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下にある「YES」ボタンから園児の保護者様専用のページに移ります。
左の画像がTOP PAGEになります。下記の4点をご確認のうえでご覧下さい。
保護者のページには毎月たくさんの写真がアップされていきます。お楽しみに。
また園だよりや登園許可証、与薬依頼書などの閲覧、ダウンロードもできます。

1. あなたは富士中央幼稚園の保護者ですか?
2. ご自分のパソコンで閲覧していますか?
3. ユーザー名・パスワードは第三者に教えていませんか?
4. 教育活動の一環ではないことをご理解下さいますか?




どこにいても、子どもの笑顔を願う1分間。
〜クリニクラウン大沢洋平さんの活動に学ぶ *●* 〜

 園だより「元気いっぱい 7月号」より抜粋 

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 7月になりました。梅雨はまだまだ開けません。園庭にはプールが設置され、子どもたちは水遊びや泥んこ遊びを楽しみに登園してきます。そして、空とにらめっこしながら「こどもまつり」を待ちわびている毎日です。

  富士中央幼稚園の「こどもまつり」は、こどもが思い切り楽しめる、こどものためのお祭り、というコンセプトはそのままに、昨年度かなり模様替えをしました。
 全天候型で雨天に楽しみを左右されないこと、くじら組のこどもたちが年長さんとして会場の皆にオープニングの言葉を届け、なにより素敵なお客様も招きました。
 
 それが「ピエロのようへいくん」。初めての出会いが、良いものになりますように、と願いながら迎えたお祭り当日。笑いと一緒にあたたかな思いまで届けてくれるようなパフォーマンスに、子どもたちみんな、(そして昔子どもだった大人も!)心から魅了されました。
 
 今年5月、読売新聞夕刊に5日間、「ようへいくん」こと大沢洋平さんの「クリニクラウン」としての活動がコラムに連載されました(「ピエロのようへい」HPに紹介)。記事を読ませていただき、そのあたたかさの源を知ることができました。
               *
 「クリニクラウン」は、日本語に訳すと「臨床道化師」。英語のクリニック(医療機関)とクラウン(道化・ピエロ)とを併せた造語です。文字通り、病院で療養中の子どもたち、そしてその傍らにいつも寄り添うご家族や看護師さん達の緊張をほぐし、場に笑顔を生んで、元気づけるのが役割です。病院ですから苦しく悲しい場面がもちろんあり、そしてそこが子どもたちの「日常」であるという現実があります。
 
 演技者として試行錯誤を重ねていた大沢さんは、2002年、修行のためアメリカに渡り、大学の講習ではクラウンのパフォーマンスや、私達が知っているよりもずっと幅広い欧米でのクラウンの社会的な活動を学ばれました。帰国後は毎年アジアの貧困地域の子ども達を訪れ、願いを込めた「笑い」を届け続けておられます。
 2004年オランダに「クリニクラウン協会」が世界で初めて発足、日本にも2006年、同協会が立ち上がりました。その年、大沢さんは協会のオーディションに合格、病院での研修を重ねて、「クリニクラウン」の認定試験に合格しました。認定試験があるというだけでも、この活動の専門性が伺えます。コラムには、10年来「クリニクラウン」として活動されてきた中で得た、かけがえのない経験(それこそご自身の宝物だと存じます)が綴られています。
               
 RED NOSE DAYというクリニクラウンによる世界的なチャリティ・イベントがあります。世界中どこにいても、正午から1分間、みんなが一斉に「赤いはな」をつけて身近な人と笑い合い、入院中の子どもたちに笑顔を届けるという趣旨で、子どもの幸せを願う多くの人々に支持されています。
 国によって日はまちまちですが、日本では毎年8月7日(はなの日)がRED NOSE DAYです。ようへいくんと出会わなかったら知らなかった世界です。(園長 小林直樹)


「砂場プロジェクト」始動! 育て、子どもたち!
 〜思いがたくさんつまった、たかが「砂」されど「砂」〜

 園だより「元気いっぱい 6月号」より抜粋 

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 季節は6月になりました。梅雨を迎える前に、子どもたちには屋外で思いきり遊んでほしい!というわけで、5月に砂場のそばにたっぷりの、しかも素晴らしく肌触りの良い砂を用意しました。砂場に、ではなくて「そば」になのがミソ。さあ、どうする子ども達⁉︎「砂場プロジェクト」始動です。

 
 この「砂場プロジェクト」の立役者の1人は卒園生の父・内装職人のTさん。綺麗に壁紙を貼ったり、カーテンをつけたりするのが本来の仕事です。
 建物で言えば最後の仕上げをするプロなわけですが、仕上げる前の状態がいい加減な仕事なら、当然綺麗に仕上げることなどできない。というわけで、臨機応変なんでも作ったり、修理したりすることができます。やれ門が開かないの、やれスノコが軋むのと、小さなケガならすぐに飛んできて治してくれます。感謝。
 本職の大工の仕事を長い間近くでよく見てきた人は、作り方や「仕事」の工程を目で覚えていて、家こそ建てないまでも小さな大工仕事は当たり前のように綺麗にこなせます。自分のできることと、できないことをわきまえていて、どうしたら幼稚園のために一番いい方法かを常にアドバイスし、時にはその道の専門家を連れてきてくれます。 
 
 この「砂」がそうでした。連れてきたのは、植木職人のOさん。それも園庭の欅(けやき)の木を植えてくれたやはり卒園生のお父さんでした。
 開園当初、子ども達が木登りのできる木を探していたところ、できるだけ低い位置に、腕より太い枝が伸びた欅をあちこち走り回って探してきてくれたのが彼でした。街路樹にする欅は幹が上の方までスッと伸びているのが通常で、大量にそのように育ててしまうため、こういう木は自然の中からしか見つからないのです。久しぶりに大きくなった子どもに会うように「太くなったなあ!」と懐かしそうに幹をさすってくれました。
 通常セメントなどで使う荒い砂と違い、植え木や芝に使う砂はキメが細かく、ふわっと柔らかくてサラサラなのだそうです。
「初めて触ったらちょっと感動するよ! この砂は房総の海岸で時間をかけて細かくなった特別の砂なの。ジャリっと尖った感じがない。色も違うでしょう? しかも水分を含めば団子にも丸めやすい!」
 流石、木と土のプロフェッショナル。自身が選び抜いた砂に愛情と自信を込めて「これは俺のセンス!」と日焼けした顔は満面の笑みでした。感謝。
 
 そして最後の主役は何といっても子ども達。砂場作りを自分たちの手で!とばかりに、バケツやシャベル等を使って砂場に砂を運びます。手足を使って、知恵を使って、そのうち仲間との役割分担を自然に思いつきながら、どんどん砂場を作っていきます。
 良い幼稚園は砂場を見ればわかる、とまで言われています。思いのままに創造できる砂場で、これから子ども達がどんなに多くを楽しみ、学ぶことでしょう。本当に楽しみで、嬉しくて仕方がありません。(園長 小林直樹)


「生み出す力」「考え続ける力」「立ち戻って考える力」
 〜東京大学総長・五神真先生に学ぶ「知」のプロフェッショナルとは〜

 園だより「元気いっぱい 5月号」より抜粋 

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 5月になります。桜色から移りゆき、新緑の美しい季節になりました。

 さて、明治10年の創立からちょうど140年を迎えた東京大学。戦後と戦前を各々70年、3回目の70年を迎える節目の年に、長男の教育学研究科への進学が決まり、東京大学大学院の入学式に参加する機会に恵まれました。その中で、五神真総長の式辞を、幼稚園を出発点に始まる小・中・高等学校、大学、大学院まで続く教育の道筋を貫くものとして拝聴させていただきました。難しい言葉を多用せず、むしろ誰にでも理解できる易しい言葉を使って、大切なことをお話くださいました。少し長くなりますが、抜粋してご紹介したいと思います。
        *
 総長はお話の前半、著名なお二人の研究成果を例にあげて、歴史的偉業のいずれもが日常的な経験への興味、ありふれたものから研究は始まり、やがて社会に大きな影響を及ぼしたことをお話されました。

◼︎面白がる・「共有」を信じる       
 皆さんにはまず自分自身が「面白い」と感じる素直な心の大切さを感じてほしいと思います。この心こそが、 知的好奇心の源であり、学問の出発点なのです。 そして、探求した先に何かが待っていて、それが他の人々と共有できるものになるかも知れないという直感も 重要です。それは「面白いことになりそうだ」という感触です。その直感と好奇心が、研究の芽となるのです。 こうして見つけた芽を大切にこつこつと育てることが研究することの本質なのです。 
 もちろん、新しいこと、人とは違うものにチャレンジすることは、並大抵のことではありません。失敗を恐れ ずに取り組む勇気が求められ、人から理解されない孤独な時間を過ごすこともあります。しかし、課題を克服し て一つ一つ明らかにしていくことの喜びや感動は、何ものにも代えがたいことです。大学院は、皆さんが自分の信じるところに従って邁進する学術の場です。「面白いことになりそうだ」「この先に皆と共有できる何かが待っているはず」 と信じる気持ちを大切にしてください。

 ◼︎深める・問いかける
 では、面白いと感じることを見つけ、それが他の人々と共有できそうだと直感したとき、次に、それを深めるにはどうすれば良いのでしょうか。 
 このステップは、一人では踏みだせないかもしれません。大学という場を存分に活用することが肝心です。その為に皆さんが今日からでもできることがあります。それは、 自分で見つけ面白いと感じた、そのテーマについて解きたいと思う問いを見出し、まわりの仲間や先生たちに問いかけてみることです。講義の中や研究会等でも 積極的に質問をするように心がけてください。 

◼︎客観的に見つめる・多様性を尊重する
 この「問いかける」という行為には、とても大切な意味があります。問うことによって、自分が不思議だと思 っていることを相手に分かってもらい、また、相手から聞き出したい情報を得ることができます。そしてなによりも重要なのは、自分のその問いが、そもそもどういう意
 
 味や価値を持っているのかということに
ついて、他者との関わりの中で知ること
ができるということです。 
 いろいろな考えや価値観があることを客観的に見つめることは、多様性を尊重することの原点なのです。

◼︎「知」の持つ力を信じる
 (世界に目を向けると、) 人類が創り上げてきた、⺠主主義や資本主義といった社会・経済の基本的な仕組みそのものを、今後どのように調整していくべきかが問われています。 
 こうした時代であればこそ、私達は知を放棄するわけには行きません。今こそ、知のもつ力を強く信じ、他者 を尊重し、丁寧に言葉を吟味し、冷静な対話を通じて、確かな共感、すなわち「知に支えられた真の共感」を作りあげ、広げていく努力を惜しんではならないのです。

◼︎学問の自由は「謙虚さ」が保証する
ここで、何よりも大切なのは、学問に対して自由であるということです。しかし、その自由は私達が、自然や人間や社会に対する謙虚さを疎かにしないという前提の上で保証されるということを忘れてはいけません。
          
 付け足す言葉がありません。最高学府で「知」のプロフェッショナルとして問われていることの原点は、すべて幼稚園で大切に育てているものとひとつながりであることをお感じになっていただければ何よりです。(園長 小林直樹)


絵本との「出会い直し」のすすめ
〜 絵本編集者・末盛千枝子さんに学ぶ 〜

 園だより「元気いっぱい 4月号」より抜粋 

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 桜の花が久しぶりにゆっくりと開いた今年の4月。いつか必ず開く花のように、子どもたちは確かに成長していきます。育む手と、見守る目。新たな1年間もまた、ご家庭と園と共に、大切な子ども達の歩みを、ゆったりと支えていきましょう。

 ご入園、ご進級、心よりおめでとうございます。
  さて、昨年度からご紹介したくて温めてきた一冊に、絵本編集者・末盛千枝子さんの著書『「私」を受け容れて生きる~父と母の娘~』があります。
 末盛千枝子さんの父は、彫刻家の舟越保武さんです。晩年脳梗塞で右半身を麻痺された後も、左手だけで仕事を続けられました。彫刻家のデッサンには、対象を見つめる様々
な方向からの視点が宝箱のように詰まっています。晩年左手で筆をとった女性のデッサン画には、舟越さんの優しさと厳しさ、人生の丸ごとが託されているようで、より美しさが感じられます。
 苗字が違うので、最初は末盛さんと舟越さんが結びつかずに、編集者としての末盛さんの「絵本に託した希望」とも取れるインタビューに引き寄せられました。
 
 末盛さんが編集された絵本の中に、今はもう絶版になって購入することが叶わない『そらに』という絵本があります。私自身もまだ手にしたことはありませんが、その本についてのインタビューの一節をご紹介します。
 
――末盛さんを知る人は、不幸ということばがまるで似合わない人だと、評します。
 「希望をテーマに手がけた『そらに』(95年)は、少女が持っていた風船を離してしまうところから始まります。風船が消えて悲しみ色だった空は、やがて夕焼けで美しく染まる。でも空は暗くなって、またがっかりする。けれど、今度は一番星と三日月が出てきて、星空の宝石箱があらわれる。宝ものは、形を変えながら、実はずっと空にあった」
 
 「満ち足りた状態だけが、幸せなのではない。困難のなかにあっても、希望を失わないでいられる。人を愛していられる。そうしたことも、幸せだと思うのです。絵本のなかに希望を見いだすことで、雪道の春の気配のように、実際にはうっすらとして少しずつしか見えない希望を、持ち続けることができると思っています」
 
 大人になってからの絵本との「出会い直し」をすすめている末盛さん。出会い直すためには、子ども時代の最初の絵本との「出会い」が必要です。内容をこと細かに覚えていなくても、絵本の1ページ、一節、お父さん或いはお母さんとの温かな時間の中に、最初の出会いがあるのでしょう。絵本を読む幸せが、心のどこかに静かに残っていたとしたら、大人になって初めて読む絵本も、「絵本を読む」という行為との出会い直しになると思います。
 
 子どもは、親しい大人の存在を見ているだけでなく、大人が見ているものを見ています。大切に見ていれば大切に、その思いも一緒に見ているものです。大人の絵本との出会い直しが、子どもの最初の絵本との出会いに深く関わることは、言うまでもありません。(園長 小林直樹)


ここを乗り越えたら、いい景色が見える
〜 メンタルの強さは、自分にかける言葉の強さ 〜

 園だより「元気いっぱい 3月号」より抜粋 

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 学校法人眞蹊樹小林学園を設立したのが1993年3月5日。富士中央幼稚園はその年の4月1日に開園しました。3月で丸24年。干支が二回りしたことになります。最初にここを旅立っていった6歳の子ども達は30歳になるでしょう。

  さて、年長6歳になった子ども達は、かなり色々考えるし、かなり色々できるようになりました。少しくらいうまくいかなくても、いちいちくじけたりしないで、なんとかやり遂げようとします。言いたいことがあるし、言いたいことをまっすぐ言う。素敵な姿です。
 
 小学校に行って、いきなり一番小さい何にもできない子ども扱いされるのが不本意なこともあるでしょう。なんといっても「くじら組」。大海原へ出て行く気概を持って入学するのだから。そんなかなり素敵な子ども達なのです。
 
 自分が「昔」はできなかったことが、今はできるようになっていることもちゃんと知っています。だから今できないことも、いつかは絶対にできるようになる。そう自信を持って生きている。それは相当素敵な子ども達なのです。
 
 先日「くじら座」で上演されたThe Art Theatre は、滅多に過去を振り返らない子ども達が、自らの「軌跡」を振り返るという筋立てでした。そして彼らは思いいたります。「あ~、前はできなかったことあったなあ。」でも、「今はできる!」…と。
 
 かの矢沢永吉、伝説の激論集「成りあがり」を執筆した糸井重里は、かつてファンキーモンキーと見られていた矢沢の本を書いたこと一つ取ってみても、かなり偏見を持たずに物事の本質を見つめることのできる人物として認められます。
 その糸井重里が1998年から主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」に山田ズーニーさんの「大人の小論文教室~感じる・考える・伝わる!」の連載があります。サブタイトルときたら、まるで富士中央幼稚園の教育目標ではありませんか。
 
 単に文章のうまい書き方を教えてくれる、という「教室」ではありません。どちらかといえば、「どの言葉を選んで生きているか?」が問われている文章、とでもいえばいいでしょうか。生き様こそが伝わる言葉になるのだよ、と全編を通して教えてくださっている。どう感じたか、どう考えたか、が読み手に伝わる言葉を常に問うている。最近の文章を引用します。
  *********************
 
 表現教育を通しメンタルの強い学生を見てきて思う。/  気持ちというより「考え方」が強い。もっと言えば、「どんな言葉を選んで自分にかけているか」が優れている。 (中略・以下/)
 
 困難が迫った時に、私の思うメンタルの強い人は、「人生に困難はつきものだ。」と自分に言葉をかける 。/ 「自分はまだ、まだ、まだ、これからだ。」という方向で言葉をかける。 /
 だから、失敗もするし、これからも苦しいことのほうが多いだろう、と認めたうえで、「いままでそうしてきたように 自分はこの困難をきっとのりこえて続けていくだろう」と、そういう自信の持ち方をしている 。/
 
   これは、才能があるからうまくいく、とか自分は失敗しない、という自信とは、またちがう、しなやかで折れない持ち方だ。「ここを乗り越えたら、いい景色が見えるんじゃないか」 /
   そして、私が思うメンタルの強い人は、自分のために頑張る、だけでは、とうていのりこえられない壁を、他者を想うことで突破する強い言葉を持っている 。 / 
    自分の理想をカタチにし、つらいときに希望を照らしてくれる言葉を持っている。
   *********************
 
 これを読んでつくづく、今くじら組の子ども達は、よく生きるための術を完全に手にしている、と確信するのでした。(園長 小林直樹)


まず思いがあり、大切な何かを見定め、実現を考え、行動する
「希望学」という学問があります。

 園だより「元気いっぱい 2月号」より抜粋 

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 「トランプ旋風」という風が、いつの間にかアメリカ合衆国に根を下ろし、世界中がその竜巻の行方を注視している、そんな1月の終わりとなりました。日本では各地で寒波が続き、春の訪れが待ち遠しい2月、子どもたちは今日も元気です。

 
 さて、先月号で「安心が消え、不安が極大化した時代」という言葉を引用した手前、「共感力」の育ちに一任するだけでは不安が払拭できるとは思われず、考えあぐねていた時目に止まったのが「希望学」という言葉でした。
  希望や夢や幸福は、そもそも甘い砂糖コーティングされた言葉で、中身が全くない、または検証されていないことが多々あります。けれどもここでいう「希望学」は、玄田有史さんが東京大学社会科学研究所を拠点に10年以上「希望」について仲間と共に社会学的に考察を重ね、その研究成果は全四巻の本にまとめられています。私が手にした『希望のつくり方』は、「希望学」からの学びをできるだけわかりやすくまとめられたという新書本(岩波新書2010年刊)でした。
 そもそも「希望」とは何か。夢や幸福、安心とどう違うのか。希望が失われるということ、希望を取り戻すということ、希望を持つということはどういうことか。
 
 玄田さんによると、希望は四つの柱から成り立っています。一つはあなたの「気持ち・思い」、二つめはあなたにとっての大切な「何か」、三つめは「実現」するための道筋、そして四つめはそのための「行動」
 ただ漠然と希望を持ちなさい、では不安が募るだけです。まずは自分の気持ちと向き合って、大切にしたいものが何かを明らかにする。それを実現するための道筋を考え、行動に移すためには、そこに必ず社会との関わりが生まれきます。これが「希望学」が「社会科学」たる所以です。
 思うようにはならない状況がある中で、自分と向き合い、人と向き合って、より生きやすくしていくのが「希望」を持つということ。「希望学」の道筋はそのように綴られています。
 
 玄田さん自身、右往左往しながら、希望の希望たる所以を発見するたびにワクワクする感じが文章のあちこちから伝わって、幼児期の楽しい学びの原点に還るような新鮮さが溢れていました。
 
 私自身もハッとする言葉が多い中で、玄田さんが中学生や高校生に伝えてこられたことを引用します。
 
「大きな壁にぶつかったときに、大切なことはただ一つ。壁の前でウロウロしていること。ちゃんとウロウロしていれば、だいたい大丈夫。」
「どうしよう、どうしようと、とにかく立ち止まらずに壁の前を行ったり来たりする。そのとき本当に偶然なのですが、壁の下に小さな穴がみつかったりすることがある。(中略)その穴は、行動せずに立ち止まっていただけでは、みつからなかったかもしれない」
「希望は、無駄とか損とかいう計算の向こうにみつかったりするものです。そして挫折を経験しながらも、ときに他の誰かの力をかりて試練をくぐりぬけていこうとする行為そのものに、希望は宿るのです。」 (園長 小林直樹)


人間。互いの言葉を深く理解するものとして
〜乳幼児期にこそ築く宝物〜

 園だより「元気いっぱい 1月号」より抜粋 

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 2017年、新しい年が明けました。小春日和のお正月で、子ども達もご家族と過ごされ、さぞ嬉しかったことと思います。よい一年になりますよう、本年も精進して参りたいと存じます。

  さて、人工知能AIで東京大学合格を目指す「東ロボくん」(国立情報学研究所)が、東大受験を断念したというニュースが流れたのは、昨年の秋でした。
 「AIは意味を深く理解しなくてはいけない問題が苦手。論理的に解こうとしたときの限界がある」というのが主な理由で、課題は「読解力」にありました。中心メンバーの新井紀子教授はその上で、「そのAIにも勝てない中高生の読解力向上が直近の課題」と警鐘を鳴らしています。AIの限界は、教育の課題と直結していたのです。
 
 おそらく AIが「論理的」に解こうとしても解ききれないのは、文学として書かれた言葉への問いではなかったでしょうか。それは論理の向こうに、言葉では表しきれない真実の人間の願いや思いがあるからだと思います。
 
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 元旦の新聞、京都大学総長で霊長類学者の山極寿一さんのインタビューが目を引きました。まず山極教授は「いま」を「安心が消え、不安が極大化した時代」と捉えて語られました。
 
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『安心をつくり出すのは、相手と対面し、見つめ合いながら、状況を判断する「共感力」です。』 
 
クリスマスを一人で過ごす若者の中に「一生懸命働いた自分へのご褒美」に、自分に高級レストランを予約する人もいると聞いて考え込んでしまいます。人間は他人から規定される存在です。褒められることで安心するのであって、自分で自分を褒めるという精神構造をずっと持たなかった。それがいま、少なからぬ人々の共感を呼んでいる。やはり人間関係が基礎部分から崩れていると感じます。』
 
『人々が信頼をつむぎ、安心を得るために必要なのはただ一つ。ともに時間を過ごすことです。(中略)安心を得るのに必要なのは、見返りを求めず、ただともに過ごすこと。互いに相手に時間を捧げる。赤ちゃんに対するお母さんの時間がよい例です。』
 相手が自分を認めないことを前提とした「自分で自分を褒める」現象は、自分も相手を認めないことを支えてしまいます。そこに山極先生のおっしゃる「共感力」は育ちようもありません。
 
 言葉が生まれたのが7万年前。先生 によれば、脳の大きさは組織する集団の人数に比例するため、集団生活の始まりは60万年前に遡るだろうとのことです。つまり、人類の歴史では、言葉が誕生するまでに、集団の信頼関係を育むとてつもなく長い時間があったということです。このことは深い言葉の理解もまた、深い信頼関係が前提となることを表しています。
 
 見返りを求めず、ただともに過ごすことを一番しやすいのは、乳幼児期の子どもたちとの時間です。この時育まれた信頼関係が、子どもの一生の宝になります。心して、大切に過ごしていきたいものです。(園長 小林直樹)


大人が子どもを「信じる力」が未来を拓く鍵になる

 園だより「元気いっぱい 12月号」より抜粋 

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 12月です。空気の冷たさとは対称的に、街は赤や緑、色とりどりのライトアップで賑わっています。このたよりがお手元に届く頃には、生活発表会が終わって、それぞれに成長したお子様の姿が見られることでしょう。保護者の皆様にはご理解とご協力、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

  子ども達は、合唱や合奏、劇を作り上げる中で、自分の役割を果たすためには、友達の声をよく聞くことが大切であると学びました。自分が静かにしなければ、音は聞こえてこないことも、身をもって学びました。
 自分が動くタイミングを知るために、友達が今何をし、次に何をしようとしているかをよく見るようになりましたし、指揮者の先生の動きを一所懸命見ることで、みんなの声が自然と合うこともわかるようになりました。
 
 結果子ども達は、一人ひとりの力を合わせると、みんなで素晴らしい舞台を生み出すことができることを、知識ではなく経験として感じたはずです。
 自分自身の達成感、それより先にあるなんだかキラキラしたものを体験すること、それをリアルタイムで客席のご家族と共有できたことこそが、生活発表会の醍醐味でした。
 
 さて、あらゆる子育ての期間を通じて、親は子どもが「集団の中で葛藤し、乗り越え、成長する」過程を目の当たりにすることはできません。子どもが幼稚園という集団生活を始めた時から、親は子どもの成長を、見える点と見える点とを線に繋ぎ、見守るしかありません。成長の過程はプラス・マイナス・プラス、と想像力で補います。
 
 子どもが大きくなるほどに、親の関心は習い事や学習など、個の能力を伸ばすことに向いがちです。それは数字や姿になって、目に見えやすく、比べやすいからです。が、その能力がどんなに優れているとしても、その力が発揮されるのは必ず人と人との繫がりの中でであり、「社会」の中であることは念頭に置いておかなければなりません。
 もちろん、「発揮される」とは競争に勝つことではありません。「社会の中で活かされる」と言い換えた方がわかりやすいでしょうか。
 
 子どもが育つ姿を長い目で信じて見守ることは簡単なようで難しいことです。「信じる力」とは見えない未来への「よりよい想像力」です。そして世の中には見えるものより見えないものの方がずっと多いからこそ、「信じる力」は頼みの綱なのです。
 しかも、見えにくいこと、わかりにくいことの中にはしばしば真実があります。それを解きほどいて明らかにしていくことは、希望であり、人間にしかない素晴らしい力だと思います。
 
 よりよく生きたい、とすべての子どもが願っています。その願いが叶うように、大人の信じる力、想像力で、子どもの未来を広げていきましょう。
2017年も良い年になりますように。(園長 小林直樹)


「かもしれない」の先に拓かれていくもの

 園だより「元気いっぱい 11月号」より抜粋 

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 11月です。子どもの歌に「ちょっとまってふゆ!」というのがあります。ちょうどこの季節を歌っているのでしょう、秋の実りや紅葉を惜しむ気持ちを子どもにわかる言葉で上手に表現しています。もう少し秋にゆっくりいてほしいものです。

  さて、2013年に発刊されて以来様々な賞をとられているヨシタケシンスケさんの「りんごかもしれない」という絵本。きっとたくさんの子ども達を喜ばせてきたのでしょう、遅ればせながら気になって私が手にした2016年9月発行の1冊は、既に第50刷版でした。いわゆる「おび」には、「考える頭があれば、世の中は果てしなくおもしろい。」と書かれていました。さて、「果てしなく」とは。
 
 どうしてこの絵本が特に気になっていたかといえば、まずはこの疑い深いタイトルでした。そういえばウチの幼稚園にもいるな、という感じ。「クマかもしれない」やつが…。
 
 他の誰が知らなくても、富士中央幼稚園の子ども達は、一人残らずみんな知っているのです。「あれはただの黄色いクマさんじゃないんだ」ということを! これはおもしろい現象だと思いませんか。それどころか滅多にないことだと、この絵本を読んでつくづく思いました。
 
 例えば、あの●●ランドのあのシルエットは、誰が見ても絶対に、あのたった一つのキャラクターに間違いないのです。想像の余地はありません。けれども、ウチの黄色いヤツときたら…。ただの○や△ではないにも関わらず、きっと子どもたちは色々なことを言うに決まっているのです。カエルかもしれないし、ブタかもしれない。違うよ、あれはトラだよ、と。
 
 一つのものしか想像されないものを傍らに置く環境と、様々なものを連想できるものをいつも傍らに置く環境。自由な発想が生まれるのどちらでしょうか? そして、どちらが子どもたちをより育てるかは言うまでもありません。
 
 デザインされた柿木原政広さんがこのロゴマークを本当に大切に思い続けてくださっていて、その言葉に触れ、一緒にいるこのロゴマークを改めて見直す時、私はいつも初心に帰ることができます。
 この夏に掲載された「BRUTUS」(2016.8.1号マガジンハウス刊)のインタビューでも、1998年にこのロゴマークを手がけた時のエピソードをお話しされていて、「それ以来、デザインの先にあるコミュニケーションを想像する癖がつきました」と結んでいました。
 
 「デザインの先にあるコミュニケーション」、素敵な言葉です。クマはクマではなく、りんごはりんごではない。その先に、何かを見ようとする子どもたちの心、その一人の発想力が、別の何かを発想する人と繋がって、初めて未来を拓いていくのです。その明るい風景を、どうぞ想像してみてください。お子様と楽しく絵本を読みながら。クマはクマではないことを、互いに笑顔で語らいながら。(園長 小林直樹)


大切なものを大人が子どもに授ける時、子どもは大人がもう一度育つ機会を与えてくれる。

 園だより「元気いっぱい 10月号」より抜粋 

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 目に見えない風が、季節の移り変わりを私たちによく教えてくれます。物事にじっくりと取り組むのに最適な秋。子どもも大人も、よい実りの季節としましょう。

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  楽しそうに何かに向かっていく時の子どもは、人の心を魅きつける何かを持っています。決して人を喜ばせようとしているのではありません。何より自分が楽しくて仕方がないのです。
 心から楽しめる、というのはとても健やかな状態です。健やかならざる精神が時に下を向いて伝染していくことがあるように、健やかな精神は、健やかなものと手を繋いで、淀みなくよく見える方へ、深く広く考えられる方へと、世界を前に向かって紡いでいきます。
 子どもだけではありません。大人でも、楽しく過ごす人は物事をうまく運べる傾向にあります。
 
 本屋さんに行くと、「成功」方法が書いてある本がずらりと並んでいますね。ビジネスだけでなく人間関係、目標達成、勉強、子育て、ありとあらゆる分野の成功本の根底にあるのは、「自己肯定感」である、と認識しています。
 
 「自己肯定感」とは、簡単に言うと自分が好きだという感覚です。よく言うナルシストとは違います。ここに生きて居ていい存在として認められているという感覚と言い換えてもいいでしょう。自分が素晴らしいとか、偉いとか、傲慢さ、我が物顔など、顕示しなければ認めてもらえないことは、自己肯定感ではありません。
 「自己肯定感」は、育てるものが最初に子どもに与えられる最も大切なものの一つです。ではどうやって?と思うかもしれません。それは生活の中にこそありますから、一つ一つ大人が自分に問うしかありません。
 時には赤ちゃんがオムツが濡れて泣くのに「気持ち悪かったね。」と声をかけてオムツを替えてあげることの中に。時には「見てて、見てて」とでんぐり返しをする姿を微笑んで見届けることの中に。時にはせがまれて膝の上で絵本を読んであげる時の声の中に。授ける機会は生活の中のそこここに散りばめられています。
 社会には規範やルールがあります。思いどおりにならないこと、我慢しなければならないことがあることもあります。乗り越えなければならない困難も当然ある。そんな時に自分がダメと自暴自棄になったり、相手がダメと攻撃するような思考にならずに、事実を見つめ、解決する力の基礎になるのが「自己肯定感」なのです。信頼や誠実さ、やり遂げていくこと、全てがここから始まります。
 
 大人は、どうですか? 遅すぎるということはもちろんありません。でも自分で自分を育てるのは相当な覚悟と努力が必要です。
 だからこそ、幼児教育が大切なのです。今が一番、最も豊かに、無理をせず「自己肯定感=宝物」を授けられる時であることが間違いないのですから。そして、子どもこそが大人にそれを気づかせる機会を授けてくれています。(園長 小林直樹)


子どもたちの小さな手、信頼に足るその手に。
〜「だるまちゃん」の作者・かこさとしさんの願い〜

 園だより「元気いっぱい 9月号」より抜粋 

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 リオ・オリンピックや甲子園での熱戦が、暑い夏と共に終わりました。晴れの舞台は、一つの例外もなく地道な努力を重ねた長い年月に支えられています。それでもうまくいったり、いかなかったり。たくさんの選手たちがそれぞれのドラマを見せてくれました。

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 さて、今回はもうすぐ50周年を迎える「だるまちゃん」の生みの親、かこさとしさんのお話です。『だるまちゃんとてんぐ』(1967年2月号「こどものとも」に登場)『からすのパンやさん』は、誰もが子ども時代に必ず読んだことがある絵本の一つではないでしょうか。近年出版された自伝『未来のだるまちゃんへ』と、今年のインタビューを読みました。
 
 作者のかこさとしさんは1926年生まれ。多くの仲間を戦争で失い、20歳になる年に敗戦を迎えたかこさんは、当時たくさんの若者がそうであったように、そこからどのように生きていったらいいかを、深く悩みました。そして自分自身を含めた大人には期待できないからと、子どもたちに「物事を正しく判断できる、しっかりした知識を身につけてほしい」、と思いを託します。 
 
「生きていくというのは、本当は
とても、うんと面白いこと、楽し いことです。
 もう何も信じられないと打ちひしがれていた時に、僕は、それを子どたちから教わりました。
 子どもたちの姿は、僕の生きる 指針となり、生きる原動力となりました。それを頼みにして、僕はここまで歩いてきたのです。」 
 
 東京大学工学部応用化学科を卒業し、技術士として会社に勤めて生計を立てながら、同時に得意だった絵を生かして、人形劇の舞台や紙芝居、子ども会新聞等々、 子どもと向き合うために試行錯誤を重ねた毎日でした。
 
 つまらなければ正直にどこへでも行ってしまう子ども達が、喜んで認めてくれる作品作りに心を砕きました。 常に子どもから学び、その声に耳を傾け、敬意を払い、その健やかな成長を願い続けたのです。
 
「(子どもは、)遊びの中でいき
いきと命を充足させ、それぞれのやり方で伸びていこうとする。
 だから僕は、子どもたちには生きることをうんと喜んでいてほしい。
 この世界に対して目を見開いて、それをきちんと理解して面白がってほしい。
 そうして、自分たちの生きていく場所がよりよいものになるように、うんと力をつけて、それをまた次の世代の子どもたちに、よりよいかたちで手渡してほしい。
 どうか、どうか、同じ間違いを繰り返すことがないように。
 心から、そう願っています。」
 
 オリンピックの選手たちが、自身と向き合う孤独とも言える練習から顔を上げて試合に臨むとき、きっと一人ではないことに力を得たに違いありません。努力という孤独には、必ず受け取る手が差し伸べられると思います。
 かこさんにとって、信頼に足るその手は、小さな子どもの手でした。そしてその顔は喜びに満ちていますようにと願いながら、今も歩む道なのだと思います。(園長 小林直樹)


過去は現在の生き方によって変化する。 〜教育学者・津守真「この頃の日記」から〜

 園だより「元気いっぱい 7月号」より抜粋 

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 梅雨の最中です。雨が降っている時よりも、雨上がりの特別な空気や地面、草の根が子どもたちは大好きです。特に入っちゃいけない水たまりは最高!わざわざ入るのがなんといっても楽しい。そんな遠い思い出、大人にもありませんか?


 さて、タイトルの言葉「過去は現在の生き方によって変化する」は、「保育者の地平 ~私的体験から普遍に向けて~ 」という著書に散りばめられた「この頃の日記」からの抜粋です。
 
 発達心理学を専門とし、御茶ノ水大学名誉教授でありながら、保育するものとしての視点を片時も失わずに歩んでこられた津守先生。
 
 サブタイトルの「私的体験」とは、先生が見つめた、子どものさりげない日常の一コマ、そしてたくさんの「一人」の子どもと過ごした千差万別の深いひとときです。
 
 それらの具体的で私的な、一見バラバラに見える体験が、「普遍」的意味をなす、ということ。それは極めて個人的な出来事の中にこそ、人間が共通に見出せる大切なものがある、ということでしょう。
 
 「未来と今は変えられるけれど、過去は変えられない」という言葉は昨今実によく聞かれます。しかし、津守先生はそうは言っていません。もっともっと力強い言葉。今を生きる子どもからの学び故です。
 
 この日記の直前にあるエピソードの小題は「過去をひきずりながら前進する人間」です。つまり4歳の男の子・F男がその一日の生き様で津守先生に何か大切な事柄を突きつけた、ということなのです。
 
 「1日保育すると、本を一冊読んだような満足感があとに残る。どんなふうにストーリーが展開するのか、最初のうちは分からないが、しばらく子どもとともに過ごすうちに、その子の世界が見えてくる。」
 
 電車のおもちゃをつなげて遊ぼうとするF男のところに母親や友達が介入してきます。当然、中断や衝突が起こる。電車をつなげて最後の車両まで無事にトンネルを通過させたいF男。過去・現在・未来をつなげ、緊張しながら前進し、突き抜けていきます。「つながった全体がこの子の自分なのだろう」。その思いに沿って、津守先生は電車が倒れないようそっと手を添えました。
 
「言語によってではなく、このような遊びによって子どもは自分自身を認識する。」
 
 夕方。F男の降園。トンネルのある滑り台を母親と先生の後からF男が滑ります。電車遊びよりもっと現実のレベルで感情を形にして認識しているのです。
 
「そこまでやらなければ、この子どもにとってこの一日は完結しなかったのだろう。」「一日保育すると、子どもを通して人間が生きる姿を見せられ、考えさせられる。」
 
 タイトルに書いた「過去は現在の生き方によって変化する。」の言葉はこう続きます。
 
「現在は思いきって現在の意志で生きよう。」  (園長 小林直樹)


変わらないこと・おのずと変わること 〜「笑点」引退の歌丸師匠の強さとしなやかさに学ぶ〜

 園だより「元気いっぱい 6月号」より抜粋 

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 春の遠足がひと通り終わり、これから梅雨の季節。そして暑い夏へと向かっていきます。最近では5月のうちに北海道で30度を超えたなどというニュースが流れました。暑い寒いがお構いなしに巡ってくる昨今、体調管理を万全に、元気に乗り切りたいものです。

 
 さて、おなじみ「笑点」が50周年を迎えたのを機に、第1回の放送から出演し、この10年間司会を務めた桂歌丸さんが、若い人に後を、と勇退されました。日常の会話の中でも常に「間」を計りながら笑いにつなげていく話芸には、強さとしなやかさがいつも同居しているようで心惹かれます。
 

 その歌丸さんが、何かのインタヴューで「笑点」50年を振り返り、ふと話されたことが心に残りました。明確な言葉では記録がないので申し訳ないのですが、ずっと「変わらない」でやり続けること、それはおのずと「変わること」なのだ、と言う意味のお話であったと思います。

 
 読み深めてみれば、「変わらない」のはおそらく「笑い」に対しての信念であろうと思います。変化は、変えようとしてなるのではなく、変わらぬ信念を携えて、時代を読み解く中でおのずと出る結果でしょう。
 
 単にその場のウケを狙っただけでは面白くありません。また奥行きがなければすぐに飽きられてしまいます。長く人々に愛される「笑い」には、時代を抱え込んでいくようなたくましさがあるような気がします。「笑点」が半世紀もの間、日曜日夕方のお茶の間に愛されてきた由縁も、このあたりにあるのではないでしょうか。
 
 「変わらない」信念と、おのずと成る「変化」は、私たちの幼児教育にも通じるものがあります。
 
 子どもが健やかに成長する姿を念じて、目の前にいる、みんな違う一人一人の子どもと向き合い、育てるために、私たち教育者には、強さだけではなく、同時にしなやかな姿勢が求められるからです。
 
 あらゆる幼稚園の活動は、行事や活動そのものを、大人の目から見て成功させるために行うのではありません。その活動や行事を通じて、子ども達のどんな成長や発達を導きたいかを前提として考えます。
 そうした大人の願いをも乗り越えて、予想外の成長を見せてくれるのが、子どもたちの素晴らしいところです。大人はその子ども達に、柔軟に向き合うことが求められます。そしてそれこそ、なかなか変わっていけない大人が、子ども達と共に変わっていける最大の機会なのです。
 
 目の前で築かれていく時代は、容易に見ることができません。しかし、子ども達こそが大人を変え、子ども達と真摯に向き合うことのできる強くしなやかな大人が、時代を築いていることは間違いないのです。(園長 小林直樹)


「ワクワク大作戦」「ハッピー大作戦」 〜原晋監督の言葉の力を信じる姿勢に導かれて〜

 園だより「元気いっぱい 5月号」より抜粋 

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 4月には熊本・大分で大きな地震がありました。まずはお亡くなりになられた方々に謹んで哀悼の意を捧げますとともに、被災されたすべての方に、心よりお見舞い申し上げます。

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  若葉の美しい季節になって、小さな子ども達が無事に過ごせるそのことに、一層の幸せを感じる今日この頃です。社会の中で一番か弱い存在である子どもたちがいつも笑顔でいられるように、願って、力を尽くしていきたいです。
 
  さて、話題は変わりますが、青山学院大学を箱根駅伝二連覇に導いたことで今年一躍時の人となった陸上競技部・原晋監督は、「言葉の力」を原動力に学生たちを指導していると随所でお話しされています。
 駅伝制覇への取り組みは、2015年大会「ワクワク大作戦」、2016年大会は「ハッピー大作戦」と名付けられたとか。なんだか聞いたことがありますね。
 「ワクワク」や「ハッピー」は、富士中央幼稚園ではもうだいぶ長く使ってきた言葉ですが、改めて原監督が使っているのを知って、誠に良い言葉だと再認識しました。原監督が具体的にどのようにこの言葉から選手たちのモチベーションを引き出したのか、詳細までは知りません。しかし「大作戦」として使うからには相応の「覚悟」があったに違いないではありませんか。
 「ワクワク」「ハッピー」は普段の生活の中では敢えて使うことはあまりない言葉です。でも声に出して言ってみることで自然な高揚が生まれてくる不思議な言葉です。
 
「ワクワクするね!」
「ハッピーになっちゃった!」
 
 何より、「がんばろう!」のような強制感がありません。自分の心のまん中から湧き上がってくる幸せな感覚を表現する言葉、とでも言うのでしょうか。
 
 「「監督から『ああしろ、こうしろ』と言われてやっても意味がない。自分たちで自発的に目標を定めて『やる!』と言わないと、モチベーションにつながらない」というのが原監督の自論です。
 
 「やりたくないことを、やってみよう」という先月の文章とは矛盾するように感じられるかもしれませんが、そうではありません。やりたくないのも、それでもやってみようと思うのも、自分なのですから。簡単でないことをやり遂げることにワクワクしたりやり遂げてハッピーになったり。そういうことなのではないでしょうか。
 
 人間は言葉を生み出した唯一の生き物です。選んだ言葉によって考えることで、よりハッピーな生きる場を構築していける存在なのです。(園長 小林直樹)


やりたくないことを、やってみよう 〜 ちょっと無理して伸びていく子どもの生きる力〜

 園だより「元気いっぱい 4月号」より抜粋 

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 富士中央幼稚園の皆さん、ご家族の皆様、ご入園・ご進級おめでとうございます。

子どもたちが入園・進級にと冬の間に植えたチューリップの花が、春休みのうちに一足早く満開になりました。「寒の戻り」でなんとか新学期まで咲いていてくれればと、毎日願うように眺めています。

 
 さて、新学期早々おかしなタイトルだと思われたことでしょう。「やりたくないことを、やってみよう」。普通なら「やりたいことをやってみよう!」の方が子どもたちにとってはいいのでは?と疑問が湧きますね。
 しかし、この春はあえて「やりたくないことを、やってみよう!」。ここでいう「やりたくないこと」とは、やるのにちょっと無理が必要なこと、と言ったらいいでしょうか。

 家から離れて幼稚園に来るのは、4月のうさぎ組の子どもたちには一番やりたくないことかもしれません。家では弟が大好きなお母さんを一人占めして楽しんでいる。「私だってずっとお母さんと一緒にいたいのに、一人で幼稚園に行くのは嫌だなあ」
 幼稚園に来たら自分が真っ先に遊びたいシーソー。でも乗りたい子は他にもたくさんいます。「順番を待つなんて嫌だなあ。」
     
 本当はぼく赤いシャベルで遊びたかったんだ。あの子が先に取っちゃったから遊べない。「バケツならあるけど、ぼくはこのシャベルじゃなくちゃ嫌だなあ。」
  
 朝はあんなに泣いたのに、教室を覗いてみると、一番大きな声で歌を歌っているのは誰でしょう? 帰り道には「お母さんお家まで聞こえた? 新しい歌、弟に教えてあげる!」と笑顔で話していました。
       
 他の子がシーソーに乗ってる間、20まで数えて交代がルール。最初は10までしか数えられなかったけど、年長さんのマネをしてたらいつの間にか覚えちゃった。「たくさん数えられるようになって嬉しいし、待っててやっと乗れるのはもっと楽しい!」
     
 ぼくがバケツで砂を運んだら、すっごく大きなお山があっという間にできたんだ。みんな「すごい!」って言ってくれた。トンネルは他の子がそっと慎重に掘った。ペタペタ濡らした砂で固めると丈夫になるって教えてくれた子もいた。「みんなで作ると一人で作るよりずっとかっこいいお山ができるんだよ!」
 
 粘り強さ、協調性、やり抜く力、自制心、感謝する力……。幼児期にこのような「非認知能力」を十分に育てることで、その後の人生がより充実したものに導かれていくことが科学的根拠のあるものとして、世界的に検証されつつあります。
 
 ではどうしたら「非認知能力」を育てられるか。教科学習を先取りする早期教育では得られない力であることはそろそろ常識になりつつあります。
 
 どの子どもにも共通に当てはまるハウツーはありません。私は、その子にとって、たくさんではなく「ちょっとだけ無理をすること」が大切だと思っています。いきなりたくさん、ではケガをします。ちょっとずつ、です。自分の視野に入らないことはたくさんあります。だからこそ、ちょっとためらいのあることに、すっと一歩、前に出せる力が時には必要なのです。
 
 それは人から無理強いされたり、ましてや怒られたからといってできることではありません。内発的な力が働くきっかけが大切です。その一歩が子どもの視野を広げ、見えるものを増やし、必ず次の一歩につながるのですから。子どもの育ちを信じましょう。
 
 教育者として先を見通せるまなざしと、育ちの読み取り、適切な導き、育ちを促す環境があるのが幼稚園です。だからこそ、子どもたちはこの環境を土台に、自ら学び、生きる力を身につけていくことができるのです。(園長 小林直樹)


子どもへの最高の褒め言葉 〜中川李枝子さんのエッセイから〜

 園だより「元気いっぱい 3月号」より抜粋 

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東海地方では2月の中旬に春一番が吹きました。ここから先は三寒四温。子どもの成長に似て、行きつ戻りつ春になっていきます。

  山脇百合子さんの明るい表紙の絵に誘われて、中川李枝子さんが昨年出版した『子どもはみんな問題児。』を読みました。『ぐりとぐら』の文を書いた中川さんが、保育士として、母として、子ども達と過ごした至福の時間がつい目の前のことのように綴られているエッセイ集です。子どもにとっても、一緒に過ごす大人にとっても、幼児期がどんなにかけがえのないものかが、子ども達を丸ごと包み込むような温かいまなざしと共に伝わってきます。
  その中に「お正月がすむと次の四月に小学校にあがる子どもたちが目に見えて立派になりました。」とありました。ちょうど今のくじら組の子ども達の姿と重なります。
  この時期の子どもには、「一気に知的に目覚め」「心も体も準備が整い」という本の言葉の通り、びっくりするような目覚ましい成長がみられます。これまで溜め込んできた経験が一気に実を結ぶ感じで、まぶしいほどです。
 そして喜びと共に目に浮かぶのは、悩んだこと、ハラハラしたこと、幼稚園に入園してからこれまでの、あれやこれや。「問題児」であればあるほど懐かしく温かく、しかしだからこそ、今や晴ればれと思いだされることでしょう。
  中川さんは、「勉強ということはさせませんでしたが、お話の聞かれる子に育ったということが私たちの喜びでした。」と結んでいます。そのように子どもが育っていくには、よい絵本を選ぶための学びや、社会に目を向けてアンテナを張る姿勢、子どもの心を読みとり受けとめていく教育者としての厳しい自分育てがあったことが確信されます。数々の素晴らしい絵本や童話は、そうした中から生まれました。
  「よい子」でも「賢い子」でも「聞き分けのいい子」でもない、「子どもらしい子ども」が、「子どもへの最高の褒め言葉」。エッセイの冒頭に書かれています。「子どもらしい子ども」とは、は是非ご一読を!(園長)


The Art Season ~作品の向こう側に見えるもの~

 園だより「元気いっぱい 2月号」より抜粋 

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今年も富士中央幼稚園のThe Art Seasonがやってきました。いわゆる工作展示会ではなく、季節を通じて子どもも大人もアートに関わり、アートを通して考えていく試みが始まって久しくなります。本格的な寒さが到来した今日この頃、子どもたちは熱く創造しています。 

 創作活動の中でも、以前子どもたちがいつしか命名した「つくりコーナー」の活動は、年齢によってその創造過程が異なって興味深いものがあります。幼稚園に入って初めて「つくりコーナー」を体験した年少うさぎ組の子ども達。切ったり貼ったりの技術も少しつき、時間をたっぷりとって大作に挑戦したある日、いつものざわめきは何処へやら、教室はしんと静まりかえるほどの集中ぶりです。
 「そうなんです!でも、何作ってるの?って聞いても『わかんなくなっちゃった!』って。」
 担任は子どもたちから創作の言葉を引き出していくのに懸命です。さて作品につけるコメント、どうしよう!?と内心ハラハラしていたに違いありません。
 でも、私はこの様子を聞いた時、すっかり嬉しくなりました。まさにうさぎ組の子ども達に身についた「集中力」が為せる技!
 最初は確かに「何か」を作ろうとしていたはずです。でも、目の前の一つひとつの作業に集中するあまり、形は自らの想像を超えて変化していきます。そこでまた考えて次の「部品」をくっつける。違う「何か」にまた目をみはる。楽しい!そしてまた集中。
 目標のものができなかったからといって、決して失敗ではありません。そもそも最初の目標など忘れてしまうほどに熱中して作っていたのですから。
 やがて年中にもなると、目標をイメージしてそれに向かって製作できるようになります。ですから時にはうまくいかない、「失敗」することも出てくるでしょう。そして年長の子ども達は目標のものを作るためにあれこれと工夫して、表現を膨らませるようにまで成長していきます。完成のイメージも、より具体的で鮮明になります。
  年少でがむしゃらに培った集中力、年中で抱いた目標と失敗、年長で手にした考え、表現力、工夫する力。それぞれに過渡期やスピード感の違いはありますが、どの過程を飛ばしても、次のステージが充実することはありません。幼稚園で小学校の勉強の先取りをすることをよしとしないのはそのためです。それぞれの成長に必要なことをたっぷりと経験させて、次のステージに送り出してあげることは、卒園してからの学習活動をより充実させるためにも、必要不可欠なことだと感じています。
 
   単に上手い下手での評価ではなく、その時のその子にしか作れないものを見届けていただけるThe Art Season
になりますように。(園長 小林直樹)


恭 賀 新 年   ゆっくり、はやく、前に進もう

 園だより「元気いっぱい 1月号」より抜粋 

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あけましておめでとうございます。
三学期は一年の締めくくり、でも2016年の心新たなスタートです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。
  一日の計は晨(あした)にあり
  一年の計は春にあり
  一生の計は勤にあり
  一家の計は身にあり
 
 今年はどんな一年にしたいでしょうか。
 晨(あした)は、朝の意。春はお正月。勤は真面目に勤めること。身は健康です。「一年の計は元旦にあり」。よく聞かれるこの諺の発祥は、中国は明の時代に書かれた「月令広義」からの言葉だそうです。計画は立てれば良いというものでもなく、その立て方は難しいですね。
 
 以前、難しい病気の子どもを一万人救ったという日本の小児外科医師のドキュメンタリーを観たことがあります。
 「自分は臆病だ」という自覚を、医師は子どもの頃から持っていたそうです。その手術の計画は実に綿密なものでした。子どもの内臓は大人のそれと比べて非常に繊細です。赤ちゃんともなれば尚更。そんな小さなかけがえのない命を一万も救ってきた医師です。
 「その後何十年も待っているこの子の人生のために絶対手術は失敗したくない」。
 その医師以外の誰も首を縦に振らない手術。わずかな可能性を現実のものとするために、「大丈夫」といえる迄、考えうるリスクは全てつぶし、入念に準備に準備を重ねていきます。
 
 「ゆっくり、はやく」という言葉が、手術に際しての大事な心得として語られました。手はゆっくりと、丁寧に動いている。準備した手順はすべて必要なものであり、無駄なことは一つもない。 慌てて先を急ぐから早くできるのではない。難しいと感じて焦る箇所ほど、ゆっくりと、確実に。それが結果として、最も早く成功に辿り着く方法なのだ、と。
 
 昨日まで不可能だと断じられていた手術を、今、目の前にいる子どものために可能とする医師。事前の計画と準備で手術はほぼ終わっている、と言います。見落としていることはないか。考え尽くしていないことがまだあるのではないか。ありとあらゆる角度から、自分の思考を客観的に見回して、落ち度がないかを丁寧に確認していきます。子どもの頃からの心配性はそのままに、それを強みにたくさんの命を救ってきた言葉には説得力がありました。
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  小さい、大きい。弱い、強い……。思えば、多くの相反する言葉が共にある時ほど、人間は人間として前に進むために必要な真実に、より近づけるのでしょう。安易に答えを出さず、葛藤をそのままに思考し続けることが、よりよい一歩を踏み出し続ける条件の一つです。ためらいや迷いがあっていい。だからこそきっと、飛躍の力になることを信じて、よい一年になりますように。
(園長 小林直樹)


「子どもの貧困」を突破する幼児教育の希望

 園だより「元気いっぱい 12月号」より抜粋 

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秋の紅葉は、朝晩の気温の差が大きくなればなるほどに色鮮やかに染まります。惜しまれる秋とともに落葉して、冬。今年一年のニュースを振り返る師走となりました。子どもが小さい時は家族の明るいニュースが一番多い時。小さな良い出来事が積み重なっていくことこそが、ご家族にとっての幸せとなるのでしょう。

  さて、アンデルセンの「マッチ売りの少女」のお話はおそらくご存知だと思います。クリスマスの前の晩、どの家の窓にも明かりが灯り、暖かいストーブが焚かれています。綺麗なツリーの下にはたくさんのプレゼント、テーブルの上にはご馳走が並び、家族の楽しそうな笑い声も聞こえてきます。
 けれど、窓の外には雪の冷たさと寒さに堪えながら、裸足でマッチを売
り歩く少女が一人。

 今日「貧困」という言葉には2つの定義があります。一つはこの少女のように、食べるもの、着るものにも恵まれない「絶対的貧困」。もう一つは衣服もスマホもあるので周りと同じよう見える、でもこの社会ではこれがあることが「普通」と思われている環境や物を手に入れることができない「相対的貧困」と呼ばれる貧しさです。
 その国の世帯の平均年収の半分の更に半分の年収しかない世帯に所属する17歳以下の子どもの割合を、先進国では「子どもの貧困率」という指標にしています。
 日本における「子どもの貧困率」は16.3%で年々上昇し、6人に1人の子どもが貧困状況に置かれているのが現実です。昨年は遂に内閣府が「子どもの貧困対策の推進に関する法律」を施行しました。目に見えない「貧困」がじわじわと子ども達を蝕んでいるのが今の日本の現状なのです。
 
 「貧困」の影響を最も深く受けるのは、就学前の子どもと言われています。「深く」という言葉を使ったのは、成長に与える影響が最も深い、という意味です。
 子どもたちが親密な関わりを一番必要としているこの時期に、保護者が子どものための時間的金銭的ゆとりを持てなくなる。それだけならまだしも、児童虐待の件数が著しく増加していることからも目が離せません。大人社会の焦りや苛立ちは、弱い者に向かっていきます。
 
 想像してみてください。幼児期に自分が丸ごと認められているという感覚がなく、自己肯定感を持てないまま歩んでいくその後の人生。貧困が連鎖する、と言われるのは、経済的な問題にとどまらず、建設的な人生を構築する力が持てないまま成長する、ということに起因するのです。
 
 2015年に続けざまに日本で出版された2冊の教育経済学の本(注記)は、そうした現状を打破する道を、科学的根拠に基づいて示してくれました。結論だけ申しますと、教育に対する投資は「就学前教育」が最も効果が高い、という内容です。就学前教育が殊に充実している北欧では、子どもの貧困率は日本の半分以下で世界で最も低く、同時にその後の学ぶ力は世界一の高さです。
 幼児期は、「やる気、忍耐力、協調性」を習得するのに一番適しています。その力がその後の人生を変える原動力になる。北欧社会の姿は、そこをないがしろにして「学力」や「生きる力」の向上は望めないことを証明しています。幼児教育の大切さが、日本でも、理屈ではなく、エヴィデンス(科学的根拠)によって認められつつあるのであれば、未来にとっては明るい兆しとなるでしょう。  
 
 私たちがこの希望の道程において、子どもたちのためにできることがあるということに、責任と喜びを同時に感じています。 
(園長 小林直樹)
 
注記
「幼児教育の経済学」ジェームズ・J・ヘックマン著 古草秀子訳 大竹文雄解説 2015年 東洋経済新報社
『「学力」の経済学』中室牧子 2015年 Discover21


子どもに最高のものを見る機会を

 園だより「元気いっぱい 11月号」より抜粋 

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秋になって、あちこちの美術館で新しい展示が始まりました。子どもたちに向けた企画も充実しています。美術館は遊びに行く場所ではないけれど、勉強しに行く場所でもありません。博物館などのように、知識や興味を膨らませるところともまた少し違います。絵や彫刻、音楽などの芸術は、頭ではなく、心に直接届くものです。

 
 さて、静岡市美術館では開館5周年記念として「ちひろ美術館 世界の絵本原画コレクション展:絵本をひらくと」を開催しています。
 見たこと、読んだことのある絵本もきっとあるでしょう。知っている絵は見つけると嬉しいものです。でも、見つけるだけなら印刷物で十分。絵とは見ることによって、出会うものです。
 
 静岡市美術館の展示には、大抵絵の周りに柵はありません。このくらい離れて見てほしいという感じで、足元にラインがありますが、かなり近くで絵の細部を見ることもできます。もちろんちょっと離れて全体を見渡すことも。見る人の自由です。
 絵本は一冊で宝物ですが、原画にはそれ一枚として見ても画家が心血を注いで描き上げた世界観が現れています。子ども向けだからといって、簡単に仕上げた絵など、一つもありません。印刷物では気がつきにくい細部の表現や、色合い、線のタッチなど、画家が今その手で筆を走らせているような臨場感が、原画からは伝わります。
 
 絵がわかる、わからない、というような難しい理屈ではありません。心に伝わったかどうか、ただそれだけです。長い間子ども達に読み継がれてきた絵本ほど、画家の一枚の絵に懸ける真剣さと誠実さは、直に心に響いてきます。
 
 最近新聞で読んだ「折々のことば」に、執筆者の鷲田清一さんの孫が発した「おかわりぃ!」があります。食卓で好きなものが出ると必ずそう言った彼女が、家族で見に行っミュージカルの舞台挨拶の時、泣きそうな顔でこの言葉を叫んだそうです。
 「歌や絵は、わざわざ子ども向きに作るのでなく、そのままで幼児をも震わせてこそアートなのだろう。それらは芸術という制度ができるより遥(はる)か昔から、人類史的な営みとして、老若男女の暮らしのなかにあった。」鷲田さんは短い文章をこう結んでいます。
 
 展示の中にもあった日本画家の堀文子さんが、97歳になられた最近のインタビューで、「子どもには最高のものを見せなけれいけないと思っていましたから、(絵本の絵は)一心不乱に描きました」と語られていました。「子どもには最高のものを見せなければ。最前に見たものによって堕落していきますから。」と、厳しい言葉も重ねて。
 
 受け取るのは子ども本人です。大人は本物の芸術と出会える場所に連れて行ってあげればいいのだと思います。幼い子どもたちにとって「機会」は、大人に与えられることがほとんどなのですから。
(園長 小林直樹)


いきなり日本の最北、ではない。

 園だより「元気いっぱい 10月号」より抜粋 

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夏と隣合わせの9月が過ぎました。 天変地異が続き、いつもより足早に秋がやってきたように思えるのは私だけでしょうか。

 ふと店に並ぶ果物を見れば、ブドウだけでなんと種類のあることか。大きさや色だけでなく、おそらく味も少しずつ違うのでしょう。つけられた名前も洒落た漢字名からカタカナまで色々あって、農家の方々の苦心の作品、といった風情です。
 
 さて先日、今や青森で桃が採れ、北海道でサツマイモが収穫される、というニュースが流れました。地球温暖化の影響で、日本各地の気温が上昇し、従来の「土地の名産物」という常識がいつのまにか変わっていたのです。
 いつのまにか、とはいえ、途中経過はいくらでもあったはずです。鹿児島名産だったサツマイモの栽培北限が東北まで北上した時、それを知らなかった自分がいたのは間違いありません。
 気がついたときには、日本の最北。こうしたことは、他にもたくさんあると思います。
 
 明日は少し変わっている、でも気がつかない。明後日はもっと、でも気がつかない。一年後、十年後、そして子どもたちが大人になるころには? 
 
 今日の小さな変化が、未来を大きく変えていきます。それは、私たちが子どもだった頃を思い出せば明白なことでしょう。想像力が大切です。
 
 そして日本だけでなく、そろそろ世界中が、これまでのやり方では、今日の変化に対応する力を発揮できなくなっています。問題は山積みですが、決して人ごとではなく、私たち全ての子どもたちが担う未来のことです。
 
 いきなり大きなことはできません。でも、あらゆる変化は今日とつながっています。 昨日と違う今日をよく見つめて、小さな違いに気がつく意識をもつことから始めたいと思います。北海道のサツマイモが教えてくれました。
 
 大人が、子どもたちと社会とをつないでいます。今自分にできることを一つ、そして十分にやるしかありません。子どもたちにバトンを渡すことを、それぞれが考えつつ、歩むときです。万事において。
(園長 小林直樹)


深く見る目を育てる、そして繋ぐ手を育てる 〜早野龍五・糸井重里「知ろうとすること。」に学ぶ〜

 園だより「元気いっぱい 9月号」より抜粋 

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8月の終わり、そして9月、子どもたちは残り少ない夏の日々を惜しむように元気に過ごしています。

 冬の大雪そして夏の暑さも、年を重ねて確実に厳しくなってきました。自然が人間社会の傲慢に反旗を翻しているのでしょうか。これだけ科学が発達しても、地震や噴火、あるいは台風、竜巻に、なかなか打つ手がないのが現実です。自然災害に対して、またかというくらい感覚が鈍ってもきているような怖さもあり、同時にそのどれかが自分達の足元にいつ突然訪れてもおかしくない緊張感も、酷暑の中拭えません。
 
 そんな折、東京大学大学院理学研究科教授の早野龍五さんと、コピーライターの糸井重里さんの対談「知ろうとすること。」という本を読みました。事象や人に対してメガネをかけて見ることのない糸井さんの視点には長い間信頼を置いてきましたし、一見その専門では遠いところに立っていそうな2人が、同じ人間の質を感じさせる明るい笑顔で若者たちと収まっている表紙には、とても清潔感がありました。
 さて、それでこの2人の繋がりはといえば、2011年3月以来、東日本大震災でおきた福島第一原子力発電所事故に関して、早野教授が専門外ではありながら科学者としての立場で現状分析と情報発信を継続して続けてこられたツイッターに、糸井さんが注目した、ということから始まりました。
 
 糸井さんは震災直後の大混乱の時「その騒ぎの中で自分が大切な判断をしなければいけないような事態になったら、必ず科学的に正しい側に立ちたい。」というスタンスで情報を集めはじめました。そういう時「叫ぶ人」は信用できない、と。
騒然として情報は錯綜していました。そんな折、冷静に事実だけを伝えている早野教授のツイートを見つけて、「ああ、この人は信頼できる人だ」と直感しました。それが2人の出会いのきっかけとなります。
 
 それからの詳細はここでは省き、あとがきにある糸井さんの言葉を、抜粋したいと思います。
 
《ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。》
 
  そして糸井さんは、現実を正確に見つめ静かに伝えようとする早野さんの姿勢を選びました。
 
 一方の早野さんはあとがきで、「混乱した状態から、より真実に近い状態と思える方に向かって、手続きを踏んでいく」というサイエンスの考え方を、科学者でない一般の人たちに理解してもらうのはとても難しいと知った、と書いています。
 
 科学というのは本来、間違えを訂正しながら新しい世界を広げていくものです。ゆるぎのない絶対的な科学、というものはない。ニュートンに続くアインシュタインが、アインシュタインに続く後世の科学者たちが、その微妙な間違えに気がついて、科学は書き換えられ、そして進歩してきました。
 でも「こういう前提において、この範囲では正しいのだ」という限定的な正しさは、科学の世界に身を置かない一般の人達には理解されにくいと感じたそうです。おそらく、状況や情報の小さな変化に応じて正しさを見直し更新していく作業は、「科学や数字だから絶対である」という思い込みの壁を壊すことから始めなければならなかったでしょう。
 
 科学者の世界から飛び出して一般に向けてツイッターという手段で情報を発信しながら、伝わりにくいところを解決していく、その活動がなければ決して出会えなかった人たちがいて、素晴らしいつながりができた、と早野さんはふりかえっています。
 お二人の言葉を読むと、別々の方向からそれぞれの世界がどのように重なりうるのかが、おもしろく読み解かれます。枝分かれしている人間の歩みや思い、学びや成果が、よりよい方向に全体として進んでいけるように、互いを結ぶ手も同時に育っていくことがなければと、思いを深くした一冊でした。
(園長 小林直樹)


どこにいても、自分で先生を見つけられる人に

 園だより「元気いっぱい 7月号」より抜粋 

7月.jpg梅雨明けが待ち遠しい7月です。雨の合間を上手につかって、子どもたちのエネルギーを上手に発散できるように過ごしていきたいと思います。
 さて先日、テレビに出演されていた歌手・俳優の武田鉄矢さんが、話の成り行きでなにげなく「どこにいても、自分で“先生”を見つけられる人は伸びますね」と、育ちの核心に触れるような発言をされていました。よく話題になる「~してはいけない」または「~するとよい」「~するべきだ」、というようなハウツー子育て論は、どうも窮屈で馴染みません。また、自分の子育てが上手くいったと断定的に自負して語っているような場合も、それは個別の方法論にすぎないのでは?と疑問を投げかけたくなることが多々あります。しかし武田さんの言葉には、人の成長する姿に視点を欠かさなかった人としての自然な説得力がありました。
 ここでいう “先生”というのは、もちろん学校の先生に限りません。自分にとって大切な、或いは必要な何かを学ばせてくれる人、先へ進むためのきっかけを与えてくれる人、どの場所にも必ず自分より前を行く人がいて、その人こそ先生だ、そんな意味でしょう。そういう人を自分で見つける力、出会える力は、子どもの頃から培った好奇心や向上心と決して無縁ではありません。
 特に子どもの、そして若い世代の向上心は、自分も向上心をもって道を歩んできた先達の心を素直に打ち、彼らのよい先生となってくれるでしょう。
 子どもには、いつか親以外の人に学んでいく時が必ず訪れます。子どもが親離れするとき、また親が子離れするときに、それを葛藤だけでなく喜びをもって見守ることができる親になりたいですね。自立していく子どもの姿を遠くに見据えながら、今は愛情いっぱい育てていきたいものです。
                                   (園長 小林直樹)


急いで答えを出さなければならないことは、いったいどのくらいあるだろう?

 園だより「元気いっぱい 6月号」より抜粋 

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瞬く間に6月です。暑かったり涼しかったりの季節、子どもたちの体調管理には、ご家庭でも心を砕いておられることでしょう。朝を気持ちよく迎えるだけで、1日が上手に過ごせることもあります。親子共々無理をせず、日々を送っていきましょう。

 
 さて、「時の記念日」をご存知でしょうか。なんだか素敵な名前の日です。かくいう私は恥ずかしながらその由来についてこれまでよく知らずに来てしまいました。6月10日は祝日ではないし、子どもたちが時間のことを意識するきっかけになるくらいの理解でいたのです。3月3日は「耳の日」のような語呂合わせにもならないし、もしかしたら時計が発明された日? それならば西欧が発祥でしょうか? 
 
 少し手っ取り早くウィキペディアに頼ってみると、驚いたことにそれは1920年の日本に遡り、東京天文台と国民の生活改善を進める当時の文部省とが、「時間をきちんと守り、欧米並みの生活の改善と合理化を図ろう」という呼びかけで制定した日でした。世界では1914年から始まった第一次大戦がようやく終結した翌年です。
 6月10日となった由来は、 奈良時代に著された元存する最古の日本の歴史書「日本書紀」に書かれていました。なんでも1300年以上も前に日本初の時計が鐘を打った日に因んでいるのだそうです。つまり、この日を「時の記念日」としているのは世界中で日本だけということですね。ここまでくると歴史の深みに引き込まれそうになるので、今回はこのくらいでとどめてみますが、知らないことを知るというのは実におもしろいことです。
 
 ところで1日は、どの人にも平等に24時間と決まっています。何時何分という「時刻」は、時を外側から均一に刻んだ数字です。時間の経過をそのように考えなければ、物理学や数学も一つの答えがでなくなってしまいます。また一方で哲学の立場から、それは即ち生きている人間の立場からということですが、時間とはなにかについて、それはそれで長い歴史の中で考え続けられてきました。
 
 子どもの頃よりも時間の経つが早くなったように感じるのを、大人なら誰しも経験していることでしょう。ましてや年齢を重ねるほど、若い頃のことはつい昨日のことのように思い出せるのに、さっきのことは簡単なことでも忘れてしまうことがあります。
 
 それは大人と子どもとでは、時の刻み方が違うからです。もっと言えば、人間の内側からの時の刻み方は、それぞれの人の経験の質によって異なる、とも言えます。時間は私たちにとって身近なものでありながら、千差万別で未知なるものとも言えるでしょう。
 
 私たちの世界には、まだ答えの出ていないこと、答えに向かって考え続けられていること、また見つけることさえできていないことが、おそらくたくさんあります。判断を急ぐ方がよいことと、答えを急がない方がよいことの区別をつけることは、大人が子どもたちのためにできる数少ない大切なことの一つだと思います。(園長 小林直樹)


ゴリラの家族から、人間の子育てをみつめる
〜第26代京都大学総長・山極壽一さんに学ぶ〜

 園だより「元気いっぱい 5月号」より抜粋 

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さあ、5月。りす組、うさぎ組の子ども達は、初めての幼稚園生活にだいぶ馴染んできたようです。この時期の子どもは、先生に向かってまっすぐ1対1。「私を見て! ぼくの声を聞いて!」とばかりの姿です。そんな思いを一つも逃すまいと全身で受けとめる先生の心意気が、子ども達の活気と一緒に、部屋越しに伝わってくる…幼稚園ならではの、すがすがしい若葉の季節がはじまっています。

 さて、今月は霊長類、特にゴリラ研究の第一人者である山極壽一さんの「家族」についての対談からご紹介します。昨年10月、推挙されて第26代京都大学総長に就任され、ジャングルからキャンパスに活躍のフィールドを広げて以来、学生を中心に据えたヴィジョン明確な大学改革の取り組みについても、積極的に発言されています。

 ゴリラを通してみる人間社会のありようについて、分かり易い言葉で語られています。一緒に考えてみましょう。
 
 チンパンジーは集団で生活しますが、ゴリラは人間に近い家族的な集団をもっています。食事をするときも、お互いの顔が認識できる距離に集まって食べ物を分け合います。/夫婦一緒に子どもを育てる人間とは違い、ゴリラは三歳ぐらいまでは母親が育てて、父親にバトンタッチします。/怖そうに見える雄ゴリラが、すごく楽しそうに子どもたちを遊ばせている姿を見て、「自分の力を抑えてだれかに尽くす喜び」をゴリラに感じました。
 (人間の子どもは)家族と家族を取り巻く地域社会(共同体)の両方に育てられる。それがゴリラにはない人間の家族の特徴です。身内をいちばんに考える「えこひいき集団」である家族と、みんなで平等に恵みを分かち合う共同体という、本来矛盾する両方の集団に属しているのは動物の中でも人間だけです。
                      
 地域社会の役割が減少しているなかで、共同体としての幼稚園が果たす役割の重要性を、私は常々考えています。家族と共同体とは本来矛盾しているもの、しかし子どもにとって「信頼の空間をつくってくれる人」(=家族)は、必ず社会とつながっていないといけない。二つの矛盾した集団を、子育ての中で同時に成り立たせるヒントが、山極さんの一言にあり、はっとしました。
                          
 子どもが生まれ落ちたときに、まったく疑いをもたずに「信頼の空間」をつくってくれるのが家族です。家族は、利益を顧みずに子どもを食べさせ、世話をします。そういう大人に囲まれて子どもが育つと、「人を信頼する」ことにつながります。
 一方サルの社会は序列で成り立っていて、個々に分散して食べます。(孤食や個食、個人が格別重要視される社会傾向は、)人間がサルに戻る行為だと思います。
 山極さんは、人間の子どもが育つために欠かせない環境構造の崩れを、霊長類の研究を通して危惧されていました。
 教育の中であまりに過度に個性の尊重が叫ばれた時代があり、その弊害があらわれるのには時間がかかりました。集団か個かの選択ではない。そのバランスでもない。相反する二つの空間が、その矛盾をむしろ包括して成り立つところに、人間本来の育ちの空間がある。実に奥が深いです。
 
 ゴリラの脳は4歳で成長が止まるけれど、人間は5歳までに大人の脳の90%になったあと、16歳くらいまでに成長して大きくなるそうです。この頃には親子関係だけではない新しい人間関係が必要になる。その時「人を信頼できる」人間になっていられますように。今の子ども達への私たち大人の関わりが、同時に問われています。 (園長 小林直樹)


闘う建築家・安藤忠雄は「元気いっぱい」

 園だより「元気いっぱい 4月号」より抜粋 

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4月です。みなさん、ご入園・ご進級おめでとうございます。
 教育の理念そのままに、「認定こども園」としての役割を備えて、富士中央幼稚園の新しい年度が始まりました。明るく過ごしやすい環境のもと、子ども達がのびのびと遊び、学び、生活することは、私たちにとってなによりの喜びです。
 進級の皆様におかれましては、これまでのご協力に改めて感謝申し上げます。またご入園の皆様とは、新たなスタートをご一緒でき大変嬉しく思います。

 「苦労のないものに、人は感動するかな? よくこんなことをやったな、よくこんなものを考えたな、創ったなと。それを見て体感するんと違うかな?」

 唐突ですが、世界的な建築家・安藤忠雄さんの言葉です。限られた条件の中でものを創造する時、またその過程で生じた新たな壁に立ち向かう時、人は知恵を絞ります。職人、建築家、クライアントが、よりよい創造に向けて最大限の知恵と力を発揮する。人々の尽力と苦労が凝縮された建築には、そこに立つ人に、言葉ではなく、建物から滲み出るような、空間の存在感があり、感動を与える力がある、という意味でしょうか。百聞は一見にしかず。簡潔で美しい安藤建築は、時に光や風や水、空や海と、また佇む人の心と調和して、圧倒的に、静かにそこに在るのです。
 さて、その安藤さんが何より嫌いなのは、「元気がないこと」だそうです。73歳の安藤さんは既に癌を二度も経験しています。が、仕事に入る時の姿は常に明るく、元気いっぱいです。「闘う建築家・安藤忠雄」という直近のドキュメンタリーの中での活力溢れる姿は、無から有を創り出していくときの原動力として、元気さをご自分に課しておられるように見えますし、それこそが長い間の積み重ねによる自然な生き様にも見えます。いずれにしても立ち居振る舞いが健やかで、明るく、そして力強い。
 私たち富士中央幼稚園の願う子どもの姿は、なにより「元気いっぱい」です。子どもらしい健やかな心が、弾けるように表に表れる姿です。人生における最初の時期に、人間としての宝物をより多く掴みとっていく力の源こそ、「元気いっぱい」なのです。
 安藤忠雄さんの姿は、人生を通じて「元気いっぱい」でいることがいかに大切かを、私たちに教えてくれました。それは、私たちが幼児期に願う「元気いっぱい」とひとつながりの姿だと思います。病気に蝕まれていても、年を重ねて体が弱ったとしても、人間として「元気いっぱい」であることが、安藤さんにとっては美しい建築を生み出す機動力になっています。人が創造するその原動力が「元気いっぱい」であることは、私にとって一つの発見でした。
 子ども達が、よい一年を過ごせますように。職員一同、元気いっぱい全力で支えて参ります。どうかよろしくお願いいたします。(園長・小林直樹)


 「伝える」ということ  - 狂言師・野村万作さんに学ぶ -

 園だより「元気いっぱい 3月号」より抜粋 

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早いもので年度末、3月となります。私が富士中央幼稚園を設立したのが1993年3月5日ですから、以来22年の歳月が流れました。卒園された子どもが、お母さんとなって幼稚園を訪れるほどの時間です。

 
 私にとっての22年は、目の前のことを一つ一つ解決してきた日々の積み重ねでした。幼稚園というところは、暦に根ざした生活の営みがその中心にありますから、季節の移ろいには自ずと敏感になります。が、年月の流れは、時々ふっと心を離して俯瞰するような意識がなければ見えにくくなります。どの仕事にも言えることだと思いますが、「続けていく」ということは、変わらないものと、変わりゆくものとのせめぎ合いに、目をこらすことでもあるのです。
 
 狂言で人間国宝となった野村万作さんは、3歳で初舞台に立って80年を超えました。最近のインタヴューを読むと、柔らかな物腰の中にも、毅然として芸を磨き上げた人の厳しさが光って、言葉の一つ一つに重みが感じられます。
 謡(うたい)、舞、言葉。600年伝わった「型」にまずは忠実に、あれこれ悩みながらも深めていくことで、写実や創造性がはじめて出てくる。体力的にも齢80を超えた今では、若い頃と同じような動きはできない。ならば同じでなく深めればよい。経験的に掘り下げていけばいくほど、型の中に「思い」がにじみ出ていく。万作さんは、それこそが狂言の醍醐味だ、と語られています。
 
 「受け継ぐ」ということは、子どもの万作さんにとって「押し付けられる」という言葉と同義語だったことでしょう。しかし、大学1年でそれを自分の選択としてやっていこうと決意してからの万作さんは、狂言を今に「伝える」ということの意味を考えつつ、芸を極めていきました。
 「家、家にあらず、継ぐをもって家とす」とは能の祖・世阿弥の言葉だそうです。代々続いたから素晴らしいというわけではない。芸を継ぐことだけですむわけでもない。「中身」が大事なのだ、と。万作さんは言葉を繋ぎます。「時代とともに人の好みや趣味も変わっていく。演者の芸も心も進化していかなければいけない。それでも、変わらないものがあるはずです。それを伝えていかなければいけないと思っています。」
万作さんの「伝える」は、芸を以って伝える、ということですから容易ではないはずです。自身がいかに作品を突き詰めていくか、それのみなのです。
 
 物事の奥にある大切なものは、時代を経ても変わらずに輝いているものです。この時代に生きている以上、万人が流れの中にあります。流されながらも流れをよりよい方へと組み替えていく主体的な存在になるためには、自分自身の杭を持たなければなりません。あらゆるジャンル、あらゆる立ち位置から、真理に切り込んでいくことは可能でしょう。だからこそ、突き詰めて生きる人の言葉には心動かされるものがあるのです。私の立ち位置から深まっていくことで、子ども達の成長を少しでも支えることができれば本望です。(園長 小林直樹)


 「発見!」そして…。 〜くまモンに学ぶ〜

 園だより「元気いっぱい 2月号」より抜粋 

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2月、今年は28日までの閏年です。日々是好日。大切に過ごしていきましょう。

  さて、突然ですが今年に入って「くまモン」をプロデュースした小山薫堂さんの対談での言葉に、ふと立ち止まり、以来考えの中に残ったままでした。「ゆるキャラ」は県や市町、その事業などを宣伝アピールするために作られることが通常です。しかし「くまモン」のコンセプトは、それとは全く逆の発想、つまり外に向けての宣伝まずありき、ではなかったようです。
 
 熊本を県外の人に認めてもらうのが先行するのではなく、まず最初に熊本に住む人々が、熊本のよいところ、好きなものをたくさん発見しよう!


 くまモンはそうして誕生しました。そこに住む人々が心から愛するものこそ、熊本の一番よいところであるにちがいし、心からの言葉や表現によって伝えられることは、必ず外からも輝いて見えるでしょう。そもそも「くまモン」のあの大きな丸い目は、「発見!」した驚きを表しているのだそうです。知らなかった!
 
 対談相手は「イタリア人以外で初めてフェラーリをデザインした男」として世界的に有名なカーデザイナー奥山清行さん。自らデザインし、日本の職人文化の技術力を世界に向けて発信する意欲的な仕事もされています。不用意に見た新春のNHKニュースの中で、対談は「地方創生」を考えさせる企画に間違いなかったけれど、私はそれ以上に、深く内向きになることで、自らのよいところを発見し、それが外と繋がるきっかけになる、という発想に、大きな希望を感じました。
 
 バブル経済の崩壊と共に一斉教育が否定され、教育の中では「個」を大切にする考え方が重んじられるようになりました。それが限界に達して様々な矛盾や不満が出はじめた後、震災と合わせて「絆」という言葉が広がり、「道徳」を教科に、という流れまで、一気に突き進んできたような気がします。
 時代に合わせてあれこれ模索することは、必然ではあろうけれども、でもしかし、大人の右往左往に最初につきあわされるのが、問答無用で教育を受ける子どもたちであることを私達は忘れてはならないでしょう。
 
 教育とは何か、その問いをいつも胸に置いて進みなさい。亡き恩師の言葉です。子ども達が、自身を見つめ、よいところを発見し、個を深め、社会と繋がっていけますように。富士中央幼稚園が、そのための最初の手助けの場となれるよう日々研鑽していきたいと念じます。(園長 小林直樹)


 「考える力」を測るものさし

 園だより「元気いっぱい 1月号」より抜粋 

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明けましておめでとうございます。2015年が始まりました。まだまだ先だと思っていた21世紀になって、早15年の歳月が流れたことに改めて驚きます。光陰矢の如し。保護者の皆様、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

  さて、1月に入るとまもなく大学入試センター試験が実施されます。重たい話題ではありますが、これが厳しい現実。今年の55万9千人の受験者のうち、現役高校生は45万5千人、高校生全体の42.5%という数字は過去最高だそうです。それこそ盆も正月もなく勉強して臨む試験でしょう。
 このセンター試験について、昨年12月末、中央教育審議会が下村文部科学省大臣に2020年度の導入を目指した改革案を答申しました。現在の「知識偏重」を廃止して、思考力や判断力を多面的に評価する「知識活用型」への移行を目指しているそうです。現在のような一発勝負の試験ではなく、高校2年から年複数回実施していき、教科もより複合的なものとする。また面接や小論文、集団討論なども活用していくという内容です。
 
 2020年度は、今の小学6年生が高校3年生になる年です。徐々に、ということにはなるのでしょうが、もし実施されれば今幼稚園に通っている子どもたちが高校3年生になる頃には、既にその改革は「当たり前」になっているかと思われます。しかし知識の量より、考える力を重視する試験において、50万人もの子どもの考える力を、いったい誰が、どのようなものさしで測るのでしょうか。
 
 「絵に描いた餅には終わらせない」と大臣も強い意志を示していますが、まだ将来への指針を立てきれない子どもたちが、当てもない迷路に入り込んでいくような心配もよぎります。一個人の中で、知識の量が質に変わる過程は、とても尊いものだと思います。ましてやその質的価値の評価が、大学入試という一つの門で測られることには、課題が大きいように思われます。
 
 欧米型の入試をイメージした改革と言われていますが、アメリカの大学では入試専門の職員が時間をかけて選抜しているそうです。一方日本では、選抜する大人の側は1979年に導入されたセンター試験の前身、共通一次試験をくぐってきた人たちになるのですから、今はまず教育に携わる大人の側の改革が先決の課題となるのではないでしょうか。深い議論を望みます。

  一朝一夕では育たないのが「考える力」。子どもたちは、考える大人の後ろ姿を見ながら、考えることの大切さを学んでいくでしょう。今やれることの精一杯を今年も励んでいきたいと思います。(園長 小林直樹)


 いい風が吹きそうな場所に

 園だより「元気いっぱい 12月号」より抜粋 

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12月になります。大きな飛躍の舞台を経験する子ども達の成長には著しいものがあるでしょう。皆様のご理解とご尽力に改めて感謝申し上げます。

  さて、先月10日、俳優の高倉健さんが83歳で逝去されました。テレビ各局ではその追悼特番が他を優先して放送され、その功績、人となりがトップニュースとなりました。訃報によって明らかにされた様々なエピソードは、健さんが広く、多くの人に深く愛されていた理由を納得するに十分なものでした。かく言う私も、学生時代から30年来、映画はもちろん、折に触れてその生き様に共感してきた者の一人です。
 
 映画人としての実績は言うまでもなく、今回改めて大切に報道されていたのが、健さんの「人を想う」心と態度についてだったと思います。

 「どうしたらあなたのような人になれますか?」という若者の問いかけに対して、「いい人に出会うこと。人に優しくなるためには、きつい風に吹かれてばかりいてはなれない。いい風が吹きそうな場所に、意識して自分の体、そして心をもって行かなくてはならない」と、言葉を選びながら語っていたという高倉健さん。人との出会いをよいものとするために、そして人の心を打つ映画を作るために、普段から美術や映画、旅、読書と、自らの感性を磨き続けることも忘れない人だったといいます。
 
 自分の願う方向を見て、実際にその道を歩んで生きるのは、容易なことではありません。自分が願う道を歩いていないその時も、いつか辿り着くことを望んで、できうる準備をする。今回改めて胸を衝いたのは、孤高のシンボルのように思われていた健さんが、人と人とのよりよい繋がりこそよいものを生み出す、ということを常に考えておられたことでした。
 それは、たまたま映画の舞台となった土地で、撮影のための船の手配に尽力された方の小さな息子さんへの配慮に及ぶほど、徹底したものでした。中国で撮影された映画では、出演した現地の村人との心通う交流が随所で見られました。この混迷した日中関係の最中、中国の国営放送で訃報のニュースが25分の特集で流れたというのは、おそらく異例のことだろうと思います。
 今となって出てくる健さんがしたためた心の籠った手紙の数々。胸に届く選ばれた言葉は、スタイルだけの格好良さでは、決して書けないものばかりでした。

 人生というものが、誰においても幼少期と連なるものであることを考えると、懸命で誠実な生き様を見ることで、改めて心が引き締まることがあります。
 健さん、どうぞ安らかにお眠りください。ありがとうございました。(園長 小林直樹)


 秋。生活が実を結ぶ、発表会。

 園だより「元気いっぱい 11月号」より抜粋 

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 10月は、台風や噴火など自然災害の爪痕が著しい季節でした。にもかかわらず、大禍の後は、見事に青空が美しく、自然の非情さえ感じたものです。
 11月、深まる秋が、無事でありますように。

  さて、子ども達はそろそろ生活発表会に備えて、ステージ・アート・シーズンに入りました。歌、楽器、劇での表現活動を、年相応に少し頑張って背伸びしながら学び、楽しんで過ごします。本番ではまた一回り大きくなった姿をご覧いただけることでしょう。
 
 学び、即ち今までできなかったことができるようになるには、ちょっと無理をすることが必要です。そもそも「勉強」という漢語の語源には、「ちょっと無理をする」という意味があるそうです。無理をすれば緊張します。かといって、幼い子ども達の生活に、あまり長い時間の緊張は馴染みません。
 
 成長に欠かせないのは、多すぎず、少なすぎない適度な緊張です。それを見極め、見守る先生がいて、子ども達がそうした経験を少しずつ積むことができるのも、幼稚園の生活の醍醐味だと思います。
 
 適度な緊張感を乗り越えて、「できた」喜びにかえていくことは、必ず学校での学習にも結びついていきます。知識を詰め込むのではなく、経験を積み重ねることが、幼児期にはより大切なのです。そして、「できた」経験が、一人の喜びに留まらず、仲間との達成感、大切な家族の笑顔や拍手となって大きく広がり、実を結ぶのが、私達の生活発表会です。
 
 簡単な言葉やノリで繋がるのではなく、自分の努力と相手の努力が重なって実を結び、支えてくれた家族がそれを見守ってくれる「繋がり」は、この時代に生きる上で、よりかけがえのないものになってきたように思います。富士中央幼稚園の生活発表会は、開園以来ずっと、そういう意識をもって、営まれてきました。あえて「生活が実を結ぶ発表会」と言いたいところですが、そこは長すぎるので。
 
 それでも、本番、舞台の子ども達の姿は、きっと「元気いっぱい」という言葉に尽きるでしょう。きらきらと輝いて生きる子ども達の姿に、大人は必ず励まされることでしょう。(園長 小林直樹)


 小さな子どもだからこそ

 園だより「元気いっぱい 10月号」より抜粋 

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10月です。蝉やお祭りのにぎやかな夏の名残りは跡形もなく、秋がやってきました。店には葡萄(ぶどう)だけでもいくつもの種類が並んでいて、実りの季節を物語っています。

  さて、今日も園長室を一歩出ると、子どもたちが気持ちよく挨拶してくれました。時々仕事で外出する時も、必ずにこにこ見送ってくれます。こちらは嬉しくて、いつも笑顔になります。気軽に部屋を出たつもりが、一斉に子ども達に声をかけられて、思わず気をひきしめてしまったり、保育の妨げにならないように、できるだけそっとドアを開け閉めしたり。
 先生達も同じです。幼稚園にいらした方が、気持ちよく過ごして、気持ちよく園を後にできるように、笑顔で迎え、笑顔で送ることは、いつも園の姿勢として、どの先生も心がけていることです。荷物を届けに来てくれた方、仕事で用事があって立ち寄った方、帰り際に、我が園ではもうすっかり自然になった送り迎えの立ち居振る舞いに、すがすがしく驚かれて声をかけてくださることは、時々ではありません。そして何より嬉しいのは、初めて足を運んでくださった保護者の方が、そうした言葉ではなかなかお伝えできないことに気づかれ、園の教育方針に心を寄せてくださることです。9月の運動会でも、そうした方々が集まってくださったからこそ、今の園があるのだな、と改めて皆様に感謝の気持ちでいっぱいになりました。ありがとうございました。
 
 笑顔で挨拶すると、相手も嬉しい、そして何より自分も嬉しい。富士中央幼稚園の子ども達は、それをちゃんと知っていると思います。幸せに、気持ちよく過ごせる人には、そういうことが身についています。余計なおしゃべりがなくても、少々口下手であっても、いつも笑顔で挨拶できる。そうして目の前のことを誠実に一所懸命にできる。その積み重ねが、いつしか、ひとつながりになって、信頼ある人との繋がりを生み、かけがえのない人生を築いていけるのではないでしょうか。
 
 まだはじまったばかりの子ども達の人生が、幸せなものになりますように。小さな子どもにも、いえ、小さな子どもだからこそ、丁寧に、大切に、日々の生活を通して、人間としての品格を伝えていきたいと思います。(園長 小林直樹)


 子どもの居場所がある幼稚園に

 園だより「元気いっぱい 9月号」より抜粋 

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 8月があっという間に通り過ぎ、まもなく9月を迎えます。残暑は厳しいながらも、風には、心なしか秋の気配が漂います。2学期の始まりです。

  夏を惜しむように子どもたちが幼稚園にやってきます。久しぶりの登園にもかかわらず、彼らはたちまち、ここに自分の居場所を見いだすことでしょう。なぜならそれこそ、私たちの幼稚園が大切にしていることだからです。
 
 居心地のよい家庭を一歩出る、というのは、小学生になっても、またもっと大きく、大人になってさえ、気持ちを奮い立たせて、自分をしっかりと持っていかなければ容易ではありません。
ましてや小さな子ども達。
 成長して、出かけた先は必ずしも居心地のよい場所とは限りません。親はずっとそばにいて子どもを助けてあげることはできないし、代わりにやってあげることもできません。それを親もまた自覚しなければならない時が、やがてきます。
 
 将来自立した人となるために、今最も大切なことは、自分の持っている力を安心して発揮できる「居場所」があることです。それは「我がまま」がいつでも通る場所、ではありません。信頼できる大人の温かいまなざしに見守られ、時にうまくいかなくても「大丈夫」と思える場であり、すなわちそれは、自分の「いのち」がどんなときも大切にされている、ということが実感できる場でもあります。その子どもにできることばかりでなく、できないことを、そして必要なこと、あるいは必要のないことをも、側にいる大人はしっかりと自覚していなければなりません。見極めること。教育はそこに成立します。
 
 「しつけ」を最優先し、必要以上に厳しく我慢させることで鍛えるやり方は、乳幼児期にはふさわしくありません。まずは心地よい状態を子ども自身が身を持って知ることが大切なのです。その上で、危険なことと、人と生きていくための最低限のルールは、繰り返し言葉で教えることが必要だと考えます。
 
 人は成長すればするほど、世の中には自分の知らなかった様々な環境があり、自分とは違う多様な考えの人々がいることを知るでしょう。それがストレスにならず、違いを認めて自分を表明し、理解し合えるよう努力できることこそ、社会人としての自立の一歩です。言葉で言うほどには簡単なことではありません。その基礎をつくる場にふさわしい「居場所」を用意したいと切に考えます。(園長 小林直樹)


 「次に」大切なこと

 園だより「元気いっぱい 7月号」より抜粋 

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 7月。まもなく梅雨が明け、いよいよ暑い夏の到来です。日本には四つの季節があり、それぞれの季節に適う暮らしの知恵が様々に育まれてきました。涼やかな風鈴の音、玄関の打ち水、麦茶にすいか、水鉄砲…。子ども達の健やかな日々を第一に考えながら、季節を味わうような生活を共に過ごしたいと思います。

 
 さて、「暑さを吹き飛ばす」ようなガツンとしたテーマは思いつかず、どちらかというと日本的に「暑さに寄り添う」ような、あいかわらずじっくり大切に考えつつ歩いていくような話題になりますが、あしからず。

  日本では、今、子どもを取り巻く社会のあり方が多様で、しかも混迷を極めているといっても過言ではありません。特に乳幼児期は、大人の見守りと援助がその成長に欠かせないことから、大人社会の影響を「まともにくらう」というくらいの激しい言葉で表現せざるをえない状況です。よい影響はゆっくりと、悪い影響はスピードを高めて広く、強い力でやってきます。抽象的なお話しかできないので申し訳ないのですが、子どもたちの為に大切なことの一番は、何より、大人が焦らないことです。
 
 たとえば、子どもに与える環境の選択肢が増えることは、一面ではよいことだと思います。しかし、選択の自由には責任が伴います。「責任」という言葉はあまりにも重く、今親として何をしてあげることが、子どもに対してそれを果たすことなのかわからなくなり、焦り、隣の芝生と比べてまた焦り、我が子の姿を見てまたまた焦り……、そんなことがないでしょうか。
 
 子どものために、静かに、そしてよく考えてあげましょう。
 
 まずは、最低限必要なこと。それは健やかな生命の維持に必要なこと。これを読んでくださっている方はおそらく全員、それを理解し、お子様の成長に必要なだけ与えていらっしゃることでしょう。そして足りないものは補う、ということもなさっています。それが自分でできない時には、第三者の力を必ず借ります。子どもは自分で補うことができません。日本で「保育」という場合は、こうした養育に重点が置かれています。
  次に必要なこと。これが難しい。答えは簡単には出てきませんね。サンデル教授なら「君はなんだと思うかい?」と問いかけて、様々な答えを導き、大きな結論に到るところです。
 私はこの「次に」、という順番が大切だと考えています。それこそが、人間の育ちの基礎を築く幼児教育の重要な役割だからです。
 焦る人々から成る集団では、「次に」大切なものを見ないで、飛躍して「できるようになること」を求める傾向が極めて強い。世の中には自分たちの利益のために宣伝をし、情報を操作して焦らせる人達が沢山います。技術や能力に関わることは、それを使う人間としての基礎が育って初めて生かされるというのは自明のことなのに。
 
 「幼児教育とは何か」。根本的なこの問いを、具体的な形にする努力を、これからも大切にしていきたいと思います。(園長 小林直樹)


たくさんのプラス経験と自分の力で取り戻せるマイナス経験とを

 園だより「元気いっぱい 6月号」より抜粋 

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6月は雨の季節。子ども達は意外と雨に困っていません。雨なら雨で自分のお気に入りの傘がさせて嬉しい、長靴のまま水たまりの中に入れてワクワクする! 元気よく毎年梅雨を楽しんでいます。

 
 さて、少し先月からの続きになりますが、うまくいかないことを予想して「やらない」ということを選択する大人は多いと思います。豊かな経験をもとに、失敗はできるだけ繰り返さないようにする。水たまりに入って靴が濡れ、その上汚れれば、そのまま家に上がれません。だから入らないように気をつける。
 しかし、子どもにとって泥だらけになることは、「うまくいかない」ことにはなりません。これは失敗ではない、むしろ成果! なんといっても楽しいのですから!そこへお母さんの雷。
  「○○! 靴が汚れるから水たまりには入らない!!」
 さあ、大変! 怖い顔、しかも大きな声です。汚すことは子どもにとって失敗ではありませんが、「大好きなお母さんを怒らせてしまった」ということは、確実にマイナスの経験です。この状況だと、せっかく楽しいのに、なぜ怒られているのか子どもには理由すらわかりません。ただ怒るとお母さんは「こわい!」という印象だけが鮮明に残ります。
 それでも続いて「何度言ったらわかるの!!」などど言わせている子は大物です。その子にとってお母さんの雷はマイナス経験として積み重なっていない、ということですから。つまりそれは、お母さんの望む「しつけ」としては、全く効果的がない、ということでもあります。
 
 子ども自身が失敗と感じていないことを、ただ「怒られる」というマイナス体験にとどめないためには、どうしたらよいとお考えですか? 
 子どもは汚れて当然、と黙認する? 怒鳴らないで優しく注意する? あなたは困らないかもしれないけれど、車が汚れて困ると説明する? 着替えを持ち歩いておけば大丈夫? 時には大人も長靴で一緒に入ってみるとか? 
 ちょっと考えただけでもいろいろな反応が可能です。もちろん手をあげるのはいけません。でも親ですから、いつも冷静に、でなくてもいいのです。特に危険に関することは尚更です。乳幼児期は、なにがあっても結ばれているはずの信頼関係が前提ですから。ただ、時々親が、自分のやり方以外の方法があるということを考え、知ることは大切だと思います。
 
 マイナスはなければよい、というものでもない。でも、深い傷になるほどのマイナスは必要ない。ほめられてばかりのプラス経験だけというのも片手落ちです。幼児期はマイナス体験が積み重なるほどに沢山あるよりも、圧倒的な量のプラス体験の積み重ねの中に、自分の力で取り戻せる量だけマイナス経験が織り込まれるくらいがちょうどよいのではないかと思います。「ちょうどよい」というのは、実に難しいですね。
 子ども達を育てているのは大人です。大人は、子どもを取り巻く環境に責任をもっています。子どもたちを大切に育てるということの意味を、園とご一緒に考えていきましょう。(園長 小林直樹)


 大人には見えない「いま」を繋ぐ

 園だより「元気いっぱい 5月号」より抜粋 

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 一年を通じて5月は、一番気持ちのよい季節ではないでしょうか。若葉の色は、富士山そびえる五月晴れの空と、爽やかな調和を見せてくれます。空の色は海に映り、深い青と駿河湾の白波とのコントラストが美しい。これこそ自然の恵みです。

 さて、入園・進級から1ヶ月が経ちました。幼稚園での子ども達の表情は、真剣で明るく、見るものをいつも晴れ晴れとさせてくれます。そんな中、朝の慌ただしいひとときに、お子様からふと「ママと一緒がいい」と言われれば、当然ご心配になるのもこの季節であるかと思います。
 以前ここにも書きましたが、子どもの生活は「今」の積み重ねです。大人と違い、子どものまなざしは、いわゆる「将来への展望」や「周到な準備」とはかけ離れているものです。

 しかし、だからといって、子どもの存在が未来に繋がっていないかといえば、決してそうではありません。子どもは、大切な「今」を、知らず知らずのうちに、未来に向かって積み上げているのです。そうしていつのまにか、自然に未来を築いていける存在なのです。

 ですから、気持ちがまっすぐと大好きなママに向かう瞬間も、縄跳びをできるだけ高く飛びたいと願う瞬間も、風きって滑り台を降りる歓喜の瞬間も、繋がっていないようで、深く繋がっている。
 
 幼稚園に行くということは、これまでと違って、初めて子どもが親の目の届かないところで「今」を積み重ねるということです。大人の目には見えない瞬間も、子どもの中では「繋がっている」ということを、時々思い出して安心してくださると嬉しいです。
 そういうまなざしの必要性は、小学校、中学校、高校と、子どもの成長と共にだんだん増えていきます。親の目には見えない子どもの「今」を、どのように見守り、信じてあげられるか、という課題は親にとって簡単なものではありません。それこそ、親になって初めてする経験だからです。
 
 幼稚園ではどうかな? 見えない不安はどうぞ園に聞いたり、園生活の写真をご覧になったりして、どんどん解消してください。子どもが輝く瞬間をできるだけ提供していきたいと思っています。
 子どもは一人一人違います。たとえ兄弟がいたとしても、その子の親としての旅はまだ始まったばかりです。幼稚園だからこそ、お力になれるはずだと念じております。(園長 小林直樹)


 いつか「準備」のできる大人に

 園だより「元気いっぱい 4月号 」より抜粋

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 ご入園ご進級おめでとうございます。子ども達の気持ちも、生活も、大きく切り替わる4月。明るい期待を大切にして、新しい年度の始まりを支えたいと思います。

 
 さて、最近「準備」ということについて、考える機会がありました。そういえば子どもは「準備」をしないなあ、と。用意周到な子ども、というのもおかしなものです。
  きっかけは、同時通訳者の長井鞠子さんのドキュメンタリーを観たことでした。首相達の国際サミットや東京オリンピック招致などを名指しで任される会議同時通訳の第一人者です。「通訳は格闘技」と画面の中で語る長井さんは、70歳になる今も寸分の手を抜くことなく、移ろい動く時事にアンテナを貼り、発言者の思いや背景までをもより正確に伝えようと、選ぶ言葉を突き詰め、英語と日本語の溝を瞬時に埋めていきます。同時通訳とはこんなにも気迫のあるものかと、観ていて圧倒されました。
 何より、準備を怠らない姿。十分な準備をしないことが理由で、80%の力しか出せなかったと後悔するのは悔しい、と話されていました。
 
 心の中で大きく頷いてスイッチを切った後、ふと思いよぎったのは、最初に書いた「子どもは前もって準備をしない」ということでした。同時に、よりよい未来のために十分な準備ができるようになることは、大人になっていく大切なプロセスではないかと。一つの道で人々から信頼を得て、尊敬されるに足る仕事を続けている人の、常に思慮深く「準備」を怠らない姿は、子ども達に伝えていきたい何ものかを、考えさせてくれました。
 例えば、種を蒔く、水をやる。芽が出て、ふくらんで、花が咲いて。同じ経験が一年、二年、三年。関わり方は自ずと変わってくるでしょう。もっとよい結果を生むためには、何をすればよいかと考えたり、よいアドバイスには、なるほどと耳を傾けたり。「準備」のきっかけは経験の積み重ねが導くことがわかります。
  本質的に学ぶ姿勢は、ドリルでは育ちません。上からの押しつけでは尚更。幼児に対しての教育は、より子どもの身近なところで、子どもの生活に根ざして、小さな準備が自らできるよう援助すること、それを積み重ねていくことにありましょう。
 学童期の「勉強」ではなく、学童期へと向かうのに必要な幼児期の「学び」が、「準備のできる大人」への第一歩、となるのではないでしょうか。
園長 小林直樹)


幸せを選択する、ということ

 園だより「元気いっぱい 4月号 / 2012」より抜粋

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 三月末までは固く結んでいた桜のつぼみが、四月に入ってほんのりと開いてきました。春ですね。

 ご入園ご進級おめでとうございます。中央幼稚園も新たな気持ちで子ども達を迎えたいと思います。

  さて、少し唐突ですが、今日は「幸せ」に続く「選択」についてお話をできたらと思います。
 幸せになりたい。誰もが願うことです。また「幸せ」の価値観は人によって千差万別です。それではどうしたら自分の考える幸せな人生を送ることができるのでしょうか。答えはとても難しくも考えられるし、簡単に感じてしまうこともできるような気がします。神がかり的なものでもなく、他力本願の占いなどでもなく、自分自身が獲得しうる「幸せ」について論理的に語る言葉を見つけたので紹介します。
 
 それは、NHK教育テレビの「白熱教室」というアメリカのNY州にあるコロンビア大学大学院のシーナ・アイエンガー教授による「選択」についての講義でした。教授は全盲のインド人の女性で、その話は実に論理的かつユーモアに溢れていました。内容が非常に濃く、小さくまとめることは難しいので、心に留まったところに少し触れさせていただければと思います。
 
「大きな選択だけが 幸せに結びつくのではありません。日々積み重ねる小さな選択が、結果として幸せになるカギとなるのです。」
 
 幸せというのは、思い通りにわしづかみに獲得できるような安易なものではないこと、それよりも、毎日毎日の生活の中で、これをやりつづけるかどうか、食べるか食べないか、やらないかどうか、そんな小さな、よりよい方への選択の積み重ねによってこそ、人生にわたっての幸せを獲得することができる、と読み解きました。
  教授によれば、よりよい「選択」のためにセルフコントロールは重要です。しかし、直感をすべて押さえ込んで、理性だけに裏打ちされた「選択」には楽しさが欠けてしまうことがあります。
 直感と理性とを擦り合わせるのに教授おすすめの方法は、「あなたにとって何が大事かを知ること」。
そして、「理性を使ってルールを守り、状況に対応するには、自分をコントロールする能力を、直感と同じレベルで発動させる」。つまり人生の幸せは、よりよい選択を自らの習慣として積み重ねることによって生まれる、とおっしゃっています。
 
 はからずも、中央幼稚園の教育目標は、人間として「豊かな生活の習慣を培う」です。子どもたちの歩む道が幸せへと続くことを願って、また一年重ねていきたいと思います。(園長 小林直樹)


「諸君、明日はもっといい物をつくろう」

 園だより「元気いっぱい 5月号 / 2012」より抜粋

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 暖かい陽射しと色とりどりの花々、そして新緑の美しさ…春本番の五月となりました。幼稚園に少しずつ居場所を広げている小さなうさぎ組の子らがほほえましく映ります。きりん、くじらの子ども達の晴れ晴れとした表情には、こちらの気持ちまで明るくする力がみなぎっています。日々感謝。

 
 さて、今月は、スペインで活動している一人の日本人彫刻家を紹介したいと思います。
  スペインのバルセロナにある「サグラダ・ファミリア贖罪教会」は、1882年の着工以来130年、未だ工事中でいつ完成するかは誰にもわからない建築です。建築家のアントニ・ガウディは1926年になくなるまで、ライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組みました。

 しかし、1930年代に勃発したスペイン内戦により、ガウディやその弟子が残した資料の大部分が消失してしまいます。しかし今なお、ガウディの構想や思いを推し量り、受け継いで、教会は作り続けられているのです。

そのサグラダ・ファミリアで、主任彫刻家を務めるのが、なんと日本人の外尾悦郎さん58歳。日本の美大で彫刻を学んだ後、1978年にバルセロナに渡り、この教会に出会ってから既に33年、ガウディに魅せられつづけ、大きな石に向かって鑿を打っています。
 最初、バルセロナの石工職人に、同志として認めてもらうまでには、人柄と仕事ぶり、限定されたコミュニケーションの中での、十分な月日が必要でした。そして、初めて「彫ってみろ」と言われたときの勝負にも似た作業。その間も、ガウディとサグラダ・ファミリアをより深く理解するための猛勉強を続けていきました。
 やがて「生誕の門」の天使の彫刻群を任され、2000年に完成。それらを含めてサグラダ・ファミリアは2005年、世界遺産に登録されるまでになりました。
 近年、教会の門をどのようにするか、複数の彫刻家によるコンペがありました。勿論ガウディの設計は現存しません。「現在、もしあの遊び心いっぱいのガウディが生きていたら、こんな門を創りたかったにちがいない」。外尾さんのデザインは色とりどりで斬新な温かいものでした。また、未来を担う「子ども達」に向けて、という思いの強いものでもありました。緑の草々に点在するてんとう虫や蝶などの昆虫たち。生き物をモチーフにし、尚かつ実用性も備えた大胆な彫刻を施したガウディが手を叩いて喜びそうな門です。コンペは見事外尾さんが勝ち取りました。
 
 今はサグラダ・ファミリアに眠るガウディ。作業の前に職人達に語りかけた言葉は「諸君、明日はもっといい物をつくろう」でした。そしてこんな言葉を書き残しています。「私がこの聖堂を完成できないことは悲しむべきことではない。/必ず後を引き継ぐ者たちが現れ、より壮麗に命を吹き込んでくれる。」
 外尾さんの仕事は、まさにガウディが託した思いそのものです。歴史を紡ぐ人、そんな言葉が黙々と石を彫るまなざしに感じられ、その意志の強さに畏敬の念を覚えます。(園長 小林直樹)


本当によく見ていますか? 〜セザンヌの視点〜

 園だより「元気いっぱい 6月号 / 2012」より抜粋

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 「初夏」とは6月頃を言うとのことで、日中は太陽の陽射しが格別強く感じられる今日この頃です。1学期も半ばを過ぎ、子どもたちも新しい環境がすっかり自分のものになった様子。

大人は、子どもができないことではなく、できたことに目を向けて、励ましの心で後押ししてあげたいものですね。

 
 さて、今月は、新国立美術館で開催中の「セザンヌ展」(なかなか足が運べずにおりますが、6月11日までです。)にちなんで、フランスの画家セザンヌ(1839-1906)についてふれたいと思います。私は門外漢なので、かなりざっくりとヨーロッパの絵画の系譜を述べながら、セザンヌが残した歴史的な意味を少しでもお伝えできれば幸いです。
 
 ルネサンス期(14~16世紀)と呼ばれる以前は、絵画、と言えば殆どが、無名の職人達による教会に飾る神をモチーフとした絵でした。それがイタリアで発祥したルネサンス運動によって、神が人間の肉体を備えたものとして、写実的に(見たままに)描かれるようになりました。ミケランジェロやダヴィンチの時代です。あまりにも有名なヴァチカンの天井絵は神が生々しい程人間的で、しかも美しい構図です。
 
 絵画に「人間」や「写実」の視点が取り入れられると、絵の対象は、神だけではなくなりました。ステイタスとしての肖像画が流行し、より人物を写実的に描くために、「遠近法」が用いられるようになりました。
 この「遠近法」こそ、絵画に初めて持ち込まれた「見る人の視点」だったのです。
 
 絵画の近代化はこうして進んでいきました。その後、ルノアールやドガなど「印象派」の画家たちによって、絵の対象は、風景や人々の生活、日常の静物などへと広がりを見せるようになりました。    
 「印象派」の絵画は当時はなかなか受け入れられませんでしたが、画家達には多大な影響を与え、ゴッホやゴーギャンなどの天才を生んでいきます。
 最初印象派に属していたセザンヌの偉業は、何より、一つの平面に様々な角度からの「視点」を取り入れるという画期的な手法を、絵画という芸術表現を高めながら生涯模索し続けたことと言えましょう。そのことによって、セザンヌは、遠近法を超え、即ちそのことは、一個人が一点に立って見えるものだけが対象のすべてではない、という意味で、近代をも超えていきました。
 やがてそれはピカソに多大な影響を与え、より過激にキュビズムの絵画を生み出していきます。
 
 自分の立ち位置で見えるものがすべてではない。時に角度を変えて、時に俯瞰し、様々な角度に立って真実を見極める……。
 「本当によく見ていますか?」時代を超えて、りんごや、山の絵画の向こうから、セザンヌが私達に問いかけてくるようです。(園長 小林直樹)


あの美しさをもう一度  〜ネイチャーアクアリウム〜

 園だより「元気いっぱい 7月号 / 2012」より抜粋

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 梅雨の最中に、一年中で一番昼が長く、夜が短い夏至を迎えました。近頃ではこうした季節の言葉に鈍感になってしまうほど、自分たちの幼かった頃と暑さ寒さが違うなあ、と感じてしまうのは自分だけでしょうか。

 
 さて、東京スカイツリーがオープンして早1ヶ月を過ぎ、既に天空634mにそびえ立つ塔を見上げてきた方もおありでしょうか。デザイン監修に元東京芸術大学学長の彫刻家
・澄川喜一氏と日本を代表する建築家安藤忠雄氏を迎え、計画だけで5年の歳月を要し、パリ祭の日に因んでか否か、2008年7月14日に着工して以来4年、賛否両論はありながらも、完成を楽しみにしておられた方も多いのではないでしょうか。

 そのスカイツリーに隣接して建てられたのが「すみだ水族館」。そのエントランスを飾る大きな二つの美しい緑の水槽をご存知ですか。

 題して「水のきらめき~自然水景~(原生林の構図/草原と石風景)」。今日の話題はツリーの方ではなくて、この水槽です。あしからず。
 どんなものでも、世界で初めて手がけた人というのは、やはり気合いが違います。それがこの「ネイチャ
ーアクアリウム(自然水景)」を創った天野尚氏。新潟のADA(アクアデザインアマノ)といったら、世界に名立たる水草水槽の神様のような存在です。
 ADAは今年で創立20周年。図らずも富士中央幼稚園と同い年です。緑の水槽なら、もっと前からなかったの?と素朴に思われる方もあるでしょう。私も始めはそうでした。けれど、水草に光合成をさせるために、水槽に酸素ではなくて二酸化炭素をいれるということを「発見」し、水草が発生した酸素でサカナ達が呼吸をする、という生態系そのままの水槽を世界で初めて実現したのは、この天野氏に他ならないのです。
 天野氏の原点は、子どもの頃に遊んだ新潟県の鎧潟よろいがた)でした。それこそ美しい水と緑の自然の宝庫。様々な生き物や植物が教えてくれたことは計り知れない楽しさだったことでしょう。それが1968年高度経済成長の真っ最中に干拓されました。風景が一変した故郷。あの美しさをもう一度、という思いが天野氏の心をずっと支え続けてきたのでしょう。
 地球温暖化の原因でもあるCO2。でも植物を増やすことで地球を再生する道がある。環境に対するメッセージがたくさんこもった、しかし、そしてだからこそ美しい水の風景。子ども達が夢を持ち続けられるような原風景こそ、未来を支える宝になることを改めて教えられます。(園長 小林直樹)


 今、静かな強さを求める人々

 園だより「元気いっぱい 9月号 / 2012」より抜粋

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 夏休みはいかがお過ごしでしたか?幼稚園では、最後の夏の暑さを惜しむような蝉時雨の中、子ども達が水遊びに興じる笑い声が、高い青空に響いています。近頃は、朝風の中にほんの少し、秋の気配が感じられるようになりました。

 いよいよ二学期の始まりです。
 
 さて、もう何年も前になりますが、この「元気いっぱい」の拙稿に、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子先生が過ごされる“年の瀬”のことを、ご紹介したことがありました。アメリカの修練院におられた時以来、年末の三日間はどんなに忙しくても仕事もお休みして、静けさの内に過ごすというお話です。第一日目は一年間を反省する日、二日目は一年間に頂いた恵みを思い起こす感謝の日、三日目は新しい年をいかに過ごすかという決意を固める日、そんなことを認めました。
 尊敬する私の大学院の恩師がクリスチャンだったこともあり、長年同じ教育の現場に携われている渡辺和子先生の文章には、目に停まるとその度に心洗われる思いがしておりました。
 どちらかと言えば学園経営は縁の下の力持ち、見えない所でのご苦労がしのばれることが多いのですが、その渡辺先生の御本がこの春、幻冬舎で出版され、早くも42万部を超えるベストセラーとなっていることを遅ればせに知りました。最初は少し驚き、と同時に世の中の流れがこうした静かな強さを求めていることに強く納得もしました。
 私には、中でも「九年間に一生分の愛を注いでくれた父」という文章が心に残りました。お父様が1936年、いわゆる昭和の大クーデターである二.二六事件で犠牲となった陸軍教育総監・渡辺錠太郎氏であることは、この本で初めて知りました。調べてみれば、渡辺氏は給料の半分を丸善書店の支払いに当てていたとまで言われるヨーロッパ流リベラル派の教養人だったそうです。
 「寡黙の人」「努力の人」と、今もって父親への愛情と尊敬と感謝に満ちあふれた渡辺先生が、たった9歳の時にその眼前で父を撃たれた時の衝撃はいかばかりのものだったでしょう。
  『置かれた場所で咲きなさい』。
 表紙のたんぽぽの版画が美しい小さな本です。読書の秋におすすめします。(園長 小林直樹)


 まるごとよく見て関わる、ということ

 園だより「元気いっぱい 10月号 / 2012」より抜粋

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 残暑厳しい九月でしたが、ようやく秋らしい十月です。子ども達もじっくりと腰を落ち着けて成長する季節となりました。こちらもどっしり、ゆったりと構えて子ども達を受けとめる姿勢でありたいと思います。

 さて、もう七十代にはなられるでしょうか、機会あってお目にかかった医師が、興味深いことをおっしゃいました。「今の医師教育は、確かにもの凄く頭のいい優秀な人材を集めてはいる。が、人間の状態を丸ごと見るという視点に欠けている。新しい機械やパソコンの操作など、私達の頃とは比べ物にならないほど覚えなくてはならないことがあるのだろうが、胃なら胃、心臓なら心臓と、専門が特化しすぎて、自分の専門以外の臓器には興味すら示そうとしない傾向がある。我々が受けた教育では、まずはとにかく患者の全体をよく見る、というのが診察の基本で、どの臓器のことも徹底的に勉強させられたものだがなあ。」   
 かく言う先生は東大医学部卒。さらりと冗談めかしておっしゃった言葉でしたが、現場の医療に長く携われてこられいる一言には万感が込められていて、聞き逃す事ができませんでした。
 
 人間をまるごとよく見る、という視点は、子ども達を「育てる」ということにも大きく関わることです。子どもの一つの表れに捕われて、一喜一憂することは、育てるものにはついありがちなことです。また、数値に置き換えやすい成長や、表面的なものだけを見て、内側に宿るものを見つめようとしない姿も、ありましょう。
  子ども達は、心も体も、その置かれた環境や経験したこと、出会ったこと、出会った人、夢中になったこと、なれなかったこと等々、すべてを内包して大人への階段をのぼっていきます。そのすべてを把握する、というのはいささか無理があるとしても、育てるものが、見守る自らの目を、偏りや曇りなきよう問い直しながら、子どもを受け止め、見守る姿勢は、欠くことができないだろうと、戒める気持ちになりました。
 よく見る、というのは、本当はどんな技術よりも難しいことかもしれません。人間の作り出した道具がどんなに優れていようと、人間自らが持つ心と体ほど、普遍的に可能性を持つ道具はないのかもしれません。(園長 小林直樹)


 ヴィジョンがブレないことの強さ

 園だより「元気いっぱい 11月号 / 2012」より抜粋

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 早いものでもう11月です。幼稚園には、生活発表会を前にして、元気で明るい子ども達の歌声が響きわたっています。秋が、子ども達の成長と重なって深まっていく、今日この頃です。

 
 さて、先月、京都大学教授のiPS細胞研究所長・山中伸弥教授が、英ケンブリッジ大学ジョン・ガードン名誉教授と共に2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。その受賞理由は、iPS細胞の作製は「細胞や器官の進化に関する我々の理解に革命を起こした」と説明されました。
 山中教授は今年50歳。整形外科医を経て、26歳の時、現在の医療では救えない重症の患者さん達を救う手立てを研究するため、薬理学研究の道に進み直されたといいます。

 博士課程修了後留学したアメリカの研究所で、研究者として成功したければV(Vison)とW(Work)が大切だ、と指導教授に言われます。「長期的な目標を立て、がむしゃらにやること。」

 今まで世界中の誰も考えなかった細胞の「初期化」という発想を持ち得たことについて、「研究者としてVisonを持つ事は容易ではなかったのでは?」というインタヴューに応え、山中教授が応えました。「Visonを言うのは簡単なんですね。僕の場合は臨床から研究に移る時点で、一人一人の患者さんを助けることはできないけれども、いつかは一気に、何千人、何万人の人を助けたい。そういう目標に結びつく研究がしたい、ということが最初からはっきりしていましたから。」
 
 周囲のお弟子さんたちが、先生がブレたことは一度もない、と口を揃えておっしゃっています。そして様々なエピソードが、その意志と熱意の強さを物語っています。
 遺伝子分野の研究には様々な倫理的問題がつきまとっていた中で、まずは出発点でそれに抵触しないやり方を考え抜いたこと。どんな失敗も研究の成果と捉えて糧にすることを、自身も、またお弟子さん達にも伝え続けてあきらめなかったこと。「成果は20年30年でないかもしれないが、気にしなくていい。その間ぼくがずっと雇ってあげるから。」
 研究費が底をついた時、誰も実現を信じなかった中で10倍以上の競争率を凌いで補助金対象研究選考の面々を説得した姿。「当時は常識の枠を越えた発想です。結果が出るのはゼロだと思っていました。ただ気迫があった。この人がこれでやめてしまったのではもったいないという気持ちでした。」当時の選考代表がふりかえりました。
 そして一気に時間を縮めたiPS細胞の作製。山中さんは言います。「できるだけ早く、広くたくさんの人々にiPS細胞を使ってほしい。そして役立ててほしい。そのことによって生じる問題については、我々はより一般の人たちにわかり易い言葉で伝え、社会全体で議論が広まるようにしていくことが大切だと思う。」
 語る姿に、奢ることなく滲み出る人柄。「信じるに足る」と支えてきた多くの思いを無にしない決意が、受賞を導いたにちがいありません。(園長小林直樹)


 師走だから考える“ちょうどよい”子育て

 園だより「元気いっぱい 12月号 / 2012」より抜粋

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 生活発表会がまもなく幕を開けます。今年もまた、子どもたちの力強い成長の姿をご覧頂けることと思います。

 本番を迎えるにあたり、保護者の皆様には温かいお力添えをたくさん頂いております。見守られるまなざしを感じてこそ、子ども達は安心して力を出し切ることができるのだと思います。開幕に先立ち、厚く御礼申し上げます。
  さて、12月。年の瀬を迎える大人たちは「師も走る」ほどの忙しさです。「忙しい」は「心を亡くす」と書く字なので決して言わないようにしています、という方がおられて、なるほどと感心した記憶があります。
 そんなときは、なかなかゆっくりと子どもに向き合うことができなかったり、子どもに対して「あとで」や「早く」の言葉がついつい増えてしまうこともありますね。そういうことはなるべく言わないで、じっくり子どもと向き合い、話を聞いてあげることが大切……と、いうのはもはや常識、どの育児書を見ても書いてあります。
 でも、親だって人間。育児だけではなく、家事だって、仕事だって、なんだってやっているんです。いつでもどこでも100%「よい親」として子どもとゆったり向き合っていなければ「よい子」が育たないなんて言われてしまったら、やりきれないと思います。
 
 私は、それは「いつも」でなくてもいいのかな、と思っています。その子自身が、無条件で大切にされている「実感」をきちんと持てるような経験を様々な場面で積み重ねてさえいれば。
 
 「子どもと向き合う」は、「子どもの顔色をいつも見る」ではありません。かといって「放任する」は間違いですが、「子どもの意見を尊重する」あまり「常に子どもの思い通りにする」のもいかがなものでしょう。いつも思い通りになる子どもにとって、思い通りにならない時の試練が、より大きなものになることは想像にかたいでしょう。
 子どもは親が思っている以上に、親や周りの大人の姿をよく見ているものです。「今日は忙しそうだから、悪ノリしないほうが良さそうだぞ」とか、「体調が悪そうだからお手伝いしてあげようかな」とか、そんなふうに子どもが人の状態を察するのは、流行の空気を読む云々ではなく、それはそれで必要なことです。「いつも」でなくても、無条件で大切にされている実感のある子は、相手の立場をおもんばかる度量を徐々に備えてくるものです。
 ただし、子どもが常に大人の顔色を伺っているような「いい子」になりすぎていたら、大人は自分の「大切」や「愛情」に、「条件」がついていないかを見直す時だと思います。
 
 “ちょうどよい”はお釈迦様しかわからない。昔どこかで聞いたそんな言葉が思い出されます。試行錯誤してあがいて、自分と子どもとの一番ちょうどよい距離感を探していきながら、大人も子育てによって深まり、子どももより高みを目指して自己実現できるようになれば……。
 そんな祈りのような願いを、いつも持っていたいです。(園長 小林直樹)


 恭賀新年  〜 今年も「だいじょうぶ」〜

 園だより「元気いっぱい 1月号 / 2013」より抜粋

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 新年あけましておめでとうございます。ご家族でよいお正月をお迎えになられたことと存じ上げます。子ども達のためにまた一年、一歩一歩精進して参りたいと思いますので、本年もよろしくお願い申し上げます。

 
 さて、最近「だいじょうぶの小石」という話に出会いました。禅のお坊様が書いたエッセイを渡辺和子先生が紹介されたものでしたが、それには思わずハッとさせられるものがありました。
 私たちが通常「だいじょうぶ」という言葉を人にかけてあげるときは、大抵の場合「きっとよい方に向かいますから心配いりませんよ」という意味合いで使います。しかし、この「だいじょうぶの小石」には、もう少し深い意味がありました。

 仕事柄病院に出入りを許されている方が、これから手術を受けようとしている方に、掌に入るくらいの小さな小石をそっと握らせてあげるのだそうです。それには平仮名で「だいじょうぶ」と書かれてあります。患者様は、

「手術はうまくいくのですね」と喜びます。するとその方はこう応えるそうです。
「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫、そういう意味の『だいじょうぶの小石』なんですよ。」
 渡辺さんはクリスチャンですから、まずは謙遜を込めて「私は『欲しいもの』を願うけれど、神は『要るもの』をくださる」というお話となりますが、続けて、それが万が一自らにとってその時「悪い」と思える状況になったとしても、時間をかけて、自分が良く変わるための契機となり得る、という意味のことを書かれています。病気をしたおかげで人に対して優しくなれたり、自分の弱さを知ったおかげで、人への厳しさが和らいだり。
 「だいじょうぶの小石」を握りしめて生きる。(他ではなく)「私たち(自ら)の心の向きを変えることによって」「生活をポジティブなプラス思考に、笑顔の多い明るいものにしていくことが出来るのではないか」……。
 また一年、大切に重ねていきたいと思います。(園長 小林直樹)


 育てる者は、見つめる者

 園だより「元気いっぱい 3月号 / 2013」より抜粋

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 3月です。昨今は温暖化の影響で以前よりも北極の氷が多く解け、冷たい海流が冬を尚更に寒くしていると聞いたことがあります。大雪でご苦労されている地方では、どんなにか春が待ち遠しいことでしょう。

 
 さて、年長くじら組の子ども達にとっては旅立ちの季節。入園の頃からは見違えるほど成長した姿が、そこにはあります。そして、きりん、うさぎの子ども達にとっても、一年前を振り返ると、いつのまにか、できるようになったことが増えている新しい春となっているはずです。
 一日一日で振り返っても、あまり大きな変化が感じられないのが日常です。「変わらない」と感じられるその中に、「変わる」要素が組み込まれているということは、人間の営みとして、とても奥深いことだと感じます。

 よく、一流のスポーツ選手になると、朝起きて、試合に出る迄の過ごし方を、一切変えないといいます。それこそ、服を右腕から切るか左腕から着るか、食後のデザートは必ずプリン、とか、素人には思いも寄らないような生活の細かな決まり事を変えないという事が、肉体だけでなく、精神をも支えていることに驚かされます。
 
 成人になれば、老いに向かって衰えていくのが自然な変化です。それを一層の努力と変わらない生活習慣を維持していくことで 「変わらない」実力をキープする。つまりここでは、ただ自然に任せていることは低下を、以前と変わらないように見えることは、むしろ上昇に向かって日々変化していることを意味します。
  一方、子どもの場合は、本人の努力の有無に関わらず、生きる力として発達が必ず約束されています。そして、置かれた環境を取り込みながら、心身ともに成長していくのです。小さければ小さいだけ、立った歩いたと、その変化は短いタームで目に見えて、周囲の大人を喜ばせることでしょう。
  しかし、昨日と今日の違いが目に見えにくくなってからこそが、育てる者のまなざしが問われてきます。
 
 それぞれの「できた」は、大人でもそうですが、人によって、また見る場所によって、達成度の認識に違いがあります。「できた!」と喜んでいる傍らで、「それはできたうちに入らない」なんて言葉、よく聞きますね。また「できない」が「できる」になるには、人それぞれ必ず速度に違いがあります。比べたり、焦ったりが、ふさわしくないことは明白です。しかし近くにいる存在ほど、そのことを忘れてしまっている場合が多々あるものです。
  子どもの成長は、大きく振り返って確かめましょう。そして、大きく、広く先を見つめてあげましょう。春は節目の季節です。どこから見つめるか、どのくらい広く見つめられるか。育てる者は、見つめる者。「視点」と「視野」が大切です。(園長 小林直樹)