芭蕉の実像と虚像

〈一般的な芭蕉像〉
 忍者説

 芭蕉は忍者だったという説がある。興味はないのでその向きを詳しく調べたことはないが俗説だと思う。芭蕉は一日で常人では考えられない距離を移動しているという根拠を挙げる説もある。しかし、芭蕉は多病の人だった。芭蕉自身『寒夜の辞』という作品のなかで、「唯(ただ)、老杜(ろうと)にまされる物は、独(ひとり)多病のみ」と書いている。老杜は芭蕉が心酔した杜甫のことである。自分は杜甫に負けないものは多病だけだというのである。それは事実だ。芭蕉は二つの持病があった。一つは疝痛というものでこれは胆石だろうという説がある。もう一つは痔疾で、、門人宛の手紙に「今日も下血を見た」などと、痔が再発して苦しんでいることが出ている。芭蕉はけっして頑健な体の持ち主ではなかった。忍者としての芭蕉像は虚像ですらない。

 俳聖としての芭蕉

 芭蕉と言えば誰もが俳聖という言葉を同時に思い起こす。俳聖は芭蕉の枕詞のようになっている。多くの人は俳聖芭蕉が芭蕉の実像だと思って疑わない。しかし、俳聖芭蕉は実像ではなく、虚像である。虚像だからと言ってまったくの嘘で固められた偶像というわけではない。なぜかといえば、それは芭蕉の実像を反映しているからだ。  本質的に文学は虚である。事実を写して書いても文学である以上それは虚である。文学は蜃気楼と似ている。蜃気楼は実像を写しているが実像ではない。だから怪しく、美しく、捉えどころがなく、面白い。 芭蕉の作品に即して考えてみる。『おくのほそ道』は芭蕉の代表作でもあり、すぐれた文学作品だ。この作品は事実をそのまま書いたものではなく、旅をしてから4年後に、周到に練り上げられた虚構である。だから、怪しく、美しく、捉えどころがなく、面白い。このことは『曾良日記』と比較するとよくわかる。奥の細道に同行した門人の曾良は、天気や発着の時間や歩いた距離などを克明に記している。だから、『曾良日記』と『おくのほそ道』は食い違っている箇所が多い。『曾良日記』は記録であり、『おくのほそ道』は文学なのである。  われわれは、虚の世界を創りあげた、虚像としての芭蕉を俳聖としてみている。



〈芭蕉の実像〉

 では芭蕉の実像はどのようなものであったかということを考えてみたい。実像というのは、生身の人間ということだ。俗人といってもいいし、生活者といってもいい。もっと簡単に言えば、家庭環境があり、生活手段があり、世の中と交わって生きている人間ということだ。人間は、俗を否定し、聖人を貫こうとすれば生きてはいけない。芭蕉も生活者である以上俗人の面があったのは当然である。この生活者としての芭蕉像はふつうは切り捨てられるから、芭蕉の実像はなかなかわからない。むろん、芭蕉の作品を鑑賞するうえで、芭蕉の実像を知らなければならないということはない。しかし、俳聖芭蕉の実像はどのようなものであったかということは人々の興味を引いてやまない。  作品の世界は虚構なのだから、作品から芭蕉の実像を探ることは難しい。しかし、芭蕉の実像を知る手掛かりはいくつかある。それは、門人が書き残したもの、芭蕉と門人間で交わされた書簡、それにごく限定されたいくつかの作品である。それらをもとにして、芭蕉の謎と芭蕉の実像を考えてみる。
出生
 芭蕉に関する系図がいくつか残っている。そのことから次のようなことがわかる。
 正保 元年(1644)    伊賀上野赤坂に生まれる。
 寛文 2年(1662)19歳 この頃藤堂新七郎家に出仕。
     6年(1666)23歳 藤堂良忠没。
    12年(1672)29歳 江戸に出る。
 父は与左衛門といい、半農半士の身分で中流くらいの家柄であった。兄の半左エ門と妹のおよしがいた。半左エ門には子がなく、妹およしを養子にしている。半左エ門には子ができない要因があったようだ。このことは実は若き日の芭蕉にも関係があったのではないかと思われる。なぜかと言えば、芭蕉には愛人がいたと考えられるが、その女性との間に子は生まれなかったからだ。ただし、これは私見であるが信憑性があると思っている。
FONT size="3">芭蕉の人生に深くかかわった二人の人物

桃印
〈書簡〉

 当春、猶子(ゆうし)桃印と申すもの、三十余迄苦労に致し候而病死致す。此の病中神魂をなやませ、死後断腸の思ひ止み難く候而、精情草臥れ、花の盛り、春の行方も夢のやうに而、暮らし、句も申し出でず候。(元禄6年四4月29日宮崎荊口宛書簡抜粋)
 この書簡は、芭蕉が死ぬ一年前の初夏に書かれたものである。この中にはっきり桃印の名前が出てくる。桃印は、謎に包まれた人物だが、この書簡から分かることがいくつかある。
 まず分かることは桃印が芭蕉の甥だということである。ただし両親のことはわからない。芭蕉は別の門人に宛てて書いた書簡には、桃印は5、6歳で父と別れたと書いているが、死別とは書いていない。
 桃印は俳号と考えられる。桃印は、延宝4年(1676)芭蕉に連れられて江戸に出た。芭蕉33歳の時である。この頃、芭蕉は江戸の日本橋近くに住んでおり、俳諧宗匠になる野心に燃えていた。芭蕉は、助手(執筆)が必要と考え、桃印を江戸に連れてきたと考えられる。当時芭蕉は桃青という俳号を用いていた。その一字を取って号をつけてやったことを考えれば、芭蕉の期待のほどが窺われる。しかし、桃印の作品は一つも残っていないことから考えると、桃印には俳諧の素質はまったくなかったと思われる。桃印は、間もなく俳諧からも芭蕉からも離れていったらしい。
桃印の実名はわからない。
 桃印は、元禄6年(1693)3月下旬に芭蕉庵で死んだ。この時桃印は33歳である。この書簡では三十余歳とあるが、芭蕉は、別な門人にははっきり桃印は33歳で死んだと書いている。しかし、江戸に出てから死ぬまでの17年間、桃印はどこで何をしていたのかは分からない。そして、どういう経緯で芭蕉庵で死んだのかも分からない。
 寿貞
〈書簡〉
 寿貞も定めて移り居り申すべく候。(元禄7年5月16日 曾良宛書簡抜粋 島田にて執筆)
これは芭蕉にとって最後になった旅の途上で江戸の門人曾良宛に書いた手紙である。
 寿貞も桃印同様に謎に包まれた人物だが、この書簡から、芭蕉が旅に出た5月11日のあとに、寿貞が芭蕉庵に移ったという事実が明らかになる。曾良は、芭蕉庵の近くに住んでいたので、芭蕉が、引っ越してくる寿貞を面倒見てくれるようにと曾良に頼んでおいたものと考えられる。
 理兵衛細工之無き時分、せめて煩ひ申さず候様に御気をつけなさるべく候。右の通り、寿貞にも御申し聞かせくださるべく候。おふう夏かけて無事に候哉。様子具(つぶさに)に御申し越しなさるべく候。(元禄7年6月3日 伊兵衛当書簡抜粋)
 伊兵衛という人物は、芭蕉の甥と考えられる。大和の山城の生まれだが、江戸に出て芭蕉の門人杉風の店で働いていた。何かと芭蕉の世話をしていた男である。この手紙には寿貞に関する具体的なことがいくつか書いてある。
 まず分かることは、芭蕉が寿貞のことをたいそう心配しているということである。旅に出ても寿貞のことが気がかりでならないという感じである。次に分かることは、 寿貞には家族がいるということである。理兵衛は父親で、おふうは寿貞の子と思われ、虚弱な子らしいことが推察される。寿貞にはもう一人まさという女の子がいることが手紙から分かっている。
 寿貞無仕合せもの、まさ・おふう同じく不仕合せ、とかく申し尽しがたく候。(略)何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理屈はこれなく候。(元禄7年6月8日 伊兵衛当書簡抜粋)
 これは嵯峨の落柿舎で、江戸の伊兵衛からの手紙で寿貞の死を知った芭蕉が書いた返事である。この手紙には、芭蕉の生々しい思いがほとばしり出ている。芭蕉は、寿貞を「無仕合せもの」と言い、深く同情し、その死を悲しんで慟哭している。寿貞は、薄幸の女性であったと思われる。そして、その薄幸に自分自身も加担していると思わずにはいられない。芭蕉は、慟哭しながら、寿貞に詫びているように思えてならない。「何事も何事も夢まぼろしの世界」という言葉から、寿貞の死によって無常観を強く感じ、呆然としている芭蕉の姿が髣髴としてくる。
  尼寿貞が身まかりけるときゝて
数ならぬ身となおもひそ玉祭り

  これは、寿貞が死んだ直後、芭蕉が故郷の上野に帰り、お盆に実家の者たちと一緒に松尾家の菩提寺寺に行った時に詠んだ句である。この句から、寿貞は尼だったということがわかるが、何らかの事情があって剃髪し、在家の尼となっていたと思われる。「自分を数ならぬ身だなどと思いなさるなよ」と、芭蕉は心の中で寿貞に呼びかけている。寿貞に対する切実な思いが現れていることから、寿貞は芭蕉にとってかけがえのない女性であったことがわかる。
 寿貞は、実名も出生地も素性もはっきりしない。芭蕉とのかかわりもはっきりしない。若いころの芭蕉の内妻だったという説が有力である。まさ・おふうという二人の子がいるが、芭蕉の子かどうかはわからない。寿貞が、なぜ芭蕉庵に移り、そこで死んだのかも分からない。寿貞は、深い謎に包まれた人物である。

〈深川隠棲の背景〉
 芭蕉は、延宝8年冬、突然江戸市中から深川に隠棲する。37歳の時である。その理由は謎である。謎であるために様々な憶測を呼ぶ。大別すれば、純粋に文学的な動機から隠棲したという説と、何らかの外的要因で隠棲したという説がある。外的要因とみる代表的な説に田中善信先生の説がある。田中説は、桃印と寿貞が駆け落ちしたのが原因で芭蕉が隠棲したという見方をしている。この説がいちばん真相に近いのではないかと思う。私の小説『松尾芭蕉』はこの説に拠って書かれている。  事実と芭蕉の作品から、深川隠棲の背景を考察してみる。
 隠棲前の芭蕉は、日本橋の小田原町に住んでいた。そこは江戸のど真ん中である。芭蕉は、9年間そこで精力的に俳諧活動をした。そして、念願の俳諧宗匠になり、其角、嵐雪、杉風などの弟子も集り、江戸で屈指の俳諧師として認められていた。そのことを考えれば文学的な動機から隠棲したということはとうてい考えられない。BR>
  ここのとせの春秋市中に住み侘びて、居を深川のほ とりに移す。(略)
 柴の戸に茶を木の葉掻く嵐哉

 これは入庵直後の作である。9年住んだ江戸市中に住みかねて深川に移り住んだと芭蕉は言っている。「住み侘びて」をどう解釈するかが問題になるが、やはり抜き差しならぬ事情が生じて江戸市中にいられなくなったという思いが透けて見えるように思われる。
 (略)老杜(ろうと)にまされる物は、独(ひとり)多病のみ。閑素茅舎(ぼうしゃ) の芭蕉にかくれて、自乞食(みずからこつじき)の翁と呼ぶ。
 櫓声(ろせい)波を打(うっ)てはらわた氷る夜や涙
                    (乞食(こつじき)の翁)

 芭蕉は多病であった。自分が偉大な杜甫に負けないのは多病だけだという。これは、心に余裕があれば笑ってしまうところだ。事実、芭蕉は笑おうとしたのかもしれない。しかし、笑うことができず顔が引きつってしまった。おまけに多病であることはほんとうのことだからなおのこと笑えない。芭蕉には厄介な持病が二つもあった。一つは痔だ。芭蕉は筆まめで門人宛におびただしい手紙を書いている。それを読むと「今日は下血を見た」とか「痔が再発して困っている」などと書いている。もう一つの持病は疝痛(せんつう)だ。この持病は腹部に激痛を伴うという。医学の専門家に言わせると、胆石ではないかという。このような持病を抱えながら、芭蕉は馬に乗り、舟に乗り、雨に打たれて旅をした。
 草庵の前に芭蕉が植えられている。この年の春に門人の李下が植えてくれたものだ。 「自乞食(みずからこつじき)の翁と呼ぶ」というのは、「俗を捨てて行に生きる」ことを言っている。この部分も自らを「翁」と言っているあたりにおどけのポーズが感じられる。だが、ここでも一生懸命虚勢を張っている芭蕉が見えるばかりで少しも笑えない。読みようによっては、俗と訣別して行に生きるという自己確認のようにも見える。さらに他者に対して自分の新たな生き方を宣言しているようでもある。しかし、それにしてはあまりにも弱々しく、痛々しい。とても本物の自己確認とは思えない。
 最後の句に至っては、あまりにも痛々しくて正視するに堪えない。私は俳句のほうはまったくの素人だが、この句は文学作品としてみれば句の体をなしていないと思う。句の姿も心もどうしようもなく乱れている。しかし、この句は、文学を超えて読む者に迫ってくるものがある。一般に文学の形式はフィルターの作用がある。我々の内部にある情念や思念が文学の形式というフィルターにかけられて美化される。文学的な表現にはそういう側面がある。だが、この句は、フィルターなしに、ストレートに吐き出されている。いわば、芭蕉の現実がむき出しになっている。夜になっても芭蕉庵の前を流れる小名木川は船が行き来する。草庵の中で孤独に堪えていると櫓の音が聞こえてくる。普通なら風流を感じるところだが、この時の芭蕉には風流など微塵もない。ただ、「はらわた氷る」思いがするばかりだ。文学的な表現では、堪えがたい思いをこのような誇張した重い言葉で表現はしない。下の句にしても、心のうちの悲しみや苦しみを「涙」という生の言葉では表現しない。しかし、このときの芭蕉にとっては、こうとしか言いようがなかったということだろう。
 とにかく、このころの芭蕉はうちに堪えがたい思いを抱え、草庵の中に沈潜し、笑いを失ってうずくまるようにしてうめいていたのである。

〈富士川の捨て子に見る芭蕉の現実〉
『野ざらし紀行』の旅の途上で、富士川の渡しの近くにさしかかったとき、芭蕉は捨子と出会う。芭蕉は、そのことを、『野ざらし紀行』に一章を設けて書いている。この一章は、全体の中ではなはだ異質な印象を与える。この部分には、芭蕉の内なる現実が窺えるからだ。
  富士川のほとりを行(ゆく)に、三つ計(ばかり)なる捨子の哀(あわれ)げに泣在(なくあり)。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえず、露計(つゆばかり)の命を待(まつ)まと捨置(すてお)きけむ。小萩(こはぎ)がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂(たもと)より喰物(くいもの)なげてとをるに、
猿を聞(きく)人(ひと)捨子に秋の風いかに
 いかにぞや汝、ちゝに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にく)むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ。

 芭蕉は、3歳ばかりの捨て子を見たがどうすることもできず、袂からわずかばかりの食べ物を出してこれを与えて通り過ぎる。そして、「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」の句を詠む。この「猿を聞く人」とは風流人のことである。「猿声」というのは感傷を呼び起こすものとして漢詩によく出てくる。平安時代に愛読された『和漢朗詠集』には「猿声」をうたった漢詩を集めた一章がある。芭蕉もこれを読んでいたはずである。この句を詠むことによって、芭蕉は天下の風流人に向って呼びかけている。「猿の声を聞いて感動する風流人士よ。秋風に吹かれて泣いている捨て子の声を聞けばどう思われますか」。その呼びかけの裏側には、自分は心が痛んでどうすることもできない」という芭蕉の心情がある。さらに、芭蕉は捨て子に向って呼びかける。「お前を捨てた両親を恨んではいけない。お前の両親にはどうすることもできないわけがあったのだから。これはお前の運命が悪いのだ。だから、お前のつたない運命を恨みなさい」と。
 捨て子の記述は、芭蕉の作品の中ではいかにも特異である。『野ざらし紀行』のほかの作品は、嘱目の風景に触発された風流を書いたり詠んだりしている。ところが、この捨子との出会いのくだりでは、芭蕉は、生々しい世俗の現実と真っ正面から向き合っている。捨子との出会いは偶発的だったが、芭蕉は目を背けることができなかった。道行く者は、誰も立ち止まらずに過ぎていったのだろう。けれども、芭蕉は立ち止らずにはいられなかった。なぜ立ち止まらざるを得なかったのか。おそらく芭蕉は、自分が目を背けた重い現実を突きつけられたのにちがいない。さらに想像をたくましくすれば、芭蕉自身が捨てた人々がいたのではないだろうか。その捨てた人々というのは、桃印、寿貞、まさとおふうではなかっただろうか。この富士川の捨て子には、芭蕉の現実が露出しているといっていい。ここにいる芭蕉は、不条理な現実を前にしてなすすべもなく立ち竦む芭蕉である。それは芭蕉の実像でもある。