【2009年4月】 『あわら』のはなし・・・
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福井県あわら市は、灌漑の工事中に噴出した温泉で有名なまちです。
加賀温泉郷のひとつだと思っていましたが石川県だったんですね〜。
整然としてきれいな街並は昭和31年の大火で温泉街が焼失したあと
区画整理されたからだと調べてわかりました。
歓楽街もなく、泉質もよく落ち着いた憩いの場という印象を受けました。
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【2009年2月】 『つくば』のはなし・・・
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茨城県にあるつくば市は世界有数の研究学園都市として有名な街です。
また、自然との共生を目指した田園都市でもあります。
研究者と地域住民の関係が改善されてきたのは「まつりつくば」を開催してからだそうです。
大きなキャンパスと新興住宅地
これからまだまだ発展し変わっていく街だと感じました。
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【2009年1月】 『武生』のはなし・・・
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武生(たけふ)はかつて越前の国の国府がおかれていたところで府中とも言われていたところだそうです。
2005年に隣接した今立町(いまだてちょう)と合併し越前市となりました。
平日に訪れましたがなにか懐かしい香りがただよう街でした。
越前府中まちなか博物館と題したマップがありました。
まちなかに点在する昔の面影を残した建物や商いを保存、活用し良さを再発見することによって、
まちなかにその賑わいを取り戻すことを目指しているとのことです。
おどろいたのは、まちかど博物館の建物などが一般の観光施設ではなく
館長さんの協力により運営されているということでした、また行ってみたいと思います。
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【2008年10月】 『松山』のはなし・・・
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愛媛県松山市は“ぼっちゃん”でよく知られている道後温泉、松山城のあるまちです。
バスの車窓から見た松山市内は路面電車がひっきりなしに通り、人も多く活気が感じられました。
今回は安藤忠雄さんの設計された『坂の上の雲ミュージアム』の見学が主でしたが、
今、松山市では、主人公たちのように夢や希望を持ちながら、官民一体となって、
「物語り」が感じられるまちを目指す『坂の上の雲』を軸とした21世紀のまちづくりを立ち上げたところだとか
まちづくりにはストーリーが必要ですネ!そういえば我が街・島田市にもその昔『島田物語』
という総合計画があったなぁ〜と!思ったのでありました。
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【2008年10月】『脇町』のはなし・・・
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徳島県美馬市にある脇町(わきまち)は、昔藍で栄えたうだつのある町として有名です。
「うだつ」は二階の壁面に造られた袖壁のことです、当初は防火の目的で造られ、
後に商家の威厳を競うように次々と造られたそうです。
建物は本瓦葺き、壁は漆喰仕上げの重厚な街並みですいかに藍で栄えたか、往時がしのばれます。
各家が競ったであろう、卯建(うだつ)、鬼瓦、鳥衾(とりぶすま)が印象に残った街でした。
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【2008年8月】 銚子のはなし・・・
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千葉県銚子は関東平野の最東端にある人口7万人の町です。
「銚子」は地名を指す物では無く、利根川の河口を指すもので「銚子口」と呼ばれていた。
「銚子」とは小さなつぎ口を持つ酒器の一種(徳利では無い。)で入り口が狭く、中に入るとより広い空間が拡がる地形に良く似ている為「銚子」という地名がついたとされる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
醤油のまちとしても有名だそうで、ヤマサ、ヒゲタという醤油メーカーの工場があり、
近くでは醤油の薫りがしていました、銚子港近くのお店でイワシの刺身を注文したのですが
当日は海が荒れていて出港できなかったとのことで、代わりにキンメ鯛をいただきました。
街中は広々とした感じで渋滞もなかったのですが、何か淋しい気がしました。
私の住んでいる街、静岡県島田市もそうなんですが、道の広さはもう少し
適当な広さが提案されてもいいのではないかと思います。
ちなみに、この銚子駅舎は終戦直後旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用し、
駅に改築したものなんだそうです。
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【2008年5月】 郡上八幡のはなし・・・
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長良川の上流に位置する水のまち、郡上八幡は思ったよりコンパクトな、
でも、郡上八幡ならではの水風景をもった心に残るまちでした。
湧水が多く、街中の通り沿いの水路は流れも急ですが防火用としてその昔から使われてきたそうです。
民家の裏側を流れる『いがわこみち』には鯉がのんびり泳いでいました。
時間がゆったり流れているような気がしました。
昔からある厳格なルールを皆で守ることによって保たれてきた伝統を今後とも続けていって欲しいと思います。
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【2008年1月】 草津温泉のはなし・・・
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群馬県吾妻群草津町にある草津温泉は、有馬・下呂と並ぶ日本三名泉のひとつです。
効能はなんにでも良いようで、皮膚病、神経痛、糖尿病ほかにいいとか。
朝早くの街中は静かで長閑に湯煙が立ち上っていました、温泉まんじゅうのですけど・・・
24時間無料の共同浴場もあるとのことでしたが、マナーの低下問題もあり深夜は施錠するところもあるようです。
ちなみに滋賀県にあるのは草津市です。
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【2007年11月】 小浜のはなし…
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古くは若狭の国の国府があった福井県小浜市は人口二万三千人程の思ったより小さな街でした。
神社仏閣が近い距離で多数あり、かつての栄華を思わせます(^-^)
そういえば正式に市役所の職員になられた地村さんはこの辺りで拉致されたんだと思うと思わす辺りを見回したりする気分になります。
古い町並みも残っているし蟹も美味しかったし、また行ってみたくなる街でした。
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【2007年10月】
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住んで良かった町 訪ねて良かった町 もう一度訪れたい町
自然の恵みや先人達が創り出した風景や文化、いま現在生活を営む人々が重なり合って醸し出す「風情」がある町、滋賀県近江八幡市はゆったりとした時間が流れていました。
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『海野宿』のはなし・・・ 【2006.11.6(月)】
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長野県の小諸から上田に向かう間にある東御(とうみ)市の、北国街道『海野宿』は1625年(寛永2年)に開設された宿場町です。
道の中央に用水路が通っていて、柳の並木が趣を醸し出していました。
宿場時代と明治以降の建物が程良く調和して残されています。
何年か前火事があったそうですが卯達(うだつ)が延焼をくいとめたのを実際に見て改めて先人の知恵に驚いたとのことでした。
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2006.9.14(木)
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『木之本』のはなし・・・
北国街道沿いの宿場『木之本』は、北国脇往還との分岐点にあるまちで江戸時代には
旅籠や商家が軒を連ねていたそうです。
また木之本地蔵の門前町として賑わいをみせ、毎年八月の大縁日には多くの露天と参拝客で身動きが出来なくなるそうです。落ち着いた古い町並みは往時をしのばせ、古き良き時代を思い起こさせてくれます。 区画整理できれいになったけど賑わいを取り戻すのに苦労しているわがまちにとっても、ヒントを与えてくれていると思いますね(^o^)
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2006.3.24(金)
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『喜多方』のはなし・・・
蔵と喜多方ラーメンのまち、福島県喜多方市は昔、会津の北部に位置していたことから北方(きたかた)と称されていましたが昭和29年に町村合併により現在の名前になったそうです。年間100万人の観光客が訪れると言う、長野県の小布施町と並ぶまちづくりの成功事例の街です。伝統を守りつつ新しいことにも取り組んでいる気風が感じられる街でした。
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2006.2.27(月)
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『大内宿』のはなし・・・
大内宿(おおうちじゅく)はかつての会津西街道の宿場町です。明治初期に大川沿いの国道が開通するまで繁栄しました。現在も街道沿いに、約40軒の茅葺き民家が当時の面影を残して並び、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
昔ながらの家屋を生かした宿や食事処、本陣を復元した大内宿町並み展示館などがあります。18名の子供達が通う学校が遠くなったと、お店のおかみさんが言っていましたが地域の人達が懸命に取り組んでいるさまが伺えました。
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2005.12.29(木)
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『小布施』のはなし・・・
長野県の小布施町(おぶせまち)は人口12,000人の小さな町ですが年間80万人程の観光客が訪れ、先人から受け継いだ風土、文化をもとに“北斎と栗と花の町”をテーマに住民の総意でまちづくりを進めている全国でも数少ないといわれている成功事例として有名なまちです。良いオーガナイザーがいて、人口規模も小さいことが良かったのでしょうね!
区画整理といわず修景としたところもいいですね。
高井鴻山は豪農商で北斎の良き理解者、経済的な支援者として「碧い軒」(へきいけん)【碧(あお)のさざなみ」を意味するんだそうです】を提供し、そのアトリエから数々の傑作を残しました。
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2005.11.1(火)
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旧岸邸のはなし・・・
ブログにも載せましたが10月のはじめに御殿場市にある旧岸邸が期間限定で公開されました、4ヘクタールに及ぶ全体の公開は2年後だということでした。木造及び鉄筋コンクリート造2階建て、スレート葺の床面積566.81m2の建物は吉田五十八氏の設計です。
和室周りの繊細なディティール、洋室周りの額縁の収め方が見事でした。やはり建物と庭が一体となった時美しさが出てくるんですねぇ〜。
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2005.9.27(火)
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茶室麟閣のはなし・・・
福島県会津若松市にある鶴ヶ城の曲輪にある『茶室麟閣』は、趣のある建物でした。千利休の次男、小庵が天正19年(1591)千利休切腹後、密かに蒲生氏郷を頼って会津に逃れ、ちょうど修復中の鶴ヶ城の本丸東南隅に茶室指月庵(麟閣)を造営したのが始まりだそうです。氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんで少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけその結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出されたのです。小庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれ、その後 宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。戊辰戦争で敗れ、明治に入り鶴ヶ城が破却される際、貴重な茶室が失われるのを惜しんだ石州流の森川善兵衛が、明治5年(1872)自宅へ移築して120年にわたり守り続け、市制90年を機に元の場所へ移したということでした。建物、庭、樹木が見事な調和をみせていました。
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2005.9.16(金)
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天鏡閣のはなし・・・
福島県猪苗代町にある『天鏡閣』は明治40年に建てられた有栖川宮別邸です。
今は鬱蒼とした森の中に佇んでいますが建てられたころは樹木も少なく遠くからもその優美な姿を望むことが出来たそうです。『天鏡閣』の由来は李白の句「明湖楽天鏡」からだそうです。館内には26個の大理石のマントルピース、部屋毎にデザインが変えられている円形の天井飾りなど気品あるルネッサンス風洋風建築です。昭和54年に国の重要文化財に指定され、その後2年掛け修復工事をしたそうですが、しっかりした管理の重要さを改めて感じさせられた建物でした。
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2005.8.29(月)
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『板倉の家』のはなし・・・
板倉(いたぐら:壁を板材で作った蔵)は、食糧を貯蔵するための建物で、1階の半分が野菜類を貯蔵するための土間、半分は床を張って米を蔵っておき、2階は子供の部屋とか人足などの泊まる部屋として使われたそうです。
この家は宮城県石越町で50年以上、東京都大田区蒲田で30年、静岡県静岡市で18年たっていますが、深い美しさと心地よさを感じられる建物です。「僕の家は農夫のように平凡で、農夫のように健康です」と、この家の主、芹沢けい介さんはいわれていたそうです。
板倉の良さを生かしつつ、家具、調度にいたるまで住み良く工夫されています。「このような板倉等、古くからの建物の良さ健康さを利用して、現代の住まいの中に取り入れていくということを、これからの若い人達にはぜひ考えてもらいたいと思うのですが・・・」とも言われていたそうです。
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2005.8.12(金)
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相良油田・・・
見てきました、相良油田。我が国、太平洋岸唯一の油田です。
明治5年に発見され、80年もの間、質の良い原油を産出したそうです。
実際、他の油田の原油と比較しても見ただけで澄んだ軽油とわかりました。
井戸小屋は、屋根の上に明かり取りを設け、その光を鏡に反射させ坑内を明るくして作業したそうです。スバラシイ!!これも先人の知恵ですね。
でも限りある資源です。将来泣く事がないように、今の生活を見直して暮らしたいものです。油田(油断?)大敵とならぬ様・・・
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2005.8.8(月)
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田中城のはなし・・・
静岡県藤枝市にある田中城跡は今から500年ほど前に建てられた日本でもただひとつの直径600メートルのほぼ同心円の円郭式曲輪をもつ、城跡です昭和30年代には近くの山から眺めることが出来たそうですが現在は宅地開発が進み一部に面影を残すのみです・・・【円郭(えんかく)式とは輪郭式に似ているが、円形か半円形を中心に本丸、二の丸と輪状に囲んでいるもの。】
『日本城郭史』より
・・・その南東側に藩主の下屋敷庭園跡があり近年整備され、本丸櫓、仲間部屋・厩、茶室などが移築されています。なかでも目に付いたのは天保14年(1843年)に建て替えた『郷蔵』(ごうぐら)でした、郷倉は年貢米や飢饉に備えた保存する蔵として江戸時代に村ごとに置かれていたそうです。小屋も太い梁組でしっかりした造りをしています。
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2005.7.19(火)
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柏 屋
東海道岡部宿にある『大旅籠 柏屋』(おおはたご かしばや)は、平成10年に国の有形文化財に指定された天保7年、今から160年前に建てられた建物です。当時の格式からいうと、本陣、脇本陣に次ぐものだったそうです。やはり小屋組がいいですね。
蔀戸(しとみど・・平安時代から住宅や社寺建築において使われた、格子を取り付けた板戸。上部に蝶番(ちようつがい)をつけ、外または内側に水平に釣り上げて開ける)がほぼ残っていて吊り金具も当時のものだとのことでした、気持ちいい風が吹く中、座敷から眺める庭も清涼感がありました。
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2005.7.7(木)
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大鐘家
静岡県榛原郡相良町にある大鐘家に初めて行って来ました。
老中田沼意次が造った田沼街道沿いに建つ長屋門と母屋が昭和48年に国の重要文化財に指定されています。
300年前に建てられた、民家としてはこの地方で一番古い建物とのことです。漆喰塗りの壁と杉板の腰壁のバランスがいいですね(^^)手斧(ちょうな)削りの小屋組の見事さは是非実物を見て感じて下さい!
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2005.6.30(木)
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おはやしもり
道沿いから坂になった石畳を登ったところにその家は静かに佇んでいました。
島田市大代にある河村さんの家は、江戸時代に幕府直轄地の山林を管理する“御林守”(おはやしもり)に任命された頃1793年に建ったということですので212年経っています。
玄関の三和土から見上げると、太い曲がり梁の組み合わせなど巧みの技が随所に見受けられる見事な建物です。
韮山の江川家の小屋組と似ているのですが、民家風でもあり非常に珍しいものであると言うこと、客間の天井が“武者張り”といって重ね合わせ部分が庭のほうを向いていて矢が突き刺さるようになっていること、30年ほど前、葺替えを行ってから屋根を鉄板で覆ったとの話を15代当主の奥様から伺いました。
2年ほど前台風で庭園と庭を分けていた塀が倒れてしまい、復旧できないので処分してしまったそうです。
機会が与えられなくて残念でした!
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2005.6.23(木)
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日本の住文化再考・・・
昨日、バイクに乗って現場へ向かう途中、信号待ちの間、ふと小脇を見ると道端の商家の軒先の隅棟にニッコリ笑った恵比寿さんが・・・恵比寿さんは
商業、漁業の守護神、商売繁盛の神様とのことでカメラに納めました(^^)
拡大してみると実にいい顔をしています、ほんとの恵比寿顔てのはこういう顔だったんだと納得してしまったソネットでありました。
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2005.6.16(木)
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原風景・・・
二、三年前吉田町で行われた静岡県緑化祭の会場に作られた風景ですが・・・
いまでも鮮明に記憶に残っているので、あえて今回載せました。
この時からあきらかに自分の中にスイッチが入った気がしますが、如何でしょう?
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2005.6.6(月)
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えんていの話・・・
先月の29日は、金谷町との合併に伴う島田市議会議員選挙でした。深く関わった私でありまして、13日の報告書の提出までいましばらく捻りはちまきの日々です。そんな時でも気の置けない仲間たちとの楽しい語らいの場へは喜び勇んで出かけてきました。島田には土木建造物でもいいものがあるよと、翌日送ってもらった「石積み堰堤」を載せさせてもらいます。計算されたきれいな石組みが今もそのまま砂防の為に役立っているんですねえ〜!大正時代のものらしいですよ。場所は大津谷川上流部の坤谷林道沿いだそうです。石積み堰堤は、近代的な治水計画を進めるため明治政府がオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケを雇い、淀川水系に砂防堰堤を作ったのが始まりだとのことです。
デ・レーケ堤防として名を残しています。
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2005.5.14(月)
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文明開化の足跡・・・
静岡県中部の大井川左岸、島田市にある北河製品所は明治29年にメチルアルコールを製造したのが始まりで現在も木工用塗料、花苗の生産をしている会社です。その敷地内に煉瓦造の工場が残っています(設計者、施工者は不詳)。蔦に覆われた煙突とともに、いい味だしていますよ。積み方はイギリス積みで、窓廻り、妻壁のディティールも凝った造りになっています。 煉瓦の積み方といえば、イギリス積み、ドイツ積み、フランス積み、アメリカ積み、オランダ積み、長手積み、小端空間積み、などがあるんですよ。今回、改めて調べてみました。地震に弱いという難点があっても何故か気持ちが豊かになる先人の巧みの技に感謝々!!
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2005.4.25(月)
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蓬莱橋・・・
蓬莱橋(ほうらいばし)を歩いてきました。静岡県中部の大井川に架かる木造の橋で、島田市にあります、ギネスブックにも認定された橋ですよ。午後行ったんですが少し前までは強風の為通行止めだとのことでした。木の温かみのある欄干が低いため西風が強い中、流石に端は歩きにくかったです。アンケートの集計結果によると、その怖さがいいらしいですけどね。小学校の遠足以来だったので、昔は床板がもっと凸凹で釘の頭が飛び出していたことも思い出したりしました。由来とかいろいろでていますので一度検索してみてください。 平成11年に蓬莱橋の値段はいくらか?という経済評価に関する報告書がでています。費用便益分析を用いて行ったもので、年間の純便益は1億9620万円もあるということでした。周辺の自然と一体となった歴史的な価値を持つ蓬莱橋の恩恵は大きなものがあるんですねえ〜!先人の巧みの技に感謝々!!
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2005.4.15(金)
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東光寺の猿舞
我が愛しのバイク、フュージョン(1990年型)に乗って桜吹雪の中、生まれ育ったところ、静岡県島田市の東光寺の猿舞を久々に見に行ってきました。東光寺といえば戦国時代研究者に知らぬ人とてないほど有名なんだそうですよ!何故かというと「東光寺文書」に今川龍王丸(氏親)の印判状が含まれていて、それが戦国武将の文書に花押の代わりに印章を使った初見のものだということだそうです。その東光寺日吉神社では毎年4月14日に祭礼のひとつとして猿舞が行われています、南北朝時代初期、京都で舞い始められた猿楽が東海道沿いの一村落にどうして伝わったかは今後の研究によるとのことでした。(鈴木正一氏 著『今川氏と東光寺』より一部抜粋・・・生まれ故郷がこんなにすごいとは!
・・・ちなみにバイクで15分のところなんですけどね。
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2005.3.30(水)
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春の日に
春の風に誘われて、森の石松で有名な“遠州の小京都”周智郡森町に行って来ました。
明治十八年(1885年)に建てられた周智郡役所を移築復元した歴史民族資料館にまず入ってみました。中には昔懐かしい生活用品、農耕具、出土品などがところ狭しと並べられていて、時間のせいか他に見学者もなく、ゆっくりと目の保養をさせていただきしかも無料とは!!森町の寄贈者の皆さんに感謝々です。
木挽き歌・・・“大工様より 木挽きは憎い 仲の善い木を挽き分ける”・・・丸太を運べない不便な山の中では、丸太を縦に挽いて半分にしたり板にして運び出す。墨で線をつけて先の方から挽く、太いものは二人引き(つがいびき)をした、その時歌った歌・・・という説明板の上に背負子を大きくしたような、木挽きした木材を運んだ道具があり、先人の知恵にまたまた驚かされました。
手打ちのそばをいただいてから、平家の隠れ里にある重文の“友田家”をみました、建築年代は18世紀前半だとのことですが、しっかりした丸太の小屋組、軸組、本物の三和土、太めの縦格子(狼避けだそうです)、障子など、さすが代々庄屋を勤めた旧家ならではのものでした。座敷に座って窓越しに見える風景は絶品でした。
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2005.3.24(木)
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佐渡の夕陽・・・
三連休を利用して先週の土曜日に佐渡に行って来ました、気が置けない間柄の男四人の片道約11時間の車での旅でした。行きは荒波に揉まれ、まるでジェットコースターに乗っているような感じでした。佐渡の海に沈む夕陽を見たかったので、相川町の宿に着くなりすぐデジカメを持って三十分ほど夢中になって画像に納めました。まさに“虚心坦懐”の気分でした。食べ物は美味しいし、海はきれいだし、おさけも旨いし、観光で行くにはほんとに良いところだと思いました。平成12年に国の補助を受けて佐渡奉行所も再建されたとのことで見学してきました。杉皮葺きの上に石を置いた屋根、土塗り壁、漆喰仕上げ、障子など、木と、土と、紙でできた建物内を何故かほっとしながら歩いてきました。
やっぱり、本物はいい!またこなくっちゃとおもいつつ佐渡を後にした私でありました。
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2005.3.16(水)
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日本の住文化再考・・・
「私たちがすべきこと、できること」はなんだろうか・・・。二月末に「地球温暖化対策シンポジウム」のパネルディスカッションが行われた、という記事が今朝の新聞にででいたので目を通していました。その中で見城美枝子さんが日本の住文化再考ということで話されていたことの一部を紹介します・・・戦後、アメリカ文化を取り入れた日本ですが、履き物を脱いで上がる文化は捨てなかった。だから寒い。研究してみますと、土や砂利を入れた三和土(たたき)は、寒さを和らげ、風を防ぐ屏風は長押(なげし)の下にぴったり入る寸法で出来ている。練炭を使っても大丈夫なように欄間があって空気を通す。西洋風の密閉型の文化に、もう一度日本の住文化を取り入れて、エアコンだけに頼らないような、昔と今のミックス型の文化が生まれたらとおもう。・・・ということでした、、まさに同感です、「温故知新」の通り、先人の知恵を学びながら、建築設計事務所として住宅の設計にあたらねばと、改めて思った春の朝でした。
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