この子は2003年6月6日に17週0日で天使になりました。

かっちゃん、今度こそおねえちゃんになろうね

基礎体温を測るのをやめて、2ヵ月たった2003年3月、私は再び妊娠した。生理予定日から2日遅れただけだったけど、あれから30日ぴったりの周期だったので、もしかしてと思って、検査薬を使ってみた。陽性だった。
今回もそんなに急いで病院にいかなくてもいいやと思っていたら、1週間後に出血。すぐに病院に行った。診察では赤ちゃんの素と袋が確認できた。だけど、まだ安心はできないので、安静にと言われた。出血もそんなに多くないようなので、薬はでなかった。出なかっただけにちょっと不安だった。
また、今回もこの日から実家にいることにした。
翌日は、実家でほとんど横になっていた。だけど、出血はおさまらない。不安だったので、その次の日に、また病院に行った
「こればかりは、安静にしているほかない。」と念を押された。そして薬が出された。
出血がおさまり、一安心。と思ったら、また出血。再び病院へ行き、薬をもらう。問診の時、カルテをのぞくと「子宮頚部びらん」と書いてあった。妊娠関係の本にも書いてあったけ、どうやら経産婦は出血しやすいらしい。
このあと1週間ほど、実家にいて、家に戻った。

  • 2003年4月12日

やっと、予定日がでた。11月14日。天使ちゃんの時の予定日からちょうど10ヶ月後だ。あの子は10ヶ月まちがえてしまっていたのかな?不安はあったけど、今度はきっと大丈夫。かっちゃん、今度こそおねえちゃんになろうね。

早く17週すぎて

去年、破水したのが17週の時。どうか、無事に17週をすぎて18週になって。と、いつも心の中で思っていた。
妊娠は3回目だから、お腹が大きくなるのが早く感じられた。だんだんお腹が大きくなってきて、動くのも大変になってきたし、かっちゃんの相手も苦しかった。でも、とても楽しみだった。
かっちゃんも、お腹に赤ちゃんがいると理解してるようだった。「おなかあかちゃんいる」と、言うようになった。私は「今度こそおねえちゃんになろうね」と、よくかっちゃんに言った。

  • 2003年5月6日

12週、4日。4ヵ月。

また、少し出血があった。診察してもらったら、止まっていた。ほっ。
先生には「前のこともあるから無理はしないように」と言われた。そう言われても、ねえ。かっちゃんがいるから、、、

  • 2003年6月4日

16週、5日。5ヵ月。

やっと16週。17週過ぎてからにしようと思っていたけど、5ヵ月に入ったし、そろそろみんなに知らせようと、この日の夜、友人たちに妊娠の報告メールを出した。自覚するような、心配事もなかったし、検診も順調だったし、、、だけど、もう少し待てばよかった。

前日はなんともなかったのに、、、

  • 2003年6月5日

幼稚園のバザー行こうと、出かける準備をしていた。トイレに行ったら、出血していた。あ、まただ。大丈夫大丈夫。と思ったけど、茶色くない、赤い。一応病院に行っておこう。

かっちゃんは父に任せて、病院に行った。
待っている間、最悪、切迫流産で入院くらいですむかな?と軽く考えていた。
呼ばれると、すぐに内診を受けた。あわてる先生。「開いてきているよ!お腹の痛みは?」
『え!?なんで?また?どうして!?』血の気が引くのがわかった。
「すぐに旦那さんを呼んで」と言われた。旦那さんに電話した。
「出血して、病院にいるの。すぐ来て欲しい」それだけ言うのが精一杯で、子宮が開きかけている事は言えないでいた。
そして私はベッドに横になり、張り止めの点滴を打たれた。
看護師さんはあわてて、一刻も早く点滴を打たなくてはという感じで、点滴を打つ場所を探していた。「血管が細いわね。こっちは。ああ、こっちもだめ。ごめんね、手の甲に刺すね」
最初左手の甲に刺したけど、うまく入らなかった。痛かった。なんとか右の甲に刺された。これも痛かった。
30分程して、旦那さんが来て、いっしょに先生の説明を聞いた。
「昨日の検診では、これと言って何も異常はなく、本人も気になる事はないと言っていたのですが、今日出血があると言って見てみると、子宮の出口が開きかけていて、お産が進んでしまっている状態なんです。赤ちゃんの膜も見えて来てしまって、いつ破水してもおかしくない状況です。最初の出産では何も問題はなかったんだよね?」
「でも出産の時は、最初に破水しましたけど」と私が言うと
「今のような時期には何もなかったよね。前回と全く同じ時期と言う事は、最初の出産の後に何らかの原因で、子宮の出口がゆるんでしまったようだね。膜がひっこんでくれれば、縛って週数をのばすこともできるが、ここでは無理なので大きい病院に移ってもらうことになる。とにかく、今の状態では、赤ちゃんは外では生きられないから、週数をのばそう。小さな赤ちゃんを扱えるのは、この辺では伊豆長岡の順天堂しかないから、今からベットがあいているか確認して、救急車を呼ぶから。」

先生はそう言って、私を順天堂に転院させる手続きに行った。直接先生が電話している声が、隣の壁から聞こえた。

救急車で順天堂へ

先生が再び来て、順天堂の方の受け入れはOKだということ、救急車を手配したこと、救急車には1人助産師を同乗させることをつげられた。
「入院となると長期になるから。」とも言われた。

そして救急車が到着し、私は点滴をつけたまま、看護師さんに「お腹に力をいれないで」と言われ、そっとベッドから車椅子に移った。病院の玄関に行き、救急車に乗せられた。先生も外に出てきてくれて「がんばって」と声をかけてくれた。とても嬉しかった。

旦那さんもいっしょに乗り、救急車は順天堂伊豆長岡病院に向かった。私は、腰掛けるようなカッコで乗せられたので、後ろの窓から外の景色が見えた。看護師さんは時々、赤ちゃんの心拍を確認していた。いろんな事が頭の中を回っていた。涙も少しだけ出た。
『大丈夫、大丈夫。きっとあとで笑い話になる。』
『かっちゃん、じじばばにお願いしなくては、着替えのある場所も教えなくては』
『食材の宅配キャンセルしたほうがいいよなあ』
『あ、この道通って行くんだあ』
助産師さんは気を使ってくれて「目つぶってていいんだよ。気持ち悪くならない?」って言ってくれたけど、ほんといろんなこと考えてたから、気持ち悪いなんて考えもしなかった。

そして、順天堂伊豆長岡病院に着いた。
産婦人科病棟に運ばれ、診察を受けた。診察室に入る前、助産師さんが「がんばって」と声かけてくれた。

絶対安静

診察が終わり、病室へ運ばれた。絶対安静で起き上がる事も出来なかった。一通り落ち着くと、担当医の先生が説明しに来た。
子宮頸管無力症という症状で、子宮の出口が開きかけていること。赤ちゃんの膜が見えていて、これが万が一ひっこんだら、子宮の出口を縛る手術をすること。だけど、ひっこむという可能性は低いということだった。
子宮頚管無力症。聞いた事はあったけど、まさか私がそんな症状になるとは、、、
先生の説明が終わっても、入院初日ということで、いろいろと出入りがあって落ちつかなかった。手術となると麻酔を使うので、その誓約書や輸血の誓約書やら、いろいろと書類に書かされた。右手の甲に点滴が刺さってるので、とてもひどい字になった。レントゲンを撮りに来たり、心電図を測りに来たり、ほんとうに落ち着かない。張り止めの点滴で、動悸も激しく、体温も上がりつらかった。

私は「どうか、ひっこんで、お願い。またつれて逝かないで」と心の中で願っていた。

夕方、父と母につれられて、かっちゃんが来た。かっちゃんは無邪気に「おかあさんどうしたの?ねてるの?これなに?」と、聞きまくていた。
「赤ちゃん頑張ってって言って」って言ったら、「あかちゃんがんばって」って言ってくれた。
母に、買ってきてほしいもの、持ってきてほしいもの、かっちゃんの着替えのある場所を説明した。父には、明日生協が来るから、取りに言ってほしいとお願いした。

やっぱり、、、

みんながそろそろ帰ろうかと話している時、寝返りを打った後に(横の動きはいいと言われていたから)、破水してまった。また、生温い水が降りてきてしまった。

ああ、やっぱりダメか。私は、すぐにナースコールで「破水しました。」と伝えた。

看護師さんたちがきて、いろいろと処置をしてくれた。点滴も張り止めから別のものにかえられた。一通りすむと、先生が来た。
「残念ですが。明日、赤ちゃんを出します。陣痛が起こってくるかもしれないので、痛くなったら知らせて下さい。」

旦那さまは「仕方がないか。でも、原因がわかっただけでもよかった」と言ってくれた。

処置が嫌

麻酔を使うせいだろうか、昼も食べられなかった上に、夕飯もなかった。こんな事になっても、空腹感を感じていた。
やっぱり今回も、仕方ないかと割り切れた気持ちがあり、冷静だった。原因がわかったという理由もあるだろう。でも1番の理由は、かっちゃんの存在だろうな。それでも、くやしかった。

それよりも、処置の事を考えると嫌だった。また、あの辛い思いをするのか。早く終わって欲しいと思ったり、明日になって欲しくないとも思った。
それでも、寝ている方が何も考えずにすむと思っていたせいか、わりと夜は寝られた。

朝から昼過ぎまで分娩台の上

  • 2003年6月6日

朝になり、当然、朝食もなかった。

もう安静ではないので、自分で歩いて、ナースセンターに行き、分娩室に連れて行かれた。分娩台に上がり、内診の後に促進剤を使い、私はそのまま1人分娩台に寝たまま、陣痛を待った。
我慢できなくなったら、呼んでと言われたけど、なかなか強い痛みは来なかった。旦那さんは仕事で来られないと言っていたので、今日は私がちゃんと赤ちゃんを見なくちゃと思った。
2時間たっても、あまり強くならなかったので、もう一つ促進剤を使われた。だんだん痛くなってきたけど、まだ我慢できた。
隣の分娩室に、出産の妊婦さんが入ってきたのがわかった。ついてないな、と思ったくらいで、平気だった。
昼も過ぎて1時半頃、かなり強い痛みになってきた。担当医と主治医の先生が来た。
主治医の先生が「次妊娠したら必ず縛るんだよ」と言うので、私は「縛れば大丈夫ですか?」と聞いた。「絶対大丈夫とはいえないけど、あなたは2回目なんだから、絶対縛らなくてはダメだ」と言われた。
そうか、100%大丈夫ってわけじゃないんだ、、、
痛みは強くなってきたけど、まだ、開きがたりないみたいなので、もう少し様子をみることになって、私はまた1人分娩台の上に残された。
だんだん、だんだん強くなってきた。しばらくすると、今度は女の先生が何人か来た。
ぬるっと何か出た感じがして、伝えた。処置が始まった。とても痛く、苦しかった。
苦しそうな私の様子を見て、女の先生の誰かが「かわいそうだから麻酔を使おう」と言うのが聞こえた。
点滴を通して、麻酔が入ってくるのがわかった。入った瞬間、点滴が刺さってる、右手の甲に痛みが走った、そしてしばらくすると、力が抜けた。
何か処置をしてるのはわかったけど、いつ赤ちゃんが出てきたのかはわからなかった。
意識はあったので、赤ちゃんが男が女かどっちか気にはなった。当然この時は赤ちゃんを見られなかった。
処置が終わって、私は力の抜けたまま、病室に運ばれた。
麻酔が切れてくるまで、私はそのままベッドの上で寝ていた。

男の子だった

麻酔が切れてきても、かなりふらふらだった。ふらふらの状態で、父とかっちゃんが来た。
かっちゃんが「おなかあかちゃんいる?」と言うので、「いなくなっちゃった」と、私は言った。
のどがカラカラだったので、ジュースを買ってきてもらった。

父とかっちゃんが帰ると、看護師さんが「死産届け」を持ってきた。性別の欄を見ると、男に○が付いていた。男の子だったんだ。そうか、私でも男の子妊娠できるんだ。

赤ちゃんを見た

翌日退院の予定だった。そのつもりで、旦那さんも迎えに来てくれた。だけど、まだ朝になってもふらふらだったので、診察の時、もう1日様子を見ましょうと言われてしまっていた。でも、旦那さんから火葬は明日の11時からだと、言われ、退院を今日にして欲しいと頼んだ。何かあっては困るし、責任はとれないなど言われてしまったけど、なんとか許可がおりて午後退院となった。
その前に旦那さんと赤ちゃんを見た。本当に小さかった。分娩台の上で、もしかしたら生きて生まれるんじゃないかと思ったりしていたけど、先生のまだ外で生きられないと言う事が痛感した。
旦那さんが「前と顔が違う」と言っていた。

事務の人が、3ヶ月以内に他の病院に入院する事があったら、入院先に提出しなくてはならないという書類を持ってきた。ふと見ると、他の書類といっしょに「出生届」を持っていた。
ちょっとそのへん、気を使って見えないようにしてくれればいいのにと思った。

次こそ必ず

退院後、インターネットで流産や死産のHPをいろいろと見た。私と同じように子宮頚管無力症で2回流産した人、臨月まぎわに胎内で死んでしまった赤ちゃん、出産の時に心停止してしまった赤ちゃん、様々な人がいる。

涙が止まらない日があったけど、淋しい気持ちになったりする事もあるけど、もう大丈夫。
やっぱり、かっちゃんのおかげだ。そして慰めの言葉をかけてくれる人よりも、普通に接して、話を聞いてくれる友だちがいるおかげだと思う。

今はまた、かっちゃんに振り回されてる日々を送ってる。

次はきっと大丈夫だよね。不安もあるけど、私はもう一度赤ちゃんを抱いてみたい、かっちゃんにきょうだいを作ってあげたい。だから、必ず、絶対もどってきてね。おとうさん、おかあさん、そしてかっちゃんが待ってるよ。

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