返すよ、これ(使えない1万円)
 私の手元に、使うことがない1万円札 1枚がある。
 語れば長い話である。
◆N高校入試の第1日(筆記試験)
 「○○中学の先生、いますか!」
 N高校の入試の日、付添人控え室に、N高校の先生が突然飛び込んで来て、大きな声で言った。
 「はい、私ですが?・・・・・。何か?」 
 「とにかく、来てください。」 と N高校の1室につれていかれた。
 「なんだ、おまえ達」、そこに、自分の学校の生徒が2人(A君、B君としておく)、ふてくされたように椅子に坐っていた。「どうしたんだ、具合でも悪いのか」 この時点では、まだ、とんでもないことが起きたなんて思いもよらなかった。
 N高校の先生の説明を聞いてびっくりした。
 1時間目の国語の試験がはじまり、しばらくすると、2人のうちの1人A君が、その隣の机に坐っていた他校の生徒になぐりかかったとのことだった。他校の生徒もそれに応じてけんかになったが、すぐに、B君が応援に加わり、試験場は騒然となったそうだ。N校の他の先生も駆けつけ、2人は、別室につれて来られ、いろいろ聞かれた。2人は、なかなか本当のことを言わないで、ふてくされたままだった。N高校の先生にはへやから出て行ってもらった。 
 「何でなぐりかかったんだ?」あらためて私が聞くと、ようやく話し始めた。
 「だってよ、消しゴム、貸してくれないからだ」
 「それで、こちらをにらみつけたから、かっとなって・・・・」 
 「そんな、ことで・・・・」 
 「人が一生懸命考えて、答えがわかったのに、やっぱ俺、受験やめた。」
 2人とも、自分勝手な理由だが、とにかく、こんなに真剣に問題に取り組んだのは、小学校以来だと言う。自分がこんなに一生懸命なのを「じゃましやがって」と思ったらしい。 
 「おまえ達は、そうなのかも知れないが、相手だって一生懸命だったんだよ。とんでもない、自分勝手なことだよ」
 「そんなこと、おめえに言われなくてもわかってら・・・」
 「そうか、わかっているのか」しばらく、沈黙が続いた。
 「俺たち、どうなるんだ、もうペケ(不合格)だよな」 こちらをうかがうように言った。
 「そうだな。まず、大事なのは、相手とN高校の先生方にあやまることだ。入試はそれから考えよう。」
 そう言って、まずは、控え室にいた相手の学校の先生に、3人で謝罪した。2、3当然の注意を受けた。「誠に申し訳ありません」、2人も頭を下げた。どうしてそんなに素直だったのか、あとで、わかったことだが、相手の先生に、私が厳しく叱られるのを見て、何か悲しくなり、とんでもないことをしたと思ったらしい。
 N高校の職員室に行き、居合わせた教頭先生に、同じように謝罪した。同じように注意を受けた。
 このあと、2人を廊下に待たせ、このあとの受験のことについて、教頭先生と話をした。「明日の面接は、受けてよいが、合否についは、約束できない。」と言われた。
 廊下へ出ると、2人の姿はなかった。学校中探したが、いなかった。(にげたらしい)
◆長い夜 
 「おじさん、おばさん、もうしわけありません。2人は、ここへ必ず帰ってきます。ここ以外に行くところがないはずです。」夜が明けてきた。また、寒い朝になりそうだ。
 中学校へ戻り、一部始終を校長に報告した。あらかじめ、電話で報告してあったので、校長も「ご苦労さん」と、私をなぐさめてくれた。実は、入試付き添いは、私でなく、B君の担任のS先生が行くはずだったが、S先生が、2人と折り合いが悪く、「怖い」と言い出したので、急遽、私が行くことにしたのだ。誠に教師の恥である。2人がかわいそうである。
 「先生、夕べは来なかったね。先生は一睡もしていないでしょう。」
 家にも帰らなかった2人が来るのは、学校のこの宿直室しかない。電灯が点いていれば、必ず来る。私は、そう信じていた。用務員のおばさん、おじさんに頼んで、夕飯をつくって待っていた。でも、来なかった。
 「オッス!」突然、戸がガラガラと開き、2人が宿直室に飛び込んで来た。「帰ってきた!」
 「オー寒い」。とにかく、こたつに入らせた。本当に寒そうな2人だった。
 「おばさん、おじさん、帰ってきた、帰ってきましたよ。」、言葉がそれ以外に出なかった。
 N高校から逃げたのは、「怖くなった」からだということであった。そのあと、徒歩で熱海峠を越え、夜通し歩いていたらしい。家に帰るのも「怖く」、とにかく寒いので歩いていなければならなかったらしい。熱海から伊東に向かう予定だったが、海岸通りはとても寒く、それにおなかもへってきたので、学校へ行こうということになった。学校へ戻ってみると、宿直室に明かりがついていたので、きっと、私が居ると思ったとのこと。でも、何と言って入ったらよいか、いろいろ考えたが、結局「オッス!」になったらしい。
 「うめえ!」、とりわけ、温かいみそ汁は何杯もおかわりした。「おばさん、うめえ、ありがとう。」素直にこんな礼が言えるごく普通の少年が、「何で」、見ていて、私はなんだかわからなくなっていた。用務員のおばさんもうれしそうに、2人と話していた。
 
◆N高校入試第2日(面接)
 「さあ、面接試験に行くぞ、支度して。」
 「え、何で行くの。もう合格しないんだから、いくことねえだろう?」
 「合格、不合格の問題ではない。おまえ達のするべきことを最後まできちんとやりに行くんだ。ここで、やめたら、逃げたら、これから先、もっと何でもないことで、すぐに逃げる人間になってしまう。今日の面接を受け、いろいろ聞かれ言われるだろうが、昨日のことは、しっかり謝罪し、思っていることをていねいに話をする。今日のおまえ達の勉強だ。いや、俺自身のけじめなんだ。俺も逃げたくないんだ。」
 一睡もしていない、やはり疲れている2人のため、熱海駅までタクシーで行き、今で言うグリーシ車に3人で乗り、2人をゆっくり寝かした。さすがに、N高校までタクシーというわけにはいかないので、2人を励まし、歩いた。歩きながら、昨日のN高校の教頭先生の話をした。2人は少し元気が出た。
 しかし、面接が始まり、B君は、怖くなり、また、逃げてしまった。A君は、面接を無事受けた。教頭先生が「B君は残念でしたが、A君の謝罪と面接の態度はよかったです。」 
 駅へ行くと、B君が改札口付近にいた。元気がなかった。
 「わるかったよ」、弱い声だった。
 「いいよ、おまえなりに挑戦したんだから、今まで、こんなに挑戦したことなかったろう。真剣だったろうに。いいんだよ。さあ、帰ろう、今日の勉強は終わり。何かうまいものでも食っていこうか。」
 「先生、俺、眠いや」 B君も元気になった。
 A君は、面接のときの誠意が認められ、追試を受け、N高校に合格、B君は、その後、M高校を受験して合格した。
◆返すよ、これ
 それから、十数年後のある日曜日、「先生、遊びに行くよ」と電話があり、A君が富士へ訪ねてきた。 
 「はい、これ、受け取ってください。」と1万円札を出した。当時は、かなりの金額である。
 「何だこれ!」
 「ほら、あの時の、先生、金、かかったろう!、だから、返すよ。」
 自分で働くようになり、気になっていたことを片付けたいという気持ちと、子ある女性との結婚についての相談に来たとのこと。
 「何と・・・・・・!!!!」
◆A君もB君も、今はいない。先に逝くとは、不幸者め