第1回 赦してしまう (その1)

ひとの名前が思い出しにくくなって久しい。
役者の名前を思い出すために思い浮かべた映画のタイトルも滅多なことでは出てこない。
小さな字が見えない。
ひとが呼んでいるのに気づかない。
疲れが抜けない。
お風呂に入ったときについ“あぁー”といってしまう。
小田和正を赦してしまう。よろこんで聴いてしまう。
これに関しては十年以上前にカーペンターズのベスト盤を六本木ウェイブにて購入という前兆があった。
以来オリビアとアバの棚には近づかないように注意していたのだけれど。
パートリッジ、デフランコの両ファミリーとかBCRとかカジャグーグーとか。
ところがわが家には、“栄光のロック&ポップス・ベストコレクション”なる12枚組のCDボックスセットが
数年前から何故か、あるのだ。
うん、うん。

よく新聞に“魅惑の昭和ムード歌謡全集”なんかと並んで広告の出てる通販のあれです。
オリビアどころかジンギスカン(あれは厄災だった)やダニエル・ビダル(これは呪いかな)まで入ってる。
こんな事故がこれからますます増えていくのでしょうか。
そういえばここ数年、家人も関知せぬ(らしい)麻布などがどんどん届く。
どこのお宅でも謎のCDや本や布やボタンなどがこうして積みあがっていくのでしょうね。
齢を重ねるというのはこうしたものでもあったのでした。
赦して、赦して。

主夫、渡辺カフカ 2005.2.5

weekend cornerへ

          第2回 赦してしまう (その2)

元バッド・カンパニー、フリーのポール・ロジャースを歌い手に迎えて
あのクイーンが欧州をツアー中なのだそうである、冗談ではなしに。
朝日にそう書いてありました。
冗談じゃない!!
ファーストを日本で二番目か三番目に聞いた友人がその場(新宿レコード)で買って帰り、
沼津の自宅で早速聴かせてくれた高校時代の大事な思い出(自分が三番か四番目だって自慢したいわけです)のバンドだったの。
ポールは前の奥さんが日本人だからフレディーよりも日本語上手。
ブダペストだかプラハだかでアンコールに“手をとりあって”を演ったあとで
ブライアン・メイと手をつないで
「次はあなたの街へ!」なんてソウルフルにMCしているわけです(たぶん)。
赦すまい。
こういう半端に業界にしがみついている連中は未練がましく見苦しいばかり。
そこへいくと(って何処)
前回紹介した“栄光のロック&ポップス・ベストコレクション”の中核をなすのは
世に一発屋とか散髪屋とかいわれるひとたちで
今はきれいに消え去り跡形もない。
潔いひとたちである。
たとえば
セーガーとエヴァンス“西暦2525年”
マッシュマッカーン“霧の中の二人”
バスター“すてきなサンデー”
マンゴ・ジェリー“イン・ザ・サマータイム”
オーシャン“サインはピース”
ストーリーズ“ブラザー・ルイ”
といった方々です。
ベルボトムやニットのベストや切り返しの長袖Tシャツまみれの匂いに
70年代も中盤にはのけぞったものですが
きっぱり消えたからこそ永久凍土に封じられたマンモスのごとく、
ビッグネイムとは違った体温を持って鮮やかにその時代の雰囲気を微細に刻印していてついつい、赦してしまうのでした。
懐かしさだけじゃありませんて。
いや、ホント、、、

主夫、渡辺カフカ 2005.2.12

          第3回 赦してしまう(その3)

齢を重ね、脳の中のすき間が徐々に増えてきて
すき間の大きさに応じてそれぞれ                 
チチカカ湖だの、浜名湖だの満濃池だのと名付けて楽しめるようになり、
こころも記憶も軽みを増してくると、
あまり細かいことにこだわってもいられなくなってくるようであり、
また余白というものをことのほか好むようになるらしい。
時代の先を行くものも良いけれども周回遅れもこれまた良いし、
入念に作りこんだものも素敵だけれども、
八分目で「出来上がり」って言い放ってしまったようなのもぐっとくるのである。

たとえばボブ・ディラン。
その昔、時代のトップランナーをやっていた美青年の頃から、
相当年寄りめいた風貌をしていて、ことに老人歴の長いひとですが、
デビュー40年を経た近ごろはもう、堂々たる本格派の老人ぶりです。
というか老人です。
数年前の“グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユウ”というトラッドのカヴァー・アルバムでの歌いぶりのヨレ具合などは、“徘徊老人スレスレのブルース”感が眩しい老人ロック、縁側フォーク誕生のマニフェストのよう。
フォスター作曲の“ハード・タイムス”などを聴くと、
「あんた、じゅうぶん辛い思いをしてきたよね。もう頑張らなくてもいいんだよ。ゆっくりおやすみ。」と、つい合掌したくもなる油断できない魅力に溢れている。

たとえばブライアン・フェリー。
かつてのヴェルヴェット・ヴォイスが先のジャズ・アルバムでは見る影もなく、
毛羽を剥かれたニワトリのように痩せ細っているのだけれども、
それを自覚できないのか、加工して隠す素振りさえ見せず、
長年のファンとしては淋しく切ない思いもしたものですが、
稀代のナルシストである彼が自分の衰えに無頓着であるはずもなく、
容貌、歌声ともに衰えたわが身をサンプルに
“カサノバ最後の恋”を気取ってみせたドキュメント的大芝居とここは解釈したい。
ただし近作“フランティック”(それにしても映画好きなひと)では古い録音も混ぜたりして若さへの未練が見え隠れしているのが気になる。
振り切るべきはさっぱり振り切り、
ジャケットでタバコを小道具にするのはやめにして、
ルーツであろうアイリッシュ・テイストのアルバムで素直に枯れて見せてほしい。
近年異様に若返って現役感にむせかえっているボウイの今後とあわせて見ていくのも一興かと思います。
新曲は“老いはドラッグ”、ですか?

偶然とはいえ同じ時代を長々生きて(僕の方がぜんぜん若いのですけど、いや、ほんとに)、
共に脳内のチチカカ湖を育ててきた仲だもの、
歌いぶりがいくらかもたついていても、少々声が出なくても赦しましょう。
応援もいたしましょう。
齢を重ねて初めて知る喜びや楽しみを、いくばくかの悲哀や郷愁とり混ぜて
新しい時代に描いてくれるならば。
音楽は愛で聴くもの。

主夫、渡辺カフカ 2005.2.19  

          第4回 アンドロメダ・ハイツ、101 

幼いこどもは

おもちゃの宝石やステレオ・スコープのバンビのバッヂなどの
赤や青の輝きにことのほか弱いものであるらしい。
僕自身、まだ愛らしい三つか四つの頃(ふふふ)、
西武百貨店のクリスマスツリーに飾ってあった赤だか青だかの球形のオーナメントに
しがみついては握りつぶし、
母親をして店員さんに平謝りに謝らせ
今に至る四十有余年、折にふれてはちくちくと蒸し返されるという
なんとも暗い荷物を背負って生きてきたのだった。
こどものこころはあの安っぽいキラピカを見たらもう我慢できない。
むしゃぶりつかずにはいられないのだ。
あれは猫に対するマタタビ、犬にとっての骨かズック、
でなければ女の麻の布のようなものである。
いちど接したら我を忘れ、手にできなければ世界が暗転する。
ん?
この事態、ほとんど恋ではありませんか。
うん、うん。

で、ブライアン・ウィルソン。
こどもの恋はキラピカへのフェティッシュな想いで始まり、
年齢とともに他者への関心がモノからヒトへ、
さらに異性(主として、ね)へと移って、
経験を積みながら利己的な愛情を利他的なものに組み替えていくものなのでしょうが、
彼の場合、この望ましい成長をキラピカに対する偏愛が妨げた。
が、故に稀有な名曲をたくさん生み出し、
同じ理由から長らく音楽の一線を退くことにもなったのだった。
洗練されたハーモニーとよく作り込まれたサウンドが支える
幼稚なくらいシンプルなメロディに乗って、
キラキラ光る青い玉をサーフィンに、赤い指輪を女の子に、
緑の首飾りを車に置き換えたような歌詞が軽やかに歌われていくさまは、
健康的で爽やかなパブリックイメージとはうらはらに
映画“ブルーベルベット”に感じる異様さをどこかにはらんでいる、、、でしょう?
(学生のころに遅ればせながらLPを買って聴いた感想は、
ビーチボーイズってわざと時代遅れを演じてみせるマニエリスムのバンドだったのか、
というものでスパークスやデフ・スクールなどと並べてよくかけた)
そして昏い世界を彼は長いこと彷徨うことになるのだけれども、
彼の精神のバランスを回復させたものは
周囲の善意や精神医学の効用もあったにしろ、
結局のところ彼の老いによる衰えではなかったろうか。
老いて、もう立派に成長する必要なんて特にないのだ、という開放もあるのだ。
時の流れの中洲に立ちつくすひと。
アンドロメダ・ハイツの住人。
四十年近く前のマテリアルと嬉々として戯れる“ブライアン・ウィルソン・プレゼンツ・スマイル”を聴いて,
そんなふうに思った。

主夫、渡辺カフカ 2005.2.28

       第5回 想い出はターンテーブルの上を回る 

“小さな恋のメロディ”という古い映画の中で使われていた
ビージーズの“若葉の頃”を聴くと
いまでも決まってふっと切ない気持ちになる。
当時中学生だった自分のまだ幼く瑞々しかった(はずだ!)
こころの震えやダイナミズムのようなものが
三十年以上を経た今でもこの曲を聴くたびに味わえるような気がする。
イントロが過ぎて歌声が聴こえはじめると
通学のバスの中から見えたバイク屋の店先だの
当時愛用していたラジオ(ナショナル
GXワールドボーイ!)の置かれた勉強机の様子だのといった、

特に意識することもなかった光景の切れ端や
初夏の晴れた日中に歩道橋の上で吸い込んだ湿った空気や
中学校の技術室の油じみた匂いなんかが
スリ硝子に映った逆さの画像みたいに
すこし遠くにふんわりと甦る。
そのひとつひとつはおそらく事実とはかなり違っているはずで、
正確には甦るとも言えないのだろうが。
ラストのトロッコのシーンで流れていた
CSN&Yの“ティーチ・ユア・チルドレン”の方がずっとお気に入りだったのだけれども、
過去の情景を呼び起こす力についていえばこちらの方がはるかに強い。

はじめてオーティス・レディングを聴いたのは小学校六年生のとき。

友だちのお兄さんの部屋だった。
ドック・オブ・ザ・ベイがかかると
「ふやけててまじー!」などと囃し立てながらもその部屋でみんなで食べて満足した
インスタントラーメンの味や袋のデザインが想い出されて、
つい我が“松ガ枝町サーガ”の追憶に浸ってしまう。
高校一年生のときに

幻に終わったストーンズ武道館公演のチケットを求めて
慣れない東京の街で友人と右往左往した記憶は
何故かちあきなおみの“喝采”とセットになっている。
こういうことって何十年も流行り歌を聴き続ける
まことに個人的な、密かな愉しみのひとつです。

二十年後の自分に、今この現在を映し出す曲は何かしら。

カエターノかノラ・ジョーンズか
それともピアノの発表会のために八歳の我が豚児が
つっかえながら行きつ戻りつ稽古している
サカモトの“メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス“だろうか。
ゴッド オンリー ノウズ。

主夫、渡辺カフカ 2005.3.5

       第6回 赦してほしい その1

このところまたまたボウイに嵌まり込んでいて

“ロウ”以前の作品と最近作の“リアリティ”を
ぐるぐると巡るようにしつこくかけているのだけれども
“ヤングアメリカンズ”だけパスしていたのを思い出して
聴いてみたらこれがよかった。
うれしい。
リリースされて三十年。
今回がいちばんよく聴こえる。
なかでも三曲めの“ファッシネイション”の
絶えずこちらの腰を突き上げ、みぞおちでとぐろを巻くようなビートと
激することなく、抑えた調子で首すじから耳元に這い上がる
歌声の気持ち良さ。
なぜこんなにも長い間気づかず来たのだろう。
というよりなぜ今ごろになって気づいたのだろうか。
自らの迂闊と鈍感を恥じるばかりですが
かつてよりもずっと魅力的に見える昔のガールフレンドに再会して
少なからずうろたえているような感じ。
きまり悪くもちょっとうれしい、っていうのはあくまで想像だけど。
女の子とちがって音楽の場合、
気軽につきあいを再開できるのがよいなぁ。
ホント、ホント。

主夫、渡辺カフカ 2005.3.13

      第7回 赦してほしい その2

極度の貧困ゆえに不幸にして未だi-podを持っていない。
風の便りに聞いた話によると、
i-podをもっているお金持ちの間では
i-podに千も二千も曲を入れて、
それをシャッフルして聴くのが流行っているのだそうです。
これは楽しいだろうなぁ。
二十曲程度のコンピレーションCDをシャッフルするのとは
意外性の落差が違うもの。
好みの曲だけ山のように揃ってるFM局を所有したような、
相性ピッタリのDJを囲い物にしちゃったような、
目隠しをして芸者さんとじゃれあうような、
お大尽な悦びに溢れた毎日になるのだろうなぁ、
という気がします。

かさぶたがきれいに剥がれたときみたいに
ちょっとした気持ちのふさぎがコロリと落ちたのは
過日仕事場でラジオから流れてきた“カーマは気まぐれ”のおかげだった。
久々に、しかも出会い頭に聴こえてきた
ボーイ・ジョージの歌声に乗せられて結構ウキウキしつつ
いっしょに口ずさんでいたのでした。
“カーマカマカマカマカマカミーリーアン”。
これが効きました。
ボーイ・ジョージの場合、憑き物落としっていうよりは
憑き物そのものって感じなんだけど。
もともと好きな曲だったのはもちろんだけれども
それ以上に予期せぬタイミングでかかったのが大きかったのでしょう。
好きな雑貨屋さんやカフェで聴いて感激した曲なのに
家でもっといい音でかけてみてもいまひとつという経験はめずらしくない。
自分の肩を自分で揉んでもねぇ。
やっぱり下手でも他人にしてもらった方が気持ちいいのだ。
ひとはだいたい物事を自分の思い通りにしたいものだけれども
こころの中には自分の意思ではどうにもならない
“自分を超えたものに振り回されたい”願望があるのかもしれない。
いや、ある。
でなければ街で見かけた妙齢の女性のミニ姿に、
意に反して視線が吸い寄せられてどうにも離れないという摩訶不思議な現象に説明がつかない。
だから、あくまで一般論として、ね。

そう、そう。

主夫、渡辺カフカ 2005.3.19

       第8回 モテモテ音楽講座

先日、キング・クリムゾンを気持ちよく聴いた。

そういえばこの手のものには女性ファンがきわめて少なそうだ、家人も聴かないし。
難解系って芸術志向むき出しで野暮だから。

爆発していたり、陰にこもっていたり、
理屈っぽかったり、発狂していたり、よだれをたらしていたり
ハッタリかましていたりして、
さり気なさに欠けるせいだろう。
カフェでもかからないだろうし。
粋ではないものね。
粋でないものも僕は好きだけど。

 
さて、じゃあ粋なら女性にモテるのか?
個人的に粋なおじさん番付、東の横綱を張ってもらっているダン・ヒックスの新譜が出た。
二月には来日もしたらしい。
78年にサンフランシスコのクラブで観たおじさんはその時すでにおじさんだった。
ハンサムでもスマートでもなくお洒落でもない、
機知と諧謔に満ちた、ただただ粋なおじさんだった。
臭くなりがちなノスタルジーを見事にドライに料理したその音楽は
ウェスタン・スィングとかノベルティ・ソングとか
グッド・タイム・ミュージックとか呼ぶよりも
“粋人の音楽”というのが一番似合う。
二番目に粋なレオン・レッドボーン(このひとの初来日公演はトロピカル・ダンディ
ハリー細野がゲストだった)とあわせて
ぜひ聴いて欲しいのだけれどこれもあまり聴かれていないみたいだ。
粋であってもシニカルなのはあまりモテないのだ。
そういうのも僕は大好きだけど。

世間で最もモテるジャンルはやはりボサノヴァや重くないジャズのようで
これらはやはりカフェでも人気者ですね。
こういうのも僕は好きですが、
何故かさっぱりモテないなぁ。
ジョアン・ジルベルトとセルメンの違いも分かるし
スタン・ゲッツと山下洋輔の区別だってつくんだよ、
ホントに。

追伸、
ダン・ヒックスの新譜はまだ買っていないのでした。
出たからといってすぐに飛びつくのは野暮なので。
1800円を割ってからにしようと思ってのことではありません。
ホント、ホント。

主夫 渡辺カフカ 2005.4.3

       
       第9回 苦くて甘い水
  

音楽を聴くキーワードは二十代までは官能もしくは快感だった。
味に喩えるならばやはり甘さということになろうか。
のどを絞り上げるようなボウイや
宙から湧き出した蜻蛉みたいに震えるボランの歌声。
対して三十代以降のそれは共感のようなもの。
味覚でいえばもちろん苦味。
さして苦労を重ねてきた身でもないのだが、
若い時分に想像の中で苦味を加味して味わってきた曲たちも
自然とこころに沁みてくるように思えるところなど
人生というものはうまくできている。
それぞれのステージに見合ったように
ものごとの受け止め方が自然と変わっていく。
そんな中年の舞台に上がった自分の心深くに届く旋律には
なぜかアイルランドがらみのものが多い。

「癒し」という言葉があまり好きでなかったのは、

ごまかさないではっきり「慰め」と言えばいい
という気負いのせいなのだけれど、
慰めの必要なひとに向かってそう迫るのも酷な話なのだと
この頃はちょっとわかってきた。
永遠の田舎、アイルランドのダンス・ミュージックに含まれている気さくさや
ひと懐こさのようなものは
聴く者の気負いを取り去ってしまうのだ。
また、「800年もイングランドの植民地であり続け、           
この150年の間に、国内に留まった人口より数多くの人を
移民として海外に送り出してきた」(“アイリッシュ・ソウルを求めて”大栄出版より)
この国の持つ哀しみの色には
ひとの心を慰撫する何かが確かに備わっている。
移民として国や家族を棄てざるを得なかった人々の強烈な望郷の思い、
故郷を離れていった者たちに対する思慕の念といったものが
音楽に流れ込んでは堆積していったのだった。
アイルランドの香りは
肩を落としたひとの背にその手をそっと当ててくれる。
その節はお世話になりました。

ハイ、ハイ。

主夫 渡辺カフカ
 2005.5.2