は旦那さんが知っている人ですか?』
『いや.知らない人だ.』
『旦那さんは今しがた顔も知らない人に一万両を貸してやりました.何処に住んでいる誰か、名前も聞かなかったのですよ.一体どうする積もりですか?』
躍起になって問い詰める.
『これはお前たちがかかわる問題じゃない.大概金を借りに来る者は必ず自分の考えをあれこれ長く説明するものだ.約束は必ず守ります、信じてください、のような言葉をくどくどと述べるし顔の色も何処か暗い所があるものだ.然しこの人は着物や履き物は擦り切れていても話しが短く人に怖気しない堂々さが有って少しも恥ずかしく思う気色が無かった.物欲がなく自分の成す事に満足している人に違いない.だから彼がしてみたいと言う商売も小さい事では無さそうだし、儂もまた彼を一度試して見たかったのだ.それに断るならいざ知らず一万両をやりながら名前なぞ聞いて何になるのだ.』と平気で答えた.

一万両を手に入れた許生は家にも寄らず "安城は京畿と湖南の別れる所で三南の要衝だったなあ" と呟きながら其の足で安城に下ってこれからの拠り所を決めた.あくる日から市場に出て栗、棗、柿、梨、石榴、橘、柚子等の果実を手当たり次第買い占めた.売り手の呼び値通り買った.時には上金まで添えて買っては片っ端から大きな倉庫に入れておいた.あまり日時がたたないうちに遠からずして市場から果物が無くなった.人間社会には慶弔事が有り果物は必需品である.果物恐慌が起きた.許生に倍の値段で売りこんだ商人が今度は十倍の値段で買い戻して行った.
買い入れた果物を皆売り払った時には一万両の金が十万両になっていた.許生は喜ぶ所か溜め息をつき、「たかが一万両の金で物価に波瀾を起こさせるいう事は国の経済の度合いがどんなであるかを測り知るべしだ」と溜息まじりに独り言をつぶやいた.

  「ここでチョット一息ついて訳者の独り言です.」
*** 我々は「身体髪膚之を父母に受く.敢えて毀傷せざるは孝の始めなり.」が憲法第一条位に考えた時代を経てきました.髭を剃るのはもっての外、髪を剃るのは坊主だけ.伸び放題に放って置くと顔を隠して先が見えない.それで頭の上に結わえて髷を作って止めた.然し額際の短い髪が下がって邪魔をして仕様が無い.それで便宜上額の上だけチョッピラ剃って人工禿を作ったのが日本式である.韓国ではトコトン原則を守って髷を結わえた後、鉢巻きをする方法をとった.普通の鉢巻きでは用を成さない.専門の物を作った.それが"網巾"(マンゴン)である.「君子は衣冠を正す」と言って羽織と帽子は無くてはならない君子の君子たる外観である.その帽子、網製の帽子、"網冠"の名前が「カッ」てある.カッをかぶる為には網巾(まんごん)が無ければならない.カッもマンゴンも作る材料は馬の尻尾の毛である.馬の尻尾の毛を編んで作る.実に精巧な手芸品である.カッ(網冠)をかぶり、羽織を纏うのは仲人以上の階級で常民以下には許されない.
目も鼻もおっぱいも作りなおす今の時代では想像するのにも一苦労ですね. ***

その後許生は鍬、鋤、包丁等の金物、綿、木綿、絹布等の生活必需品を仕入れては船に積み済州道に渡った.
濟州島にあがった許生は持ってきた品物を売って其の金で馬の尻尾の毛を片っ端から買い集めた.許生は"フフ、数年もたたないうちに人々はちょん髷を結えなくなるだろう."
と呟いた.濟州島は朝鮮唯一の馬の産地である.マンゴンとかカッを作る原材料の馬の尻尾の毛は皆濟州島から出る.それを買い占めているから材料が無くて網巾も網冠も作れない.品薄の状態だから値段が上がるのは当然である.許生は10倍を儲けて毛を売った.馬の尻尾の毛だけで10万両が100万両になった.

或る日許生は年老いた船頭に訊ねた.
『海の中にね.人が住めるような無人島が無いのかね?』
『有りますよ.前に西海に三日くらい行った所で嵐に会って島に上がった事が有りますがサーモン(沙門)とナガサキ(長崎)の中間ですが花や果物がいっぱい有りましたし鹿とか山羊なども多かったし海には魚も沢山ありました.住み良い所でしたよ』
『貴方が儂を其処へ案内してくれれば一生楽に暮らせるようにして上げます.』
そういって風具合の良い日に東南方に船を出した.島に上がった許生は山の頂上に登って辺りを見まわしたがざんねんな表情で舌打ちをした.
『土地が100里にも満たないというのに何に使えるだろうか.只土地が肥沃で湖の水が清いからまあ金持ちの道楽には使えるかな.』と言う.側で聞いていた船頭が.
『島には人が住んでいないのに誰を相手に暮らせますか?』
『徳有るものには人が集まるものだ.人がいないのを心配する事は無い.』

この時、辺山地方に数千の野盗、山賊の群れがはびこり、我が物顔で跋扈し周辺を荒らした.村や郡の役所では官卒を動員して討伐をしているけれど容易に退治できずにいた.しかし盗賊共も官の警戒が厳しいので活動が制限され次第に辺境へ追い詰められ今にも一網打尽の危機に居た. 許生がこの話しを聞き盗賊の巣窟を尋ね頭目に逢い諭した.
『お前等1千名が千両を盗んだとしたら独りあたりの分け前が幾らになるのかね?』
『そりゃあ、一人当たり一両でしょうが.』
『では、お前達に妻子は有るのか?』
『無い.』
『では、田畑は有るのか?』
『フン、田畑があり、妻子があれば誰が泥棒などになりますか?』
『それでは何故嫁さんを貰って家を建て牛を買って田を耕し平和に暮らして盗賊として追われる心配も無く自由に出歩き、人間らしい暮らしをしないのか.』
『それを望まない人が何処に居ますか?お金が無いから出来ないのですよ.』
『ハッハハ.お前達が泥棒を働きながら金が無いと言うのか? それでは儂がお前達に金をやろう.明日海辺に来れば赤い旗を揚げた船がそこに有る筈だ.其の船にはお金がいっぱい積んである.お前達が好きなだけ持っていけ.』と言って許生は帰った.
許生が帰った後盗賊の間では色々な議論が持ちあがった.「きちがいだ」「官のスパイじゃないか」「話しの様子や態度からして悪意は無さそうだ」「話しが馬鹿げている」等と結論が出ない.しかし好奇心はそそられる.それでぞろぞろと海辺に出てみた.果たして赤い旗を翻している船がある.よく見ると船の上に許生の姿が見える.やがて船から艀が下ろされて岸に来た.皆は艀舟に乗って船に上がった.そこには30万両の金が積まれていた.盗賊共は肝を潰すほど驚いた.これは普通の人じゃない、神様のような大変なお方だ.皆が一列に並んで跪いた.

『将軍様.お指図通り従います.おいらを率いてください.』
『それではお金を持てるだけ持ってみろ』盗賊達は各自金が入った袋を背負ってみたが百両を背負うのがやっとであった.それを見て居た許生が言う.
『お前等が百両も持てないくせに泥棒をしたって何になるのか.今お前等が平民に返ろうとしても既に泥棒の名簿に連なっているからそれも出来ない.だから行く所も無かろう.官憲に追われる心配の無い所に連れて行き楽に暮らせるようにしてやる.わしがここで待っているからお前達は百両づつ持って行って女一人と牛一頭づつを準備して三日後にここに集まれ.お前等仲間全員がそうしろ.』盗賊共は二つ返事で百両袋を一つづつ背負って散って行った.許生は其の間に2千人が1年間食える食料と必需品を仕入れて船に積みこんで待った.期日に各自女と牛を連れて集まってきた.一人の落伍者も居なかった.
許生は彼らを皆船に乗せて、かねて見ておいた黄海の島を目指して帆を上げた.
国では盗賊ともが居なくなったので平安を取り戻した.

無人島に上陸した一同は早速村作りに取りかかった.木を切り倒して家を建て、竹を切って塀を囲み、井戸を掘り排水溝を設けるなどみんながよく働いて生まれて始めて家庭がもてる様にした.それから田畑を耕して種をまいた.許生の準備が完全であったし土地が肥沃で手数をかけずに良く育った事、そして気候が順調だったし皆が張り切って働いた結果大豊作を得た.取り入れを済まして調べたら3年分の食糧を蓄えても余りが相当にあった.
許生は余分の食料を船に積んで長崎に行って売った.長崎は日本の領土で人口が31万だったが当年は凶作で食料が足りなかったので瞬く間に売れ、銀百万両を貰って帰った.
許生は百万両の資金で2千人を無人島に移住させ一年後に百万両を回収した事になった.
「これで漸く何かをしたような気持ちだなあ」と呟いた後、村の者を全部集めた.
『儂が初めお前等とここに上陸したときにはお前等に安定した暮らしをさせ、文字も教え着物とか日用の品物も作らせ、礼儀作法も教えるなど国作りに似た事をしてみたかったが土地が狭くてこれ以上発展の余地が無いし、それには儂の徳も足らないのでこの島を離れる積もりだ.お前達は子供が生まれたら右の手で匙を取るように教え、兄弟が譲り合う習慣を付ける様に躾なさい.』と島を彼等の自治に任せた.
許生は自分が乗って帰る船以外の船を全部焼き払い島から出入りが出来ないようにし、銀50万両も海に沈めて誰も使えないようにした.最後に『儂と共に国に帰りたい者は出て来い』と言って希望者を船に乗せて帰った.島の平和な生活を守る措置を取ったのである.


国に帰った許生は国中を回り貧しく頼りの無い人々を助けた.そして10万両が残った.
"これは卞さんに返そう"と、5年目に卞さんを訪ねた.
『貴方は私を覚えていますか?』卞さんは驚いて答える.
『貴方の顔色は少しも変わっていませんね.一万両を無くしませんでしたか?』
『はは、お金の有無で顔色が変わるのは貴方方に有る事です.一万両がどうして道を変えましょうか.』 笑いながら10万両の手形を卞さんに差し出して言う.
『私がひもじさに耐えかねて勉強半ばで貴方に一万両を借りたのが恥ずかしいだけです.』
卞さんは許生の脱俗の態度に尊敬し改めてお辞儀をしてから10万両を辞退し貸した金と利子だけ受け取り残りを全部返そうとした.許生は大いに怒り.
『貴方はどうして私を商人として相手にしますか?』と、席を立ち帰ってしまった.
卞さんは密かに跡をつけてみた.彼は真っ直ぐに南山の麓の小さなあばら家に入っていった.ちょうど近くで洗濯物を干していた婆さんに卞さんが近寄り訊ねて見た.
『あのあばら家が誰の家ですか?』
『うん、許生員の家ですよ.いつも貧乏しながら本ばかり読んでいたのにいつか家を出て便りが無いまま5年になるのよ.其の女房が独りで暮らしながら家出した日を忌日に祭祈を上げているのよ.』卞さんは始めてその人が許氏である事を知り溜め息を漏らしながら帰った.思えば許生は"ひもじさに耐えかねて勉強を打ち切った"立場に居ながら一万両の金の中で自分のためにはびた一文も使わず、10万両に増やして返しながらなお貧乏のままで居られるのは凡人の出来る業ではない.

翌日卞さんは許生から受け取った金子をそのまま上げようとしたが頑固に断りながら、
『私が金持ちに成りたかったら100万両を捨て10万両だけ残す筈が無いでしょう.これから私は貴方の助けを借りて暮らす積もりです.貴方は我が家の食料を人数に合うだけ下さい.又着物一着分だけの織物を下さい.足りないように、余らないようにして呉れれば一生恩に着ます.貴方は財物で私を悩まさないで下さい.』卞さんは色々と説得をしてみたが遂に曲げなかった.この時から卞さんは許生宅の米櫃を開けて見ては米を満たしてやりたんすを調べて擦り切れた着物があればそれを作れる分だけの同じ程度の反物を供給した.許生もそれを見て喜んでいた.時に少し程度が過ぎる物(高級な)を持ってくれば許生は叱り付けた.
『何故お前は吾に禍を呉れようとするのか.』と言って使わずに返した.しかし酒を一本下げてくると非常に喜び差しつ差されつ酔うまで飲んだ.一年、二年と過ぎる間、二人の情誼は篤くなり互いに理解し尊敬するようになった.或る時卞さんは普段知りたかった事を聞いてみた.

『5年間にどうして一万両の金で百万両を儲けましたか?』
『それはたやすい事だよ.我が朝鮮は外国との貿易がなく全ての物資が国の中で生産され消費されるに尽きる.千両の金では全ての品物を買い占める事は出来ないが一つの品種なら買い占められる.更にその金を十に分けて十種類を買っておいたとしたら一、二の値段が上がらなくても他の品で補う事が出来る.しかしそれは小さい商人のする事で、大体一万両もの金を持てば大よそ一種類のものを買い占めることが出来るし車とか船に積んで運べるから一郡で生産された物を買い占められるから大きな網で魚を掬い取るようなものだ.例えば陸で生産された物の中で一つを選んで密かに買い占めておくとか、海での海産物の中で一つを選り買い占めて貯蔵しておくとか、薬材のうちで一つの材料を買い占めておけば全ての商人にそれの手持ちが無くなる.これは国民を困らせる方法です.若しも国の仕事に従事する官吏がこう云う事をすれば国に病を齎す事に成ります.』卞さんは話しを聞いて又問うた.
『それでは、最初貴方はどうして私が一万両を快く上げる事を知って私を訪ねて来たのですか?』
『貴方が私に一万両を出してくれる自信は無かったですが誰でも一万両を持っている商人だとしたらださずには居られないだろう.私自身が自らの才量を弁えてみるに優に一万両を儲け得ると思えるけれどもしかし運命と言うものは遥か向こうの天に有るのだから誰も知ることは出来ない.だから俺と言う者を知り使いこなす者は'福'が有る人だ.金持ちが更に金持ちに成るのは天の命によるものだ.だからその人は金を貸してくれるに違いない.私が一万両で商いをしたのは彼の'福'を借りてした事だ.だから成功したのだ.若しも私が自分の財産で独り商いをしたとしたら成敗はわからなかっただろう.』

卞さんは話題を変えてみた.
『いま士族階級の間では南漢山城で受けた丙子胡乱の恥辱を晴らそうと工夫を凝らしている.こういう時こそ知略と勇気を兼備した士族が奮い立って一肌脱いで見る時ではないか?貴方のような才能を持っている人が如何して埋もれたまま朽ち果てようとするのですか?』
『ハッハハ.昔から埋もれたまま生涯を過ごした人が数え切れないほどだ.あの趙聖期と言う人は列国に使臣に行っても役目を手際良く果たせる人だが麻の一重で一生を終えた.
柳馨遠は厳しい戦場の中でも数十万の兵糧を運べる能力があっても淋しい海辺をさ迷っていたではないか.だから今の国政に携わる者達の器量は測り得る事だ.俺には商いの才能が有るからその金を持ってすれば一国の王様の首も買えるだろうがそれを海に捨てて来たのはこの国では使いみちがないからだ.』卞さんは長い溜め息を漏らし帰って行った.

卞さんは大臣の李浣とはとても親しい間柄であった.李公が御営大将に就任して彼と世間話をしているうち、
『最近巷に特異な器量を持ちながら隠れて暮らしている隠君子を知っていないか?』と人材の推薦を希んだ.卞さんは許生の話しをした.李公はそんな人が城内に住んでいると聞いて大いに驚き、
『それは珍しい事だね.その人の名前は何と言うのか.』
『私が3年間も彼と親しくしていますが未だに名前を知りません.』
『その人は奇人に違いない.お前と一緒に会いに行こう.』
やがて日が暮れてから李公は従者を退け卞さんと二人だけでお酒を一本下げて南山麓の貧民窟に許生を訪ねた.
卞さんは李公を玄関の外に待たせておいて自分だけが先ず部屋に入り御営大将と一緒に来た旨をくわしく話した.御営大将と言えば陛下の侍従武官長であり陛下の護衛のみならず宮殿内の治安の総責任者で総理大臣の領議政であろうとも一目置かねば成らない権力の実力者である.

許生は別に関心を見せないで
『とにかくお前が持って来た酒壜の栓を速く開けろよ.』と催促して二人で飲み始めた.卞さんは外に待たせた李公に申し訳無く気が気でないので何回も李公の事を話したが許生は聞かぬ振りをして酒を飲んでいたが夜が深くなってからやっと.
『お客さんをお招き申せ.』と客を部屋に上げるように言った.

李公が入ってきた.許生は座ったまま迎える.李公はどのようにふるまったらよいかわからなかったが落ち着いて、国で人材を求めている旨を話した.許生は手を振り、
『夜は短く、話しは長くてじれったいね.今君の役目は何かね?』
『御営大将です.』
『それでは国で信任される臣下だね.私が"臥竜先生"を推薦すれば貴公が陛下に奏請して三顧草廬をさせることが出来るかね.』李公は頭を下げしばし考えた後、
『難しゅう御座います.その後のお話しを伺いたいです.』と答えた.許生は
『私は二つ目と言うのを習っていないのだ.』李公は重ねて聞いた.許生は
『明国の将兵等が朝鮮とは過去に恩義が有るからといって、その子孫が朝鮮に亡命して各地て流浪の独身を送っている.君が朝廷に建議して貴族の娘等を彼らの嫁にやり金隆とか張維の財産を没収して彼らの暮らしを助けてやる事が出来るかね?』
李公は沈思した後.
『難しい事です.』と答えた.

許生は、
『これも難しい、あれも難しい.出来る事は一体なんですか?.それではとても容易な事があるが君に出来るかね?』
『どうぞ是非お聞かせ下さい.』
『大凡、大義を天下に広めようとしたかったら先ず天下の英雄豪傑共との交友を深めなければならない.又他国を討とうとすれば先にスパイを使わないで成功した験しがない.今満州に本拠を置く清国(チンクォ)は中国人には心を許していない.今では朝鮮が他の国より先に降伏をしたから彼らは我々を中国人より信用しているはずだ.今や彼らにおねがいして我が子弟を派遣し学問も習い役人にもなって、昔の唐元の故事にならい、商人も自由に往来が出来るようにさせたいと願い出れば彼らは喜んで聞いて呉れる筈だ.そうなれば国内で子弟を選抜し、彼等のように髪の毛を切り落として辨髪をさせ彼等の服装をさせて送り又彼等の賓貢科を受けるようにしろ.そして百姓共は商人になり遠く江南の地まで入り込み彼等の内情を探知しその地方の豪傑達との交友を深めればその時は兵を起こして天下を掌握しまた其の上過去の恥辱も洗い流そうという物だ.そうしておいてミン(明)の皇族である朱氏を探して皇帝に奉り若し朱氏が居なければ天下の諸侯と合い通じ信望有る人物を選んで皇帝に仕立てればうまく行けば大国の師匠の国になり少なくとも伯舅の国にはなるだろう.』とまくし立てた.

この話しを聞いて暫く唖然としていた李公は漸く口を開いた.
『士族達は体を慎み礼法を守るのを本領としています.誰が自分の子弟に髪を切らせ胡服を着せるでしょうか.』この答えに許生は怒声を発した.
『士族とは一体何者か?.彝貊(イミャク=エビス)の地に生まれて士族を自称し鼻に掛けて何をすると言うのか?.着物を全部白ずくめに着て、これはお葬式の服装じゃないか?.髪の毛を一つに括って頭のてっ辺に髷を結わいちょうど南蛮の棒髷じゃないか?.それでも礼法を云々するのか?.昔、樊於期は私怨を晴らそうとするのに髪を剃るのを躊躇わず、武霊王は国を富強にする為胡服を纏うのを恥じなかった.今国家の仇を討つと言いながら、ちょん髷如きがそれ程惜しいのか?.それだけじゃない、将来剣術、騎馬、槍術、弓術、礫投げに至るまで身に付けねばならぬのに邪魔になるだけの広い袖を直す工夫もせず礼法のみを口にするのか?.俺が三つの事を話したが其の内一つも出来ないと言いながらそれでも陛下の信任を受けている臣下と言えるのか?.お前のような者は斬首にすべきだ.』と怒鳴りながら左右を見廻して刀を探し今にも切り殺さんばかりの剣幕であった.李公は大いに驚き隙を見て咄嗟の間に裏窓を体当たりで打ち開け一目散に逃げ帰った.

あくる日もう一度許生の家を訪ねたが既に家を空け主は行方をくらまし冷たい風だけが吹き抜けて行った.

 =おわり=